長崎県に於けるドールトン・プランの展開例
―長崎市城山小学校の場合―補遺
増 田
史郎亮
承前
本稿は文字通り,昨年発表した論文「長崎県に於けるドールトン・プランの展開例一長 崎市城山小学校の場合」の補遺である。上記論文で筆者が「本稿完成間近になって,城山 小学校長神浦孫一郎氏より第二代校長桑原恭助氏の現存とその住所を聞き出し,筆者の親 戚・野田甲子・その知人荒川文子さんの紹介で当時の生徒諸氏とも逢えるルートもつけら れ,筆者の調査で初代校長高梨氏の広島時代の同級生木下永二氏その他諸氏の現存とその 住所を知る事等も出来たのであるが,逢って聞き書きする時間がなかったのは遺憾この上 ない事であった」と書いたように心残りな点が少くなかったが,其の後,筆者は以上の方 々ばかりでなく,それ以外の人々にも逢ったり,連絡する事も出来て,先の論文の欠落部 分を多く埋める事が出来たのは幸いであった。勿論それでも尚,筆者には後に示す通り,
不満な点がなくはないが,これもまた,城山校が原爆被災校で資料一切を失っているし,
約五十年以前の事を今から掘起そうというのであってみれば,今の所これで不充分乍らも よしとせねばなるまい。なお,面接した方々の回想談をそのまま載せると,それぞれ相当 なスペースにもなり,先の論文や談話相互の間に重複する所も多いので,それらは以下の 要領でまとめてみる事とした。
,
初代校長高梨秀善氏の広島高等師範学校在学時代当時の広島の情況について同級生木下 永二氏その他の諸氏について問合せたが,先の論文で一般市販の文献資料に拠って筆者が 述べた以上の事は遂に判らなかった。筆者は広島高等師範学校関係同窓会名簿数冊を使用 して高梨氏の同級生の把握に極力努め,木下永二,大久保源一両氏その他諸氏に連絡をつ けたが,調べて行く中に大久保源一氏は南高来郡,国見町教育委員をされた後既に死去さ れていた事が判明し,木下永二氏は高梨氏とは専攻学科も違うし,従って同氏の事は知ら ぬし,また当時の広島の情況ははっきり記憶しないと筆者に語られた。木下,大久保両氏 ともに徳育専攻科出身,高梨氏は教育科出身である。木下氏の言では徳育専攻科は中等学 校校長,教頭志願者がその資格取得のため入学するもので,高等師範学校卒業者が在学者 の大半を占め,他は他学校卒で,同氏は早稲田大学卒業後,徳育専攻科に入学された由であ る。教育科は修身,公民,教育の中等教員免状が取得される課程で,師範学校卒業者が入 学した由である。後記の外山三郎氏の言によると,徳育専攻科,教育科共に広島特有のも ので広島高師系の勢力扶植のため政治的意図を以て設置されたものであると聞いていると の事であったが,同窓の一で人ある筆者もさもありなんと思う。勢力扶植云々(実は中等
教育部にであるが)と言うのは徳育専攻科は中等学校の校長や教頭を送り出し,教育科は 教科の筆頭とも言うべき修身や公民,教育の教員を送り出したからである。ここで筆者が かかる事をわざわざ述べるのも,後述の高梨氏実践のドールトン・プランの消長にもその 事が全く無関係ではないと考えるからである。
筆者が高梨氏の広島高師の同級生の中,上記二氏を特記したのは,両氏共に長崎県内に 居住されて筆者の訪問も可能であったからであり,特に期待したが,実情は以上の通りで あった。偶然にも筆者が広島高師時代の恩師,浅地平先生,及川儀右衛門先生,浦廉一先 生は共に高梨氏と同級生であられるが,皆教育博聞出身でなく,それぞれ徳育専攻科,文 科第三部,文科第三部を卒業されている上,浦先生は既に御逝去,浅地,及川両先生も広 島,東京に居られる為筆者はおたずねするのを到頭断念した。
高梨氏と同じ教育科の同級生は物故者が多く,現存者はすべて筆者からは遠地の方ばか りで,仲々連絡つきにくく,稀に連絡がついても当方の期待する結果は遂に得られなかっ
た。
何度も述べたように, 城山校が原爆被災校で, 文献資料の一切を言わば焼失している 為,聞き書き的手法が止むを得ずとられた次第であるが,それが筆者始あての経験,試み で不慣れであったせいか, 聞き書きすべき人を探すのに推理小説もどきの謎ときめいた 多くの苦心が払われた割には,予期された結果が得られ旧った事を此処で筆者は告白して おかねばならない。無論この事は,上記の:方々ばかりでなく,後記の城山小学校の卒業者 諸氏等々についても多かれ少なかれ言える事柄である。
二,
先の論文で筆者は大正時代の本県新教育運動史の概観を述べた際,それが諌早,壱岐,
大村, 佐世保の地域に限られた事と長崎ではそれが城山小学校に止まる事とを指摘した が,本稿では城山小学校を言わば直接的にとりまいている長崎市周辺の情況から先ず考え てみたいと思う。城山小学校のそれをより鮮明に浮かび上らせる為にもそれが必要であ
り,前町ではその究明が不充分であったと考えるからでもある。
先の論文で回想文を引用させて戴いた大島義喬氏は城山小学校第二代校長桑原恭助氏時 代より,第四代校長吉田正夫氏時代迄・ 同校に在職され:た方であるが・筆者は幸にも最:
近,氏より当時の長崎市の模様の詳細を聞く事が出来た。氏は筆者に当時はいわゆる大正 デモクラシー時代で,図画,体操,国語など教科の研究グループの研究や実践の成果につ いては県庁1役所も無視出来ず,それらは当局の教授細目以上の権威をもったと語られ た。代表校たる観のある勝山小学校の沿革史にも氏の言は大体立証されているように筆者 には思われる。勝山小学校沿革史(昭和11年発行)は沿革史としては詳しい部類に属する が,その該当個所一大正10年より同13年迄の記述の中から筆者が,新教育,自由教育関係 の事項と思われるものを抜き出して見た所,以下掲げる文章がそれに当った。
大正10年7月「本市主催図画講習会」同月「東京美術学校教授白浜微,図画に関する講
習会」
大正11年12月「勝山尋常小学校,西坂尋常高等小学校,新町尋常小学校,西山女児高等 小学校,興善尋常小学校の体操共同演習会を挙行,福岡医科大学教授桜井医博の検閲指導」
大正13年5月「元本校教員井上庸三氏よりダルトン・プランの進歩とその適用一冊寄贈 あり」④ 以上である。但し,筆者が上記沿革史より上記事項を書き抜いたのは大島氏と面接する ずっと以前の事であり,その順序は逆でなく,その間に時間的に相当な隔りがあったし,
大島氏の言も筆者が誘導訊問的に聞き出した事ではなく, 自然に語られたままのもので あった事をここで断って置く必要があろう。というのは以上のような筆者の注釈がなけれ ば大島氏の言と筆者の抜き出した事項が余りにも相似ているのではないか,作為でないか と或は疑われる節が絶無だとは言い切れないからである。
それはとも角として,然しまた,勝山小学校沿革史の告げる新教育,自由教育関係事項 がそれ以下でもなければ,それ以上でもない事も又注目されるべきであろう。勝山小学校 沿革史には第一,新教育,自由教育を全校的に実施しているのを匂わすような強い調子の 言葉が一つも見当らないのは何としても逸してならぬ事である。
筆者はごく:最近,当時新町尋常小学校長であった故村田直輝氏の御遺族より同氏思い出 の冊子「無常」の御寄贈を受けたが,それによると,氏は新町校(新町校と興善校が昭和 初年合併して出来たのが今の新興善校である)を模範学校,特に体操に於て他の追従を許
さぬものに仕度いと思い,日夜研究指導にかかり,当時有名であった京都の小学校に体操 並びに児童体操服の研究視察に出張までしたり,当時の教え子達から言わせると「児童数 の少なかったせいもあったと思いますが,児童一人一人の教育にご熱心で,各人の家庭の こともよく御存じでした。時折は学校においでになってお話をしてくださいました。主と して長崎の町のことなどをお話してくださったように思います。云々」といったような教 育を展開されたのであった。氏は生前「12学級の児童,13人の教師,こんな小じんまりし た良い条件の所はない。そこで10年間も経営して,校長の経営方針が徹底しないなんてい う事は,有り得ることではないじやないか」とよく言って居られたそうである。以上の手 記,言葉を併せ考えると,筆者には当時の氏の教育実践を今にも目の前に見る思いがし,
大島氏の言,勝山小学校の沿革史の記事の線に連なるものが,ここにもあるような気がし てならぬのである。
然し,大正の教育にもう一つの一面があったと筆者は見る。それを端的に物語るものを 先の冊子「無常」から探るならば,大正11年の卒業式の氏の式辞の一部がそれではあるま いか。氏は人間として品格を高めよ,人間の価値は財力,地位,名誉,男女の別によら ず,社会に如何に奉仕するかによって決定される事を重ねて強調しつつも,他面「響くば 陛下の赤子として傭仰天地に恥じず,深く御聖意の旨を体して,昌歩一歩と忠孝の大道を 踏み」「家のため国の御為(みため)にあっばれ尊ぎ花を賞せられ,有用の材と仰がれ ん」とすべきである事を強調する事も忘れなかった。筆者がこのように言うのは,村田氏 の訓辞にとや角の批評せんがためでなく,当時これが普通であり(美濃部達吉氏の天皇機 関説,吉野作造氏の民本主義論等の出現はかかる民主主義プラス天皇制という当時の思想 情況を象徴:していると筆者は考える)寧ろウェイトはこの方にかかっていたという事を言 いたかったがたあである。筆者がここで併せて言いたい事は,以上の新町小学校のような 事例が一般的趨勢ではなかったかと言う事である。論者或は,新町校一校を以て全般を律 するのは危険であると断ずるかも知れない。然し,勝山小学校沿革史の上記抜き書きした 以外の記事は一それがまた記事の大半をも占めるが一筆者が先に言及した村田町関係の後
半の部に類する事柄で殆んど占あられていると言っても決して過言ではないと言えば,そ れで足りるであろうか。(2)後記の桑原恭助氏が筆者が辞去する際,筆者に恵与された 文集「福寿会会報」掲載の同氏の回想文「明治の教育」中にも教育勅語とペスタロッチの 教育が共存しているのも同上の意に解していいであろう。
三,
前稿で筆者が高梨氏招聰の背景を推定していた事は外山三郎氏(氏は現在長崎大学名誉 教授,活水女子短大教授で,氏から大正13年,広島高等師範学校卒業後,環浦中学嘱託と 城山小学校教師を兼職された由を筆者はお聞きした。但し同氏の城山小学校勤務は週1
日,それも2時間のみで,短期間で終られたとの事である。この間の事情の説明を筆者は 聞いたが,本稿にはさしたる関係がないのでそれは省く)前記の大島義喬民,後記の桑原 恭助氏の言によっても殆んど当っていた事が判った。但し,この点も少々足らぬ所が前稿 にあったので本稿でそれを補う事とする。
筆者は中等教員免状所有者であり,ドールトン・プラン実践家である高梨秀善氏を長崎 市が招聰したのは間接的には長崎県,市の各種のふん囲気,情況,直接的には市や広島の 後輩で長崎市視学でもある山崎哲三氏の招きによるものであると前平で述べたが,この点 にはもっと屈折した,或る場合には政治的とも言える意図が隠されていた事を大島遷喬氏 の言や「長崎市制五十年史」で筆者は知る事が出来た。それらによると事情は以下の通り である。
当時の市長は第六代目錦織幹氏(大正11年よりユ4年迄在任)であったが,実は同氏が市 長候補に擬せられた時は,長崎県港務部長から新潟県内務部長を歴任した後,大正6年同 職を休職,次いで退職し,言わば浪人生活のさ中であった。所で当時市長候補者が多く,
同氏は「憲政色濃厚なために退職した」だげあって,長崎市会政友会の反対が強く,選ば れた時も「政友会派議員連挟退場し,憲政派と三菱派とのみで選挙を行い……」という情 況であった。かかる激烈な政治上の争いが,氏をして市長就任後,教育に目を向けさせた と考えても決して不自然でない。否,教育は事実上,以後の政治上の争斗を勝ち抜いて行 く際の氏の目玉商品の一つですらあった。而も当時,日鉄は高島炭坑の買収を策し,現在 の城山地区の市営住宅地に社員住宅を設置する計画をもっていたが,それが失敗に終り日 鉄が断念するという矢先でもあったので,機を見るに敏な同氏は早速これに目をつけて,一 市営住宅と城山校の新設を思いつき,それを実行に移したものらしい。氏が教育熱心であっ たのも否みえないとしても,当時の日本の情況,長崎県,市の情況から見て,或は陳腐と 言えば陳腐な発想と言えなくもなく,教育熱心と政治利用と両用相兼ねていたと見るのが 実相に近かろうか。九州最初の鉄筋コンクリート校舎を新設し,中等教員免状所有者で新 教育実践者を校長にすえ,第二代目校長も中等教員免許所有者を招聰したの等も一面教育 熱心でなければ考えつかぬ発想であるが,また同上,両用の意に考えていいのであるまい か。因みに,当時小学校校長で中等教員免許所有者は故村田直輝氏未亡人操さん,同氏義 妹内藤節子さんの言によると新町小学校と新設の城山小学校の村田,高梨両氏(後には桑 原氏)のみであったと言う。
四,
当時,生徒であった方の調査は山田等氏(現住所長崎市宝栄町2の9)その他多数の方 々に及んだが,筆者の苦心にも拘らず,結果は前述の如き情況で,多くは前稿「創立40年 記念誌」の域を出なかった。この点,特別につけ加える事もないので以下省略する。
五,
次にドールトン・プランがユ年経つや経たぬで消滅してしまった事情については,前稿 で筆者なりの考察を下して置いたが,桑原,大島両氏の言によればそれも殆んど当ってい た事が判った。但し外山,桑原,大島三氏の言によれば多少つけ加えねばならぬ必要もあ
るようである。
同上三寸によれば高梨氏と市視学山崎哲三氏の間柄は前記の如く,同窓で後・先輩の関 係にあったので別に問題はなかったが,山田恒治心学務課長とは必ずしもよくなかったら しい。山田氏は個性の強い人で,後に師範学校長にもなった東京高等師範学校出身者であ った由であるが,筆者が前述したように東京高師系と広島高師系の勢力争いも一因となっ て高梨氏のドールトン・プランをして短命にして終らしめたのではないかと筆者は考える。
六,
第二代校長桑原恭助氏は現在も御健在で,昨年の九州教育学会出席の機会を利用して博:
多の御自宅でお逢いし,色々お聞きする事が出来た。氏は福岡師範学校卒業後,法制,経 済,教育の文検をとられ,この中等教員の資格で以て,城山校二代目の校長に迎えられた
のであった。
氏によれば前稿で述べた氏提唱の「愛の学校」はペスタロッチ流の教育という事であっ た。とすれば解釈の仕方によれば,この「愛の校学」も自由教育,新教育運動の一環とし て見る事も出来るが,高梨氏のドールトン・プランを中心として考えれば,それは高梨氏 一代切りで終って,第二代校長の桑原氏の時代からは新教育の系譜を引きながらも,それ とは別の「愛の学校」が始まったと見得る訳である。前前で筆者は高梨氏のドールトン・
プランは高梨氏一代きり,桑原氏の「愛の学校」とは別物であったと述べたが,この筆者 の予想も当っていた事になる。筆者もこの点を桑原氏に念を押すと然りと答えられた。
七,
前論文で筆者は「本稿に掲載している以外の写真,特に当時の授業時の写真も随分探し たが,本稿完成迄は入手出来なかった」と書き,その後百方手を尽したが,残念ながら本 稿でもその懸案を果す事は出来なかった。但し本稿で取扱っている時期前後の珍らしい写 真を桑原恭助氏,村田操さん,内藤節子さんの御好意で入手出来たので,これで以て当時 を偲ぶよすがとしたい。それらの写真は次の頁に掲げる。
註(1)昭和11年発行 勝山小学校沿革史 P.46〜P.53 註② 昭和44年村田操編「無常」
大正10年新町尋常小学校卒業式 写真、中央フロックコートが故村田 直輝校長
第2代校長時代の城山小学校尋常科 生徒達、右端は校長桑原恭助氏、
.ヒ段中央は大島義喬氏
第2代校長時代の城山小学校尋常科生徒達 右端は校長桑原恭助氏
城山小学校新考案の屋一しのテント教室にて テント教室については前論文にて説明済み
第2代校長時代の城山小学校生徒達 市内小学校陸上競技優勝記念写真
第2代校長時代の城山小学校職員 屋一ヒのテント教室にて
、・t畷
昭和28年発行 「長崎県教育の歩みより」
転写、大正13年ヘレン・バースト女史を迎 えて、壱岐盈科小学校にて