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佐藤嘉一佐藤嘉一

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﹁通常科学﹂という言葉がある︒これは﹁ある時期を通じて多数の科学者の支持をえて多くの重要な課題を有効に

解きうることによって相対的に優位にたつ︵理論的︶︒ハラダイム﹂︵塩原勉︑一九七五︑一七頁︶を意味する︒このよ

うな意味での﹁通常科学﹂に相当する理論的パラダイムを社会学の理論分野にもとめるとすれば︑第二次大戦以後の

わが国のばあい︑その科学論︑論理的手続きおよび理論内容において最も持続的なかつ広範囲な関心を喚起してきて

いるという意味において︑﹁社会学的機能主義﹂︵新明正道︑一九六七︶の理論にそれを指定するのが順当であろう︒

ここでの主題は︑通常科学としての社会学的機能主義の理論が︑社会の分析にさいして示めす問題の取り扱い方の質

および方向を批判的に吟味してみることにある︒ 一︑通常科学としての社会学的機能主義二︑ルーマンの社会学的啓蒙主義三︑因果科学的機能主義と等価機能主義四︑構造・機能的分析と機能・構造的分析五︑ルーマンの体系的社会理論六︑結び N・ルーマンと社会学的機能主義

■ ■ ■ ■ ■ ■

佐藤嘉一

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五○年代から六○年代中頃までの社会学的機能主義をめぐる論議は︑以上のような観点から整理してみるならば︑

次の三点に要約できるであろう︒一つは︑・ハーソンズ︑マートン︑の.O・函○日目の︾z・の日の厨胃々も.宮.四目などの理

論的パラダイム革新の進展︒二つは︑6.⑦︑函の昌罵一.祠.z猪巴などに代表される機能的分析の論理的手続きの精繊化

と徹底化︒三つは︑機能的分析の科学論的検討︒だがこれは︑以上の二点に比べて不徹底かつハーフウェーのままに

放置されており︑己.Fo鼻言○a︾諺.君.⑦○昌号閂・詞.己号恩己○風など社会学的機能主義にたいして批判的な立場を

保持している学者のばあいにもこのことが妥当する︒前の二点が著るしく進捗しているのに比べて︑最後の一点がア

ンゞハランスに停滞しているわけである︒

このアンバランスな状況のなかで︑社会学的機能主義の科学論的基礎づけを徹底化しようとしている三匡尉

F号ヨ自国の理論的冒険にわれわれは注目したい︒これまで体系的な形で検討されることの少なかったようにみえる

︵1︶ルーマン理論に焦点をあてるのは︑この﹁驚ろくべき精神﹂Q・国号円日閉︶の持ち主の投げかける問題が︑社会学的 ない︒社八のである︒ 社会学的機能主義とここで呼ぶのは︑今日﹁構造・機能的分析﹂とか﹁体系論的社会学﹂として知られる︑弓.蚕易○ロの

や・言の耳目など主として一九四○五○年代のアメリカ社会学に源流をもち︑そこに定着すると同時に︑そのごは

西ドイツ︑フランス︑日本などにも伝播し︑それぞれの国の有力な社会学者たちによって支持ざれ問題にされている︑

内部に複数の理論的パラダイムを許容し︑ぱあいによっては相互に対立しつつも︑ルースな形で結び合っている理論

的潮流ないしは趨勢を意味している︒この理論的潮流が︑通常科学と呼ばれるほどに一定の伝統連関を形成するにい

たったのは比較的最近のことであって︑これについての評価は︑塩原勉が指摘しているように﹁相当に大きい個人差

と世代差﹂がみられることは否めない︒ただし︑評価の差に関する知識社会学的な考察は︑ここでの主要な課題では

ない︒社会学的機能主義の科学論的前提︑論理分析的吟味および理論内容の検討が問題とされ論議される必要がある

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機能主義の理論にたいして内部的刷新をせまっているだけでなく︑もっと一般的にいって﹁総体性﹂としての社会の

科学的概念把握についても重要な問題を提起しているようにゑえるからである︒

N・ルーマンを同時代の社会理論家たちはどのようにみているのか︒J・ハー︒ハーマスにその一例をとってみてみ

ト生妄勾ノ○

ニクラス・ルーマンは︑最近十年間にわたって社会の体系理論を構想してきた︒この理論は著者の目をみはる

ような生産性のためだけに注目に値するというようなものではない︒現代の社会学のコンテキストのなかで彼は

ある特別の地位を占めているのである︒彼は︑社会を全体として概念するという︑偉大な伝統の要請を大胆に復

活する︒社会なしの科学主義的に限定された社会学にたいして︑彼は社会の理論を対置するのである︒この理論

は︑まず社会体系と︾社会︿の間の区別からはじまる︒lそのさい︾社会︽は︑自分で社会進化の舵をとる一さい

の︵過去︑現在および未来の︶社会体系の体系として理解されている︒社会下位体系の特殊理論は︑社会の包括

的体系理論の枠組のなかで観念され︑またこの包括的体系理論のほうは︑社会進化の理論としておよび体系分化

の理論として展開されるものである︒それ故に︑マルクスにたちかえる批判的社会理論とともに︑ルーマンは全

体社会の分析についての関心を共有する︒この分析は︑社会発展理論︵史的唯物論のごとぎ︶と社会構造理論︵政

治経済学のごとき︶に着手することを必要とする︒これに加えて︑ルーマンがマルクスと結びつき︑最終的に.ハー

ソンズから彼を分離させるのは︑歴史哲学から借用した理論と実践の統一という観念およびそれの一部である類

もしくは︾社会︽の自己構成という観念である︒社会の体系理論は︑複雑性の還元に役立つのであるから︑この理

論が考察を加える諸社会体系自身とおなじく︾実践的︿である︒かくして︑理論的研究は︑社会体系の複雑性の進

ライ0ストンク歩をとおして︑社会進化が社会体系の遂行から発現するかのように規定される︑客観的連関にたつのであり︑ま

たそのことを知るのである︒理論は︑社会の自己産出過程のなかで︑科学体系のゑづからを特徴づける機能的優

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フユールンクオルガン先性でもって︑指導の役目をうけもとうとする︑一機関なのである︒このようなものとして︑理論は直接的に実

践的である︒︵四号寓目閉︑F号ヨ自己・岳ごゞ切匡や匡巴

ハー︑ハーマスによれば︑ルーマンの社会の体系理論が︑ヘーゲルやマルクスの系譜につらなる批判的社会理論と同●●●●●●●●様に︑理論形成の次元を全体としての社会の次元においており︑この全体としての社会の概念化の理論的努力のうち

に︑かれはルーマン理論の重要性をみているのである︒このことに加えて︑かれは理論と実践との統一という観念を

ルーマンの社会の体系理論の第二の特徴として指摘する︒﹁全体社会の体系分析を道具主義的革命家は危機を深め闘争

を激化する逆制御の目的に用いることができ︑同時に政治的テクノクラートは危機と闘争を回避するためにこれを用

いることができる︒﹂︵西号胃昌画辺F昌日gご︾己己切畠$そこからルーマン理論の﹁独得な魅力﹂が生じると︿Iハー

マスは説明している︒このルーマンの実践概念が﹁基本的プラグマチズム﹂にもとづくものであって︑技術的次元と

意思疎通次元とを区別して実践概念の両契機とするハー︑ハーマスの立場から象れぱ︑得心のいかない考え方となる︒

ハー︑ハーマスとルーマン論争の争点の一つをなすのは︑この理論と実践との統一をめぐる二人の把え方の問題にある︒

以上のハー︑ハーマスのほか︑ルーマン理論の反響については︑次のような西ドイツの社会学者たちの寸評からもう

かがい知ることができるだろう︒ルーマンは﹁連邦共和国のうちでもっとも多く論議されている社会学者の一人﹂

PSの昌の①︾乞冨︶であり︑K・ホンドリヒも﹁彼の体系理論をめぐる論争は︑︾実証主義︽論争以後︑戦後の西ドイツ

社会学における一蕃目の大論争になっている﹂負呈p園︒且舜喜︾届誤.い認︶と指摘している︒体系論的社会理論

をマルクス理論の立場から批判的に検討を重ねているK・H・チャーデンすらルーマンを賞讃して﹁ニクラス・ルー

マンの︾機能・構造的︽社会体系論の構想は︑おそらくこれまでのうちでもっとも首尾一貫したもっとも反省をつんだ

体系概念の考察である﹂︵〆・函.旦呂g︸ご認.の計ごと記しているほどである︒

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さて︑社会を体系望輿の目として把握するばあいに︑社会は的確にとらえられるかという問いが︑ルーマンの社会学

的機能主義の理論上の主要な問題である︒ルーマンはこの問題に接近する基本的な指針を総称して﹁社会学的啓蒙主

義﹂と呼ぶ︒ところでこの用語は︑いささか形容矛盾のようにおもわれる︒社会思想の発展史からみれば︑十九世紀

における少.no日誌の実証哲学としての社会学という新しい構想の成立は︑周知のとおり︑十八世紀における理性的

形而上学としての啓蒙合理主義ならびにそれ以前の中世神学思想としてのトマス主義からの離脱と限界突破を意図し

たものだからである︒この相対立する二者の共存︑この内的緊張のうちに︑ルーマンは自己の課題性を表示するので

ある︒

十八世紀から十九世紀への転換において伝統が崩壊したことを否定するにはおよばない︒しかし社会学が今日

啓蒙的特徴をおびていないかどうか︑またいかなる意味でそうであるかについての問いを提出することはできる

だろう︒もちろん社会学は︑啓蒙主義時代の直接的な思想上の諸前提もその認識上の目標観念も︑いわんや倫理

的目標観念も共有していない︒なかんずく︑理性的啓蒙主義の二つの中心的前提は社会学にとって不審の目をもっ

てみられる︒即ち︑いかなる制度的媒介もなしに万人の所持する︑共通の理性への万人の同等な関与そして正義

の状態を創出できるということについて成功うたがいなしとする楽天主義とである︒各人が自分自身の合理性を

反省することによって万人の共通のものを発見し︑合意︑いな真理すら達成できるのだといったことは︑社会学

者には納得いかないことだし︑それと同様にこの反省とこの共通性とは一度発見されれば誰にでも応用される︑

実践的な対処の規則という形式をもっているといった意見も問題にされない︒二つの点で︑今日では一層いりく

んだ複雑な事態に直面している︒即ち︑︾世界観︽の社会的規定性による相異という意識が定着したこと︑あらゆる

■■■■■■

■ ■ ■ ■ ■

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行為が因果的ならびに価値的に複雑に絡承合っているという意識がことのほか鋭くなっていることである︒この

ことが社会学を旧式の︾素朴な︽啓蒙主義から区別する︒

だがしかし︑われわれが異質の︑比較できない︑統一できない精神的諸態度について問題にすることから出発

するばあいには︑決してかの啓蒙理性のこころみも︑今日の社会学の基礎にある諸問題も理解できないし︑また

両者の間の裂け目の範囲すら決して正しく判断できないようにおもう︒社会学には︑拡大解釈した啓蒙主義概念

のもとで把握されうる︑一種のきわめて中心的な理論上の諸特徴や研究態度が存するのであり︑同時にこの広義

の啓蒙主義概念は︑啓蒙理性の歴史に横わる試象で︑元来なにが追求され︑どうしてこの試みが挫折せねばなら

なかったのかを一層よく再認識することができるのである︒

われわれが見失いゆるがせにしているものI啓蒙の純化lを︑われわれは社会学の中に発見する︒社会学

は︑応用の啓蒙主義ではなくて純化された啓蒙主義である︒社会学は︑啓蒙に限界を引くこころゑである︒

︵F匡匿ヨ四口Pご己豆の・雪︶

﹁啓蒙に限界をひく﹂試承としての社会学というルーマンの構想は︑マルクス理論に端緒をもちつつ︑やがて﹁限

定的否定﹂参号目︒︶へと世界にたいして消極的︑諦観的態度へと後退していく弓盲君.シ号曽oや三・函︒爵言言閏

などの﹁社会の批判的理論﹂に比べて︑実に積極的な世界への関与姿勢を保持している点で注目に値する︒純化され

た啓蒙主義としての社会学的啓蒙主義の構想は︑﹁世界の複雑性を把握しかつ還元する人間的能力の拡張﹂というルー

マン自身の言葉に端的に要約される︒

この構想にみる基本的指針の成立は︑近代ヨーロッパの認識論の歴史にかかわらせてみれば︑同.困吊器己以後の歴

史︑即ち経験的合理的世界像の要になる主観的自我意識︑デカルト的主体の認識の確実性にたいする信仰が瓦解しは

じめ︑その反省の気運がたかまりつつある時代以後の歴史に属する︒フッサールがドイツ・ファシズムの嵐のなかで

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苦闘した主題は︑迫りくる歴史的破局の源泉を︑認識論の諸問題に限定したうえでのことであるが︑デカルトからカ

レーベンスヴエルトントにいたるヨーロッ・︿の近代的認識論の生活世界からの倒錯現象のなかにもとめ︑それを克明に記述し︑再び論理

的世界を生活世界に帰還させることであった︒晩年のフッサールの超越論的現象学の特徴は︑デカルトやカントにお

ける自我意識の主観的確実性の条件を反省していくなかで︑意味と世界がどのように確実に構成されようとも︑この

ライストンクホリゾント意味構成は﹁相互主観的能作﹂の地平︑﹁生活世界﹂缶.の9号︶を基盤としているという歴史との内属関係を明ら

エゴかにしたことだといわんぷ︒自我意識の主観的条件を吟味することによって︑ひとは﹁自我﹂以外の他者もまた﹁も

う一つの二コ﹂I他我であり︑﹁共同構成主観﹂であることを発見する︒この主観相互の依存関係ならびに前提関係の

コンテンジエンツ﹁偶然性﹂のなかで世界は意味構成されるのであって︑存在としての世界は︑この構成を通路としてしか現象しない︒

ルーマンの啓蒙の純化というモチーフも︑その出発点においてフッサールの﹁世界一般の相互主観的構成と世界一般

の社会的偶然性﹂という見方︑﹁世界はどのような意味をもっているにせよ︑常に人びとの共作物としてしかありえな

い﹂︵山口節郎︶こと︑歴史的世界との内属もしくは共属の鋭い自覚と反省にあったのである︒

この反省意識を社会史のなかに投射すれば︑事態はゲゼルシャフトの危機とその克服という課題に収束していくよ

うにおもわれる︒M・ヴェー︑ハー的に表現すれば﹁非呪術化された世界の再呪術化﹂問題とその限界突破の問題であ

る︒周知のとおり存在論的な意味での﹁実体﹂として概念されていたゲマィンシャフトの生活世界の伝統連関を突破

し︑新しい生活実践の基本的指針を与えたのは︑旧い実体概念に代る機能概念であった︒機能概念こそゲマィンシャ

フトからゲゼルシャフトへの生活世界のラジカルな転換を可能ならしめる要になったものなのである︒﹁産業資本﹂を

ペルーフ基軸として展開されるゲゼルシャフトの実践的行為の指針となったものは﹁職業﹂である︒﹁ピューリタンは職業人た

らんと欲した﹂というヴェー︾ハーの古典的定式は︑象徴的に新しい時代の核心をいいあらわしている︒職業概念がゲ

ゼルシャフトの社会構造の構造的特徴を明示するものであるとすれば︑この職業概念の認識論的含意は︑実体概念の

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拒絶と機能概念の導入にあるといわねばならない︒ヴェー︑ハーはいう︒﹁︵伝統的インドのカストの観念には︑︶すべて

の近代資本主義の基礎にある合理的営利経済のための経営の組織的体系化とか︑すべての近代合理的技術の基礎にあ

る作業様式の合理化という思想が欠けている︒この経済合理主義の︑︾企業家︽の倫理的聖化は︑禁欲的プロテスタン

テイズムの倫理に属する︒カスト倫理は︑手工業の︾精神︿に︑即ち︑貨幣で見積られる経済収益とか合理的労働利用

において実証される合理的技術の卓越性にもとづく自負心にではなくて︑むしろ製作品の美くしさとすばらしさのな

かで証しされる生産者の人柄的な︑達人的な︑カスト的な手芸の技にもとづく自負心に祝別を与えるのである︒﹂︵言員

君9国︾ご誤︾切匿ごカスト的職業観念とコントラストをなす近代的職業観念の核にあるものは︑上の引用文にゑるよ

うに生活実践の機能化である・近代的職業による社会的分業を回転軸とするゲゼルシャフトの成立とその発展過程を︑

ヴェー︾ハーは﹁世界の非呪術化過程﹂とか﹁世界の全般的合理化過程﹂と呼んだ︒

ところで︑この職業的機能原理にもとづく新しいゲゼルシャフト関係は︑その発展過程のなかで新しい問題をうみ

だす︒ヴェー︒ハーはこれを﹁われわれは職業人たらざるをえない﹂と定式化する︒職業的機能観念のなかに自由の境

地を求めたピューリタンとは相異して︑われわれはこれを生活実践の前提としなければならない︒ゲゼルシャフトの

成立時において非呪術化の方向性を指示し︑人類の生活実践の総体にたいして進歩と創造の一画期をつくりえた機能

概念が︑自明の前提と化してしまった今日では︑事態は一変して機能物神ともいうべき新しい装いの再呪術化過程の

旗頭に転じてしまっている︒われわれは︑この歴史のパラドクス︑いいかえれば生活様式としての﹁機能主義﹂を受

容せざるをえないという生活世界の一般的前提のなかで︑機能観念の成立時には経験したことのない異質の様々な形

態の価値転倒と﹁社会的不正﹂︵言.国○房言言の己に遭遇しているわけである︒さぎにわれわれがゲゼルシャフトの危

機と概括した内実は︑このことをさしている︒そしてこの危機を突破すること︑別言すれば機能﹁主義﹂の物神性を

打ち破ることを︑ルーマンは社会学的啓蒙主義の課題として設定し︑その解決策を﹁全体社会の分析形態としての近

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代的体系理論﹂という彼の理論的構想に託するのである︒この体系理論の理論内容については後述することにして︑

この理論的基礎をなすルーマンの機能概念と等価機能主義の立場についてここでしばらく検討してみたいとおもう︒

ルーマンは︑宍.己画ぐ肘論文以降︑社会学的機能主義の伝統のなかには機能主義理論と因果的研究の間には暗黙の前

提的了解関係があるとし︑しかも従来この前提的了解自体を方法論的考察の主題にして吟味した例がなかったと主張

する︒ルーマンがいう機能主義と因果的研究との間の関係についての暗黙に了解されている前提とは︑﹁機能的関係を

因果的関係の特殊事例とみなす﹂という見方である︒彼は︑このような機能主義の見方を﹁因果科学的機能主義﹂と

呼び︑この見方を逆転させて﹁因果的関係を機能的関係の特殊事例とみる﹂彼自身の見方を︑﹁等価機能主義﹂と呼ぶ

のである︒ルーマンの狙いは︑機能主義的分析の固有の意義を︑フィジヵリズムに典型化される因果的分析のもつ有

効性とは別個の次元にもとめ︑特にこれが人間の諸行為や諸制度を問題にする社会学などの行為の科学にとって有効

な分析方法であることを指摘することに存する︒

テレオロジールーマンによれば︑因果科学的機能主義は﹁作用﹂を説明根拠におく考え方であるという︒目的論的機能観のばあ

いは︑特定種類の作用が目的と等置され︑機能はこの目的に役立つ働きとして観念されている︒また均衡理論の機能

観も同じように﹁潜在的因果性﹂という中心観念にささえられた一種の作用に説明根拠を置く考え方の典型とされる︒

即ち﹁体系のうちには︑体系を安定状態にフイード︑ハックするための︑変調状態に有効に働く︑諸原因がある﹂

Pg目四目ゞ乞ご・の旨︶という潜在的因果性が︑ホメオスタシスなり自動制御系なりの均衡思想の要点をなしてい

る︒均衡体系論に共通している点は︑﹁体系が︑変転する環境からの働きかけにもかかわらず一定の特徴を安定して保

つのは︑体系内部の諸原因をとおしてそのような働きかけを体系が相殺する﹂含箆.の旨︶とする論理にある︒体系

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ところで以上のような因果科学的機能主義の論理が︑因果的説明の特殊事例であるとする理由はどこにあるのだろ

エクスプラナンスか︒厳密な意味での因果的説明では︑とくに物理主義的モデルのばあいには︑一般法則Lと初期条件Cを説明項と

エクスプラナンドウムニヒトザインして︑事態Eという被説明項を演鐸的・法則論的に確定すること︑別言すれば︑﹁非有と他の可能性を排除し︑特定

ザイン●ウント●ニヒト●ニヒトザイン原因と特定結果の間の恒常的な関係を確定すること﹂︵号昼.の.届︶が要請される︒﹁有IかつI否I非有﹂つまり●●●●●●●●●●●かくなり他とはならないことの存在論的な確実さを決定できるとする思考前提が存するわけである︒しかるに︑均衡

論的機能観念のばあいには︑この思考前提の十分I必要条件を充足していない︒体系安定性Eを︑演鐸的・法則論的

に導きだすのに必要条件となるL要件が﹁潜在的因果性﹂範濤では必ずしも充足されていないからである︒多くのぱ

あい︑社会の体系均衡モデルは︑経験記述的に検証された経験的一般化を媒介した仮説構成体としての一般法則とい

うよりも︑理念型的な問題発見モデルであるか論理的形式的モデルとして方法的に使用されているかのいずれかであ

る︒別言すれば︑環境条件の一定の変化に対応して︑体系の主要特徴を恒常的に維持するような相殺的機制が潜在的

因果性として体系内で作動するとする命題は︑社会体系に適用されるかぎり︑それはアナロジーか隠愉でしかない︒

因果的説明の論理に照らしてみると︑機能的説明が説明項の不確定な水増しされたヨリ低次の説明力しかもたない特

殊事例とされる理由は︑ここにある︒﹁作用﹂を説明の準拠点に選ぶ機能観は︑因果的説明としては不十分であり︑そ

の役目は消極的なものにとどまるわけである︒

ちなみに︑従来の﹁作用﹂としての機能観念に基礎を置く社会学的機能主義の立場は︑よくいわれているように﹁優 ばならない︒ の安定性を︑この論理は単純に一定の必然的原因の規則的な現出にもとめずに︑体系内部の横断的に結びあった諸原因間のいりくんだ相互相殺的な連動関係のなかにもとめているわけである︒このような体系安定性に関する説明は︑論理的手続きが単純であるか複雑であるかを問わず︑結局は︑一種の作用にその説明根拠をおいているといわなけれ

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越要因説︑決定論的思考および自然法則的思考によって特徴づけられる十九世紀的な社会科学の思想形態にとってか

わるもの﹂︵富永健一︶であり︑その成立は︑一面的な因果的説明にたいする︑実証的経験主義にたいするまた進化論

的歴史主義にたいする闘いに起因するものであったといわれる︒しかしながら︑富永健一説のように﹁われわれは︑﹀

体系︿の諸部分の相互依存︑したがってまた体系内の諸作用のフィードゞハックという︑最小限の公準から出発する﹂︵富

永健一︑一九六五︑八四頁︶というように︑﹁すべてがすべてに相互依存する﹂﹁すべての作用はフィード︑ハックする﹂

といった公準を前提するかぎり︑機能的説明は︑因果的説明のもつ事象の演鐸的・法則論的確定の有する積極的意義

にたいして対抗するには︑自己の規定根拠としては消極的であり︑不完全にすぎるといわねばならない︒なぜなら以

上のような公準では︑因果的説明の特殊事例として位置づけされることはできても︑因果的説明に代わるオータナテ

イブとしての機能的説明については確定的な検証手続きやその他の手段の限定的明確化の規定が提示されず︑一種の

方向指示的暫定規定にとどまっているとみなければならないからである︒この点︑次にのべるルーマンの﹁機能的等

価﹂概念は︑このような隙路を克服し︑機能的説明に独自の積極的意義を付与する展望を与えているという意味にお

いて注目に値するといわなければならない︒

社会学的機能主義の分析が︑なにほどか積極的意義をもつためには︑以上のような因果科学的機能主義の前提を自

明とする思考からまず自己を解放し︑新しい機能観のための座標軸の確立が急務となる︒その方法的原理としてルー

マンが注目するのは﹁機能的等価﹂概念である︒機能的等価というのは︑﹁特定の原因と特定の結果の間の法則的なも

しくは大なり小なりの蓋然的な関係を問題にするのではなくて︑むしろある問題となる結果の観点に照らして多数の

可能的諸原因の機能的等価性を確定することを問題にする﹂︵F弓ヨ四目﹄雪盲︾切匡︶のである︒このぱあいの機能観は︑

ライストンク決して結果をうむ作用に準拠するのではなくて︑むしろ﹁等価な遂行についての比較をおこなう場を組織だてる規制

的な意味図式﹂︽宮巳の崖︶に照準を合わせている点に特徴がある︒機能とは﹁相異なる表象を一つの共通した表象

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に秩序だてる︑行為の統一である﹂P尻四三︶を引用して︑ルーマンが明らかにしようとしている点は︑個々のパフォー

別マンスは具体的経過から象れぱ全然比較できない異質のものでも︑ある規制された統一的な抽象的観点に照らして承

ると︑それらの︒ハフォーマンスが等価で︑相互に代替可能で︑交換可能なものとして承えてくるということである︒

たとえば︑空・海・すみれの花は全く異なる表象であるが︑﹁⁝⁝は青い﹂という不完全命題に︑空・海・すみれの花

をそれぞれ代入しても︑命題函数としては等価である︒また︑﹁AがBをうむかぎりで︑AはCによっても代替される﹂

という表現は︑﹁AとCはその機能においてBにたいして等価である﹂の意味である︒役割の代替可能性や単純労働の

代替可能性などはすべてこの例に属する︒このように︑﹁⁝のかぎりで﹂という規制的な統一した抽象的観点に照らし

て異質な多様な諸関係︑諸事物︑諸表象を秩序だてる行為が︑ルーマンによれば機能的思考の特徴的な性質であると●●●●いうのである︒Aという行為を別のいろいろな可能性と対決させ比較することによって︑単独のAの行為自体の観察

では獲得されない認識がえられるという見方が︑こうした等価機能的方法の積極的な存在理由になるわけである︒経

験的領域における類似性は決して存在の同一性ではないのだ︒﹁AIA﹂のトウトロジー的同一性が問題ではなく︑﹁非

A﹂である﹁B・C・Dのぎ.﹂のうちから︑従って異った諸事象のうちから等価なものを発見する準拠点の確定こそ心

経験領域における類似性︑﹁AIB︑AIC︑AID︑⁝﹂の認識を可能にするものなのである︒変革期における各種

改革の構想︑運動とその組織化過程もこの観点からゑるならば︑問題への機能的接近と概念できるであろう︒

ところで︑この機能的等価の観点は︑マルクスの理論思考のなかにも採用されている︒﹃資本論﹄においてである︒

第一巻の第一章﹃商品と貨弊﹄に例をとると︑マルクスは︑諸商品体の諸使用価値が全くそれ自体では比較できない

多種多様なものであることを一方で指摘しながら︑これらを﹁共通者﹂の観点に照らしてゑると︑つまり最後には抽

象的人間労働にいきつく︑﹁価値の大きさ﹂に照らしてふると︑諸商品体は多種多様であるにもかかわらず︑たとえば

﹁X商品AIy商品B﹂︵別エルレの亜麻布11着の上着︶という単純な価値関係で表示することができる︑とのべて

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周知のように︑この単純な価値関係の意味は︑商品Aは自己の価値の大いさを相対する商品Bを通して表現するこ

マテリアールと︵相対的価値︶および商品Bはこの価値表現の道具になるという関係︵等価価値形態︶であることを意味している︒

これは︑商品Aにたいして商品Bは価値の大いさからみて﹁等価として機能する﹂という意味である︒価値の大いさ

という規制的で統一的な準拠点に依拠せずして︑いかようにして商品体Aと商品体Bというパフォーマンスの異なる

ものを等号で結びつけることができるであろうか︒もっとも電車の動く原理を知らなくても︑電車に乗ることができ

るように︑日常生活では原理に無知であってもわれわれは︑﹁等価な﹂交換を平気でおこなっているわけであるが︒マ

ルクス以前の経済学理論は﹁価値の大いさ﹂という抽象的観点を発見したという点では偉大であった︒けれども﹁商

品の価値関係のなかに含まれている価値表現の︑そのもっとも単純なもっとも輝きのとぼしい形態からさんぜんと光

り輝く貨幣形態までの発展﹂の歴史︑つまり﹁貨幣形態の発生の謎﹂を解くためには︑それだけでは十分でない︒マ

ルクスの偉大さは︑﹁価値の大いさ﹂を定める実体としての﹁抽象的人間労働﹂という普遍者をみつけだしたことにあ

る︒相異なる商品体は︑量的比較可能性と等価性において機能的に把握しうる普遍者が措定されたからこそ︑貨幣形

態の発生の謎をも概念しえたのであった︒

それ故に︑詳細に検討すれば︑ルーマンの等価機能主義の立場とは決定的に扶をわけざるをえない地平をマルクス

は保有していることに注目しておかなければならないだろう︒マルクス理論は︑ルーマン理論以上に反省的で批判的

なのである︒ルーマンはいって糸れば︑価値の大いさの発見に喜悦する経済理論のようなものである︒かれはこれ以

上に前提を反省しようとはしない︒マルクスのぱあいは︑この価値の大いさという前提すら︑それは﹁いずこよりき

たるや﹂と反省的に問いかける姿勢をくづしていない︒﹁等価機能性﹂を重視し︑問題の端緒とはしても︑﹁等価機能

主義﹂に安住しないのである︒価値の大いさの根拠を反省的問いかけのなかから別出することによって︑マルクスは いブ︵︾0

(14)

32

いずれにせよ︑マルクスにおける︑たとえば﹁貨幣は︑価値の大いさとしておよび価格の尺度として二つの全く異っ

た機能を果す﹂といった表現や価値関係の機能的理解は︑従来社会学の理論分野で主流を占めている作用としての機

能概念の用い方とは明らかに相異しており︑ルーマンの主張する機能的等価概念の用法にならっているということが

指摘できるとおもうのである︒

最後に︑等価機能主義と因果関係との関連について一言しなければならない︒ルーマンによれば︑等価機能主義は

法則の形式においてある原因とある結果とを同時に恒常的に確定するのではなくて︑原因もしくは結果のどちらか

一方を不変にすることで甘んずる﹂︵F弓日四目︾毛ご箪切ご︶という慎え目な問題設定の方式のなかにその特徴をもつ

という︒即ち︑因果的諸要素に関する等価機能主義的分析は︑その前提として原因I結果を分析上の端緒にもつけれ

ども︑この関係の確証を主題とするのではなく︑これを方法上の補助的手段として用いる︒そして分析上の主題とな

るのは︑﹁ある結果﹂もしくは﹁ある原因﹂のいずれか一方を主要な観点として措定し︑この観点に照らしてさまざま

にありうる﹁可能的諸原因﹂とか反対に﹁可能的諸結果﹂をそれぞれ考量することなのである︒この二つのことを同

時におしすすめることは勿論できない︒それぞれの機能的分析は︑すでに﹁ある結果﹂もしくは﹁ある原因﹂を準拠

すべき観点として選択してしまっており︑事態の移動なしにこの観点を変更することはできないからである︒原則と

して︑諸原因と諸結果との間は﹁不確定関係﹂にあるという知見が︑機能主義的因果理論の出発点となるのである︒ ﹁単純な︑個別のまたは偶然の価値形態﹂から﹁全体的なもしくは展開された価値形態﹂︵z商品AIu商品Bまたは1V商品CまたはIw商品DまたはIX商品EまたはI⁝︶という等価的機能関係を経て﹁一般的価値形態﹂にいたり︑最後に﹁貨幣形態﹂の出現をみる一連の価値形態の変化と転成過程とを統一的に概念しえたのであった︒﹁価値の大いさ﹂という抽象的準拠点の確認のゑでは︑この一連の形態変化を統一的に概念することは決してできないのであ

0

(15)

33

社会学的啓蒙主義という課題意識︑その方法原理としての等価機能主義の確立をとおして︑ルーマンが具体的に構

︵3︶想する社会理論は︑﹁全体社会の分析形態としての近代的体系理論﹂と彼自身が名づける理論である︒この啓蒙に限界

を引くという課題意識に由来するルーマンの近代的体系理論とはなにか︑またそれは従来の社会学的機能主義の諸社

会理論と比べたばあいに︑どのような特徴をもつのだろうか︒われわれは︑かれの﹁社会﹂概念をめぐる考察を中心

にしながらこの問題について若干検討をこころ承ることにしたい︒

ルーマンは︑まずT・・ハーソンズに代表される従来の社会学的機能主義の理論を﹁構造・機能的分析﹂と特徴づけ︑ この理論からみるならば︑原因と結果に関する排他的因果法則は︑原因の領域にも結果の領域にもいずれの領域にも

オータナナイプ他の可能性が存しないという︑全く代替性のない限界事例であることを意味している︒ルーマン的に表現すれば︑法

則というのは︑﹁絶体的に還元された等価性の限界事例﹂含昼.いご︶なのである︒因果的関係を機能的関係の特殊事

例として位置づけるというルーマンの見方の根拠はここにある︒機能的因果論の目標は︑いうまでもなくこのような

限界事例に属する法則の達成にあるのではない︒無限に広がる複雑な自然的因果過程の結び目の一つ11ある原因な●●●●●●●りある結果lを︑日常的生活実践上のあるいは理論上の問題関心の焦点になっているという理由で着目し︑これを

分析主題として措定しつつ︑それと等価の様々なオータナティブを把握し秩序だてていくことにその固有の目標をも

つのである︒一見すると︑全く無味乾燥にみえる﹁機能的等価性の確定﹂というルーマンの機能主義的因果問題のと

り扱い方のなかに︑われわれは批判的合理主義のライトモチーフ︑即ちカント︑ヴェー︑ハー︑フッサールにつらなる●●●●●●●●●●●必然における自由の問題というライトモチーフが潜伏しているのを読みとることができる︒﹁啓蒙に限界をひく﹂とい

うルーマンの社会学的啓蒙主義の構想における等価機能主義の科学論的︑方法論的意義は以上のようなものである︒

(16)

34

さて︑構造を機能に優先させるという分析手法の特徴は︑構造化された社会体系を機能分析の準拠点に選ぶという

点に存する︒パーソンズのばあい︑生物学における解剖学と生理学の二領域区分にアナロジーして$社会体系内にま

ダイコトミ−ず構造と過程の分析上の区別をほどこす︒方法上の二分法論である︒構造範濤には︑周知のとおり︑諸構成員に﹁状

況の規定﹂︵乏自.弓言昌四の︶を可能ならしめる制度化ざれ内面化された文化パタンの複合︑すなわち﹁規範﹂と﹁価値﹂

および﹁役割﹂と﹁集合体﹂といった諸範濤が析出される︒他方︑過程範濤には社会体系内諸構成員の﹁意味的に動

機づけられた行為﹂が析出される︒過程は︑構造範濤を手がかりにして分析される︒以上の体系内の二側面は︑次に︑

これを内属する社会体系自体との関連いかんという観点から考察される︒いいかえれば︑体系内諸構造と体系内諸過

程が︑社会体系そのものの存続にとってどのような位置価をもつのかという観点︑これがパーソンズにとっての機能

的分析の準拠点となっているということである︒ここでは︑構造化された社会体系が機能分析の準拠点となる以上︑ それと対比させて自分の体系理論の特徴を﹁機能・構造的分析﹂の手法と称する︒すでにいくつかの紹介がある・ハーソンズ理論について︑ここで簡単に要約すれば︑この理論の特徴は︑相対的に安定している体系の一側面としての﹁構造﹂概念およびそれに対応する体系内の可変的な一側面としての﹁過程﹂概念をまず決定し︑次にこの両側面をもっぱら体系の存続にとって不可欠な要件として把握するという体系に準拠した機能的見地から考察するという分析手続きを採用している点にもとめられる︒構造・機能的分析は︑文字通りに構造を機能に優先させて考える思考の方式である︒ルーマンは︑このような考え方にたいして︑機能概念を構造概念にたいして分析的に先行させる方向を歩むのである︒この分析手法の転換理由はどこにあるのか・それは構造を機能に優先させる分析のさいに生ずる諸種の幣害︑なかでも﹁諸構造を全然疑問視する可能性や構造形成の意味︑ひいては体系形成一般の意味についての問いを提出する可能性が排除されてしまう﹂︵F号白目目︾こごoゞの屋らといった幣害を除去する方向を打開していくのを意図してのことである︒

(17)

35

パフォーマンス︵4︶社会体系そのもの遂行機能の意味が問題とされる余地はない︒

この欠陥を避けるために︑ルーマンは﹁いかなる体系構造的前提をも含まない別個の準拠問題﹂白呂ヨ自己︾己己p

ヴエルト切崖巴を措定しなければならないという︒それは﹁世界﹂である︒世界とはなにを意味するのか︒ルーマンによれば︑

ウニペルサールホリそれは存在するものの全体という存在論的概念ではなくて︑世界はいっさいの出来事がそこで生起する﹁普遍的地

ゾントコンプレキシテート平﹂︵国巨の①己であり︑﹁複雑性﹂としての世界概念であるという︒別言すれば︑歴史および社会のさまざまにあり

うる可能性と限界性とをしめす場であり︑さまざまにありうる出来事の全体︑世界内事象として規定される準拠点と

しての世界である︒いっさいの出来事は︑いってみれば﹁世界﹂に投げだされるわけである︒機能的分析の準拠点を︑

このように体系的構造から複雑性としての世界に移動させることによって︑社会体系そのものの機能の意味が明らか

になってくる︒ルーマンによれば︑社会体系の機能は︑﹁世界複雑性の把握と還元﹂にもとめられる︒社会体系とは︑

﹁相互に連関しあいしかもこれに属さない諸行為の環境から自己を境界づける︑社会的行為の意味連関﹂︵号昼.の匡巴

の意味である︒最高次の複雑性としての世界一般の内部にヨリ低次の複雑性としての﹁孤島﹂を形成し︑環境世界と

それとの間に﹁内部I外部の分化﹂をはかり︑この分化関係を安定化する機能をうけもつのが︑社会体系であるとい

うものである︒ルーマンは︑社会体系の機能の準拠点を複雑性としての世界におき︑社会体系の固有の機能的遂行を

社会体系自身の複雑性の構成をとおして自己と外部環境とを分化させ︑この両者の相互作用のなかで安定した関係を

維持することにもとめる︒これが彼のいう社会体系による世界複雑性の把握と還元という意味である︒社会体系の進●●D化とはこの把握と還元能力の増大を意味し︑この還元能力の増大のためには社会体系自身の固有の複雑性の増大︑体

系分化の進行を必要とする︒ともあれ︑社会体系がどのような構造的特徴をもつのであれ︑またその内部にどのよう

な構造分化をともなうものであれ︑社会体系の主要な問題は︑つねに問題としての世界複雑性の把握と還元という機

能をめぐって展開される︒ルーマンが︑あえて自己の社会の体系理論を﹁機能I構造的分析﹂と称する根拠はここに

(18)

36

ある︒

ゲゼルシヤフトさて︑問題はこのような分析的手続きをとおして具体化される﹁社会﹂の理論的考察の内実である︒以下ルーマン

の社会論の内容を中心に考察を加えることにしよう︒ルーマンの社会論の特徴は︑ハーバーマスが指摘しているよう

に︑社会体系の分化の理論と社会進化の理論にあり︑見方によっては︑パーソンズやデュルヶムの社会理論に接続し︑

旧くはス︒ヘンサーの社会理論への先祖返えりとして理解できないわけのものでもない︒問題は︑その接続の意味であ

り︑先祖返えりの意味を明らかにすることでなければならない︒

ルーマンは︑﹁全体社会分析の形態としての近代的体系理論﹂の一般的なテーゼを︑内部I外部の分化の安定化を介

して︑体系が複雑性の把握と還元に資する︑という命題に求め︑﹁体系についていわれることの全てl諸部分への分

化︑ヒェラルヒー形成︑境界維持︑構造と過程の分化︑選択的な環境投企などlは︑⁝⁝複雑性の還元として機能

的に分析される﹂︵函国富副日閉F呂目目Pご己.切匡︶という︒社会の理論もこの一般的テーゼに従うわけで︑社会を

コンテンジエンツまず﹁意味的体系の社会的偶然性﹂︵号昼.の旨︶と規定したうえで︑社会は﹁体系形成をとおして還元されなければ

ならない︑例の計測不能な世界複雑性の一側面以外のものではない﹂とし︑社会の世界への内属性もしくは共属性を

明示する︒この構想は︑一方における伝統的な社会理論の遺産と他方におけるホメオスタシスやサイバネテクスなど

の体系理論の遺産という︑系譜を異にする二つの理論伝統の異種交配の試行をとおして次第に具体化されてきた︑彼

の一般的体系理論の視角からの社会論を意味する︒ここで伝統理論と呼ぶのは︑アリストテレスの﹁政治学﹂に結晶

された古代ヨーロッ・︿の社会哲学︑トマス・アキナスの﹁神学大全﹄に結晶された中世ヨーロッパの有機体的社会理

論︑ホッブスとロックに両極端をもつ近代自然法理論︑ローレンッ・フォン・シュタィンの近代市民社会論など︑要

するにヨーロッ・︿の二千年におよぶ社会発展の歴史のなかで形成された社会に関する諸理論をさしている︒ただこの

ばあい︑一つだけルーマンの社会理論の学史的取り扱いの特徴について触れておくと︑ハーバーマスが指摘している

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37

それはともかくとして︑ルーマンによれば部分であり同時に全体でもあるという二律背反的な観念が︑伝統的社会

理論の社会概念の導きの糸になっているものとゑている︒

㈹古代ヨーロッパの社会理論︒ルーマンによれば︑古代ヨーロッ︒ハの社会理論の根本問題は︑﹁政治﹂を社会全体

の構成的本質として概念し︑同時にこれを代表する部分として概念することにあったという︒宍○言○口旨宮壽詩①とい

う概念は︑古代ヨーロッパの社会哲学が体系構造としてすでにヒェラルヒー︑上位と下位の分化を認め︑これを政治

的観点から支配として概念し︑上位の部分つまり多数党が部分であるにもかかわらず全体を代表するという見方を確

立していることを示めしている︒﹁全体と部分︑目的と手段︑支配者と被支配者lこれらの概念図式が相互に投射し

あい︑そのようにして社会の構造は︑政治的に上位の部分が全体の目的と等置されることによって肯定的に根拠づけ

られた﹂︵F呂日自白ご己旦切屋$のである︒宍o旨目旨の単純な原型は︑﹁夫婦関係﹂﹁親子関係﹂﹁主人と下僕の関

係﹂﹁友人関係﹂といった人間的諸関係にあるが︑その関係は﹁法と愛と支配﹂の三位一体の道徳的規範原理によって

ささえられ︑この原理にしたがって以上の単純な原型の延長線上にヨリ大きな集合体としての﹁家﹂そして﹁ポリス﹂

を基礎とする尻○言目薗宮濤涛①が構成されるわけである︒血と土地にもとずく古い部族社会の突破と革命の指針と

なった︑この︻○言○口旨宮一三雷の新しい関係原理は︑しかしながら一たび﹁社会構造﹂として定着するや︑なにゆえ

にこの道徳的規範秩序は︑このようであるのかを反省的にとらえきれず︑この社会理論の体系化が進行すればするほ

ど︑事実としてこの秩序に﹁逸脱﹂﹁離反﹂する事態については︑還元機能を果しえなくなる︒古代ヨーロッパの社会 ように︑フアーグソン︑スミス︑ミラーの近代市民社会理論︑ボルテール︑コンドルセー︑サン・シモンの歴史哲学︑ヘーゲルとマルクスの弁証法的社会理論が全く除外されているということである︒この点を指摘する理由は︑ルーマンによって排除されてしまった遺産のなかに︑社会の総体性の概念的把握をめぐる知的宝庫が隠されていないだろうかと考えてみるからである︒

(20)

38

理論は︑自己の築きあげた実践哲学の圏外の諸現象を︑かくして非弾力的に﹁野蛮人﹂﹁異教徒﹂﹁未開人﹂﹁無教養の

もの﹂として追放する以外に方策をもちえなかったのである︒

㈲中世ヨーロッパの社会理論︒古代ヨーロッパの社会理論の前提としている社会構造が︑進行する新しい社会過程

ゲマインシヤフ卜と構造分化のなかで次第にその自明性を喪失する過程で︑再び﹁人間の共同生活の包括的な共同社会の原則﹂はどの

ようにして可能か︑という部分でもあり同時に全体であるものについての問いが提起されてくる︒回答は︑尿◎言目冨

言震時①の社会構造の原理を突破し︑それを包摂するヨリ一般的でヨリ複雑な﹁世界秩序についてのヒェラルヒー観

念﹂でなければならない︒房xgぐ言四・行×画①訂9画︾帝×目言3房および帝〆皀の葺くという秩序のなかに︑宗教︑倫

理および政治の各観点の地位の分化にもかかわらず︑gぐ言のの統一性を証明しよう﹂宮屋面.屋巴としたトマス神

学のなかに︑ルーマンは︑新たな社会構造の秩序回復と新しい関係原理の確立をゑている︒中世ヨーロッパ封建制の

オイコスヒェラルヒーという体系構造は︑たしかに﹁家﹂と政治的都市制度にささえられた古代ヨーロッ︒︿の体系構造と比較

して︑遙かに有機的でヨリ複雑な経済的分業による社会秩序であるという意味で︑一層複雑な還元と把握の能力をも

つ社会理論を要請する︒トマスのキリスト教的世界像と社会像を介して人間関係の基本原理が園○○国宮毒詩○国から

目言巴89巴①へと軌道修正され︑また社会がgぐ言のからの︒︒重閉として定義変更されることによって︑あらゆる

人間的結合形態が︑有機体的社会体という全体の一分肢として調和的に按分されることになる︒

ところで︑中世ヨーロッパの社会理論も︑その完成と同時に自己の構成した宗教I政治的意味体系の圏内では処理

しえない新しい社会過程と体系構造分化に直面する︒﹁自己発展しはじめた社会分化は︑ヒェラルヒー形態の統一を粉

砕し︑水平的I機能的構成をもたらした︒教会の宗教生活︑経済︑政治と軍事の官僚制的支配機構そして最後には文

化や個人の人格形成までもが相互に離れ離れとなり︑近代初期には︑それぞれが固有の価値基準︑固有の地位秩序︑

固有の可能性の地平︑固有の体系境界をともなった相対的に自立し︑機能的に専門化された意思疎通体系として固まつ

(21)

39

た・﹂︵号昼.の﹄色︶この新しい機能分化に直面するや︑中世ヨーロッ・︿の社会理論の世界還元能力は︑自壊せざるを

えなくなる︒その象徴的な出来事は︑宗教戦争であった︒

㈱近代市民社会理論︒近代市民社会理論の特徴は︑ルーマンによれば︑経済を社会全体の構成的本質として概念

し︑同時にこれを代表する部分として概念することにあるという︒水平的かつ機能的に進行する社会的分化とそれら

の統合とを統一的に概念する理論的ならびに実践的根拠を中世の社会理論の枠内では解決しえない以上︑この新たな

現実に照応するより抽象的で一般的な関係原理の確立がさしせまった時代的課題となる︒この関係原理を︑多様で異

質的な社会的分化と専門化とをみづからのうちに照応させる抽象的な﹁経済効用﹂原理によって︑近代市民社会理論

は解決しようとした︒社会の統一は︑経済によって規定され︑欲求充足のぼう大な諸体系からなる労働と交易とによっ

て規定される︒﹁社会は︑いまや労働と所有から構成され︑自己自身の手で合理性と進歩を保証し︑この自己の構造を

基盤にしてそれに対応した政治諸課題を確定していく︑経済体系である︒社会原理は︑効用であり︑その社会的基盤

とその歴史的推進力は︑みずからを市民と称し︑また同時に特定階層こそが経済の諸要件を充足し︑これを政治的に

貫徹するのであると主張する︑第三身分である﹂言昼.い匡己この新しい世界複雑性の把握と還元原理は︑やがて自

己の体内に宿す﹁労働と所有﹂の矛盾から新しい課題性の前にたたされることになる︒ルーマンの社会の体系理論は︑

この今日的課題性に挑む還元原理の提唱という意味で︑マルクス理論や批判的社会理論と問題を共有する地平に浮か

ルーマンの伝統的社会理論の系譜に関する学史的考察の大要は︑以上のようなものである︒彼の記述の特徴は︑そ

れぞれの社会理論を首尾一貫して世界複雑性に関する意味的把握と還元という機能的見地に照らして理解し︑それぞ

れの理論の特徴をこの還元と把握の特殊性において概念するとともに︑さらに古代︒中世・近代にいたる社会理論史

それ自体を還元の増大という意味で理論の進化史として解釈している点にもとめられる︒この見方を一層徹底させて び上ってくるのである︒

(22)

40

一口に体系理論といっても︑その内容はさまざまである︒体系理論もまたそれなりの変遷史をもつのであって︑ルー

マンもそれを存在的段階から機能的段階への推移として捉らえ︑全体・部分範辱による初期の存在論的体系概念︑環

境開放系理論そしてサイ︑ハネテクス的体系理論の四つの段階ないし型を試論的に区分けしている

︵国号閏目︑のF昌冒四三こごめ.三︒これらの体系理論を比較検討したうえで︑かれは自分の理論を﹁一般体系理論﹂と

呼び︑その一般テーゼとして﹁諸体系は︑複雑性の還元に︑とくに内部・外部I分化の安定化をとおしてつかえるも

のである﹂︵ご匙.ぃ屋︶という機能的命題を揚げるのである︒問題は︑この観点に照らして象たばあいに︑従来の部

分でもあり同時に全体でもある社会という問題にたいしてどのように貢献することができるかである︒

ルーマンは︑まず伝統的社会理論の前提を反省的に問い返すことから問題を出発させる︒社会理論は︑最初から体

系理論として構成されていたにもかかわらず︑その観点が十分に意識化されていなかった︒宍︒旨︒昌画ゞ8日目目言の︾

の○g①菌︾⑦①の①房o富津などの基礎概念すら︑その機能的意味が不明瞭であるのも︑体系論的な見地が十分に自覚され

ていなかったためである︒暗黙に前提している体系的見地の反省的問い返しが欠如しているために︑社会の理論を十

グレンッ分に開花させることはできなかった︒その共通した難点の一つは︑﹁境界﹂概念が明示されていないことにある︒伝統

的社会理論は︑﹁平和と正義﹂とか﹁生産と分配﹂といった政治や経済の部分問題をもって社会という全体問題の要請

に応えるという形式をふんでいる︒このばあい︑全体としての社会は﹁はたしてまたどの程度に平和︑正義︑生産と

分配が一般に有意味的な問題であり︑かつ実現できる目標であるのかについて判定しうる︑そのような独立した上級

審庁となることはなどP目白餌罠乞ご具切匡巴のである︒部分でもあり同時に全体でもあるという伝統的社会理 いく方策として︑ルーマンが採用するのは一般体系理論の社会理論への活用である︒

(23)

41

論の概念枠組のなかでは︑全体として︒の社会は固有の機能を見えだしがたい・平和と正義の﹁政治﹂︑生産と分配の﹁経

済﹂は︑それぞれ体系境界が不問にされたままに全体体系と不分離的に結びつき︑これが社会と等置されてしまうと

いう︑論理的には承服しかねる結論にいきついてしまっているからである︒

この部分でもあり全体でもあるという社会観念の根本特徴は︑従来﹁優越要因説﹂と呼ばれてきた一種の存在論的

な社会把握にあるといえるだろう︒この存在論的社会把握をさけようとすれば︑ある社会体系的領域の優先性や代表

性という前提にとらわれずに︑それぞれの体系領域が相互に自己の体系境界内で固有の︒ハフォーマンスを十分に遂行

ホリゾントできる共通の﹁地平﹂としての社会的全体という見方にまで社会概念を一般化し抽象化する以外に方策はない︒ルー

マンが︑社会を諸社会体系の体系として規定する根拠はここからでてくる︒社会が﹁政治的なものとか経済的なものパー●エクセレンスから概念されずに︑むしろヨリ抽象的に社会の社会体系としての性質から︑いわば社会体系そのものとして諸他の社

会体系の可能性を制約するものとして機能する社会体系として概念される﹂含昼︾の匡巴ときに︑はじめて従来の伝

統的社会理論が前提ともし暗黙に肯定していた全体概念としての社会の固有の機能が明示化されてくる︒

全体としての社会の固有の機能という新しい知見は︑生物学のホメオスタシス概念とか物理工学的なサイ︑ハネテク

ス概念との異種交配をとおして醸成された︒これらの理論の特徴は︑全体体系を環境との関連で捉えることに存して

いる︒同時にこの理論は︑機能的に体系と環境との間の関係を解釈することによって︑そこから体系全体の存続可能

性や体系諸秩序の合理性を判断する尺度をもひきだしてくる︒したがって︑この見地を採用するかぎり︑もはや全体

を自足的なものとして︑諸部分相互の関係と諸部分の全体にたいする関係からなる内的秩序という閉鎖的体系として

概念することは許されなくなる︒部分でもあり全体でもあるという伝統的社会理論の前提には︑体系論的見地からみ

れば︑このような閉鎖的体系としての社会的全体観念が暗黙裡に存した︒体系l環境理論は︑この前提を突破するこ

とによって認識の新しい可能性を提示する︒

(24)

42

一般体系理論としての社会理論は︑社会を環境内体系の体系として捉える︒体系は︑物理体系︑生体の体系︑・ハー

ソナリティ体系あるいは社会体系のいかんを問わず︑体系の外部・内部分化の安定化という環境的世界にたいする選

択的機能関係をとおして記述され︑それぞれの体系の自己同一性は︑その選択的・ハフォーマンスによって構成される︒

この環境l体系関係観念の最も基本的な前提的了解事項は︑世界ないし環境との間の﹁複雑性の落差﹂とルーマンが

呼んでいる︑両者の間の質的︒量的な差異性にある︒世界複雑性および環境複雑性に比較して体系固有の複雑性は︑

質的量的にヨリ僅小である︒したがって体系は︑いかなる可能的環境条件ともすべて両立可能であるということはで

きない︒体系が環境条件と両立できる大なり小なりの蓋然性は︑体系自身の複雑性の大小に依存する︒

以上の一般体系理論を社会の把握に適用するとどうなるのか︒ルーマンの定義は︑こうである︒﹁社会は︑物理的な

らびに有機的な体系形成によって構造化されている環境という無前提性のなかで︑社会的複雑性を規制するような社

ホリゾント会体系11即ち可能なものと期待できるものの地平を規定しまた最終的な基本的な諸還元をととのえるような社会

体系として定義することができる︒﹂︵号昼︾切匡④この定義の特徴は︑社会に一董の機能性を付与している点にもと

められる︒一つは︑社会が外部環境としての世界複雑性との両立可能性を選択還元する機能であり︑もう一つは︑社

会複雑性として自己内に機能分化する諸下位体系にとっての可能性と限界性の地平としての機能である︒ルーマンの

主張は︑利用できるいっさいの概念を首尾一貫して機能化し︑これを世界複雑性の把握と還元の問題に原則的に関係

づけることをとおして︑近代的啓蒙主義の進歩思想を未来へと橋わたししようとする﹁・フラーグマ﹂︵内田芳明︶にさ

さえられているといえるだろう︒

この主張との関連で︑いささか気になってくるのはホルクハィマーの次のような問題提起である︒ホルクハイマー

プログラムは︑﹁啓蒙の綱領は世界の呪術からの解放であった﹂︵因日客①言のご崖号目︒.届堂肋.己という︒﹁啓蒙は神話を解き

放ち︑空想を知識によって廃絶しようと欲した︒﹂︵号昼.のごけれども﹁自然の強制を打破しようとする試象の全て

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