学習理論の論理構造について(2)
佐 藤 晋 一*
(1989年9月9日受理)
On the Theory of Learning:
It Must be Composed of Logical Conditions.(2)
Shin−ichi SATo
(Received September 9,1989)
(3)いかなる時間幅において学ぶのか,学習と時間の関係をどうとらえたらよいのか。
学習理論を構成する根本的な条件の一つに,時間の問題があるはずである。この,時間の問題に ついて述べる。
学習の成立にとって,時間は根本条件の一つである。瞬間的に理解できてしまうと考えられる営 みを〈学習〉とは言わないのである。学習が成立するには,本来的に時間が介在していなければな らないのである。黒田 亮は言う。学習活動は「解決を要する問題の出現とともに開始されるが,
解決方法が即座に提供される場合には」ll 「それは智能的活動ではあるカ㍉之を学習と称すことは 2)
ナきない。」つまりそこで活動が終了してしまうからであって,それ以降の「学習の各段階への発 展を見ること」がないからである。だから「学習には,問題の解決が,なにかこれを抑制阻止する 原因があって即時に行なわれず,後の機会に延期され,問題の出現とその解決の間に一定の時間的 経過の介在することを必要とするf)のである。黒田は,さらに学習は問題解決の「一形式」ではあ るが,「凡ての問題解決が学習の形式を取るとは限らない」と言っている。「刻々に与えられる問 題には,即座に解決が見出され,学習を必要とする何物も無い場合がむしろ大部分を占めている」
のであるから,学習は一般に,任意になされるものではなく,学習が「如何なる条件の下に生ずる か」,そして学習が必要となるかを考えるべきである。黒田は,「課せられた問題の解決が,或る 4)
柾薰ノよって阻止されるにも係らずこの解決が引続き企図される場合」に学習が生ずると考えてい るが,時間の問題についての論理を詳細に展開することは,残念ながらなかったようである5)。
K.ポパーによれば, 「学習過程は一定の時間(短い時間)がかかり,しばしば生物体の側での
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なんらかの活動またはく努力〉をともなう。」のみならず「学習過程は,反復的でない」のである。
(ポパーは,「反復をく帰納〉の特徴だとみなし」ていて,反復的でない学習,つまり「非反復的 学習過程をく非帰納的〉なもの」とみなしている。非帰納的ということは「淘汰的またはダーウィ
ン的」であるということであるとも言う。)この意味で「たいていの(おそらくはすべての)学習
*茨城大学教育学部教育学研究室.
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゚程は,理論形成,つまり予期の形成にある」のである。
基本的に言って学習に時間が介在しなければならない理由は何であるのかは,また学習が成立す ることにとっての時間の問題は客観的に論じうる,否,論じなければならないと言える。つまり,
学習と時間の問題は人間の内側に存在すると仮定されるく能力〉にかかわる問題と切りはなして論 じうるし,論じなければならないと言える。
黒田もポパーも,学習の開始期については言及が明瞭ではないのであるが,いつから学習が開始 されるかという問題とのかかわりで,〈瞬間的にわかること〉について述べておこう。<瞬間的に わかる〉という事象があることは経験則上の事実であるが,それがいかなる事柄を意味するのか,
いかにく瞬間のうちに〉なされるのか,〈わかる〉ということの中にはいかなる事柄,つまりいか なる量・範囲,いかなる質・レヴェルの事柄が含まれているのかについては,〈生得的能力〉に還 元せずに十分に検討すべきことである。この問題は慎重に扱わないと,いつでも,誕生に無限に近 いところまでさかのぼって論じられる危険性を有しているからである。たとえば,〈認知〉が非常 に初期の段階からはじまることは事実であろうが,それが直ちにく理解〉やく学習〉に結びつくの かどうか,という問題がある。少くとも,両者がいかに結びつくのかという問題がある。認知がな ければく理解〉やく学習〉が成立しない。つまりそれらは,不可逆の関係にあるのである。が,ス トレートに,結びつくと言えるのかどうか。認知に要する時間と理解・学習に要する時間を同一の 論理で扱うことはできないのではないか。認知のグレードと理解・学習のグレードは相違するはず だからである。認知的なレヴェルでは認知できるということが第一義的な課題であろうが,理解の
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激買Fルではく評価的なもの〉が問題となるのではないか 。しかも,このく評価的なもの〉は,
簡単に言えば,通常は年齢のすすむにつれて,それ自体のグレードをあげてゆくのである。いって みれば,荷湊,いかなるレヴェルでわかったかは,年齢段階によって異なるのである。<瞬間的に わかる〉という事象は,相当にはやい段階においても観察できることではあるが,そのくわかった 内容〉はちがうのである。だから,なぜ,内容的なレヴェル・アップがありうるのかを,論理的に 検討しないといけないのである。言うまでもなく,この場合には,年齢がすすむこと,つまり時間 の経過との関連を中心にすえて,検討しないといけないのである。
〈瞬間的にわかる〉事象と学習は,どのような関係にあるのだろうか。この事象は学習がなされ はじめたあとは消滅するかというと,そうではない。学習がなされている過程においても,学習の 進展とともに,〈ひらめき〉〈創造的思考〉等の形をとって現象する。直観的にわかってしまうこ と,あるいは結論が論証を正確に遂行しない以前にわかってしまうようなことが生ずるのである。
つまり,両者は相互に排他的であるのではなく,平行関係,相補的関係にあると言える。このこと を体験することは,良くあることである。このような場合でのく瞬間的理解〉については,論理的 な説明が可能であろうし,いくつかの説明はなされている。例えば,N.R.ハンソンは,学習によっ て新たに獲得された事柄と既知の事柄との組み合わせが,瞬時になされることがあるとしている8)。
このように,何らかの智能的活動を開始することに関する説明と,学習の成立の後に生ずるく瞬 間的にわかる〉事象の説明を,人間に内包されているとする能力・素質によって為そうとするのは 無理があるといえるのである。まして,所与的なものとされている能力・素質については,残念な がら「その初期状態はどんなに精確でも有限の精確さでしかわからない!)のである。だから,いわ ゆる幼児期の智能的活動と学習成立後の事象とを同じ論理で扱えるとは言えないのではないか。
学習によって習得された事柄及び習得されていくメカニズムについては,客観的扱いが可能である
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ェ,出生と同時に与えられている所与的な力能に拠るとしか説明のしようのない事象については扱 い方が根本的にむずかしいし,前者と同様の扱いをしていいかどうか疑問である。言うまでもなく,
系統発生が個体発生においてくりかえされるという事態があるという意味では,つまり《生得性》
とは,《習得性》の結果だとみるのなら,同様の扱い方をしてもよかろうが,その,<くりかえさ れる事態〉そのものがどこかに存在しているわけではなく,各々の個を媒介とする事態なのである。
従って,その事態はいかなる個についても一様な事態としてあるのではない。個体発生のメカニズ ムはすべての個にとって同一ではない。個のすべてに共通するという意味では同一の扱いをすべき であるが,個々のバラッキ,固有性,相違性を無視することはできない。事態の変化そのものはす べての個に共通にみられると考えることはできるが,その程度,度合い,時間的なズレなどは共通 ではないのである。
所与の状態に規定される活動と,学習とは別の問題ではないか。前者から後者へと,連続的に展 開するとみてよいのであろうか。所与の条件から変化がいかに媒介されてくるかの検討よりも,あ る時点から自覚的・意図的に変化を実現してゆくことの検討の方が意味があるのではないか。発達・
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ュ展という概念は,そもそも単なる延長を意味するのではなく,今の否定であり,止揚であったは ずである。初期条件としての所与の状態そのものは,人間が設定しうるものではなく,それを知る ことにも限界がある。それは前提である。けれども,それに働きかけて改変することが可能なので ある。ここに時間の問題が明瞭に介在するのである。それに対して,変化の実現の過程のコントロー ルの困難さというのは,過程を知りえないことではない。そうではなくして,変化そのものは相当 の精確さで確定しうるが,その変化が個々の内部においていかなる形をとって実現されてゆくかを,
常に精確に確定しうるとは言えないという困難さがあるということである。個々の観察によってつ かまれる事実の単なる寄せ集めからだけでは,状態の変化(学習で言えば,〈わからない〉状態か 10)
轤ュわかる〉状態への変化等)を説明しえないし,その逆のことも言えるのである 。
学習と時間の関係を能力・素質という所与の初期条件の側から,そしてその初期条件に拘束され ることとして論ずることだけでは不十分であり,そのこととは別に論理的な考察をしなければなら
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ネいのである。つまり,常に初期条件に還元される形の理論となってしまっては,矛盾なのである。
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ス故なら,素質や能力という所与の状態を説明するための概念を前提として学習という事象を論ず べきであるはずなのに,最終的にその前提条件に立ち戻ってしまうのは,即ち,論ずべき事柄を前 提へと還元してしまうのは,同語反復にすぎないのである。そもそも,生存をしつづけるというこ とは時間を経過するということであり,この時間の経過そのものが所与の初期条件に何らの影響も 与えないとは言えないのである。環境からの無限の影響があることは否定できない。言い換えれば 初期条件は何らかの変容をうけるのであり,不変のものではないのである。時間の経過と共に,そ の影響がどのように累積されてゆくのかはよくわかっていない。また,それらの影響は個に対して 均等に,一様に作用しつづけるものだろうか。ある時間が経過すれば,結果として個体にはバラツ キが顕著な形で生ずるのであるが,このバラッキに関して,生まれた時からの環境の影響はいかな る関係を有するのであろうか。すべてがバラツキに関与するのだろうか。あるいはそれらの影響の うちのどれが主要な,重要なもので,どれがそうでないのかを区別しうるのであろうか。もちろん,
知的レヴェルと身体的レヴェルのいずれをも考慮に入れて検討すべきではあるが,身体的レヴェル
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の事柄についての検討は,知的レヴェルの事柄についての検討にくらべても不十分ではなかろうか。
だが,これでは環境の問題を正しく論じたことにはなるまい。つまり,身体も所与性という面を有 するのであって,その側面のみを問題にしていては不十分なのである。結果として,変化を確定す ることはできても,それらの変化に対する環境の影響のすべてを把握することは困難であろうが,
さらに,主たる因子が何であるかを確定することはより困難なことであろう。
即自的な,所与的な条件とそれに規定される活動の関係を否定,排除するのではないけれども,
そのことと学習におけるく環境〉はちがうものであると考えるべきであろう。メシチェリャコフの 言うように「子供の精神を形成することになる諸要因の総和は,きわめて大きく非常に多様であっ ll)
ト,その全体を把握することは困難iである」が故に,諸要因そのものの即自的な側面ではなく,対 自的な側面をこそ重視して,この側面を手がかりとすることが大切なのではないか。言うまでもな く,子供自身が,対自的な側面の重要さに気づかねばならないのであって,ストレートにそれを提
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示することはできないのである。「子どもに体験をさし出してやることはできず,ただ子どもたち が(自から)体験を手にいれるための可能性を提供することができるだけで,教育するものの仕事 は,これらの体験の可能性を組織し,子どもがその可能性を受けとめることができるようにし,こ 12)
黷轤フ可能性からほんとうに体験が生じてくるように配慮すること」であるといえよう。
学習の成立のための時間は,個体の興味・関心,能力・素質などによって条件づけられていると いうよりは,むしろ学習を個及び人間全体に対して要請する事柄や問題によって条件づけられてい ると考えるべきではないか。学習の成立は現象的には内発的動機によると考えられるが,その内発 性については十分な論議があるのだろうか。学習の成立と時間にかかわることのすべてを内発的原 因によって論じうるのだろうか。瞬間的に理解しうる事柄とそうでない事柄の論理的把握ある事 柄を学ぶのに要する時間的長さ(幅)の確定は内発的動機によって説明できるのだろうか。
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学習にとりかかるということは,学ぶべき対象が何であるかを確定することでもあるが,この確 定は,常に,いつでも瞬間的に行いうるとは言えないのである。能力やその他の内発的動機に拠っ のみなしうるとは言えないのである。とりかかること自体が,学ぼうと意識するかどうかというこ と自体が,学ぶべき対象との関係において成立する現象なのである。また更に,客観的にみて学習 には,〈はやい・おそい〉という時間的現象が本質的に伴うのであるが,このくはやい・おそい〉
はいかにして定まるのだろうか。能力があったり,興味や関心があればくはやい〉のであり,そう でない場合にはくおそい〉のであろうか。そうではないだろう。形式論理学的に言っても,学習の 前提条件としての可能性・内発的な力能と,〈はやい・おそい〉とは即自的に結びつけられる根拠
をもっていないのである。
学習において,すべての事柄に対して一様に関心・興味を示すことがないのはなぜか,なぜある 対象に興味を示すのか,なぜある対象を選びとるのか,そしてなぜ学習という形をとらずに瞬間的・
直観的に理解しうるというような事態がありうるのか,これらの問題は論理的な検討の対象ではな いか。学ぶことが瞬間的にわかってしまうことではなく,努力をしてつかみとることであるとする なら,つかみとるのに必要な時間を学ぶ側が任意に設定することができるとは言えない。つかみと られる対象の側が要求する時間,その中に包み込まれている時間の問題があるはずである。
〔1〕学習にとってのくはやさ〉〈おそさ〉
個体の学習においても系統発生的学習においてもくはやさ〉〈おそさ〉という問題があることは 経験的事実としては明瞭なのであるが,このようなバラツキが何故生ずるのか。この問題は,結局 は個体の素質・能力と関係があるのだろうか。何と関係するのだろうか。
〈はやく〉学ぶことは常に可能であるのだろうか。常にそうする必要があるのだろうか。またそ うすることが望ましいことであろうか。はやく学ぶことが必要な場合があることは,経験的にはよ くありうることであるが,必ず,常に,いつでも,はやく学ぶことが必要であろうか。そうではな い。経験的に言っても,はやく学ぶ必要のないことがたくさんあることを知っているし,論理的に 考えてみても,はやく学ぶべきことを要求する必然性そのものが常に存在していると考えることは できないからである。また,常にはやく学ぶべきことがあるということを予感してそれに対応して 来たという経験は個人のレヴェルでも歴史のレヴェルでもないし,そうする必然性についての論拠
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は示されてもいない。ある場合には,特に歴史的・社会的激変期においてははやさが求められるこ とはあったと言えるし,個的レヴェルでの,日常経験においてもそういうケースがあるとは言えよう が,一般にはないと言える。
逆に,それに反して,時間に無関係に学ぶということが,一般にありうるのか,ゆるされるのか
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というと,これもハッキリしない6個々のケースについては,いまでなくてもよいということはあ りうるが,一般に時間に無関係に学ぶということが可能であり,ゆるされるのか。これに対する肯 定はありえないように思うが,明確な否定がありうるかというと,そうは断定しえないのではない か。少くとも個体にとっては生存可能な時間があるのであって,その時間が制限条件になるという ことだけはハッキリしているのであるけれども……。ということは,学ぶということにとって,1ま
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やく学ぶかゆっくり学ぶかということは必ずしも基本的な事柄であるとは言えないということでは ないのだろうか。学習それ自体の論理にとって,〈はやさ〉〈おそさ〉の問題は,即自的な,そし て第一義的な問題ではないということではないだろうか。学習のなされ方がはやいかおそいかが問 題とされ,評価的判断が下されなければならないケースや必要性があるとは言えるのであるが,そ れは学習という行為それ自体に対して基本的に要請されている事態ではないのではないか。学習は なされつづけることが必要なのであり,なされつづけること・持続することが学習の最も重要なご とであり,第一義的な意味はそこにあるのではないか。(この場合の学習という概念は最も広い意 味で,存在そのものが学習であるというような意味に解しておきたい。)
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学習とは,何かを学習することであり,その何かに含まれる困難さのグレードが,それを理解す るのに必要な時間を定めるための基本的要因であるはずであり,この意味では学習に対してスピー ドが要求され,そのスピードそのものが評価されることがあるのは当然のことであろう。けれども 学習をつづけることそれ自体にとって,スピードの問題は先験的に,あるいは即自的には存在して
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いないとみてよいのではないか。学習に対して無条件にはやく学びとれという要請がありうるのだ ろうか。たとえありうるとしても,肝心の,〈はやい〉かくおそい〉かを判別する基準が学習行為 そのものに内包されているのであればともかく,そうでない限りははやいかおそいかを何らかの尺 度で測らなければならないが,学習一般に関してそのような尺度はありうるのだろうか。もし尺度 があるとしても,そのような要請に対して学習者はいかに対応しうるのであろうか。
り
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言うまでもないことであるが,ここで言うくはやさ〉というのは,発達段階論でいうところの時 間(一般には年齢段階としての時間)の問題とは区別される。発達段階論でいう時間は,いわば統 計的な時間であり,その時間が直ちに個体の発達段階という時間を示すのではないことを指摘して おきたい。発達段階論でいう時間の意味を十分に検討せずに,直ちに具体的な個体の発達・発展を 測る時間的尺度として用いる,適用するということが一般になされていると言えるのであるが,こ れは非常に問題を含むと言えよう。統計的にみるならば,たしかに発展・発達の段階があり,そし てそういう状態の変化を何らかの時間的パラメーターによって測ることができるということ,つま り,例外なくすべての子供にあてはまる段階(時間)であるとは言えなくとも,基本的にあてはま る段階があるということがあるが,すべての個体がそのような時間的経過を一様にたどるというこ とはないのである。原則的にはある時間幅の中で,状態の変化としての発達・発展をなし終えると いうことである。聞く一見る一音を出す一話す一書く,というような変化は,基本的にすべての子 供に共通する時間変化(発達)としてあるのであって,ここでの時間のズレは,ズレとして扱える のである。例外現象あるいはノーマルでない現象として排除しなくてよいのである。共通にあてはま る状態の変化の時間が直ちに個体の時間ではない,個体の側からみればある段階に到達するスピー ドは固有のものであってよいのではないか。ある段階へ到達するスピードは,すべての個に同一の,
一様なものであるのだろうか。事実においてはそうではない。にも拘らず,特にくおくれ〉を指摘 する際には,暗黙のうちにく同一のスピード〉という考え方がもち出されるのではあるまいか。少 くとも,発達段階論でいう時間が比較の基準とされてしまっているのではないだろうか。しかし,
実際に存在する時間は,発達段階論でいうところの時間ではない。後者の時間は,抽象的な概念で ある。何故,あらゆる学習にとっての一様な時間がないのか,を検討する必要性は十分に存在する はずである。
さて,〈はやい〉〈おそい〉は,生得性的なものである能力があるかないかに支配される現象な のであろうか。能力があるのかないのかの判断をどうしたらよいかについての議論には立ち入らず に考えてみよう。能力があればはやいし,なければおそいとみなしうるような事柄は現象的にはあ るだろう。その逆に,はやいのは能力があるからであり,おそいのは能力がないからであるという 説明は,説明として妥当であるかどうかは別として,〈わかりやすさ〉をもっていることは否定し えまい。普通は,このような説明に対しての,ことさらな反論はないのである。
しかし,能力の本質的属性としてくはやさ〉があるのだろうか。能力というのは,はやくわかる ことまでを含み込んでいる概念であろうか。ある状態に達したかどうか,また低い状態から高い状 態に達したかどうかを説明するのに能力概念が用いられることはあるとしても,その説明の中には スピードのことまで含まれているのだろうか。もし,能力の本質的属性としてはやさがあるのであ れば,すべての個体に固有のスピードがあることになり,それらは識別されうるはずである。能力 差(広義には個性)という概念は,定性的な事態を説明することが主たる役目ではなかったのか。
● ● o
それとも,定量的な概念であったのだろうか。事実においても,能力はスピードの差をつねに表示 しているのだろうか。現にこのことを示すような実験結果なりデータなりはあるのだろうか。いわゆ る反射と考えられる生体レヴェルでの反応時間については,固有性はあるようであるが,学習のレ ヴェルではどうであろうか。
経験則上,学習のスピードは個体において常に一定ではない。つまり,学習対象に無関係に一定
のスピードでなされることはない。この事実をどのように分析したらよいのか。はやい子供はいつ でも,何を学ぶ場合にもはやいということが,もしあるとすればそれは例外的現象といえるのでは ないか。例外的現象としてそういうことがありうるとしても,すべての場合に言えることではない し,例外的事象そのものを説明できなくてはならないのであり,そういう事例をもって来てくはや さ〉があることを証明することはできないのである。
このような例外的現象は,低年齢段階の子供にはありうるように思われるのであるが,成人に達 してからもたびたび観測しうるかというと,少くとも経験的にはないと言い切ってしまってよいの ではないか。天才は存在するが,オール・ラウンドの天才というのはありうるのか。天才というの は平均分布からのズレであろうが,このズレはあらゆる分野についてのズレなのだろうか。ちがう であろう。天才という概念は,局所概念ではないのだろうか。だが,低年齢段階ではくどんなこと でも(相対的にではあるが)はやくわかる〉ようにみえる現象がありうるのは何故か,この現象が 能力に関係するのかどうかは検討する必要があろう。やっかいなのは,事実上この現象は個体間の バラツキを示すようなものとして観察されうる,そのようにみえることがあるからである。また,
いつそのような現象が個体問のバラツキを表わすものでなくなるのか,あるいはいつごろそういう 現象が観測しにくくなるのかを検討する必要があろう。俗に言うく十で神童,十五で才子,二十す ぎればただの人〉という現象は,単に早熟,晩成という定性的説明ですましておいてよいとは言え まい。一般に,なるほどそういうことが言えるのであり,神童が一生神童でありつづけることは例 外中の例外であることを,何らかの形で説明しておかないといけないのではないか。歴史的時間の
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中でとらえてみると,神童も天才も,後から来る者にはとうてい及ばないということも言えるので ある。能力とそこに含まれるスピードとを仮定するのであれば,年を経るに従って能力やスピード が減衰することになるのだから,逆説的に言っても重要なことではあるまいか。
すべての事柄の学習に関して,はやさを含む能力はないと言ってよいのではないか。能力とはや さやおそさは,対応する概念ではないと言ってよいのではないか。はやさやおそさは,個々の事柄 に関しての現象であって,あらゆる事柄に関しての現象ではないだろう。従って,能力には一義的 には関係しないと言ってよいのではないか。むしろ,こういう現象は,何らかのハッキリした理由 があって生ずる現象ではないだろうか。何らかの客観的に検出できる困難さが存する場合について 言えることではないのか。また他方,通常の場合,すべてに関してくおそい〉現象はあるのだろう か。野性児に関する研究からしても,アブノーマルな条件のもとではたとえ個体の側に何らかの欠 陥や障害がなくても,すべてに関して遅れるということはありうるだろうが,ノーマルな条件のも とでは(個体の側に何らかの致命的な欠陥がある場合は別として),全面的におくれるということ はないのではないか。〈おくれ〉も,個々の事柄に関しての現象であると言ってよいのではないか。
〈はやさ〉もくおそさ〉も一般に能力と対応する現象ではないのであろう。両者はストレートな対 応関係にはないのであって,両者を媒介している個々の事柄によって,〈はやさ〉あるいはくおそ
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さ〉が現象してくるといえるのではあるまいか。だから,それらの現象の1つ1つを互いに比較す ることは,本来は意味がないのではないか。ましてそのような現象の1つ1つに対して直ちに何ら かの評価的判断を与えるのは全く意味がないのではないか。
能力があれば,すべての問題を,いつでも,そして誰よりもはやく学びとることができるという 可能性はないわけではない,その可能性を否定しえないからと言って,可能性があると言うことは
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できないし,たとえくある〉という仮定的な言明がありうるとしても,それだけのことにすぎまい し,事実を無視した仮定であると言えよう。逆に,どんなに能力的に劣る(つまり,〈ない〉)と してもすべての問題を,いつでも,そして誰よりもおそく学びとることしかできないということも,
やはりない,としてよいのではないか。〈はやさ〉〈おそさ〉は,能力によって定まるのではなく,
学べき対象の構造に拠るのではないだろうか。
ある事柄を学びとるのに必要な時間は即自的に定まるのではない,能力によって学びとるのに必 要な時間幅が定まるのではない。ある事柄を学びとるのに必要な時間,個における時間のバラッキ は,学習の対象の有する構造との関係において論じられねばならないだろう。学習対象の構造とは 何を指すか。そこには順序性・系統性という時間性が含まれているのである。同時に組織性・体系 性という空間性も含まれているのである。つまり,時間的な前後関係と空間的なひろがりを有して いるのである。それ故に,これらを瞬間的に把握・理解することはできないのであり,学ぶ際には 対象の空間的構造性はいったん時間的順序性に変換されなければならないのである。ひろがりをひ うがりのまま学ぶことはできないのであり,それをある順序性即ち時間的構造へと変換してゆかな ければならないのである。順序性が考えられなければ,学習が進展しない。学習が進展するという ことは,空間的順序性としての構造を追うことであると同時に,時間的順序性を順次追うというこ とでもある。かつて,」.S.ブルーナーは〈教育課程の順次性 Sequence of Curriculum>を強調し 13)
スのであるが,このシーケンスには,ひろがり(空間性)と段階性(時間性)が含まれている。
空間的構造については,既に論じたのでくりかえさない14)。ここで大切なのは,学ぶ対象には,時 間性が対象化されていることである。この順次性へのアプローチは,学習者の心理的な問題として のみ論じえない。心理的にむずかしいと思えば時間がかかり,むずかしくないと思えば時間がかか らないかと言うと,学習にとりかかるまでの段階では心理的レディネスが重要な意味をもつことは あるし,学習そのものに対して影響するとは言えようが,学習の全プロセスに対しても影響を及ぼ すだろうか。レディネスの心理的側面のみをみればそうみえるかもしれないが,レディネスとは心 理的な面しか有していないのであろうか。シーケンスそのものへのレディネスがあるはずであろう。
● ● qむずかしい〉と思う根拠そのものが心理的なものであるかどうかを考えるべきではないか。むず
● ● ●
かしさは心理的に把握しうるものなのだろうか。問題の困難さ,そのグレードと段階性(時間性)
は心理的にのみ把握しうるのかどうか。直観的に把握しうると言われることがあるが,それは決っ して心理的に把握しうることのみを示すのではない。むずかしさの根拠を精神の内面にのみ求めう るのだろうか。ちがうと言わざるをえまい。
アプローチそのものを客観的・論理的に分析しない限り,順序性・段階性(時間性)そのものの 問題が明確にはなるまい。アプローチはく問い〉を設定することによってなされるが,問いは問い の論理を,つまり空間的論理性のみならず時間的論理1生を有しているのである15)。「問いの出し方 にトリックがある」というようなことがあってはならないのである16)。
〔2〕学習対象の構造と時間
〔2〕−1.対象へのアプローチと時間
〈問い〉は体系的でなければならず,体系的であるべき問いは時間と本質的関係をもつはずであ る。ラングロアとセイニョボスが指摘している如く,問いは方向性をもたねばならないのである。
「いくつもの疑問を系統的に提示すること」が,すべての科学において必要なことである。「あ 17)
轤艪驩ネ学は整然とした,一連の疑問に対する回答によって成り立つ」のであって,「個的な動機 だけで,言葉を勝手に変えて,その表現を再現し,そこに自分の心に浮かぶあらゆる考察を付け加 18}
ヲる」のであってはならないのである。「自分の探求するものを問い直そうと」しなければならな いのである。このようにして歴史を研究してゆくことによって明瞭になることは,人間社会にみら れるあらゆる変化のうちで最も興味ある変化が,同じ方向に生じる変化であるということである。
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「歴史学は,停止状態(しばしば静態といわれる)でとらえられた同時発生的な諸事実だけを研究
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するものではない。異なる時点での社会の諸状態を研究して,その相互の差異を確かめるものであ る。人間の習慣とその具体的な生活条件は,時代とともに変化する。一定のものとして保持されて いるかにみえる習慣さえ,まったく同一のままというわけではない。したがって,この変化するも のを探求することにこそ意味がある。すなわち,それが,継続的な事実の研究といわれるものであ る。 一
こうした変化のなかで,歴史構成にとってもっとも興味あるのは,同じ方向に生じる変化である
(歴史においては,逆方向の変化,すなわち,ものごとを出発点に引き戻すような変動はない〔歴 史は可逆的ではなく,不可逆的である一引用者〕というのが,一般に承認されるところである)。
すなわち,あるしきたりや,社会状態に一連の漸進的な差異が生まれて,それが別のしきたりや社 会状態になるような変化……,ある時代の人間が,突発的な変化をひき起こすことなしに,先人と はきわめて異った習慣をなすにいたるような変化である。これが進花である出
学習においても,方向性,即ち同じ方向に生ずる変化としての時間的方向性が生ずるのである。
この方向性は,むろんある拡がりを同時に有している。ある広がり(空間性)をもちつつ,その拡 がりから方向性が生ずるのである。この方向性は,だから客観的に扱えるはずである。学習が,個 にあっても全体としての学習においても,既知の事柄をただ単に跡づけることであるのなら,方向 は不要であるかもしれないが,学習はそういうものではないのである。全体としての方向が生ずる ということはどういうことであろうか。それは,個々における方向の単なる集積として生ずるもの ではない。個に即した方向はあるし,なければならないが,それは個にとって不可欠で固有の方向 であり,それらの個に即した方向を寄せ集めれば全体としての方向が出てくるものではないし,そ れらの個的方向性のうちのいずれかを全体的方向であるとして選び出すこともできない。しかし現 実的に,具体的に存在するのは個のレヴェルでの学習である。だから個は,歴史的所与としての方 向を前提としつつ,その歴史的所与としての方向と自己に固有の方向との間に生ずる矛盾を何らか の努力をしつつ解決せねばならないのである。そのためには新たな方向性を確定することが必要と なることがあるのである。その新たな方向性を,一定の空間的拡がり(量的拡がり)を条件としつ つ定めようと努力しつづけるのは個なのである。個以外にはないのである。個の学習が前提となっ
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て,新たな方向が生ずるのであるが,それは瞬間的にはなしえない。そのためには時間がかかる。
このための時間は個が個のレヴェルで任意に定めることもできないし,あらかじめ定まってもいな いし,定めることもできないのである。このための時間の定まり方を,いかに考えるべきであろう か。問題をいつでも先送りして済んだことにしてしまうことはできないはずである。
この問題は,社会・歴史と子供との関係におきかえられて論じられることがしばしばある。J.
ミシュレをとりあげてみよう。典型的な論議の一つであると思われるからである。ミシュレに言わ せれば「社会と教育が,あっという問に子供を変えてしまった。子供の中にあって,子供を神のよ
うなものにしていた無限は消え去ろうとしている。子供が自己の特徴を示すようになり,明確な存 在となったということは本当である。だが同時に偏狭にもなったのである.1了了1.論理や批評が塊 のように見えるものの中を,無情にも刻み彫るのである。厳格な立像制作者の鉄具が,柔かすぎる 材質を削り取り,一撃ごとに面全体を打ち倒す.≦了了1.ああ!あの子は何と痩せ細り切断されてし
まったことか!生まれ持っていた気高い豊かさは,今やどこにあるのだろう?・1了了1・最悪のこと
は,こんなにも厳しい教育の影響によって,子供は単に弱々しく不毛になるだけではなく,卑俗に 20)
烽ネるだろうということである。」
なぜなら,「子供にとっては,あらゆるものが凝縮され具体的で生き生きとした状態のうちにあ る」が故に「正しい判断力をもって」発するところの「無邪気な質問があまりにしばしば,賢者た ちにどう解いて良いか分からない物事の結び目を提供」するのである。「子供たちは私たちのよう に困難なことは避けて通ろうなどと」はしないし,「賢者たちの間では,決して深く追求しないと 決められているように見える,ある種の問題を回避することを」せず,「彼らの幼いけれども大胆 21)
ネ論理は,いつでもひたすらまっすぐに行く」というのである。果してそうであろうか。即自的存 在としての子供を評価することはまちがいではないが,子供がそのまま直ちに「本能的生活から反 省の生活へと移行」するのではないのである。まさしくミシュレの言う如く「暗く豊かな(無限と いう)海から,論理がいくつかの光る筋を引き出しはじめるとき,多分生命の条件である,なくて はならない進歩があることになろう。」しかしミシュレは,その進歩が「ある意味で堕落である。
22)
q供はそのとき人間となるからである。かつては小さな神であったのに」というのである。
しかし,自己の特徴を示し明確な存在とならなくてよいのか。そうならなくてよいということと ひきかえに無限の神でありつづけてよいのか。一見,両面は矛盾の,反比例的関係にあるようにみ えるが,本来両面はそうであるのか。なぜそうみえるのかが問題ではないのか。なぜ社会と教育が 子供を変える必要があるのか。社会と教育は子供を変えてはならないのか。無限ということは未定 の状態にあるということでもあるのではないか。そのような無限定・未定のまま存在することが可 能であろうか。限定するということに矛盾が内包されるとしても,限定するということは不可欠の
ことではないのか,そうすることは不必要なのだろうか。
まさにこのことを時間の問題を根底に据えながら検討することが学習理論にとって不可避のこと ではないか。限定とは,社会と教育によって恣意的になされることなのであろうか。ちがうであろ う。存在が,いま,ここに存するという時間的・空間的な被制約性を本質的にもっている以上,ち がうのである。限定ということは存在にとっての必要条件である。その限定が十分なものであるか
どうかということは,限定することを前提としてはじめて問題とされるべきであり,限定すること の方が第一義的な重要性を有しているのである。無限定に存在することはできない。時間的・空間
的限定性を有することが存在の根本問題なのである。この限定性をいかに止揚するかが,従って問 われるべきことがらなのである。つまり,この限定性は無限定性の単なる反対概念ではないのであ る。無限定性の反対概念として限定性があるのだとしたら,それは存在性それ自体にかかわること であって,限定性そのものの不完全さや不十分さではないのではないか。ミシュレの言う教育,つ まり学習は人間が自己自身を明確にする唯一の方途である。それ以外の方法がありうるのだろうか。
未来へ投企することによって自己自身を明確にすること以外の仕方がありうるのだろうか。自己自 身を明確にすることが反面では直ちに堕落であるというのは,無限定性,即ち出発点との比較にお いてのことなのであろうが,必ずしも出発点におけるく神〉と比較しなくともよいはずであるし,
ある到達点が堕落であるかどうかは出発点に比較して決まるのか,決めてよいのだろうか。無限定 な,即自的な神からの脱却は不要なのか。人類全体の学習は原点からの絶えざる逸脱なのか。ミシュ レ自身がそうではないと言う。もっともミシュレは逸脱しないのはわずかに天才のみであるとして,
天才概念を以って説明しようとするのではあるが。ミシュレは言う。「天才はとりわけ素朴で子供 の中の子供であり,民衆以上の民衆なのだ……素朴な人は愚鈍な面を,つまり混乱した定かでない 視線を持っている。彼の視線はただよい,いくつもの道を同時に探し追いかけ,そして素朴な性格 を脱していく(逸脱し,失っていく)。天才の素朴さは,それは真実のものであって,決してこう いった曖昧な視線を持たない。彼の素朴さは,力強い光のように物事に適用される。そしてあらゆ るものを貫き通していく。」「天才は子供でさえ決して持たないような,幼なさというたまものを持 っている。このたまものとは,漠とした広大な本能のことである。だが子供にあっては反省が間も なくこの本能を明確にし,同時に狭めてしまう。その結果,子供は早い時期から質問好きとなり,
文句を言い,すべてに異義をとなえるものとなる。天才は高適さの中にまた強烈な衝動の中に,不 幸にも子供が失ってしまった神への恩寵を,つまり若くて生き生きとした希望を失わず,生まれな 23)
ェらの本能を保ち持っている。」
ミシュレは,天才は素朴さを失わないことによって天才たりうるということを強調しているのだ ろうか。そうではなく,むしろく持ちつづけること〉の重要さを強調していると言うべきではない か。とりわけ素朴さが,高適さ,強烈な衝動となって,力強い光となって物事に適用され,あらゆ るものを貫き通していくことが大切だとしている。だが,それは天才にのみ可能なのだとミシュレ は言っている。しかしそれではいかにも残念ではないか。すべての子供にとっての,その可能性が 重要なのではないか。天才が,一人一人の子供にとって代ることはできないのではないか。学習は 他が代ってなしえない。代りに問うことも答えることもできない。自己自身で学びつづけ,問いつ づけなければならない。問う,学ぶということは,限定することである。だからその連続性・体系 性が必要なのである。このことを要求するのは学習対象の構造である。それに向けられる問いは恣 意的なものではありえない。問うべき事柄を問わねばならないのである。一般にナゼと問うレヴェ ルにとどまるのではなく,固有の,限定的な問いを自己の問いとして問わねばならない。そのよう な問いの連続性が方向を媒介するのではないか。問いが成立している限定的な・固有の時間・空間 そのものを否定するには,無方向においてはなせないのである。ある方向をもたねばならない。ど の方向においてであるか,というと,過去の方向ではない。未来の方向なのであり,この未来のあ る方向が自からの判断に拠って方向づけられ,選択されねばならないのである。このために必要な 時間はいかにして定まるのか。無制約の時間が許されてはいない。他方,あらかじめ時間が定めら
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れているのでもない。学習者が学習のプロセスの中で定めねばならない。学習対象にまともにとり 組んでのみ,その対象の理解に必要とされる時間がどのぐらい必要であるか定まるのであろう。あ る事柄を学ぶのに必要な時間はその対象のもつグレードとの関係でのみ定まるのではないか。即ち,
学習者と学ばれる対象の論理構造との関係によってのみ定まるのではないか。学習者がいかほど興 味・関心,能力をもっているかによって時間が定まるのではないはずであり,これについての経験
o ■ ● ● ●
レヴェルにおいての肯定的な回答はないのではないか。そもそも,興味・関心,能力をもっていれ
■ばという仮定が無条件に成り立つのだろうか。生まれながらに,すべての事柄への関心などを持っ ているということは,事実上はありえないだろう,生得性に,それ以後に展開されたすべての事柄 を還元しては,議論の必要がなくなる。決定論として扱えば事は足りるから。すべてがくはじめに ありき〉ならば基本的に,議論は不要になるのである。
興味や関心をくもっていれば〉ではなくして,〈もつに至れば〉ということが重要なことではな いか。いかにしてそういう状態に至るのか,を十分に明らかにしないまま,〈もっていれば〉とい う仮定から常にスタートすることはできないはずである。いかにしてもたせうるかについての回答 は未だに提出されていない。だが,もつに至るまでには十分な時間が必要であることは経験的に明 瞭である。そして,比較的早くそうなれば比較的早く理解できるようになるとは言える。とは言え,
この事実も一般性はもたないし,もし論理的な一般性にまで高められうるとしてもこの関係を直ち に個々のケースに適用することはできない。つまり定式化されえないのである。だからこそ,どう してもくもつに至る〉までの時間についての検討がなされねばならないのである。
しかし,このことよりもより重要なのは,〈もつに至った〉後の,学習のスピードの問題ではな いか。もつに至るまでの問題には,どうしても生得性の問題がつきまとうが,この問題にはそのこ
とがつきまとうと考えなくてよいはずだからである。もつに至るまでと,もってしまってからのス ピードの問題を別個に検討すべきではないか。というのも,少くとも同一の事柄に関して多くの子 供たちが興味を感ずるまでのスピードを知ることが出来るのかどうか,また意味があるのかどうか 疑問である。早く興味や関心を持つべきであるという要請はありうるのか。たとえあったとしても,
早いうちに持った関心などがそのまま持続して,一生存続するというのは一般にあることではない。
早く持ったかどうかを比較して何が言えるのだろうか。そもそも,一様な関心のもち方ということ があるのだろうか。ある範囲における場合には,そういうことがありうるとしても,一般にはあり えまい。興味・関心には,空間的ズレと時間的ズレが,各々の子供の固有性として存在しているの ではないか。それ故,大切なことは,興味はいつの時点でもってもよいのであり,その後到達すべ きところまでいかに早く到達しうるか,その時間が主として何と関係するのかの検討である。この 時間は個体内の要因に関係するのだろうか。
■ ●
能力があればはやく,なければおそいのか。能力がないならばおそいということがありうるだろ うが,〈ない〉という判定はいかにして下せるのか。また,〈ある〉という判定はいかにして下せ るのか。〈ある〉かくない〉かからではなく,〈はやい〉〈おそい〉という事実を前提として,こ こから考察すべきであろう。なぜ,〈はやい〉のか,なぜくおそい〉のか。たとえ能力があるにし ても,〈おそい〉ことがありうるのはなぜか。この点については,チョムスキーが重要なことを指 摘している。チョムスキーは言う。「言語の知識は,しばしば,しかじかのことをする能力,すな わち人間のさまざまな行動様式の中に現われる実践能力として記述されている。」しかし,ある一
つの言語についての知識がどういうもので構成されているのか(つまり,わかっている状態がどの ような構造を有しているのか)ということと,そのような知識は実際にはどのように用いられるの かということは「明確に区別して考える」べきである。「〈知識〉という言葉が,普通に使われ,
理解される場合,二人の人間は,言語の全く同じ知識(および,その他の多くのもの)を共有して いる(と仮定されている)と言える」が,「それでは(知識を持っているという)達成された状態 とはいったいどういう性質のものであろうか。」この「達成された言語の知識の状態は,言語によ る表現の無限の集合の特性を規定する規則の体系,すなわち一般にく生成文法〉と呼ばれているも のとして正しく特徴づけられる,と考える十分な根拠がある」とチョムスキーは強調する。しかし
「そのような言語の知識を,話したり理解したり,あるいはその他の行動を示す場合に使う能力に おいては,二人の人間は著しく異なる34)というのである。
言語を使用するということは知っていることとは別の問題であり,使用能力と知っている状態と は区別して論ずべきであるというのである。知っているとしても,様々のバラツキが使用において は生ずる。〈はやい〉〈おそい〉のバラツキも,このような問題として扱うべきであろう。<知っ ている〉にも拘らずおそいという現象は,エラーやミスではあるまい。知っていることは,できる ことにとって不可欠の,必要な条件であるとしても,十分条件ではない。知識を使用するという新 たなレヴェルに含まれる問題としてくスピード〉の問題を考えるべきである。即ち,既に得ている 知識に拠って新しい知識を理解するための知識の使用と,新たに理解したことを含む知識を客観的 な対象に対して,より広く,社会的・歴史的に実践的に使用してゆくということとは別の問題なの である。この両面を峻別することはむずかしく,通常は同時進行的で,混在した形の現象としてあ らわれるのではあろうけれども。
〔2〕−2.対象の構造の理解と時間
学習が,外部からの強い撹乱要因がない場合は,既に得たものを条件として,それを対象に対し て使用することによって質的にも量的にもレヴェルを拡充させてゆく行為であるならば,それがい かにして,いかなるはやさでなされるか,が問題である。
対象のグレードが低い場合は,瞬間的に理解できるとしてしまうとしても,努力を伴う場合はど う考えたらよいか。これは,結果的にどれだけの時間を要したかという事実から,アド・ホックな 扱い方をすべきではないし,それではトートロジーにすぎない。予測性とその実現に実質的に要し た時間に関連して論じられるべきである。対象のグレードの高さについては,それがすべてに共通
、 、
キる一般的なものなのか,ある個にとってのものであるのかを区別する必要があろっ。常に,いつ
● ● ● ●
でもグレードの困難さが同質的なものとしてあらゆる場合に現象するとは考えられない。とは言え,
それは全く個的レヴェルでのことにすぎないとも言えない。共通の困難さとして現象する問題もあ る。ある個に固有の困難さである場合には,それの学習にいかほど時間をかけようが,それは個の 問題である。その場合には,かけるべき時間に関する基準はない。しかし,共通する場合,従って 客観的な解決を要する場合はそうは言えない。たとえ年齢的には幼い場合でも共通に学ばねばなら ないことがらがある場合には時間の問題が共通の,基本的な問題となる。この意味でのグレードが あがれば学習のスピードが,一般に一様にダウンするのか,逆にグレードがさがればスピードは一
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様にアップするのだろうか。それとも学習の過程は規則的に一定のスピードですすむのだろうか。
あるいは,スピードは前後にくゆきつもどりつ〉のような進み方をするのだろうか。また,あるレ ヴェルまでははやいがそれ以降は鈍ったり,逆にあるレヴェルまでは鈍いがそれ以降は加速される ● ●
ニいうことのくりかえしがあるのだろうか,ないのだろうか。このことは,時間の側から言えば,
ある時々の事柄を学ぶ時間と,充分に長い時期にわたって問題となる事柄を全体として学ぶ時間と の関係であるといえる。個々の問題については時間がかかったようにみえても全体にわたる問題に ついてはそれほどの相違がないということ,その反対に,個々の問題については時間がかからない ようにみえても,全体にわたる問題については,ちゃんと時間がかかっているというようなことが あるのではないか。学習とは,その時々の事柄の学習のみを指すのではない。その時々の事柄と,
そうでなく全体にわたる事柄との学習の問題が,時間の問題に変換されて現象してくるのだとも言 えるのである。いわば,共通の困難さを有する事柄全体を学習する過程にかかわる,トータルとし ての必要時間とでも言うべき時間が,どのようにして定まるのかを考える必要がある。この必要時 間は個のレヴェルにおいて定めることはできないのであり,逆に個にとってはく課題時間〉となる のである。
具体的には,授業における単元全体にとって必要な時間と,ある部分にとって必要な時間との関 係とみてもよかろう。単元全体にかかわる必要時間があるとして,その時間は,部分時間の算術総 和として定まるのだろうか。あらかじめ定めることができるのだろうか。いずれでもないのではな いか。というのも,単元全体の学習における時間経過は常に一様なものではないからである。学習 過程の途中でのスピード・アップがある。経験的には,〈わかった〉という瞬間が来ると,それ以 降はそれまでのスピードとは異なるスピードが観察できるのである。加速される現象が生ずる。そ こに至るまでの進行が,一挙に加速され短い間に,わかる範囲も格段に拡がるという現象がある。
この加速現象は客観的に分析されうるはずである。何かを学びつつ,そして教師が介在しつつ進め られる学習過程においての現象だからである。この現象は,個体に即した現象であるとしか言えな いだろうか。クラス全体に関しても言えないだろうか。経験的にはこのことが次のように定性的に とらえられている。〈自覚すれば独力でやってゆける〉,<何が問題であるかハッキリすれば,解 けたも同然〉というように。自覚したり明瞭になったりするまでとそれ以後の進展には相違がある ことについての定性的表現また心理的動因にかかわる記述はあるのである。だから,更に論理的 にとらえる必要があるのである。
その手がかりはある。まず,〈教材〉のグレードの問題がある。このグレードを追いつつ学びと るための必要時間はいかに設定されるのか。上の例で言えば,単元を何時間で学び・教えるかとい ● ● ●
、時間の設定がいかなる論理に支えられるのか。いわゆる発達段階に応じて,単に配列するだけの ことで時間が定まるのではあるまい。教材の有する順序性(時間的構造)を無視することはできな い。その時間的構造が学習の時間配分にどう変換されるのか。教材の構造・段階性が時間の問題に どのように投影されるのか。具体的な学習の目標としては,ある量をある時限に配するべきであろ うが,この配列は変更できない枠ではない。変更しなければならない。だが,この変更は恣意的な しかたをゆるすものではないし,本来的にはそのような恣意性は排除されているはずである。学ぶ 側はそういう恣意性を直観的に感じとるし,そもそも学習そのものが成立しなくなってしまうから である。この配列の設定そして変更は合理的になされなければならない。その合理性を支える論拠