早稲田大学大学院社会科学研究科
博士学位申請論文審査要旨
申 請 学 位 名 称 博士(学術)
申 請 者 氏 名 森田 明彦
専 攻 ・ 研 究 指 導 地球社会論専攻・社会思想研究指導
論 文 題 目 チャールズ・テイラーと権利主体論
― 現代多文化社会における「権利主体としての自己」を巡る研究 ―
審査委員会設置期間 自 2006年 4月13日 至 2006年10月 2日 受理年月日 2006年 4月13日 審査終了年月日 2006年10月 2日
審査結果 合 格
審査委員
所 属 資 格 氏 名
主 任 審 査 員 社会科学総合学術院 教授 古賀勝次郎
審 査 員 社会科学総合学術院 教授 厚見 恵一郎
審 査 員 社会科学総合学術院 教授 後藤 光男
審 査 員 社会科学総合学術院 教授 那須 政玄
審 査 員 政治経済学術院 教授 佐藤 正志
博士(学術)学位申請論文審査要旨 森田 明彦
『チャールズ・テイラーと権利主体論
―現代多文化社会における「権利主体としての自己」を巡る研究―』
[1] 本論文の主題
本論文は、多文化の下での人権の普遍性という問題を、現代の優れた政治哲学者で あるチャールズ・テイラーとマイケル・イグナティエフの議論に依拠しつつ考察したもの である。一般に、テイラーはコミュニタリアン、イグナティエフはリベラリストと見做さ れている。しかし、両者の思想がアイザイア・バーリンの影響の下に形成されたことから も窺えるように、両者は基本的には、バーリンの多元的自由主義を継承している思想家で ある。テイラーは敬虔なカトリック教徒であるが、世俗世界における諸価値の予定調和を 想定しているわけではない。イグナティエフも諸価値観の間の対立と共存について、実践 を通して思索し続けている思想家である。そして何よりも両者は、人権に強い関心を持っ ている思想家であって、テイラーは近代西欧思想の特徴を人権という角度から理解してき たし、イグナティエフはハーバード大学人権政策カー研究所所長を務めたこともある。従 って、テイラーとイグナティエフは、本論文の主題である多文化の下での人権の普遍性の 考察にとって逸してはならない思想家といえる。
しかし現在、人権の普遍性の問題は、既存の文化を前提とし、現行の人権思想との整合 性の問題として議論されることが多いが、本論文はそうした方法を誤りだとして批判し、
別の分析方法を提示する。何故、そうした方法が誤りかというと、人権思想自体が近代西 欧社会で成立した特殊な歴史的産物であり、また、文化の内容を決める権利は個人にある からである。これに対して本論文は、人権の普遍性の問題は、各文化において違った基礎 づけ・原理的根拠を見出さねばならないという。それには、現今の人権思想のどの部分が 特殊西欧的なのか、特殊西欧的なものが外された人権思想とはどういうものか、人権思想 を受け入れるには、各文化にはどのような変容が求められるか、といった社会思想史的、
哲学的、文明論的な分析・検討が必要である。
そのために、本論文は「権利主体としての自己」という観念を取り上げ、テイラーとイ グナティエフの諸著作を読み解くことによって、多文化の下での人権の普遍性の問題の考 察を行うのである。これまで、イグナティエフとテイラーについて、特にテイラーについ ては、日本でも多くの議論がなされてきたが、彼らの思想を総合的に理解し、しかも人権
の観点から論じたものは殆どない。この意味でも、本論文の研究上の意義は極めて大きい といわなければならない。
[2] 本論文の構成
本論文の構成は以下の通りである。なお本論文の分量が、1頁、40字×30行=1200 字で、全275頁(脚注を含む)、約33万字であることを申し添えておく。
第1章 課題の提示と論文の構成 1.本論文の契機―人権との出会い
2.課題の提示―人権は普遍的なものか?
3.方法論の提示―権利主体としての自己を通じて人権の普遍性を考える 4.本論文の構成
第2章 人権の普遍性―イグナティエフとテイラー 1.国際人権への挑戦
(1)「権利革命」の進展とその課題
(2)国際人権の普遍性への文化的挑戦 2.イグナティエフの人権思想の特徴 3.イグナティエフの人権思想に対する批判
(1)エイミー・ガットマンによる批判
(2)アンソニー・アッピアの批判
(3)デイヴィッド・ホリンガーの批判
(4)ダイアン・オレントリヒャーの批判
4.イグナティエフとテイラー―消極的自由と積極的自由を巡る二人の立場 5.イグナティエフ、テイラー、バーリン―人権と個人主義
(1)個人主義と尊厳、自由、自己同一性(アイデンティティ)の関係
(2)近代個人主義とコミュニタリアニズム
第3章 テイラー『ヘーゲル』―日本流超越的存在の構想 1.課題の設定と方法論の提示
2.ヘーゲルが目指したもの
(1)当時の思想的課題
(2)ヘーゲルが目指したもの
(3)ヘーゲルの論理学と弁証法
3.ヘーゲルの存在論的弁証法は成功したのか?
(1)ヘーゲルの論理学
(2)定有(Dasein))と無限性(infinity)
(3)ヘーゲル論理学は成功したのか?
4.現代日本のアポリアとヘーゲル哲学
第4章 テイラー『自己の諸源泉』(1)―西欧社会における近代的自己の誕生 1.人権概念の西欧的偏向
2.権利主体としての近代的自己 3、近代的な内面性
4.日常生活の肯定
5.内的道徳源泉としての表現主義的自然観念 6.現代西欧思想家としてのテイラーの特徴
(1)キリスト教的伝統の肯定
(2)ロマン主義的な反啓蒙主義
(3)現象学的方法論
第5章 テイラーの言語哲学―言語論的転回と権利主体論 1.権利主体論の課題
2.「言語論的転回」におけるテイラーの位置 3.テイラーの言語哲学
(1)表現主義的言語理論
(2)言語の三つの側面
(3)表現主義的言語理論と表象的言語理論
(4)言語の全体性 4.テイラーの「行為」論
(1)「行為」論の系譜と課題
(2)表現主義的「行為」論 5.テイラーの思想と人権の根拠
第6章 テイラー『近代社会像』と権利主体論 1.課題の設定と方法論の提示
2.近代西欧社会像
3.三つの近代社会像と権利主体としての自己像
(1) 市場経済
(2) 公共圏
(3) 主権者としての人民
(4) 権利主体としての自己像 4.現代的自己の特徴
5.現代日本の課題
第7章 テイラー『自己の諸源泉』(2)―近代西欧的自己の現代的課題とその限界 1.福祉コミュニティの担い手としての個人
2.近代西欧社会像と近代的自己の関係およびその現代的課題
(1)近代西欧社会像の核心―権利主体としての自己
(2)近代的自己の現代的課題 3.西欧近代道徳とロマン主義
(1)西欧近代道徳の歴史的系譜
(2)ロマン主義の現代的展開
(3)ポストロマン主義と西欧近代道徳 4.西欧近代道徳の三つの課題
(1)解放された道具主義への批判
(2)本質的善を巡る対立
(3)近代的道徳規範とその実現の間の対立 5.西欧近代の道徳的枠組と近代的自己
第8章 テイラーの全体論的個人主義と権利主体としての子ども観 1.子どもの権利主体性
2.存在論と権利主体論
3.テイラーの全体論的個人主義
(1)表現主義的言語理論
(2)自己解釈的存在としての自己
(3)全体論的自己観と個人主義
4.テイラーの全体論的個人主義と権利主体論 5.子どもの権利主体性
第9章 テイラーの表現主義的個人主義と現代の人身売買 1.現代の人身売買
(1)人間の安全保障と人権
(2)人身売買の現状
(3)エンパワメントと参加
(4)人身売買と人権
2.〈表現の自由〉の侵害としての人身売買
(1)ネオリベラリズム、近代啓蒙主義と人身売買
(2)近代的自己の諸源泉と〈ほんもの〉という倫理
(3)〈表現の自由〉の侵害としての人身売買
第9章付論 人身売買の事例研究報告―フィリピンのケース 1.課題の提示と方法論の説明
(1)課題の提示
(2)方法論の説明
2.フィリピンでのワークショップの報告 3.暫定的な結論と今後の課題
第10章 テイラー『マルチカルチュラリズム』と現代日本 1.課題の設定と方法論の提示
2.テイラーの基調報告―承認の政治
(1)『マルチカルチュラリズム』
(2)テイラーの基調報告―承認の政治 3.テイラー報告に対するコメント
(1)スーザン・ウルフのコメント
(2)スティーブン・ロックフェラーのコメント
(3)マイケル・ウォルツァーのコメント
(4)ユルゲン・ハーバーマスのコメント
(5)K・アンソニー・アッピアのコメント 4.マルチカルチュラリズムと現代日本
第 11 章 ナショナル・アイデンティティとしての自由民主主義―イグナティエフ『ヴァ ーチャル・ウォー』『次善の悪』『米国の例外主義と人権』
1.課題の設定と方法論の提示 2.イグナティエフの思想
(1)『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』に見るイグナティエフの思想
(2)イグナティエフの思想の特徴―多元的リベラリズム 3.90年代以降のイグナティエフ
(1)合法性と正当性―『ヴァーチャル・ウォー』
(2)自由と安全―『次善の悪』
(3)人権を巡る米国の矛盾―『米国の例外主義と人権』
4.現代日本の課題
第12章 テイラーへの応答―わたしのコミュニタリアニズム 1.わたしのコミュニタリアニズム
2.日本の近代と人権 3.日本の近代と個人主義
4.「超越的体験」としての東洋的無 5.「東洋的無」の主体としての「身」
6.自己解釈的存在としての「身」を巡る課題―リベラリズムとコミュニタリアニズム 補論1 チャールズ・テイラーの作品と関連文献リスト
補論2 マイケル・イグナティエフの略歴と作品 その他の文献リスト
[3] 各章の概要
第1章は序章であって、先ず、ユニセフでの活動を通じて人権という問題に遭遇し、
それが本論文を執筆する契機になったことが表明されている。この問題はイグナティエフ の論文・著作を読み進める中で、人権は普遍的なものかという問題として意識されていく。
そして、この問題を解くには、テイラーの「権利主体としての自己」を取り上げることに よって最も適切な回答が得られるのではないか、と考えるようになる。テイラーによれば、
権利主体としての自己の観念こそ、近代西欧に特有なものである。従って、この自己が如 何に形成され、どのような特質を有するものかが理解されれば、近代西欧が生み出した人 権の特質を明らかにすることができるはずである。
第2章は、イグナティエフの『政治、偶像としての人権』などを踏まえながら、人権の 普遍性を考察している。第2次世界大戦後、人権は国際人権として考えられるようになり、
急速な発展をもたらしたが、また多くの議論を引き起こしきた。如何なる意味において人 権は普遍的かという議論もその一つである。イグナティエフは、国際人権の問題を現実主 義的立場から挑戦しているが、彼の人権思想の核心は、エイジェンシー、ミニマリズム的 人権構想、個人主義にある。本論文は、ガットマン、アッピア、ホリンガーなどの議論を 参照しつつ、イグナティエフのエイジェンシー概念を出発点とし、バーリンの消極的自由
-積極的自由をめぐるイグナティエフとテイラーの立場を解明する。その結果、イグナテ ィエフとテイラーの自由についての考えが実践段階において似ていること、リベラリズム とコミュニタリアニズムは、違った自己観に立ち異なった人権論を説くが、人権の普遍性 は何れの自己観からも導出されることが判明する。最後に、近代個人主義の問題点をテイ ラーの議論に基づいて検討し、「<ほんもの>の個人主義」の再生によってその克服が可能 であることを明らかにしている。
第3章は、テイラーの主著『ヘーゲル』を取り上げ、カトリック教徒のテイラーからヘ ーゲル哲学を解明する。具体的には、1、ヘーゲルは西欧が直面する近代のアポリアに如 何に取り組んだか、2、ヘーゲルの論理学は何を目指したのか、3、汎神論的基層文化を 持つ日本が、自らのアポリアを克服するためにヘーゲルから学ぶべきことは何か、を検討 する。1については、近代化の中で見失われていく超越的な精神の再生こそが、ヘーゲル の試みたことであったという。これについては、中沢新一も近代西欧社会が忘れ去った神 話を弁証法という方法によって再興しようとしたのが、ヘーゲルであったといっている。
2 については、唯一絶対神の存在を前提とせず、精神をその必然的論理の展開のみによっ て絶対的精神の実在と世界史は絶対的精神の発展過程であることを証明することを目指し たのが、ヘーゲルの「論理学」であった、と。3については、日本において近代的な自律 的な個人意識を確立するために、日本的霊性の近代的復権を必要とするならば、その企て は、ヘーゲル哲学から多くを学ことができる、と答えている。
第4章は、テイラーの『自己の諸源泉』に基づきつつ、近代西欧に成立した人権思想が どのような意味で西洋的なのかを明らかにしている。近代以前の道徳世界と近代以後のそ れとの違いは、権利の内容ではなく、権利の形式である。近代以前においては、人は法の 下にあると考えられていたが、近代以後は、権利はその所有者がそれを実現するためにそ れに基づいて行動すべき、行動することができる主体的権利と考えられるようになった。
そしてこの権利主体としての自己には、1、近代的な内面性、2、日常生活の肯定、3、
内的道徳の源泉として表現主義的自然観念、といった特徴がある。前近代的な階層秩序か
ら解放された個人は、プラトンからアウグスティヌスにいたる内面への転回という伝統を 踏まえた徹底的な内省を通じて、自己探求と克己という内面性の観念を生み出し、ここか ら自律と承認された独自性という近代的自己像が展開された。神聖な社会的秩序から解放 された自己にとって、生産活動と家庭生活を中心とする日常生活及び苦痛からの回避が最 も重要なものと考えられるようになった。近代社会はそれ以前の社会と違って、個人の人 生に意味を与える万人に共有される枠組みが存在せず、自分にとって何が重要かというこ とについての枠組みは、自分にとって意味ある表現を行う表現力を発展させることによっ て組み立てなければならない。そのための自己探求とは、自分は何かということ、即ち、
人はそれぞれに独自のあり方を持っているということになる。このような近代的アイデン ティティの観念は、ヘルダーリンに代表される後期ロマン主義に典型的に現れる表現主義 的自然観念を発展させた。また同章の終わりで、テイラーの思想の特徴として、キリスト 教的伝統の肯定、ロマン主義的な反啓蒙主義、現象学的方法論、を挙げている。
第5章では、テイラーの言語哲学が分析されている。テイラーの言語論は、表現主義的 言語理論と呼ばれるもので、ヘルダー、フンボルト、ハイデガーの系譜上にある(それ故 に、3H 理論といわれる)。またそれは、言語論的転回による認識論的枠組みの転換を反 映している。言語論的転回とは、これまで、意識や観念を伝える媒体とみなされてきた言 語が、逆に意識や観念の内容を構成していくものとして考えられるようになったことであ る。次にテイラーの行為論が取り上げられ、彼は行為を端的に表現だとする。つまり、行 為は真の表現が可能となる公共空間を構成するという意味で表現というのである。エイジ ェンシーという概念は、行為をキーコンセプトとして、近代の想定する意識的自我を中核 とする理性的個人に対する代替的概念として提示されたものである。そしてこのエイジェ ンシー理論こそ新たな権利主体論を構築する概念的枠組みになり得ると考える。
第6章は、テイラーの『近代の社会像』に依拠しつつ、近代西欧社会像の内容とその核 心を明らかにしている。テイラーは西欧近代を形作った主要な社会像として、市場経済、
公共空間、主権者としての人民の3つを挙げる。市場経済は政治から独立した最初の空間 であり、安全と経済的豊かさを目的とする世俗的で水平的な社会であって、18世紀に始ま り現代に至る近代西欧社会像を形成した。市場経済の直ぐ後に現れたのが公共空間で、そ れは、直接的な対面あるいは様々な媒体を通じて出会い、共通の関心事項を議論し、共通 の考えを形成する空間である。人民主権への移行には、二つの経路があって、アメリカと フランスでは違った経路をとった。アメリカでは慣習的な意味を持った社会像が既に存在
していたので、その再解釈という形で移行したが、フランスでは受容され合意された社会 像なしで行われた。次に、近代西欧社会像の核心は権利主体の自己像だという。この近代 的自己を権利主体としたのが、17世紀の自然法論であった。この権利主体としての近代的 自己像と近代的社会像とは密接に結びついている。神聖な社会的秩序から解放された自由 な主体に対応して、自由な個人の同意によって形成される権利主体によって構成される社 会という社会像が誕生したのである。
第7章は、テイラーの思想に拠りながら、近代西欧が生み出した近代西欧的自己が今日 深刻な限界に直面している原因を探っている。テイラーは現代西欧が危機に陥っている面 として、1、唯一神が創造した世界の本質的善性という一神教の想定、2、啓蒙主義とロ マン主義が想定する単一自己モデル、を挙げている。キリスト教神学においては創造は究 極的には善であるとされる。自然の善性とは西欧においては周縁的価値ではなく、プラト ン主義とキリスト教の結合によって生まれた西欧の根幹的価値である。この価値は近代に 至っても啓蒙主義とロマン主義によって継承された。そして啓蒙主義もロマン主義も異な った形ではあれ、単一の自己という観念に依存している。この単一の自己という観念と唯 一神が創造した世界の本質的善性という想定は西欧の知的伝統である認識論的二元論と存 在論的一元論を通じて相互に結びついている。啓蒙主義が想定する解放された理性は、経 験を支配し、思考と人生を指示し得る理性の秩序を構築できる厳格な管理中枢を必要とし ていたし、ロマン主義も、本来分裂していた自己が感覚と理性の調和によって再統合され ると想定していた。だが、ショウペンハウエル以降、解放された理性とロマン主義から脱 却しようとするにつれ、単一の自己の枠外に出る必要性が認識されるようになった。即ち、
現在われわれは「主体の脱中心化」の時代を迎えているというのである。
第8章は、テイラーの全体論的個人主義に依拠しつつ、子どもが権利主体と考えられる 根拠は何かを考察している。テイラーは、存在論における全体論と原子論、政治的主張に おける集団主義と個人主義を、異なったレベルの対立概念であり、両立可能だとする。つ まり、テイラーの全体論的個人主義は、存在論的には全体論、政治的主張としては個人の 権利と自由を優先する個人主義ということになる。しかしここには、このような個人主義 が整合的な論理・主張として成立し得るかという問題がある。本論文は、その全体論的自 己観をその根拠となっている表現主義的言語観を明らかにすることを通して理解し、自己 解釈的存在としての自己を取り上げ、全体論的自己が社会科学のレベルで個人主義に結び つくことを示すことで論証している。そして、テイラーの全体論的個人主義は、言語によ
って世界を共有する共同体によって構成される自己を前提とした個人主義であるという。
ここで、権利主体としての人間について二つの見方が可能になる。第一の見方は、自己解 釈的能力を持つものだけが権利の主体であり得るという考えである。第二の見方は、人間 には価値の世界に生きる道徳的な潜在能力が賦与されているが、この能力は社会や文化の 中でのみ評価され開花するという考えである。この第二の見方に立てば、自由な個人を育 てることに価値をおく社会・文化においては、子どもも権利主体である考え方は十分成立 するという。
第9章は、テイラーの人間観に拠りつつ、現代の人身売買問題を考察している。テイラ ーの人間観は、ロマン主義のみならず、20世紀前半の言語論的転回を踏まえた表現主義的 言語観に基づいている。従って、人間は切り離された自己ではない。テイラーはこのよう な人間観に依拠して、自己決定の自由と結びついた「<ほんもの>という倫理」を個人主 義の道徳観念として高く評価する。そこから、啓蒙主義的人間観から導かれる人身売買観 とは違った考えが出てくる。原子論的人間観に立つ啓蒙主義にとって、人身売買は何より も個人の人身の自由を侵害する行為と考えられる。今日のネオリベラリズムは近代啓蒙主 義の最後の段階のものとされる。しかし、啓蒙主義の人身売買観は一面的である。人身売 買で失われるものは、人身の自由だけでなく、一人ひとりの人間がその独自性を共同体に おいて実現していく機会であり、その結果としての個人の尊厳である。それ故に、より重 要なのは表現の自由である。人身売買は、「表現の自由」を奪うことによって、個人の尊厳 を侵害する行為である。なお、第9章には付論として、人身売買の事例研究としてフィリ ピンのケースの研究報告が加えられている。
第 10 章は、テイラーの『マルチカルチュラリズム』を取り上げ、マルチカルチュラリ ズムが西欧の思想的文脈で有する意味と現代日本に対して持つ意義を検討している。マル チカルチュラリズムは、近代のプロジェクトが持つ平等性・普遍性への志向性を批判する。
手続き的自由主義の中立性要求も近代社会の一つの特質であるが、テイラーはその起源を カントまで遡る。しかしテイラーは、自由主義が中立性を保持することはできないしすべ きでもないと考え、非手続き的自由主義を支持する。テイラーは、すべての文化を平等に 尊重すべきだとする考えには懐疑的である。特定の文化に対して、すべての文化を平等の ものと仮定することを権利の問題として要求することには賛成するが、特定の文化を優れ た価値のあるもの、あるいは他の文化と対等なものと見做すことを権利の問題として要求 することには賛成しない。こうしたテイラーの考えに対して、本論文は次に、ウルフ、ロ
ックフェラー、ウォルツアー、ハーバーマスなどの評価を紹介している。その後で、マル チカルチュラリズムが現代日本に対して持つ意義の考察に向かい、先ず、戦前の日本の混 合民族論を振り返るが、いま必要なのは、日本の文化的伝統の意識化、論理化、明晰化で あるという。そして、グローバル化に伴うマルチカルチュラリズムに対応するためには、
権利の主体としての自己意識の確立と、そのような自己意識に基づいてナショナルアイデ ンティティとしての自由民主主義を確立することである、という。
第 11 章は、イグナティエフの諸著作を解読し、それらに見られる彼の思想と現代日本 はそれらから何を学ぶべきかを論じている。先ず、イグナティエフの名を高からしめた『ニ ーズ・オブ・ストレンジャーズ』を取り上げ、彼の思想がバーリンの多元的自由主義に通 じていることを明らかにする。イグナティエフの権利、ニーズに対する抑制された姿勢は、
人類の多様性は本質的なもので、それが、人間的な地平に止まる限り、尊重されるべきと するバーリンの立場と重なっている。しかし、イグナティエフは単なる懐疑主義者ではな く、自由に対する信頼は、彼にあっては揺るぎないものである。次に、1990年以降のイグ ナティエフの思想を、『バァーチャル・ウォー』,『次善の悪』,『米国の例外主義と人権』
を取り上げ明らかにする。例えば、イグナティエフは、人権という文化は他者ないし多文 化と関るものであるから、彼らの意見に耳を傾け、理性的対話を通して、より良い結論を 導かねばならない、と主張してアメリカの例外主義を批判する。また、イグナティエフの 戦争に対する態度から、現代の日本が学ぶべきことは、彼の知的誠実さと精神的自立性に 基づく道徳的勇気であり、彼の実践と思索からは、日本人が自由民主主義を当事者として 生きることはどういうことかを反省することである、という。
第 12 章は本論文の終章であって、テイラーが明らかにした特殊近代西欧的自己観であ る「権利主体としての自己」に対し、日本における近代的自己はどのような形で構想でき るかについて独自の考えを提示し、本研究を締め括っている。西洋は絶対的創造者として の唯一神を基底に持つ社会であるが、日本は絶対者を想定しない汎神論的世界観を基層に 持つ社会である。そこに、西洋と日本との最も根本的な違いが認められる。従って、西洋 の近代的自己像が、日本に定着することは難しい。それ故、今日の日本の課題は、汎神論 的世界観を基層とする日本社会に適合的な近代的自己モデルを確立することである。本論 文はここで、伊藤整、久松真一、市川浩などの議論を援用し、独自の考えを表明する。伊 藤は、西洋における神という絶対の働きと、東洋の無の働きは同じだと考える。この無を 理論化したのが久松である。久松は、西田幾多郎の絶対無を自己に当て嵌めることによっ
て、無相の自己、つまり東洋的無の自己ともいえる観念を提示している。それを西洋哲学 用語で表現すれば、主体的主体、純粋な絶対主体となる。では、この主体的主体という概 念を伝統的な日本語ではどう表現されるか。そこで、市川の「身」という考えが採り上げ られる。それは、人間の全体存在を包括した概念だが、その全体は実体的統一ではなく、
多極分解の可能性に晒された錯綜体としての統一とされる。実にこのような「身」の概念 こそ、テイラーの自己解釈的存在としての自己観と親和的なのであり、エイジェンシーの 概念とほぼ対応しているといえる。このように市川の身の哲学において、無の哲学と権利 主体としての自己とが日本の文化的文脈において繋がれる。しかし、日本の知的伝統にお いては自律的自己という意識を安易に超越しようとする傾向がある。そこで、本章の最後 で、従って本論文の最後で、日本の伝統的な自己観と親和的なコミュニタリアニズムの自 己観が諸価値の対立下で公共性原理を追及するリベラリズムとどのように接続し得るかを、
井上達夫やサンデルなどの議論に依拠しつつ検討する。そこからはまだ説得力ある結論は 展開されていないが、おおまかにいえば、自己解釈的存在としての自己は構成的共同体と 接続されざるを得ないということになろう。本論文は次の文章で終っている。「リベラリズ ムとは自己解釈的存在としての人間が存在し得る社会的条件、井上の定義による人格構成 価値の次元における一つの善き生の構想である。そして、リベラリズムの確立を通じた自 由で民主的な社会の形成は、人々の実践によって育まれた歴史的な共通信念によって可能 となる。」
[4] 分析と評価
審査員から出された意見等を摘示すると以下の通りである。
第1章は、本論文の課題と方法論が簡潔かつ的確に記述され、本論文の序章に相応しい 章といえる。ただ、本論文の構成、具体的にいえば各章間の関係についての説明があれば、
もっとよかったであろう。
第2章で、テイラーの「<ほんもの>の個人主義」とハイエクの「真の個人主義」とは 概念的に近いものと論じられているが、両者の思想的背景はかなり違っているので、もっ と綿密な論証が必要ではなかったか。もっとも本論文が、テイラーを大陸思想だけでなく 英米思想にも精通した思想家として理解している点には異論はないが。
第3章は、テイラーの大部で難解な『ヘーゲル』を原文でよく読んだ上で、議論を展開 していて大いに評価できる。特に、ヘーゲルの論理学が目指したのは何かという問題を取
り上げ、論じていることは評価されてよい。これは、日本に見られる誤解、即ちテイラー はヘーゲルの論理学を読まずにヘーゲルを論じているといった誤解、の解消に資すること になろう。しかしここでの議論は、殆どテイラーのヘーゲル解釈に依拠しているので、そ れをヘーゲル自身の思想として議論してよいのか、という問題がある。また、テイラーの 議論なのか、申請者自身の議論なのか判然としないところも見受けられる。
第4章で、テイラー思想の特徴の一つとして、ロマン主義的反啓蒙主義が挙げられてい る。実際、テイラーはロマン主義の研究を深く行い、その影響を強く受けている。しかし、
バーリンもロマン主義に非常な関心を示し、ロマン主義、ロマン主義思想家に関する論述 もある。そうしたバーリンのロマン主義研究が、テイラーに何らかの影響を与えたことは ないのか。また、ロマン主義の解釈について、バーリンとテイラーの間に違いはないのか。
そうした点について研究を進めると、テイラー自身の理解も深まるのではないか。
第5章で、テイラーの言語論がヘルダー、フンボルトだけでなく、ハイデガーの系譜上 にあると論じられている。また、第4章でも、現象学的方法論のところで、テイラーの『自 己の諸源泉』は、ハイデガーの『存在と時間』の影響を受けている、と論じられていた。
恐らく、テイラーの思想は、その自己観、言語論だけでなく、近代西欧文明批判を含めて、
かなりハイデガーの影響を受けているはずであるが、その詳しい議論が本論文ではなされ ていない。ハイデガーは社会科学については殆ど論じていないので、ハイデガーとテイラ ーを比較論じることは難しいことではあるが。しかし言語論は、ハイデガーにとっても極 めて重要なテーマであっただけに、言語論におけるハイデガーとテイラーとの関係につい ても少し詳しい議論があってもよかったのではないか。
第6章では、テイラーの『近代社会像』に依拠して、近代西欧を形成している、市場経 済、公共空間、主権者としての人民という三つの社会像が論じられているが、この中で、
後者の二つはよく議論されているけれども、市場経済については、少し物足りない。市場 経済については、やはりイギリスの古典自由主義者の議論に触れる必要があろう。ここで は、ロックには言及されているが、ヒュームやスミスの市場経済論には触れられていない。
イグナティエフは、イギリスの古典自由主義者にも精通しているのであるから、ここにイ グナティエフの議論を加えると、より詳しく明確な市場経済像が描けたのではないだろう か。また本章では、人民主権への移行に二つの経路があったという議論がなされていて、
これは現代社会を考える上でも大いに興味あることである。
第7章では、ロマン主義の現代的展開が興味深く論じられていて評価される。また、本
章で、唯一神が創造した世界の本質的善性という一神教の想定が現在危機に直面している というテイラーの議論が取り上げられている。この議論は、西欧思想の最大の問題は「一 元論」にあるとするバーリンの議論と重なるところはないか。そうすれば、西欧のもっと 長い歴史的視座の中で、現代社会を捉えることができるのではないか。やはり、キリスト 教に対する態度や考えが異なるがゆえに、テイラーとバーリンの議論にこうした違いが生 まれるのだろうか。しかし、非キリスト教圏の日本では、寧ろ、バーリンの議論の方が容 易に理解されるのではないか。
第8章で、人権主体論について、強い人権主体論と弱い人権主体論の二つの立場がある とされ論じられているが、人権主体論の議論として、こうした議論ははたしてどれほどの 重要性を持っているのか。法理論からの厳密なアプローチがあってよかったのではないか。
本章でも、上記二つの立場が前提としている人権主体としての自己観は共に原子論的存在 論に基づいていると、否定的に議論されている。そうであれば、強い人権主体論と弱い人 権主体論を持ち出す意味はどこにあったのか。もっとも、現代の人権主体論が上記二つの 議論しかないのなら議論は別だが。また、テイラーの全体主義的個人主義を論じたところ で、田中智彦や、中野剛充の議論を取り上げている。田中は、テイラーの思想を人間と世 界の関係の両義性を明らかにしようとするものとして捉え、中野は、テイラーの思想を、
自己論、社会・存在論、政治論の三つの次元において連続性を持つものと理解する。確か に、田中や中野のような議論をした方が、本章だけでなく本論文全体がもっとスッキリし た形で論じられるのではないか。勿論それは、議論のレベルでそうだというに過ぎない。
第9章で、エンパワメントが能力強化という意味で用いられているけれども、本来の意 味はそうではないことが指摘されている。2004年に発表された米国国務省の『2004年度 人身売買報告書』は、エンパワメントを能力強化という意味で使っている。しかしエンパ ワメントの本来の意味は、あるがままの自分を尊重すること、あるがままの自己を受容し てもらえる人と人との関係を示す言葉という。これは重要な指摘だが、具体的にはどうい うことなのか、もっと詳しい説明があるとよかった。また、本章2で、ネオリベラリズム について取り上げられているが、リベラリズムとネオリベラリズムの違いはどこにあるの か、また、イグナティエフも基本的にはリベラリズム擁護者であるが、イグナティエフが 擁護するリベラリズムとここにいうネオリベラリズムとはどう違うのかなどについて、も っと詳しい議論がほしかった。
第 10 章で、テイラーは、非手続き的自由主義の擁護者として以下のような主張をして
いるという。即ち、特定の集団が強い集団的目標をもつ社会においても、基本的自由に対 して適切な保護を提供できる社会は自由主義的であり得る、と。それはどの程度までいえ るか。しかしもし、ある特定の集団の目標が社会全体の目標となった場合は、もはや自由 主義的とはいわれないであろう。また、手続き的自由主義か否かの議論の中で、ドゥウォ ーキンの議論に触れているが、これも非常に重要な議論であるから、もっと詳しい議論が ほしかった。
第 11 章は、イグナティエフの諸著作を丁寧に読みよくまとめているが、本章が本論文 の中でどのような位置を占めているのかの説明があるともっとよかったのではないか。
第12章は、これまでの議論を総括し、現段階での一応の結論を提示し、擱筆している。
テイラーが明らかにした「権利主体としての自己」は、唯一神を基底に持つ西洋において 説かれ得たもので、汎神論的世界観を基層とする日本において、そのような西洋的な自己 観が根づくことは難しい。従って、今日の日本の課題は、近代日本社会に適合的な自己観 を確立することである。本論文は、伊藤整、久松真一などの東洋的思想を検討し、西洋的 自己観に対応するものとして、東洋的無の自己、主体的主体、純粋な絶対的主体といった 考えを持ち出す。ここでは、論理的議論というより、直感的な議論がなされている。しか し、こうした表現では、日本人の中に浸透しないと考えたのであろう、それを日本の伝統 的な言葉で表そうと求める。そして得られた言葉が「身」であった。ここには、現実との 関りを決して見失うことなく議論しようとする本論文の根本姿勢が如実に示されている。
また、本論文の今後の研究が、アジア諸国の自己観、それに基づく人権論への考察へと向 かうことが示されていて、本研究の今後の発展が期待される。
本論文を全体として見た場合、何よりもこの研究の先駆的意義が強調されねばならない。
本論文が主として取り上げているテイラーは、日本でも盛んに論じられているが、しかし テイラーを包括的に議論したものはなく、本論文が最初である。これはイグナティエフに ついても同様で、イグナティエフのすべての著作を検討し論じたものも、少なくとも、日 本ではこれまでない。本論文はイグナティエフ研究でも先駆的意義を持っているのである。
しかも、本論文のテイラー論にもイグナティエフ論にも、随所に独自の見解と解釈が見ら れる。テイラーもイグナティエフも世界的に著名な思想家であるが、日本において、まだ 彼らを扱った研究書がないのは、原文が難解で、翻訳書も少ないということがある。申請 者は、彼らの著作を尽く原文で読み、先行研究も踏まえつつ、独自の議論を行っている。
また、本論文の議論が極めて説得的であることが指摘されてよいであろう。これは、本論
文が、西洋と日本という比較の視点と現実との関りということを終始見失うことなく論じ られたことによるものと考えられる。本研究がともかく、日本的な「身」の哲学まで辿り 着いたことは、本論文執筆の問題意識が如何に強烈なものであったかを窺わせる。また、
本論文を読むと、ユニセフでの体験が如何に重いものであったかが感じられる。本論文に は確かに、荒削りな議論、一面的な解釈も見られるが、しかしそれは今後の本研究の発展 の可能性を示すものである。
以上を総合的に判断した結果、本論文が「博士(学術)早稲田大学」の学位に値するも のと認める。
2006年10月4日
主任審査員 早稲田大学社会科学総合学術院教授 経済学博士(早稲田大学)古賀勝次郎 審 査 員 早稲田大学社会科学総合学術院教授 那須 政玄 審 査 員 早稲田大学社会科学総合学術院教授 後藤 光男 審 査 員 早稲田大学社会科学総合学術院教授 博士(政治学)早稲田大学 厚見恵一郎 審 査 員 早稲田大学政治経済学術院教授 佐藤 正志