ポデモス擡頭のスペイン政治における意味︵都法五十六‑一︶ 一九三 はじめに 本稿の課題 二〇一五年一月二五日のギリシア総選挙は︑急進左派連合の大勝と新政権の発足をもたらした︒南欧で緊縮策を
正面から批判・否定する政権が初めて誕生したのである︒南欧諸国でいわゆる中道左派政党が︑ドイツ政府やトロ
イカ︵ヨーロッパ委員会︑ヨーロッパ中央銀行︑IMF︶から押しつけられた緊縮策の実施のために︑解党的とい
えるほど有権者の支持を大幅に失い︑社会民主主義政権が復活する希望がついえたとみられていただけに︑﹁左翼﹂
を名乗る政党の政権奪取は大きな衝撃となった︒ただし︑その﹁左翼﹂は︑従来の固い組織を目指す政党と異なる
社会運動の延長線上に位置する緩やかな政治組織の連合体である︒インターネットなどを媒介とする緩やかな社会
的ネットワークに支えられた政党が議会政治の主役として登場し︑従来の政党政治を一新している︒この急進左派
連合の友党としてスペインで突然登場し︑急速に支持を伸ばしたのがポデモスである︒
ポデモスも︑反グローバリズム運動の影響を受けているので︑極左︑あるいは左翼ポピュリズム運動と一般に評
価されている︒ポピュリズムは︑政治学でその言辞や行動が非合理的だと批判されている︒実際マスメディアでポ
ポデモス擡頭のスペイン政治における意味
野 上 和 裕
一九四
デモスは極左と評され︑そのポピュリズム的要素によって批判の対象となっている︒しかし︑本稿は︑できる限り
ポデモスのリーダーが実際に主張していることを重視し︑内在的にその理念と政策を理解し︑それによりスペイン
の政党政治に持つ意味を捉えることを目指す︒
第1章 ポデモスとは何か
ポデモスは︑二〇一四年一月十七日に発足し︑結党大会が十月十八・十九日で︑パブロ・イグレシアス書記長な
ど執行部が選出されたのがようやく十一月に過ぎない︑できたばかりの新政党である︒二〇一三年の末にヨーロッ
パ議会選挙に参加するため結党の話が浮上した︒準備期間が乏しく︑二〇一四年三月十一日に政党登録にこぎつけ
たが︑ネットを使った選挙運動にとどまった︒ところが︑五月のヨーロッパ議会選挙でスペインに割り当てられて
いる五四議席中五議席を獲得し︑第四の政治勢力となった︒その後︑ポデモスの擡頭は︑世論調査ではっきり認め
られ︑スペインの政治に大きな衝撃を与えた︒国の機関である社会学研究センターの十月段階の政党支持調査で
は︑支持率が第一位になり政界に衝撃を与えた︵CIS, Barómetro, octubre de 2014︶︒仮にすぐに総選挙を行なうと︑
下院三五〇議席中︑ポデモスが一〇〇を超える議席を獲得して︑第一党か第二党の地位を占めると予想されたので
ある︒しかし︑二〇一五年三月二二日のアンダルシア州の地方選挙では︑まだ︑二大政党制が強固なことをしめし
ている︵El País, 23/3/2014︶︒ポデモスの勢力を過大評価することなく︑彼らの拡大の理由と︑スペイン全体の政
治への影響を探っていこう︒
ポデモス擡頭のスペイン政治における意味︵都法五十六‑一︶ 一九五 第1節 ﹁ポデモス﹂とは何を意味するか ﹁ポデモス﹂とは︑オバマ氏が二〇〇八年アメリカ大統領選挙で使った﹁Yes, we can!﹂というキャッチフレーズ
に対応するスペイン語である︒その意味は︑市民の政治への声を強めようという市民運動の延長上にその理念にあ
る︒ポデモスは︑何を求めてこの名称を採用しているのだろうか︒
ポデモスの党名は︑特定の政策を目指したキャッチフレーズと言うよりも︑﹁今行なわれている政策が唯一可能
で︑これにかわる政策がない﹂や﹁今の体制を変えることはできない﹂といった諦めの風潮を打ち破る意味を持っ
ている︒つまり︑ポデモスの最初の攻撃対象は︑閉塞感である︒市民の無力感を克服し︑政治を市民の手に取り戻
そうという理想を掲げたのがポデモスという党名に込められた意味であるといえる︒
第2節 ポデモスの登場
第1項 社会運動とポデモス ポデモスは︑インターネットを活用し︑ヴァーチャルな世界にネットワークを形成しているため︑しばしば︑政
党と社会運動の二つの性格をもつとされる︒スペインでは︑様々な抗議デモが日常的に見られ︑しかもときに何十
万人規模のもの参加を得られている︒このような動員力は︑階級縦断的な性格を持ついわゆる﹁新社会運動﹂︵エ
コロジー︑反戦︑LGBTなど非経済的争点に関わる社会運動︶にも当てはまっている︵Karamichas, 2007︶︒たとえ
ば︑二〇〇二年十一月に生じた石油タンカー・プレスティージ号の座礁事件では︑当時のアスナール人民党政府と
内相ラホイ︵現首相︶が環境破壊を軽視して対策を怠り︑しかも座礁船を沖合に無理に曳航して海洋汚染を拡大し
た︒これに対して︑﹁ヌンカ・マイス︵ノーモアという意味のガリシア語︶﹂運動が︑事故現場近くのサンチアゴ・
一九六
デ・コンポステーラで二十万人︑マドリードで十万人の抗議デモを組織した︒また︑二〇〇三年二月の国際的な反
イラク戦争のデモには︑マドリードで六十万〜一六六万人︑バルセロナで七十万〜一三〇万人の市民が参加した︒
第2項 十五M運動 以上のような新社会運動を発展させて︑さらに新たな形態を示したのが二〇一一年五月十五日に発生した十五M
運動であった︒二〇〇七年に発生した世界金融危機︑二〇〇八年のリーマンショックによりスペイン経済が景気後
退していたにもかかわらず︑ギリシアに端を発するユーロ危機にさらされて︑サパテーロ社会労働党政権も緊縮策
への転換を余儀なくされた︒そこで︑新自由主義政策の結果︑社会的・経済的・政治的に疎外された人々︵尊厳を
奪われた人インディグナドス︶の運動として発生したのが十五M運動であった︵El País, 17/5/2011︶︒
十五M運動は︑﹁今こそ真の民主主義を﹂をハンドルネームとする少数の人々がインターネットでデモを呼びか
けたことに始まった︒二〇一一年五月十五日日曜日︑単なるデモ行進は︑警察が交通妨害を口実に参加者を逮捕し
たことにより︑性格を大きく転換した︒釈放を求めるデモ隊の座り込みが拡大し︑マドリードの中心ソル広場での
野営運動に発展したのである︒こうした座り込みと野営の運動は︑バルセロナ︑マラガ︑グラナダ︑セビーヤ︑ビ
ルバオ︑サラゴザなどに主要な都市に波及した︒五月二二日に統一地方選挙が予定されていたため︑十八日水曜日
に選挙管理委員会がデモの禁止を発表したが︑結局︑本来集会が禁止される選挙の前日と当日にも座り込みが続け
られ︑その参加者は︑マドリード二万八千人︑バレンシア一万人マラガ七千人セビーヤ四千人︑バルセロナ五千
人︑ビルバオ三千人︑パルマ・デ・マヨルカ三千人︵警察発表︶にのぼった︒結局︑五月二九日にマドリードで野
営の解散が決定され︑六月十二日に撤退が完了するまで︑ソル広場の占拠は二ヶ月に及んだ︒
ポデモス擡頭のスペイン政治における意味︵都法五十六‑一︶ 一九七 しかし︑緊縮策への抗議活動は︑座り込みからデモへと形態を戻して続けられ︑六月十九日ユーロ圏諸国の緊縮
策の協定に対して︑全国で総計一五〇〇万人参加の反対デモが行なわれた︒この十五M運動は海外にも波及し︑九
月二七日︑ウォール・ストリート占拠が始まった︒つまり︑ウォール・ストリート占拠運動は︑スペインの十五M
運動をモデルとした︵Gould-Wartofsky, 2015︶︒さらに︑十月十五日︑世界中で緊縮策反対行動が行なわれ︑マド
リード︵参加者五十万人超︶︑バルセロナ︵警察発表六万人主催者四十万人︶だけでなく︑世界中で抗議活動が行
なわれた︵El País,16/10/2011︶︒
この十五M運動は︑保守あるいは右翼の政治家や評論家からの非難の対象となり︑ポデモスの起源と見なされて いる︵右からのポデモス分析の書籍としてMüller, 2014︶︒しかし︑そのように直線的に十五M運動とポデモスを
結びつけることができるだろうか︒
十五M運動は十分に研究が進められたわけでなく︑印象論の域を出ないのであるが︑経済危機と緊縮政策で一番
負担をおわされている層が中心となっていると考えられている︒十五M運動において︑﹁未来なき若者﹂運動が目
立っていた︒実際︑参加者の政治的傾向は︑その自己認識を見ると︑三分の二が左翼︑三分の一が中道左翼または
無党派であり︑三%のみが右に過ぎない︒また︑多く使われたスローガンは︑非正規雇用の拡大・住宅問題︑失
業︑大学教育︑経済の悪化を批判するものが多く︑﹁住宅のV V de vivienda︵V for vendettaのもじり︶﹂やボロー
ニャ計画︵EUレベルの大学改革︶反対などが多かった︒マドリードでは︑人民党が支配するマドリード州政府の
政策への批判が強かった︒そこで︑左翼政党は︑一般に運動を反システム運動と見ずに同情的であったが︑マドリ
ード州首相のエスペランサ・アギーレをはじめとする人民党の政治家は︑失業を嘆く参加者に対して︑﹁無職なの
はおまえ等が悪い﹂というなど︑その軽蔑感を隠さず︑左翼と決めつけて︑非難の対象としていた︵後に不満を社
一九八
会労働党に向けるよう画策した︶︒
確かに十五M運動が左翼的色彩を帯びていたが︑しかし︑十五M運動を呼びかけた人々は︑左右対立に巻き込ま
れることを警戒し︑党派的スローガン︑労働組合のスローガンを運動に持ち込まないよう求めた︒実際︑共産党や
労働団体がパンカードを運動に持ち込もうとして︑拒絶されている︒つまり︑十五Mの活動家たちは︑非政治性の
担保をはかり︑自然発生的・非組織的性格を維持して運動に最後まで明確なリーダーを作らなかった︒そして︑十
五Mの成立は︑ポデモスの後のリーダーとも無関係に進められた︒︵Domínguez y Giménez, 2014︶︒他方で︑後
のポデモスのリーダーたちは︑共産党と異なり︑十五M運動を党派的に利用することを自重していた︒また︑ポデ
モスのリーダーたちが十五M運動を無条件で賞賛しているともいえない︒パブロ・イグレシアスは︑十五M運動が
短期的に逆効果となり︑左翼政党を不利にすると認めており︵Iglesias, 2014a︶︑エレホーンは︑社会運動が革命を もたらすわけでもなく︑政権交代にすぐにつながるわけでないと指摘している︵Domínguez y Giménez, 2014︶︒
実際︑十五M運動は︑その最中に行なわれた地方選挙にも︑十一月の総選挙にも︑ほとんど影響を与えていない といわれている︵Barreiro and Sánchez-Cuenca, 2012︶︒つまり︑経済状況悪化に由来する政府に対する懲罰票を除
外すると︑白票・無効票の増加が十五M運動という事件の影響といえるが︑それらは絶対数としては無視できる規
模にとどまってた︒十五M参加者の不満が主に市や州の政権を握る保守の福祉・教育予算削減に向けられていたに
も関わらず︑人民党が五六万票拡大している︒社会労働党が一五六万票減という壊滅的な敗北を喫したが︑不況に
よる政府への懲罰票とみてよいだろう︒つまり︑十五M運動は︑選挙結果にほとんど影響を及ぼさなかったのであ
る︒むしろ︑十一月総選挙での保守の人民党の大勝の一因であったならば︑その後の過激な緊縮路線は十五M運動
が逆効果であったことを示す︒
ポデモス擡頭のスペイン政治における意味︵都法五十六‑一︶ 一九九 このような﹁インディグナドス﹂の運動は︑組織を持たないだけに︑継続性に乏しいものであった︒二〇一一年
のうちには︑完全に終息したと捉えられた︒ただし︑十五Mの一年後に再びデモが起こり︑潜在的なエネルギーが
残っていたことを示した︒このように思い出したように動員が起こることもあったが︑しかし︑政治的に永続的な
影響を残すに至らなかったのである︒この意味で︑十五M運動の限界を克服するものとして︑ポデモスが結成され
たといってもよい︒
それでもポデモスのリーダーたちは︑十五M運動を高く評価し︑ポデモスの基礎となったと認める︒それは︑組
織的に継続するという意味でない︒イグレシアスは︑十五M運動が︑新自由主義的緊縮策が唯一の解決であるとい
う言説を疑問視し︑政策を皆で話し合うという新たな政治文化を創ったと指摘している︒そのような立場からは︑
暴力的・破壊的な活動でなく︑通常の人が安心して参加できる非暴力的な活動の方がより有益であるといえる︒そ
して︑政権側の過剰反応が人々の意識の覚醒を生み︑変革のエネルギーを作り出すことになる︒これを︑イグレシ
アスとモネデーロは︑マハトマ・ガンジーの警句を引用して論じている︒﹁最初に君は無視される︒そして︑君は
嘲笑される︒その後︑君は攻撃される︒そのとき︑君は勝つことになる︒﹂︵Iglesias y Monedero, 2011︶
第3節 リーダー
ポデモスの発起人のほとんどは︑若手の大学の教授である︒特に日本の東大に相当するマドリードのコンプルテ
ンセ大学に集中している︒それも︑政治学社会学部にほぼ限定されている︒五人の執行部の全員がコンプルテンセ
大学の卒業生で︑三人までが政治学社会学部の政治学科に所属し︑四人がコンプルテンセ大学の教員である︒
書記長のイグレシアスは︑一九七八年生まれ︑共産党員の両親により社会労働党の創設者にちなんで名付けられ
二〇〇
ている︒常にノーネクタイであり︑カジュアルなシャツ姿をしている︒無精ひげのようにみえる口ひげを蓄え︑長
めの髪を後ろで結わえている風貌により︑一九七〇年代のヒッピーを思い起こさせる︒二〇〇八年に提出した博士
論文︵Iglesias, 2008︶が高く評価され︑二〇一一年まで母校でも教鞭を執った大変なインテリである︒二〇一〇年
からは︑反グローバリズム運動や環境運動などの思想家や大学教授を数多く招く︵インターネット中心の︶討論番
組La Tuerkaの司会者を務めている︵テレビでの活動はDomínguez y Giménez, 2014に詳しい︶︒この番
組は︑マドリードのバジェーカスという労働者地区のローカル局TeleKが制作したものであったが︑インター
ネットの普及により︑次第に多くの聴取者を獲得した︒その後︑やはりマドリードのローカル局であるが︑より高
度な番組制作技術を持った地上デジタル局﹁チャンネル三三︵Canal33︶﹂に拠点を得て︑La Tuerkaと同 じコンセプトのFort Apacheという番組を始めた︒さらにイグレシアスは︑一般的に保守的な傾向が強
い全国放送のテレビ局の討論番組にも呼ばれ︑保守の評論家や既存政党の政治家に混じって︑たった一人で緊縮策
を批判する姿がスペイン中で知られるようになった︒イグレシアスは︑自らを決して固定した指導者と認めず︑党
内での輪番を主張しているが︑その強いカリスマ性により︑党内で飛び抜けた存在となっている︒
イグレシアスが活動の場を拡げていく中で︑フアン=カルロス・モネデーロとエレホーンもイグレシアスと同様
にテレビに出演するようになった︒モネデーロは︑一九六三年生まれで︑コンプルテンセ大学で学んだ後︑ドイツ
のハイデルベルク大学に留学し︑ドイツ民主共和国の崩壊原因をテーマとした博士論文を書き︑現在母校の政治学
の教授を務めている︒エレホーンは︑一九八三年生まれときわめて若く︑同じくコンプルテンセ大学でラテン・ア
メリカの左翼政権の研究で博士号をとり︑マラガ大学の政治学教授に着任したものの︑事実上休職に追い込まれて
いる︒彼ら三人の他に︑社会学者のカロリーナ・ベスカンサ︑そしてコンプルテンセ大学の哲学教授ルイス・アレ
ポデモス擡頭のスペイン政治における意味︵都法五十六‑一︶ 二〇一 ーグレが執行部を形成している︒
このように︑ポデモスは︑執行部が徹底的にインテリで構成されている︒共産党や社会労働党に見られるような
労働運動や学生運動の活動家から政治家に転身したものがおらず︑高い学識がリーダーの必要条件となっている︒
それでは︑既存の左翼運動や左翼政権とはどのような関係を持っているだろうか︒
この点で︑第一に取り上げるべきは︑南米の左翼政権との関係である︒イグレシアス等が作った政治社会研究セ
ンターは︑ベネスエラのチャベス政権など︑左翼政権から︑政策の作成の基礎となる社会調査を受託し︑センター
に所属するイグレシアス︑モネデーロ︑エレホーン等が調査員として政権に協力した︵El País, 14/7/2014,; ABC,
2/2/2015︶︒そのことは︑彼らが極左としてのレッテルを貼られる一因となっている︒ 第二に︑スペインの左翼政党や左翼労働組合との関係である︒彼らは︑共産党中心の統一左翼という組織あるい
はその指導者に対して︑協力した経験を有し︑共産党や労働組合﹁労働者委員会﹂と人的に密接な関係を有してい
る︒この点も︑彼らが左翼であるとみられる一因である︒それでも︑共産党との合流が決して検討されることはな
い︒彼らは︑市民運動を指導しようとする共産党への態度に反発を示している︒彼らは︑学識を基礎に既存の左翼
勢力と協力をしていても︑一線を画している︒
第三に︑新左翼︑あるいは反グローバリズム運動との関係である︒﹁反資本主義左翼﹂を筆頭とする新左翼︑反
グローバリズム運動︑反システム運動のいくつか団体が合流しており︑単なる知識人集団を超えた性格をポデモス
に与えている︒
このように知識人の性格が強いリーダー層と一般党員との関係はどのようになっているのだろうか︒ポデモス
は︑党内投票によって党内役職および選挙の候補者を選ぶというルールを徹底させている︒そのため︑ヨーロッパ
二〇二
議会選挙候補者も︑設立発起人が自動的に選ばれるのでなく︑インターネットを通じた投票によって選出された︒
また︑執行部についても︑書記長を一般選挙で選んだほか︑他の役職について書記長の推薦した候補者に信任投票
が行なわれた︒イグレシアスは︑自らが政治的特権階層化するのを避けなければならないとし︑いつでも交代可能
な活動家に過ぎないと強調している︵El País, 19/10/2014︶︒
それでも︑上記の知識人たちが隔絶したカリスマ性と識見を有しているので︑執行部が固定するのは明らかであ
る︒そのため︑イグレシアスが党の組織化を進める際に反資本主義左翼に連なる活動家が反発をしめした︵El
País,21/10/2014︶︒また︑ヨーロッパ議員の中でもイグレシアスと他の議員との軋轢も生じた︒そして︑二〇一五
年三月のアンダルシア州議会選挙で︑名簿のトップになった反資本主義左翼のテレーサ・ロドリゲス︵ヨーロッパ
議会議員でもある︶と執行部とにぎくしゃくした関係が生まれている︒今後︑イグレシアス執行部が一定の﹁現実
主義﹂的対応をとると思われるが︑その際に一般党員との関係および反資本主義左翼との関係は︑深刻化する危険
を抱えているだろう︒
第2章
理念と政策
ポデモスは︑スペインの政党の中で最も左に位置すると捉えられている︒社会学研究センターの世論調査︵CIS Barómetros, enero 2015︶によると︑ポデモスを十段階評価で最左翼の一にプロットするものが二七・四%に達し
た︒平均をとると︑ポデモスは︑二・二八であり︑社会労働党の四・六二︑共産党主体の統一左翼の二・六二より
も左に位置する︒ただし︑一般に極左といえば︑それに対する嫌悪感を示す人が多くなるはずだが︑被験者に十一