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博士学位申請論文審査要旨

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早稲田大学大学院社会科学研究科   

博士学位申請論文審査要旨 

 

申 請 学 位 名 称  博士(学術) 

申 請 者 氏 名  野口  真広 

専 攻 ・ 研 究 指 導  地球社会論専攻  日本研究・日本歴史論研究指導

論 文 題 目  台湾総督府の統治政策と台湾人

Rule policy of the Government-general of Taiwan and Taiwanese  

審査委員会設置期間  自  2010年  1月14日      至  2010年  9月22日   

受理年月日    2010年  1月14日   

審査終了年月日    2010年  9月22日   

審査結果    合  格 

 

審査委員 

  所  属  資  格  氏  名 

主 任 審 査 員 社会科学総合学術院 教授 島    善髙 審 査 員 社会科学総合学術院 教授 内藤  明 審 査 員 社会科学総合学術院 教授 劉    傑 審 査 員 社会科学総合学術院 教授 笹原  宏之 審 査 員 政治経済学術院 教授 梅森  直之

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博士(学術)学位申請論文審査要旨   

野口真広『台湾総督府の統治政策と台湾人―包摂・適応・自主の観点からの再考―』 

 

(一)  本論文の主題 

  日本は、日清戦争後の明治28(1895)年8月から昭和20(1945)年8月までの50年間、

台湾を植民地としていた。この間の歴史については、夥しい数の先行研究があるが、その 大多数は、軍部や政党を主体として植民地政策を見たり、または文化政策において如何に 同化主義が展開したのかを論じたり、あるいは大日本帝国の経済圏の拡大過程として経済 政策から植民地政策を論じたりしている。しかも、いずれも日本内地に主体を置き、植民 地現地を客体として捉える傾向を持っており、日本人と現地人との間には相容れない対立 構造があったように描く点では共通している。その構図の下で、当然のように、総督府は

「強い支配者」として描かれてきた。

  しかし、実際には「強い支配者」である総督府も、現地の協力者なくしては政策を実行 することが出来なかったため、両者の間には何がしかの協力関係が成立した。この協力関 係は、台湾人側が総督府に従属した協力関係であると即断されるかもしれないが、しかし、

実態は必ずしもそうではなかった。既に、教育史の分野では、台湾人側から積極的に日本 式教育の普及を求めていた事実が明らかにされている。

このような実態は、教育方面だけでなく、さまざまな方面にも存在したが、従来の多く の研究で共有されてきた「支配と抵抗」という評価軸に固執する限り、それらは抜け落ち がちであった。

また、総督府は委任立法権(明治29年法律第六三号「台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法 律」)を持ち、律令という名の台湾独自の法を作る権限を持っており、これをもって総督府 の権限が強かったと評されがちであった。しかし、律令制定の権利を持ちながらも、基本 的には内地の法を必要に応じて修正するか、あるいはそのまま施行するという形が常態で あった。そもそも一行政官に過ぎない総督が法律とほぼ同等の律令を制定するということ は、大日本帝国憲法の理念から言っても、天皇の「立法権」に触れる恐れがあった。した がって台湾領有初期に匪徒刑罰令(1869年)が制定されたのを除けば、台湾独自の律令は 殆んど定められず、内地の法律を施行するか、一部修正して律令として施行するという手 続きを取ることが常態であった。特別会計とされた予算編成においても、租税の賦課徴収 や経費の支出においては本国政府の監督下に置かれていた。

台湾総督や民政長官、各部局長などの高級官僚も内地から異動するものが多く、植民地 経営の専門能力を基準にして採用されたものではなかった。政党内閣の時期には、頻繁に 総督が替わり、高級官僚の入れ替えも行われた。従って、総督府の統治政策も変動が大き く、決して一貫したものではなかった。

そこで、本論文は、台湾統治を総督府の統治力の強さから説明するのではなく、また台

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湾人の従属性から論じるのでもなく、台湾人が必要に応じて統治に適応し、次第に改革さ えも求めていったという点に注目する。特に自衛組織を含めた警察機能に関する問題に焦 点を当て、領台初期の古荘嘉門内務部長や後藤新平民政長官、統治安定期の下村宏民政長 官(のちに総務長官)、そして改革時期の石塚英蔵総督らを取り上げ、彼らの治安対策と、

それに対する台湾人側の協力の仕方を論じ、双方の協力関係がどこまで行きついたのか、

そしてなぜ協力が相互理解につながらなかったのかを論じている。

なお、本論文で多用されている「植民地官僚」とは、「植民地統治に関する経験かまたは 能力を持ち、台湾人の考えを理解した上で統治を行おうとしていた官僚」の意である。従 来、植民地の官僚を取り上げる際には、単に植民地にいた日本人官僚として捉えたり、あ るいは総督府という組織の内部に組み込まれ、現地社会とは隔離された存在として描かれ たりするだけであった。しかし、そのような捉え方だけでは、実態は究明できない。実際 に安定した台湾統治を築くためには、御用紳士とだけと付き合ったり、台湾人に対して一 方的な服従を要求したりするだけでは不可能である。いち早くそれに気づいたのが、「台湾 人の考えを理解した上で統治を行おうとしていた官僚」たち、すなわち「植民地官僚」で あって、彼等が台湾人へ近づいていった。そして台湾人の側からも自発的「適応」があり、

両者の間に一定の協力関係が模索され続けたのである。そのような関係が存在したからこ そ、50年に及ぶ台湾統治が成り立った、これが本論文の一貫した視点である。

(二)  本論文の構成

  本論文の構成は以下の通りである。

目次 序論

第一章  秩序維持のための接近

第一節 伝統的台湾社会と総督府との接触   一.清代の台湾統治における官と民

二.難治の地「台湾」との接触

三.台湾総督府の見た清代台湾の地方自治

第二節 古荘嘉門内務部長の保甲制再興と台湾人の帰服   一.雲林事件の経緯

    1.事件の概要

    2.雲林事件と英商オリア殺害

    3.英国領事の恩赦案と樟脳業再開

二.総督府の保甲制利用

  1.古荘内務部長と保甲制

  2.保甲制と台湾人と「土匪」

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小括

第二章  官僚支配と台湾経営の展開

第一節 「旧慣」の利用と後藤新平民政長官の台湾経営   一.後藤と「旧慣」利用

  二.台湾における統治者の資質と政策の実効性 三.台湾における後藤新平と官僚群

第二節 1910年代の統治安定と社会変化 一.社会の安定と政策

二.武力蜂起の要因

三.対岸からの台湾人への影響   小括

第三章  総督府による台湾人包摂の試み 第一節 下村宏民政長官による台湾人の包摂

一.下村宏民政長官の同化観 二.台湾社会への対応

第二節 台湾統治への異なる認識 一.総督府と台湾人の関係

1.総督府との関係性と政治的意味 2.台湾史上における抵抗概念 二.日本統治への協力意識

1.統治への適応 2.統治改革への提言

三.先住民統治政策における改善主義   小括

第四章  植民地官僚の統治改革構想 第一節 植民地官僚の官僚性と統治能力

一.総督府高官の植民地統治経験

二.総督府総務長官と内務省次官の出世比較 第二節 石塚英蔵総督の郡警分離構想と挫折

一.植民地経験の反映としての台湾統治 二.台湾統治改革と台湾人の自治要求   第三節 石塚英蔵小伝並びに重要史料紹介

小括

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第五章  秩序認識の齟齬

第一節 霧社事件に見る先住民政策の限界   一.先住民の人口動態

    1.総人口     2.総戸数

    3.20年代以後の若年層増加   二.地域の不安定化

    1.増加する人口と地域の不安定化

    2.モーナルーダオの統率力

    3.旧来の生活の変化と日本人への依存

    4.意思疎通機関の不在

    5.農政の理念と現実

第二節 制約された自主性と異なる台湾統治像   一.台湾地方自治制の改正と満洲問題   二.辜顕栄の民間外交と日中台融和   三.中国視察団の見た台湾

小括

結論

(三)本論文の概要

  第一章「秩序維持のための接近」では、清朝時代から日本時代までの台湾社会における、

地方支配層と官側との関係について検討している。第一節「伝統的台湾社会と総督府との 接触」では、清代台湾における地方支配の実態を調べ、土着社会が持っていた治安維持の 方法である「保甲制」や「地保」の制が有効に機能していたことを指摘し、それらの制度 が日本による台湾領有以後も再利用されることになったことを述べている。

第二節「古荘嘉門内務部長の保甲制再興と台湾人の帰服」では、まず、1896年に発生し た雲林事件を取り上げる。これは、雲林地方において、日本人の経営する雑貨店が土匪約 20 名に襲撃された事件である。「土匪」が槍や棍棒を手にし、衣類や毛布、時計など 300 点余りの商品を強奪し、日本軍と「土匪」との大規模な戦闘が起こった。日本側が派遣し た調査隊の過半が殺害され、その報復措置として、日本側は計 3 回の剿討作戦を行った。

この事件では日本人だけでなく、英国人にも被害者がでたため、外国新聞にも大きく取り 上げられた。

日本の台湾領有直後は、このような武力反抗集団が各地に発生していたが、このような 状況に対応すべく、治安維持を目的として、地域社会と総督府との接触が図られた。そし

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て台湾人の側からも、自らの生活を守るため次第に協力するものが現れた。辜顕栄や林武 琛らの有力者たちである。彼等の働きかけが、古荘嘉門内務部長による伝統的な自衛組織 の保甲制再興を促し、それが後には総督府の警察機構の末端に組み込まれていった。

保甲制は日本の統治時代を通じて利用され、戦後の中華民国政府によっても継承された。

保甲制は公的な制度ではなく、あくまでも自衛組織であるため、その費用は自弁とされた が、実態としては警察機能を分担していた。治安が安定して以降は、保甲に対して行政の 補完機能も求められるようになり、地方道路の建設や伝染病対策のための掃除、戸口調査 など、本来は行政が担うべき業務を代行するようになった。

この保甲制は、地域有力者と一般台湾人、「土匪」の間を仲介するものであり、日本の台 湾統治にとって、有効に機能した制度であった。

第二章「官僚支配と台湾経営の展開」第一節「『旧慣』の利用と後藤新平の台湾経営」で は、民政長官後藤新平が保甲制の定着に尽力し、積極主義的経営の下で、農業開発と土匪 の投降を進め、総督府の意向に従う台湾人を積極的に取り込んでいった時期を扱っている。

1898年に赴任した後藤は、軍事力によって土匪討伐をすすめたが、台湾人の側でも、総 督府に協力するものが現われてきた。台湾人も治安を早急に回復させることを望んでいた からである。

後藤は、土匪を討伐するだけでなく、投降者には道路工事や山林開墾などの生業を与え、

投降者の生活にも配慮した。そして治安が回復した土地には保甲制を実施し、台湾人にも 警察・行政機能の一端を担わせることにした。保甲制は、地域住民自身による警察機能の 補完であったため、総督府の経費もかからない上に、良民と土匪とを容易に区別できる、

有効な制度であった。 

ところが、この後、森林伐採や薪拾い、樟脳製造業、砂金掬い等の生業が、総督府の許 可制となったため、許可を得られないものが生活に窮して土匪となることもあった。総督 府の積極的開発は台湾経営の黒字化を主眼としたものであって、台湾人の生活に対する配 慮が十分ではなかったから、その皺寄せが台湾人に及んだのである。総督府は、自ら蒔い た種によって苦しむようになった。

第二節「1910年代の統治安定と社会変化」では、1903年に、蔡清淋が起した北浦事件、

1913年に羅福星が169名の同調者を率いて、総督府の台湾人に対する蔑視・虐待・重税・

産業奪取等に抗議をして蜂起しようとした苗栗事件、1915年に余清芳が武装蜂起した西来 庵事件などを取り上げ、総督府が台湾人のさまざまな不満を十分捉えきっていなかったこ とを指摘する。

総督府は、台湾人社会を日本の統治体制に包摂するため、単に武力によって抵抗運動を 鎮圧するだけでなく、浮浪者に対する収容所を設けたり、出所後も警察官の監視下におく ようにしたりと、犯罪予防政策をとった。その一方で、この頃、大陸で内乱で治安が悪化 し始めて、台湾人たちの中には、日本統治下に生活することは「非常の幸福」であると感

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じるものも出てきた。このように台湾人社会にも変化が現われて、台湾社会も次第に安定 化していった。

  第三章「総督府による台湾人包摂の試み」は、総督府と台湾人側との間に徐々に対話が 生まれるようになった過程を描いている。

第一節「下村宏民政長官による台湾人の包摂」では、世界的な民族自決の風潮、台湾人 自身の文化的・政治的な成長、台湾内での教育制度の充実、内地への留学経験者の増加、

台湾議会設置請願運動を中心とした運動家ネットワークの成長による台湾人の発言力の増 加など、台湾社会内部の変化に対応して、総督府でも、従来の武断的統治の方針を変更し て、台湾人の意向を踏まえた統治をせざるをえなくなったことを述べる。 

この時期に民政長官となった下村宏は、台湾人を完全に大和民族にするのは無理だと見 て、日本帝国の臣民として台湾人を包摂することを目指し、台湾人を無理に同化させよう とはしなかった。いわば限定的な同化を目指した。それは辛亥革命以後の中国の影響に感 化されないようにするためであり、他方では第一次世界大戦後の総力戦体制の時代におい て、台湾人を日本帝国の一部に組み込む必要があったためでもある。

さらに下村は、台湾統治も 20 年を経過して、内地人と本島人との間では、言語、風俗、

習慣が近似してきたので、本島人の意向を組入れるための諮詢機関を設置すべきことを提 言した。これが後に評議会の新設に繋がった。

第二節「台湾統治への異なる認識」では、①積極的に総督府と協力し、経済的・政 治的に成長した財閥の辜顕栄、②資産家として生まれながら、台湾議会設置請願運動 などの台湾自治運動に取り組んだ林献堂、③保正と呼ばれる保甲制の責任者を務めた 張麗俊、④明治37年に総督府国語学校を卒業して台湾銀行に入り、明治 43年に文官 試験に合格、台北地方法院書記官になり、その後、明治大学を卒業、湖南省の政治研 究所教授を務めた後、再び大正 8 年に日本へ戻って『台湾青年』雑誌社の幹事となっ た林呈禄、⑤明治40年に総督府国語学校師範部に入学し、卒業後公学校の教師になり、

大正 4 年に林献堂の支援を受けて東京高等師範学校理科に入学、林の指導下で台湾議 会請願運動を担った蔡培火などの台湾人を取り上げ、彼等がそれぞれ異なる仕方で、

統治に協力し、かつ体制内での改善要求をしていたことを考察する。

また治安維持法違反事件である「治警事件」を取り上げ、すでに台湾人たちが内地人同 様に遵法的な政治運動の仕方を身につけ、体制内で改革を求める心構えを身につけていた ことを指摘している。

  第四章「植民地官僚の統治改革構想」第一節「植民地官僚の官僚性と統治能力」では、

文官総督時期の官僚の経歴を分析して、台湾総督府は朝鮮総督府や内務省と比べると内地 の政治力学上は弱い立場に立っていたこと、次官クラスのその後の出世を見ると朝鮮総督 府が内地に対して相対的に強い政治力を持っていたこと、それに対して台湾総督府の官僚

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には植民地経験の豊富なものが多数存在し、行政事務に関する専門書を著す傾向を持ち、

行政の専門家としての力量を示していることなどを指摘している。

第二節「石塚英蔵総督の改革構想と挫折」では、複数の植民地を渡り歩いた石塚英蔵を 取り上げる。石塚は、帝国大学法科卒業後、法制局に入ったが、その後、韓国顧問官、台 湾総督府参事官長、関東州民政長官、朝鮮総督府参与官、同取調局長官、同農商工部長官、

東洋拓殖株式会社総裁などを歴任し、1929 年から 31 年にかけて台湾総督府の総督を務め た。彼は「内治人」「本島人」と差別して呼ぶことを撤廃すべきであると考えていた人物で あって、台湾人の政治参加要求を踏まえて、地方社会の行政に台湾人が参加できるような 改革を志していた。

台湾においては、行政事務補助を円滑に行うため、警察権を利用して郡守が台湾人に関 する行政事務を行っていた。警察による行政事務の補助であって、これを「助長行政」と いう。その事務は、道路や橋梁の改修築から納税督促、手数料調整、度量衡事務、就学の 奨励など多岐に亘っている。助長行政はあくまでも台湾領有後の過渡的な措置として始め られたが、いつしかそのまま慣行として定着してしまった。しかし、①郡守が職権濫用に よって警察業務を妨害しようとすること、②郡警一体にともなう警察官の業務負担の増大、

③警察の威圧を受けながら行政事務負担を担うため、台湾人が警察に対して反感を持つこ と、などの理由で、両者を分離すべきであるという意見があった。

石塚は、この郡警分離問題を通じて台湾統治改革に取り組んだ。郡警分離によって、台 湾人の政治参加機会を増やすことが出来、また郡守が地方の民政と産業育成に専念できる からである。石塚は、現地社会の自治要求を理解し、台湾人との対話を通じた新しい統治 を目指していた。石塚総督の政策は、台湾人からも熱い視線で期待されていた。しかし、

内地の拓務省が政策実施のための予算を与えず、石塚総督の改革は結局、挫折した。

第三節「石塚英蔵小伝並びに重要資料紹介」は、これまで殆んど顧みられてこなかった 石塚英蔵という人物の経歴を調べ、また石塚の「台湾に関する意見書」「海外植民地統治視 察報告」「満州国皇帝溥儀への世界の民族問題に関する御進講」を翻刻紹介したものである。

  第五章「秩序認識の齟齬」では、内地・総督府の台湾社会に対する認識が必ずしも十分 でなかったこと、台湾社会の意思が総督府へと吸い上げられる仕組みがなかったことを指 摘し、それが台湾社会を潜在的に不安定にしていたと分析する。

第一節「霧社事件に見る先住民政策」では、1930年に起った抗日蜂起事件である霧社事 件を扱っている。霧社は、先住民統治の理想郷と考えられてきた。ところが、その理想郷 であるはずの霧社において日本人 130 余名が殺害される事件が起こった。霧社では、総督 府には見えない不満が溜まっていたのである。

総督府の指導で、衛生状況も人口数も上向きであった霧社であったが、先住民にとって は、伝統生活の急変に耐えられず、変化をもたらした日本人への不満が溜まる一方であっ た。総督府側は、生活が改善されたことを以て善政を行っていると考えていたが、先住民

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側にとっては、伝統的な狩猟生活や首狩が制限ないしは禁止され、不満の原因となってい たのである。

そのため、総督府側では米作や麻糸や生糸の生産を奨励し、道路工事や木材の運搬作業 を与え、現金収入の機会を増やした。しかし、霧社には米作を十分に展開するだけの耕地 がなく、地味も薄かった。また、先住民が生産した商品作物の買い上げは、「蕃人交易所」

で警察官の管理のもとに行われた。ところが警察官が不正を行っているという噂が流れ、

真実如何に関わらず先住民の間に警察に対する不信感が生じた。労働賃金の支払いに関し ても、警察官が横領したという疑いが起こっていた。また市場価値の変動が収益の不安定 さにつながり、不満をもたらしていた。霧社の先住民たちは極力、日本人のもたらした新 しい環境変化に適応しようとしたが、不満は解消されなかった。それが、虐殺事件につな がったのである。

総督府では、先住民のこのような不満を十分に汲み取ることができなかった。先住民理 解に限界があった。

第二節「制約された自主性と異なる台湾統治像」では、林献堂や蔡培火ら台湾人政治指 導層の言論から、台湾社会の閉塞感を紹介している。彼等は満州問題との比較という形を 借りつつ、議会設置問題など台湾支配の問題点を挙げていた。そしてそれは、実際には支 配者の植民地認識不足を批判するものであった。

文官総督たちによる統治改革の進展によって、台湾人の側でも自らを日本人の一員とし て認識するものも出てきたが、台湾人の自治権拡充は十分に進まなかった。なぜなら、台 湾人の自治権拡大は、台湾の帝国からの独立につながるとして警戒されたためである。台 湾人は、思うように進展しない政治的権限の拡大に苛立ちを感じていた。

総督府は、諸外国の植民地支配と比較し、諸外国並みに台湾統治を改善することに主眼 を置いていた。1935年の地方自治制改正によって、台湾人も、選挙を通じて議員となり、

地方政治の予算や議決に関与することができるようになったが、これは蘭領ジャワ、仏領 インドシナと比較して、台湾統治を見劣りしないものにするためであった。台湾人の政治 生活の向上というよりも、外国人の目を意識した改善であった。

1936 年 9月に中川健蔵総督が去ってから、再び総督は武官に戻る。1944 年には大東亜 戦争の悪化に伴って台湾人の徴兵も始まり、これと引替えに衆議院議員選挙法が改正され、

台湾人を帝国議会に送ることが出来るようになった。確かにこれは、台湾人にとって待遇 改善ではあったけれども、反面では、台湾人を戦争協力体制に組み込むための政策であっ たのである。

(四)本論文に対する評価

本論文は、日本の台湾統治の全時期を対象として、統治のあり様の変遷を一貫して捉え ようとしたものである。しかも、「包摂」「適応」「自主」という副題からもわかるように、

日本側の立場からだけで考察するだけでなく、台湾人側が統治に対してどのような対応を

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したのかも含めて分析している。

そのために本論文著者は、総督府の作成した『台湾総督府公文類纂』、後藤新平民政長官 の『後藤新平文書』、下村宏民政長官の『下村宏文書』、伊沢多喜男総督の『伊沢多喜男文 書』、石塚英蔵総督(元参事官長)の『石塚英蔵文書』など日本側の史料を活用するばかり でなく、台湾人運動家の中心人物だった林献堂の『灌園先生日記』、彼の右腕であった蔡培 火の『蔡培火全集』、台湾人向けの新聞『台湾新民報』、代表的御用紳士であった辜顕栄の 書簡や献策、地方名望家張麗俊の『水竹居人日記』なども丹念に読み込んでいる。このよ うに、本論文著者が、複雑な台湾統治を、日台双方の史料を利用して、客観的に、バラン スよく描き出そうとした点は、大いに評価すべきであろう。

また従来の植民地史研究に往々に見られる「支配」「被支配」という図式的な観方からで なく、総督府側と台湾人側との協力関係に視点をすえ、双方の視点から統治の実像を捉え ようとしている点も、新しい試みとして評価してよいであろう。

  そもそも本論文著者がこのような形で論文を纏めるに到った発端は、第五章第一節「霧 社事件に見る先住民政策の限界」を考察したことにあった。本節執筆当時、霧社事件は、

台湾統治に対する先住民の抵抗事件の象徴として描かれていた。

しかし霧社事件が発生したのは、台湾統治が開始されてから 25 年も経ってからである。

この間に霧社では、総督府の統治を受け入れ、日本人警察官と先住民とが結婚をする例も あり、また先住民が日本人化して警察官として働いたりする例もあった。従って、霧社は、

日本人の目から見れば、まさに台湾統治の「理想郷」であった。そのような「理想郷」で、

いったい何故に130余名の日本人が殺される事件が発生したのか。

本論文著者は、このような疑問を持って研究を進めるうちに、台湾統治が開始されて以 降、霧社地域の先住民の人口が増加していることに気付いたのである。先住民の人口が増 加したのは、台湾統治によって衛生状態、栄養状態がよくなった証拠であって、総督府側 から見れば善政の結果であるが、しかしその反面、人口増加に伴って、先住民たち、とり わけ若者たちの生業が不十分となっていた。伝統的な狩猟も制限されていたため、青年層 には次第に不満が蓄積され、日本側が提供した新たな商品作物の生産や道路工事などの労 働も、その不満を解消するには十分ではなかった。そして結局、青年たちが、霧社の頭目 モーナ・ルーダオを旗印として結集し、蜂起した。日本人側は、先住民の不満を十分に汲 み取ることが出来なかったのである。

本論文著者が、「人口増加」という現象に注目し、その一つの現象が、日本人側にとって は好結果と理解され、逆に先住民側にとっては不満の発端となっていたことを見出したこ とは、全く独創的見解であって、著者の着眼は敬服に値する。本論文著者は、この論文執 筆を契機として、台湾統治史の全体像を「協力」とその限界という視点で捉えなおそうと したのであった。そしてその所期の目的は、ほぼ達成されたといってもいいであろう。

  ただし、本論文にもなお彫琢を加えるべきところがある。その一つは、本論文著者が自 ら設定した「包摂」「適応」「自主」という枠組みに自ら囚われすぎているという点である。

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歴史は単純ではない。本論文著者は後藤新平を「包摂」の部類に入れて描いているが、後 藤に武断的な側面があったことは確かである。

  第二は、日台関係に注目するあまり、日中関係や世界史上の動向への目配せが欠けてい る点である。1910年以降、大陸では革命が起き、台湾人も大陸を意識し始めた。1915年の いわゆる対華二十一箇条要求以降には日中関係が険悪になって行った。また1930年代以降 になると国際共産主義運動があった。これらの出来事が日本の台湾統治、そして台湾社会 に何がしかの影響を及ぼしていることは確実である。本論文中にも若干の言及は見られる が、しかしもう少し関連付けて叙述をする必要があるのではなかろうか。

  第三は、著者は「植民地官僚」という言葉を多用し、実際に複数の官僚を取り上げてい るが、彼等以外にも影響力を持っていた官僚は数多く存在していたはずであり、その官僚 たちの思想や政策ももう少し追求すべきであろう。

そして第四番目として、当時各大学で開講されていた「植民地学」への言及が殆んど見 られないことである。植民地学がどのような内容のものであり、また日本の台湾統治につ き、植民地学が実際に影響したのかしなかったのか、この点も明らかにする必要があろう。

  しかしこれらの点はいずれも望蜀の言というべきものであって、本論文の価値を些かで も貶めるものではない。本論文著者が提示した「協力関係」という視角、そして「包摂」

と「自主」という視点は、今後とも植民地史研究の上で有効な視点の一つとなるであろう。

  よって我々は、本論文が「博士(学術)」の学位に値するもとのと認め、ここに推薦する 次第である。

審査委員

主任審査員  早稲田大学社会科学総合学術院教授      島  善高 審  査  員  早稲田大学社会科学総合学術院教授      内藤  明 審  査  員  早稲田大学社会科学総合学術院教授  博士(文学)東京大学    劉    傑 審  査  員  早稲田大学社会科学総合学術院教授  博士(文学)早稲田大学  笹原宏之 審  査  員  早稲田大学政治経済学術院教授      Ph.D      シカゴ大学   梅森直之

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