法 律 留 保 型 基 本 権 考
一 は じ め に 二 法 律 留 保 評 価 の 再 検 討 一明治憲法の法律留保 二﹁空廻り﹂説 三 自 然 権 と 法 律 留 保 三現代憲法における法律留保 一 法 律 留 保 の 意 義 二 法 律 留 保 の 一 般 理 論 四 む す び
高
橋
六九
正
俊
11-3•4--52:H香法'92)
こよ
︑
~,I
それが真の意味で基本権としては保障されていない︑
︵九
八条
︶︒
﹂
というべきものであった︒基本権が︑
真の意味で基本権
現行日本国憑法の基本権論において︑法律留保型の保障方式︵以下︑法律留保
G e s e t z e s v o r b e h a l t ,
V o
r b e h a l t d e s G e s e t z e s
という︶は︑はなはだ不人気である︒
中に見ることができる︒
﹁︵明治憲法の︶臣民権利の保障に関する部分については︑外観上は︑基本権を保障するようにみえながら︑実質的
として保障されているといい得るためには︑何よりもまずそれが︑自然権として︑
って保障されているか︑少なくとも憑法自身によって保障されていることが必要である︒もしそれがこのような高次
の法によって保障されていないとすれば︑その権利は︑通常の法律によって何時でも侵害することができ︑従って︑
その権利を韮本権と呼ぶことはできないことになろう︒⁝⁝この点において︑
治憲法のそれとは質的に異なっている︒そこでは︑
害するような法律が制定されれば︑ いわゆる法律の留保は全然ない︒これらの基本的人権は︑直接に︑
憲法によって保障され︑法律をもってしてもこの権利を侵害するということは︑許されない︒もしこれらの権利を侵
それは違憲の立法として︑無効である
すなわち憲法以卜の自然の法によ 日本国憲法における権利の保障は︑明
このような法律留保理解は︑ほぼ学界共通のものとなっており︑現行憲法の基本権は法律留保型ではなく︑﹁立法へ
の制約をふくむ保障﹂すなわち対立法部効力があるとの前提で議論がなされる︒それどころか︑文言の在り方や基本 権の構造から︑法律留保かと推定しうる場合においても︑強いて対立法部効力ありとして解釈しようとする傾向すら
は じ め に
その集約的表現ともいうべき意見を︑鵜飼信成教授の教科書の一節の
七〇
11 3・4 524(香法'92)
法律留保刑基本権号(高橋)
れは
︑ さらに注目すべきは︑すくなくとも文言上は︑
七
いわば白紙委任となっていることである︒こ まず︑法律留保の評価の基礎とされるのは明治憲法であるので︑それから検討する︒たとえば︑二九条を見よう︒﹁日本臣民ハ法律ノ範囲内二於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス﹂本条は︑法律の制限内において言論・結社の自由を保障するにすぎない︒このように︑憲法
t
の権利・自由の保障を憲法卜で完結させず︑法律に授権する形式を法律留保という︒従って︑当該基本権は︑法律が形式的意味の法律と
解される限り︑対行政部・司法部効力は認められるとしても︑対立法部効力はないのである︒
この法律への授権は︑
いわゆる単純法律留保
( e i n
f a c h
e G e
s e
t z
e s
v o
r b
e h
a l
t e
と呼ばれるものであり︑明治憲法の基本権︵臣民権利︶) 明治憲法の法律留保
本稿
は︑
この法律留保といわれる保障方式について︑従来の評価に再検討を加え︑あわせて現行憲法における法律
留保の意義と法的性質について若干の考察を試みようとするものである︒
t
•{•-U
( l
) 鵜飼伯成
C新版憑法﹂︵昭四.こ︶六六ー七貞゜
( 2
実質的保岡と呼ばれることもあるが︑この語は違憲審脊制を含怠していることが多いので︑)
見受けられる︒
法律留保評価の再検討
本稿では使わない︒
11··:1•4- 525(香法'92)
このような法律留保は︑基本権としての性格を失わしめると評すべきものであろうか︒今日の若干の有力な 自由・民主主義国家における基本権の在り方を基準とすれば︑基本権には対立法部効力があるべしという評価もなり
このような評価基準で過去の憲法の基本権を計り︑
ことを主張するのはあまり有意義なことではあるまい︒
では︑当時の基本権はいかなる意味と効力をもつべきとされていたのであろうか︒法律留保たることは︑基本権と
しての性格を欠くと考えられたのであろうか︒これを考えるに際しては︑
まず当時の基本権の各国における在り方を
フランスとドイツを瞥見しよう︒
然権と考えられていたけれども︑法律との関係では自然権であるがゆえに基本権が優越するとは考えられなかった︒
ルソーの教説にしたがい︑法律は無謬の一般意思の表明と考えられたから︑基本権と法律は矛盾しえない ものとされた︒このことは︑基本権は対立法部効力が存在しないという結果をもたらしたのである︒
ドイツにおいては︑基本権は自然権ではなく︑国法上の権利であるとの認識で一致していた︒
とで︑第一次大戦前には︑基本権は法的意味のない単なるプログラムであるか︑法律留保型基本権であるかのいずれ かと考えられていたのである︒すなわち︑法律留保であってはじめて︑法的効力があるとされたのである︒この状況
このような基本権理解と根本的に異なるのはアメリカ合衆国連邦憲法であって︑
なり︑対立法部効力を明ホ的に認めるものであった︒たとえば︑修正一条は日く︑﹁連邦議会は︑⁝⁝言論もしくは出 が変わるには︑
ワイマール憲法をまたねばならなかった︒
そこ
では
︑
一九世紀の欧州大陸における韮本権について︑ 検討しておく必要があろう︒ たちうるかもしれない︒
しかしながら︑
さて
︑
の特色となっている︒
その要件の不充分である フランスの場合は︑基本権は︑自
そのような理解のも
そもそも規定の様式が欧州とは異
七
11 3・4 ‑526 (香法'92)
法律留保刑駐本権考 (r1沿橋)
版の自由を制限する⁝⁝法律を制定することができない︒﹂
しか
し︑
七
このように対立法部効力を正面から認めるアメリカ憲法の在り方は︑基本的に孤立的なものと捉えられる
べき
であ
ろう
︒ 明治憲法の臣民の権利は︑以
L
のような各国の基本権の在り方を参考にするとき︑﹁基本権﹂と認めてさしつかえないであろう︒この評価に関連して︑前述のように︑明治憲法の特色は各条に一々単純留保の規定を添えた点にあるが︑
これに対する答えは二つある︒第一は今日の通説の説くところで︑基本権の規定はそのままでは自然権であって︑
対立法部効力が認められるから︑
がら ヽ
その効力を減殺するために法律留保としたというものである︒第二は︑基本権はそ
のままでは単なる政治宣言・プログラムであるから︑
であ
る︒
それに法的意義を付与するために法律留保としたと考えるもの
このまったく対立的な意見のいずれと考えるべきであろうか︒明治二二年という明治憲法の制定時期︑
いわゆる自由財産条項がなく︑ およびプロ
イセン憲法を特に参照したという点を考慮にいれれば︑答えはいうまでもなく後者となるであろう︒すなわち︑南ド
また法治主義の内容たる議会による法規の専権 的創造力の原則が確立していないのを︑臣民の憲法上の各権利に法律の留保を付加することによって補うという機能 ちなみに︑明治憲法制定に際して参考にされたロエスレル答議は︑基本権に法律を超える意味がないことを認めな
それなしには欠典と見られる旨教示している︒憲法起草者は︑欧州の憲法常識をもたぬ日本においては︑基本
権だけを述べたのでは対立法部効力あるものと誤解されるおそれがあることに配慮し︑法律留保たることを一々明示 をはたしたのである︒ イツの諸邦の憲法に見られるような︑ これについてその所以を考察しておく必要がある︒
11 3・4 5'Z7 (香法'92)
﹁空廻り﹂説 以じを集約すれば︑明治忍法の法律留保という保障形式は︑
が︑基本権論の内在的発展の阻
9口要囚をなしたという消極的側面の存在にふれないわけにはゆかない︒すなわち︑単
純法律留保型保即であることを明ポしたために︑基本権は法律による行政の原理を特に明示したにすぎないと理解さ れ︑基本権の本質をめぐる罪証や︑法律留保の限界などについて掘りドげた検討がなされることはなかったのである︒
さらに重要なことは︑巡法が法律より上位の法であるとする観念の発達にともない︑立法部に対抗できる基本権の 観念を生じ︑保閻方式の怖化の要求へとつらなるのは︑自然な歴史的展開である︒これはたとえば︑
ドにおいて生じた法解釈の転換において見られたことであるが︑明治憲法の法律留保の明示方式は︑
する阻古要因として働くこととなったのである︒
轡要囚ともなったが︑それ自体として否定的評価をドされるべきではなかろう︒
単なる政沿宣げ・プログラムと見ることを避ける意味で積極的意義さえもっていたと評することができるのである︒
法律留保型韮本権保節に対する否定的評価の第二は︑忠法卜の保障としての意味がないというものである︒これは︑
法仲留保はぶぷ定り﹂規定にすぎないという考え方にもとづく︒すなわち︑基本権の法律留保は︑法律による行政の
原則が確立している場合には︑その保障方式は︑空廻りであり︑
これもまた広く承認されている理屈であるが︑非常に重要な論拠となっているので︑やや立ち入って検討してみたい︒ しかしながら︑ したのであろう︒
かつ余計なものであるにすぎないとするのである︒
この法律留保の明ぷ方式は︑基本権に法的意味を付加するという積極的意味をもつものではあった
ワイマール憲法
かかる進展に対 むしろ︑当初においては︑基本権を
基本権論のドイツにおける発展と比するとき一定の阻
七四
11 3•4--528( 香法 '92)
法律留保氏リi,4本権号(翡柚)
の法律と法規命令による制限
l l J 能性がここから生じる︒また︑法律の
づいて﹂というのは︑行政部を名宛人とすると考えられるから︑合法的授権のもとでの官憲的処分も含まれるという 単に
ゴ法
律に
よる
﹂
という形式の場合には︑
﹁基準によって﹂とか︑
七五
﹁範
囲内
﹂と
か︑
﹁も
と
︵実質的意味の︶法律を指すのであり︑各形式的意味
いう形式で表わされる︒一見わかりにくい︒まず︑
あるいは
また 限
l I I
能な韮本権
④ ︵ライヒ法律はむろんのこと︑︶ライヒおよびラントの法規命令︑ この種の基本権は︑
ライヒの形式的意味の法律及びライヒ
③ ② ①
ワイマール憲法の基本権に関する
R
.ト
ーマ
( T h o m a
) の有名な分析に由来するとされるから︑
見解を紹介・コメントする︒
彼は︑韮本権をその保障の効力を基準にして︑
憲法改正によってのみ制限
能な韮本権n J
ライヒの 憑法四八条によ︶て︑緊急時に暫定的に効力を倅止しうる韮本権
︵実質的意味の︶法律によってのみ制限可能な︑ライヒ法律の効力を打する基本権
この留保は︑ こ
の説
は︑
普通﹁ライヒ法律によってのみ制限できる﹂
なくとも理論上ライヒ法律に帰することがいえればよい︒
の法規命令
( R e c h t s v e r o r d n u n g )
に対して対抗力をもたない︒
ラント法律︑
この留保は︑通常︑ という形式をとるのが普通であるが︑
さらには合法的授権にもとづく官
憲的
口処
分 ( d i e a u f r e c h t s s a t z m a B i g e n E r m a c h t i g u n g e n e b r u h e n d e n o b r i g k e i t l i c h e n
V erftigungen)によっても制~
当該韮本権は﹁法律の基準
( l ¥ f a B g a b e )
によってのみ﹂︑あるいは﹁法律の範囲内でのみ﹂︑
五法律により及び法律にもとづいて
( <
l u r c h G e s e t z u nd au f G ru nd de s G e s e t z e s )
(のみ︶制限されうる﹂と
この形式からどうして布のような制限
能性が導出されるかは︑n J
ライヒとラントの
四段階に分ける︒
ライヒと明示され
まずその
11·'.i• 4・5'29 (香法'92)
︵ イ ︶
味が認められ︑﹁空廻り﹂といわないのであろう︒
④の法律留保の効果は︑当該基本権に関する行政の法律適合性を確保するにすぎず︑絶対君主制下においては︑行
政部の恣意を排除するという意義をもちえたけれども︑
トーマのこの議論にもとづく法律留保の評価については︑サ右下の注意が必要であろう︒第一に︑彼の分類では︑﹁形
式的意味の法律による法律留保﹂が独立の基準としては現われないことである︒現代の学説のいわゆる法律留保は︑
形式的意味での法律を基準としているのであるから︑
第二に︑法律留保についても二種に分け︑
で は
︑
トーマは何をもって﹁空廻り﹂と見たのか︒それは以ドのごとく推測できる︒④の意味での法律留保は︑
質的意味での︶法律自身によって制限・規制できるだけでなく︑さらに授権によって最終的には処分によってさえ韮
本権を制限・規制できる︒この法律留保の法的効果は︑﹁法律による行政﹂の原則のもとにある場合の法的効果と完全
に一致するので︑﹁空廻り﹂
ワイマール憲法下におけるように法律による行政が確吃して
その評価についても︑引き直したうえで考察する必要がある︒
その規定の形式・内容の面から考察して︑④の類型の法律留保だけを︑
との性格を付与しうる︒それに対し︑③の法律留保では︑
てのみ基本権の制限・規制が可能とされるにすぎない︒
トーマ流の﹁空廻り﹂
その下位規範への授権の可能性を排除している点に独自の意 以上のトーマの思考を現代基本権論にあわせて修正したとき︑我国現行憲法において︑法律留保型基本権は﹁法律
による行政﹂が確立していることを根拠に︑﹁空廻り﹂規定にすぎないと断ずることができるだろうか︒ ﹁空廻り﹂といっていることである︒ いる場においては
﹁空
廻り
( l e e
r l a u
f e n d
) ﹂するにすぎない︒ 帰結が導かれるのであろう︒
︵実質的意味での︶法律によっ
七六
︵ 実
11 :~. 4 530 (杏法'92)
法律留保刑韮本権衿(闘橋)
義をもつものとなる︒このように考えてくると︑
七七
かかる法的背娯のもとでは︑空廻 いまさら法律留保によって行政・司法各部にのみ対抗 次に︑﹁空廻り﹂をより一般的に︑現行憲法の基本権が対立法部効力をもつとされる以上︑法律留保は意義をもちえないという意味で使うことが考えられる︒
この
主張
は︑
具体的には︑現行憲法が憲法の最高性とそれに抵触する規範の無効を宣言している
から︑対立法・行政・司法各部に対する効力をもつのだから︑
しうることを指ポするというのは︑無意義であるという見方であろう︒しかしながら︑基本権が立法・行政・司法各
部に対抗できるというのは︑
ものなのである︒
それぞれ異なる意義と機能をもち︑単純に効力が高い・低いという関係に還元できない むしろ︑法律留保は︑九八条によって与えられる原則を︑何らかの根拠にもとづいてわざわざ対立法部効力を排除
するという例外設定の意味をもっと理解できる︒ここでは︑法律留保は︑空廻りどころか︑極めて重要かつ独自の意
トーマの④タイプの法律留保も︑
りなどとはいえない︒蓋し︑対吃法部効力を原則とする規範のなかで︑
その原則をー低位の方向であろうとー破ろう
︵ 口 ︶
﹁空
廻り
﹂
出しえないであろう︒法律留保は︑この限りにおいて授権限定機能をもつのであり︑
︵九
八条
︶
ところ
現行憲法では︑法律留保は︑形式的意味の法律によるのみならず︑法律の授権にもとづく命令以下の行政部の行為 も基本権を制限・規制できると考えることは可能だろうか︒すくなくとも︑自由権についてこれを肯定する見解は見
るのであって︑﹁空廻り﹂とはいえないであろう︒しかし︑
されないように考えられる︒
しか
し︑
トーマの③の法律留保に相当す
その他の基本権については︑授権の可能性は必ずしも制限
それもよた︑﹁法律による行政﹂に一致しはするが︑皮肉なことに次に述べるよ
うな現行憲法の珪本権の在り方からして﹁空廻り﹂とはいえないのである︒
拡張された意味での
より低位の効力しかない
11 -3•4-531 (香法'92)
41ヽ~ヽ
以 ー ︒
しかし︑
いかなる意味でも空廻りとはいえないからである︒
このような主張に対しては︑九八条は基本権を含む憲法全体に及ぶ絶対的規範であって︑憲法条項によっ ても例外は許さない趣旨であるとの反論があるかもしれない︒しかし︑中臨法の最高性とは︑法律以下の低位規範に比
較していわれるもので︑
憲法の各条項まで支配するものではないことは︑プログラム規定の存在を考えれば明らかで あろう︒憲法卜の例外を許さないといった規定ではなく︑原則を述べるにすぎないのである︒
法には︑基本権は一
法・執行・裁判をも拘束するという条文があるI L
とされている︒
︵一
条三
項︶
ちなみに︑ドイツ基本 が︑法律留保を排除する意味はない いわゆる﹁空廻り﹂に閃する議論の再検討は︑現行憲法の法的構造を前提とするかぎり︑法律留保は空廻
りとはいえないことをぷしている︒例外設定のための法技術的概念として有用なものと評価すべきであろう︒
自然権と法律留保 基本権を自然権とする学説は︑法律留保を韮本権論から排除しようとする指向をもつ︒すくなくとも︑ある基本権
が自然権と見られる限り︑ とする法律留保は︑
その権利は法律留保刑保障ではありえないとする︒これは︑自然権を国家以前の権利︑
なわち前国家的権利とする以じ督然の帰結のようにも思われよう︒
り憲法典卜に基本権の自然権性が述べられることは少なくない︒
す 我国の現行憲法典には︑韮本権の自然権性を示唆する条文にこと欠かない︒比較憲法的に見ても︑憲法制定者によ
しかし︑多くの場合それは憲法制定者の意図を示す
この間題に深人りすることはできない︒
ただ︑我国の現行憲 ものにすぎぬとして︑あるいは単なる信仰個条にすぎないと考えられる︒憲法理論上︑基本権が自然権であるとの証
明は成功したようには見えないからである︒本稿では︑
七八
11 3・4 53以香法'92)
法 律 留 保
t '
りょ本権衿 U,計j:橋)えることはできない︒
七九
と呼ばれるのは︑それ以
L
る以
上︑
当該日然権は具体的社会や具体的国家の中で追求されねばならないであろう︒この種の自然権が﹁前国家的﹂
[2 , ,l }
国家がたとえ存在しなくても珀徳的権利として承認されうるという性質によるのであり︑ 実定憲法学の思考範囲には属さない︒ 法のポす自然権性と法律留保が︑相互排除関係にあるという見解が適切であるかについて莉干検討するに止める︒
まず︑基本権をストレートに自然権とする超越論的自然権思考を検討しよう︒そこでは︑ある自然権体系が受容さ れた以上は︑自然権は韮本権より翡位の法規範であるから︑憲法の基本権条項は当該自然権体系に抵触する限り無効
とする︒しかしながら︑自然権体系は︑
権体系が存在する︒この場合︑
を抽
出し
︑
の意味ではない︒
ただ一組だけ存在するわけではない︒歴史卜も︑現在でも︑多種多様な自然 いかなる審判者がそのうちの一組を選択するのか︒また︑仮に憲法条文上特定の自然
いかなる審判者が︑その体系と憲法条文とが抵触するか否かを
権体系の支配を受けることが明らかであるとしても︑
判定するのであろうか︒彼がだれにせよ︑恵法を超越する存在であることには変わりがないであろう︒彼は憲法秩序 のうちに存在できないのであって︑彼の存在を前提する理論は︑実定憲法論としての範疇を越える︒かかる自然権は 最近の我国の有力な韮本権を自然権であるとする説は︑以
t
のような超越論的な思考に属さない︒憲法の基本権の 基礎的要件を探り︑たとえば﹁人間の尊厳﹂あるいはその具体的意義たる﹁人間の人格的自立﹂といった根底的価値
それを址に韮本権体系を構成しようとする︒そこで見出される﹁人間の昨厳﹂とは︑憲法に受け入れられ た︑ないしは憑法に馴致された自然権と称すべき存在である︒それは普遍的な道徳的権利であって︑法的権利性にお
いて抽象的権利にすぎず︑実定韮本権に俊越することはない︒また︑﹁憲法﹂や﹁人間﹂が現実世界の中の存在とされ
そこでは︑実定憲法の法制度としての法律留保と前国家性という観念は︑理論上︑抵触しうると考
11 3•4·::i:n (香法'92)
るいわれはないのである︒ 論的自然権論の理論上の欠陥のゆえだけでなく︑実定法の解釈としても同意できないといわねばなるまい︒
このように考えられるとすれば︑現行憲法は韮本権を馴致された自然権とする立場を採用したものと見るのが穏当
であ
ろう
︒
なら
ない
︒ そうであるとすれば︑基本権の自然権性は︑基本権所定の領域・構造・形式に制約されることを認めねば その限りで︑自然権性が活性化されるのである︒すなわち︑現行憲法の基本権は自然権性を受け入れてい ることは認められるけれども︑馴致された自然権として理解されるべきであって︑法律留保形式を採ることと矛盾す
( l
)
F . S ch na pp , Gr en ze n d er Gr un dr ec ht e, J u r i s t i s c h e S c h u l u n g ,
1978
He ft 1 1 ,
S . 7
31 .
にあることはいうまでもないことで︑ 頭
の一
0
条に国民の要件が掲げられていることからも明らかであろう︒憲法解釈の最も有力な手掛かりが︑憲法条文
このようなあからさまな度々の文言の否認が許されるとは考えられない︒超越
いるからである︒それらの条文で︑﹁国民﹂という言葉が疎かに使用されたのではありえないことは︑基本権保障の構
二 条
︑
一三
条︑
九七
条︶
に ヽ ので︑超越論的な自然権論にあたる︒すなわち︑
この見解は︑韮本権の自然権性を認める根拠条文自体︵
一 条
︑
次に︑実定法レベルにおいて︑基本権の自然権性の承認は︑法律留保と抵触するであろうか︒
て韮本権を認める︒ 憲法の基本権の解釈にかかわるが︑一体いずれの自然権観を採るのであろうか︒
に限定すべきか否かという間題をとおして判定してみたい︒
我国の通説は︑自然権内容を了人間ならば刈然もつ権利﹂ これを︑基本権の保障主体を﹁国民﹂
であるとして︑憲法の通用範囲にいる外国人に原則とし この考え方は︑当該自然権体系に合致しない実定憲法条文︵ないしその条項・語︶を否認するも
一々執拗に︑じ体を﹁国民﹂に限定することを明示しているのを無視というより否認して これはもっばら現行
八〇
11 3・4・534 (香法'92)
法律留保刑基本権考(高橋)
では
︑
( 2
)
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J
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1924‑1954 ̀
2. A u
f l .
19 70 ,
S .
19 9.
(4)小嶋和司﹃憲法概説﹂︵昭六.:
i L O I
三貞
参照
︒
(5J)小嶋•前掲内、一五
. .
︱│
四頁
参照
︒
( 6
) 梧陰文庫
C│4︑参照︒
( 7 )
R . T
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5.
( 8
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19 4.
︑︑
︑︑
︑︑
( 9
) ラント法律は︑本来▽ドイツ国民の基本権﹂
( 1 0 ) B
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0 .
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( 1 1 )
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2
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A u f l
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98 5,
S .
4 4.
( 1 2 )
佐藤幸治玉憲法︹新版︺﹂
法律留保の意義
以上の検討で︑
法律留保型基本権保障に対して単純に拒否的態度でのぞむことの不当を明らかにした︒
なにゆえ法律留保が現代において有用であるとの認識をよび起こすのであろうか︒
リ ネ ク
(K
or
in
ek
) は ︑
法律留保の意義はあまねく認められるところと断定している︒
八
その
理由
は︑
かヽ
その現代基本権論における有用性はすでにドイツ・オーストリーの憲法学界では固知に属し︑
現代憲法における法律留保
︵平 二︶ . ‑ ﹂ ハ
o ‑ :
貞参
照︒
の留保法律としての資格をもちえないのである︒
人々が変化
たと
えば
︑
K.
コ
それどころ
11 ‑3・4 ‑535 (香法'92)
現代憲法の法律留保には︑ 価値は減殺されざるをえないであろう︒ の激しい複雑な社会に生きているからである︒すなわち︑現代のような急激に変化する社会に対応するためには︑門然のことながら︑柔軟な規範を必要とする︒珪本権を法律留保型にすることによって変化に対する対応能力を高めることが期待されるのである︒また︑基本権は生活領域の各種規範が飛躍的に複雑化するなかで内在的自明性を喪失し︑その実質的な利益内容を確保するためには︑むしろその具体的内容や限界を法律で定める必要が認識されるのである︒要するに︑法律留保は現代社会の根本的性格に基本権を調和させるための法技術として︑は良く知られているところである︒ その意義が認められている さらに指摘しなければならないのは︑従来法律留保への拒否的態度の実質的根拠となってきた立法部不伯の念に対
する状況の変化である︒基本権は対立法部効力をもつべしとするのは︑立法部不信をその政治的韮盤にしていること
しかし︑現代ほど良かれ悪しかれ立法部たる議会が制度的に民主主義的基盤にも
とづくことが明らかな時代はない︒︵一部の論者が︑衆愚政治や数の政治を云々するほど議会は民︑E主義に基礎をおい
ている︒︶法律留保に制度的観点から拒否的態度をポすべき根拠は強力とはいえないであろう︒
もち
ろん
︑ それだけで法律留保を採用することに由来する危険がなくなったわけではない︒その危険に対して︑現 代の法律留保はどのような制度的ないし解釈上の対応をしているのであろうか︒それいかんによっては︑法律留保の
る︒
ただ
し︑
一般的に三つの危険
f
防装憤の存在が指摘される︒第一は︑現代憲法では一般に基本権は対立法部効力があるとされるから︑法律留保には憲法上の授権が必嬰とされ
これは文言上も授権されていることが明白であることまで必要なわけではない︒規定の内容・構造卜︑
法律留保と解釈しなければならないものであってもよい︒ の
であ
る︒
八
11 3・4・536(香法'92)
法律留保型基本権考(高橋)
法において憲法の効力をもつ
( v
e r
f a
s s
u n
g s
k r
a f
t i
g )
規定が︑単に法律の効力をもつ
( g
e s
e t
z e
s k
r a
f t
i g
) 規定に弱められ
法律
留保
は︑
一般に二種類の定義がなされる︒第一は︑憲法上の基本権を法律に授権するというもの︒第二は︑憲
︵ 一 ︶ 律 第二は︑法律留保は︑
へ の 授 権 を 必 要 な 限 度 に 限 っ て 具 体 的 に 授 権 す る 傾 向 が あ る
︒
Gesetzesvorbehali~)
という方法で行われるのである。解釈においても、法律留保を、要求する範囲に限り︑限定的に取り扱う必要があろう︒
明治憲法の法律留保は︑前述のように単純法律留保であり︑危険性が極大の形で生じるものであった︒現行日本国
憲法の法律留保も︑文面上では単純法律留保に近い場合がある︒特に︑﹁公共の福祉﹂という不確定概念による限定が
して捉えるため︑単純法律留保の危険性が強調される結果になる︒法律留保が正面から認められにくい理由の一っと
もなっているので︑﹁公共の福祉﹂の具体化の努力が惰まれる︒
第三は︑法律留保において︑法律による基本権の制限・規制に限界を設定する方式である︒これは︑
の採
るも
ので
︑
その限界は﹁本質内容﹂にあるとされる︵ドイツ基本法一九条二項参照︶︒このような限定が存在すれ
ば︑法律によっても基本権の本質内容を侵害しえず︑危険が相当に防止できることになる︒これを﹁制限の制限
法律留保の一般理論
法律留保の概念
( S
c h
r a
n k
en
ーS
ch
ra
nk e n ) ﹂と呼
Jぶ
が ︑
この問題については後述する︒ ホされるのみである場合が問題である
} ¥
その範囲が限定されるほど︑危険性が少なくなる︒したがって︑現代の法律留保は︑その法
その文言ないし内容・構造上の
︵一三条・ニ九条参照︶︒通説は︑公共の福祉という概念を︑ほとんど﹁無﹂と
ドイツ基本法
い わ ゆ る 特 定 法 律 留 保
( q u a
l i f i
z i e r
t e 11~3.4 537(香法'92)
︵ 二 ︶
ばれる場合がある︒
このように限定して使用するが︑実際にはこのような典型的場合には限られずに法律留保と呼 まず︑基本権が他の基本権によって制約を受ける場合も法律留保とされる︒つまり︑当該基本権 間の調整は︑権利・義務に関する事柄であるから︑法律によって明らかにされなければならないためである︒これと
関連して︑基本権が﹁公共の福祉﹂によって制限・規制される場合︑法律留保と呼べるかが問題となる︒﹁公共の福祉﹂
は︑基本権ではないが︑憲法の認める保障された利益であるから︑法律留保と呼ぶことも不可能ではないであろう︒
また︑稀に法律留保といっても︑実際には行政部の命令にまで虹接に授権されている場合もある︒たとえば︑ドイ ツ基本法一三条三項はこの例である︒これは理論的構造は同じであるが︑行政部の民主主義的正当性が立法部と異な
るとも考えうるから︑別個に検討する必要があろう︒
留保の内容
法律留保と一概にいっても︑﹁留保﹂
を詳細化したり︑変形したり︑差異化したり︑修正したりするのである︒本稿では︑
な言葉を使ってきたが︑法的思考に適するようにその内容を整理統合するのは難かしいのである︒
とこ
ろで
︑
C
.シ ュミ ット (S ch mi tt
は︑つとに法律留保を三つのカテゴリーに分けて理解すべきことを説いている︒)
すなわち︑①例外を指示するもの︑②内容を付与する規範化︑③より詳細な規制および実施規制である︒その意味内
容は必ずしも明らかではないが︑彼にならって︑﹁制限﹂・﹁形成﹂・﹁実施規制﹂に分かって検討してみることにしたい︒
まず︑法律留保が﹁制限
( B e s c h r a n k u n g )
﹂を内容とするのはよく知られていることで︑基本権特に自由権の例外を
ここで法律留保は︑
のであるから︑
べつに矛盾するものではないが︑後者は効力の帰結のみに着目するも
以下の議論では前者の定義によることにする︒
の内
容は
︑
(8 )
ている場合をいうとする︒この二つの定義は︑
これまで制限・規制という曖昧
まことに様々である︒基本権の限界を確定したり︑その内容・形式 八四
11 ‑3・4 ‑538 (香法'92)
法律留保籾珪本権考(翡橋)
とが
ある
︒
続保
障は
︑
この場合︑基本権は既に憲法レベルにおいて︑
すくなくとも抽象的には︑権利として完結
していることを前提とする︒その領域・保障程度の縮減や︑例外の指示という意味をもつのである︒
﹁形
成
( A
u s
g e
s t
a l
t u
n g
) ﹂とは︑法律により基本権に内容を与えたり補充したり前提を満足させるなどして︑当該基本
権の権利としての要素を充足させる場合をいう︒たとえば︑﹁法律の定める手続﹂を要求する現行憲法三一条の法定手
いわば慰法と法律の結合にもとづいて始めて活性化され︑権利としての性格が現れる︒この形成の場合︑
形成される内容についてだけでなく︑形成するか否かについても立法部に授権される点で︑立法部に重要な役割を認 める留保である︒立法部は︑形成義務をもつことになるが︑それが法的強制下にあるかが問題になるが︑消極的に解
される︒政治責任に解消さるべき義務に止まる︒
﹁実
施規
制
( A
u s
f t
i h
r u
n g
s r
e g
e l
u n
g )
﹂とは︑基本権の実施のために必要な規範を法律によって定めることをいう︒こ
の場合を含めて広く﹁詳細化
( n
a h
e r
e R
e g
e l
u n
g )
﹂︵たとえば︑﹁詳細は法律で定める﹂︶
基本権のうち特に自由権は︑
されうるのである︒ 指示する場合に現われる︒
八五
という類の言葉が使われるこ
その実現は権利者にまかさるべく︑実施のための法律は必要ではないはずである︒し
かしながら︑現代においては︑平等原則などとの関連から︑実施のための法規範が必要と考えられるにいたっている︒
たとえば︑集会の自由も︑道路交通法・公安条例等々の法的規律のもとに︑
このような要請は︑自由権以外の基本権の場合には︑ はじめて実質的に公平な自由の分配がな
より鮮明に現われるであろう︒
最近︑特にドイツにおいては︑基本権の現実化の要請を基本権の内実を形成するものと理解する傾向が有力になり
つつある︒この場合には︑実施規制は︑﹁形成﹂の問題として取り扱うことが可能になるであろう︒では︑基本権の内
実は当該基本権を行使する
l l I
能性を確保するにあるという古典的な理解のもとではどう考えるべきか︒この場合には︑
11 <3・4 ‑539 (香法'92)
点については後述する︒ 労
条件
︶︒
また
︑ 一般にプログラムにすぎないといわれる条項もあるが︑これは特殊な法律留保とも考えられる︒この 第二に︑能動的権利もその多くが必要的法律留保に属する︒
選挙権なども︑法律を前提した基本権であり︑必要的法律留保と考えられる︒ のうちの多くのものは︑規定自身が
一五条一項の公務員選定・罷免権︑ ﹁法律による﹂ことを求めている
一五条三項の普通
の中
にも
︑
二七条三項の児童の酷使禁止︶︒
しか
し︑
そ 日本の憲法の社会権規定においても︑
せよ︑制限・形成の間題に帰するのであり︑独立の考察対象とする必要性は認められないであろう︒
︵ 三 ︶
条文卜明ホされるか否かにかかわらず︑内容じ・法構造
t
必然的に法律留保と考えられなければならない韮本権が ある︒これは必要的法律留保
( n o h v e n d i g G e e s e t z e s v o r b e h a l t e ) と呼ばれる︒この場合は︑留保内容は﹁形成﹂に限ら れる︒ある基本権が法律留保であるか否か︑あるいは今日の法律留保は特定法律留保が多いのであるから︑どの部分 がどこまで法律留保と若えられるべきかは︑
具体的に検討する他ないが︑以下に若干の必要的法律留保の類刑を挙げ 第一に︑必要的法律留保としていわゆる積極的権利︑特に社会権を挙げる論者がある︒社会権は︑﹁明示にせよ黙ぷ
にせよ︑適用したり実現するには法律による形成が必要であり︑必要的法律留保付の韮本権なのである︒﹂
この見方は示唆するところが多い︒もちろん︑社会権に属するとされる条項
具体的な性格を具有する自己完結的なものもある︵たとえば︑
︵二六条一項教育を受ける権利・ニ七条一一項勤
てみ
る︒
必要的法律留保と選択的法律留保
限する場合に間題にされるに過ぎないであろう︒
つま
り︑
﹁制限﹂の間題として扱うことができるのである︒いずれに
実施規制は基本権の内容ではないから︑
せいぜい基本権の態様の間題として扱われ︑
それが実質的に基本権内容を制
八
'
/¥
11 :3・4 540(香法'92)
法律留保刑基本権衿(裔橋)
れる法律留保規定に限られるのである︒ ︵ 四 ︶
法律留保の効果
であるかはもっぱら当該基本権の解釈による︒ 第三に︑消極的権利たる自由権については︑
八七
その中核的な基本権たる思想良心の自由や表現の自由などの実体的自 由権の保障は︑必要的法律留保ではない︒しかしながら︑前にホ唆したように︑自由権もその実施規制が必要である
ことは他の基本権と異ならないし︑他の珪本権や公共の福祉との調整の場においても法律の補助が必要となっている︒
これらを必要的法律留保という実益があるかは疑間であるが︑いずれにせよ︑現代においては自由権といえども法律
の助けを借りることなしにはその機能を充分に果たしえないことに注目する必要があろう︒
また︑自由権の中でも手続的権利となると︑必要的法律留保である場合が少なくないであろう︒蓋し︑法律による
手続の形成を前提とするか要請するのが普通だからである︒
選択的法律留保
( f a k
u l t a
t i v e
G e
s e
t z
e s
v o
r b
e h
a l
t e
) とは︑必要的法律留保と違って︑憲法卜の権利として完結させる
ことも可能であるにかかわらず︑何らかの政策的考慮にもとづいて規定
t
明示的に法律留保とする場合である︒通常
の自由権の保障に法律留保が付される場合が︑典型的事例である︒形成・制限のいずれをも留保できるから︑どちら
法律留保の効果は︑前示の定義から知られるように︑憲法の効力を法律の効力にまで切りドげることにあるとされ る︒ところで︑
この法律の効力にまで切り下げるとは正確にはどんな意味なのであろうか︒第一は︑法律の形式で制
限・規制をなしうるが︑
れる︒すなわち︑
それより低位の法形式たる行政部の命令や処分によることを禁ずる意味を含む場合が考えら
そこでは行政部に対する授権は原則として許されないと解するのである︒したがって︑それが許さ
れるためには︑﹁法律の範囲内で﹂・﹁法律にもとづいて﹂といった文言
t
明らかに行政部への授権を許す趣旨が読みと
11 :{•4 541(香法'92)
ょ ︑
' (
いったいその限界とはいかなるものであろうか︒ ﹁法律による行政﹂における授権ルールが適用される﹁法律﹂留保である︒こ
の場合には︑法律はその授権に別段限定を受けることはないので︑通常の授権ルールに従う限り︑行政部による制限・
規制も可能になると考えられるのである︒この例は︑黙示の必要的法律留保に通常生じるであろう︒
この区別は︑前出のトーマの議論を理解するときに重要である︒蓋し︑
ルの法律留保と︑④のレベルの法律留保を区別することは︑極めて困難になるからである︒また︑ある基本権が︑
の二つのタイプのいずれの法律留保であるかを区別することは︑実際の取り扱いの上で非常に重要であるこというま 法律留保の限界
現代の法律留保は︑特定法律留保が普通であり︑そこでは具体的に限昇がぷされる︒
とえ明示されなくとも︑法律留保には本来的な限界があるのではないかという主張がなされる︒
この考慮は︑前述の法律留保の危険性を予防するための第三の装置︑
項︶と成文化されている︒しかし︑
必要となる︒
実は
︑
︵ 五 ︶ でもあるまい︒ 第二は︑限定的怠味はなく︑通常の
しかしそれだけではなく︑
つまり﹁制限の制限﹂の間題なのである︒
て た
この限界として指摘されるのは︑法律によっても基本権の﹁本質内容﹂を制限できないというものである︒これは
ドイツ基本法では﹁基本権は︑いかなる場合でも︑その本質内容
(e se ns ge ha
tl
)を侵害されてはならない﹂(‑九条二
日本においてはかかる規定は存在せず︑
した
がっ
て︑
その解釈論上の根拠づけが
オーストリーの憲法でも規定が存在しないにかかわらず︑判例は本質内容を法律留保の限界とすることを承 認している︒すなわち︑法律がその作用により基本権を廃棄したも同然のものとしたとき︑及び基本権の本質と衝突
こ この区別がなされないときには︑③のレベ
¥
\ J
ノI
11‑3·4 —り 42(香法'92)
法律留保刑韮本権号(翡橋)
律を作ることは許されないであろう︒
この
限界
は︑
したときには︑
考えるときには︑
また
︑
( 1 9 )
その法律は法律留保によって保障される基本権に反するというのである︒
コリネクによれば︑法律留保を形式的ではなく︑実質的なものと理解することから生じるという︒す なわち︑形式的な思考によれば︑法律による限りいかなる制限・規制も可能であると考えられる︒しかし︑実質的に
その法律は基本権を具体化したり︑現実社会に適応させるためのものである︒そのような法律は︑
枯本権に合致することを求められるのも門然である︒留保法律は︑他の諸基本権に違反できないように︑法律留保を
命ずる本体たる基本権に違反できないとされるのである︒
しかし︑韮本権保障を本体たる基本権と法律留保に分離するのは適切であろうか︒
るすべての法律ではなく︑本質内容に抵触する法律だけが違憲となるというのも説明が難かしい︒基本権は︑制限・
らには︑本質内容とはいかなる意味で︑ 規制法律によって完成されるのだから︑未だ明確な輪郭をもたないために︑本質内容に限定されるのであろうか︒さ
またどのような基本権に適用があるのかという極めつきの難問もある︒ここ ではさし当たり疑間の提示に止め︑以下に筆者の限界に関する見解を簡単に述べておこう︒
法律留保型基本権には︑それが法律により制限・規制されるという性質からする限界が認められる︒すなわち︑基
本権は国民のすべてにその保障がおよばねばならない︒しかし︑法律は議会・﹂
法部の多数決にもとづくにすぎない︒I L
法律留保型基本権は︑議会の多数決にもとづく法律によって制限・規制しうるとしても︑ありうべき少数意見の存在
可能性まで破壊することは許されないと考えられる︒
ヲ有ス﹂という規定が︑
八九
また︑本体たる基本権に違反す いいかえれば︑少数者が将来の多数者として留保法律を変更す
る可能性を閉ざすのは︑許されないのである︒たとえば︑﹁日本国民ハ法律ノ範囲内二於イテ言論著作印行⁝⁝ノ自由
かりに現行憲法にあったとしても︑政府の政策を批判する著作を認めないといった内容の法
このような限界があるとすれば︑空洞化を図る法律が許されないのはい
11 --3•4 543 (香法'92)
法的構造を指ポすることができ︑ れないという効果をもつに止まる︒このように解することによって︑
これまではっきりしなかったプログラム規定の
積極的な意味では存在しえない︒留保法律は︑ ことができる︒
しか
し︑
それは国家財政じの制約に服し︑法によって左れできないものであるから︑その本質内容は ログラム規定と呼ばれるものは︑ の権利さえ不存在になるからである︒
法律の限界は︑本体たる韮本権と法律との具体的関係を考察して決定される他ない︒このような留保法律の限昇は︑
国民の当該権利の最小限として︑本質内容というに相応しいのではなかろうか︒
法律に関係する場面ではたらく概念であって︑法律留保型保障・制度保障・韮本権相互や韮本権と さて︑韮本権は必ず本竹内容をもつであろうか︒もたないとしたら︑
ではないかと者えている︒ 本質内容をもたない法律留保刑芥咄本権という特殊なものとして理解することが便宜
たとえば︑現行慮法二五条の文化的生活権は︑社会権であるから必要的法律留保と若える
したがって積極的に文化的生活権を否定する規定を設けることは許さ あわせて韮本権規定に政治青言が混在するとする解釈を避けることもでき︑基本権
体系を一貫して法的に構成する便宜がえられるのではなかろうか︒
( l
) 日本でも仏仲留保の内検吋の兆しが詔められる︒たとえば︑
の法即﹂︵平:こ︶所収︺二い五頁以卜参照︒
( 2
)
K .
Korinek•
Ge da nk en zur e L hr e ¥
・ o n Ge se tz es n1 rb eh al t b e i Gr un dr ec ht en . i n : F e s t s c h r i f t f u r
A . J .
: ¥ f o r k
! .
19 70 ,
S.
1
72 .
( 3
)
Ko ri ne k. a . a . 0 ••
S. 1 71 .
( 4
)
Be tt er ma nn , a . a . 0 ••
s . 5
ー6
.
堀内健志ぃ人権の実竹的保間の一断面﹂︹新・鈴木釦玉忠法制定と変勒 どんなことになるのであろうか︒筆者は︑
プ
抵触の場合の調整などにかかわり︑
ー制
限の
制限
﹂
としての意味をもつのである︒
﹁公
共の
福祉
﹂
0)
このように考えられた本質内容は︑ うまでもあるまい︒蓋し︑議会多数者︵側︶
九〇
11 ‑3・4 ‑544 (香法'92)
芯送そ ︵睾迄︶
ff[iA[}
︸岳
left?
(L"')) Bettermann, a. a. 0 .. S. 7‑8.
('°)Schnapp, a. a. 0., S. 31.
(r‑‑) Korinek. a. a. 0 .. S. 171.
(x.) R. Thoma. Der ¥" orbehalt der Legislati¥・e und das Prinzip der Gesetzm狐igkeitvon Verwaltung und Rechtssprechung, in :
Anschi.itz‑Thoma, Handbuch des deutschen Staatsrechts II. 1932. S. 221. (Anm. 2.)
(:::;,) T. l¥launz. Deutsches Staatsrecht. 13. Aufl. 1964. S. 99.
(三)Bettermann. a. a. 0., S. 6.
(二)Schmitt. a. a. 0., S. 221.
(S:::)J::f: 蚤泄こ‑<苔紅五丑巽単S念化起全•」: 造.溢<遠・きミ翌:::こ'宅旦:亘00‑'.'・・;:::;堪I淫゜
(三)#旦;-<~,'い芸噂ミ痣翌芝心匂Iへ\--..J~心゜
(;::::) Korinek, a. a. 0 .. S. 17 4.
(~)Korinek, a. a. 0 .. S. 176.
ぽ)Korinek, a. a. 0 .. S. 175‑6.
(;::) Korinek, a. a. 0 .. S. 176.
(~)姿哀密翠さ国q;,;5:::::〔ほ奎〕」(旦互よく)'. : 旦一-~名二魯苔呈゜
(三)Korinek. a. a. 0., S. 178. 姜茎~8芸くこS互王心⇒i‑‑..J'VfGH Sig. 3929/1961忍*~空廿こ叫
⇒ ~,
VfGH Sig. 4163/1962, 4486/1963.5134/1965, 5134/1965~ 苓·:;:,::,~~こI'-..'゜(F~~写.;ti)
ぽ)Korinek. a. a. 0 .. S. 176‑7.
(;:;)~ 苓S巨苔-0~迄旦:がJ魯呈竺'.J~心ごBleckmann.a. a. 0., S. 305‑8.
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