「運動」する楽しさの構造についての一考察
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(2) はじめに. あいさっという習慣は、人が人と交わるためのひとつの様式である。 「おはようございます」と言って軽い会釈をする。相手も同様にして返 してくれる。そこには、声のトーンとか抑揚、表情や動作など単に言葉 のやりとりが行われるのではなく、具体的な出会いが様式によって構成 され、二者のかかわりによるひとつの世界が成り立つのである。もしあ いさっという習慣がなかったとすれば、触れ合いたいという願望を持ち ながらも、出会うための口実も見つからず、むなしいままに通り過ぎて しまわなければならないだろう。人は人との関係を持つために、必ず何 かを差し挟まなければならないのである。そのためにわれわれは数々の 様式を生み出して来た。しかしそれらは、ひどく限定的で出会い方を狭 め形式化してしまうように思えるが、それは交流の仕方をより具体化し ているにすぎない。われわれはこうした様式を文化と呼んでいる。これ から取り上げようとする「運動」はそういう意味では、まぎれもない文 化の型だと見ることができる。. 走る、跳ぶ、投げる、回転するなど日常性から逸脱した身体の様態を 必要とする「運動」という出会いの様式は、半ば本能的に作り出された、 人類でもっとも古い文化のひとつだと思われる。現代では、そのうちの 最も合理化されたものをスポーツとして、未分化なものを遊びの範疇に 入れながら、われわれは多くの種類の「運動」の様式を持ち、多くの人 がそれに親しみながら生活を送っている。それらはわれわれにいろいな 交流の仕方を提示し、独特な出会いと関係を取り結ぶ時間を作らせてい る。しかしきわだった独自性を持ち、歴史も深く、親しむ人の数も莫大 なこの様式は、音楽や美術、文学、演劇などの他の文化様式に比べ、文 化の成熟の度合いが遅れてはいまいか。ホイジンガは、スポーツが、遊 びから遠くなったと言った。スポーツは、大衆化するにつれ、遊びの要 素が失われつつあると「ホモ・ルーデンス」で警告し、遊びの精神こそ が文化の純粋な水源なのだと彼は主張する。われわれは運動という文化 を熟成させるのではなく、むしろ堕落させているのではないか。. 近年体育では、「楽しさ」ということが大切にされるようになった。 このことは、「運動からの教育」から「運動の教育」への大きなパラダ.
(3) イム転換なのだと言われている。だが、「楽しい」という言葉は、わ れわれに豊かで、意味のある時間をイメージさせる一方で、享楽的で、 その場的で、ある意味では危険な側面も持っていると考えるべきだ。. ホイジンガは、文化の堕落は、高度大衆社会にあると言っている。教育 の現場で「楽しい」と言う言葉を謳うには、その裏側にある危険性をも 視野に入れておかなくてはならないだろう。. 音楽や美術は、「美」という言葉を価値の中心においている。それら は裾野は広く、あらゆるレベルのものがあるといえ、文化としてのひと つの高い価値をその中心に確立しているように思える。運動の価値の中 心となるような概念とはなんだろうか。運動にとっても「美」であろう か。運動は価値の中心的な概念となる言葉を持たなかったのではなかろ うか。われわれはなぜ運動にひかれ、なにを求め、なにをなそうとして いるのか本当は知らないのではないか。だからこそそうした言葉が浮か ばないし、遊びの精神から遠ざかったのではないか。. 「美」というものにしろ、反面にはデカダンス的な危険を絶えずもっ ている。「美」はむしろその危ういバランスをとるところに本質的な美 しさがある。その意味から逆説的に「楽しい」という言葉もひとつの価. 値の指標になりえはしないか・そ墜の可自旨即して・嘆」と同じよ うに、「分かる」「理解する」ではなく「感じる」という点がある。. 「楽しさ」が感じられるのは、感じられる主体が必要とされる。それは 「美しい」と感じられるのと同様である。それらは強いられて感じられ るものではなく、主体が、言い換えれば身体そのものが価値評価を下す 力でなくてはならないからである。その力はアプリオリなものであると 同時に学習するものであり、増殖、拡大するものである。「楽しさ」は、. その意味から、身体の根源的なあり方を問う、ひとつの機軸になりえる ものである。. 運動という関係様式によってわれわれは出会い、そのたびに世界が創 出される。そこでは何が起き、起こそうとしているのか。またどのよう な関係にあるのか、ありうるのか。そこに「楽しい」と感受されたとす れば、なにによってそう感じ得るのだろうか。. 運動によってできる世界に文化の水源をみつけ、ホイジンガの意味す るところの遊びの精神を、運動に再生させられるよう、考察を深めたい。.
(4) 目. 次. 1. 楽しさの構造論. 第1章 1節. 2節. 2. 「楽しい」という心の様態の性質. 7. 心の様態の様々な概念. 3節. 「楽しさ」の範躊. 4節. 「楽しさ」はどのように構造化されるのか. 15. 「運動」とは何か. 21. 第2章 1節. ,13. 「運動」することによってどんな世界が開かれるのか. 22 1、「運動」することによって空間はどう変わるか 23 2、「運動」することによって時間はどう変わるか 25 3、「運動」することによって動作はどう変わるか 27 4、「運動」するヒとによって関係はどう変わるか 30. 2節 「運動」の全体をとらえる. 33. 1、遊びとスポーツ. 33. 2、「運動」を、遊びとスポーツを両極に置いて分節. する. 35. 1)主体者にとって遊びとは何か. 35. 2)遊びとスポーツを両極に置いて「運動」の. 全体を見る 3節 運動世界. 第3章. 「運動」する構造. 37 41. 45.
(5) 1節 運動行為の二面性の概要. 45. 2節 「動きの意味」. 46. 1、価値について. 48. 2、「運動」の価値の二極性について. 53. 1)形式的価値. 54. 2)主体的価値. 55. 3)形式的価値と主体的価値との関係. 56. 3節動きの生成. 59. 1、動きの無意識性. 59. 2、具体的な運動場面での動きの生成. 63. 第4章 「運動」する楽しさはどのように構造化されるのか. 67. 1節 快感はどのようにして快感と感じられる ようになるのか. 67. 2節 「運動」することにおける快、不快は. 73. どのように起きるのか. 1、「動きの意味」と「動きの生成」の. 運動場面での記述. 73. 2、形式的価値下での快一不快. 76. 3、主体的価値下での快一不快. 82. 1)主体とは何か. 82. 2)主体的価値における関係とは何か. 83. 3)主体的価値下で行われる「運動」の. 快はどういうものか 4、「動きの生成」の快一不快. 85 90. 1)技術とは身体にとって何か. 91. 2)「動きの生成jの快. 96.
(6) 3節運動する楽しさの構造化 第5章 体育での楽しさとは何か. 1節何ゆえに「楽しい体育」なのか. 99. 102. 102. 1、楽しい体育の背景. 102. 2、楽しい体育のとらえ方. 105. 1)体育の楽しさとは何か. 105. 2)体育の楽しさは特性にふれること. 106. B)特性とは何か、特性の源流をたどる. 108. 4)運動の欲求充足機能. 110. 2節 「楽しい体育論」を批判する. 112. 1、問題の所在. 112. 2、「楽しい体育論」の問題. 113. 1)社会的な要請の中で体育をどうとらえるか. 113. 2)「運動」とは何か. 115. 3)特性にふれることが楽しさだ とする観点を批判する. 3、「運動」する楽しさから体育の学習を見る 最後に. 引用・参考文献. 116 118 119. 121.
(7) 第1章 楽しさの構造論. 本章の目的は「楽しい」と感じることはどんな現象であり、それがど のような構造を持ち、またどのように構造化されるのかを明らかにする ことである。先に示したように本研究の目的は「運動」する楽しさの構 造を明示することにある。「運動」する楽しさは、他の領域の楽しさと は違う独自の構造を持っている。しかし、楽しいと感じるその内容は、. 方法が違えば同じものでないとする根拠が明確ではない。(1990片岡、 森田 体育・スポーツ哲学研究p63) つまり音楽の楽しさも、食事の ‘ 楽しさも旅行の楽しさも過程は違っても得る結果は同一であるという問 いに明確な答を持つことができないということである。そこで本章にお いて、楽しいと感受する原因と結果という図式の中のそれぞれを括弧で くくっておき、楽しさの成立するプロセスを明らかにすることによって その全体性を明らかにしていくという方法をとることにする。したがっ. て本章では、日常の中での「楽しい」と感じる場面の具体から考察を始 め、そこで得られたものを先行研究との検討の中から、「楽しい」と感 受する構造とその構造化モデルを論述する。. 楽しさは、日常的に感じられ、また実際に「楽しい」と頻繁に口にさ れる言葉である。しかし「うれしい」「腹が立つ」などの言葉と比較し ていくとき、意味だけではなく、その言葉の性格に明確な違いがある。 「うれしい」は、好ましい状態、快適な状態、心地よい状態を表してい る。基本的な意味の方向性は「楽しい」と似ているが、「うれしい」は それを感じる対象があってこそ生まれるが、「楽しい」は対象は曖昧で、 今自分がある感じだけを表現している。そして「うれしい」は「楽しい」 に比べれば、一過性の時間の短い心の様態であるといえる。例えば、 「ああ、うれしい」と言ったとき「何が」または「何で」という問いを. 立てるとする。すると「プレゼントをもらって」あるいは「∼ができた から」あるいは「あなたの気持ちが」など、原因となる対象をたどるこ とが可能である。これは、「うれしかった」と過去形になったとしても、 対象性の内容は変わらない。ところが「ああ、楽しい」と言ったとき、 「何が」または「何で」との問いには「こうやって音楽を聞いてること 一1一.
(8) がさ」などと時間を分節し、ひとつの単位化された時間全体を見ている。 このとき、楽しいのは本ではなく本を読んでいることであって「うれし い」などのように対象性は限定できない。これを「楽しかった」と過去. 形にしてみると、「映画をみたことが」あるいは「友人に会って話がで きたことが」など、∼したことというように、ここでも時間分節がなさ. れ、単位化された時間全体が対象となっている。ここでも映画でなく映 画をみたことであり、友人でなく友人にあって話ができたことである。 日常的に「あの.映画は楽しい」と語られるのは、映画は時間と言う単位 をもって成立しているモノだからである。 る これだけの比較でも、両者の構造的な違いがわかる。この章では「楽「. しい」という心的な現象をどのような性質を持つものなのかを記述し、 その後どのように構造化されていくのかということを明示する。. 1節、「楽しい」という心の様態の性質 例を示し具体的な記述を試みながら、「楽しい」』という心の様態の性質 を考察する。. 映画館から出て来た人をつかまえたインタビュアーが、感想を求めた 時「楽しい映画だった」との答えを聞いたとすると、次には「どんなと ころがよかったですか」と聞き返すのが常套である。この時、「どんな ところが楽しかったですか」と問うた場合、回答者は返答に困る場合が 多い。どこがよかったかという問いに対しては、「誰々が、何々したと ころがおもしろかった」あるいは「どこそこの場面にすかっとしたよ」 という返答ができそうであるが、「どこが楽しかったか」という問いに 対しては、それ自体は快感を得た場面ではあるが、「楽しかった場面」 としては取り上げることはできない。子供ならばそういう問いに対して. は「全部」と答えることがある。これは極めて注目すべきことで、「楽 しさ」の言葉の持つ性格をよく表している。つまり楽しいと言う言葉は、 全体をくくる包括的な意味が強いということである。「楽しい」という. のは、満ち足りて、明るく、快適な心の様態を表しているが、その原因 となる対象が明確ではないのである。先の映画の質問の場合「おもしろ かった」という返答も「すかっとした」という返答もともに、自分があ る対象に対してどのような感情を持ったかというものになっている。だ. 一2一.
(9) から日常で「何が楽しかったか」という問いは、あまりしないし、ある とした場合は、返答がはなはだあいまいになるということである。楽し いという心の様態は、常に漠然とあるのである。だから、「どこが」と いう問いに対しては、先の子供のように「全部」と答えることになって しまう。インタビュアーが、楽しかったですかの後に、どこがよかった かという聞き方をした理由は、ここにあるのである。 さて上述のことから次のようなことが導き出せる。「楽しい」という 心の様体は、何に対してというものでなく、結果的にある、なってしまっ. ているという心の様態そのものを感じとったものである。したがってひ る. とつの時間のくぎり、恣意的な自己の時間的単位を包括的にとらえた感 情であると言えよう。. しかし、包括的なものであるとしても、どのようなものを契機として、. 愉快で明るい心の様体になるのであろか。具体的に何が作用してその状 態に至らしめると考えられるのだろうかということが問題となる。 つまり、先にあげた「おもしろい」「すつかとした」あるいは、「怖い」 「うれしい」または「腹が立つ」「嫌いだ」「大好き」などの心の動き は、その揺動を引き起こすその対象がはっきりとしている。何におもし ろいと感じたか、何にすかっとしたのか、何に腹が立ったのかの「何が」 が明確である。楽しいはそうではない。. 楽しいは、自分の今ある心の状態そのものを問うた結果、認知する、快 い、陽気で明るい心の様体なのである。. 対象性が不明確であるということは、逆に言えば、愉快で満ち足りた、. 明るい心の様体になる原因が不確かであるということでもあり、引き起 こす対象がはっきりしないということである。ではいったいどのような. カが働いて「楽しい」という心情にいたるのであろうか。具体的な例を 日常的な記述によって掘り下げてみる。. ①旅行を控えた前夜という設定をしてみよう。寝所に入り、眠ろうと. するとき、子供のころの遠足と同じように、胸がわくわくし、なかなか 寝付けないということがある。このとき、直接的には何も主体者には起 こっていない。対象となるような快感情を引き起こすものに遭遇してい ないということだ。旅行への期待を含めた様々な想像が、胸を高ぶらせ、 一3一.
(10) 愉快で明るい感じに包み、それが睡眠をさまたげているのである。その 気持ちをたずねたとしたら、本人は「楽しみ」と答えるであろう。. ②目的地に向かうために、駅に行ったとする。プラットフォームに出 て、電車を待つが、旅行だというだけでなにやらいつもと違った感じに. 包まれている。毎日仕事に出掛けるために立っているプラットフォーム であるのに、家族を連れている以外何も変わっていない駅である。電車 を待つという事態はふだんとなんの違いもないが、この時「楽しいです か」とたずねられれば、「楽しい」と答えるであろう。 ‘. ③旅行から帰って来たとき近所の人に会った「楽しかった?」とたず ねられ、こどもが「楽しかったよ」と答えた。詳しく見るならば、旅行 のすべての時間に心地よい、愉快な、快情動に包まれていたと考えるこ とはできない。おもしろいことや、うれしいこと、気持ちのいいことは たくさんあったであろうが、退屈な場面や不快なこともあったに違いな いからである。しかし「楽しい」と言えるのはなぜなのだろうか。. ①の場面は楽しみ②の場面は、楽しいという状態にあるが、①の場面 については、旅行が始まっていない段階であり、②の場面については、. 旅行が始まっている段階であるが、いずれもふだんと同じ行動、同じ場 所にいる場合である。①の場面で「楽しみ」という感情は、どんな感情 であろう。われわれの生活の中で「楽しみ」とい言葉を使うときは、未 来にある何物かに対して、好ましい「時間」を期待することによって起 こっている現在の、宙づりだが、陽的な感情である。例えば、贈り物が. 届いたとき、父親が帰るまで、中を見ることを禁じられた子どもは、待 たされる時間において「楽しみだなあ」と言う。この「楽しみ」は中身 が楽しみなのではない。中身が何であるか確かめること、即ち開けて確 かめる行為の時間が楽しみなのである。そしてさらに、その対象とする. 単位時間ができたときに、そのことを予想し、期待することによって現 在の感情そのものも侵食されている状態が「楽しみだ」という感情なの である。「楽しみ」という感情は、対象がひとつの時間枠になっていて 対象性そのものは明確ではないという点で「楽しい」という感情をべ一 一4一.
(11) スにしている。そして「楽しい」と構造を異にするのは、未来にそれが 置かれているために、それを期待することによって三訂ではあるが宙づ りにされた感情が現在に混入しているということである。. ②の場面を見てみよう。②はもう旅行が始まっている訳だが、心地よ く、愉快な気持ちにさせるような具体的な対象は何もあらわれていない。 日常化してしまった行動とまったく同じ行動をとっているのである。こ. の時、もちろん主体者には駅にいることが旅行の一部なのだが、旅行だ とは意識しづらい。むしろ電車を待って乗るという目的と、家族を乗せ る るという義務感が意識の中心となっていることであろう。つまり旅行は. あらゆる行動の前提であるが、意識の下にもぐっているとみることがで きる。しかしそうであってもなにやら楽しいのである。「おもしろい」 という感情と比較してみよう。例えば滑稽な漫画を見て、「おもしろい」 という感情が引き起こされたのは、対象との関わりの中でうまれたもの. である。②の場合は、そうした直接的な関わりがない。旅行は始まって いるのだが、旅行を対象として見ることはできない。漫画を対象として. 引き起こされた愉快な気持ちは、主体者の意識が絶えず対象にむかった ことによっている。一方の旅行中の主体者の意識は、旅行に直接向かっ ている訳ではない。そこで「楽しいか」と問うたときに、「楽しい」と. 返答するならば、それはその問いによって時間をくくり、それを評価的 に眺めたことによるものであろう。しかしここには、 「おもしろい」の. ように何かというものがない。自分が分節した時間に自分がどういう気 分でいたかという、漠然とした感じを「楽しい」と評価したのである。. 漫画の「おもしろい」という感情は、漫画という対象から受けた情動 的なものによっているのである。それに対して旅行中の「楽しい」は、. 対象が明確でなく、自分が漠然と受けている気分的な感情を表現したも のであると考えられることができよう。つまり漫画を読んだことによる. 愉快な気持ちと旅行に中にある愉快な気持ちは、構造的に違うというこ とになる。. ①と②のことから次のようなことが言える。自己に好ましく、明るい 快適な心の様態も、意識が対象に向いた上でそれとの関わりの中でたち 現れるものと、意識が対象を向いていない場合でもそのような傾向性を 一5一.
(12) 示すものとがある。前者が「おもしろい」「うれしい」などの様態であ り、後者が「楽しい」という様態である。. ③の場面は、旅行が終わった状態である。近所の人の問いに回想をし ながら、楽しかったと答えるとき、前述のように旅行のすべての時間に. わたって心地よい感情に覆われていたとは考えられない。旅行の各場面 場面では、快く気持ちのいい心の揺動があったであろうが、不快なこと や退屈なこともあったはずである。だが楽しいと言う。ここに楽しいと. いう心の現象の特徴が最もよく出ている。ここの例での楽しいという言 る 葉は、客観的な評価のような意味合いを帯びている。旅行という活動を 一区切りの時間としてそれを「楽しい」という言葉によって評価してい ると見なせる。そういう観点から日常を振り返れば、楽しいという言葉 はひとつの活動や行為の評価語となっていることにも気づく。「楽しい. 授業だったよ」「楽しい体育」などの楽しいという語彙の使い方は、明 らかに評価である。であるとすると、楽しいという言葉はロゴスなのか という問いも浮かび上がる。「楽しい旅行だった」という言い方の中に は、その旅行が、楽しいという言葉によって好ましい、意味のある、な どなんらかの価値づけをする意味が含まれている。だが、楽しいという 言葉が理性によって導き出された言葉であるということにはならない。. 楽しいという形容詞は、「楽しい」と主体者が感じていない限り使えな いからである。「楽しい」というのは感じている主体を認知しなおした 後に出てくる言葉である。だから評価という観点も、感受した事実をも ととして、つまりそれを評価の軸として、評価となりえるのであるから、 「楽しい」と感じる現象そのものは、理性だとは言えない。 だが、感じることに関しての根本的な問題が残っている。『「楽しい」. をひとつの時間枠の中での全体にわたる心の様態として見たとき、「楽 しい」と感ずることが可能なのかということである。というのも、その. 場合、過去にあった心の様態を感じていなければならないことになるか らである。この節の冒頭に問いを立てたように、ひとつの時間枠を設定. すれば、心の様態は、終始同じような傾向にあるのではなく、時間枠が 広がれば広がるほど、好ましい様態とともに、不快な時、退屈な時など、 いろいろな感情が入り込んでくるのであり、そのつど変化が生じている。. 一6一.
(13) だが「楽しい」あるいは「楽しかった」という表現は、活動の時間軸を 離れながら、概算的に自分の感受している感じをとらえているのである。 このことからすれば、「楽しさ」は、様々な過去の心の様態をも総括し ていることにもなる。これが「楽しさ」の特徴である。概算的な感じ、. 総括として感受とは厳密には、どんなことであるのかということを明確 に示すことはできない。それはわれわれが日常において「楽しい」と感 受する際に、ひとつひとつの記憶する自己の感覚を取り出し、吟味した 後そのように感じている訳ではなく、われわれの胸の中に去来している ある「感じ」を「楽しい」という言葉によって分節しているのに過ぎな ‘ いからである。. さてここまで、楽しいという心の様態の性質を例をあげながら論述し てきた。要約をすると、「楽しい」という心の様態は、それを引き起こ. す対象性が明確でないこと、評価的意味を結果的におっているが、それ は論理的な把握ではなく「感じる」ものであること、またその「感じる」. は、任意の時間枠の中で概算的、あるいは統括的なひとかたまりの「感 じ」として、感じ取られるものであるということであった。. ここで、今まで論述してきた「楽しさ」の性質をこれまでの心理学が 使って来た心の様態に対する用語の概念とつきあわせ、「楽しい」とい う心的現象がそれらの用語群からどのようにとらえ直せるかということ を検討する。その後、それをもとに「楽しい」という心的現象がどのよ うに構造化されるのかということをモデル化を試みて明示する。そのた めにまず先行研究における、心の様態の様々な概念を取り上げ、楽しさ がどのようにカテゴライズされるのかということから述べることにする。. 2節、心の様態の様々な概念 心の様態を表す用語として、感情、情動、気分、情操、情熱、情緒な どがある。それらはそれぞれ意味する概念の大きさや強さ意味が異なっ. ているがある部分では重なっているところもある。それらは厳密に範疇 を確定された後に作られた言葉ではもちろんなく、ある様態を表現する ために作られ使われて来た言葉であると推測することもできる。「楽し. い」という様態を感情なのか、情動なのか等々どこに収まるものなのか 一了一.
(14) を検討する時、逆にそれらがどんな概念を持っているのかを問うことが 先になった。以下にそれぞれの用語の解釈とそれぞれの関係を述べる。. ①感情. 感情は、生活の中に溶け込み頻繁に使われる言葉であることから、そ の用いられ方は多義にわたっている。例えば、「感情的になるな!」 「彼は感情的な人だ」「人間は感情的な動物だ」などと使われるときの. 感情は、突然引き起こった激しい心のゆらぎを意味している。また、道 徳的感情、宗教的感情などこのように接尾語として使われている場合は、 ひとつの事象‘ご対しての心の動き全般を指している。一般的には、心全 体の動きの総称的な用語として使われている。. 心理学辞典(ミネルヴァ書房)によると、「感情は知的、意志的作用に 対して、快、不快、怒り、おそれなどのような心的作用にたいする包括 的概念であるとし、古くから感情は主観的、直接的な意識過程であると 考えられている」と述べている。また「感情はいくつかの面にわかれる が、怒り、おそれなどめ急激に生起して消失する一過性の作用と情動と. よび、気分は比較的永続的な状態をいう。情操は知的要素を含んだ感情 であり、情熱は情動の強烈な場合であり、欲求的要素が含まれている。. 興味は特定の事物対象にたいする持続的な感情である。感情の質には快 一不快、興奮一沈静、緊張一弛緩の三方向がWuntによってあげられてい る。感情は主観的経験であるとともに感情表現として身体的に表出され る。また、対象を認知する過程を通して、それが脅威であるか無脅威で. あるかを評定して生じる反応として感情を考えることもできる。」(前 掲詞書)としている。また誠信心理学辞典では「喜び、悲しみ、怒り、 憎しみといったような体験が、感情とよばれる。これらの感情の中には、. 快、不快の色彩が明瞭に示されていることが多く、体験の内容に対する 個人の態度が表明されている。これに対して、もっと感覚的な意味で使 われることもある。物の表面にさわってザラザラした感じ(感触)とい うように感覚的な知覚の印象を感情とも言う。圧追感を感ずるというと. きの知覚は、もっと漠然として長時間にわたる感情を意味している。一 般的に言えば、気分といってもよいものである。劣等感、罪悪感(feel ing of inferiority,feeling of guilty)などの感情は、意識されない. 一8一.
(15) 無意識的コンプレックスを意味している。このように感情の概念は規定 しにくいものであるが、感情を分類しようとする試みがある。ヴントの. 三方向説 一中二一感覚的で低級な感情と、精神的で高級な感情を分類 することもある。あるいは、体験の種類によって美的感情、宗教的感情、. 道徳的感情、知的感情などを分類することもある。感情が機能的に考え られるときは、行動を起こす動機として考えられる。情動(e皿otion)は、. 動機として感情を意味している。」これらの二者の説に共通なのは、心 的作用として感情は包括的な大きな概念であり、いくつかの面(ミネル ヴァ)や規定しにしにくいもの(誠信)といいながら、感情の多面性や 多義性を示唆している。一方は、下位用語としての情動や気分などを用 いながらその包括性をいい、もう一方は無意識的コンプレックスを示し てその概念の複雑さを述べている。. 西川は「周囲の事象や自分自身の状態などに基づいて起こる、ある く心のゆらめき〉を感情feelingと呼んでいる。つまり感情はわれわれ の体験があるところ、つねにそれを彩り、それとともに流れていく、き わめて主観的なものである半面、それだけ根深いものだ、と言っていい. だろう。r感情』こそは〃心そのもの〃であり、心の全体を代表するも のとみとめても必ずし不当ではないようであるという学者もいるくらい である。」(1967 図説・心理学入門 法政大学出版p217)と述べてい るが、これらのことを簡潔にまとめると次のようになろう。. 感情は、「人があらゆる事物、事象に触れたときに生じる情感(心)の. 総称である。」(1994岩波講座 認知科学6情動p6)のようにまと められる。とすると楽しいという心の様態は感情に入ることになるが、 このように大きな包括的概念として定義されるとするならば、その下位. 概念として位置付けられる、情動、情緒、気分、情操などは、それぞれ は、どんな概念的な違いがあるのだろうか。. ② 情動. 情動は、「短時間で生じる一こ口の感情で、怒り、悲しみ、恐怖、喜 びといったような激しい心の揺らめきをいう。」(岩波小心理学辞典) ワトソン,J. Bは、基本的、生得的情動として、恐怖、怒り、愛情の 三つをあげている。. 一9一.
(16) 「怒り、悲しみ、恐怖、喜びといったような感情で激しくっよいものを いう。もっとも包括的で一般的な用語として感情(affect)という用語 が使われるのに対し、情動という用語は、動の意味が強調され、動機と しての意味が強調される。(誠信心理学辞典)感情のうち、怒り、恐れ、 喜び、悲しみのように突然引き起こされた、一時的で急激なものを言う。 (岩波小心理学辞典)というように情動は、一過性の、心の動きとして は、強く、激しいものをさしている。さらに宮城は情動を 「怒りや恐れのように、主観的に重要な状況(裏切られたとか、敵が出. 現したとか)における欲求に関係した一時的の価値づけで、内蔵や血管. などに急性の変化を引き起こすもの」(1968人間性の心理学 岩波書. 店p34)とし、それを熱情(passion)嫉妬とか、宗教的な信念にと もなうもののように、情動が慢性または亜急性になったものとして情動 と熱情の関係を対比的に述べている。またプルチックは、八つの純粋情 動とその下位に属する穏やかな情動を立体構造にして表している。これ によると最上位の純粋情動には悲嘆、驚愕、恐怖、愛慕、歓喜、警戒、. 激怒、嫌忌、をあげその下にそれらを穏やかにした、悲しみ、驚きなど 色立体の色が下にいくと薄くなるようにその心の様態を対応させている。. (1994認知科学6 岩波書店p12,13) 上記の説明のいずれもが、情動は、激しい一過性の感情をさしている が、この場合それを引き起こす対象性がはっきりしている。. ③ 気分(mood). 有斐閣心理学小辞典によれば、直接の原因は不明な比較的微弱で持続 的な情動的状態、体調や天候などとも密接に関係する。情動の結果とし. ても生じ、またその原因ともなる。気質一性格特性として、特定個人が 持続的にある気分状態を保持する場合もあるとしている。また誠信心理 学辞典では、生理的、気質的な条件と結び付いて生じる比較的弱くしか も持続的な感情をいう。ゴッチャルトは、質、経過様式、易変性、周期 性など個人差の見られる身体感情と生命感情のi総括を根本気分(Grunds. ttimmung)とよび、もっぱら遺伝的要因によって規定されるという。宮 城(1968岩波)は爽快とか憂轡といった自分自身の心身の状態について の感情すなわち〈状態感情〉で、物事によってひきおこされる《対象感 一10一.
(17) 情》ではない。一方の極に健康感、からだのだるさ、身体的不快感など の《体感感情》を、他方の極に法悦とか胱惚とかいった状態たるエクス タシーつまり《意識感情》をおくことができるとしている。上述のそれ ぞれの主張は、気分を直接の原因がつかみにくい、対象性が不明確な持. 続的な感情だとしているところで一致している。またその状態が作り出 される原因としては、個人の気質や性格、生理的な条件などによるもの として共通している。宮城はリップスの状態感情、対象感情、布置感情 の分類の概念をもとに、気分を位置付け、身体と意識を両極におくこと によって生理的、あるいは意識の在り方によって結果的に起こる感情を. 気分とよんでいるが、意識の在り方によっておこる感情と気分との関係 については詳細な叙述がなく、疑問が残る。. ボルノーは、気分を精神生活全体の基礎に位置するとし、次のように 述べている。「気分を、これと類似した本来的な意味での感情の領域か ら区別しようとするならば、人間存在の根本的状態として、気分の厳密 な意味がもっともよく認識されよう。本来の意味での感情は、常に特定. の対象にr志向的』に関連する。それらはr具体的感情』r方向づけら れた感情』である。あらゆる喜びは、何かについての喜びであり、あら ゆる嫌悪は何かに対する嫌悪である等々。これに対して気分は決して一 定の対象を持たない。気分は人間存在全体の状態のようなものであり、 また色調である。また感情との関係について、気分だけが、下から支え ている生の基盤の層に属するのであり、それに対して感情は、そこから. 発展し、そのうえに築かれるrより高い』成果に属する。一中三一 気 分状態が一様に変化なくゆっくり進む根源的基盤であるとするならば、 感情は、そのうえにつくられた変化する色とりどりの陳列物であり、メ ロディである。あるいは、われわれが気分状態を一様な流れのカーブと して思い浮かべるならば、感情の変化と流れは、その第一のカーブの上 の二次的カーブを形成するのである。また、感情の側から見れば、その 時その時の気分は、精神的事象の枠組みであって、その中では、常にた だ特定のグループや方向の感情が可能になるのである。従って感情は一. 他の精神的な働きと並んで一自らにあらかじめ与えられている共通の気 分的根源を地盤として、はじめて展開し、その特色は、この気分的根源. に制約されているのである。』(1973気分の本質筑摩書房P23) 一11一.
(18) と述べている。ボルノーの意味するところの感情の概念は、上述した狭. 義での感情を意味し、情動と同義と見ることができる。ボルノーの気分 の概念は、精神生活の最下層、人間存在の根本的基盤という言葉から、 精神を覆う基本的な色調や個人の持つ根源的情緒性のようなものをイメ ージでき、人間の実存と深く結び付けられている。ここで着目したいの は、気分と感情(情動)の構造的な見方で、気分が精神的事象の枠組み をつくり、いわばそれに支配されるような形で感情が生起するとすると ころである。また気分がそれを引き起こす一定の対象性を持たないとい うところである。この二つの点については楽しさの構造化の箇所で後述 する。. その他の概念 ④ 情操(senti皿ent). 芸術・道徳・宗教などの文化価値をもつ事物によって生じ、学習を通 じて獲得される、複雑で統合された感情。 (有斐閣心理学小辞典)道徳. 的・芸術的・宗教的など社会的価値をもってた感情で複雑なもの(岩波 心理学小辞典)としている。真善美などの文化的、社会的価値にともなっ てわきおこる感情を情操としている。. ⑤ 情緒(e皿otion)情動と同義語とされている。. ⑥ 情熱(passion). 熱情、情念はほとんど同じ意味でつかわれている。宮城(1968岩波) は、熱情を嫉妬とか発明への傾向とか宗教的な信念に伴うもののように、. 情動が慢性または、亜急性になったものといい(1981岩波)には、情動 の対極に情動が急性なのに対し熱情は慢性の性向をもち、情動の持続し. たものとし、基本的な主張は変わっていない。情念については、デカル トの情念論がある。デカルトによれば、精神には能動(action)と受動 (passion)がある。能動とは精神の働きであって、具体的には意志や. 想像などのことである。一方受動とは外界もしくは身体内部からの刺激 をうけることによって生じる精神で、これは二つに大別される。一つは (触・味・臭・視・聴)の感覚と(飢えや渇き)などのような生理的欲. 求で、これらは能動的精神とは無関係のものである。もうひとつは受動 一12一.
(19) 的精神(感覚と生理的欲求)が生じたとき、それに能動的精神が加わる もので、これを情念というとしている。デカルトの情念の分類は六つの 基本情念があり、驚き、愛、憎しみ、欲望、喜び、悲しみとしているが、 その意味するところは情動に分類されるものと考えられ、情念としては. 取り上げない。情熱、熱情、情念は、ある対象に対し情動が意志や意識 の介入によって持続させられているものを言うと考えられる。例として、 復讐心、愛情、嫉妬などがあげられるだろう。. 3節、「楽しさ」の範疇 前節によれば、感情は広義、狭義の両方の意味を持っている。前者で は情感の総称として、後者では情動として使われているが、本研究では、. 感情を広義としてとらえ、狭義の感情は、情動として表現することにす る。したがって、「楽しさ」はここでは感情の中のひとつの現象という ことになる。感情をのぞくと、前述したのは、情動、気分、情操、情緒、. 情熱になる。情緒は、ここでは情動と同じ意味としてあつかうため、残 りの4つの概念との比較検討をおこなうことにする。. 第1節の検討によれば、楽しさは、好ましく明るい、心地よい感情で あるが、その原因となる対象性が明確ではなく、評価的意味をおってい る。また任意の時間枠の中を総括的に感じ取る心の様態であった。. ① 情動は、一過性の強い感情で対象性が明確なものであった。楽しさ は、強い感受をする場合があるが、かなり持続的で、対象性は明確では ない。さらに詳細に見るならば、強く楽しいという感じをもっというと きには、その場面において、強い快情動を受け、その影響によって強い. 楽しさを感じるという二重性をおっていると考えられる。このことから すれば、楽しさの感受は、情動の影響を受けるが情動ではないというこ とになる。. ② 気分は、特定の対象性をもたない精神の持続的な色調である。楽し さは、特定の対象性がなく、持続的な明るく心地よい精神の色調を持っ ている。ボルノーによれば、気分とは精神の最下層にある基盤である。 そのイメージは、情動があらゆる事象に対し、さまざまに反応し変化し. て行くのに比べ、気分は、容易に動かしがたい、自己の心を覆うある程 一13一.
(20) 度安定した感情である。前節に述べた楽しさの在り方は、例えば旅行の 最中におこるすべてのことが快情動につつまれていないのにもかかわら ず、楽しいといえるという現象と符合する。ひとつの明るく、心地よい. 心の状態にある楽しさは、ひとつの容易に動くことのない気分と見なせ ばいいわけである。この点からは楽しさは気分の概念を襲えた二二だと. 見ることができる。だが、ひとつの相違点がある。気分ほひとつの状態 てあり、精神の色調である。ところが楽しいと感じることは、その状態 や色調つまり気分を認知したところの、評価的な感情という二重性を持 つということである。それは気分が、生理や天候にまで左右され、はて く. は、気質や性格などの遺伝的要素までもその要因に入れられるという、. 意識以前のものとされているところに根本的な相違が見いだされる。楽 しいと感じることは、気分の快適さを感じつつ、もうひとつの経路をた どるようにして楽しいと感受していると考えられる。. ③ 情操は、真善美などの文化的、社会的価値をもった複雑な感情とさ. れている。「楽しい」は、事象から離れて、客観的に感受するという感 じ方をする。このプロセスは、情操という感情の起こり方と同じである。 絵画や風景を見て美しいという感情や、物語りを読んで感動的だという. 感情は、ものごとにおいて楽しいと感じる感じ方と同じである。なぜ感 じられるのかを明言することはできないが、ひとつの身体化された価値 をくぐることによって美しい、感動的だ、楽しいという感情が引き起こ ることは図式的に同じである。しかし、絵画や風景や物語りは、ひとつ の対象として成り立つが、楽しいという感情の場合やはりその対象が明 確ではないという違いがある。. ④ 情熱、熱情、情念は、ある対象に対する持続的な情動だとされてい る。持続的ということから、この感情は、自分でその状態にあることを. 認知することができる。楽しさもその様態にあることを認知するもので ある。だが例えば、好きだとか憎いなどの感情には明確な方向性がある が、楽しいと言う感情には、その様態にあることのみを感ずるだけであ. る。つまり持続的な感情である点については同じであるが、方向性の有 無については大きな違いがある。このことは、同時に感情の在り方の質 一14一.
(21) そのものの相違にもつながることである。情熱がある種の能動性を持つ のに対し、楽しさはくただあるという状態に過ぎず、心の様態の概念と して根本的な構造の違いを感じる。. 楽しさがどのような性質を持つものなのかをさぐるために、こころの 様態をあらわす用語を取り出しそれらの持つ概念と楽しさの持つ概念と を突き合わせて検討した。それぞれの用語は心のゆらめき全体(感情) を整合性を持って構成する用語というわけでなく、それぞれの様態にあ. わせて表現する言葉として語られて来たものであるように思われる。楽 る しいという感情は、それぞれの中にある要素と共通する性格を持つ部分‘ があったが、的確にどこかの用語の概念に収まるものではなかった。こ こで次に楽しさがどのように構造化されるのかということを、前述して きたことをもとに論述し、そのモデルを示すことにする。. 4、「楽しさ」はどのように構造化されるのか。. プルチック(1981)は、情動に関する語彙をもちい、多次元尺度構 成法によって色立体を模した情動立体をあらわした。(図1)これは、 八つの純粋情動(悲嘆、驚愕、恐怖、愛慕、歓喜、警戒、激怒、嫌忌) を上位に置き、その下位に穏やかな情動を配していくものである。例え ば、悲嘆の下には悲しみが置かれ、その下には、もの悲しいが置かれて いる。また、純粋情動についても、悲嘆と歓喜、激怒と恐怖というよう に対立する情動が向かい合わせに並べられている。ここで着目したいの は、情動が上位に置かれ、下にさがるに連れて穏やかな情動になってい くというところである。立体の下位に当たるものが明記されていないが、 おだやかな情動は、しだいに気分と呼べるものに近い心の様態になって いくと予想される。ボルノーは、気分は精神の最下層にあると根源的な 基盤と言ったが、プルチックの情動立体も下層を明記するとするならば、. 気分にならざるをえない。八つの純粋情動の下層は、それらが穏やかな ものになるということは、対象性が薄くなるということであり、しだい. に分割が不能になっていくのである。こうした立体を示したとき、情動 の概念では、は6きりと限界があるように思われる。. 一15一.
(22) 図表1−1. プルチックの情動立体 認知科学6岩波. 宮城(1963)は、熱情と情動、四苦感と情操をそれぞれ対立させ、円 上にそれらが交わるように配置した、またその円を筒状に立体化し、そ の上層には、前述のものを置き、下層には、体感感情と意識感情をを対 立的に配置しそのせめぎあう面を気分とするモデルを作った。(図2) この円柱は、感情をすべて価値づけだとしたうえで、構成されたもので 生理的なものを左に寄せ、意識性の強いものが右側に置かれている。ま た上部、下部の秩序性は、対象性がはっきりしたものとそうでないもの のように思われる。ただ気分を構成する二つの方向が体感と意識という. 項目になっているが、意識感情という宮城の発案と思われる概念は、法 悦、悦惚の境地、あるいは憂欝状態と記されているだけで詳細に知る事 ができない。対象性の明確不明確は、意識の介在に大きくかかわりのあ ることである。気分を対象性がはっきりしない感情であると定義づけた 立場からすると、気分を構成する感情として、意識感情という表現は、 その内容とともに納得できるものではない。ただ、胱惚、法悦といった ものは、身体性が強く、意識性の色合いが濃いものだと言えないことを 考えると、意識感情の意図は別あところにあるのかもしれない。. このモデルにおいて注目したいのは、プルチックの情動立体と同じよ うに、対象性の強いものが上部に、少ないものが下部に置かれているこ とである。対象性の希薄な感情がすべて気分であるとは言い切れないが、. 対象性が薄れれば、心の様態として人間の根底をおおうような、意識の 薄い色調のようなものをイメージできるわけで、それはボルノーの言う 一16一.
(23) 患 苦 感. 熱 情 情 動. 体 感 感 情. 情 操. 気分. 意 識 感 情. 図表1−2. 気分に近いものになるように思われる。. 以上、ふたつの心の様態を表すモデルを示したが、. 「楽しさ」は、こ. 繭 のモァルにうまくおさめることができない。それはプルチックの情動立. 体は、気分を位置付けるものではないし、宮城の感情の構造図は対象性 の概念がその中にうまく秩序づけられているとは思われないからである。. そこで、両者のモデルを参考に感情の構造モデルを試作し、楽しさがど のように感受されるのかということを示すことにする。(図1−3参照). 図1−3の意図の概要を説明する。心の下層に置かれるのは気分であ る。上層には情動がある。それを囲う枠の中は、感情を表している。左 へ寄れば快感情になり、右に寄れば不快感情が強くなる。情動は、対象 からの刺激に対して反応が速く、気分は、鈍く、ゆるやかな移動しかし. ない。気分が移動するのは、生理的な変化、環境の知覚、意識に浮かび 上がっていない意識(前意識)の刺激による。情動の変化は絶えず気分 に降り、気分を少しずつ移動させていく。気分は、外からの刺激ととも に情動の変化によってゆったりと移動する。例えば、愉快な場面に出く わしたとき、沈んでいた気分が晴れたというようなこともある。これは、. 左の快感情の側にすばやく移動した情動が気分にその糸をおろしひっぱ るようにして重い気分を左に動かしたということになる。一方、気分も. その位置するところがら情動に影響を与えていく。例えば非常に暗くふ さぐような気分にあるとき、ふだんならばおもしろく感じることも、少 一1了一.
(24) 楽しさを感受する構造図. 情..、__勲、 ,,_.. 対象性が明確. 不〃1央. ・1央. 対象性が不明確. 認 雨. .. 気. 図表1−3. しもおもしろくないというような場合がそれである。図にそくして言え. ば、右の不快感叢叢によっている気分が左の快感情に行こうとする情動 を右にひっぱりこんでいるのである。. この図を利用して楽しさがどのように構造化されるかを説明する。 ある事象によってその対象におもしろい、おかしい、愉快だ、すてきだ、. すばらしい、すかっとしたなどの感覚を覚えたとき、情動は、快適な刺 激としてそれらを受け止め、快感情の方へと即座に移動する。その移動 は同時に気分にも伝えられる。快感情への移動が大きいものであったり、 回数が多かった場合、気分は少しずつ左側に移動する。だがその事象は、. 快感情ばかりのものではない、悔しい、かわいそう、気味が悪いなど数 々の不快な場面にもでくわす。だが、それら不快の解消も大きな快感に 変わったり、それ以上の多くの快感情を得た場合、気分は快感情の側に ゆっくりと移動していく。逆の場合も考えられる、気分が快感情の側に あり、陽気で快活な状態にあるとき、行動は、明るく調子の良い色調に 一18一.
(25) おおわれる。一そうした場合ふだんなら嫌なことであっても気にならなかっ. たり、不快なことも、そうでなく受け止められたりする。基本的に自分 の色調が明るい場合、情動もそれを基盤に刺激を受け止める傾向にある。 前述したようにボルノー(1956筑摩)の気分だけが、下から支えている. 生の基盤の層に属するのであり、それに対して感情(情動)は、そこか ら発展し、その上に築かれる「より高い」成果に属すると述べているの は同様の意味である。このように気分によって情動は影響を与えられる。 図式的に見ていくと、情動が受けた変化は気分に影響を与えていき、 ゆっくりとその位置を移動させる。気分はその位置するところ(状態) ‘ によって情動を支え、影響を与える。つまり、情動と気分は心の様態を つくる上でひとつの循環構造となっているということが言える。. ここまでは感情一般の記述である。楽しさに限らずどのような事象に おいても感情は、こうした循環構造の中で作られている。自分たちが言 語化して自分の感情の状態をとらえる、あるいは表現するというとき、 どの部分を感知するかという点によってその感情の種類が決定される。 その感知の多くが情動であり、情動の振幅の大きさ、つまりその強さに よって分節の仕方が違い、プルチックのような見方ができるのである。. また情熱、熱情、情念と分類される感情は、情動がひとつの方向に持続 的によったものを感知することである。情操は、これらとは明らかに段 階が違うところに位置している。情操の複雑さは、文化的価値というロ. ゴスが感情の方向づけをする装置になっていることからくる。例えば美 しいという感情は、身体化された価値装置を通って快とでた情動であり、 そこでの快感情の感得をメタ認知をすることによって美しいと分節する のである。. さて、楽しさの構造化は、それらとは違うものである。楽しさの感知 は、気分にあるのである。. いろいろな事象によって情動が動かされる。気分もそれに影響を受け ながら、逆に情動にも影響を与える。そして一定の時間枠によってそれ らをくくるとき、楽しいと感じとるのは、情動を知覚したからではない。. 気分を認知(注1)したからである。なぜならば楽しさには対象性がな いからである。しであるから次のような場合の説明がつく、情動は不快の. 方によっているのに、楽しいと言える。例えばトランプのゲームをやつ 一19一一.
(26) ていて負けてしまった。しかし終えてみると楽しい時間だったと言える。 この場合負けるということは心地よくないことであり、情動は不快の方 によっている。だけどもその程度のことだったら当事者にとって気分ま で動かされるようなものでなかった。つまり気分は、ゲームに参加した ことによって、あるいはもっと他の大きな事象の影響によって快感情の 側にあったままであったと見ることができる。. 楽しさは情動と気分の循環構造の中で生成される快感情であるが、そ の快感情の認知は、気分を通して行われるものである。. 5節、まとめ 「楽しさ」は、明るく快適な感情である。それは任意の時間枠の中で 総括的にひとかたまりとして感じる好ましい感覚である。. 心の中のゆらぎを感情と呼ぶが、その中には、情動、気分、情操、熱情 などとして分節する概念がある。ところが「楽しさ」はそのどれにもう まく収まらない感情であるということがわかった。したがって従来の概. 念ではその説明がっかない。そこで心のゆらめきを、情動と気分の循環 構造の中で起こるものであるという試論をたてた。多くの感情がこの循 環構造の中の情動を知覚して分節されるものであるが、「楽しさ」の構 造化はこの循環構造によって起こされた情動の知覚ではなかった。「楽 しさ」を感じるとき、その対象性が希薄であるということを根拠に、そ れは下層にある気分を認知することによって分節されるという構造を持っ ているという結論に達した。. 注釈. 注1 認知は、思考や言語の影響が感覚、知覚に比べてより大きいと とらえる。「楽しさ」の感受は、気分をとらえる。気分は対象性が明確. でなく、またおだやかで持続的なものであるから、その感受の仕方が言 語による文節的な性格を持つ。対象性のはっきりした情動の感受には知 覚による把握が行われると考えられる。. 一20一.
(27) 第2章 「運動」とは何か. 本章では、「運動」に遊びとスポーツという両極を立て、人が「運動」 にどのような関わりをもとうとしているのかを明らかにすることが目的 である。そのために、最初に「運動」と「日常生活」とを対比し、運動 によってわれわれが得ている世界を浮き彫りにする。次に「遊び」と 「スポーツ」を両極に置き、その比較の中で、運動様式とわれわれが 「運動」にかかわわるときの指向性を見、運動というものの全体性を提 示する。最後にわれわれが「運動様態」にあるその時空間を「運動世界」 とし、そこにあることの「意味」を論述していく。. 1節 「運動」することによってどんな世界が開かれるのヵ、. カイヨワは、彼のいうところの遊びに対する本質的な衝動によって、 競争(アゴーン)、賭け(アレア)、模倣(ミミクリー)、目眩(イリ ンクス)として、遊びを大きく4つに分け、さらにそれらを横軸として、 パイディァとルドゥスという原初的な遊びの段階から、規則的で制約さ. れたものに及んでいくような縦軸を想定し、遊びの分類を行った。(表. 2−1参照)本論文における「運動」とは、身体の動きによって遊ばれ る遊びのすべてをさすものとする。それをカイヨワの分類にしたがって. その範疇を示すと、競争(アゴン)から目眩(イリンクス)までの4つ の衝動の横軸と、パイディアからルドゥスの縦軸のすべてにわたる範囲. の中で、身体の動きによっての遊びをさすことになる。(表2−2参照) さて、ホイジンガは、遊びを、「『日常の』あるいは『本来の』生で はなく、日常生活から、ある一時的な活動の領域へと踏み出してゆくも のである。」(ホモ・ルーデンス 中公文庫p33)と言い、カイヨワは、 「生活の他の部分から分離され、注意深く絶縁された活動であり、時間 と場所の明確な限界の中で完成される、遊びの空間というものがある。 ・・. Vびの領域は、保護され、特別に取って置かれた世界、即ち純粋空. 間である。」(遊びと人間 講談社文庫p35)と言っている。2人とも が、日常性から隔たった領域、空間という、ふだんの生活からは、逸脱 した、ある意味では抽象的で、虚構的な活動としているところが共通し ている。実際にわれわれ自身が「運動」という遊びを行う段において、 一21一.
(28) アゴン (競走). アレア. ミミクリ. リンクス. (運). (模倣). (目眩) 子供のぐる. パイディア. 縦、取・. じゃんけん. 撒の物まね. (遊戯). 彫合いな. 裏か表か遊び. 空想の迦. ど嗣なし. 賭け. 人形、おもちゃの. 刈一ゴーランド. ^蝦技. 求[レット. ノ. ヤらんこ. 仮熱. ワルツ. ↑ i ? i ? i 奄ヘしゃぎ ? i. i. iばかわら・i …たこあげ ii. i. aトムiiトランプの一人占いi. 1. ぐるまい. 玉突き. ウォラドレス. {クシング. 藷冾フ乗物機械. tェンシング. 戦麟. サッカーチェス. 獄麟. 瀾. 登山. スポーツ轍鍛. 総機. 見世物全般. 空中サーカス. 壷 クロスワード. ルドゥス (競技). カイヨワ 遊びの分類 (表2−1). アゴン. アレア. (競争). (運). ミミクリ (模倣). イリンクス. (目眩). パイディア (遊戯). 運. 動. iiΨ. ルドゥス (競技). カイヨワの遊びの分類を参考にした「運動」の範疇 (表2−2). 一22一.
(29) 日常生活からは一線を引いた感覚を持つことは実感できることであるが、 その一線を引いたところ、カイヨワの言う純粋空間なるものは、いった いどのように日常とは違っているのであろうか。例えば、ボクシングを. 例にとってみよう。ボクシングには、まずリングというひとつの特別な エリアが提示される、その中で、レフェリーがつく、そして対立する人 間が互・いにグラブをはめ、殴り合いを決められた時間の中で、公正にお. こなうのである。有効な打撃を数多く与えた方か、相手を反撃できない までに消耗させたほうが価値である。もしこの「運動」に殴り合う以外 に条件が与えられなかった場合、たちまちのうちに日常生活の中のでき ごとになり、問題化されることになる。ボクシングは、運動様式があた. えられたことによってボクシングとなり、「運動」する人にとって独特 な世界をつくりださせることになっている。日常の内では、不快や怒り の対象でしカ〉ない、なぐりなぐられるζとが、ボクシングという枠組み. の中では、まったくちがった意味をおび、ちがった感覚によって打撃を. 受けたり、与えたりすることを感受するのである。1ラウンド3分とい う時間についても、日常の中の3分、食事をしているときの3分や寝転 んでいるときの3分とは、長さも密度も感覚としてはまるで違っている。 あるいはリングという場所についても、相手と対するときのその空間の. 感じ方はボクシングをしてしないときのその場所とはまるで違うのであ る。. 運動者は、「運動」するときにおいて、数々の点で日常から隔たって いる。それは、運動者の感覚が運動様式に枠づけられて運動することに よって編み変えられるからである。それがどのように変えられるのかと. いうことを示すために運動を分節する4つの概念①空間、②時間、③動 作、④関係、を任意に設定し、「運動」と「日常生活」とを対比させな がらその違いを考察していくことにする。. 1、「運動」することによって空間はどう変わるか 日常生活においてわれわれの空間に対する感覚は、そこにいる意味、 活動によって異なる。われわれが置かれた状況と自分が付加する意味と. によって空間の把握の仕方が変わる。例えば、卒業式の行われた体育館 と、運動をしている体育館がとうてい同じ場所であるとは思えない・入 一23一.
(30) 学試験を受けた教室は、同じ教室であるのに、講義を受けるときにはま るで印象が違うということがある。それぞれは、そこで行う活動の意味 によって空間の分節のされ方が違うのである。あるいは、小学校の運動. 場へ、卒業後何年もしてから訪れたとき、記憶の中の運動場の広さに比 べて、現実の運動場がせまいのに驚くということがある。鉄棒の高さも、 遊具の高さや大きさも、縮小されているのである。それは、小学生だっ た自分の身体の大きさによって分割されていた空間が、記憶に残されて いたためにおこることである。. イフー・トゥアンは、つぎのように言っている。. rr空間』とは様々な観念の複雑な集合を表示する抽象的な言葉である。 人が自分のいる世界をどのように分割し、分割した部分にどのような価 値を与え、その部分部分をどのように評価するかは、その人の属する文 化によって異なっている。・…. もし人間が空間を組織化する際の基. 本原理を探すとするなら、それは、人間の身体の形態と構造、人間と人 間の関係という二種の事実のうちに見いだされるのである。・・… 身体は空間を占めているだけでなく、意図を通じて空間を支配し統制し. ているということである。身体とはr生きられた身体」であり、空間と は人間によって構成された空間なのである。」(空間と人間 ちくま学. 芸文庫 p6768). われわれは、文化によっておおまかな空間をつか. み、身体と関係を空間の分節原理としながら、意図を通じて空間を支配 していくとトゥアンは言うのである。「日常生活」においても、自己が その空間に身を置くその時々の意味や意図によって空間の感受はちがう であろう。そういう「日常」と「運動」とが著しく空間の感受が違うの はどういう点においてであろうか。「運動」は空間をどのように支配し ているのだろうか。. 相撲における土俵の内と外は、勝敗を決する空間であり、俵によって 仕切られるその空間は力士にとってまったく意味の異なる空間となって いる。土俵際まで追い詰められた力士が俵に足をかげながら、懸命にこ らえていることによって観客には空間の壁が見え、力士にはひとつの危. 機を感じさせる空間として土俵の外の空間を感じている。バスケットボ ールの選手は、ゲームの最中に自分の前後左右にどれだけの自由な空間. が残されているかを感じとらなければならない。それは、ラインとの関 一24一.
(31) 係、ゴールの位置との関係、自分の味方がどの位置におり、相手方がど こにいるか、ほおっておけば狭まってくる自由な空間を、常に広げるこ とに最大限の努力をしなければならないのである。それは、平面的な位 置関係だけではなく、自分自身と味方のプレイヤー、相手チームのプレ. イヤーたちの身長とジャンプカによって作られる3次元、文字通りの空 間の広さの追求である。かれらは動きによって新しい空間を生成しつづ けるのである。日常での空間は、歩く、すわる、ねころぶ、など移動に おいても、とどまっている状態においても、自分の静的な身体のあり方 による空間の分節を行う。比べて運動では、運動様式によって規定され た空間の中を自己の動的な身体のあり方によって空間を分節しているの である。トゥアンのいうように、運動様式という文化によっておおまか に空間を把握し、動的な身体のありようと他者との関係を空間の分節原 理としながら、自己の意図によって日常とは異なった空間が作られてい るのである。. 2、「運動」することによって時間はどう変わるか われわれは何かに夢中になっているときは、時間というものを感じて いることは少ない。そしてそれは活動が終わった後になって早く過ぎた と感じられる事が多い。逆に興味を持てずに退屈だったり、無意味な活. 動を強いられたりするときは、1分でも長く感じるものである。時間と いうものは何かということについて、古代以来つねに問題にされた主題 であるという。たとえば、時間は客観的な実在性を持つのか、それとも. 主観の認識形式にすぎないのか、時間は実体なのか観念なのか、また時 間の本質については、時間は今という瞬間的な点の連続的系列なのか、 それとも過去・現在・未来のたがいに浸透しあう持続的統一なのか、と いった議論が繰り返されてきた(鷲田清一 現代思想を読む事典p254) という。現実の生活は、時間によって秩序づけられ、整理されているた めに、われわれ自身の身体も時間的に制度化され、時間の尺度の中に取 り込まれてしまっている。エドワード・T・ホールは、言っている。 「欧米人の生活は、皿onochronicな時間の鉄の手の規制からのがれるこ とはできない。事実、彼らの社会生活、経済生活、いや性生活までが、. 完全に時間に支配される傾向にある。時間は生存という構造の中に完全 一25一.
(32) に織り込まれているので、われわれが行うすべてのことを、時間がどれ だけ決定し、統御しているのかさえ気づかないほどである。スケジュー ルを立てることによって、われわれは、時間を(小さい単位に)分断す る。これによってわれわれは一時にひとつのことに集中することが可能 になる。しかし同時にそれは、全体的に物事を見ることを妨げる。計画 を立てるということは、その本質的性格からいって、知覚されるべきも のと、されないものと、放置しておくものを選択することである。」. (1979文化を越えて TBSブルタニカp29) ホールは、モノクロニッタに対比し、ポリクロニック(polychronic) な時間というラテンアメリカや中東での時間体系についても述べている、 モノクロニッタが線、あるいは帯状としてとらえられるのに対し、それは. 点としてとらえられ、モノクロリニックが順番として秩序だてられるの に対し、ポリクロニックは同時的だとし、時間体系の文化、社会的な違い を語っている。少なくとも、われわれの日常生活は、ホールの言うところ. の欧米的なモノクロニッタな時間体系の中で生きている、と言っていい であろう。. 「運動」において時間は、時間の体系という文脈ではなく、日常と異 種の時間として位置づけられる。スポーツの場合はそれが虚構のもので あることを強く定立するために、必ず終わりが運動様式の中に定められ. ている。それは、サッカーやラグビーなどのように文字通り時間によっ て区切られるもの、野球やテニス、バレーボールのように、行為の回数 と得点によって終わられるもの、あるいは、剣道や柔道、ボクシングの ようにポイントと時間を兼用するようなもの、また短距離走やマラソン などのように、スピードそのものを競うようなものなど、その様式によっ. ての独特な終わり方が定められている。そうした枠づけにおいて、日常 から分離する方法がとられ、生活の流れのなかでの時間からは隔離され た、別の時間として切り取られている。. では、その隔離された時間枠のなかでの時間の感じ方はどうであろう か。ゲルト・プラントは、「イデーン1」でのフッサールの言葉を引き ながら、つぎのようなことを言っている。. 「反省とは自我の相違と合致であり、架橋された隔たりであり、rいま』. とrたったいま』との最も根源的な露呈である。したがって、反省とは 一26一.
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