茨城大学教育学部紀要(教育科学)34号(1985)245−262 245
実践的推論の構造一時間との関連において一
佐 藤 晋 一*
(1984年9月29日受理)
On The Structure ofPractical In1陀rence 一Especially Concern with T㎞e一
Shin−ichi SATO*
(Received September 29,1984)
〈 は じ め に 〉
思考がどのようなフォルムにおいてたどられ,どのような規則や条件に従ってなされるのか,を 論理学が課題として久しい。論理学においてこの課題は,蓋然的推理論(Probable inference)と演 繹的推理論(Deductive inference)の二方向から追究されてきた。けれども「蓋然的推理論は,内容 的に困難な点があり,演繹的推理論よりも発展がおくれ,確率論の利用によって,ようやく記号化 が始まったのであるが,いまだに多くの未解決の問題を残しているようである。」1)思考は思考とし て完了するのではなく,実践そのものとの関連,従って実践そのものに内包されている困難さとの 関連を無視しえないからである。本稿では,この蓋然的推理論に内包されている困難な,未解決の 問題である実践的推理論(Practical inference)の「特殊な論理的性格」2≧特にそのうちの時間論的 性格について,次のような順序で検討したい。
まず,実践的推論に含まれる時間的問題に注目して,推論そのものと時間とを関連させて論じて いる,G.H.フォンウリクトの所説をとりあげる。次に,実践的推論が実践そのものとどのような 関連をもつのかを,とりわけ時間・歴史との関連で問題にした中井正一の所説,主として「委員会 の論理」における所説をとりあげる。
一.@ 実 践 的 推 論
実践的推論とは,前提を根拠にして結論を引き出すプロセスに関する論理についての理論である。
それは,前提から引き出される結論が断定的ではない場合を扱うのである。推論のプロセスと結論 自体に蓋然性が含まれるので,「前提を認めれば,必ず断定的な結論が出てくる推論」3)ではない。
* 茨城大学教育学部教育学研究室
結論を求めるために「観察や実験,また問題が実践的なものであれば物質の加工や移動などの過程 も伴う」4)探究のプロセスに注意を集中した時,そこにどのような困難があるのか,<いかに推理 するかという形式〉の問題の内側にいかなる困難があるのか,が検討されねばならない。
言うまでもなく「推論の結果に従ってなされる実践活動」は,推論そのものの検討とは一応切り
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離されるのではあるが,実践活動の成果が「推論の結果が実際に有効であったかどうかという判断 にかかわる限りで注目される(傍点引用者)。」5)むしろ現実的には命題の判定の妥当性もさること ながら「推理の妥当性の判定が重要である。」6)というのは推論が妥当であるならば,それに基づく 実践活動の実践的有効性が保証されるであろうと考えられるからである。この見通し・志向性なし に推論の妥当性が存在するとは考えられない。推論の結論に従ってなされる実践活動の妥当性を規 定する諸条件と,推論それ自体の妥当性を規定する条件とは深い関連を有しているのである。故に,
推論の妥当性は,推論の結論に基づく実践活動が実際に妥当であったのかどうかの判定と内的な関 連性を有しているのである。
一般にあらゆる活動は遂行されなければ,活動ではない。しかも,個々の活動が個体の意識にお いてはアト・ランダムになされると感じられるとしても,ある活動とその次の活動とが常に無関係 であることはありえない。思惟や実践は無媒介には生じえないからである。「思考とは,けっきょ
くのところ〈 ヨ係させる活動〉」7)である。言いかえれば「一切の認識作用は判断することである。」8)
時間的・空間的に,通時的・共時的に関係させる活動,判断する活動として実践的推論がある。だ
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から,実践的推論が,実践的有効性をもつということは実践的推論がもつ論理上の有効性とは区別 される。実践的推論は,行為の目的,目的への手段としての行為,目的に結びつけられる行為への
「同意が前提に合致する行為を伴立する。」9)つまり前提の肯定が必然的に結論の肯定に至るために は,行為がなければならない。この伴立する行為には行為としての妥当性が求められねばならない。
ある行為が意図されたのであるから,その意図された行為が実現されねばならない。
では,実現された行為の妥当性は,いかにして判断されるのであろうか。実践的推論は,いわば 実践的判断を含んでいると言えよう。実践的判断を介してこそ実践が在りうるのである。とすると 実践そのものの構造のうちに,実践的推論の妥当性を検証する要因が求められなくてはならない。
実践的推論の妥当性の検討は,究極的には実践の構造の検討を離れては不毛であると言える。
二. 実 践 的 推 論 と 時 間
1.問われるべきことは,実践的推論や判断の妥当性を実践の構造そのものと,とりわけ時間の 要因とどのように関連づけてとらえるか,であろう。
「実践的推論の妥当性は論理的なのか,それとも因果的なのか」10λ「実践的推論における前提と
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結論との結びつきは,経験的(ないし因果的)であるのか,それとも概念的(ないし論理的)であ るのか」11)という設問には,時間の問題への意識が欠けていて問いとしては不十分である,とウリ クトは指摘している。従来の実践的推論の図式,
・Aは,いまPを生ぜしめようと,意図する。
・Aは,いまaを為さなければ,Pを生ぜしめることができないと考える。
佐藤:実践推論の構造 247
・それゆえ,Aはaにとりかかる。
においは「時間になんら注意が払われていなかった。」つまり「rいま』という時点を暗に前提 して」12)構成されているにすぎないのである。この指摘は非常に重要である.実践の時間構造への,
本質的な意味での言及であるからである。そこで,ウリクト自身が,時間の問題をどのように実践
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的推論の中へ位置づけようとするのか,くわしくたどってゆこう。前以って指摘しておけば,彼に おいては実践的推論が実践者の意図を中心に展開されていて,この意図と時間とが関連させられて 論じられている。
さて,上の図式はくいま〉を前提に成立しているが,「意図対象はしばしば未来に存在する」13)
のみならず,〈いま〉為そうとすると言っても,大体はその為そうとするくいま〉は,意図してい
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る時点の〈直後〉を意味する(むろん「目的を達成するために,いま何かを為さねばならないとい う場合もある。」14))。故に「(常に)いますぐ行為を遂行することになるとはかぎらないのである。」19
とすると,実践の開始までの時間が考慮されなければならない。上の図式は修正されざるをえない。
・Aは,Pを時刻tに生ぜしめようと, (いま)意図する。
・Aは,時刻t までにaを為さなければ,Pを時刻tに生ぜしめることができないと, (いま)
考える。
・それゆえ,Aは,時刻t までにaにとりかかる。
● ●
けれどもこの「推論図式は明らかに(論理的にも因果的にも)拘束力をもちえない。」なぜなら
「いまから時刻tないしtまでの間にどんな出来事が起こるかもしれないから。」16)このような不測
■ ● ●
の事態を未然に避けるには,意図の実現にとりかかるまでの時間の持続性を考慮せねばならない。
ウリクトは実践者の意図が時間の経過によって変わりうると考えるのである。今度はだから,実践 ● ● ■ メの意図の連続性(時間的持続性)をくみ入れねばならない。意図が実現されるまでの未来の時間 を意図にひきつけて拘束しておかねばならないのである。
・Aは,Pを時刻tに生ぜしめようと,いまから意図する。
・Aは,時刻t までにaを為さなければ,Pを時刻tに生ぜしめることができないと,いまから 考える。
・それゆえ,Aは,時刻t までにaにとりかかる。
● ■
この図式に関して,ウリクトはきわめて重要な点を指摘している。彼自身は意図に限定して論ず るとしているが,その意図を「いまから,また当分の間,必要な行為に関してみずから形成した意 図や見解を保持し続けるということ」17)は,〈とりかかる〉こととはちがうというのである。〈と りかかる〉というのは「行為がすでに開始されているということを,意味」18)する。つまり,時刻 tに実現されるべき事柄に時刻t にとりかかるというのは,「時間を客観的に」19)とらえることであ る。意図のレヴェルからの飛躍がある。即ち,時刻t であるか否かを判断し,任意のくいま〉を,
時刻t であると定めなければならない。意図された時刻tやt からく決断された〉時刻tやt への とびうつりが必要なのである。そうでなければくとりかかる〉ことは不可能である。こうしてく意 図された時間〉と〈とりかかる時間〉が連結される。〈とりかかる〉時間を決定する事は,実践者
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の意図に即したこととして論じうるとしても,その〈とりかかる〉時間そのものは実践者が主観的 レヴェルで任意に設定することできない。「Aは,現に時刻t だというときに,そのことがわから ないかもしれない。あるいは,現実には時刻t ではないのに,そうだと思うかもしれない。」20)確
かにそういうことはありうるが,問題はく時刻t 〉であると思うか否かではなくして,実践者が
〈時刻t 〉であるか否かを,いかにして判断するのか,である。この判断が成立するためには,時 間を客観的に把握する必要があるはずである。ところが,ウリクトは,上の文に続けて「したがっ
● ■
て,主張できることといえば,せいぜいrAは,時刻t になったと思う(それが正しいか否かは別 として)ときまでに,aにとりかかる』ということにすぎない」21)と言う。時刻t であると思うこ とと,時刻t であると判断し決定してとりかかることとは,単なる連続においてとらえられる事柄 ではない。両者の間は非連続である。それが正しいか否か,のレヴェルからくこれが正しいと判断し てとりかかる〉レヴェルへのとびうつりである。とりかかってはじめて実践活動が生じ,意図が最 終的に具体化されたか否かが判別できる。とりかかることがなければ事態は変化しないが,とりか かるためにはく思うか思わないか〉ではなくしてく決断〉をせねばならない。いわば時間の中へ自 己自身を投企せねばならないのである。その瞬間に投企する以前のレヴェルと切りはなされる。
〈意図〉のレヴェルからくとりかかった〉レヴェルへ移行する。両者は不可逆の関係に立つのであ
る。
ウリクトは〈Aは,時刻t になったと思うときまでに,aにとりかかる〉と修正するのみである。
依然として,〈aにとりかかる時間〉そのものは問題とされない。それどころか,思うか思わない かを心理的な事柄とみなし,「Aが時刻t だと思う瞬間は,けっしてやって来ないかもしれない。
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Aが時間を忘れてしまうこともあるからである。そのとき彼は,aを為す(aにとりかかる)こと も忘れている」22)と言う。実現さるべき対象が未来に属するということは,それが実現されるのも 末来においてであるということであった。このこと自体は,意図に関連する問題ではなく,de fact の問題であったはずである。だから時間を忘れてしまうといっても,意図された対象そのものが消 失してしまうことではないはずである。決して実践者の忘却という心理的事実に解消されてしまわ ないものである。そもそも意図すること自体が,実践的推論の出発点に据えられていたので,意図 そのものは実践的未来(時間)とde fact的に本質的関連を有しているのである。ウリクトはそこ
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で「だからといって意図を放棄してしまったということにはならないし,いわんやr彼は,自分の
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意図を忘れてしまったのである』と言ってよいことにはならない(意図を忘れたのかどうかは相互 主観的に実証可能ではないと彼は考えるからである)。つまり,ある時点から意図をもちつづけると いうことは,必ずしも,rいつもその意図を考えている』ということにはならない」23)と,意図だ けは,de fact的に残ることを認める。「意図を忘れるということと,意図したことを為す・とりか かるのを忘れるということの区別」24)が大切だという。が,これはトートロジーである。意図を忘 れる,あるいはいつもその意図を考えているかどうかということと,意図された事柄が為されねば ならないということとは,別の事柄だからである。むしろ,この両者は区別される事柄である,と いうことが実践的推論の前提なのである。かくして,ウリクトは,〈Aは,時刻t になったと思う ときまでに,aにとりかかる〉を,<Aが,時刻t を忘れないならば, Aは,時刻t になったと思 うときまでに,aにとりかかる〉と修正する。
では,時間を忘れないという条件が満たされれば実践的推論は十分なのであろうか。そうではな
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い。そうだとしても「行為者が,意図の実行を阻止されることがあるからである。そうした阻止要 因を,ここでは(「外部」の)世界における出来事としておく,。つまり,外界の出来事が生じたた めに,行為者は,必要な時刻に必要な行動をとることが,(「物理的」に)不可能になるわけである。
佐藤:実践推論の構造 249
行為者が,こうした外的要因によって,行動を阻止されているかどうかということは,実証可能で ある。」24)実践者の意図が,外的世界といかにして結びつくのかについては言及がない。突如とし て外的世界が阻止要因となるのだろうか。内的世界と外的世界は,少くとも時間に関してどういう 関連にあるのかについても言及がない。外的阻止要因が外的世界にあるから,行為者は必要な時刻 に必要な行動をとりえなくなるということが,直ちに,実践が物理的に不可能になったことを指す のではあるまい。外的世界の阻止要因は,物理的阻止要因のみではないはずであるし,むしろ外的 世界自体が時間と共に在ることをこそ問題とすべきである。外的阻止要因をすべて,あらかじめ,
ある時刻までに予測しうるとは言えないのは,いかなる理由によるのかを問題とすべきである。す べての出来事は時間という条件と,どのような関連を有するのか,である。更にそのすべてをあら かじめ予測しうるとは言えない外的要因に対して,実践者はどのように対応してゆけばよいのか,
をも問題とすべきである。
ウリクトは,問題性を感じているため,このことに関して,こう言及する。「外的阻止要因が介 入しうるのは,意図や認識態度がr形成』された時点から,必要と考えられた行為が実行されるま での間か,それとも,行為がまさに為されようとするその瞬間か,そのいずれかにおいて」25)であ
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る,たいていは前の場合である,というのである。彼は,意図や認識態度の形成の後に阻止要因が 介入していると言うが,意図が形成されるときに未来が志向されているはずである。他方,意図さ
● ■
れた後に阻止要因が介入することを規定する条件の中には,時間的・空間的条件があるのである。
では,志向された〈未来〉(時間)と,阻止要因の介入を規定し媒介する時間との関係をどうとら えなければならないのか。意図を形成する際の時間と介入を媒介する時間とは無関係ではない。阻 止要因の介入は全くの偶然であるはずはない。そのことは,意図の形成自体が偶然ではないこと,
そして意図の形成の後に阻止要因が介入することが証明している。介入は意図に対する介入である。
意図された時間への介入なのである。この介入を規定している条件は空間的条件ではなく時間的条 件である。それはan sichな時間ではなく,また意図の形成の時点において想定された時間ではな
く,〈とりかかった〉瞬間から実践そのものを規定するために投企された,甜rsichな時間である。
想定された未来(時間)は,このf旋sichな時間との矛盾において修正されねばならない。
が,ウリクトはここでもまた行為者の〈計画の変更〉へと論点をうつしてしまう。「阻止要因の ために,計画の変更を余儀なくされる。また,当初の意図が実行できないとわかれば,(阻止要因 がそれほど強力なものであると認識されるのはいかにしてか。また,認識されるとするなら,意図 の形成自体に論理的欠陥があるとされねばなるまい。それ程の阻止要因を予測しえなかった理由が
● ○ ●
あるはずである。更に,実行できないことわかるのは,いつ,どのようにしてか。実行できないか 否かが実行以前に判断できるのか。そもそもあらゆる意図が必ず常に実行できるのか。そうである ならともかく,必ず常に実行できるとは限らないとするなら,この仮定的言明には何の意味もない だろう。問題は,何故必ず常に実行できるとは限らないのかを解明することである。)おそらく行為 者はそれを断念するだろう。あるいは自己の減少した能力に見合ったものに,意図を修正するだろ う。またことによっては,状況の要求するものを考え直した上で(その要求は意図の後にはじめて 生ずるのであり,意図以前には生じえないことを注意しておきたい),aを為すことは,結局必要で はない一阻止されていないbを為すことができるからである一という結論に達するかもしれな い。」26)このような計画の断念や変更があると「最初の実践的推論は,r分解』してしまう」のであ
り,「とあ推論の拘束力は重大な問題ではなくなってしまうことになる。」27)そればかりか「行為者 がまさにaにとりかかろうとするその瞬間に阻止要因が介入してくる場合には,意図を変更したり,
状況の要求するものを考え直したりする時間の余裕はない。」28)では,どうするのカ㌔〈考え直したり する時間〉とは,実践者に意識された時間のことでしかなくなっているので,ウリクトは「たしか にここではr分解』はしないけれども,そうした不測の事態をも考慮したかたちに改められねばな
らない」29)とするのである。どう改めるのか。rr阻止されなければ』という文章を付加すればよい。〕30)
かくして,推論図式のく最終的な定式〉は次のようになるのである。
・Aは,Pを時刻tに生ぜしめようと,いまから意図する。
・Aは,時刻t までにaを為さなければ,Pを時刻tに生ぜしめることができないといまから考
える。
・それゆえ,Aは時刻t になったと思うときまでに,もしその時刻を忘れず,あるいは阻止され なければ,aにとりかかる。
忘れずにいたりすることは,実践者の意識の問題として論ずることが可能であるとしても,ある 要因が阻止的な要因であるかどうかは,決して実践者がそう思うか思わないかによって決定される ことではない。意図の形成の後に,意図の実現にとりかかろうとするまでの間に,阻止要因が介入 してくるだろうが,この介入は全くの偶然に,無媒介になされるのではないのだから,それに対し て実践者,また意図そのものが全くの受動的存在であることは,そもそも矛盾である。あらゆる未 来を事前にすべて予測し尽せるのならばともかく,事実においても論理的にもそうはできないので あるから,〈阻止されなければ〉という言明は,何も意味しない言明である。
2.ウリクトは,実践的推論における前提と結論の結びつきを問題とした。ところで「ここでの前 提や結論それ自体は,偶然的な命題である。つまり論理的にではなく経験的に,真ないし偽である。
従って,前提や結論それ自体は経験的観察やテストに基づいて実証ないし反証すること一少くと も確証ないし反確証すること が可能でなければならない。」それ故に「実践的推論の妥当性とい う問題」31)は,その可能性と密接に関連させて論じられねばならない。実践的推論の妥当性は実践 を媒介した実証ないし反証でなければならない。「何かが現実になされた」というのは「行為の成
フ後においてである。また,為された事柄は意図された事柄の実現であるはずである。意図された 事柄が意図された時間に実現されるためには,〈実現にとりかかってから〉のちに生ずる問題,即
ち,f廿r sichな時間との矛盾を解決しなければならない。何故なら,とりかかってからのちの時間 を常にいつでもあらかじめ想定しうるとは限らない。ある実践の後にしか次の実践は成立しない。
ある実践に要する時間が経過した後にしか次の実践に要する時間はやって来ないのである。日常的 にく流れている,an sichな時間〉を止揚するものとしての実践の時間が決まってくるのである。
〈世界における出来事〉である実践は,意図されたものでありその実践に要する時間は第一義的に は,要請された時間なのである。だから,実践的推論の妥当性は実践そのものの時間的・空間的構 造に即して検討さるべきである。
ところがウリクトにおける〈経験的観察やテスト〉による実証・反証とは次の如くである。何か かが現実になされて実現したことの立証は「比較的容易であろう。」33)が,この立証はくAがaを 為した〉ことの十分な実証ではない。十分な立証のためには「そこで生じたこと(a)が,Aにとって
佐藤:実践推論の構造 251
意図的であったということ,つまりたんに偶発的に何かのまちがいで,あるいは意に反してAがa を生ぜしめたのではない」34)ことを明らかにする必要がある。Aのく立証可能な行動〉が意図的で あることを明らかにせねばならないというのである。実践・経験は意図が形成された時点から,行動 が実際になされて,その成果が実現される時点に及ぶ客観的な問題であったはずである。行為こそ が最大の焦点とされていたはずであるにも拘らず,である。彼にあっては,実践における時間の問 題は行為そのものとの関連における問題ではないのである。そもそも彼によれば,意図をもちつづ けるということは,必ずしもいつもそのことを考えていることではなかったのであった(しかし,
それだからこそ逆に,意図が持続しているかどうかの実証は,実践の経過即ち時間の経過との関連 の中においてこそなされなければならないはずである)。彼は言う。「rAは, aを(意図的に)為
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した』ということが実証できれば,ふつうrAは, aにとりかかった』ということを実証する必要 はない。前者は後者を論理的に伴立する,といえるからである。」35)(ウリクトにおいては,論理的 に伴立されるはずの〈とりかかる行為〉が,生じなかったり失敗したりする(このことはde fact の問題として立証できるのであった)のは何故か,という問題は視野の外に置かれている。が,こ の問題の解明こそが重要なのではないか。論理的伴立を防げる要因は,全く外的・偶然的なのだろ うか。意図が形成される時点ではなくして,〈とりかかる〉時点で出現することを偶然とのみ,み なしうるだろうか。むしろ,偶然に,何かのまちがいで,意に反してさえある成果が生じうるので あるから,そういった意図に反した成果が何故生ずるのかということと,その意図に反した成果は 論理的推論の妥当性を証拠だてることはあり得ないということとの論証こそが大事なのである。こ の論証には,言うまでもないことであるが,ある成果がく論理的に伴立〉したものであるか否かの 判断論が内包されるはずである。)
そこでウリクトは,もしも実際に「A(の行動)は,目標の達成にいたらなかった」としても,
「その達成をr目ざして』いたということが明らかに」36)されればよいとするのである。論理的要 請が実践者において消失していなければ良いというのである。rAの行動がaを成就するしないとは 独立」37)の事象だからであるという。〈目ざしている〉ことと〈成就〉とは,いかなる意味で独立 事象であるのかについての説明はない。〈目ざして〉いるか否かは「ある意図および目的に対する 手段についての認識的態度が行為者のうちに現前しているということを立証する」38)ことによって 明らかとなる。彼にとっては,行為者と行為の区別がない。行為者は行為における時間とつねに独 立の時間を有する。両者は独立事象なのである。だから実践的推論における時間的要因は,実践者 の認識的態度にのみかかわる事柄にすぎない。しかし,手段についての認識的態度が行為者の内に 現前していることが,直ちに行為を出来させることにはならない。故に実践的推論の妥当性を証明 することにもならない。〈態度の現前〉と〈行為〉との間には〈非合理の穴〉(中井正一)が常に 存在する。本質的な意味で存在そのものがく被投企的〉なのであるから。
ウリクトは,手段についての認識的態度が行為者に現前するならば,行為は論理的に伴立される こと,従って必ずくとりかかる〉はずであるという〈立証〉を,次の論理操作で行う。「行為者が
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(行為)を阻止される」ということは,「行為者が一般に有している能力を,r物理的』に阻止さ れる」39)ことである。従って「r心理的』な阻止は,たとえそれが強力な物理的暴力の脅迫という 姿をとっていても考慮しない。(何故なら)心理的な阻止のために行為をしないことは,行為者の 意歯歯な不作為」40)にあたるからである。〈一般に能力を有している〉のだから,〈心理的な問題〉
は結局〈意図的不作為〉の範疇で論じうるというのである。故に,考えられる阻止要因は〈物理的〉
なものだけであるとされるのである。ウリクトにあっては,行為そのものに対する阻止要因が,行 為者に対するそれと混同されている,少くとも等置されてしまっていると言える。だから,彼は行 為者それ自身のうちに発生する阻止要因については,すべて心理的な事柄として扱ってしまい,行 為者それ自身のうちに生ずる論理的な側面の問題は扱わないのである。行為者に対する外的な阻止 要因のみが論じられる。それは行為にも共通する要因と考えられるからである。しかし,行為その ものに内包されている困難さが,心理的な困難さとして実践者の内側に反映することを否定しきれ ないので,この点については「たしかに物理的阻止と心理的阻止との境界は,つねに明確であると は限らないだろう。たとえば,危険や脅威に直面したさい人々は,一種の反射的あるいはパニック 的な反応をすることがあるが,こうした反応が意図的であるか否かは,はっきりしない」41)と,述 べている。しかしながら,危険や脅威一般に対する反応が問題なのではなく,実践的推論過程・実 践過程に必然的に伴なう困難が,実践及び実践者に対する阻止要因として作用しないのかどうか,
が問題であるはずだ。ところが,ウリクトはこの点についてどう説明するか。「たしかに,ある人 がある意図や認識的態度をもったからといって,その人が直ちに行為にとりかかるとは限らない。
しかし,意図や認識的態度が(共同して)形成されると,それらはその時から実行までの間,行為 者のさまざまな行動に対してr否定的』に影響を及ぼすだろう。つまり行為者は,その間自己の意 図の成就を不可能にすると思われる(知っている,信じている)ようなことを意図的には為したり 企てたりはし癒じ・。」42)意図や認識的態度は行為そのものに対してではなく,行為者に対してのみ 作用を及ぼす,というのである。意図を成就させないように働く外的要因を,あらかじめことこと く避けうるような〈能力〉を有するものとして,〈意図〉〈認識的態度〉が考えられている。その ような意図や態度がいかにして形成されるのか,ウリクトは論じていないが,形成された瞬間から 実践に先立って,実践を不可能ならしめると実践者が考える諸要因をあらかじめ避けることができ るというのである。未来の時間において生ずるそれらの物理的要因をさけることができる,少くと もそういう要因があれば,敢えて為したりはしないというのである。すべてがく能力〉に還元され てしまうのである。
パースは指摘している。「私たちの推理能力は,生まれながらにそなわったものではない。それ は収得するために手間のかかるむずかしい技術なのである。もしかするとあらゆる能力のうちでも っとも収得のおくれる能力かもしれない。」43)すべてを〈推理能力〉に還元することは不可能なの である。実践は,ある時間的。空間的条件の中でなされねばならない。その条件は人間が任意に設 定・選択しうるものではない。論理的には伴立するとしても,実践そのものは実践を可能ならしめ,
また実践に要するリアルな時間・空間を媒介してでなければありえないのである。
三. 中井正一における〈実践的推論と時間〉論
1.中井は「委員会の論理」(r世界文化』1936年1〜3号)において集団主体の実践的思惟・判 断論を論じている。彼にとって実践判断はFormの問題ではない。空間的な整合性にのみ基づく判 断が検討されたのではなかった。個から集団主体へという量的,空間的拡延にのみ注目していたの
佐藤:実践推論の構造 253
ではなかった。彼にあっては,個の判断(実践的推論)と集団のそれ(集団主体の判断)との本質 的矛盾は,空間においてではなく,歴史において生ずるものであると考えられていたのである。こ れらの点を解明することによって,実践的推論にかかわる根本的困難さ,解明さるべき問題点が
〈時間〉の問題にあることを示唆できればと考える。
2. 「委員会の論理」におけるく実践判断論〉について考えてみよう。中井によれば,論理は一 般に次の図のように展開してきた。
「いわれる論理」一古代文化一[氏族制度奴隷制度〉難灘1…識
「書かれる論理」一中世文化一[繍屡〉(翻難.…雛
「印刷される論理」一近代文化
鍵制度〉経験の論理__._..
翌ォ黙鎧〉技術
実践濡欝生産の論理……生産
ギリシャ的段階では「rいう言葉』の合理,人々をして説服せしめるための合理性が多分にその 形態に浸み込んでいた。」44)〈いわれる論理〉は〈聞かれる論理〉であるが,聞く大衆ではなくし て言葉を発する側にプライオリティがある。〈いわれる言葉〉の合理性は,既に判断を経たそれで ある。合理性を内包しない言葉は言葉ではない。ギリシャではく判断〉は,語られる言葉に内在す
● ● ■
るので,大衆はそれを正しく聞けば良い。これが説服・弁証の論理の意味である。それは〈論争〉
というFormをもっ。論争とは〈言われ一聞かれる〉論理の形式である。「アリストテレスは,修辞 学をもって一つの主題の証明にあたうて,それを了解せしめたるために有効なる手段をあらゆる場 合において明瞭にする学問であると考える。」45)この論理を媒介する契機がトポス(τoπOC)である。
いわれた論理の「媒介契機の役割を演ずる」46)トポスは,しかし,語る一聞かれるの「媒介的対立 ではなくして,媒体的な移動可能性の同質性」47)である。そしてそこには,同質性を同質性たらし めている隠れたく創造の秩序〉があり,人々はそれを瞑想的思惟によって読みとらねばならない。
幸いこの秩序は神の言葉として書きあらわされている。かくして,「言うことがその言葉を多くの 人々がさまざまに解釈すること,それに対して対立的な論争が可能」48)となるギリシャ段階から,
更に進んで書かれた言葉を正しく読みとることが必要となる。しかしそこには「一方的な一義的な 意味志向が要求されている。」「一つの言葉は一つの意味を志向する。」「命名することと存在の同格 性」49)が措定されている。判断は一義的に与えられているのであるから,正確に読みとればよい。
これはく思惟〉というFormをもつ。この中世的段階では思惟し,読みとる主体は未だに問題では
ない。
「交通の発達と商業の勃興が,紙と印刷の術をあらゆるところに播き散らした」50)ことによっ一乙 ルネサンスがもたらされる。それは「瞑想(Kontemplation)の意味を根底から変えはじめた。忍耐 強い観察者が望遠鏡を武器として観測しはじめたことは,このKontemplationの言葉の中に,懐疑
● ■ ■
Iな,観察的な,宇宙の中にきれ込む寂しい個人,見る人を創造するにいたった。subjectumの意
味が痕底1と機たあるもあ,すなわち圭体(神)を指示していたのが窺桑ナるもあ,すなわち主観151)
に変化した。かくして言葉は,主観に対して一義的意味志向をするものではなく「解釈(観測)さ
れる可能の自由」52)が求められる。「 セ葉の解釈」53)は,所与のものとして一義的に与えられるく書 かれたことば〉の解釈ではなくなる。それ故に,固有の表現形態をもたねばならず,それが「活字 で与えられる」54)ことによって新たな人間相互の関係秩序の図式が形成されはじめる。「観察者と 実験の言葉は全世界の観察者Zuschauerとして人間を定立せしめた。」55)コペルニクス的転回であ
る。経験,行動,両者の相互の間の機能的関係を個体が問うのであり,<自然を拷問にかけて証人 とさせる〉ことによって答えてゆかなくてはならない。自らの問いに自からを否定することによっ て答えてゆかねばならない。答えるには判断がなければならない。判断を媒介としてのみ実践がな される。「主体性subjektivit翫の意味は常にみずからの否定を契機とするところの,分裂発展の 過程的媒介」である。「媒体メディウムの中の要素エレメントではなくして,常にみずから二つに 分裂する契機モメントをもつところの,否定的な媒介ミッテル」56)なのである。〈答える論理〉
としての否定判断(実践判断)は「新たなる公衆性」57)をもたねばならない。それはく技術〉と いうFormの内に在る。このFormが在ってはじめて〈批判の批判〉が可能となる。実践判断が批 判(否定)の対象となる。
3.ようやく実践判断が正面に据えられることになった。注意さるべきことは,ギリシャ的合理 性,中世的弁神論的合理性,即ち動かざる,静止的,一義的合理性に対する「経験という非合理性の 出現」であり,「推論の限界が,この経験の非合理性の前に画される」58)ことである。経験にはコ プラcopula(繋辞)がない。経験はコブラを前提とはせず,自らを否定することによってコブラを 時間の中に創り出してゆかねばならない。これが論理学の新たな課題となる。時間の連続性はコプ ラを経験が創り出すことによってのみ実在する。新しい論理学は,コブラの創造の妥当性がいかに 判断されるのかをも課題とする。コブラはあらかじめ措定されていない。経験と経験とを繋ぐのは 否定の契機である判断を介した実践であり,それは常にコブラを見出すとは限らない。一般に,時 間の連続性は保証されていない。カントの第三批判は,経験の論理と行動の論理の「二つの契機の 矛盾の中に,その媒介として構成された。」59)連続性が時間において実現するには,鞠歯ゐ自偉あ
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批判がなければならない。個々の実践判断が函数化されて新たな機能性を有したり,定量化されて
〈数の論理〉としての姿を現わすこと,精密化されて機構化されること等が追究され,判断力それ 自体が拡延的に実践の妥当性を支えるFormをもつこととなった。 ,
この新たなレヴェルにおいては,しかし既に新たな問題が生じている。判断のForm・概念の一 般的有効性は,直ちにすべての個々の判断を有効たらしめ得えない。そこまでの還元はなしえない。
この間隙をぬって,判断の一般的有効性は「専門的技術家だけ」が判断できるかのような「大衆か らは疎外されるような構造をもってきたのである。」即ち「概念の一般性の付託性までが生じて」60)
きた。大衆は自からの判断にもとつく実践を介してコブラを創造したのに,そのコブラの妥当性に ついての「一般概念は,専門技術家の委員会」が所有し, 「一般大衆はその感覚的記憶表象の(ラ ンダムな)集合をもっているだけ」にすぎないという「矛盾の中に転化放置されるにいたる」61)のであ る。「論理そのものが無方向な函数化」62)に陥るのである。この矛盾をいかに,どのような方向に おいて解くかが「委員会の論理」の課題なのである。
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繧フ図に示されている論争,思惟,実践,技術,生産の「おのおのの論理のもつr否定』の意味
佐藤:実践推論の構造 255
は,そのままの構造をもって委員会の論理機構の骨組みを構成」63)する。委員会は「巨大な弁証法 的否定を表現する。」64)所与の歴史的・社会的な条件(場)の中に,表現する。この場の空間性を 即自的に否定することは不可能である。空間は自からを時間の中に投企してはじめて自己の否定が可
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能である。それ故に,「概念の合理性のいかなる限界において,委員会機構がいかなる代表および 審議機能(投票,実行,委任,討議,決議)をもつか。 (歴史的に)利潤機構の形態(として現に 存する)委員会においては,概念がいかなる構造の上に一般性(形として)をもっているか,それ
がじ・赫袖魅都そ幅あふ」65),「論理そのものの論妨蓮齢真舳繭寵毬る船●に,概念の一般性の限界が,いかにして論理の否定性の上にその弁証法的非連続性を反映するか」66!
と中井は正確に問を設定した。概念の合理性・一般性は無条件に存するのではない。それは具体的 な時間・空間のもとで,従って利潤機構の形態をとらざるをえない委員会に関して,その一般性と 限界が検討されねばならない。論理の合理性の時間・空間的限界が検出され,認識・判断,実践へ の連続が具体的に焦点にならざるをえなくなると,論理の否定性は単なる静止的否定性ではなくな り,弁証法的非連続性の中へみずからを投企するのである。「論理みずからが裂けめ(歴史の,経 験の,また論理そのものの)における,生けるラチオRatioとなっている,みずからが媒介となっ ている」67)のである。委員会のもっている,各々の「現段階の合理性も,すべてのものをf廿rsichの すがたにおいてもっている」68)のである。中井の分析を順次みてゆこう。
4.討論と思惟の論理は,主張Behauptungと確信Uberzeugungの二領域と考えうる。思惟(確 信)が他に対して,同意Mitteilungを求めて「社会的法律的関係」69)を形づくると,主張になる。
確信は判断的是認Urteilende Anerkennungであり,主張は同意的是認Zustimmungsanerkennung を必要とする。両者は背後に「虚言の構造」を有する。 「内的確信において肯定せるものを,外的 主張で否定をもって承認を求める場合,あるいは内的確信において否定せるものを外的主張で肯定 をもって承認を求める場合,そのいずれにもせよ,それは虚言を構成する」70)のである。即ち「無 意識的な虚言,意識的な虚言の中に」71〜非合理の中に,両者は在る。時間の中では論理は常に一義 性をもちうるとは言えない。 「確信は意味の質的構成」となり, 「主張は判断的是認の是認」であ
って,「同一の意味の量的転化」72)がおこなわれる。「意味の質的方向と量的方向」への「二っの 転化の軸」73)が在る。 「転化の方向軸の機i構が確信と主張の法則的な模型」74)となる。意味の量的
・質的転化は「抽象化し,形式化」75)し,答案,審査,投票,購売76)となる。しかし,ここには「経 済的地盤のよってもたらす嘘言」,「確信の領域にまで誤謬をもたらす」77)嘘言の介入がある。そも
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そも人間の〈問い〉自体が嘘言の構造をもつ。「内なる言葉としての確信の最も深き内底に畏るべ き存在として,分離せられたる自我,即ちr自分』が涯なき無関心性lndifferenzをもって黙して
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いる」し,「外なる言葉としての主張のかなたに,またさらに永遠を聴く否定者,いわゆる『他人』
があり,言葉はこのr二つの孤独』の中に,その意味のr問い』の中に立つ。」78)「絶対的無関心性 は一般にいまだ判断せられていない時に存する」が,消極的な意味で存するのではなく,答えとし ての「評価(肯定または否定)のみがいまだ完成せられていない」79)だけである。この矛盾こそが
「意味の二つの方向軸の媒介的な歴史的性格を特徴づける」80)のである
主張の合理性は否定的に媒介されねばならない。 「否定判断は単なる判断の拒否ではなく,一つ の問いの評価的」81)否定である。判断が「動座標的な,みずから,みずからを分裂せしめるロゴス」82)
による否定としての「評価となってくる時,その評価徴表は,再び現象への再検討によってはたさ
れる。再び現実への再帰があることは,近代論理学の著しい特徴である。」83)すべての判断は「無 限なる現実(時間)への再検討への征矢の中に立っている。」84)現象から再び本質への否定的媒介 は,実践のみが担う。「論理みずからが推論的合理性を整えるにせよ,その整合が常に成立せるそ の場において,すでに一段階性をもっている。そして,そのすべての肯定のコブラrある』は,一 全体性として,底の脱けた無底の否定可能の蒼空に投榔されている。そして再び現象の検討面の上 に降りたつことによって,推論そのものが晟立寺る。」85)この実践的推論(判断)は「現実の具体 への問いかけでなければならない。」86)この問いかけは,拡延された問いであり社会的組織的Form
ひた
をもつ。即ち「社会的実践的評価に身を酒しているはずである。社会そのものの具体的構造の中に,
その評価は手わたしさるべきである。個の思惟の反省(否定)の層より,それと相似であって,し かも層を一っ越えている社会組織的批判に委ねることによって,問いそのものは自己の本質の客観 性の中に帰っていくことができるのである。」87)矛盾は,底の脱けた無底の否定可能の未来への方 向において解決されねばならない。生産の論理も技術の論理も,秩序を空間的に支えるのみならず,
社会的実践的評価を下す論理として未来を媒介するものとならねばならない。 「人間的目的方向に そっての批判の欠如,すなわち無批判性の性格を止揚せねばならない。」88)それらは言語も含めて
「人間が自然系列的要素を人間的系列的秩序に転換Transformation,またはAbbildung」89)する ものである。ここにも「方向への緊張がある。」go)生産と技術の論理は,実践を媒介として思惟と 討論に結びつく。更にr概念の一般性の研究は,全人間的相互協同研究」91)としてなされねばなら ない。実践の論理学が必要となるのである。委員会は,実践をいかに組織するか。単なる実践,即 ち無批判性としての商品生産的性格のみを有する生産は「生産における再生産を契機としてみずか ら歴史性,目的的緊張方向」92)をもたねばならない。「相互独立化する専属機能は,同一の組織的 協力の中に統一さるること」93)を前提とする。この「組織的協同性」94)は決して,索1と形としての み在るのではない。それがある形を固定的にとりっづければ,栓桔となるだけである。
中井によれば,実践の論理は,次のように図式化される。
購コ・盤…灘反映1\、 \
(実践の論理)
マ員会の論理 実践・……
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緬 i毒動\薩〉こ謡 止 ,レノ 報 :///L/ ,,
審議性は「現実地盤の反映としての提案(問い)」95)を出発点とする。提案は「現象の正確なる 正射影,すなわち模写を前提」とする点で「第一次的な主体的条件の客観化」96)である。提案に対 して質問が発せられ,説明がなされ,討議が行われる。提案は審議の場に入りこむことによって,
意味の量的・質的拡延を得る。審議の過程で「提案は多くの現実情勢の認識の歪曲」が是正され,
「嘘言と嘘偽」97)が濾化される。これは,現実の正確な模写のための努力である。が,「現実の委 員会はその反対である場合が多い。」98)ここに実践の「限界と分裂性」99)がある。何故なら,実践は少
くとも具体的な形態をとらざるをえないからである。審議は決議をもたざるをえない。その瞬間に
佐藤:実践推論の構造 257
「言語的意味は,再び人間的活動の中に具体化される。すなわち意味の付託性は現実の組織機能の 中に」100)入りこむ。委任される。委任を受けた代表機関によって実行がなされる。これが代表性で ある。委任と代表性を媒介するものが計画である。それを「第二次的な主体の客観化条件」101)と 中井は呼ぶ。かくして提案は実践の中に投企されることによって,新たな計画性というFormをと るのである。
計画が実行されると結果が報告される。設計図は投影図Geworfeneとなったのである。しかし両 者は,「実行という切断」102)によって時間に対して非対称となってしまっている。「計画が目的 とした実行建設は,実行建設されること」103)によってのみ反省・批判の対象となる。そこにはく誤 差〉が生じているからである。生じさせようとして生じたそれではなく,問いに対する全き答えが,
常に必ずありうるとは限らないという意味での誤差である。実行建設に実際に許される時間的空間 的な初期条件を,あらかじめすべて正確に決めることはできないということに基因する誤差である。
しかし,まさにこの「誤差こそ歴史進展のプロペラ」104! 「より高次な計画に向かう媒介,みずか らの現実性をみずから否定する媒介契機」105)なのである。そして実行建設の「誤差の現実的地盤 への再検討による是正,そしてより高次な計画への転化,回帰」106)は新たな批判,新たな審議性 を生じさせる。
誤差をも明確にした報告を中井は,「第三次的な客体的条件の主体化」107)と呼び,それへの批判 を「第四次的な客体の主体的条件化」108)と呼ぶ。ここから「第五次的な提案」109)が生じてくる。
「第一次的な提案より第五次的な提案」への展開のうちに「主体性の意味」110)がある。このよう な「客体を媒介として主体が主体みずからの基礎の具体化へと向かう過程」111)を,中井は実践の論 理としてとらえるのである。実践は,たえざる主体性への「回帰でありながら無限進展の過程」112)
なのである。その過程を論理そのものの展開としてとらえねばならない。実践は単なる〈流動〉で はない。実践過程においてのみ主体は,質的・量的な拡延を意図しうる。この意味で実践は時に対 して非対称な,不可逆過程である。〈時に対する切断〉である。実践は時を切断することによって のみ生ずるのであり,時に還元することによっては生じない。委員会の論理の図式は,「決して思 惟図式として完結するのではなくして,実践そのものの中にみずから位置づけることで,自己表現 的連続を,現実そのもの上に」113)もちうる。このような「主体的条件から主体的条件への回帰(と 進展)による深化,ここに真の主体性の意味がある。」「みずからを(切断を介しての)媒介へと転 化する弁証法性」114)がある。そこにこそ「過程として,歴史として,進展の意味があり,常に二つ に分裂するディア・ロゴスの意味(と論理)」がある。むろんこの過程は,「常に現実の地盤の潜勢 的なものの正しき反映の中に」あらんとする過程であって,「いたずらに,汎神論的弁証法が,この 現実情勢の地盤より遊離すること」115)の中には,実践のロゴスは存在しないのである。r個人にお
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いてGeworfenの機能として記憶があるように,集団では記録がある。個人にEntwurfの機能とし
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て構想があるように,集団では企画が対立している。そして技術は,個人で身心の関係にあれば,
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集団では機械あるいは組織と統制である。個人で個性であるものは,集団では性格である。個人で
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決意なるものは,集団では決議であり,したがって個人で思弁なるものは集団では委員会討議であ
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る。個人で反省なるものは集団では批判会である。個人で時間といわれるところのものは,集団で は一つの歴吏である。」116)個的レヴェルから集団的レヴェルへのスケール・アップ(質的・量的な)
に伴う精確度の要請に対してのみ,形式的・空間的スケール・アップにのみ中井の目が向いている
● ● フではない。集団の企画機能の核心は「見通しDurchsicht」,現実の中での現実の「乗り超えUber一 stieg」「実験に向かっての躍進的なVorlaufend計画」117)にある。そこには「強靱なる明朗感,いわ ば遠度愈が」118)がある。〈企画的速度感〉こそ,中井の実践論の中心的アイデアである。「そこに は,リレーのバトンを受け取って,まさに走り出したもののもつ,未来への深さへの身をもっての 飛躍の愉悦がみなぎっている。それは集団的構成の感覚である。加わりつつある速度の圧力の触角 のごとき,何ものかを追い抜き,乗り越え,みずからの速度により加重を加えて,自分みずからを 抜きゆく鋭いスパートの感覚がそれにも似るであろう。それはすでに個人的想像力が思想の蒼空を 翼にまかせて走るのとは異なっている。夢の美しさとは異なっている。腹の底へこたえくる巨大な
ものの加速度の感覚である。乗ら趨えあ意責である。」119)
中井においては,存在は本質的に「 竄「としての存在」120)である。問う存在は問われた存在を,
歴史の中に具体的なFormにおいて絶えず実現してゆかねばならない。そうすることによってのみ,
存在は真の主体でありうる。「 カ在は一つの実験である。」121)「彼のあり方Existentiaによって,そ れが荷そあるふessentiaを把握することができる。」122)このくエグジステンチアをもってエッセン チアを測る〉ことは,「時間的にも空間的にも驚いてよいr今』とrここ』」123)から,〈今とここ〉を 条件として始められる。「会得への疫み企そ(Entwurf)があってのみ」124)なしうるのである。中井 は,方向を失ったFormの拡がりを「世界に単に対応関係をもっているところのr図式空間』」125)
とみる。 この図式空間が,単なる時間的・空間的な対応関係をもち,方向をもたないということは
「繋辞なしのr切断』をもって連続している」126)ことである。この切断はうあられねばならない。
図式空間がその物理的時間性をものりこえて「歴史的時間を確立して」127)はじめて,空間は四次元 空間となる。コブラは「人間大衆の歴史的意欲の方向」128)が決めるのであり,こうして歴史的主体 性が生ずるのである。図式空間ははじめから方向を失ったものとして存在したのではない。「歴史 的なる聖なる一回性」12g!時間性を前提としたのであったが,その時間が単なる流れに転化してし まったのであり,かろうじて空間性のみが残ったのである。その空間性は,記録されているし,再 現も正確になされうる。しかし,そこに含まれていた歴史的時間に対しても「時を隔てて,再び連 続」130)してゆかねばならない。時間の再現によって空間を接続し直してゆかねばならない。時間が
「再現されなければ歴史的時間の意識は生じない。」131)即ち時間の再現は,「おのおの個人の時間 を(再現さるべき時間に)ダブらせること」132)を意味する。それによって「歴史的主体性が人間的 時間の中にバラ撒」133)かれるのである。つまり「歴史の中に歴史をダブらせることで」133)時間と空 間が再び統一性を獲得する。図式空間を「『である』『でない」の説明・判断の繋辞(コブラ)」134)
でつないでゆくことは,各々の個体の「多薮あ爵商あ向二あろ」135)の実現である。むろん,それは あるFormをとる。中井にとって,空間的対応の厳密さの実現や,対応をいかに機能的に実現する か,が実践の論理のポイントではない。
5.中井における実践的推論(思惟・判断論)は,「委員会の論理」を中心に展開されている。
その構造は,時間の問題を中心として構成されている。
中井は,〈存在は問いである〉という。存在から実存在(Existenz)への問い(Frage),「存在が 1 存在に向ってなすr問い』」136)こそが,存在の意味である。「人間は問いをもつかぎりにおいて生
きている」137)のである。人間が「みずからに問う執拗なるFrage」138)は,歴史的時間の中に投企さ れる。投げ与えられた問いに対する答えは,実践を媒介としてのみ存在しうる。そして実践的推論