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学習理論の論理構造について(3)佐 藤 晋 一*

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茨城大学教育学部紀要(教育科学)40号(1991)265−286       265

学習理論の論理構造について(3)

佐 藤 晋 一*

(1990年9月14日受理)

On the Theory of Learning:

It Must be Composed of the Logical Conditions(3)

Shinichi SATO

(Received September 14,1990)

〔3〕 社会的・歴史的時間と学習

〔3〕−1.個的時間と社会的・歴史的時間

学習にとっての時間の問題は,個々の学習者にとっての・個の側からみた時間のみに限定される ものではない。学習行為そのものが個という条件の内側にのみ局限しうる行為ではないのである。

学習者の側の心理的な時間ということだけに限定して論ずることはできない。とりわけ,学習すべ き対象や解決すべき課題がan sichにのみとらえうるのではなくして, fUr sichなものとして,つ まり社会的・歴史的な時間・場において生起し,存在するという事実がある。この事実が学習に関 する時間の幅,学習や解決に許容される時間幅の確定という問題に対して,本質的にいかなる関係 にあるのか,を論じないわけにはゆかないのである。

〈個のレヴェルにおける学習〉というものを,まったく即自的なものとして,または未来に対す る近接作用として扱えるかというと,既に論じて来ているようにそうではないのである。個にとっ ての〈未来〉とは,それを個が意識する時間,あるいは個にとってかかわりあいがあるであろうと 考えられる時間だけを指すのではない。いわば,〈いま・ここ〉という時間的・空間的条件を,ご

くわずかであるかかなり拡くであるかはともかくとして,いずれにせよ,拡げただけの時間として の〈未来〉のみがあるわけではないのである。〈未来〉は単なる延長としてとらえうるものではな い。近接的未来のみがあるのではない。それは,論理的に対応しなければならないく切断としての

       ●   ●      ●   ●

「来〉であり,〈今・ここ〉からつぎへのコブラ(繋辞)は既にあるのではない1)。

社会・歴史という存在は個の存在のための基本的条件であるのだが,それについて個が生存以前 にあらかじめ知っておくことはできないのであり,そのような初期条件を選択することはできない のである。存在するかどうかということも個の選択によって決まることではないのである。個的な

*茨城大学教育学部教育学研究室.

(2)

●  ●  ●  ●   ●

〈存在〉そのものは,いわば突如としてある時間と空間を占めるに至るのである。そして,そのよ

●   ●   ●

うな時間的・空間的存在でありつつ,同時にすべての過去を負荷として担うのである。担わざるを えないのである。つまり,〈the heritage of a heavy past>2)を,個を含むすべての存在は負わさ されているということである。この負荷性を否定したり,そこから離れることはできないし,ネグ レクトすることはできない。

しかし,この負荷性は個にとってはan sichな自明なことではないことがあるし,意識の内にと らえられているかというと,必ずしもそうではない。ではあるが統計的には,ある時間的・空間的 条件のもとに在る諸々の個,従ってある集団にとってはむしろ自明でありすぎるぐらい自明であり,

眼前の栓桔でありうるといえるのではないか。なぜなら個の側からみるときには,個にとっての時 間的・空間的存在立条件が相対的にはすべて特異的なものであるといえるからである。固有の時間

・空間を個は占有するのであるし,そういう形において存在するほかには在り様がないのである。

同一の時間に向一の場を複数の個が占有することはできないのである。個々の存在の間には,必ず

〈ズレ〉があるし,人間はやっかいなことに静止した時間と空間を単に占有するだけではなく,動 くのである。身体的にも精神的にも動くのである。つまり時間・空間の占有形態そのものが静止的 なのではなく,動的であり変動的なのである。これが個の本質的な自由性として与えられているの である。これを欠く個は個とは言えないのである。

これに対して,時間的・空間的条件の方をパラメーターとしてとると,ある尺度の範囲に入って くる個は,アレコレと確定できるというのではなくして,統計的に存在しうるということではない か。もちろん,これもあらかじめ決っているのではなくして,パラメーターを設定して,その内側 にどれぐらいの個がとりこまれているかを何らかの形で測定し,判定せねばならないのであろう。

いってみれば,歴史的・社会的負荷は,一様に拡散して在るのではなくして,時間的・空間的局 所性をもつのであろう。だからその局所的な場(時間,空間)に存在の場を占めている個にとって は,否応なしに負荷性が迫ってくるのであり,この意味で,そもそも個との関係においては偶然的 でありうるものが必然的・拘束的現象に,この場合には,転化してしまっているといえるのではな いか。このことは,個を超えるメカニズムではないだろうか。個のレヴェルからのみとらえること のできるメカニズムではないだろう。

社会的・歴史的な時間というものは,一様に平面的に拡がっているのではないのであろう。つま り,社会的・歴史的な空間として共時的にちらばっているのではないのであろう。むろん,個的レ ヴェルにおいて共時的にちらばっているのでもないのであろう。事実において社会的・歴史的時間 は一様にちらばってはいない。社会的・歴史的時間は共時的空間をもたない,つまり空間的なデコ

o  ■  ●

ボコをもっている。局所性を有するのである。ということは,時間と空間とはある種の凝集性をも たされて存在するということではないのか。時間と空間とはある種の条件,両者を結びつけている ある種の条件によって媒介されているのではないか。このことは個の側からみて,直ちに理解しう

■   ●   ●

る事柄なのであろうか。そうではあるまい。時間・空間の凝集性は,個の側からみると,社会・歴

●   o

史の偏在とみえるのであろう。直感的には,例えば言語や生活様式の相違,文化の相違としてとら えられる〈偏在〉であるともいえよう。しかし,時間・空間(歴史や社会)の側からみるならば,

●  ●

それはむしろ,偏在というよりも存在様式そのものにかかわる事柄なのではないか。つまり,一様

な実質を伴った時間・空間というのはありえないのではないか。絶対時間・絶対空間的な形式性の

(3)

佐藤:学習理論の論理構造について(3)       267

みが時間・空間にとっての属性なのではない。歴史的時間や社会的空間は,時間の本来のあり方か らして平面的ではなくして,局所的・局在的・偏在的・凝集的な〈場〉であり,それは単なるカラ ッポな場所でありえず,その〈場〉は充たされていて,エネルギーを有している必要があるし,事 実有しているのである。充たすものがつまり,社会であり歴史であり,そうしてそれらを現出させ

る・生じさせている個の活動ではないのか。とすると,その〈場〉は何らかの形(Form)によって 支えられなければならない。そのFormは,すべて一様なものたりうるのか。そうではない。事実 上,そうではない。経験則上,そうではないのである。いわゆる〈社会形態〉が,このFormにあ たるのであろう。だとするなら,時間も同じように,一様なスピードであらゆる場を流れていると 考えるのではおかしい。空間には,いわば〈うすい空間と濃い空間〉があるのではないか。この

●  ●   ●      o   ●

〈うすさとこさ〉と,その中を流れる時間とは,本質的な意味での関連があって,時間がある空間 では速く,他の空間ではゆっくり進むということがありうるのではないか。空間の充たされ方に無 関係に,一様に流れる時間というものはないのではないか。むろん,速いかゆっくりかの判別は相 対的なものとしてなされるのであろう。つまり,未来のある地点に速くつくかおそくつくかは,決

っして何らかの基準によって定められるものではあるまい。それぞれの〈場〉に固有の進み方があ っていいのではないか。そして,そこに問題があればその進み方を調整しうるのであればよいので はないか。

歴史的時間や社会的空間は,それを充たしている何らかの活動によっていろいろな形態をとりう るのではないか。デコボコや前後左右へのズレがありうるのではないか。そしてそれらが高度に複 雑な関連性の中に含み込まれているのではないか。ところが,このような関連性は,個にとっては 常にan sichなもの,自明なものなのであろうか。局所性・局在性・凝集性というのは,ある拡が

り(範囲)を意味するのであるが,その一定の範囲の中ではan sicLなこととして,直観的なこと として諸々の事柄を把握できるとしても,その限界を少しでも超えるともはやそれはf血rsichなも の,切断されている未来,としてしか意識しえなくなるのではないか。けれども個は局所的拡がり の中にとどまりつづけることはできない。どうしても局所的な場と未来とを,〈今・ここ〉と未来 とを何らかの形で繋いでゆかなければならない。なぜなら,ある拡がり,個的な時間・空間の内に 在りつづけることは無条件に可能なのではないだろうからである。とどまりうる条件がある場合に

とどまりうるのであり,その条件は個が選択し,決定することが可能な場合もあるだろうが,常に そうではない。〈そうありたい〉と思うということは当然ありうるのであるが,客観的にそうあり たいための条件を常に確保しつづけうるということはない。過去に関しては,かつていかにくそう ありたかった〉ように存在したかを,後から,ad hocな論理として説明することは,形式論理的に はできるかもしれないが,未来に対してはこの仕方は不可能であるし,一般的にも〈いま・ここ〉

をすら確保しつづけることは不可能であり,況や〈そうありたい〉条件を未来に対して確保しつづ けることは,ありえまい。

言い方をかえるなら,個的な時間・空間の〈場〉を充たしている実質としての活動が,そのまま,

直ちに,いかなる拡がりの中においても,拡がりを充たすものでありうるかどうか,が根本的な問

題としてあるはずなのである。前者は,直ちに後者を充たすものではないのである。両者の問にコ

プラはない。それは個がつないでゆくものなのである。個的な時間・空間を充たす実質は,すべて

の個に一様なものとしてあるのではない。個が固有の活動をしようとすれば,固有の時間・空間が

(4)

必要となる。逆に,固有の時間・空間の中では個的活動が生じうる。が,個的な時間・空間や個的 な活動が,常に固有のレヴェルにとどまりうるかといえば,そうではないだろう。存在そのものは

●  ●

まず,被拘束性として,所在として在るところから存在をはじめるのであるが,存在をはじめる時 の初期条件に拘束されつづける存在はありうるのだろうか。ないのではないか。少くとも人間のレ ヴェルにおいては〈存在する〉ということは〈存在しつづける〉こと,つまり初期条件にのみ拘束 されるのではなく,未来に対して〈今・ここ〉をつなげつづけることであると言える。存在にとっ て未来が〈開放系〉であるというのは,その開放系の中の,いずれかの時間・空間を自から選択・

●   ●   o   ●

確定して,そこにつき進んでゆくことをつづけるべきであるという意味であろう。個が,各々のレ ヴェルでの時間・空間を必要としつつ,未来に対する投企をせざるをえないとしたら,その投企は 全くのランダムなやり方たりうるのか。この投企はいかなる意味でもランダムではないだろう。

●   ●   ●   ●  ●  ●   ●  ●

個にとって固有の時間・空間が累積され(時間的・空間的経験の累積として),そしてそれらの 実質である活動が量的にあるレヴェルを超えると,そこには個を超える〈磁場〉のようなものが生 ずるのではないか。その磁場は,さまざまなFormをもつに至るのだろう。たとえて言えば,家庭 であり,学校であり,社会そのものである。つまり,個を超える拡がりをもつにいたるのだし,そ の拡がりを新たに律する形をもつのであろう。言語などは,そういうものとしてのFormであると いえるのではないか。むろん,人間の行動のパターンもそうであるし,意識の形態そのものもそう いうFormといえるだろう。そうすると,この個を超えた拡がりの中にある実質そのものが個を超 えなければならなくなる。よせあつめ・単なる算術総和としての実質にとどまりえなくなる。新し い,個を超える実質が生ずるのである。存在の様式の質的に高いレヴェルの出現である。

時間と空間の拡がり方は,一様なものとしての拡がり・平面的な拡がり,ではなく,いくつかのレ ヴェルを持つ。それぞれのレヴェルにはFormが生じ,それを媒介する実質,即ち量的・質的な活 動性があるのである。反対に,各々のレヴェルでの新しい実質が新しい実質としてありつづけるた めには,新しいFormを持たねばならない。むろん,このFormはそれとしての固有性を有するの であり,あるFormと他のFormが形式的に融合することはない。固有の新しいエネルギーとForm と,それの限界性とを持つのである。それらが相互に並存しつつ,何らかの関係のもとに在るので ある。時間的には前後関係を有し,空間的には局所性をもちつつ並存するのである。そのような時 間と空間との拡がりの重層としての,個を超えた存在が出現するのである。それらは相互に独立変 数として在り,それぞれの拡がりの限界の内での有効性をもつ。この有効性はその限界をとびこえ て他に直接に作用することは,通常においてはないと言えよう。いわば存在しつづけることができ るという意味での恒存性は,安定的相対性でもあるのであり,それはある意味では排他的でもあり,

状態のあり方は他と区別される明確なあり方をする。相互に融合してしまうということはない。い ってみれば,重なり合うということはあるにもせよ,相互の境界がアイマイになるということはな いのである。だからこの意味での安定的状態(これが,歴史というものの存立にとっての根本的条 件になるのではないか)は排他性が相当に強いといえるし,外からの撹乱に対しても強いといえる であろう。それ故に,それぞれの範囲の内部に生じた事柄はそれぞれの限界内で処理すればよいの であるし,それ以外の方法はないのである。そして,このような場合は,それら相互の間の関係も,

その相互関係内部の調節によって保証されうるとしてよいのであろう。個はこのような場合は,量

的拡充を主として企図すればよいのであろう。自己自身の質的変換をともなわないままに,連続的

(5)

佐藤:学習理論の論理構造について(3)       269

に活動の範囲を拡げうるといえるのであろう。時間・空間の量的・連続的拡大がありうるのである。

ところが,個にとっては,個を超えるレヴェルの現象が常に予測の範囲にあるものであることは ありえない。また,個を超えるレヴェルにおいて,いつ・いかなる形で,いかなる質の問題が生ず るかを,あらかじめ予測し尽すことはできない。むろん,いかなる影響がそれらの問題から生じて くるかは,常に予測の範囲にあるとは言えないのである。それどころか,何かが個に固有のレヴェ ルの外側において生じたとしても,一般には固有のレヴェルにまで何らかの影響が及んで来ない場 合には,それに対して個は《intereBelossig》な存在でありうることが多い。客観的には関連があ るとしてもそれを自覚的に把握することは容易であるとは限らない。両者の関係はいつも近い関係 にあるとは言えない。近い関係にあると意識するかどうかによって,両者の関係が真に近くなるの ではないし,近い関係にあったとしても,真に近いものとして関係づけることは,近いと思うかど うかという意識のレヴェルを超えたところの実践の問題であるからである。

個に固有の範囲を超える時間・空間において生起した事柄(これは個にとっては時間的・空間的 には同時的事柄ではないのである)に対して,個はどのような仕方で関係するのだろうか。あるい は,それらの事柄はどのような仕方で個によって確認されるのだろうか。異なる時間・空間におけ る現象は,予想の範囲を超えることがあるのだが,だからといってそれに対して無防備のままでい ることはできない。非常に近い未来の空間や時間において生じた事柄であれば,,いわば近接作用に よる影響があり,それは明確にとらえうると考えてよいかもしれない。少くとも経験則上はそのよ うなことがありうる。とは言え,いつでもそうではない。また,遠い空間や時間に生じたことに対 して,個はどのような関係の仕方をするのだろうか。今を基準にとって,その今からは将来におい 下ほとんど起りえないと考えられたにも拘らず,それが時間的には近い将来において生じた場合,

今との関係は論理的には非常に遠いといえるのではないか。つまり,単なる形式としての時間と空 問の近さや遠さだけでなく,生起した事柄そのものとの間の論理的関係が問われねばならないので あろう。この意味では,〈未来〉は過去に反転しうるのではないか。逆に過去が未来に反転しうる と考えてもよい。つまり,過去の遠い場にあった原因が現在に対して影響を及ぼしているとされる 事象を確かにとらえることは,簡単ではない。少くとも,過去にあった原因が,いかに現在に対し て力を及ぼしつつあるのかを具体的にとらえることはむずかしい。にも拘らず,原因のない結果は ないという思考様式を適用して,今を過去の何かと結びつけて,両者を因果的関連においてとらえ ると,あたかもはじめからそうであったかのような感に陥るのである。両者は,過去と未来という

時間・空間のへだたりの関係においてとらえうるという言明が成立しうるように思えるのであるが,     ■  ●   ●        ●   ■

この言明は本当らしいのだろうか。原因を過去に求めるというのは,いつでも妥当なのだろうか。

誉らに,過去はいつまで未来に対して力を及ぼしうるのか。そして,いつその力が消え去るのかを 今において知ることも非常にむずかしい。むしろ,ここでは過去は未来に反転してしまっているの ではないか。いうならば,過去にあったとされる原因は未来において生起した現象にとって,論理 的な意味では過去の時間・空間の中にあったとしてもよいのであろうが,実質的には未来のある時

間・空間の中に突如として飛び込んできて,その中に存在しうると言えるのである。この意味から       ●

キると,,過去は反転して未来の時間・空間から今に対して影響を与える力を有していると言えるの

ではないか。かつて予測しえなかったようなことが生じた場合は,それが生じた時間・空間からみ

てみると,あたかも過去から未来が生じたように思える。過去が未来にジャンプしたようにみえる。

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未来の時間・空間が過去から突如として発生したかの観を呈するのである。

 実は,未来の時間・空間はこのような生じ方をするというのが,一般的なのではないか。ある種       ■の予測がつく場合は,それは近い関係としてとらえることが出来る。いわば,同時進行的未来・今

に相即的な未来だからである。ところが,予測がつかないということはその関係がズレてしまって いるのであり,結果には原因が先行するはずだという観念原因に拠らない結果はないという観念 からすれば,原因は過去にあるにちがいないのだから,やはり過去の中に未来が嵌めこまれていた のに気づかなかったというようなことになるのだろう。しかし,過去のいつ・どこに原因が在った のかを,ad hocなロジックとしてではなく探し出すとすると,これは容易ではない。つまり,関係 がありえたのか,ありうるのかどうかの判断は時間的・空間的にズレてしか生じないのである。原 因が,従って関係がありえたとしても,それにも拘らずそのことを相即的に,同時的に,自覚しえ なかったのである。この,判断のズレを単なる因果的ズレとのみ解釈してよいのだろうか。これは 根本的なズレなのであるまいか。〈その時〉判断できなかったというのは,決っして偶然できなか ったり,ケアレス・ミスの故であったりするだけではなくして,〈その時〉に含まれていた・ある いは論理的に〈その時〉に連続していたはずの未来についての判断ができないということなのであ る。〈あとになって気づく〉ことしかできないという現象は,過去と未来との関係そのものの困難 さに由来することなのではないか。

      ●

アのことは,今と未来との関係の中でのこととして考えてみると,より明瞭になるのではないか。

●      ●

。と未来(だから今と過去もそうなのだが)とは絶対的な関係にあるのではない,絶対時間的・絶 対空間的関係にあるのではないのではないか。少くともそれらの〈場〉を支える実質的活動の側か

      ●

轤キればそう言えるであろう。今から未来をすべて予測しえないというのは,形式的な予測が成立 しないというのではなくして,未来における実質的活動のあり様そのものが不確定であるというこ とだろう。形式的な時間・空間としての未来は比較的簡単に予測しうるのである。不思議なことに 形式的時間・空間の未来への延長(一様な連続)という観念は存在するのである。何故このような 観念を人が受け入れるようになったかについては説明が容易ではないのに,である。ところが自分 自身の活動を今からの延長として,今からの一様な連続として未来においても在るものと考えるこ とは,不思議なことだが,できない。今の活動の単なる再現・くりかえしとしての未来の活動とい うものを考えることは,事実上ないのである。これは,予測そのものがなされる条件がヴァリアブ ルであること,実践条件そのものも時間・空間に対してヴァリアブルであること,またすべての個 にとって未来に生ずる現象に対して常に,あらかじめ対応することは不可能であるということに依 るのではないか。とは言え,くりかえしをすることがないというのではない。もちろんのこととし てそのようなくりかえしは不可欠なのであるが,それは存在のための必要条件とみた方がよいので あろう(ウィーナーの言うホメオスタシスの原理である。)存在の恒常性は単に形式的なものとし てあるのではなく,恒常性を支えるのは行動自体の形式性なのである。いわば無条件的要請となっ た行動のパターン・形式性なのである。しかしながら,過去を正しくとらえてくりかえすというレ ヴェルだけでは未来に対応することはできない。

この種の行動ではなく,いわゆる創造としての,自己増殖としての,負のエントロピーの生産と

しての,〈生命とは学習なり〉というときの,その活動は単なる量的延長の活動としてあるのでは

ない。今と未来とにおける活動が本質的な意味での連続性をもたねばならない。そうして今と未来

(7)

佐藤:学習理論の論理構造について(3)       271

を繋がなくてはならない。今と未来の間に,あらかじめコブラが在るのではないのである。両者が どのように関連するかは,あらかじめわかっていないし,答がどこかにひそんでいてそれをみつけ 出しさえすればよいというのではない。〈かくれたる連関〉があるにも拘らず,気づかないという ことではないのである。形式をつなぐ実質がなければならないし,その実質相互の間のコブラを確 定しなければならないのである。具体的な活動こそが形式を媒介せねばならないのである3)。

既にふれた如く,ある拡がりの中では〈つなぐ〉ことを意識的になさなくてもよいのだろうが,

そのような拡がりを超える場合は,人間の側が意識的につないでゆかねばならない,関連をつけな

●  ●

ければならない。今と未来の活動との間に論理的な関連をつけ,未来における存在を実現しなけれ

●       ●       ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●

ばならない。そうして,未来が今になった時,かつての今における活動が過去の活動として未来に 関して妥当なものであったことが検証されなければならないのである。恣意的に,偶然をアテにし て,ともかく何かをしてみるという形のつなぎ方ではいけないのである。そういうつなぎ方は,崩 壊した時の恐ろしさがある。戦争という形がそれの典型であろう。ところが,こういうつなぎ方を 防げないと,それを修復するために払わねばならない代償は,論理的な関連のつけ方に必要となる エネルギーをはるかに超えるものとなるし,歴史的時間の進行を歪め,ブレーキをかけるぐらいの 悲惨なものとなりうる。これが個のレヴェルに反映して,個の存在そのものの崩壊という形をとり うるし,精神的崩壊ということも生じうるのである。だから,どうしても意図的・自覚的に今を未 来につなげる努力をしなくてはいけないのである。未来に対する無力感・崩壊感というようなもの が生ずる場合には,歴史的にみても,現在・現実にまともに立ち向かうことはむずかしかったし,

むずかしい。無力感や崩壊感をかもし出すような未来が消滅してはじめて,人間は現実に対してま ともたりうるのではないか。換言すれば,現実に対してまともたりうるのは過去の事実や事態に関 する正しい認識に拠ってであるとしても,それだけでは不十分なのではないか。やはり,未来に対 する何らかの展望がなければならない。それが閉ざされる時には,現実に対して人間は無頼漢にし かなりえなかったのではないか,そして現に無頼の徒でもあるのではないか。もっとも,それ以外 の在り様は考えられないのである。〈その場しのぎ〉という仕方しかないのである。未来をつくろ

■  ●   ●   ●  ●

うとはせずに,明日がないということにすべての原因があるとし,結果のすべてをそのことに帰着 させるだけである。明日がないという事態は突如として,降って湧いてくるようなものではないし,

       ●

サのような主張自体に合理的根拠があるとは言えない。だから,少くとも今を変換しうるという希       ●

]がなくてはならないし,その努力をしなければならない。今を変換してゆける場は,未来の時間         ■

ニ空間なのである。今と共時的な場に求めることはできないのではないか。それは,一時しのぎの         ●

竄阨福ナあろう。今の時間と空間のあり方そのものを変えねばならないはずである。未来のことは        ●

墲ゥらない  というのは,何がわからないのかという問題であるはずである。形式的時間・空間 の連続性までをもわからないと言うのか。それは,わかるとはいえないということを単にウラ返し にしただけのことである。では,明日は来ないと断言しうるのか。問うというのはトリックではな い。明日がくるとは言えないと言うことと明日は来ないということとは全く違うことである。未来 に関しては手のつけようがないかもしれないが手がつけられないと言えるのか。手をつけずに変わ ることはあるのか。〈ないとは言えない〉という言明は,手をつけなくても変わるということを意

●  ●      ●  ■

味しない。知ることができないということと,ないかあるかの判断は別のことである。知ることが

困難ではあっても,問題があるからこそ,学習によって知り,そのことを唯一の条件として実践的

(8)

 ■

ノ今を未来に連続させねばならないのである。

〔3〕−2.社会的・歴史的時間と学習

では,つなぎ方に必要となる時間は,いかにして定めうるのか。ここでの学習は,定常状態を維 持しつづけるための学習とは区別されるのであり,当然,それに必要とされる時間・空間とは別の 時間・空間が考えられねばならない。従って,常に,いつでも個に即し,個に収敏するやり方だけ では不十分であり,個の限界を超えるものを含む。個を超える,個を止揚することのできる時間・

空間が実現されなければならない。この新しい時間・空間を自己のものとした個が,そこでの存在 性・恒常性を獲得して,新しい活動体としての自己を創造することになるのである。この自己止揚 は,いかなる時間において可能なのだろうか。自己止揚に必要な時間の拡がりの中で,個は自己の 活動の量的・質的レヴェルの拡充,即ち自己止揚の空間化を実現してゆくのである。個に固有の空 間の拡充によって,他の空間との接触・重層が生じ,やがて〈社会化〉・〈集団化〉が実現される のであろう。

学習とは単に知ることのみを意味しない。知ること,知の集積が或る条件のもとでは自己目的的 でありうるだろうし,この限りにおいて学習も知ることを目的とすることがあるとしても,本質的 には学習はそれを超えるものであると言えよう。知ることと実践との間をつなぐものとして,カン トは〈構想力の論理〉を考えたが,それはつまり,純粋理性のみの作用だけでは〈学習〉は十分で はないということであると考えてよいのであり,実践との本質的関連がなければならないというこ とであろう。カントの〈構想力の論理〉そのものの中には,それ故,根本的には時間的な問題が含 まれているのである。未来への接続作用としての実践は,単に機械的になされるのではなく,構想 力,つまり見通し・予測がそれを支えなければならないのである。論理によって構成されたく歴史 的・社会的構想力〉が実践を支えなければならないのである4)。この問題は,後にM.ハイデッガ 一によって〈Frageの構造〉としてとりあげられた。そこではFrageの時間的(歴史的)・空間的

(存在論的)構造が考察されている5)。

しかしながら,Frageの論理がFrageの論理として十分であるためには,それに対応する論理と の関係の中での妥当性が問われなければならない。存在自体も同じように,Frageの論理によって のみ支えられるものではないのである。従って,学習の論理も,Frageの論理のみから成立するも のではないのである。歴史的・社会的構想力(問い)は,それに対応する論理,〈答の論理として の実践の論理〉をもたねばならないのである。Frageの論理が対象化されねばならない。

知ることと実践,Frageと答の論理をつなぐものが,時間についての判断なのであろう。学習に

おいても,この間のギャップをどのようにして埋めるかが問題であるはずである。恣意的に埋める

ことはよくないし,〈放置〉するのもよくない。このギャップ・矛盾・非合理性は深刻なものであ

るはずである。学習の論理は,この問題を放り出しておくことはできまい。何故なら,その間をつ

なぐべきは学習者自身なのであり,学習者の成長・発展がこのことと本質的な関係をもつはずだか

らである。成長・発達が予定調和的な,自動的なものではなく,あらかじめ何かに収敏されてゆく

ことになっているものでもないのに,このことについての論究がともなわないばかりに,成長・発

達の論理が内実をもたない,空疎な,つまり成長・発達をいかなるパラメーターにもとついて判断

(9)

佐藤:学習理論の論理構造について(3)      273

するかについての論理をともなわない形式として論じられる危険性が出てくるし,その反動として,

いかにも成長・発達論がある側面から,たとえていえば,ラ・フォンテーヌ的な《強者の論理》の みによってとらえられているのだという如き批判がでて来たりするのであろう6)。学ぶことにかか わる問題が生得性に還元されてはならないのである。学ぶこと(Frageの構造化)と実践(答の論 理)の間の関係をこそ問題とし,関係そのものを変換せねばならないのであり,この両者の間の時 間の幅をどのようにとりうるのかを考えねばならないであろう。すべてに共通の答があらかじめ定 まっているのでもないし,個に固有の答があってもよいのである(他者が代って答えてやることは できないのである。)。が,無制限の時間の幅において答えを出せばよいのではない。しかも,答は

■   ●

常に,必ず出せるとは限らない。一般に,答があるとも言えない。のみならず,常に,いつでも必 ず成功するとは限らない。答を出すということにも,答そのものの確定にも失敗はともなうのであ る。この失敗は,個の側の要因,能力や素質というレヴェルに還元されてはならないのである。そ うしてはならないのである。いわゆる〈可能性〉というのは〈失敗の可能性〉という概念までをも 含んではいないはずであり,事実,失敗というヴェクトルが可能性とされてはいないのである。学 習と実践との問に存在する時間の幅の決定にかかわる困難iさそのものを分析すべきであり,ここに

こそ失敗や成功の論理的要因を求めうるのではないか。

ある時間幅をとったことが正しかったかどうかの判定は,実践の前には下せない。やってみてわ かるのである。だが,やってみれば必ず正解を求めうるのではでない。エラーを含むことがあるの である。だとすると,このエラーと時間との関係をこそ論じなければ,時間幅のとり方についての 判定は,予測の論理からも結果(答)の論理からもできなくなるのではないか。つまり,いずれも 何ら合理的なものではなく,単なる推測であり,単なる現象の生起にすぎなくなるだろう。はじめ からエラーという結果を招いてもよいという予測に基づいて行われる実践というものがあるのなら 別だが,そういう実践はない。しかし,時間的見通しはつけなくてはならない。そうでないと実践 そのものが成立しないのである。実践の必要・不可決の条件が,時間的見通しの問題なのである。

学習者が,何故,今,このようなことを学ぶのかと問うことは,決っして無意味なことではない のに,それに対応する〈答の論理〉を時間幅のとり方との関連において検討しなくてよいのか。学 習は一瞬にして成立しないのである。そこには時間の問題が根本的に介在してくるのである。エラ 一は,この時間幅のとり方と根本的に関係する現象ではないのか。だから学習者の側からは,時間 幅のとり方についての論理がなかなか納得しにくいのではないか。この時間を,あらかじめ定める ことができるのか。定めうるとするのなら,いかにして定めうるのか。この点を十分に検討する必 要がある。というのは,いわば定められたとされる時間内に何かが実現しない場合,それまでにな されたことのすべてが否定されるようなことがありうるからである。果して,これでよいのか。そ もそも答がありうるかどうかの確定が困難であるのに,〈ありうる〉としたところで,答を出すま での時間を定められてしまえば,その間に答が出ないことがありうるだろう。時間を定めるという こと自体に,本質的問題が含まれているのではないのか。時間を定めること自体の問題とその結果 の問題を切りはなしてはいけないのである。

さて,いかにして定めうるのか。定めうるとする論理上の根拠はあるのか。恣意性によらない定

め方は,いかにすれば可能なのだろうか。時間の幅を定めずに学習は可能か。あるいはそのような

学習がありうるとしたら,それは一体何を学ぶということなのか。一般には,この問題が極めてア

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イマイに扱われているのではないか。個のレヴェルでは自分が自由に決定しうるかのような主張も あるが,そしてなるほどそういう範囲はあるといえようが,しかしその範囲や自由さは明確に定め うるのか。意識の上で自由にできそうだということと,事実上自由に定めうるということとはちが うことである。無条件に,無制約的に自己のみの自由な判断が可能な,成立する範囲はあるのだろ うか。自由な判断という言明の実質が,任意の・無制約的・無条件的な判断であるということがあ りうるのか。否ではないのか。判断の主体を点的存在としての個であると考える(このような仮定 自体には大いに問題があるのだが)場合には,その個には〈自由度〉が無限にあるかのようにみえ るかもしれない。点としての個にとっては,与えられている時間・空間が一定の拡がりしかもって いなくても,無限の拡がりをもつように感じられるかもしれない。だが,そのような場合の自由さ は,実は即自的なものとしてのものであり,従って自己以外の他に対しては関係をもたないし,他 からみてそれはIntereBelosigな,だから意味があるかどうか判別しようのない在り様であろう。

それは,存在するということに関してすべてに許容される・必要条件としての自由さにすぎないの ではないか。逆に言えば,そういう個的な自由さはいかなる時間的・空間的拡がりにおいても許容 されうるのだろうか。そこに何らかの限界域はないのであろうか。個が同時に複数の存在たりえな い,同時に二つの空間を占有することはできないし,二つの空間に同時に存在することはできない,

身体とはなれた自由はない,ということは,個が存在する時間・空間の拡がりには限界があるとい うことではないか。意識の上では,〈今・ここ〉をはなれることはできるが,実存的には不可能で ある。実存にとって時間・空間は必ずクロスしている。時間・空間がクロスしている点こそが実存 が可能である唯一の場である。だから,〈次の点〉へ意識の上でのみ飛び超えてゆくことはできな いのである。むろん,〈今・ここ〉と〈次の点〉とは絶対空間・絶対時間的形式性においては連続 しているとしてもよいが,個は〈今・ここ〉から次の点へと単に連続的に推移することはできない。

●   ●

ここには単なる延長はないのである。事実においてないのである。

それ故,身体をはなれない自由はan sichなものであるといえる。そういう自由には制限がある。

他者がそこに立ち入ることはできないのであるが,それはそれだけのことにすぎない。そのような 自由性を云々することにどれほどの意味があるのか。個の固有の範囲での自由度は,それがなけれ ば個が存在しえず,個は自由意志によってのみ自己を変革しうるし,変革しなければならないので あり,その変革の場や〈方向〉の選択も自由になされねばならないという意味では不可欠の条件で はある。が,身体的・個的制限を超える時にはもちろんのこと,たとえていえば点的,身体的存在 そのものが他と衝突したり,結合したりするような場合に,つねに個は無制約的自由をもちつづけ うるものではない。衝突にせよ結合にせよ関係が生ずるということは個に固有な時間・空間と他に おけるそれとの重層や量的・質的なく拡延〉がありうることである。そして,それは単なる重なり あいではなく,重層が生ずる瞬間にはそこに新たな方向が同時に生じたとみてよいだろう。無方向 への重層や関係は生じない。方向がなければ〈クロスのクロス〉はありえない。もはやここでは,

時間も空間も,そしてそれを支えている活動も,量的,質的に拡大・拡充されているといわざるを

えまい。逆に言えば,問題そのものが個的レヴェルにおいてのみ量的にも質的にも生ずるというこ

とはないのであるし,個的レヴェルを超える問題や事実に対しては個的に,点的に,個別的に対応

するだけではどうしようもないのである。問題の発生という観点からみるならば,それは個にとっ

ては常にan sichな発生はしない。だから,個の側からみると事実がまずあるという面があるので

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佐藤:学習理論の論理構造について(3)       275

ある。はじめに事実・問題が生じていて,在るのであり,あとから否応なしにそれを扱わざるをえ ない面が常に存在しているのである。それだからこそ,an sichな問題と舳r sichな問題とを何と       ●   ●   ● ゥして個に固有のレヴェルにひきつけて解決しようとするか,個自身を両者の問題の関連性の方へ 関連づけて解決しようとするのではないか。個はan sichな問題にのみ関心を集中させることはで きないし,an sichな問題とf加sichな問題との不整合・矛盾に〈中立〉でいることはできない。

この,fUr sichな問題は近接的なものとして,つまり個的レヴェルとの関係が形式的にも内容的に

●   ●

も近いと考えられる場合もあるが,形式的にも内容的にも全く遠く,現在からは予測がつかない時 間的・空間的スケールにおいて,そして予測を超える量的・質的なエネルギー・複雑さを以って現        ●

ロすることがある。そしてそのような事象が,発生した瞬間からそれが現象した〈今〉そのものに 対して,従って〈未来〉に対して強力に作用することがある。それが発生するまでの時間・空間の 連続性をすら切断し,それまでの活動の累積をすべてにわたって否定しうるような作用を及ぼしう

ることがある。勿論,この否定の作用は必ずしもマイナスの作用とは限らない。歴史を逆転させう      ●

髞@き作用,今を過去に向かわせる如き作用,だから個の固有の時間・空間を未来に関して破滅さ せうるような作用でもありうるが,反対に,過去に対する明確な切断でもありうる。つまり,今を 未来に対して加速的に推しすすめるような作用でもありうるのである。今までの諸問題をはるかに 高いレヴェルで解決してしまう如き,はるかに高い解答が先に与えられてしまうが如き作用,個が ジン・テーゼに対して今の自己を基本的に否定せざるをえなくなるような作用でもありうるのであ る7)。つまり,〈現在〉に対して歪力として作用する場合と加速力として作用する場合とがある。

が,いずれにしても個にとっては,非連続的,切断的な現象であり,予想がつかないといえる現象 でもある。だから,それはいわば定常状態そのもの,恒常性そのものへのダイレクトな作用である といえよう。歴史的にはカタストロフィと革命という現象,個的には破滅と自己変革という現象と して生起する作用であろう。破滅的作用に対していかに抵抗するか,あるいはそれからいかにして のがれるか,新しい現象に対してはいかにして自己変革をおこなってそれを推しすすめるか,が実 践的課題となるのである。

これらの課題に対して,いかに対応したらよいのか。個的レヴェルでのみの対応が可能であると いえるのか。しかもその上に,対応するまでに要する時間がどのぐらいかかるのかが,つねに予測 可能なのなのか。学習の恒常性はここでも破られるのである。個的レヴェルにおいてのみ対応する ことはいかにも不可能である。判断には点としての主体のみではなく,〈拡がり〉をもつ主体も同 時に関与せざるをえないのだろう。〈拡がり〉をもつ主体も判断の主体であり,実践の主体であり うるのである。〈拡がりをもつ主体〉は,よせあつめの点ではなく,点のあつまりではなく,点の 重層であり,〈場〉・拡がりと〈方向〉を新たなFormにおいてもっているものであり,新たなエ ネルギーがそこには在るのである。〈拡がりをもつ主体〉の存在は,決っして恣意的な理由にもと つくものではないし,偶然によるものでも,不必要なものでもない。それは問題の解決にとって十 分な条件を備えているとはいえないとしても,必要・不可欠なものとして産み出されたもの・媒介

されたものである。そのようなものとして対象化されたものである。個的レヴェルでの対応だけで

はどうにもならない場合(それは事実上存在するのである),集団的・社会的・歴史的な拡がりに

よる対応は不可欠である。それ以外の対応はないのである。個的レヴェルと集団的レヴェルとが相

補的な関連をたもちつつ問題に対処する以外にはないのである。相互に排除しあうような関係に陥

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ることなく対応してゆく以外に,方法はないはずなのである。念のためにくりかえせば,もちろん

〈拡がりをもった主体〉は一たび形成されれば消滅することなく永続性をもつのではないし,この 主体の拡がり方にも限界がある。また,この主体は個的・点的主体に対してどのような関係にある か,といえば前者は後者から不可逆的なものとして論理的に媒介されてくるのである。それにも拘 らず,拡がりをもつ主体,即ち集団的主体・組織的主体のもつFormの強さ,固定性,拘束性のひ うさ,というような面が強調されることがある。そればかりか,集団主体のもつ実践性の有効さの 拡がりや質的な高さが個的主体を圧倒するのみならず,やがて個に対してFremdな関係に立ち,個

を抑圧・疎外するに至るという側面のみが指摘されることがある。なるほどそのような問題がある ことは否定しえないが,これらのことについては充分な検討が必要であろう。

個的レヴェルと集団的レヴェルでの対応が各々の固有性に基づいてなされるが故に,両者の関係 が未来に関して対立・矛盾をはらむとしても,それの形式面のみを固定的にとらえるのはおかしい のだし,まして後者の活動が前者のそれに対してどのような関係にあるのかを分析せずに,単なる 現象面でのとらえ方に終始してはならないだろう。集団的対応は,扱う問題の量・質においても,

だからその問題の時間的・空間的スケールにおいても,個的レヴェルとは異るということを忘れて はならないのだし,さらに重要なことは,ここで問題が解決されてしまえば個的レヴェルに戻って の対応を改めてなさなくてもよいということになることである。そういう新しい事態が生じるとい うことである。しかし,この逆の関係は決っしてありえないのであり,両者の間の基本的な関係は アレかコレかではないのである。両者は不可逆的関係にある。だから,アレかコレか的な,あるい はWirbel的な扱い方をしてはならない,というより本来はそのような扱い方はできないはずなの である。従って還元主義的な論じ方は,論じ方そのものがまちがいなのではないか。

歴史的・社会的にみて基本的に解決しているとみなしてよいことを,個的レヴェルで再び論証す べきなのだろうか(言うまでもなく,解決されていない問題は歴史的・社会的にこそ対応すべきも のであり,個のレヴェルでの問題ではないのである。)。少くとも経験則上は,この場合には個的レ ヴェルでの論証はオブリゲイションとはされないのである。〈しなくてよいか〉という問いがあり うるとしても,〈しなくてよい〉という絶対的言明を与えることは困難だろうが,くできなくても しようがない〉のだし, 〈しなくてもよい〉のである。むろん個的レヴェルでは,したければして もよいのであるが,歴史的・社会的レヴェルで再びくりかえして論証しなければならないとしてみ ても,問題が生じていた過去に立ち戻ることは不可能であり,未来に対象化してのく新たな条件の もとでの新たな論証〉をする以外にはない。だから,個的レヴェルでの論証というのは,実は個的 レヴェルでの〈問い〉なのであり,問うことは任意になされてよいがその論証は必ずしも常に,い かなる場合にも必要なのであるといえるのか。そもそも〈歴史的論証〉をくりかえす必要性という のは,どのレヴェルにおける必要性なのか。また,どのレヴェルで可能なことなのか。個的レヴェ ルでなのか。〈歴史の誤り〉への対応は過去に向ってはできないのである。過去をいかほど正確に 詳細に知ったとしても,そのことが直ちに反転して未来への前進の手がかりにはならない。だから

こそ未来への新たな,論理的な対応が重要なのである。

ひるがえって,個的レヴェルで問題がなかったり,解決しているとみなしうるならば,集団的レ

ヴェル.歴史的・社会的レヴェルにおける問題はないといえるのだろうか。あっても,解決しなく

てよいのか。あるいは,個的レヴェルでの解決が直ちに,そのまま自動的に集団的レヴェルでの解

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佐藤:学習理論の論理構造について(3)       277

決につながるのか。ここでは,上記の場合と論理が逆転しているはずである。〈しなくてはならな い〉かどうかに関しての絶対的言明や答はないとしても,〈しなくてよい〉〈できなくてもしよう がない〉とは言い切れないのである。つまりこれこそが不可逆関係なのである。論理的にも事実の 上でも不可逆関係にあるといえよう(事実上の問題としては,歴史的・社会的カタストロフィーを 個のレヴェルで支えることはできないということだけを指摘しておこう。)。この,個的レヴェルに 立ち戻ったり,過去にさかのぼっての論証・解決は〈しなくてもよい〉という状況が生ずることが 実は極めて重要なことなのではないのか。物理的に時間と空間を過去にさかのぼることは不可能で あるが,過去からの諸問題・矛盾(母班)をひきずっているのは事実であり,それをないものとす ることはできないのであり,それの解決は各々のレヴェルにとって必要・不可欠なのである。だか ら問題への問いは常になされてよいのである。けれども,個的レヴェルのすべてについてみてみれ ば矛盾が残るとしても,個をこえるレヴェルで,即ち集団的・歴史的・社会的レヴェルで基本的に 解決されたとみなしうる問題を,すべての個のレヴェルへ戻して改めて解決に努力する必要はない。

つまり,そこからスタートしてよい,解答があるということを前提としてスタートしてよいのであ る。このことは学習の論理にとって重要な論理なのではないか。生存のための恒常性は,このよう な論理の展開という形をとりつつ,あらゆる個体に対しての妥当性を獲得し,妥当性の範囲を拡げ てゆくのではないか。この不可逆関係を量的に質的に拡充してゆくことが生存Q必要条件なのでは ないのだろうか。それが生存にとっての十分条件であるとは言えないということは,必要条件の価 値をおとしめるものではない。両者は各々別の論理でとらえられるべきものであろう。生存に必要 な条件の方が論理的には先行するからである。必要にしてかつ十分な条件の双方を具備していなけ ればならないということは,いつの時点から問われるべきことなのであろうか。常に生存のスター トの時から,その双方の条件のいずれをも備えていなければならないというのであろうか。そのよ うな論理は還元主義のウラ返しにすぎまい。〈はじめにないから〉ダメなのだろうか。つまり,〈は じめにありき〉ということがそれ以後のプロセスをすべて支配するのかどうかについて何も言わな いのは,論理としておかしいのである。最も大切なことは次のステップへの不可欠の条件としての 必要条件を,まず獲得することであろう。すべての条件を一瞬のうちに獲得することは,論理的に 考えても,事実の上からも不可能なのである。時間的な問題と空間的な問題とを,通時的な問題と 共時的な問題とを瞬間的に〈いま・ここ〉において解決することは不可能である。

〈いま・ここ〉に存在している個が,問題に対して,いかなる時間の長さを設定して,学習をし

て解決するのか,という問題は,個的レヴェルと集団的レヴェルとで同一の論理に基づいて論じう

るのか。個々のレヴェルのバラツキについては個の固有性に即して論じなければなるまいが,両者

を同一の論理で扱うことはできないのではないか。教科書には単元があり,その単元にはそれを学

習するに必要とされる時間が付与されている。この時間はどのような根拠にもとついて設定されて

いるものなのだろうか。少くとも個々の学習者の方からの要請,学習の対象の困難度と学習そのも

のの進行との論理的関係をもととすべき要請に十分に立脚して定められているのだろうか。ある時

間的制限が付与されるということは,たとえその時間幅にどんな意味づけがなされようとも,ある

場合には学習者にとってきわめて重要な制約となりうる。それのみではなく,その時間幅の中で学

習しきれない場合には,一般にマイナスの評価を与えられることが多い。いつの間にか,学習の評

価基準としてこの時間幅が使用されるに至ることがある。〈できない〉〈わからない〉という事象

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●  ■  ■

の判断の根拠として,学習対象のグレードの問題や教え方にかかわる問題よりは,いわゆる能力の 問題とこの時間幅の問題が使われるのである。しかし,時間幅の設定の論理はそれほど合理的なの

●   ●  ●  ●   ●

だろうか。学習者は現実の教育課程の中においては,能力も時間幅も自からの自由意志で選択しう るものにはなっていない。能力はすべての人間にとって等しく,選択の問題外の事柄としてはじめ に与えられているものとして在る,即ち初期条件は所与としてあるのだからそれを自からが変える ことができるようになるまでの間は如何ともしがたいとしても,時間幅の設定はそれが学習のため の一つのクリテリウムになるのであれば,というより時間幅の設定なしに学習が成立しないのであ るから,経験に基づく設定というだけでは不十分なのである。一方,たしかに学習者自身によるan sichな時間幅の設定のみを基準とすることも出来ない。では,何の根拠もなく全く恣意的に定まり うるものなのかといえば,そうではない。時間幅の設定は,何を学ぶのかの決定・学習の順序性の 決定,既知の知識の量・質の確定,学習対象のグレード,学習者の興味・関心,さらには環境条件 等の問題を無視してなしうるものではない。また,教える側からみた 必要性 によって,時間を のばせない場合や客観的にみて時間的制限がある場合には,時間は狭く制限されたりするのであり,

そのような 必要度 も考慮に入れなければならない。さらに,クラス全体があるレヴェルに到達 しまうと,その中の個が全体の到達したラインまでひっぱられて加速度的に到達する,わかってし まうということがある。このことも十分に考慮されねばならない。その上さらに,時間的・空間的 範囲が拡大された形態において問題が生じた場合,その問題の解決が個的問題に先行しなければな らないことがありうるのだが,このための時間はどのように定まりうるのか。これが定められて解 決の見通しがつかないと個的レヴェルに固有の問題に立ち返れなくなることがある。そのために固 有のレヴェルでの学習に必要となるはずの時間を確定しえなくなることがある。これは子供にとっ てありえないことではない。典型的な例は戦争である。核戦争の恐怖というものが子供にとって実 体のともなわない空騒ぎでないことがありうる。子供の精神状態を撹乱することは十分にありうる。

〈漠然とした不安〉や〈生きることに希望を失う〉というような精神的状態が生じた場合,それに は目を向けずに,目前の学習にのみ集中させるということは困難であるし,それは本当に学習とい えるのかということもあるのである。この如く非常に入りくんだ〈時間の錯綜〉,いくつかの時間 の重層ということがあって,そのようなダイナミズムのただ中にあって,なおかつ〈今・ここ〉で の学習にとって必要な時間幅を定めなければならないのである。そして何らかの解答を得なければ ならないのである。

学ぶ側にとって,いま・ここで何を・いつまでに学べばよいのかについての判断は,簡単なこと

ではないし,他者が(たとえ親であれ教師であれ,ましてや国家であれ)代わりに判断できる事柄

では本質的にはないのである。もちろん,自からが行うべきであると言っても,子供自身による判

断がなしうるに至るまでのある一定の時期においては,他者が判断を代ってなす(教育的配慮によ

って行う)というよりも,他者の判断の模倣とでもいうべきであろうが,そのようなく模倣(と繰

り返し)による判断・選択〉は不可欠であると言えよう。これが現象的には,他者によるあらかじ

めの選択というようにみえるのであると言えよう(そして不幸なことに,このメカニズムがく教育

外的強制力〉によって利用されることがあるのである。)。この〈模倣による判断〉のメカニズムは

子供についてのみ妥当するのではなく,人間の生存そのものにかかわるあらゆる事柄に関しても同

様に妥当するのではないか。子供のケースを扱う特有の論理ではなく,人間一般に関して共通に妥

(15)

佐藤:学習理論の論理構造について(3)       279

当する論理ではないだろうか。あらゆることに関して,すべての人がオリジナルな判断を下すこと は,現実的には困難である。そうすべきであり,要請としては当然ありうるべきことではあるけれ ども,困難である。知的レヴェルでの〈模倣による選択〉のメカニズムは,〈個体発生は継続発生 を繰りかえす〉ことの中にくみ込まれていると考えることができ,そこでは生存可能に至るまでの 時間の短縮と知的判断力そのもののレヴェル・アップとが実現されていると考えてよいのではない か。それはまた,人類全体として未来を推測するための時間,思考のための時間を確保する仕方,

人類全体のエントロピーの増大を防ぐ仕方・メカニズムになっているとみてよいのではないだろう か。つまり,さまざまな長さの時間をすでに経過して来ている人間が存在しているのであり,それ らの人間が下す判断の統計学的な分布が全体としては支配的であるのだが,その統計学的に支配的 な判断に即しつつ,それを〈模倣による選択〉の対象としているとみてよいのではないか。形式上 の,絶対時間・絶対空間的連続が存在するということは,即ち人類の学習活動の連続が存在すると いうことではないし,個的レヴェルの学習が不要であるというのではない。形式的連続性のみが仮

●   ●      ●

定的に存在するだけでは,すべての存在は不安なのではないか。形式的連続性はあらゆる存在の存●在をを保障はしない。存在は形式上の連続性を直ちにan sichなものとして受け入れることはない。

むしろ,そのような形式性を自己自身の活動(学習)を通じてさまざまな形態において経験し体験 することによってはじめて,自己の活動そのものの連続性を思惟の対象とする二とができるように なり,その固有の活動の連続性の重層としての時間・空間一般の連続性というFormを思惟するこ とができるようになるのではないか。それによってはじめて,〈現在を未来にいかにして結びつけ てゆくか〉という実践(学習)自体のもつ意味を理解しうるようになるのではあるまいか。

学習における時間幅の設定は,学習過程の外からなしうることではなくて,学習過程そのものの 中で,学習そのものの進展を根拠としてなされねばなるまい。学習自体を根本的に支える問題とし て,時間幅の設定があるのであり,そのようなものとしてとらえられ,論理的に分析されねばなら ないだろう。言うまでもなく,そこでは学習の単なる速さ・おそさの問題が主たる問題となるはず はないであろう。

〔4〕学習が妥当であるかどうかをいかに判断したらよいのか。

学習がなされることによって生ずる変化は,量的な変化にせよ質的な変化にせよ,それはどこに,

どのような形をとって実体化(対象化)されるのか。たとえば,〈わかる〉という概念はこのこと について何を語っているのだろうか。そしてその実体化された変化はどのようなものとして観測さ れうるし,されねばならないのか。〈わかる〉という事態に本質的にともなうかの如くに考えられ がちな,〈できる〉という概念は,このことに関して十分なものなのだろうか。この点を検討する ことが,学習の〈妥当性〉を確認するための不可欠の条件であろう。学習が学習として成立したと いうことが確定されなければ,学習の妥当性について論ずることはできないし,妥当性を論ずるに は学習の成立をいかに判定するかを問題にせねばならない。学習の成立一というのは,学習には 本質的な意味での〈まちがい・失敗〉が含まれるにも拘らず,あるいは一般にはそれを排除するこ

●   ●   ●  ●

とができないにも拘らず,従ってまちがいをくりかえすにも拘らず,それでもなお学習がなされ,

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