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一音楽及び体育が重んじられた根拠について 佐 藤 晋 一*

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茨城大学教育学部紀要(教育科学)32号(1983)73−90       73

ギリシャ教育の論理構造

一音楽及び体育が重んじられた根拠について

佐 藤 晋 一*

(1982年9月30日受理)

On the Structure of Education of Music and Physical Training in Greek

Shin.ichi SAToH

(Received September 30,1982)

は  じ  め  に

ギリシャ教育理論は,何らかの意味の学習理論を基礎としていたのかどうか。そこには〈子供〉

に関する基本的な認識があったのかどうか。この二点の確認がないままにギリシャ教育理論につ いて論ずることに,いかなる意味がありうるのか。ギリシャ教育の論理的特質を明確にすること なしに,ギリシャ教育に関する諸々の事実を記述することにどのような意味があるのか。ギリシ       ●   ●

рナは音楽,体育が重視されたという事実の記述やソクラテスの対話的弁証法の考え方と実践が

      ●   ●

q教育的であった〉という記述は,一体ギリシャ教育について何を言おうとするのか。解くべき は,何故それらが重視されたかの論拠である。本稿では,第一にギリシャ教育理論がく学習理論〉

を基礎としていたかどうか,第二にく子供〉がどのようなものと考えられていたか,そして第三 にその教育の論理構造はいかなるものであると考えざるをえないかを,音楽教育及び体育教育を 手がかりとして検討したい。

1 音楽が重視された根拠

1.1.従来の教育史における解釈

ギリシャ(主としてB.C.10C〜4Cごろまでを考える)において音楽と体育が重要視された ことは,一般的にうけ入れられている1)。問題は,重視されたのは何故かの説明である。ここで は主として石山修平と皇 至道の説をとりあげておきたい。

スパルタで音楽が重視されたのは「祭典や軍事上の用具として」であって,「体育および軍事 訓練と結合して行われ,その単純なる調子,活発なる律動,勇壮なる歌詞が軍国の民の心情をそ

* 茨城大学教育学部教育学研究室

(2)

れに適わしく陶冶した。」2)「音楽も(体育と同じく)勇気を鼓舞し愛国の情操を高揚するため に教授された。」3)イオニアではピュタゴラスが「万物を支配する原理を数に見出し,同時に音 楽を支配する数的法則から,数学と音楽とを結びつけ,さらにこれらにおける調和(ハルモニア)

を,人生百般の領域に適用した。」2)アテネではどうか。プラトンは17才頃までの教育は「学芸

(ムウスケー)と体育(ギムナスティケー)を主とす」べきであるとした。学芸とは「文芸と音 楽と造形美術」を指し, 「想像のごとき低次の知的陶冶および一般に情意的方面の陶冶に資すべ き」ものである。20才から30才までの間に音楽理論(ハルモニア)が教えられる。17才から 20才までの間に専ら教えられる体育も「単なる肉体の鍛錬を超えて精神的陶冶をも意図する」

のである。故に両者は「高次の知的陶冶に対立して,情意的陶冶および低次の知的陶冶をふくむ」

ものである。プラトンは「音楽および詩歌の諸調子・諸形態の心情に及ぼす影響」2)を重視する。

「ムーシケーは最広義には9人のムーサの神々が司っていた叙事詩・科学・歴史・拝情詩・悲 劇・舞踏・恋愛詩・喜劇・讃美歌・天文学等の学問技芸の一切を包括する」が,プラトンは更に

●   ●

哲学をも含めて,「哲学をもって最大のムーシケーとした。」けれども狭義には「単なる詩作と同 意義」と解している。そして理想国家の教育におけるムーシケーとは「詩や神話の内容とその表 現形式,更に音楽的な調和及び韻律の四つの要素」3)を指していた。アリストテレスは,「音楽 はr単に多忙を正しく過すのみならず,閑暇を美しく送るために』課せられるものとした(「政 治学』皿)22」7才から10才までが音楽教育の時期と考えられていた。

「ソロンの立法には,すべてのアテナイ市民たるものはその男児を体操と音楽において教育す べき義務を持つことが規定」3)されていた(この義務は何故課せられたのか。親がこの義務を遂 行すれば「子供は成長後にその両親を扶養すべき」3)ことが反対給付の形で定められていたから であった。)。音楽は広義には「ムーサの神の主宰する技術即ち学問芸術一般」を意味するが,

「狭義には音楽詩歌を指す。」だから「「初歩教授を意味する文法グラマタも広義の音楽」3)と 考えられていた。「グラマタは読方書方数え方の初歩を教授するもので,読方は綴字から始めて 文法・朗読・韻律等に就いて教えられた。」この際主として使用されたのはホメロスであったが

「ヘシオドス,テオグニス,アイソボス等も読まれた。」教え方は「暗諦」により, 「道徳的情 操を養うことを目的とした。」「狭義の音楽教育はグラマタより後れて始められ,少年の美的情 操を養うことを目的とした。」3)ヘラスでも同様に「美的道徳的に調和した人間を作る」ことが 音楽教育の目的とされた。 「徳を最も美しい姿によって聴かせる」3)べきなのである。プラトン においては「ムーシケーもギムナスティケーも共に単純性を第一原理とし,勇気の徳と節制の徳 を養おうとするもの」であった。いわば「人間の激性(気魂)と欲性(感覚)を浄化する教育」

であり,それは「同時に調和の教育」3)でもある。アリストテレスによれば「本能を浄化し,心 情を融和する音楽が最上のものであって,これを聞いた者は病人が医薬を服用したのと同様の心 持になる」のである。だから「閑暇の時間を美しく楽しく過ごすこと」がr心の調和を得る」の に必要である。 「音楽教育は趣味の教育であると同時に,道徳の教育」3)なのである。音楽史家 C.ザックスによれば,アリストテレスは「音楽は,a)教育, b)カタルシス(浄化による治療),

c)知的な娯楽や休憩やレクリエーションという観点から学ばれるべきである」のと考えた。

尚,以下のような解釈もある。ギリシアでは「軍事と祭事と政事」とは貴族の職分であって「三

大教養であった。」しかし,「これらの職分の余暇をうずめるものが必要」であった。「武技そ

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佐藤;ギリシァ教育の論理構造      75

のものが,すでに余暇をうずめるためのスポーッ的性格のものになっていた」のであるが,「治 安もたもたれ,外敵の脅威もさし迫っていない」場合の「ひまとゆとり」,そして「財力」を「華 麗な邸宅,宮殿墓」の建設にむけたり「詩歌や音楽」「絵画や彫刻」にむけた。こうしてつい には「詩歌管絃をはじめとして,芸術につうじていることが貴族の重要な資格とされるようにな

った。」5)以上をまとめてみると音楽は,。体育との関連で重視されたとする説,・調和論,。情 操陶冶論,。趣味・教養論,の4点に基づいてなされたと言える。〔補註〕が果してこれらの点に論 拠が求められるのであろうか。

1.2.音楽史における解釈

音楽が教育の中でもとりわけ重視されたのは何故か,は音楽史の立場からはどうとらえられる であろうか。音楽史のうえで,「古代の音楽(エジプト,ギリシャ,ローマの音楽)に関する知 識」は「余り断片的で,関連性がなさすぎる」だけではなく「実際の音楽的記録はほとんど残っ ていない。」6)ザックスは11曲の楽譜の断片が残されていると言っている。「古代ギリシャ音楽の 諸プリンシプルはヨーロッパには生きのこらなかった。……ローマの没落の後には,アラビアとの接 触後の数世紀にいたるまで,ギリシャ語によるただ一冊のオリジナルな著書さえ.西欧の音楽理 論家には知られていなかった(H.G.Farmer)。」7)「古代音楽の多くは,全く記録されなかっ た」のである。 「記譜法を持っていなかったからである。」音楽は「口伝てで」伝えられた。記 憶にたよっていたのである。「記譜法は,文字にくらべればごく最近の発明」であるが,「記譜 法が発達した後でさえ」音楽に関する記録は,文学等のそれにくらべるとわずかしか残っていな い。 「なぜ,古代の音楽はそんなに完全に消え失せてしまったのであろうか。」7)この問題の解 明は大変興味のある事柄である。古代の音楽の本質及び音楽教育の返遷をたどることができるで

あろうからである。

さて,記録はないが「古代の音楽は輝かしい高さに達していたと思われる。それはギリシャや ラテン文学の到るところに見られる偉大な詩人,哲学者,歴史家などが述べている熱心な讃辞か らわかる。」7)このことは,ギリシャ音楽の断片の発見とその研究が裏づけていることでもある。

前者に属するものとして,ギリシャのリズム論の大家,タレントムのアリストクセノスAristoxenus の著作の一部,パウサニアスPausaniasのピュティアの競演とギリシャ民謡についての著述,プ

トレマイオスPtolemyのギリシア音楽の数学的研究.アレキサンドリアのアテナエウスAthenaeus とユリウス・ポルックスJulius Polluxの編纂した音楽辞典などの断片がある。

ギリシャ音楽史をプルタルコスPlutarchosの「音楽論」De Musicaに拠って概観しよう。

。B.C.1400年頃,オレニスOlenが六韻脚の詩形をつくる。アポロンの音楽的祭典の創始でもあ る。この頃デルポイにクリソテーミスChrisothemisとその息子のプィラモンPhilomonが現れ る。プィラモンはキタラによる讃歌の創始者と,される。三絃リラをリンノスLinusが発明。

。B.C.1200年頃ホメーロス出現(B.C.1159とB.C.686という説もあるが, B.C.800年以前で あることは確からしい)。 「ギリシャ音楽について今日残っている最古の記録は,デメーテー

にくり返して用いられたものの一種と思われる。」6)その記録は,1720年頃ベネデット・マル

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チェルロBenedetto Marcelloによって発見されたもので,「六韻脚の詩を歌うのに適している。」6)

。B.C.800年頃プリギア旋法をピュアーグニスHyagnisがとり入れ,オリュンボスOlympus はリュディア旋法をとり入れる(733年)。テルパンドロスTerpanderがエオリア旋法を用い

る。

。B.C.700年代には「複雑な韻律を持った仔情詩の進歩が音楽の分野に新しいリズムの問題を起 した。」6)・カリノスCallinusは悲歌の創始者,・アルキイロコスArchilochusは偶数と奇数 の拍子を結びつける。・スパルタのアルクマンAlcmanは仔情的合唱曲で有名。・ステシコロ スStesichorusは合唱カンタータを進める。

。B.C.600年頃,スパルタに新様式(フルートの伴奏を持った歌アウロディケ)が起る。 「ポリ ユムナストスPolymnastusはエンハーモニックの音階を発展させ,最初の記譜法を確立した と信じられる。」6)・ピュタゴラスが現れる。

。「ギリシャ音楽の古典時代はB.C.525年頃始まる。このころからアテネ人が音楽において重要 な地位を占める。」6)ラッソスLasus,ピンダロスPindarsが現れる。ギリシャ音楽の「古典 時代の様式的な高みは,アイスキュロスAeschylus,ソフォクレスSophocles,エウリピデス Euripidesの手で築かれた。」6)けれどもB.C,408年頃アテネで公演されたエウリピデスのくオ レステス>Orestesの断片以外には何も残っていない。アリストプァネスAristophanesの喜 劇の場合も「音楽が大きな役割を果した。」ギリシャ・ドラマの上演は「音楽なしでは全く不 可能」と考えられている。ギリシャ詩の作詩法,リズムと韻律,合唱と独唱の関係,対話などの

「洗錬された手法」6)に関する研究はなされているカ㍉音楽そのものの研究は十分ではない。

。この直後,ギリシャ音楽は「衰え始める。」6)ゲオルギアーデスもrB.C.4世紀ごろから,音 響実体の萎縮ともいうべき特有の過程が開始された」8)と言っている。以上が概観である。

以上の如く,大体rB.C。8世紀頃には神話の境をこえている」6)と言われるギリシャ音楽の特 質は何であろうか。ホメーロス,ヘシオドスの叙事詩には音楽に関することが述べられている

      ●   ●       ●   ●   ●  ●

オ, 「ギリシャの詩が,読まれたり,大声で朗読されたりせずに,歌われたことは確かである。」6)

現代のように詩が読まれ,朗読されるのとは違って〈歌われた〉という。詳細については不明な 点が多いようであるが「とにかく,ギリシャ音楽は最初から詩と密接な関係をもっていた」6)とい

う。だから「ギリシャの詩が非常に微妙で,複雑な,様々の韻律の組織を作り上げるにつれて,

その詩から切り離すことのできないギリシャ音楽は,特にリズムの問題を強調」6)するようにな ったという。けれども「ギリシャ人はいくつかの音の協和するハーモニーの概念をまったく持た ず.従ってハーモニーの概念にもとつくポリフォニィーPolyphonyの音楽を作ることができな かった。」6)

そもそも彼らにとって「音楽は何よりもまず韻文(Vers)の中に存在するものであった。」8)

韻文とは「言語であると同時に音楽でもある」のであり,「言語と音楽とを結びつけていたもの」

がリズムなのである。「音楽的リズムは,言葉自体の中に内蔵されていた」のであって「音楽的 リズム構成は言葉によってすでに余すところなく確定されていた。」従ってリズムの「付加や変 更は不可能」であった。「古代ギリシャの韻文は,音楽と詩が一体となったものであって,音楽

と詩という,別々に捉えられうるような二つの成分に分解することのできないもの」であって,「こ

の独特の性質を有する意味の担い手を」8)ムシケーと呼んだ。ザックスも「楽器を演奏するとい

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佐藤:ギリシア教育の論理構造      77

うことと,ある歌詞を歌うということは,けっして一つに融け合うことがない別々の行為であっ たばかりでなく,器楽と声楽の両者を包含する集合名詞である〈音楽〉に相当するような言葉は,

どんな原始的言語にも見当らない」4)と言っている。この意味で文学作品と音楽作品とは区別し えないものであった。ずっと後になって,韻文に含まれていた「音楽的成分」8)が今日の〈音楽〉

にまで展開して来たらしい。 「ムシケーから詩と音楽とが分離独立」するに至って「はじめて音 楽と言語をはっきり分別することが,西洋の歴史が開始されてはじめて可能となった。」8)この分 離独立の過程はB.C.4世紀からはじまりA.D,2〜3世紀にかけて「完全に終結」8)したという。

ギリシャ語自体に即して言えば「語句はそれぞれに固定した実体的な音(Klangleib)を備え ており,各々に固有の音楽的意志を有して」いる。つまり個々のシラブルは「伸ばすことも縮め

ることもできない固有の長短」を有していたので,これを語る人間にとっては,「柔軟さを欠い た固体」のように感じられた。この特質は他のヨーロッパの言語にはみられない。まさしくこの 特質が音楽をも規定していた。音楽の長短リズムは「拍節(Takt)によってではなく,シラブル の長短両要素の区別に」依拠している。「リズムの原理は,元来もともと(言語に内在している)

尭たきれた(実体的)時間」8)に基づいている。ギリシャ音楽には多声法はなく,器楽の独立性 もない。複数の音を同時に演奏することは,合唱でも器楽でもなされなかった。楽器は従属的な 置位を与えられていた。中心には声楽,つまり人間の声があった。否,〈音としての言葉〉があ

った。「古代文明における歌は,言葉そのものに意味がないような場合でも,言葉なしには存在 しえなかった。そして詩も歌われる形以外では存在しえなかったのである。」4)むしろ「詩は,

会話的な話し方からメロディと語の自然さを両方とも取除いたものだったのである。」4)それだ から「ギリシャ音楽の末期においてさえ,肉声を伴わない器楽」は主流とされなかった。「合唱 合奏の場合でも常に同音(ユニソン)で歌われた」9)のである。アリストクセノス(B.C.4世紀 の人)によればrリズムは旋律,言葉,身体の動きのそれぞれにおける時間的な配分の秩序」11)

であった。尚,「十七世紀に至るまで,音楽の主たる課題は言語をいかにして音楽化するかとい うことにあった」8)とされる。

ところで,音はどのように記録されたか。記憶力をたよりにしていた段階があったことは容易 に理解できる。しかし問題は記憶からの飛躍である。〈記憶にどこまで頼りうるか〉。「簡単な 備忘や符牒を」9)手助けとして記憶に頼るとはいっても,複雑な韻文を記憶にまかせることは不 可能であろう。文字が発生するのは,そもそも一般に記憶に頼りきれなくなる段階においてであ

る。ギリシャには,既に文字,しかも表音文字が存在していた。音符として使用されたものは「い ずれの文明社会でも文字」9)なのであった。ライヒテントリットも言うように「話し言葉を筆で 書き現わす記号の組織が発明されたように.歌う声もわかりやすい記号で記すことができるかも 知れない」6)と思いつくことはありえたろう。ギリシャ語のような「極めて音楽的な言語の場合 は,話し言葉の綴りそのものが既に音符の役割を半ば以上も果していた」9)のであれば,アルフ アベットを音符として体系的に用いることは困難ではなかったのだろう。この意味で,記譜法を

「ギリシャ音楽の最も重要な発見」6)とみなすことができよう。ところが,器楽の記譜法の方が

「起源が古く,各音はフェニキア文字やドリア式のアルファベットで記されている。」6)これに 対して「声楽の記譜法は比較的後に起った。それはイオニア式のアルファベット」6)を用いてい

る。言うまでもなく,ギリシャで発見された記譜法は,十分なる記録体系とは言えなかったよう

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であり,「実用に適する記譜法の組織なしには音楽作品の蓄積と発展」6)はありえないので,や がて近代に至ってこの問題の解決をみるに至るのである。ただ,ギリシャ段階で音の記録の問題 が自覚され,そしてそれが実行に移されたことは極めて重要なことと言えよう。

さて,ライヒテントリットは,ヘブライ音楽が医療と結びついていたこと,音楽には「感情を 刺激する力ばかりでなく,鎮める力」があることが認識されていたことを指摘し,そのようなへ

ブライ音楽を「一層発展させ体系化」6)している側面を含むギリシャ音楽についても,プラトン に拠りつつ論じている。 rリズムとメロディーは,他の方法では得られない精神的な調和を作り 出す。ある調子,つまり旋律と旋律様式は人の性格を強め,またある調子はそれを弱める。」6)

ギリシャのある地方では「すべての人が30才まで絶えず音楽の訓練を受けなければならない」と 法によって定められていたという。「いつ,どんな役目でも果せるほど高い音楽的訓練を身につ けて」いる必要があったからである。「合唱歌は国家の行事に伴う」ものであり,「宗教,芸術 さらに体育の一部にさえなっていた」というピュティアの競技は「もっぱら音楽と詩に捧げられ た。」6)結婚式においても合唱が行われた。その形式の一つはパィアンであった。「パィアン

(Paean)はく治療者〉を意味した。それは本来は医療の舞踏であったが,後にはもっと一般的 に治療の神であるアポロを称えるコーラス・ダンスになったのである。」4)

ギリシャにおいては「音楽教育は詩=音楽の実習であることによって,国語の教育でもあれば,

歴史,地理,社会,宗教教育や徳の教育」9)でもあった。この意味ではプラトンがr国家』で強 調しているように,音楽はギリシャの全ての教育のクリテリウムの位置を占めると言えよう。し かしながら,たしかに「音楽理論と音楽についての哲学」は高度なレヴェルにあったかもしれな いが,音楽は未だ音楽としての固有の独立した形式と内容とを有していなかったし,その作品も

「ほとんど全く失われている」6)のである。なのに何故音楽が重視されたと言えるのであろうか。

音楽史的に見ても,ギリシャの音楽作品がほとんど伝承されていないこと,「古代ギリシャの 如く四度音程を基礎とした音楽文化は,きわめて我々にとって理解しがたいものとなっている」8)

ことは興味をひく問題であろう。〈理解しがたいものとなっている〉のは,単なる忘却の故では ないはずである。ギリシャの音楽の質・レヴェルとそれ以後の音楽の質・レヴェルが異るという

●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   o   ●   ●   ■   ●   ●

ことが原因なのであろう(このことに関連して考えると,ラテン語による声楽としての音楽をの りこえるべくく母国語による音楽〉を主張した,M.ルターの存在は注意を要するであろう。「テ キスト,楽譜,アクセント,ふしまわし,歌いかたなどが正しい母国語と正しい声から生じる」8)

べきであると主張するルターの要求を音楽家として満たした「唯一の人」8)が,H.シュッツであ るという。)。ところが,それに反しく音楽理論〉が残っている。この理由は,まさしくそれは 言語理論でもあつたからではあるまいか。ギリシャではく音楽によって言葉を習得した〉と言え るのである。音楽教育があったというよりも,教育の,殊に言葉を中心とする教育の音楽的形態 があったと言えるのではあるまいか。

石山は,しかし,ギリシャの詩歌教育に関して,次のように論じている。少年(7〜16才)は

「まず文字・綴り・文章を習った。 r読み書き』は必須の基礎教科であり」,次には「神話を聴

かせ,しかる後にキタラまたはリュラの弾奏と唱歌とを教えた。」2)これを学んだ者に「詩を教

える。」詩は「理解力を練り,心情を優雅醇正ならしめ,偉大高尚なる活動への憧憬を鼓吹するた

めに課せられいずれも倫理的基調を帯びていた。」2)音楽との関連については,「これらの朗吟

(7)

佐藤:ギリシア教育の論理構造      79

および暗諦においては第一に発音の正確,次に抑揚強弱・調子律動が修練せられた」2)ことへの 言及がわずかにある,というだけである。詩は音と切り離されえたのか。つまり書く詩,読む詩 でありえたのか。ギリシャでの基本的コミュニケーション型態はく話す一聞く〉である。ブルク ハルトによれば「ギリシャ人の間にあっては,事物は読まれたものとしてではなく,歌われたも のとして生命を持ちつづけた」10)のである。更にブルクハルトは,「もしギリシャ人の間におい て文字がもっと早くから一般に流行したならば,詩があんなに長い間ギリシャ国民の,生活の唯 一の保持者となっていたようなことはなかったであろう」と述べているが,「文字による記録と 散文とは」10)互いに論理的な関連をもつのであって,話し言葉から文字への展開は,B.ファリン

トンも言う如く革命的な発展なのであって,単なる量的延長ではない。11)

石山自身,プラトンの言語観及び教育方法については何と書いているか。プラトンが主張した 教育方法は,ソクラテス的対話法であった。何故主張したのか。「書かれた文字よりも語られる 言葉の方が真理を教える方法として,すぐれている」2)からである。 r生ける言葉」を尊重する プラトンは,「それにも拘らず著作家として,死せる文字一生ける魂のr映像』一を用いなけ ればならなかった。この矛盾を止揚するために必然的に要求されたものが,すなわち対話篇とい

う著作様式である。 (彼にあっては)死せる文字に生ける言葉の生動性を附与するものはこの対 話様式のほかにありえない」2)のであった,と石山は書いているのである(プラトンは,語られ る言葉と書かれた文字とを比較して言っている。「書かれた文字はr映像』であるが,言葉はr生 きたもの,魂を有するもの』である。文字にむかってその意味を問うてもrそれは常に同一のこ としか示さない。』文字は相手の区別なく人から人へ渡され,そして誤解されたり,不当に攻撃さ れたりする場合にも,自ら自己を弁護し主張することができず,常にその書き主を助けに呼ばね ばならぬ。しかるに言葉は相手のいかんに応じて語るべくして語り,黙すべくして黙し,自己を 弁護することもできるのである(rパイドロス』275e,276a)。」)。だから,少年は文字・綴

り・文章を習ったというが,対話法の生命は〈生ける言葉〉である語られることばにこそ求あら れるのではないか。一体,〈書かれた文字〉を子供たちは容易に習得し,書くことができたのだ ろうか。否である。言語学的に言っても,人間の言語習得の発展は〈聞く一話す一書く〉である。

ギリシャの子供も例外ではない。生ける魂の映像とされる文字であるが,聞く言葉ではなくして 書く言葉としての文字の意味を,ギリシャの思想家たちはどの程度自覚していたのであろうか。

詩歌の教育はく音〉を中心になされた。語られる一聞かれる言葉が中心にあったと考えること

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ができるのではないか。また詩歌の教育ははじめから石山の言うような,心情陶冶的色調や倫理 的性格をもっていたのだろうか。これは大いに疑問とせねばなるまい。もっていたとすると,何 故音楽を重視したのかがハッキリしなくなる。だったら詩歌教育こそが中心に据えられるべきで

あったろう。すべての教育の中心にムウシケーが位置した理由は何か。

1.3.音楽は何故中心的位置を与えられたのか

ギリシャ段階でのコミュニケーションがく話す一聞く〉構造であったこと,文字ではなく話し 言葉,つまり音によるそれであったことが答えとなろう。音とは人の声である。「本質的には話

される言葉と結びついたもの」12)がギリシャ音楽である。未だ,すべての人によってく書かれ一

読まれる〉段階に至っていないのである。言語学は,だから体系的学問となっていない。話し言

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葉を中心とする言語現象への関心の示し方は鋭いものであった,のであるが。教育方法としてく話 す一聞く〉の形をとる問答法が採られたのは,それが論理的にすぐれているからというよりは,

それが当時は最良の手段であったからではないか。アリストテレスは,主に〈説得的言論の論理〉

を追求しているのである。13)

ソクラテスの対話法乃至産婆術は,その意味が「相手を敵と考える代りに味方と考え,対立検 討の根底に愛による結合を置き,単なる言葉の美しさや論理の代りに事柄自体を追求し,相手を 外から魅惑し説伏する代りに,相手の抱ける俗見の矛盾を自覚せしめて行詰りに陥らせる消極的 方法と,真智への到達を指導する積極的方法とによって,自らの内より真智を生み出させること」2)

にあるのだとしても,子供の認識に関する理論や学習理論を基礎としていると言えるのか。「子 弟の自発性を前提とし,それの発現を刺激し助成する方法」14)なのだろうか。ギリシャでの書か れる文字15)は,教育の主要なメディアになっていない。〈話す一聞く〉言葉とそれに拠るコミュニ ケーション型態が主なのである。その上「ソクラテスの問答は相手の問に答えることによって何 かを与えるのではなくて,自らの問に答えさせることによって,その相手のうちに何物もないこ とを自覚させる」のであって「問答の要点は,答えることにはなくて,実に問うことのみに存した」3)

のである。問うことの意味や問いの手続きを自覚していた点でソクラテスは高く評価されるべき

●   ●   ■

であろうが,「人柄へ(ad personem)への攻撃はギリシヤの弁論学者が推奨したものである。」

そこでは「話し手と話の内容とが区別」されていない。「行為と行為者との間には密接な関係が ある」16)のだが,その論理的検討がなされていない。だから「何らかの証言や評価を攻撃しよう とする者は,その証言や評価を行なつた当人の面目を失墜させるようにつとめる」16)のは,当然 のことであった。アリストテレスはrレトリカ』で中傷されれば中傷し返すべきだと言っている。

o   ■   ●   ●   ●   ●   o   ■   ●   o

信頼できない人間の語ることは信頼できないからである。対話は「自己の主張への聞き手の同感

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を喚起または増大させることにより主張に対する聞き手の賛成を求め」ようとする人と,「話し 羊みぞあ識論によらそ彰魯を与えようと量る入」16)との間に成立するのである。問う論理構造に

●   ●   ●

対して,答える論理構造とでも言うべきものがあるのではないか。問いの構造は現代哲学がやっ と明瞭に問題となしえたのである。〈知っていると公言し,又その知っていることを述べ得るよ うな人間こそが先ず話せ〉とソクラテスは言うが,「自分がはっきりと意識し,言葉なら言葉で

(殊にギリシャでは話し言葉が重要であった!)表現できるというのでないと,ものがわかって いない」の17)だろうか。一般にはそのように「判断しやすい。しかし,言えなくてもわかっている

ということもある。」17)子供が表現形式を身につけるのはいかにしてなのだろうか。子供にとっ て,自己を表現する仕方を学びとることは,高度な目標なのである。子供にとって,問に対する 明瞭な答とは何であろうか。またある答が明瞭であるか否かを,問う側が判断しきれるのか。一 体,問を十分に満たす答があらゆる場合にありうるのか。ありうるのなら,明瞭でない表現はネ ガティヴなものとなしうるだろうが,あらゆる場合に可能とは言えないとすると.アイマイさは 決してネガティヴな意味しか持たないのではない。問う側が答をアイマイだとみなして,更に問 いを発する一このくりかえしはどういう事態を意味するのか。問う側が要求する答,とは何で あろう。問う側が満足しない答は常に不十分なのか。いわば答える側にはなお答える責務がある のか。その責務を果しえなければ,答は間違いだと言えるのか。そうではない。ある事柄がく〜

  ●   ●

ナはない〉と判断でき,証明できても,それがく何であるか〉を十分立証しえないことがある。

(9)

佐藤:ギリシア教育の論理構造       81

〈〜ではない〉ことの主張は,直ちに〈〜である〉ことの主張ではないのである。問答法のポイ ントは問うことにあった。問に対して言葉で答える事の困難さに関する論理的追求は,ギリシャ には存在しなかった。 「一たび聞き手から疑念を抱かれれば,話し手は聞き手がその点では間違 っていることを立証しない限り,あるいは少なくとも聞き手の意見が考慮に値しないことを立証 して聞き手から能力と理性を備えた話し手としての資格を剥奪しない限り」16)対話は終結した。

しかも問うのは子供ではない。問いを発することができるのは,「徳の懐任者」14)たるく無知の 自覚者〉。つまり〈正しく話せる〉人である。子供は,むしろ無知を自覚せねばならない存在で ある。いわばく聞く存在〉〈問われる存在〉〈語りかけられる存在〉である。この意味で受動的 存在である。

ギリシャにおける音楽は,第一義的には言葉に関係するものであった。言語の歴史と音楽の歴 史は,そこでは極めて相即的に展開している。言語史的に見ると「紀元前四世紀ごろからすでに

(韻文における)音響実体の萎縮とも言うべき特有の過程が開始された。」この過程と「精神的 態度の変ぼうとの間には相互関与的な影響」がある。「言語における音響実体はだんだんと影の

うすいものとなっていって,ついには消滅してしまった。この過程は紀元後二〜三世紀ごろまで にはすでに完全に終結していた。」8)このことはギリシャ世界における共通語(コイネー)の成立

(諸方言の消失)のプロセスとも関連する。「コイネーは先づアリストテレスの頃から始まり」

ギリシャ世界において勢力を得てゆく。 r無数の方言は若干の例外を除いて,紀元前四世紀末頃 にコイネーの形で統一された。」それに伴い「方言はようやく西紀後二世紀頃に至って始めて死 滅したというのが普通である。」18)この点にこそ〈ムシケー〉が,やがて理解されえなくなる原 因が求められるであろう。音楽教育が重視された原因は,ギリシャの言語構造そのものの内側に,

従ってまたコミュニケーションのあり様に求められるべきであろう。音楽教育を情操陶冶に直結 させるのは無理がある。音楽は「第一等の生活問題として取扱われた」10)のである。因みに,大 宝律令の言う「音博士とは,実は経書を学ぶ学生に対して正しい漢音呉音を教へた」33)のである。

H.体育が重視された根拠について

皿1.従来の教育史における解釈

音楽の場合と同様,石山及び皇の説をとりあげよう。まずスパルタでは「一般に精神的教養よ りも体育が,精神的教養の中では知育や美育よりも徳育が尊重せられ,かくて強壮敏活にして熟 練せる身体と,服従・忍耐・廉恥・勇気・犠牲などの徳に充たされる精神とが陶冶せられた。」2)

それは軍事的目的のためであった。「スパルタの教育の理想は困苦欠乏に耐え得る勇敢なる戦士

の養成にあった。従って体操はスパルタにおいて最も重要な位置を占めた。」3)女子すらもが「男

子と同様に公の教育を受け特別の体育所において半裸体のまま」3)教育をうけたという。アテネで

はスパルタほどには軍事的目的に即したものではなかったが,体育は重視された。パレストラや

ギムナシオンがあった。「青年の体育は戦争の準備に主眼がおかれていた」3)が,一般にはく身体

的,美的,道徳的,知的〉な徳の調和・均衡が善とされたから,体操も「身体の調和的発達を目

的」3)とした。プラトンは17才から20才までの間に体育を集中的に教育せよと主張している。

(10)

〈体育愛〉の実現が図られたのである。ギリシャ後期には,ギムナシオンの教育は軍事的目的か ら独立し,競技としての性格が強まったとされている。「20才までのムーシケーとギムナスティ ケーによる教育は,基礎教育であるとも考えられた」3)という,そのギムナスティケーは,。軍事 的必要性,。身体そのもの及び身体と精神の調和的発達の要請,を根拠としていると解釈されて いるのである。

几2.体育は何故中心的位置を与えられたのか

ギリシャ教育のく二大眼目〉のひとつとされた体育が,中心的位置におかれたのは何故か。ま ず考えるべきは,子供の生長に問題はなかったかどうか,死亡率はどのぐらいであったのか,で あろう。スパルタでは生まれた子供が,「体格がよく強健であれば」その父に養育を命じ,「虚 弱または障害児であれば,いわゆるくアポテタイ〉に遺棄した」2)というのは良く知られている。

が,アテネを含むギリシャ全体に於て〈望まない子供が捨てられた〉ことも事実である。プルタ 一クの 英雄伝 はその事実をかくしていない。「障害児等はすべてこれを育ててはいけなかっ た。」19)「絶えず多くの子が,それを養育する気がないか,又は能力がないために捨てられ」20)

た。捨子を例外的に禁止したテーバイでも,役所に差し出された子供は「安い代価で奴隷として 売却」20)された。また,病気がいかにすさまじいものであったか,病気で子供がいかにたくさん 死んでいったかは,医学史,労働医学史が示している。だからこそリュクルゴスは「まず強健な 母」を大切にし「その母より多くの強健な子を得る」2)ことを願わざるをえなかったのだし,プラ

トンは「優良なる種族を生ましめるための工夫を為政者の任務」2)とせざるをえなかった。健康で ない子供に対しては何らの対応もなしえなかったのである。プラトンはそれ故に,他面では病弱 な人は生きているべきではないし,まして子供を生むべきではないと言っている。〈医術の神ア スクレビオスは,一回の病気を助けてもらう人のために治療術を教えている〉のだから,それ以 外の人たちは治療の対象外なのである。それに,一生病気の治療をしながらすごすようなヒマは 誰にもないのである。アリストテレスはく捨子〉よりは〈堕胎〉を奨めている。これは,一方に

「大量的な小児の殺害」21)があったので,それを防ぐために主張されたと解釈されうるが子供 が捨てられ,死に,殺害されたのは事実である。ギリシャにはく健全なもの〉だけが生きること ができる条件しか存在しなかったのである。「自発的な死は治療しがたい病気の場合,一般的に 且つ少しの反対もなく承認された。そうした病気を医術によって引きのばすことは公然と非難さ れた。」10)勿論,幼児殺しは人類学的には「生まれた幼児のすべてを扶養することが困難なこと,

むしろ不可能なことを認識することによって始まったものと思われる」22)ので,これ以外の理由 による幼児殺しがあったとは思われない。

ギリシャ人は,健康をどのように考えていたのか。r健康こそ,人にとって第一最善の財。次 の善は姿美しく生まれつくこと。正直に得た富は第三の善。四番目は,若き日を友と愉しく過す こと」とrアッティカ宴歌集』 (Scolia Attica.7.)は歌っている。 B.C.400年頃にアリプロン の書いた「パイアーン』には,「人々に与えられる最大の幸,健康よ。健康なくしては幸福なる

ものなし」とある。健康を欠けば「病気に全く支配されてしまう」23)ので,「健康を保てると

いう確信を失ってしまうと,見捨てられたような気持に陥った。」23)「古代ギリシャ人の世界は

健康者,完全者の世界」であって,「健康は最高の善,病気は大きな呪い」24)とされた。そこで「虚

(11)

佐藤:ギリシア教育の論理構造      83

弱者を処置するもっとも実際的な方法はそれを殺すことであり,それは非常にしばしば行われ た。」24)他方で医学水準はどうであったのか。特に子供に関する医学はありえたのか。ヒポクラ テス(B.C.460〜375頃)でさえも治療家であるよりは「無数のきわめて正確な観察例」を残 した「多忙な臨床家」25)であった。 「ギリシャ医学は一貫して治療医学専一ではなく,その初め から健康保持がもっとも大切な仕事であり,衛生問題に多くの考慮が払われていた」26)のである。

健康は「天恵の第一」・「神々の賜物」23)だった。神は「愛する者に健康を与え」23)た。 「神々 がそれを奮い去ることは,それだけ一層恐ろしいことであった。」23)人間がなしうることは,神 の与える健康を守ることであった。病気に対しては,未だなす術を手中に収めえていないのであ る。健康への願望は「肉体崇拝と解き難く結びつ」23)くこととなった。人間は「肉体を通じて神 々に」近づき,似たものとなる。神々は「肉体の発達を導き,見守った。」23)健康な子供が生ま れるということは,何ものにもかえがたいことであった。それらはく選ばれた赤ん坊たち〉と呼 ばれた。 「誕生から成長の全過程は神々の指揮と監視の下にあり,各々の成長期に若い身体は神 々の世話を必要とした。」23)人間は「生まれながらに与えられた肉体の頼もしさを発揮」23)すべ きであり,「肉体を優雅に,巧みに,力強く極限まで働かせたとして栄誉を受け」23)るのである。

それは「美と成功において」23)神々に近づくことであったからである。「理想的な生活様式は,

栄養と排泄,運動と休息が全く調和のとれている」ものであり,「その上に個人ごとに,年令,

性,性質それに季節が配慮されねばならなかった。要するに人の一生はこのように計画されねば ならぬというのが真髄であった。」26)

プラトンが「特に力説しているのは」,体育のテクニカルな問題ではなくして「飲食物の摂生,

傷病の治療等,衛生保健に関する規律」3)であったというのは,以上の文脈の中でこそ理解されう るのである。〈優良なる男女の結合数を多くし,劣等なる男女の結合数を少なくせよ〉とか,<不 良なる生児は捨て,優良なる者のみを育てよ〉とかの主張も同じである。アリストテレスが特に 結婚について細かく論じたり,子供の鍛錬について細かなところにまで言及しているのも・結局は 健康の保持のためなのである。ヒポクラテスは「空気,水,場所について』を著わしたが,それ

は「理論的論文」というよりは「実践的な目的をも持っていたのであり,ギリシャの地域共同体 が,保健問題に対処する手法を明示したものである。」26)尚,ギリシャでは一見女性が大切にさ れていた感があるが,「すぐれた男子を生み育てるための方便として敬重せられた」2)と言わざる をえまい。母親や乳母の尊重は,多くの強い子供を生むこと,育てることとの関連でのことであ

  o   ■

閨C女性としての尊重ではなかった。スパルタの女子は男子と同様のく公の教育を受けた〉とさ れるが,それは体育に関する教育だったのであり,「婦人はよき子を生み育てて国家に貢献」2)

すべきだからであった。スパルタで男の子が7才をすぎると,「国家の手に移され,児童監督官」2)

によって教育されたこと,アテネで乳母,「侍女」2)が雇われ,7才になると「童僕の監督に委ね られ」2)たこと,これらは必ずしもく教育〉的な観点に基づく措置であったと言いきれないであろ う。その上,これらは「奴隷経済に支えられた上流階級の養生法であった。大衆は必要に迫られ てでたらめな忙しい生活をせざるをえなかったし,自分の健康にもかまっておれなかった(r食 養生法』)26)」のである。プルタークは何と言っていたか。「貧乏な人たちがその子供らを養育

しないのは,悲惨な生活を,奴隷となり,教育を受けず,結構な事柄には全然あつかることがな

く暮らすようになるかもしれない,という心配からである。というのは彼等は貧困をあらゆる災

(12)

厄の極端なものと考え,貧困という大きな恐ろしい病気を子供らに持たせてやるのに忍びないの

である。」1°)

更に重要なことは,体育は芸術の面でも実生活の面でも詩,音楽と一体となっているものとして扱わ れたことである。三者に共通するもめは韻律・リズムである。「踊り,音楽及び詩の三つの芸術は一つ の芸術として出発した。」27)「ことに拝情詩は,朗唱と集会と楽器と舞踊とに結びついていた。」19)

詩は聴き手に対して語られ,祭式における形態が最も重要であったが,体育に関する祭式には,

殊に音楽と詩が用いられた。身体の運動におけるリズムと音声のリズム,詩・音楽のリズムの共 通性がやっと自覚されはじめたのであろう。劇は歌と踊りの結びっいたものであり,「(悲劇に おける)Chor・合唱は歌を伴った舞踊を意味していた。」8)韻はリズミカルな「身体運動に対す る声の伴奏から出た」27)とも言われる。代表的な韻は六脚韻ヘクサメトロンである。「律動と身 振りとからして,いつも新しく舞踏が」lo)作りだされた。一般に流行した舞踏は「ピュノレリケ即 ち武器の舞踏」10)で, 「戦争の下げい古と見なされ」10)スパルタでは長期間行われた。5才の子 供から練習させたという。「ピュポルケマティケという舞踏は合唱団全部が歌いながら踊る。」10)

舞踏は多種多様であったが,これは言葉のリズムの多様さと関連する。

体育は健康の維持・増進との関連が根本的なものであり,軍事的な問題との関連よりは詩・音 楽・舞踏との関連が重要である。それは音楽が治療の手段とされたことからも言える。<治療の 歌〉というのがあった。ピュタゴラスは「律動や歌謡や治療の歌を以て精神的並びに身偉的障害 を治療した」lo)ようであり,ピュタゴラス学派は音楽を治療手段として推奨したという。即ち「肉 体的には医学で,精神的には音楽で失われた平衡を回復しようと試みた。」24)音楽は「心という 手段を通して身体に働く一種の心理療法であった。」24)テオプラストスは「音楽は精神と身体の 数多くの欠陥を治療する」と語ったという。欠陥とは「失心,恐怖,比較的長期にわたる乱心,

腰痛,かんしゃく」等を指し,それらが「治療されるのは,笛を患者の前で演奏することによ る。」24)アリストクセノスは「劇夙を聞かせると益々ひどく狂躁状態に陥るばかりであった狂人 を,その後笛によって治療した」24)ともいう。rサムエル記(上)』には「神から出る悪霊がサ ウルに臨む時,ダヴィデは琴をとり手でそれを弾くと,サウルは気が静まり,よくなって悪霊が 彼を離れた」24)とあるという。アスクレピウスは「薬品,ナイフ,苦痛を和らげる歌」24)で病人 の手当てをした。 「呪文は魔法の言葉の連続であるばかりではなかった。それにはきまった節が あって,呪文(incantatio)という言葉が示すごとく病人に向って歌われなければならなかった。」24)

痛みにはフルートが効くとされていた。スパルタでも音楽は「一種の治療術」だった。 「病気や 精神障害や何かほかの一般的不快」20)を治そうとする時には「デルポイの忠告に基づいて,外国 の人たちを医師又は贈罪の神官として招へい」20)したという。健康を保つことは容易なことでは なかったのである。身体の健康の維持に非常に注意を払わざるをえない段階にギリシャはあった。

「病人,障害者,虚弱者はその状態があらためられる時に限り,社会から相手にしてもらうこと

が期待できた。が古代の人はそれらの人々を組織立って世話することについては何も知らなかっ

た。」28)「劣等の汚名」28)をこうむらないようにすることに努力すること以外の方法は,基本的

にありえなかった。それ故にこそ「原始社会では音楽が予言者的胱惚状態をも含めて,あらゆる

種類の精神分裂のための手段」27)だったのであるし,一般に「古代を通じて音楽は病気の治療に

用いられた」24)のである。

(13)

佐藤:ギリシァ教育の論理構造      85

体育が何故重視されたか。健康に恵まれた子供以外に育つことができる社会的条件がほとんど なく,〈神に愛された子〉といえども病気になった場合治療によって回復する見込みはほとんど なかったことが根本的障害となっており,健康の維持増進に努める以外の策はなかったのである。

けれどもそれも半ば経験的,半ば科学的レヴェルにおいてなされるしかなかった。良いことは何 でも試みることと,ヒポクラテスに見られるように観察データの蓄積に拠る対応論的やり方しか なかったのである。スパルタやアテネの置かれた歴史的・社会的条件のもとでは〈強健な兵〉は 強調されたのは当然であるが,それはあくまでも〈歴史的偶然〉であると考えられる。いわば歴 史段階的な,時間的な意味での理想であって,論理的な意味でのそれであったのではない。子供 の健康に関する認識を出発点とした理想ではないということが,その理由である。

皿.ギリシャ教育の論理構造

皿1.学習理論はありえたか

音楽教育,体育教育自体の中に子供が学習をすることへの理論的関心があったか。プラトン,

アリストテレスにおいて「随年教育」3)が唱えられ,「随年教法的教育課程論」2)が展開されてい るという。なるほど非常にこまかく年令別の教育課程論が示されているが,それは「児童の自然 な発達段階に応じて」3),また「素質に適した個性を発揮できるように」2)示されているものか。

ソクラテス的対話法は「子弟の自発性を前提とし,それの発現を刺激し助成する方法」2)と言え

●  ●  o  o  ●   ●  ●  ●  ■

るのか。「ギリシャ以外においては,文化史全体を見てみてもここのようなことが二度とはなか ったと思われる,教育に対する,国家組織に対する音楽の,あの親密なる関係」10)とはいかなるものカ㌔

音楽教育は詩,つまりギリシャ語の教育と相即していた。「ギリシャの言語は音調と或る音韻的な旋律 を作る結びつきをしておったに相違ない」10)のである。音のもつ情調が一般に,人間に対して感化力 を持つとは言えようが,ギリシャ人の聞いた音や情調性はどういうものであったのか。 「ギリシ ヤ人の音の組織と聴覚の組織は,我々のそれとは別のものであった。」10)故に音楽が心情への強 い影響力を有するとギリシャ人が言う時,その理由を我々のおかれている状況から逆推理するの は問題である。その上,「(紀元前第四世紀における)アリュビオスの伝承によれば,器楽用と

しての鉤と少数の文字とから成るかなり古い楽譜記号と,唱歌用としての文字だけで成り立って おる,かなり新しい楽譜記号」10)を知っていたというが,このような事情ではギリシャ音楽を再 現することは困難を伴うであろう。「ギリシャ音楽がかりにもっとましな形で残っていたとして

も,さまざまな音階,平均律によらない全音や半音,また和声的構造を欠いた音楽は,聞き慣れ

ていない我々には,おそらく異様に響くにちがいない」23)だろう。また,楽器の問題がある。「楽

器に対して巨大な金額が支払われた。」1°)楽器作成の技術にも困難があったろうが,子供はいか

にして楽器に接し得たのだろうか。「ギリシャ音楽の楽器は,どれ一つとしてギリシャ本来の発

明品ではない。しかもどの楽器もおどろくほど単純で原始的で,同じ時代の彫刻や建築の円熟し

た立派さはほとんど見ることができない。」7)そういった「制約にも拘らず,音楽が高度の完成を

なすことができた」10)のはことばが音楽の中心にあったからであろう。「合唱団の練習は楽譜記

号なしに,ただ歌と音楽とを憶えこませることによって,多分笛を使いながら行われた」10)ので

(14)

ある。

「学問は精神の思考力を養成し,音楽は意欲を養成し,体操は欲求能力を養成する」10)と

■   ●

考えたプラトンは音楽教育を強調したが,その根拠は音論であった。生きたことば=音が重要な のである。その音はリズムを固有の性質としてもっていた。「ギリシャの詩が持つ不朽の力は韻 律の仕組に負うところが多い。この仕組は韻律の多様を許す。この仕組の基本は韻律が音の強弱 によらず,長短によるというところにある。韻律の基本は音節を組み合わせた単位(脚)にあり,

その単位内の各音節の釣り合いは,音節の発音に要する時間の長短によって決まる。」23)このよ うに「歌の韻律が桁はずれに多様であることと,新しい形式を取り入れる能力とは舞踊と音楽」23)

の結合に拠る。 r詩の練り上げられた連句は,舞踊と音楽が言葉と等しく重要で,この三者が作 りあげている統一体の一部」23)なのである。〈脚〉は「舞踊のステップのリズムと,速い動作と 遅い動作の釣り合いに基づく。」23)ステップには音楽が伴い「伴奏音楽はステップの特徴を際立 たせ,ステップの特徴に調和する。」23)叙情歌(リュリカ)は堅琴(リュラ)に合わせて歌われ るにとどまらず「歌と舞踊と伴奏音楽が一体となった活動の一部であった。」23)かくて詩人は「こ のような技術を自由に駆使して,まさに美しさがあると思われるものは何でも非常に広い範囲に わたって,主題として取り上げ」23)ることを理想とした。このため「あらゆる種類のリズムに乗 った楽音に応える耳が訓練されねばならなかった。」23)このようにギリシャでは,「音韻的なも のが実に大きな発達をとげたにも拘らず,尚かつ全然に通俗的でありえたのはどうしてであった のか。」10)それは「知性の故ではなく,幼児からの長い練習によるのである。」10)むろん,この 練習は文字によったのではない。「詩人の作品を商みなたやすく理解できた」10)かもしれないが 詩人になろうとする者は「先人を手本として創作したが,自分の語彙を新しく作り直したり,古 い句に新しい意味を持たせて使ったり,巧妙に形を変えた句を数多く」23)作らねばならなかった。

詩人と聴衆の間は〈書く一読む〉関係ではなかった。両者は「読み書きの能力」23)によって隔て られてはいない。 「詩が人工言語としか言いようのない言葉で書ふ乳るのが普通であった」23)の に,詩が「大衆性」23)をもったのは注目に値するとバウラは言うが,それは多分,「ギリシャ語 が構造においても,語彙においても明晰なのは,語り言葉であることに相当の原因があろう。最 も高尚な文学といえども読まれるのではなく聞かれることを予想して創られた」23)のである。大

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衆は根本的には聴く存在であった。

さて,子供は音,話し言葉による表現方法をいかに習得しえただろうか。またどのように習得 されうると考えられていたのだろうか。この点を明瞭に指摘している個所は,石山にも皇にも見 当らない。むしろ石山の言うように「プラトンの教育段階論(教科課程論)は哲学的に基礎づけ られている」14)のである。〈イデアの認識段階論〉に基づいて構想されている。この農階は究極 的には時間的配列,割り当てであって,決して子供の認識の発展段階に基づくものではない。こ の事情は,アリストテレスについても同じである。そのく心理学的著作〉は注目すべきであると しても,そこにはく子供の認識の発展〉への洞察はないと言える。イデア認識のための段階区分 と認識のく段階的上昇論〉に即して, 「教科課程が弁証法的に秩序づけられ」14)たのである。終 局目標はくイデアの想起〉にある。プラトンの学習理論は「哲学的方法として,先験的なイデア の認識方法としてのr想起』」を根拠としている。このことは,ソクラテス的対話法において,

より明瞭になる。その方法は「相手の議論の含む矛盾を通して,その議論が根拠のない臆測であ

(15)

佐藤:ギリシァ教育の論理構造      87

ることを示す」16,ものであった。この場合それが矛盾であることをあらかじめ知っているのはソ クラテスである。そのソクラテスがく問う〉。しかも「意見が互いに対立し矛盾している場合,

それらを同時に認めることは不可能であって,少くともいずれか一方を追放しなければならぬ」16)

のである。ギリシャ論理学は排中律を止揚していない。真でなければ誤りであった。正しく答 えられず,ソクラテスを納得させえない場合は誤りなのである。そもそもプラトンによれば,イ デアは「言葉では語りえないものであり,むしろ教える者と学ぶ者とが生活を共にしながらその 問題の事柄を直接にとりあげて,数多く話し合いを重ねていくうちに,そこから突如として,い わば飛び火によって点ビられた燈火のように魂のうちに生じ,以後は生じたそれ自身がそれ自体 を養い育ててゆくという,そういう性質のもの(rプラトン・第七書簡』)」29)である。イデア は,非有一感覚界一思惟界と上昇する認識段階の最も高い段階にある。わけても善のイデアが最

も重要なのである。それらの段階に対応する認識能力があり,各々エィカシアとピステス(感覚 界),ディアノイアとエピステメあるいはノエシス(思惟界)とされる。ディアノイアは知性ま たは悟性で,幾何学や算術を扱う。エピステメやノエシスがイデアを認識する能力である。いわ ば各々の段階にふさわしい能力がふりわけられているのである。対話のプロセスは,この段階を たどるのである。先づ相手に質問をして「誤った判断を指摘し,相手の無知を指摘しアポリアに 陥れ,探求への思慕を喚起する段階」14)があり,次に探求の段階,最後に想起の段階がある。こ の意味でこそプラトンは「探求すること,従ってまた学習することは全く想起である(rメノ ン』)」と言っているのである。故に,想起説の「重要な教育的意義は,子弟がく自ら自己の中 に認識を取出す〉という点にある」14)という場合も,その取り出す仕方は論理的要請なのである。

石山も「いわば想起説は対話法の可能を示す仮説的根拠であり,対話法は想起説の存在理由を示 す事実的根拠」14)であると言っている。ただ,対話法が「子弟に内在する認識能力を暗黒から光 明へ転向せしめる」結果を伴うと考えることもできなくはなく,その限り「想起説は子弟のr自 発性」を肯定し,それによって教育一般の可能性を基礎づけ」M)るものとも言えよう。

しかしながら,ソクラテスによればr信念には虚偽と真実とがありうるが,知識が偽であった りすることはない。」では,知識の真偽の判断はどのようになされるのか。それを区別できるの は,真実を知っている者である。それに対し真実を知らない弁論家は,真実らしいものを真実と 思い込ませたり,「学識の小売術」14)に専心していると,ソクラテスは批難する。かくてく語り 手が誰であるか〉が重大問題となる。語り手と語られたことの関係,語られたこと自体の真偽の 問題が探究されるのは,ギリシャに於てではない。対話は真実を知っている者と,それを知るに 至っていない者との間にこそなされる。徳についても同様の論議をソクラテスはしている。徳そ のものについて深く考えた人ならば,徳そのものを呈示し,教えることはできなくても,ある事 柄が徳とは言えないことを論証し,徳を想起するようにしむけうる。他方,徳を知っていると称 する人は〈どうしてそれが徳と言えるか〉を証明できなければならない。が,それができるなら 徳を想起できるのであって,想起するよう催される必要はない。即ち対話は不要なのである。以 上検討して来たように,被教育者の学習についての論理的追究は,ギリシャにはないのである。

正2.子供はいかなるものと認識されていたか

ギリシャは健康な者だけの世界であった。障害者は除去された。捨子,嬰児殺し,子供の売買

(16)

も多かった。出産は困難なことであり,死亡率は高かった。養子が盛んであった理由は「健康な 子供の選択ができるから」10)である。この方が,めんどうな養育をしなくてすむし老後の世話は してもらえるし,国家のためでもある。「死者を敬弔することを完行する」10)こともできる。こ の占に於てこそ.子供に関する法的規定が必要とされたし,財産相続に関する規定に子供が現わ れるのはその典型的なケースである。ところが「子供たちが美術作品などに描かれたり,文学上 で言及されることはほとんどなかった。」30)というより古代社会では,一般に「子供たちに対し ては目に見える形で関心が払われたことはほとんどなかった。」30)医学の歴史を見ても子供の病        ●   ●

Cや健康に注意が十分に払われてはいない。古代社会は,子供そのものに即して「子供をはっき りと表象していないし,少年に関してはなおのことそうである。」31)そればかりか「今日の私た ちの子供期の概念と(近代以前のそれとの問には)深い溝が存在する。」31)かつて「子供時代は,

       ,

q小さい大人〉がひとりで自分の用を足すにはいたらない時期,最もか弱い状態で過す時期」31)と 考えられ,「身体的に大人と見倣されるとすぐに,できるだけ早い時期から大人たちと一緒にさ れ仕事や遊びを共にした」31)のであった。アリエスの指摘は重要である。何故なら,教育学的 理論の展開は子供に関する認識に相即するはずであるから。だが,従来この面の研究は十分には なされて来なかった。ギリシャの教育理論がその子供観とどのような関連をもつかを論ずること は,今後の課題であろう。プラトンやアリストテレスは年令区分による教育を論じたが,なぜそ うしたのかその論理的根拠については既に考察しておいた。

尚,石川 謙は「児童観の発達を研究することは極めて重要な仕事」32)であるが,不十分だと 1948年に書いていた。石川は日本の中世における児童観は,〈大人の延長としての子供〉と見 ている。「子供を大人(親)の延長とし,継続として見る観方は,古代は勿論中世においてもま た支配的であった。」32)だから「神童とは〈子供の大人〉を呼ぶ名であったとしか受取れない。」32)

いわば「変装された大人」,「すましこんだ大人」として子供を観たのである。「子供の中に大 人を描く」32)のであった。けれども,まさに中世を通じてこそ「児童期の確認,大人の世界から くっきりと区画せられた子供の世界の存在をしっかりと認識する」ことが「徐うに開拓せられて 来た」32)のでもある。ヨーロッパでは「子供期の発見は,疑いなく十三世紀に始まる。」31)この

ことは,中世ヨーロッパにおける大学の発生と重なるのである。興味深いことである。

子供期の発見とは,被教育者=学習者の発見,ひいては教える者の発見であると考えることは できないだろうか。子供観の転換がいかにして生じえたのか,それはいつのことか。そしてこの ことが教育理論の論理構造といかに関連するかは,極めて興味をひく問題であろう。石川は「子 供をく縮少された大人〉とみる歴史段階と,<大人とは質を異にする特性をもって生活する社会 的存在〉ととらえる歴史段階」とを区別し,「前者から後者への進展」32)に注目していたという。

今後は,この点から更に進んで各々の歴史段階に対応するであろう教育理論の特質を明らかにす る必要があるのだろう。いずれ稿を改めて論じてみたいと思う。

工3.ギリシャ教育理論の論理性

ギリシャに教育があったこと,プラトンやアリストテレス等に教育思想があったことは明らか である。しかし,それらはいかなる論理に支えられていたのか。ギリシャ教育の論理を,音楽,

体育,また対話術に即して検討して来たのであるが,それらはいずれも子供の成長・発達理論や

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また、小山(1994)によると、音楽科の評価が 困難なものと考えられている理由に、 「芸術に標準 や基準はなく、教師の主観によっている。

しかしながら、民族音楽の分野では、「音楽は国境を越える」という音楽の普遍

では,最初の言語と古代ギリシャ語がほとんど同列に扱われ記述されてい

51 第 80 回土曜公開講座 音楽の科学と心理 ―なぜ我々は踊るのか―  神戸学院大学心理学部

4.音楽の成立過程

実験は実験用の音楽 12 を用い,この中から実 際に類似音楽を探索することで行った.音楽 12