茨城大学教育学部紀要(教育科学)『船号(1980) 117−133 117
中 井 正 一・研 究 一図書館論を中心として
佐 藤 晋 一
(1979年10月17日受理)
On the Theory of Library Science of Masakazu Nakai
, rhinichi SAToH
(Received October 17,1979)
中井響(、9。。〜、952)は,国立国会図書館副館長に・94簿4月・6日任命された。それから4年後 1)の1952年5月,副館長中井は死去した。1945年11月1日から1948年4月30日までの,郷里尾道市
立図書館々長在任期間を加えても8年に満たない図書館活動であった。このことは中井の図書館論 及び図書館活動の展開にとって,極めて惜しまれることであった。
確かに短い間ではあったが,尾道及び国立国会図書館での中井の活動には重要な意味が含まれてい る。ところが,中井の図書館論は1972年に子息・中井 浩氏によって『中井正一・論理とその実践 一組織論から図書館像ヘー』 として編集・刊行(てんびん社)されるまで,一般には公けになら なかった。中井正一全集も,1964年に第3巻,1965年に第2巻が刊行されただけで中断されている。
生前,中井は「死ぬ前にどうしてもあと3冊の本をまとめておきたい。一つは論理学,一つは図書 館学〆つは自叙伝だr廉って眈という.中井のまとめようとしていた図甜学aまどのような
ものであったのだろうか。従来中井正一については,いわゆる「世界文化事件」との関連において,
更に「委員会の論理」をめぐっての種々の論及がある。それに比して図書館論の方は・,むしろ今後の 検討課題と言えるであろう。国立国会図書館内に「広場の会」があり,その会報「広場」は4回にわ たって中井正→特集号を組んだ。拓24〜27(1973.6.5.,1973.7.10.,1973.8.25.,1974.6.
20.)がそれである。その編集後記(%27)は,「従来,中井論は多いが,彼の図書館時代について 論及したもの,また図書館内部からの発言はごく少なかった」と記している。本稿では尾道時代を中 心に中井の図書館論を考察してゆきたい。
1−1.尾道市長田坂寧邦は,1945年11月1日付で,空席であった市立図書館々長に中井正一を任 命する。田坂は同年6月1日に市長に就任したばかりであり,12月24日には市長をやめることになるの である。中井を図書館長に起用するについては,次のような事情があったという。
父・中井真一は多木肥料代理店,回船海産物問屋を営んでいた関係で,橋本竜一第14代尾道市長
(1942〜1945就任)とは知り合いであった。その関係から橋本市長は,1945年末か1946年のはじめに 京都から戻っていた中井正一の処遇について当時助役であった田坂に相談したのである。そこで,と
りあえず「市の嘱托ということにした(10月まで嘱托を無給でつとめる)」その後に館長に据えた。
給与は「70円くらい」の課長クラス待遇であった。しかし「いくら何でもお気の毒というので自由
勤務,手当を遠慮なくとってもらう」ことにしたのであるという。中井の住居についても橋本市長の 3)援助があったようである。この間,8月6日には広島市に原子爆弾が投下されたのであった。
かくして尾道での中井の図書館活動,文化運動が開始されるのである。1945年の6月のある日,田 坂市長は中井に語った。「戦争一色で,近頃は学校の教師も本を読んだり考えたりする時がない。ひ
とつ市内の小学校へ押しかけて行って教師と雑談でもしてくれませんか。」数日後,中井が一人でしょ んぽり昼食をとっているのを見つけた市長が事情を聞いてみた。「てい良く断られてとても話なんか 出来ません」と中井はもらした。その中井が,8月16日,市長室で仕事も手につかずに居る市長に
u野球の試合に鮒塒だってこんなもんです4 lと語りかけたという。
治安維持法が廃止された10月4日から3日後の10月7日には,図書館での活動がスタートした。
講演会と座談会を開いた。しかし「終始独演」であり,「聴衆はいつでも五人,十人」というさびし さであった。中井を助けた愼田青年と中井の母の2人しか来ない時も,母だけの時もあったという。
「閑古鳥が鳴き続け」ている図書館のすく横の映画館には行列ができていた。その光景を「腹の冷え るような思いで」中井は見つめた。12月28日,思い切ってポケット・マネーで図書館に電気をつけ て,希望音楽会を開いた。「100名の青年男女」が聴き入ったのである。中井も「激情をもって聴い た。」そして会の終了の際,その「感動の激情を聴衆に伝えずにはいられなかった」のである。
この会を契機に1946年の初頭からは希望音楽会が毎週開かれ,絵の展覧会も催されることになる。
更に「文化史,社会学,哲学,経済史,簿記,法律学,歴史学,英語,独語等」の授講がなされる。
しかしながら,これは「7人位の超熱心な男女の青年が残っただけだった。」聴講生より多い「教師 陣」,と言ってもそれは元・特攻隊員や復員軍人である青年達であったが,彼らは「この7,8人を 失わないためにまたは一人でも弟子を増そうとして猛烈な勉強もしたし,また文化運動の酷薄な困難 さと戦い始めた」のである。この努力が,3月の「花の祭」を生み出す。「一週間ぶっ通しのフェス ティパル」(『論理とその実践』pp 29〜31)が200人の青年によって実行された。中井自身は,ここ までの「最初の6ヵ月は,僻に織を与えようとして,徹底的に失敗した5 P時期だと回想している。
そして4月,青年たちのエネルギーを背景に「カント講座」を計画する。7月までの間,尾道と三 原市で続けられた。尾道では毎週連続して行ったという。中井は「ルネッサンスが眼前において起る のを見たいという野望を胸に描いて」,「一人一人拾っていって」(『論理とその実践』p.32,61.)
尾道で70人,三原で100人の聴衆をつかんだ。
1946年には,3月に広島県地方労働委員会の中立委員に選出される。また尾道市立女子専門学校
(現・尾道短期大学)の設立に努力した。中井が「実際上の気運を醸成した」のである。しかも「初 代校長に適任と」(森本,p.16, p.17.)目されていたフシもあるという。7月1日に入学式を行った
この女子専門学校に,中井は講師として協力している。また,岡山の第六高等学校の講師も勤めた。
これは黒正 厳校長のパック・アップによるということである。
この頃から中井に対して「さまざまな人やグループが講演を求めて来た。」(中国新聞)三次市の音 楽連盟,三原市の農民連盟などへはたびたび講演に出かけたという。尾道では青年会主催の夏季大学 が計画された・ 「7月28日より8日間,毎夜7時より10時まで二講師ずつというプランで」(r論
理とその実践』p.32)実施されたと中井は書いている。しかし,「7月21日の夜から土堂小学校講 堂を会場に」(中国新聞,森本,p.51.)して行われたという説もある。名称も中井は「青年講座」
と記しているが,「文化大学夏季講座」と記している文献(森本,p54.)もある。会費は二十円,
最終的には650名の参加者を数えたという。三原市でもこの夏季大学がもたれ「10日間,科学史,
経済史,文化史,音楽史」がとりあげられ,250人が参加した。この,両市での夏季大学では,住谷
佐藤:中井正一研究 119
悦治,青山秀夫,田畑 忍,前芝確三,画家の須田国太郎等が講師を勤めた・中井は「論理学におけ る新しき展望」というテーマで講義をした。
尾道での講座については統計がとられている。性別(男57.5%,女42.5%),職業別,学歴等の項 目がある。講座で興味を感じたもののうち論理学は30%,ソヴィェート事情は22%であったという。
また講座の継続をほとんどの人が希望し,むしろ「各専門でもっと突込んだ研究を要求して」来た。
「土地における不断の開講」(『論理とその実践』p34)を強く要請する声もあった。
8月には広島県労働組合協議会(中川秋一議長)が結成された。その過程で労働組合関係者の中か ら全県的な文化運動の団体を結成しようという話が出た。 「初夏には楠瀬知事のあっせんで」(中国 新聞)中川議長と中井が会い,中井会長,中川副議長のもとに広島県労働文化協会の講想がかたまっ た。9月25日に正式発足。中井は,中川に「アウフクレールンクで行こうよ。我々の役割は・民衆を 飛び込み台の上にのっけてやることだ。そうすれぽ,彼らはきっと自分の力でジャンプするよ」と語
ったという(中国新聞)。この協会は機関紙勝文タイムス」を刊行した(中井はそこに「労働の尊 厳」を書いている)。
この頃,田坂市長の後任として市長に就任していた石原善三郎から,「図書館は読書のために存在 する。文化的会合に使用させない」という方針が示され,「在尾文化人の考え方に相異を来たし」
「悶着をおこした」(森本,P51)こともあったという。「図書館も,市の意向で,読書以外の文化 運動を一切禁ぜられた」と中井も書いている(『論理とその実践』p.36)。
10月になると尾道で労働文化協会の支部が結成される(30日)。中井は12月1日, 県行政監視 委員,18日,県地方労働委員長となる。
11月3日には新憲法の発布があった(施行は1947年5月3日である)。すぐに各党が新憲法に基 つく初の地方選挙実施へと動き出した。官選知事楠瀬常猪が自由党推せんで立候補することは予定の 行動であった。社会党は11月に楠瀬支持を執行委員会で決定した。そして翌年1947年2月
10日,2・1ゼネラルストライキのマッカーサー名による中止命令の後,正式に公表した。 「この 時点で知事選に出馬すると見られていた人物」も何人かいたようである。ところが,「全く無名の
人たちによって知事候補として,ひそかに説得されていた人物」がいたのである。中井正 一である。
この知事選立候補を中井が「どのような動機によって,またどのような決意によって」おこなった のか。「本人自身が残した記録はない。」中井への働きかけは「政党という強力な力も権威も持ち合 わせない人々によって執拗に続けられていた。」(中国新聞)もちろん,1946年の初夏からとすれば,
約1年8ヵ月に及ぶ文化活動が中井の立候補を促したとも考えられよう。さまざまの文化団体が中井 を支持したようである。ただ,この立候補に関しては現在までのところ,あまりくわしい資料は公表 されていないようである。
2月17日付,中国新聞は「広島地区労働組合協議会,共産党広島支部,広島県労働文化協会,民 主主義科学者協会では,中井正一氏(尾道市立図書館長・県地方労働委員)を知事公選に共同推せん することに決定,内諾を得たもようである」と報じた。社会党は依然楠瀬支持を表明している。 「2 月18日には広島地区労働組合協議会が正式に中井の推せんを決定」し,「間もなく民主選挙推進協 議会」が結成された。「3月に入ると日本農民組合広島県連合会(広島市習実町に事務局があった)も,
中井推せんを決定した。」3月15日には楠瀬常猪ともう一人が立候補の届けを出した。翌16日,社 会党広島県連は「中井正一の入党と知事選公認候補者として公認する声明書を発表」した(中国新聞)。
社会党としてはいろいろな問題をかかえていたようであり,中井正一の登場に「最もとまどった」(中
国新聞)ようである。しかし,党県連会長森戸辰男は「アレコレ熟慮の末,人格,経歴から総合して」
中井を公認することに決め, 「保田庄一県連書記長が推せん工作に当たり,中井をくどき落し」(森 本,p154)たのである。こうして民主陣営の統一候補者として立候補を,17日に届け出たのである。
中井自身は,この辺のことについて,後に次のように記している。 「中立で立つのか,社会党から立 つのか,もみにもんだ司そして「ついに告示のあった翌日,森戸辰男氏の入党要請の電報を契機に 社会党公認候補として知事選に乗り入れることとなったのである。」(『論理とその実践』p.53)
また,立候補の決意をするに至るまでのことについては,「実践について一馬になった話一」
(『青年文化』1948年9月,『論理とその実践』所収)の中に,おもしろいエピソードがある。講演 会からの帰路の車中で,広島で降りてくれというアナウンスがあったので下車すると,「先生,今から 人民裁判です。先生を知事選の民主陣営候補者として推す決議をしました。そこで先生のこれまでの 履歴書と抱負を話して下さい」という「強談判」が待っていたのである。中井は「言葉をつくして,
文化運動ではいささか期すところがあるが,政治運動からは引かしていてくれと訴えた」のであるが,
とうてい聞き届けられない。押問答の最中,ある青年は「しんみりと,『先生,私達は永いこと苦し んで来ました。今度あ,先生,一つ犠牲になって下さい』」と語った。この言葉が妙に中井の「胸に つき刺った。」そして,立候補の了承でなくてよいから選挙資格審査請求書を出すことについて「承諾 をいただこう」という要求に対して「個人の決意の力にのしかかる集団の決議の力は,かくも断層の 差をもって押しかかるか」という感にうたれ,決断したのである(『論理とその実践』p.53)。中川 秋一労働文化協会副会長によれば,知事選立候補要請をひきうけるかどうか迷っていた中井に相談を
うけて話し合いをしたが,最後に中井は「そうだ,ぼくは綱引きの綱の一点を握っている。握っているだ けで一方に引っぽられている。同じ引っばられるのなら,ぼくもその力の一つになって引っぱろう」
と,決意を表明したのだという(中国新聞)。
選挙費用は「3万円以上の金で立っては必ず不純な要素が加わってくるから,この限界内で」とい う中井の考え方に基づいて集められたようである(『論理とその実践』p.53)。中井個人は「京都
の知友峨腎の他の膿」を依頼した・そして三唱房から『近代美の研究・が・「立候獺用にあてるために」出版されることになった。刊行は6月となったが原稿料はすぐに届けられた(久野
収によれば「おそらく5万円」(中国新聞)だったようである)。また,尾道に在住していた画家の 小林和作は「2万円の寄附」(森本,p.155)をしたということである。
社会党公認候補とはなったが「20日間の選挙戦を通じて実際に中井正一の手となり足となって支 え続けたのは・県下の無名の労働者や農民」(中国新聞),そして学生・知識人達であった。東京,
7)京都からも『美・批評』,『世界文化』,『土曜日』を介しての友人達が多数応援に来てくれた。
4月10日開票,楠瀬417,896票,中井291,924票で敗れた。事前の予想を上回る得票であった。し かし「投票率76%の尾道市の開票でも璽雫地元候補 中井正一氏は庶民に知られておらず,8,000票し かとれず繭概より少ない」(森本,P.154.)得票であったという )
中井のスローガンは,官僚政治から民衆政治へ/,政治を日なたへ/,政治を一人一人の手の上に/,
であった。
選挙が終ると再び夏期文化講座のプランの具体化にとりかかる。6月7日には尾道文化研究会が結 成された・会長は中井・ 「常任理事小野鉄之助,顧問小林和作,田坂寧邦,山本操」(森本,P.
187.)であった。多分に,中井を励まし,労をねぎらう意味も含まれていたようである。
8月には20日間前後にわたって,県下22ヵ所で労農提携の夏季大学が開かれる。「そのうち14カ
株^村であ」って,「齪徳師を呼んで,エスカレーター式の蜘文化講座」であった.エス
■
佐藤:中井正一研究 121
カレーター式とは「中井先生発案の新語」で,一一ヵ所の聴講期間を4日間とし,1日5〜6時間を2 回にわけて行った。そして講師はこのスケジュールに拠って「村から村を巡回講義」した。講義の題 材は「聴講生が選んだもの」とし,「聴講料金は1人30円均一という協定」であった。講座をむか
える地元青年たちは「聴講生を募ること,教室を借りること,講師の宿を用意すること,送り迎えす
10)
ること,一切」をひきうけて全力で動いたという。 「これは大体成功し」 「のべ3万人の人々が」
(『論理とその実践』p4a)参集した。講師は知事選に応援をしてくれた人も含まれていて,栗原 佑,平野義太郎,青山秀夫,羽仁五郎,須田国太郎,武谷三男,福島要一,高桑純夫,戒能通孝,川 島武宣,甘粕石介,近藤洋逸,中村 哲等もいた。中井や中川秋一労働文化協会副会長も,勿論,加 わった。この講座は労働文化協会を中心とする文化運動の「ハイライト」(中国新聞)であり,ピー クであった。この頃が同協会の「最も多忙で充実した」(中国新聞)時期でもあった。11月には労文 協主催の第1回労働文化祭も開かれた。
中井は1947年に中国地方生産監査委員長,中国地方逓信局行政監査委員,中国地方鉄道行政監査 委員を任じられている。
1948年2月,国立国会図書館創立が決定。中井は,羽仁五郎参議院図書館運営委員長らの推せん によって国立国会図書館々長候補にあがる。既に,1947年8月の夏期大学開催の折に羽仁五郎からの 打診があったのである。尚,富岡益五郎によれば,県知事選の後に「国会図書館設立と共に中井さん を館長に任命する話と,京都市が戦後の趨勢から文化局を新設するに当って,中井さんに採配を振っ て貰いたいという話が重って起った。中井さんは,京都の方は辞退し瑚)ということである。4月・6
● ● ●
日中井は副館長に任命された。30日尾道市立図書館長を辞任。6月5日国立国会図書館が開館,中井 は副館長に就任する。この年の暮の12月中井の家族も上京する。この年中国地方財務局行政監査委 員になっている。ここまでが,尾道での中井の活動である。
1−2.尾道での活動において中井が狙ったものは何であり,いかに実践しようとしたのであろうか。
このことは後の国立国会図書館時代の活動を考えるうえには勿論であるが,いわゆる「世界文化事件」,
反ファシズム文化運動との関連においても大切な問題であると言えよう。ただ,この時期に中井が書 いたものは少いようであり(少くとも公開されてはいないようである),またこの時期の中井に言及 したものも多くないのである。尾道時代の研究は今後の中井研究の中心的テーマの1つであると言え
よう。
中井は尾道市立図書館の嘱托として活動を開始した。そのキッカケは,中井によれば1人の青年が 手伝いに来てくれたことにある。「ここに一人の青年が結集している。ここにすでに最小単位の文化 運動が始まっている。」館長としては講演会を計画・実践したが,閑古鳥が鳴くぽかり。となりの映 画館には長蛇の列。1946年の年末に「敢えて,敗戦の年の暮を一層重く苦しくするものを選んで」行 った音楽会(チャイコスキー「悲槍」,ベートーヴェン「第九」)が成功した。これを契機に青年に 向かって中井が突き進むQ 「彼等に理論を説く事は,なかば肉体労働的なつもりでいなければならな い」(『論理とその実践』p.29,p.30,p.36・)ことを痛感させられる。ところが青年の要求は「論 理学に集中して来た」のである。この青年の論理学への要求は何を意味するのか。 「論理学を興味多
く連続講義すること」が必要なのであるが,中井にとって「実につらい任務」となった。第一年目に つかんだ,この課題を「第二年目」において「如何に組み立ててゆくか。」(『論理とその実践』p.36)
一方では,「私達の漁村に,(夏季大学の)先生達が一週間ぐらい居て研究して下さるべき」では
ないかと言う青年達がいる。その青年たちの組織をト度実験の中にぶち込んでやろう」と中井は考
え,青年達の要求する講師を必要なだけ送りこんだ。400人に及ぶ青年達は3日間の講座を成功裡に 運営しきった。 「聴いたこともない真理の激しさに胸をときめかしながら,一つの組織の中に融ける」
という「驚き」を体験したのであった。が,その反対に脱落するところもある。数千人の労働者がい ても開講できないところもある。(『論理とその実践』p.38,p39.)
どうしてか。 「それは激しい闘い」だからである。 「講座が出来たということは,戦いに勝ったと いう徴しであった。」開講出来た村の青年達が,未だ開講しえない青年達に対してもつ「軽侮は,農 漁村が未だ経験したことのない正しし競争への誇りでもある」のだカ㍉それが前面に出て来て,その 問題を中心にして更に努力が続けられる,というふうにはなりにくい。 「今日読書会に出た青年が明 日バクチを打つかもしれない」のであるbそれをどうして防ぐか,また自から防ぐようにさせるか。
「闘いに闘っている青年達は,よい講師を他村にもってゆかれる事を実にくやしがる。」多くの講師 が「どうして,この青年達の真中に飛び込んで来てやらないのか。」青年達は「まずカソトの線を学 びたがる」のみならず,「それの弁証法への契機を追い求め,腹の底まで自分のものにしたい」と追 求してくるのである。青年達にとっては「それは単に知識ではなくして,その日その日の武器なので ある。」
中井自身が痛い目に会ったのである。図書館での講演会の失敗がそれである。なぜ閑古鳥が鳴いた のか。それは青年の求めるものを把握することに失敗したからなのである。青年が「無気力なんだ」
からと言って自己の「誤りを踏みしめようとせず」に済ませてしまったり,あるいは「何やらゴテゴ テ言うとるぜ」というふうな空疎な話ではなく,彼らが「彼らなりに持っている封建的な遠近法の見 方を,根底的に崩壊せしめる」ような, 「堅牢」で「簡単」な理論を与えるのにはどうするか。青年 自身は矛盾の真只中にあえいでいるのだ。しかもこの矛盾は深刻である。どっちにころんでもいいと いうようなものではないのである。 「しかるに,文化系統の学問では,この理論の堅牢化と簡単化は,
あまり省みられていない」ではないか。 「彼等をハッと立止まらせ,耳をかたむけしめる」ような,
彼らの「笑をふくんだ口の中へ,封建制の痛いところをほうり込んで,目を白黒させる」ことのでき るような理論,方法が必要なのではないか。(『論理とその実践』pp.39,40,41,43〜44,49.)
「記憶の重荷は,ある数以上になるとその全部をとり落してしまう」のであるから,「彼等が家に もって帰る」ことのできるような,即ち記憶ではないものが必要なのではないか。
1誤りが何であるか,これを発見するには,それでない何ものかに達してみて,それに成功して」
はじめて可能となるのである。従って「これは真実を求めるのに,それを否定の媒介の中に探りあて るやり方」とも言える。まさに,この「ふみしめる現実に,主体的なものは横たわっている」のでは ないか。その主体的なものが大衆的なものとならねばならない。 「大衆は歴史の線に副って傾斜して いる」のだから,「歴史の真実を分析し,その位置を明確に」示す必要がある。けれども本来,「こ の明確にすることの真実さは,その大衆が,いかにそれを自分のものとし,生きているか,それが判 るかということによって検出すべき」ことなのである。つまり,「そこに在ることが,真実を検出す る基礎となる」という立場は,「自己個人のエグジステンチアが,集団の存在様相における位置にお ける部署をもっていない場合,単なる不安の方向に終る」危倶があるからなのである。単なる不安の 方向にとどめておかれたままの個人はどうなるのであろうか。(『論理とその実践』pp.44〜45.)
人間集団は「歴史的に形成しつつあるエグジステンチア」の内に在るのであるが,そのエグジステ ンチアそのものが「もっと深い不安の中に」おいて「創造せんとしつつあるもの」を有している。
「大衆が,この創造せんとしつつあるものを了解し,その創造に手を貸すか否かを,運動をもって闘
いとるか否かを,大いなるキャンペーンとして」呈出することカ㍉中井の「賭」である。中井にとっ
佐藤:中井正一研究 123
て「文化運動とは,この大いなる賭である。」 しかもこの賭は「殊に地方文化の問題において」こそ 最もきびしいのである。「政治の問題にまで,その限界を接している」切実なる問題なのである。
個のエグジステンチアと「創造せんとしつつあるもの」との間における「媒介の問題の答えは,本 の中にはもう書いていないような気がしていた」と中井は言う。「あらゆる問題がそこで行きつま
っていた」のである。(『論理とその実践』p.46,p.48, p.49.)
しかしながら「それは可及的速やかに」解かれなければならない。ここに『アキラメ根性』は許さ れない,『見てくれ根性,抜け駆け根性,我利我利根性』は許されないのである。こうして中井はハ
ッキリと,実践の論理学の追究を自覚するのである。そう言ってよいのではないか。
「実践なるものには,過剰の意識をのりこえて,自分自身を追い抜くもの,自分自身を止めて見て
o ● ● ● ● ● ● ● ●
いるものを追い抜くものがなくてはならない。批判は補うもののない場合,単なる批判である場合,
実践を止めてしまうものである(傍点は引用者)Q」(『論理とその実践』p.50,p・56)
中井は,「自分の意識の革命を志す農民の心根,これが文化の大黒柱なのである」とも言う。彼ら は「知識を求めているのではないのである。意識革命をしたいのである。」そして,一たん「意識が 革命を通過すると,他の皆にいつでも語って聴かす」ようになるのである。つまり量的拡大につなが
るのである。
「理論の簡単化と堅牢化,誰にも判って,しかも間違いの起こらない類型化」が問題なのである
(中井浩氏は,この論理の実用化は「エンジニア的発想」であり,「目的を設定し,その目的の下 に許容誤差の範囲で,誰でも使える論理を」という考え方は,「それまでの哲学の中にはなかった」
と見ている)。これがなければ,「出版界もそれに留意しなければ,威張ったコケ威し」にすぎなく なりうるのである。「1950年以後の理論機構」は,「一度農民達に入って再び盛ってくる理論の再生 産」となるであろう一中井の予測である。(『論理とその実践』p.26,pp.62〜3.)
結果的に中井は尾道を去った。「彼が何故郷里の広島を捨て,東京に出ることを決意したのか司こ のことについて「彼自身の言葉を聞くことはできない。」(中国新聞)
けれども,中井は1948年1月号の『光』という雑誌に書いた「農閑期の文化運動」において,当時 のことにふれて,次のように書いている。
「終戦後二年間の広島県農村の文化運動は,大体において三期に分れるように思われる。第一期は 21年5月ころまでの暗黒期,第二期は22年4月選挙までの覚醒期,第三期はその後の停頓期であ鳥」
第一期は「痴呆的に敗戦にうちひしがれていた時期」であるが,第二期は「本も読み,新しい民主々 義とは何んであるかを研究して見ようという心持に転換しはじめた」頃である。ただ新しい本は入手 しえなかった。「書籍が手に入らないこと」が「演劇に走る大きな原因の一つ」でもあった。「本屋 は特定の人と特別の契約を結んで,店頭に出さずに流してしまっていた」ので,つまり「何か闇的物 質の交換の便のある方へ本が流れていったので,真の読書人,または本の好きな青年にまわる」こと がなかったのである。その代り演劇が盛んとなった。「一夜に一万円ぐらいの寄附金(はな)を集め るのに苦労をしなかった」ほどであった。ところがその金は「すべて酒食に消える」のであった。
「農村の文化欲は飢渇のままに放任されていた」のである。中井達は「本がないから,本の代りに人 間を巡回させて,疑問に答えてまわった」のである。蔵書を公開する人もいた。そこには青年が出入
りすることになる。「この時期が,日本再建への力が最もその威力を発揮した」のではないか,と中 井は見る。「苦しかったが,攻勢で」あったからである。
「しかし,四月選挙は意外にも,青年にとっては悪い影響を与えることになった。」「選挙は農村」
をはっきり「対立させた」からである。「選挙費用に投ぜられた金の余の滴」や「酒」「賭博」「や
くざ芝居」「歌謡曲」が青年にくいこんで来た。
「職業にはつける」のかどうか,農業はどうなるのか。青年はこの間題で深く悩むのである。そし てこの問題を境にして,攻勢から守勢にと,方向が変化する。「刻々と焼け落ちて行っているこの焔 の中で,助けを呼んでいる少数の青年を鼓舞するのは,今,まさに今でなければならないのだが」,
文化運動を唱えている「中央の人びとの大衆という観念は,なんと言ってもキレイ好み」である。
「なんの対策を考えていてくれるので」あろうか。「『自由読書リーグ』のような組織が,もっともっ と大きな力を持ち,有力な出版書店は,自社が創成のときを省みて,ただちに知識に飢えている青年 にジカに荒々しく手を触れていただきたい」のである。
「読書層」即ち「青年は一つの生き物である。」その青年達に,「よい本は多く難解だ」から「注 釈してやらなくては判らない。」しかし「注釈者は少ない。」農村の読書会では,その「中心の人が足
りない。そのためにそれは続かないのである。」小学校,中学校の先生が「自信を失ってしまってい る」のは「決定的なこと」である。全体が「コソコソキョロキョロ」という状態になってしまうので ある。
農村の文化運動は,しかしながら「本当は,そこは全文化戦線としては最前線であり,中央戦線で ある」のだ,と中井は強調しているQ第三期の「停頓期」を以上のように特徴づける中井である。中 井は自己のおかれていた立場を,こう説明するのである。
しかし,何故中井は尾道,広島を捨て,京都の話を断り,東京に出ることにしたのだろうか。中井 自身の言う第三期としての停頓期(1947年4月知事選以降)に,夏期大学が開催されたのである。
「干上がった荒地に雨を降らす(中川秋一)」のような意義をもった夏季大学であり,「広島県の歴 史でもかつてないことだった。」だからこの大学の終了後も労働文化協会へは,多くの町や村から,
来てくれという「依頼が殺到」したのである。音楽会もひんばんに催された。日本製鋼広島製作所で は,約一ヵ月間の「労働学校を開講」することができた(中国新聞)。
第一期の「暗黒期」(1946年5月まで)にではあるが,若い教諭に対して「新しい文化を築くため に,今の一・日は過去の何十年にも匹敵するからねエ。今が大事なんだよ」と,中井は語ったという。
確かに,何故東京へ出ることに同意したのだろうか,疑問なしとしない。広島での活動は「現実に しっかりと足をおろした彼の思想の実践そのものだったのではないだろうか。」(中国新聞)
豊田真毅氏は,中井を助けて文化運動をした人である。1946年の暮,久野 収氏の紹介で中井を 訪れてからずっと行動を共にし,中井が広島を去った後も文化運動を続けたのである。その豊田氏に
よれば,次のようなエピソードもある。
ばくろう
「選挙中,三次で草競馬の見物人に演説された時,百姓,商人,馬喰,車引,土方,あらゆる職業 の人が集まり,競馬は一時中止となった。『中井正一はおまえか,頑張ってくれ』人々は口々にそう 叫んでいた。中には白酒(県北には自家製があった)を出して,『一ぜいやって呉れ』と言いながら 最前列に進み出る人もあった。」そしてこのことを中井は後にくりかえして「彼等の臭の中で無限の 力を覚えた」と語っていたという。しかも中井は,単に彼等によって無限の力を覚えただけでなく,
その彼等に彼等自身の力量をいかに自覚させるか,についてこう語っている。「私は理論と実践と が結合する政治の実現に努力する。その為にはあらゆる問題に対し,統計,資料を示し,各部門に専 門の学者を配し研究調査せしめ,それを基礎にして政治に反映せしめる。私にはそれが出来る。私を 応援して呉れている人々の中には,多く娘心的な偉れた学者の方々がおられる習
この中井の考え方は,国立国会図書館副館長として,図書館法を通過させた際にも貫かれている,
と豊田氏は指摘している。
佐藤:中井正一研究 125
中井の戦争に対する反省については,山代 巴氏が紹介しているように,文化運動の中で語られた ものであって,しかも具体的な話としてである。ここにも一人一人の農民の意識変革へのとりくみ方 が示されているように思う。中井の文化運動にとっても重要な点であろう。
福山四十一連隊について,農民組合の人々を面前にして,語った。 「この備後は,中国大陸におい て婦女への暴行は言うに及ばず,一村を焼き尽くし殺し尽くすことで有名な鬼の四十一連隊の兵士ら の生み育った土地なのだ。」しかもその上,彼等兵士が戦争で,あるいは「クリークに沈みつつ瞼に描 いたであろう故郷の恋人達は,昭憲皇太后の御歌驚聖うつぶして香う春野の花すみれ 人の心にうつし てしがな の教育方針で育てられ,忍従を美徳とする大和撫子だったのだ。ちょうどあなたがたのよ うな人々だったのだ。彼らはあなたがたに敬慕される男たろうとして,あそこ(中国大陸)に抜け駆 けの増禍を演じたのだ。このことを女性も反省しなけれぽ」ならず,「これを恥と思い,この恥をそ そぐ道を求めることが,我々の戦争反省の第一歩ではなかろうか。」
更に,福山連隊が中国では不可能とされていた浜松クリークの渡河を成功させたのは何故か,と話 を進める。「南京大虐殺の先頭を切るなど郷土を沸かせ,不可能を可能にした」のは何故か。それは「抜 け駆け根性」のせいだ。「この璽望ぬけがけ 根性を指揮者は心得ていたのだ。兵士たちは行けの号令が かかれば,先陣を切って底なしの泥沼に足を取られて沈んで行く,その沈みかけた仲間の体を踏んで 次の者が一歩前へ出て沈む。その体をまた次のぬけがけ根性が踏み越えて前へ出る。こうして沈め重 ねた仲間の体の上を越えて,渡河は成功している」のだ。
そのぬけがけ根性は,みてくれ根性・我利我利根性に通じ,アキラメ根性がその裏返しとしてつな がってくる。こういう「連の根性(論理)が何故,どこから出てくるのだろうか。
耕地の狭さ,高い年貢,耕すこと山頂に到れば国亡ぶ,という古語の通り,耕やしうるところはす べて耕やされているが,平均耕作面積は狭いし,土壌は良くない。五公五民の現物年貢。そこから出 ている璽驚備後古手 の話。加えて,出稼ぎ。「明治も早い時期から我県は全国で二番目ないし三番目 の移民県だったんだ。ハワイへ,北米へ,南米へ,単身で,または夫婦で出かけた。そこからの送金 は莫大なものであったろう。朝鮮や台湾へも早くから出かけた。」それだけでなく国内的にも鉄工所
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紡績工場,製糸工場への出稼ぎ,「これも大きな比率で農家経済を助けている。」そして満州への出 稼ぎ。「満州での日本人の権益」という考え方は「この地(福山)で熱狂的に支持された」のである。
その原因は「外からの収入を頼る以外にない零細農の暮し向きが根底にあったからではなかろうかQ」
「招かれもしない土地へ行って権益」だということが侵略であることぐらいは知っているはずだ。
「だが天皇の八紘一宇をスローガンに,兵力をバックに日本人はこの侵略を強行した。それは教育勅 語の教育が下地にあったということもあるが,小さい袋にはち切れるほど入れられた水が,袋の一点 が破れたらほとぽしるように広い器へ流れる。ちょうどそのような爆発力で,満州から中国全域へ,
太平洋の全域へと拡がり出たのではなかったろうか。その内なる爆発力の核を変えない限り,我々は 侵略根性を捨て去ることはできまい司
「零細自作農の根性を根幹に」して「外へ向けて覇権を拡張」するという構造。ここに「日清戦争 日露戦争,そして満州事変から日中戦争,太平洋戦争と発展する日本帝国主義の領土拡張戦争でこの 地から出た兵士達」が示した「勇猛果敢さ」の根拠があるのではないか。「この備後路の家柄自慢の 強い五反百姓の息子らは,決していやいや戦争へ出てはいない。彼らは心の底に人に負けてはならぬ,
人に後ろ指を指されてはならぬ,そういう自律心で困苦に耐え,命を惜しまず敵陣へ突進している。
いわば日本帝国軍の華だったのだ。」だから「民主々義の憲法をもった後でも,(この)根性の底が
そのまま残れぽ,形を変えて(存続し),また侵略の爆発をくりかえすに違いない。」この構造は
「一度の打撃で質を変えるほど脆弱ではない,」
それは,家を見ればわかる。「一歩家の中へ入って見れば,人権の意識は(未だに)零である。」
「家長の絶対権と,絶対服従の家族労働」に支えられた家,その上に成り立つ国家。この構造は重く,
一度の打撃ではくずれないのである。だから中井は,こうも語るのである。「天皇制のことをどう考 えているのか。天皇制は敗戦という形で倒れはしたが,それは日本人民の自由解放の闘いが倒したの ではないから,天皇制によってつちかわれた日本人の意識はそのまま残しているのだ。お互いの中に 巣食う天皇制の意識に気づき,これを退治する実践をやり,実践の中でぼろが出て,あやまちを犯し,
あやまちを踏みしめてまた闘う。またあやまちを犯し,あやまちを踏みしめて前へ進む。こうしてこ そ天皇制の意識はぬぐい去れるのだ。日本人にいま最も必要なのは,この意識革命なのだ。意識革命 のともなわない民主々義はあてにならない。状況しだいでいつでも元へ戻ってしまう。」つまり「主 観的には戦争を反省したつもりでも,意識革命のともなわない戦争反省は,いつでも,どこでも,他 13)
lの人権を侵すことになる」のである。
誤ちを踏みしめて,他人の人権を侵すことなく前へ進むという媒介頂がなくては「行くものが帰る ものであり,帰るものが行くものであるという,『西田(幾太郎)さんの渦流ウィルベル』は恰好の ゆりかごとなり,青年達をそれに吸い込んで行く。」青年たちは「この快いリズムの中に回転しながら 吸い込まれていって」しまうのである。(『論理とその実践』p・40.)
この国が内包する侵略主義という爆発力の核を変えようとするなら,「家の中を人権の砦にする」
13)こと,女性の忍従をはねのけるということに「10年,20年,いや生涯をかけても惜しくはあるまい」
一農民自身の足元をこうして照らし,封建的根性をくずしてゆこうとしたのである。中井自身が2 度の夏期大学等を通じて,誤ちをふみしめながら闘った。本を巡回させること,あるいは 本の代り に人を 巡回させること,ここまでは障害や妨害はありながらもなんとか成功させることができた。
けれども農民自身が,青年自身力㍉女性が自から自己の誤ちを踏みしめながら実践に踏み出した時,
矛盾が生じ,火が放たれた。次々と村は焼け落ちて行った。「村の青年の30%が賭博をはじめたら その村の文化運動は不可能となる。私(中井)はこれを璽雫焼け落ちた と言っていた。」「かくして,
鮒はまたしてもあの肺の中に野ざらしとなって行くのである・」(「農村の思想4、ア・133・)
ハして中井の文化運動は失敗したのであろうか。また,中井には「農民思想欠如論」と言えるよう な,インテリに特有の農民観があったのであろうか。
青年達は「アトラスのように土を持ち上げようと」したのである。その「喘ぎの一つ一つ」として の文化運動が展開されたのであった。この闘いに勝とうとして青年達は全力を投入したのであった。
「2,3人の聴講者の6ヵ月,70人の8ヵ月の苦闘は燃料がくすぼって眼をあけられないような期 間であった」けれども,この困難な「このくすぼる間の1年は,しかし,一番大切な耐えるべき時」で あり,このくすぼりが「ある瞬間に般ボーッ と真っ紅に燃えつく」のである。その燃えつきはまず
「700人の夏期大学となり,ついに広島県13万人の労働文化協会となった」のである。(『論理とそ の実践』P.39,P.63.)
森本氏は次のような評価を下している。「中井正一氏の先覚は,哲学者美学者というその専門的学 問においては,とかく 象牙の塔 にこもり,学究に没頭する学者であるのに,庶民のなかにとけこ み,『人民の中へ』入り,その鳴雫土壌 を信じ,民衆文化を育てようとしたこと」にある。その中井 が「夢想し,その実現のために喫聖獅子奮迅 の活動があったにも拘らず,広島県内で実らなかったの
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は何故か,時期早尚か,同氏の理想的文化群像は折角の基礎づくりがなされながら坐折しているのは,
二十二年四月の広島県知事選に出馬,落ちたためだと指摘したい(傍点は引用者)。」 (『戦後の足
佐藤:中井正一研究 127
跡(上)』p.52.)この森本氏の指摘に,筆者は大きい研究課題を与えられたように思う。尾道・広 島時代の実践活動そのものの検討は,非常に重要であると言えよう。
山代氏は,農村の「聖璽焼け落ちた 姿こそが,先生に広島の村を離れて国立国会図書館副館長の位 置へつかせた一番大きな原因のように思いました」と述べている。労働文化協会主催の夏期大学が終 り「日常的な小集団の学習グループが芽生えた」頃に,「先生を中心にしたカント講座の仲間の中に も,知事選挙の行動的な仲間の中にも,仲間を裏切り,せっかく積み重ねてきたものを,自分の足で 踏みにじってゆくものが出て来た」のだという(「ある農民運動の組織者」p.49.)。中井自身も「今 まで隠匿物質を摘発していた連中が,その物資をかくし回るトラックの上に乗って,スリルと酒に身 を投げる。こんなことが,あの村,この村に起ってきた」(「農閑期の文化運動」p.29.)と記して
いる。
山代氏は更望焼け落ちた という表現に,当時の政治的・政党的問題をも含めているようである。こ のことは知事選ともからんでいる。森本氏は,そうとは明記していないが知事選出馬・落選という事 実の経過に挫折の原因を見てとるというのは,そこに何らかの根拠があるからであろう。たしかに選 挙戦の問題は,たとえ中井が広島を去らなかったとしても問題になりうるであろう。が,現在の私に はこの問題について論ずることは不可能である。
中井と広島で共に活動した,もと広島県労働文化協会専従書記・北口利昭氏は言う。「中井さんが 国会図書館に来るについては,まだ広島でやることがあるのに引っぱられて来た」のか,「あるいは もうやることは大体やってしまって,あまり先の見通しも立たない状況だった」からなのか,という 質問に「私の感じでは,もうやれることはやってしまい,収拾もつかなくなったということではない かと思う」(「広場」%27)と答えている。これは1946年1月頃から1948年3月頃まで共に活動
していた人の発言であり,その意味で貴重な発言であると言えるだろう。
中井の長女・由紀子氏は,こう書いている。「国立国会図書館に招かれるお話があって,父は非常 に悩んだようです。せっかく盛上りつつある文化運動から離れるのはとてもつらかったようです、」
(父の思い出」P.13.)
私は,森本氏も指摘しているように,〈基礎〉は築かれたとみなしてよいと思う。にも拘らず東京 に出るということになったのである。そこには,中井のいかなる悩みがあったのであろうか。
中井が尾道市立図書館長を辞めたのは1948年4月30日付である。参議院図書館運営委員長・羽仁 五郎が尾道に来たのは,1947年8月の夏期大学講師としてである。この時羽仁五郎は,中井正一を やがて創設されるであろう国立国会図書館々長に据えたいという意志を明確にもっていた。それまで 二人は直接会ったことはなかった。が,三木清を介して羽仁は中井を知っていたし,「世界文化」
には久野 収などを通じて協力していた。羽仁自身の参議院立候補の際には「中井君は広島方面で非 常に尽力をしたらしい。広島などには羽仁説子や羽仁進が行っていたらしく,そこで中井正一を知 って尊敬するようになったという」のである。中井の羽仁支援は,新村猛氏が全力を傾注していた
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椏s人文学園 と羽仁及び中井の関連からも,うなずけることである。
羽仁氏は「中井君より前にお母さんに相談した。」中井の母・千代は「般是非つれていってくれ と 言う。」どうしてかというと「今尾道でやっている仕事は効が少い。もし国会図書館で働くなら多少役 に立つんじゃなゆと思ら51からだという.つまり,正一は躰ではじめての帝王切開で産んだ子だ
し「それだけ苦労して生んだ子供だから,もっと日本の役に立つような仕事をしてもらいたい」とい
うのである。「そこへ中井君が帰って来たので,もうお母さんとの話できまってしまったようなもの
だカ・,国会図舗長になってもらし鴨、と繍し,国会図舗創設の意味を話曜鮎
1947年8月から1948年4月30日までの間,中井は何を考えていたのか,いかに動いたのか。羽仁 氏が中井を館長候補に選んだことは卓見であると言える(このことについては,稿を改めて詳しく書 きたい)。羽仁氏がどのように動いたかを見よう。館長は両院の図書館運営委員長が選び,それを両 院議長が任命することになっていたので,参院側は羽仁委員長,衆院側は中村委員長を中心に各々人
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