黒田 亮の学習理論へのアプローチについて
佐 藤 晋 一
(1981年10月30日受理)
は じ め に
動物から人間への進化は,単なる量的拡大ではなく質的な発展でもある。即ち,単なる連続的展 開ではなくして,不連続的な飛躍的な展開,不可逆的な展開である。とすると,人間の学習が動物 実験を究極的には根拠として論じられること,動物実験から得られたデータを人間に適用すること によって人間の学習を論ずるのは,方法論的にも不十分であろう。問題は動物の「学習」ではなく して,人間の学習である。人間の学習は動物から人間への連続性の中で論じられるのだろうか。も し論じられるとするなら,その論拠はどこにあるのだろうか。
もっとも,近年例えば人類学の分野におけるサルと人間との本質的相異に関する研究は相当に進 んでおり,両者の量的相異をではなくして,質的相異をこそ説明すべきであるとされている。学習 の問題はまさしく,後者の観点から検討されている。1)また言語学においては,言語の習得に関す る研究が進んでいる。言語習得は不可逆現象である。いわば規則的進行とでも言えるような現象で ある。人間にあっては言語と学習の関係は不可分で,言語なしに学習はないし,学習なしに言語は
ない。
人間の学習について論ずることは,人間の学習そのものの論理構造,その独自性を明らかにする ことではあるまいか。殊に教育学の基本的観念としてく学習〉概念を使用するには,このことが前 提となるはずである。ところが,教育学においては,この基本概念としての学習についてはあまり 研究がなされていない。
本稿では,以上の観点から学習理論へのユニークなアプローチをした心理学者・黒田 亮をとり あげて,黒田の学習理論へのアプローチについて考察してみたい。
1.学習理論への黒田のアプローチ
りよう
蕪c 亮(1890〜1947)については1980年と81年に『勘の研究』, 『続勘の研究』が復刊 されて解説も付されているので,それらを参照されたい。現在に至るまで黒田については,この二 著が知られている程度で,本格的研究はなされていないようである。2)『勘の研究』(初版は1933 年)は基本的には学習理論へのアプローチの書である。それがたとえ「そこから当然期待できる発 展的研究あるいは追試的な試み(346頁)」3)を持たなかったとしても,あるいはその書名からひ びいてくる東洋的ニュアンスの故にか,「心理学の専門書としては大きな反響を持ったとさえいえ
アクセソト
る」のだが,反面,「いかに恣意的に読まれ…・著者の強勢の置き方がいかに曲げられて解釈され
ている(256頁)」4)としても黒田のアプローチには見逃しえないものがあるように思われる。動
物心理学を本領とした黒田の関心は,早くから動物の学習の問題に向けられていた。例えば,1922
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年のある講習会で「動物心理学」を10時間にわたって講じたが「其の時は問題をトロピズムと学習 の二項目(191頁)」5)に限って行ったという。本来の主著とされるべき『動物心理学』は「勘の 研究』より3年おくれて1936年に刊行されている。但し本書第一篇「動物心理学」は1927年の,
第二篇「動物心理学一学習の問題」は1935年の講義をもととしている。研究の論理的展開として は動物心理学の研究が先行している。従って,『勘の研究』も動物心理学の研究との関連において こそ,問題とされるべきものではないかと思われる。黒田自身も「学習一般の問題に関する私の見 解は,『動物心理学』にすでに公にしてある(111頁)」4)と言っている。
さて,黒田によれば「習慣の形成すなわち学習過程を説明する原理として,一般に認められて いるのは,頻数の法則(Law of frequency),最近の法則(Law of recency),および結果 の法則(Law of effect)の三法則である(98頁)。」3)人間の学習を説明するのに,この三つ の法則によろうとする考え方,これはK.レヴィンによればアリストテレス的な考え方である。頻数・
反復を学習という行為の法則性を表わすものとみなすこと,学習を「自らの本質の実現にむかって すすむこと(30頁)」として,即ち「当該の対象の本質によって前以って完全に規定される(31 頁)」6)ところの目的に向かって進むこと,その目的への前進が頻数・反復の減少としてとらえら れることは,アリストテレス的考え方の心理学への適用である。レヴィンは1931年にこのことを指 摘しているのである。勿論黒田はこの三法則を無批判的にうけ入れてはいない。 「動物の学習,
ことにしろねずみの迷路学習などにあっては,たとえば頻数のうえから言えば,成功に導く有効な 動作よりも無効な過誤の方がはるかに多いということ」,「 最近 の経験のごときなんらかの影響 があるにしても,学習が完成されていくうえから言えば,それはきわめて微々たる力しか持ってい ないのみならず,,頻数も最近の経験の如きも,ねずみがいかにして目的の食物箱に達するかの説明 ができても,無効な動作が除去されることや,近道の利用を説明することのできないことはすでに ピータースンによって説明され,またその後の研究においても,これらの因子はかえって消極的に 作用することがある 即ち正しい反応よりも誤まった反応を固定する傾向のあることが確かめられ
た。
さらにもう一つの,結果の法則(「結果の法則は,学習は只正反応がどの範囲まで満足を与へる か,又誤まれる反応がどれ程の困惑をもたらすかの程度に於てのみ,起こるべきことを仮定する(379 頁)」5))はある点までは何人も許さなければならないであろうが,ややもすれば動物の学習を人 間本位の立場から解釈させることになり,不合理な結論に導きやすい危険を持っている(98頁)。」3)
この指摘は重要である。頻数について言えば,そこではまれにしか発生しないことは除外されて いるのであるが,果してくまれであるか,たびたび繰り返して生ずるか〉というパラメーターの設 定が妥当か否かにまで黒田は言い及んでいる。つまり,頻数の考え方が,一応目的に致達しうるこ とを説明できるとしても過誤の方が多いことを,どのように説明するか。また,過誤が打ち消され,
除去されるのはいかにしてであるかも説明できなければ十分ではないと言っている。正しく反応す るということの理解のためには,一面的な説明では不十分なのである。同時に,間違いを否定し,
克服し,のりこえることができるのはいかにしてか,その説明がなければならないのである。即ち,
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間違いは正しいの反対概念ではないのである。rH.Carrは『被験動物が迷路を正しく走り得る
為には,前以って一定数の錯誤が成されねばならない。換言すれば,誤れる通路についての一定量
の練習が許容され,そして之が廃棄されることを必要とする。斯くの如く,正しい反応様式は,一
部分はしてはならぬことを学習することから成立するものである』と言っている(377頁)。」5)
正しい反応行動のつみ重ねが正しい行動につながる とは主張しないまでも,錯誤を重ねながら正 しい目的に達する,とは一般に主張される。けれども問題は錯誤の過程から,いかにして正しいこ とと間違ったものとが判別され,選別されてくるのかの分析であろう。はじめから正しいことと間 違いとが決められているということは,ありうるのだろうか。
黒田は「誤った反応をするということが,正反応を成すと同様,正反応の固定に取って,等しく 肝要である(387頁)」5)こと,「正しい反応も誤れる反応も,積極的消極的の差異こそあれ,問
閧フ解決にとって,何れも等しく重要なる意義を有して(400頁)」5)いると言う。
〈結果〉についての解釈も.それが動物の行為であるにも拘らず人間本位の立場から解釈するこ とはおかしい,と言っている。 「動物に見出される学習過程を(人間における)知覚構造の性質な どから誘導せんとする試みは一種の知的解釈の域を脱しないものであって,我々の承認することの できない仮定を含んでいる(331頁)。」3)「一般に学習を定義して,洞察の成立,換言すれば,
学習者の理解過程又は知覚構造に突如として現はれる形態の変化であるとするが如きは,人間や高 等動物における智能の一面として之を見る時,興味ある見方らしくも思はれるが,学習が凡て斯か
る性質を有するもので無ければならぬとする(211頁)」5)ことはできないのである。
黒田は言う。「学習の心理は近代心理学の中心問題として学界を風靡したかの観があるけれど,
私の見るところをもってすれば,あるいは学習の外的条件の如き枝葉の問題に力を集中したり,あ ひつさ
驍「は洞察の概念を提げて,学習の全面的説明を試みんとするが如き企てはあったけれど,学習の 核心に迫り,その本質を明らかにするまでには進んでいない。学習の根本問題は,いまや全く新た なる立場において見直されねばならない事情に置かれてある(108頁)。」それだからこそ,「常 識的に考えて,密接の関係があるに違いないと想定される心理学と教育とが,実際には全く没交渉 に,それぞれ自己の途を歩いてきたかのように思われる(140頁)」4)のである。これは教育と心 理学,従って教育学と心理学との関係についての1938年の発言であるから,現代からみれば部分 的に修正をする必要もあるかも知れない。しかし根本的には間違っていないように思う。殊に教育 学の立場からはかみしめる必要のある指摘であろう。
2.学習理論の構想
それでは黒田は学習理論をいかに構想してゆこうとするのであるか。いくつかの点に焦点をおい て検討してゆこう。
2.1.まず,基本的に動物と人間とを統一的に扱おうとする。 「動物殊に下等動物の生活は殆んど その大部分本能に支配され,経験を利用する学習なるものは,全く見ることが出来ないものと頭か
らきめて怪まなかった傾向があるが,果して事実その通りであろうか(195頁)。」5)そうではな くして「動物の間に高等下等の等級を設けず,彼等の精神生活の真相をあるがままに把握せんとす る(196頁)」5)ことが必要なのである。「一般動物界を見渡すとき,我々はある特定の発達段 階にいたって初めて突如として精神の発現するものと解することは誤謬であって(327頁)」3),
勿論のこととして動物と人間との連続性を否定はしない。だから学習とは,広く「対象をわが生命 圏内に取り入れて,これをその本来具有する性質において生かそうとする努力の進行過程(108 頁)」4)なのである。黒田は学習を,次のように定義する。「学習とは人間や動物が生れ乍らに持
っていないものを新たに収得する働きである。斯くの如く新たに収得されたものは一般に習慣と称
される。故に習慣とは学習された反応である(207頁)。」5)「学習と習慣とは,過程と結果との
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関係に立ち,習慣形成が即ち学習と言うことになる(207頁)。」5)
とは言うものの「動物に学習能ありや否や,若しありとすればそれは如何なる性質のものである か,特に人間のそれと比較して如何なる位置に立つべきものであるかを,先づ決定する必要がある が,更に進んで,此の学習能が当該動物の自然の生活に於て如何なる意義を有するかを考えねばな らない(194頁)。」5)動物と人間とを,歴史的連続性においてとらえるけれども,しかし動物か ら人間への展開は単なる移行ではない。とするなら両者の根本的相異を明確にせねばならない。し かも更に,動物がもつであろう学習能が動物の行動において有する意義をも明らかにせねばならな
い。
人間における学習の根本的特徴は「言語反応(197頁)」5)である。動物においてそれに対応す るものは何か。r(人間の場合の)言語反応に取って代るべきものを動物の側に見出すことが必要 になってくる(197頁)。」5)「言語と同じ働きをする何物かを(動物の側に)捜し出(198頁)」5)
さねばならないけれども「人間の言語が後天的収得的のものである7)と同様に,この言語と同じ働 きをする或物も,生れ乍らの動物の仕草に其のまま之を求めることは,多くの場合に不可能である
(197頁)。」5)この指摘は鋭い。人間の学習を考える時には動物にはみられない高次のレヴェル での言語使用を前提とすることが出来るが,動物ではそれに類するものがない。ところが動物にも 学習が存するとせざるをえないのだから,人間の場合とは区別される動物の学習の可能性を論証せ ねばならない。そこで既に論じた〈三法則〉をすべての学習にあてはまる仮説として打ち出したと いうのである。この三法則を前提として,ひるがえって人間の学習を説明出来るなら,殊に人間の みが言語を使用した学習ができることを説明しうるなら,それで一応仮説としては十分であると言 えよう。が,この三法則に関して黒田は批判的であった。
「学習は下等動物についても研究される筈ではあるが,従来主として高等動物が試験動物となっ た事情がある(91頁)」5)し,必ずしも動物と人間との連続性と不連続性の関係をいかに扱うかの 方法論的検討が十分であるとは言えない。そこで黒田は, 「元来下等な動物の行動について言はれ
るトロピズム(191頁)」5)と高等動物について言われる学習の両者を結びつけて,「先づ大体各 層を通じた動物の精神生活を,或る程度まで(統一的に)理解(191頁)」5)しようとしたと,『動 物心理学』第2篇で述べている。
学習は,その「過程そのものは精神現象であるが,各種の身体器官が関係する(のだから)全体 としては精神身体的過程(217頁)」5)である。学習の生理学的な基礎についての研究が直ちに動 物と人間の連続性を証明することには結びつかない。動物と人間との各々の生理学的過程は同一で はないからである。その上生理学的過程と学習過程とを,いかにして区別するかが必要である。ま た学習と年令,性別,個体差との関係をいかに把握するか,という問題もある。黒田は「能力を異 にする群相互の間に,年令の進むと共に如何なる差異が現れるか。又学習能を異にする個体間には,
平均生活年令に於て差異ありや否や,等の事項については,まだ見るべき研究(258〜9頁)」5)
がないと指摘している。個体差についても黒田は,「各種の動物間の差異のみならず,同種の動物 間にも人間に見ると殆ど異らざる意味の個体差が見出される」のだから「この個体差の存在及び其の 影響を考慮の中に置くことは極めて必要であって,従って概括的な一般的結論を下そうとする場合に,
個体差に基づく偶然的な(但し個体を主にして考える時は実は偶然ではなく当然であるが)因子を
除外する為に,相当数の個体を材料とすることが必要になって来る(265頁)。」5)この観点は人
間にも適用できる。学習一般の問題を考えるための視点とも言えよう。殊に黒田の言う,個体差に
基づく偶然的要因をいかに除外して学習理論をうちたてるかは大切な点である。勿論個体の側から,
個体に重点をおいて学習を考える際には個体差は偶然性ではなく,むしろ本質であるが,しかしあ る個体にのみ固有の学習理論が成立するのであろうか。
そもそも動物実験から引き出された〈三法則〉とされているが,実験方法論に問題はないのかと いう点について黒田は言う。「例えば迷路学習が動物の自然の生活に照らして如何なる意義を持つ か,見ようによっては迷路学習又は問題函学習なるものは特殊の人為的条件の下に作り出された一 種の人工産物であって,之を以て彼等の生活に自然に行われる本来の学習の模型とすることは出来 ないとも考えられる(276頁)。」5)〈実験〉の認識論的な意味づけをどう確定するのか,を考え ずに頻数等の概念を使用するわけにはゆかないのである。黒田は慎重に自分の疑問も「推定又は想 像と言うに止って,然るべき根拠のあることでは無い。只,学習を根本的に調べて行こうとする為 めには,此処まで進まなくては充分であるとは言われない(、276頁)」5)と言っている。これが1936 年の時点での発言であることは注目に値しよう。 「迷路実験の信頼性は,迷路の形式如何に相当大 なる関係があるように思われる。けれども信頼性は実は斯くの如き迷路の構造にのみよってきまる ものではなく,実験的条件を統制するに方って払われる考慮に,充分なる省察と用意とが講じられ たかと言うことも,之に大なる影響を与えるものである(277頁)。」5)この指摘は,そのまま現 在でも有効であると思われる。学習概念を確定する際にも,学習という事象をいかに分析するかに ついて充分に考察をすることと実験のための充分な用意がなされねばなるまい。
具体的に黒田は個体の学習曲線に関して,注目すべき次のような指摘をしている。 「個体の学習 に向っての曲線は,一つの練習期から次の練習期へと移る時,甚だしく動揺するのが常であるが之
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ヘ学習が本来動揺性を帯びた過程であるからでは無く,実験者が学習の行われる実験的条件を.充 ェ綿密に統制することが出来ないことに基づくものと考えられる。尚又薙に注意すべきは,特定の 学習曲線は何れも行動に於ける一般的傾向の部分的様相しか表示するに過ぎないものであり,時と
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オては此の様相すら,忠実に且つ精確に表示し得ざることもあると言うことである。例えば,進歩 改善は行動の過誤廃棄の様相に於て迅速であるにも繋らず,時間的様相に於て比較的緩慢であるこ
とがある。また進歩が緩慢である場合に,外見上進歩の現れないことが実は単に使用される測定法 の大ざっぱであった為めであることに起因することがある(363頁)5)(傍点は引用者による)。」
学習が,本来動揺性,多様性,個別性等の特徴を帯びたものであるかどうかは,証明されるべき 事柄なのであり,説明原理として用いられる事柄ではないのであるまいか。少くとも本来的な説明 原理だと仮定されるわけにはゆくまい。加うるに,ところが他方で忠実且つ精確に学習の様相を表 示しうるのかというと,そうはゆかない。それも表示の仕方,観測の仕方の不十分さが原因なので はなく,実験条件を厳密にコントロール出来ないからなのである。黒田が提出している例は,一つ は測定法のレヴェルの問題であるが,これとてもはじめからどのレヴェルの測定方法を用いるか判 然としているわけではない。それよりも重大なのは第二の例である。過誤を廃することができるの はいかにしてかそしてそれが時間的にはどのぐらいの速さでなされるのか,その両面を正確に知る ことはむずかしいという点である。
学習概念を,動物と人間とにわたるものとしてとらえようとした黒田はこういう問題にぶつかっ た。我々にとってもこの問題は重要な,解明すべき事柄なのではあるまいか。
2.2.学習の際の〈収得と廃棄〉の関係について,黒田は言う。 「食物が誘引刺激として使用され
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る外に同時に学習を規定する他の積極的又は消極的の刺激が共存する時.其処に廃棄の現象が生ず る(295頁)。」「望ましからざる選択の廃棄脱落は除々ではなく,寧ろ急激に現われた。一般的 に見て,誤れる反応の廃棄の順序は,それらの過誤の以前に成された相対的頻度に依繋するもので はない。換言すれば,此の場合には頻数の法則はあてはまらないのである(296頁)。」5)むろん これは直接的には動物についてのことであるが,人間の場合にも習得と廃棄の問題は重要であろう。
習得の反対は習得できないことであり,習得可能なのは能力があるからで,その反対の場合は能力 がないことである とはいかにも主張しまいが,習得に対し習得しえない事態はマイナス・イメ 一ジが濃い。しかし黒田の言うように,習得というのは廃棄とかなり本質的な関係にあるのではな いか。習得はいつでもいかなる場合にも必ずうまくゆくのだろうか。そうでないとしたら,それは 何故であろうか。何かを廃棄するのは何度も何度も失敗して,それに懲りてなされるのではないと いうことは,何を意味するのだろうか。習得は何度も何度も失敗を重ねながら少しずつ上達すると いうような様相を呈するのに,である。これはよくない(廃棄すべきである)という判断は何故,
これがよいという判断に比べて急激なのだろうか。急激であるということは,時間的に速いという ことをも意味しうる。積み重ねと廃棄については,言語習得の研究においても言及があるが8),学 習理論にとってもこのメカニズムの研究は不可欠ではあるまいか。ホワイトヘッドは,経験の第一 義的な事実は「ぼんやりとした決定」,「大まかな判断つまり廃棄か保持かである(141頁)」9)
と言っている。
2.3.前にもふれたが,積み重ね及び廃棄と内的関連性をもつ く誤り〉についての黒田の指摘を みよう。H. Carrに拠ると「被験動物が迷路を正しく走り得る為には,前以って一定数の錯誤が成さ れねばならない。正しい反応様式は,一部分はしてはならぬことを学習すること(そして廃棄する
こと)から成立する(377頁)」5)のである。例えば迷路実験の「初期に現れる単なる頻数そのも のは,一つの反応を固定する傾向を,助成する力を持つものでない(378頁)。」5)「頻数の増大 するのは寧ろ学習の結果であって,其の逆,即ち頻数の増大から学習が成立すると言うのは,間違
っていることが考えられる(378頁)。」5)
● ■
ウ反応と誤りとは互いに反対概念なのではなくして,正反応の固定にとって正反応も誤った反応 も「等しく肝要(387頁)」5)なのである。だから,「頻数や最近を以て,学習の決定的要因とし て見るべからざる(388頁)」5)ものなのである。そもそも,正しいことと間違っていることとが本 来的に存在することなのかどうか。そして両者を判別する基準は何か。この基準のとり方は,正し いか否かの判別と無関係なのか。
ホワイトヘッドは,1927年に既に指摘していた。「人間の心理を適切に叙述しようとすれば,
次の点を説明する必要が起こってくる。(D我々がものごとを正しく知りうるのはどのようにしてか,
(i峨々はどのようにして誤謬を犯すのか,(lii)どのようにして我々は,真なる知識と誤謬とを批判的 に区別しうるのか(96頁)。」9)ホワイトヘッドに拠れば象徴作用,象徴的関連づけの作用自体が 誤りを犯しうるのであり,誤謬は正しいことの反対概念ではない。 「まったく物理的な低級な有機 体がなぜ誤ちを犯しえないか,第一義的にはそのような有機体に思惟が欠けているということにあ
るのではない(107〜8頁)。」9)
人間の学習を考える際,黒田,ホワイトヘッドの指摘する問題は非常に重要な論点ではないだろうか。
2.4.学習の時間論的検討及び目的論的検討。黒田は「学習が学習者に及ぼす主観的意味の吟味
(111頁)」4)をすべきであると言う。黒田に拠れば「学習はひとつの過程(111頁)」4)である。
この過程は前・中・後の三段階に区別される。 「前段階は学習のまさに開始されようとする直前で あり,中段階は学習活動の現に進行しつつある途中を,後段階は学習の完成された直後を示す(111 頁)」4)「普通に単に学習という場合は,中段階が主として考えられている(111頁)」4)のである。
しかしこれら三段階を統一的に把握せねばならないはずである。言うまでもなく,この統一的把握 というのは学習者に及ぼす学習の影響の把握であり,学習者の心理状態の時間的経過の記述ではな いのである。
学習活動は「解決を要する問題の出現とともに開始されるが,解決方法が即座に提供される場合 には(112頁)」4)「それは智能的活動ではあるが之を学習と称すことはできない(397頁)。」5)
つまりそこで終了しまうからであって,次の「学習の各段階の発展を見ること(112頁)」4)がな いからである。「そこで学習には,問題の解決が,なにかこれを抑制阻止する原因があって即時に 行なわれず,後の機会に延期され,問題の出現とその解決の間に一定の時間的経過の介在すること を必要条件とする(112頁)。」4)黒田は,学習は問題解決の「一形式」であるとはするが「凡て の問題解決が学習の形式を取るとは限らない(397頁)」5)と言っている。 「刻々に与えられる問 題には,即座に解決が見出され,学習を必要とする何物も無い場合がむしろ大部分を占めている
(397頁)」5)のである。だから,学習は一般になされるものではなく,学習が「如何なる条件の 下に生ずるか(397頁)」5),必要となるかを考えるべきである。その条件は,「課せられた問題 の解決が,或る事情によって阻止されるにも係らずこの解決が引続き企図される場合(397頁)」5)
である,と黒田は言う。
ところで,問題の認知・把握と解決までの間の時間間隔はいかにして与えられるものなのであろうか。
学習者の側の心理的な時間意識として,あるいは個々の学習者が問題を解決するのに要する時間と して与えられるのであろうか。ちがうのである。「この時間間隔は原則として,問題の困難さ,換 言すれば解決に逆行する障磯の大小に比例して増減する(397頁)。」5)学習はその構造の本質的 属性として,一定の時間間隔を必要とするというのである。この点は従来教育学において,十分に 検討されて来ていないのではあるまいか。学習者側の心理的な意味での困難さに含まれる時間につ いては,言及されているようであるが,学習自体に本質的に時間が介在していること,それが解決 すべき問題自体の困難度によって規定されること(勿論このことは学習の過程で意識されることに はなろうけれども)は,個人の場合のみならず,例えばN.ウィーナーの主張する種族的,系統発 生的学習だとか,中井正一の言う集団的学習の問題も含めて考えると10),大切な点であると思われ
る。黒田はだから「試行錯誤や条件反射の成立も学習と関係して考える時,この時間間隔を充たす 途中の手段と言うことになる(398頁)」5)のではないかと言う。時間間隔の問題は,学習の積み 重ねと廃棄とがどのような関係にあるかを把握する上にも根本的なものではあるまいか。積み重ね と廃棄とを能力との,あるいは一般に心理的要因との関連でのみ論ずるのではなく,f廿r sichな問 題として時間を介在させて論ずる必要があるのではないか。このことは更に課せられた問題の困難
さを,質的深さと量的拡がりにおいてとらえることに深い関連をもつのではないか。つまり,問題 自体の深さと拡がりが時間的に許容される範囲を超える場合には学習が成立しまい。反対に深さと 拡がりを持っていても瞬間的に解決されうるのなら,やはり学習とは言わなくて良いのである。学 習が成立するためには,与えられる問題の深さと拡がりが一定の限度内にあることも必要なのでは
o
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ないか。この限度は主観的に決められるのではなく,客観的に決まるのであろう。黒田は学習の成 立条件について,・一見時間についてのみ言及しているように思えるが,そうではないと思われる。
学習の成立条件としての時間空間の問題は,学習の積み重ねと廃棄,正反応と間違った反応,個的 学習と集団的・系統発生的学習の問題とも極めて本質的な関係を有しているように思われる。黒田 が1930年代に既にこれらの点に論及しているのは卓見であると言えるのではあるまいか。
さて,問題の出現によって学習がはじまるが,そのく出現〉について黒田は「その重要さ,従っ
しゆうじやく
てその解決に向かって寄せる主観の熱意執着の度合に応じて,主観を一定度の緊張状態に置く(112 頁)」4)と言う。問題が出現したか否かがいかに認知されるかについて黒田の説明は不十分なもの であるが,この問題は哲学的にも重要な問題であるようである。ホワイトヘッドは認知と理解をわ けて考えている。ある問題が,学習すべき事柄であるか否かの認知乃至判別がいかにしてなされる のかは,学習概念の形成にとって見逃すことはできない。残念ながら現在この問題について論ずる 力量は,筆者にはいない。問題の出現によってひき起こされた緊張状態は「途中に一進一退の動揺 はまぬがれないとしても,学習の完成するに至るまで持続される。即ち,問題の出現が学習にまで 進展すると同時に,学習者は到達せらるべき目標に向かって,方向づけられる。この方向づけは他 動的に外部から強制されることもあれば,また自発的に行なわれる場合もある(112頁)。」4)こ の方向づけが,学習の前段と中段階とを区別しているのである。
「方向づけは,後にくるすべての学習過程の一歩一歩が軌道からはなはだしくずれることなしに 進展していくための,いわば見張り番(112頁)」4)であって,学習は「この方向づけの支配を予 想して,初めて考え得られる(113頁)。」4)方向づけがあるからフィード・バックも可能となる のである。任意の学習ということはありえないのではないか。即ち,学習が任意に成立するとは言 えないのではないか。むろん,方向づけは「学習者の主観の前景に活躍する」のではなく「その背
後に隠れてこれを操縦する舵手の如き位置に立つ(113頁)。」4) 亀