九一 駒澤大学佛教學部論集 第四十五號 平成二十六年十月
明庵栄西の在宋中の動静について(下)
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虚庵懐敞が天童山に陞住する
淳 煕 一 六 年 ︵ 一 一 八 九 ︶ に 虚 庵 懐 敞 は 台 州 ︵ 浙 江 省 ︶ 天 台 県 の 天 台 山 中 の 万 年 報 恩 光 孝 禅 寺 か ら 明 州 ︵ 浙 江 省 ︶ 鄞 県 東 六 〇 里 の 天 童 山 景 徳 禅 寺 へ と 陞 住 し て い る。 天 童 山 と い え ば、 か つ て 栄 西 が 訪 れ た 阿 育 王 山 広 利 禅 寺 と 並 ぶ 明 州 鄞 県 内 の 名 刹 で あ り、 後 に は 東 浙 ︵ 浙 江 省 東 部 ︶ 第 一 の 大 刹 と し て、 南 宋 の 禅 宗 五 山 の 第 三 位 に 列 し て い る。 お そ ら く 懐 敞 は 状 況 的 に 本 師 で あ る 雪 庵 従 瑾 ︵ 惟 瑾 と も、 一 一 一 七 │ 一 二 〇 〇 ︶ の 後 席 を 継 ぐ か た ち で 天 童 山 へ と 遷 住 し た も の と 見 ら れ、 こ の と き 栄 西 も 懐 敞 に 随 侍 し て 天童山に掛搭している。 ﹃扶桑五山記﹄一﹁天童住持位次﹂によれば、 十五、 交禅師。十六、 宏智覚禅師。十七、 為禅師。十八、 大休珏禅師。十九、 応菴華禅師。二十、 慈航朴禅師。廿一、 密菴傑禅師。廿二、 雪菴瑾禅師。廿三、虚菴敞禅師。 と な っ て お り、 十 二 世 紀 に お け る 天 童 山 住 持 の 変 遷 が 知 ら れ る。 十 二 世 紀 の 天 童 山 は 概 ね 曹 洞 宗 と 臨 済 宗 黄 龍 派 そ れ に 臨 済 宗 楊 岐 派 ︵ 虎 丘 派 ︶ の 禅 者 に よ っ て 住 持 職 が 維 持 さ れ て い た と い っ て よ い。 北 宋 最 末 期 に 天 童 山 の 住 持 を 勤 め て い た の は 黄 龍 派 の 天 童 普 交 ︵ 一 〇 四 八 │ 一 一 二 四 ︶ で あ っ た が、 当 時 の 天 童 山 は い ま だ 修 行 僧 二 〇 〇 衆 を 擁 す る 程 度 の 中 堅 叢 林 に す ぎ な か っ た。 北 宋 末 南 宋 初 の 動 乱 期 に 曹 洞 宗 の 宏 智 正 覚 ︵ 宏 智 禅 師、 大 覚、 隰 州 古 仏、 一 〇 九 一 │ 一 一 五 七 ︶ が 普 交 の 後 席 を 継 ぐ よ う な か た ち で 入 院 開 堂 す る と、 一 躍、 天 童 山 は 一 二 〇 〇 衆 も の 修 行 僧 を 抱 え る 大 叢 林 へ と 膨 れ 上 が っ て い る。 正 覚 は 天 童 山 第 一 六 世 中 興 と し て 実 に 三 〇 年 間 に わ た っ て 化 導 を 敷 き、 僧 堂 や 千 仏 閣 な ど 伽 藍 堂 宇 の 拡 充 整 備 に も 奔 走 し た と さ れ る。 正 覚 と い え ば 坐 禅 を 重 視 し た 黙 照 の 禅 風 を 振 っ た こ と で 名 高 い が、 寺 の 経 営 面 の 手 腕 に も 優 れ て お り、 こ の 間、 天 童 山 は ま さ に 曹 洞 宗 旨 一 色 の 感九二 明庵栄西の在宋中の動静について︵下︶ ︵佐藤︶ すら呈していたわけである。 宏 智 正 覚 が 紹 興 二 七 年 ︵ 一 一 五 七 ︶ 一 〇 月 に 示 寂 し た 直 後 は、 宏 智 下 の 大 洪 法 為 が 楊 岐 派 ︵ 大 慧 派 祖 ︶ の 大 慧 宗 杲 ︵ 仏 日 禅 師、 大 慧 普 覚 禅 師、 一 〇 八 九 │ 一 一 六 三 ︶ の 推 挙 で 第 一 七 世 を 継 承 し て お り、 つ づ い て 正 覚 と 同 門 に 当 た る 真 歇 清 了 ︵ 寂 庵、 悟 空 禅 師、 一 〇 八 八 │ 一 一 五 一 ︶ の 高 弟 で あ る 大 休 宗 珏 ︵ 小 珏、 一 〇 九 一 │ 一 一 六 二 ︶ が 第 一 八 世 に 招 か れ て い る。 こ の よ う に 十 二 世 紀 の 中 葉 ま で は 正 覚・ 法 為・ 宗 珏 の 三 代 に わ た っ て 天 童 山 で は 曹 洞 宗 旨 が 挙 揚 さ れ、 か な り の 影 響 力 を も っ て 江 南 禅 林 に 受 用 さ れ て い た と 見 ら れ る。 真 歇 派 の 宗 珏 は い う ま で も な く 入 宋 求 法 し た 日 本 の 道 元 ︵ 仏 法 房、 一 二 〇 〇 │ 一 二 五 三 ︶ に と っ て 法 統 の 曾 祖 父 に 当 た る 禅 者 で あ り、 宗 珏 の 墓 塔 が 立 て ら れ た 天 童 山 の 南 谷 庵 に は、 後 に 道 元 の 本 師 で 天 童 山 第 三 一 世 と な っ た 真 歇 派 の 長 翁 如 浄 ︵浄長、一一六二│一二二七︶ の遺骨も奉安されている。 しかしながら、 宗珏が紹興三二年 ︵一一六二︶ 八月に示寂して後、 法孫の如浄が嘉定一七年 ︵一二二四︶ 秋に入寺するまで、 実 に 半 世 紀 以 上 に わ た っ て 天 童 山 で は 曹 洞 禅 者 の 入 寺 が 途 絶 え て い る。 し か も 楊 岐 派 ︵ 虎 丘 派 ︶ の 応 菴 曇 華 ︵ 一 一 〇 三 │ 一 一 六 三 ︶ が 宗 珏 の 後 席 を 継 い で 第 一 九 世 と な っ て い る が、 こ の 人 の 住 持 期 間 は き わ め て 短 期 に 限 ら れ て い た。 そ の 後、 黄 龍 派 の 慈 航 了 朴 が 近 隣 の 阿 育 王 山 広 利 寺 か ら 迎 え ら れ、 お よ そ 二 〇 年 も の 長 き に わ た っ て 天 童 山 の 第 二 〇 世 住 持 を 勤 め て い る 1 。 こ の と き 了 朴 の 後 席 を 継 い で 阿 育 王 山 に 住 持 し た の が 大 慧 派 の 普 門 従 廓 ︵ 妙 智 禅 師、 一 一 一 九 │ 一 一 八 〇 ︶ で あ り、 か つ て 第 一 次 の 入 宋 の 際 に 栄 西 が 重 源 と と も に 阿 育 王 山 の 従 廓 に 参 じ た こ と は す で に 触 れ た 通 り で あ る。 了 朴 が 示 寂 し た 年 月 日 は 明 確 で な い が、 応 庵 曇 華 の 法 嗣 で あ る 虎 丘 派 の 密 庵 咸 傑 ︵ 一 一 一 八 │ 一 一 八 六 ︶ が し ば ら く 第 二 一 世 住 持 に 就 任 し た も の の、 そ の 後 は 再 び 黄 龍 派 の 雪 庵 従 瑾 と 虚 庵 懐 敞 が 師 資 二 代 に わ た っ て 天 童 山 住 持 を 継 承 し て い る。 し た が っ て、 十 二 世 紀 の 後 半 に 天 童 山 を 実 質 的 に 維 持 管 理 し て い た の は、 第 二 〇 世 の 慈 航 了 朴 と 第 二 二 世 の 雪 庵 従 瑾 お よ び 第 二 三 世 の 虚 庵 懐 敞 と い う 黄 龍 派 の 禅 者 た ち で あ っ た こ と に な り、 当 時、 黄 龍 派 は 勢 力 を 急 速 に 失 い つ つ あ っ た に も 拘 わ ら ず、 明 州 の 天 童 山 と 台 州 天 台 山 の 万 年 寺 を 中 心 に 法 燈 の 孤 塁 を 死 守 し て い た と 見 な け れ ば な ら な い。 と り わ け 南 宋 代 に お け る 天 童 山 の 歴 史 の 上 で 中 興 で あ る 曹 洞 宗 の 宏 智 正 覚 と と も に 重 要 な は た ら き を な し た の が 黄 龍 派 の 了 朴 と 懐 敞 な の で あ る。 し か も 栄 西 が 天 童 山 の 懐 敞 の も と に 掛 搭 し て い た 当 時、 杭 州 餘 杭 県 西 北 の 径 山 興 聖 万 寿 禅 寺 ︵ も と は 能 仁 禅 院 ︶ に は 同 じ 黄 龍 派 の 塗 毒 智 策 ︵ 涂 毒 と も、 巌 主、 一 一 一 七 │ 一 一 九 二 ︶ が 珍 し く も 住 持 と し て 孤 軍 奮 闘 し て お り、 ﹃ 攻 媿 集 ﹄ 巻 一 一 〇﹁ 塔 銘 ﹂ に 載 る﹁ 径 山 涂 毒 禅 師 塔 銘 ﹂ も 十 二 世 紀 末 葉 の 黄 龍 派 の 状 況 を 窺 う 上
九三 明庵栄西の在宋中の動静について︵下︶ ︵佐藤︶ で重要な伝記史料となっている。 い ず れ に せ よ、 十 二 世 紀 の 後 半 に 天 童 山 が 慈 航 了 朴・ 雪 庵 従 瑾・ 虚 庵 懐 敞 と い う 黄 龍 派 の 諸 禅 者 に よ っ て 維 持 さ れ て い た こ と は、 同 じ 時 期 に 近 隣 の 阿 育 王 山 広 利 寺 が 楊 岐 派 ︵ 大 慧 派 祖 ︶ の 大 慧 宗 杲 か ら 大 円 遵 璞 ︵? │ 一 一 六 〇 ︶ ・ 普 門 従 廓 さ ら に 拙 庵 徳 光 ︵東庵、 仏照禅師、 一一二一│一二〇三︶ へとほぼ大慧派の禅者によって維持されていたのと比較すると、 きわめて対照的であっ た と い え る 2 。 と り わ け、 十 三 世 紀 に 入 る と、 黄 龍 派 は 地 を 払 っ た か の ご と く 人 材 を 欠 き、 ほ ぼ 江 南 禅 林 か ら 法 統 が 途 絶 え て い る の で あ る か ら、 そ う し た 状 況 を 踏 ま え れ ば、 十 二 世 紀 末 葉 に 再 入 宋 し た 栄 西 が 黄 龍 派 の 懐 敞 と 契 当 し、 天 台 山 か ら 天 童 山 に 赴くことができたのは希有なるできごとであったと見なければならない。
栄西の師翁雪庵従瑾のこと
懐 敞 の 前 住 と し て 天 童 山 に 住 持 し て い た の は、 す で に 触 れ た ご と く 懐 敞 の 本 師 に 当 た る 雪 庵 従 瑾 で あ り、 栄 西 に と っ て 従 瑾 は 法 統 の 師 翁 ︵ 祖 翁 ︶ と い う こ と に な る。 栄 西 が 万 年 寺 で 懐 敞 に 参 学 し て い た 当 時、 天 童 山 は 従 瑾 に よ っ て 維 持 さ れ て い た わ け で あ る。 そ の 後、 淳 煕 一 六 年 に 懐 敞 が 天 童 山 に 入 寺 し た 際 も、 従 瑾 は い ま だ 健 在 で あ っ た こ と か ら、 果 し て 天 童 山 の 前 住 と し て そ の 後 も 寺 内 に 留 ま っ て い た の か、 他 所 に 赴 い て い た の か が 明 確 で な い。 そ の た め 栄 西 が 師 翁 の 従 瑾 と 相 見 す る 機 会 が 存 し た の か 否 か も 興 味 深 い 課 題 の 一 つ と い え よ う。 従 瑾 に 関 し て は﹃ 増 集 続 伝 燈 録 ﹄ 巻 一﹁ 四 明 天 童 雪 庵 従 瑾 禅 師 ﹂ の 章 が 存 し て いるが、上堂などの部分を省略して示すならば、つぎのごとくである。 永嘉楠渓人、 俗姓鄭。礼 二普安院子回 一、 為 レ師落髪。謁 二心聞於瑞巌 一、一日入室、 聞 下挙 二紅爐片雪 一問 上、 師擬 レ答忽領 レ旨。留待三年、 入 二福州 一 見 二仏智于西禅 一。 問、 甚麼処来。 師曰、 四明来。 智曰、 曾見 二憨布袋 一麼。 師便喝。 智便打。 師接 二住拳 一云、 和尚不 レ得 二草草 一。 智云、 瞎漢這辺立。 時 心 聞 主 二江 心 一。 師 帰 謁、 命 充 二維 那 一。 一 日 問 レ師、 一 喝 分 二賓 主 一、 照 用 一 時 行、 如 何 是 一 喝 分 二賓 主 一。 師 便 喝。 聞 云、 此 喝 是 賓 是 主。 師 云、 賓則始終賓、 主則始終主。聞笑曰、 汝又眼花了。師即呈 レ偈云、 一喝分 二賓主 一、依然又眼花、 倒飜 二筋斗 一去、 蹈 二殺死蝦蟆 一。初住 二儀真霊巌 一。︵中 略︶慶元六年七月二十三日、索 レ浴更 レ衣、書 レ偈投 レ筆而寂。寿八十四、臈七十。全身葬 二心聞塔之左 一。 こ の よ う に﹃ 増 集 続 伝 燈 録 ﹄ の 従 瑾 の 章 は 伝 記 的 な 記 事 が 比 較 的 少 な く、 と く に 開 堂 出 世 し て 以 降 の 詳 細 に つ い て は ほ と ん ど明らかでない。一方、 従瑾の出身地の地誌である﹃乾隆温州府志﹄巻二六﹁仙釈︿宋﹀ ﹂には﹁従瑾﹂の項が収録されており、九四 明庵栄西の在宋中の動静について︵下︶ ︵佐藤︶ 従 瑾。 永 嘉 南 渓 鄭 氏 子。 初 依 二資 福 院 円 辯 一問 レ義。 復 参 二龍 翔 心 聞 一、 自 レ 此 生 機 頓 発、 妙 用 縦 横。 文 恵 公 問 二心 聞 一、 得 二宗 門 骨 髄 一為 レ誰。 曰、 瑾 見 地 明 白、 輔 以 二英 資 一、 老 僧 不 レ及 也。 師 住 二象 山 智 門 香 燈 院・ 鴈 山 能 仁・ 龍 翔 凡 一 十 一 刹 一。 毎 住 不 レ過 二三 年 一輒 去。 曰、 古 人 戒 レ宿 二桑 下 一、畏 レ留 レ情也。退 二居鹿園庵 一。年八十四、書 レ偈而寂。世称 二雪菴和尚 一。 と い う 記 事 が 見 出 さ れ る。 そ こ に は 伝 記 面 が 比 較 的 多 く 記 さ れ て い る こ と か ら、 ﹃ 増 集 続 伝 燈 録 ﹄ の 記 載 と 兼 ね 合 わ せ る こ と に よ っ て、 従 瑾 の 事 跡 は か な り 解 明 す る こ と が で き る。 そ こ で﹃ 増 集 続 伝 燈 録 ﹄ と﹃ 乾 隆 温 州 府 志 ﹄ の 記 事 を 踏 ま え て 従 瑾 の 事 跡を一通り整理して見ることにしたい。 従 瑾 は 温 州 ︵ 浙 江 省 ︶ 永 嘉 県 楠 渓 の 鄭 氏 の 出 身 で あ り、 示 寂 年 時 と 世 寿 を 逆 算 す る と 北 宋 末 期 の 政 和 七 年 ︵ 一 一 一 七 ︶ に 出 生 し て い る。 そ の 後、 郷 里 の 普 安 院 に お い て 子 回 を 受 業 師 と し て 出 家 剃 髪 し て お り、 一 四 歳 の 頃 に 具 足 戒 を 受 け て い る。 初 め に 郷 里 の 資 福 院 の 円 辯 に 就 い て 修 学 し て お り、 台 州 黄 巌 県 の 瑞 巌 浄 土 禅 院 に 赴 い て 黄 龍 派 の 心 聞 曇 賁 に 参 じ て 旨 を 得 て い る。 留 まること三年にして福州 ︵福建省︶ の怡山西禅長慶寺に到って楊岐派の蓬庵端裕 ︵仏智禅師、 一〇八五│一一五〇︶ のもとに投じて 問答を交わしている。その後、 曇賁が温州永嘉県の江心山龍翔寺に住持したため、 そのもとに帰参して維那となり、 ﹁臨済四賓主﹂ の 問 答 商 量 に よ っ て 法 を 嗣 い で い る。 ﹃ 乾 隆 温 州 府 志 ﹄ に よ れ ば、 文 恵 公 す な わ ち 宰 相 の 史 浩 ︵ 字 は 直 翁、 真 隠 居 士、 一 一 〇 六 │ 一 一 九 四 ︶ に﹁ 宗 門 の 骨 髄 を 得 た る は 誰 ぞ ﹂ と 問 わ れ た 曇 賁 が﹁ 瑾 は 見 地 明 白 に し て、 輔 く る に 英 資 を 以 て す、 老 僧 も 及 ば ざ る なり﹂と答え、法嗣の従瑾を第一に挙げたという逸話を載せているから、従瑾が如何に曇賁の信認を得ていたかが偲ばれる。 従 瑾 が 開 堂 出 世 し た の は 真 州 ︵ 江 蘇 省 ︶ 儀 真 県 の 霊 巌 禅 寺 で あ っ た と さ れ、 そ の 後、 従 瑾 は 合 わ せ て 一 一 ヶ 寺 の 住 持 を 勤 め た と 伝 え て い る。 た だ し、 住 持 地 が 判 明 し て い る の は 真 州 の 霊 巌 寺 の ほ か に は 明 州 象 山 県 の 智 門 香 燈 院 と 温 州 楽 清 県 の 雁 蕩 山 能 仁 禅 寺 と 温 州 永 嘉 県 の 江 心 山 龍 翔 禅 寺 お よ び 明 州 鄞 県 の 天 童 山 景 徳 禅 寺 で あ っ て、 わ ず か 五 ヶ 寺 し か 知 ら れ て い な い の が 惜 し ま れ る。 ﹃ 乾 隆 温 州 府 志 ﹄ に よ れ ば﹁ 毎 に 住 す る こ と 三 年 を 過 ご さ ず し て 輒 ち 去 る ﹂ と あ る か ら、 従 瑾 は 頻 繁 に 住 持 地 を 変 え た ものらしく、各寺院での住持期間はいずれも三ヶ年を越えることがなかったと伝えられる。 従 瑾 が 示 寂 し た の は 慶 元 六 年 ︵ 一 二 〇 〇 ︶ 七 月 二 三 日 で あ り、 ﹃ 増 集 続 伝 燈 録 ﹄ に よ れ ば、 こ の と き 世 寿 は 八 四 歳、 法 臘 は 七 〇 齢 で あ っ た と さ れ、 あ た か も そ れ ま で 天 童 山 の 住 持 を 勤 め て い た か の ご と く 記 載 さ れ て い る。 し か し な が ら、 懐 敞 が 天 童 山 に 住 持 し た 淳 煕 一 六 年 に は 従 瑾 は 天 童 山 を 退 い て い た こ と に な り、 そ の 後、 一 〇 年 あ ま り の 期 間 を 従 瑾 が 東 堂 と し て 天 童 山
九五 明庵栄西の在宋中の動静について︵下︶ ︵佐藤︶ 内に留まっていたのか、 他山の住持として遷住したのかは定かでない。ちなみに密庵咸傑が示寂したのは淳煕一三年 ︵一一八六︶ 六 月 一 二 日 の こ と で あ り、 そ の 後、 従 瑾 に 対 し て 天 童 山 か ら 住 持 要 請 が 行 な わ れ た と す る と、 従 瑾 が 天 童 山 に 入 寺 し た の は 淳 煕 一 三 年 の 後 半 か 淳 煕 一 四 年 ︵ 一 一 八 七 ︶ の 初 め で あ っ た も の と 見 ら れ、 淳 煕 一 六 年 に 懐 敞 に 後 席 を 譲 っ て 天 童 山 を 退 住 し た と すると、従瑾の天童山住持期間は三年ほどにすぎなかったことになり、まさに﹃乾隆温州府志﹄に言うところと合致している。 そ の 後 の 従 瑾 の 事 跡 は 明 確 で は な い が、 興 味 深 い の は﹃ 建 隆 温 州 府 志 ﹄ に﹁ 鹿 園 庵 に 退 居 す ﹂ と あ り、 ﹃ 増 集 続 伝 燈 録 ﹄ の 従 瑾 章 の 末 尾 に は﹁ 全 身 は 心 聞 塔 の 左 に 葬 る ﹂ と 伝 え ら れ て い る こ と で あ ろ う。 こ れ ら に よ れ ば、 従 瑾 は 晩 年 に 鹿 園 庵 と い う 隠 居 所 に 退 居 し、 慶 元 六 年 七 月 に 示 寂 し た 際 に は 墓 塔 が 本 師 心 聞 曇 賁 の 墓 塔 の 左 に 葬 ら れ た こ と が 知 ら れ る。 明 代 初 期 の 史 料 な がら﹃続伝燈録﹄巻三三﹁台州万年心聞曇賁禅師﹂の章によれば、 台 州 万 年 心 聞 曇 賁 禅 師。 永 嘉 人。 住 二江 心 一。︵ 中 略 ︶ 四 明 太 守 以 二雪 竇 一命 レ師 主 レ之。 師 辞 以 レ偈 曰、 閙 籃 方 喜 得 レ抽 レ頭、 退 鼓 而 今 打 未 レ休、 莫 下把 二乳峰千丈雪 一、重来換 中我一双眸 上。 という記載が存している。 曇賁は従瑾と同じ温州永嘉県の出身であり、 黄龍派の無示介諶 ︵一〇八〇│一一四八︶ の法を嗣いでおり、 台 州 黄 巌 県 の 瑞 巌 浄 土 禅 院 に 開 堂 出 世 し た 後、 永 嘉 県 の 甌 江 の 中 洲 に 存 す る 江 心 山 龍 翔 禅 寺 に 住 持 し、 最 後 に 天 台 山 の 万 年 寺 に 遷 住 し て い る。 た だ し、 史 浩 の 詩 文 集 で あ る﹃ 鄮 峰 真 隠 漫 録 ﹄ 巻 三 五﹁ 賛 ﹂ に は﹁ 永 嘉 長 住 二長 蘆 一心 聞 賁 師 真 賛 ﹂ と い う 真 賛が存しているから、 曇賁は江心山龍翔寺に住持した後に真州 ︵江蘇省︶ 儀徴県の長蘆崇福禅院に遷住したものらし い 3 。その後、 曇 賁 は 長 蘆 寺 か ら 天 台 山 の 万 年 寺 に 遷 住 し て お り、 明 州 奉 化 県 の 雪 竇 山 資 聖 禅 寺 よ り 住 持 就 任 の 要 請 が 存 し て も、 こ れ を 辞 退 し て 万 年 寺 に 止 ま っ た こ と が 伝 え ら れ て い る。 こ う し た 点 を 踏 ま え る と、 曇 賁 の 墓 塔 は 万 年 寺 の 一 隅 に 建 て ら れ た は ず で あ り、 従 瑾 の 墓 塔 も こ れ に 隣 接 し て 存 し た と す れ ば、 同 じ く 万 年 寺 に 建 て ら れ た と 解 す る の が 自 然 で あ ろ う。 お そ ら く 従 瑾 は 最 晩 年 を 万 年 寺 で 過 ご し て い た も の と 見 ら れ、 若 干 の 推 測 を 踏 ま え て 考 察 を 加 え る な ら ば、 老 齢 に 達 し た 従 瑾 が 天 童 山 の 住 持 を 法 嗣 の 懐 敞 に 譲 っ て、 自 ら は 懐 敞 と 交 代 す る か の ご と く 万 年 寺 に 到 り、 最 初 は 住 持 と し て 同 じ く 三 年 ほ ど を 勤 め、 そ の 後 は 退 住 し て 東 堂 と し て 寺 内 の 鹿 園 庵 に 余 生 を 送 っ た も の で は な か ろ う か。 天 童 山 を 懐 敞 に 譲 っ て 一 〇 年 を 経 た 慶 元 六 年 ︵ 一 二 〇 〇 ︶ 七 月 二三日、従瑾は万年寺内に存した鹿園庵で最期を迎え、本師曇賁の眠る墓塔の横に葬られたものと推測しておきた い 4 。 従 瑾 が 示 寂 し た の は 慶 元 六 年 七 月 に 至 っ て の こ と で あ る か ら、 栄 西 が 在 宋 中 に 天 童 山 と 万 年 寺 の 間 を 往 来 し て い た と す れ ば、
九六 明庵栄西の在宋中の動静について︵下︶ ︵佐藤︶ 万 年 寺 の 一 角 に 住 持 な い し 隠 棲 し た で あ ろ う 従 瑾 と 知 遇 を 得 る 機 会 は 存 し た は ず で あ ろ う が、 文 献 上 か ら そ の 事 実 を 確 か め る こ と は で き な い。 後 に 記 す ご と く 懐 敞 や 栄 西 の 活 躍 を﹁ 天 童 山 千 仏 閣 記 ﹂ に ま と め た 楼 鑰 は﹃ 攻 媿 集 ﹄ 巻 八 一﹁ 賛 ﹂ に﹁ 雪 菴 瑾老賛﹂ という従瑾に対する祖賛を残してい る 5 。一方、 円爾将来の ﹃宗派図﹄ ︵詳しくは ﹃禅宗伝法宗派図﹄ とも︶ には ﹁雪庵瑾禅師﹂ の 法 嗣 と し て﹁ 覚 庵 勤 禅 師 ﹂ と﹁ 天 童 敞 禅 師 ﹂ の 名 を 挙 げ て お り、 従 瑾 の 法 を 嗣 い だ 高 弟 と し て 天 童 山 の 懐 敞 の ほ か に わ ず か に 覚 庵 □ 勤 の 存 在 を 伝 え て い る。 覚 庵 勤 に つ い て は 何 れ の 禅 刹 に 住 持 し た の か も 定 か で な い が、 従 瑾 の 法 嗣 と し て 懐 敞 と と も に十二世紀後半から十三世紀初頭の頃にそれなりに黄龍派の孤塁を守って活動していた禅者であったと見られる。
天童山における虚庵懐敞の活動
虚 庵 懐 敞 が 天 台 山 の 万 年 寺 か ら 明 州 の 天 童 山 景 徳 寺 に 第 二 三 世 と し て 陞 住 し た の は 淳 煕 一 六 年 ︵ 一 一 八 九 ︶ の こ と で あ っ た と さ れ る。 ﹃ 元 亨 釈 書 ﹄ の 栄 西 伝 に は﹁ 淳 熙 之 末、 菴 移 二天 童 一﹂ と あ り、 ﹁ 明 菴 西 公 禅 師 塔 銘 ﹂ に も﹁ 淳 熙 末、 虚 菴 移 二天 童 一﹂ と 記 さ れ て い る か ら、 淳 熙 年 間 ︵ 一 一 七 四 │ 一 一 八 九 ︶ の 末 年 に 懐 敞 が 天 童 山 に 遷 住 し た こ と を 伝 え て い る。 楼 鑰 の﹃ 攻 媿 集 ﹄ 巻 五七﹁記﹂の﹁天童山千仏閣記﹂には、天童山に住持した懐敞と随侍した栄西に関わる記事が収められている。 十 六 年、 虚 庵 懐 敞、 自 二天 台 万 年 一来、 主 二是 刹 一、百 廃 具 挙、 追 二跡 二 老 一。 而 千 仏 之 閣、 歳 久 寖 圯、 且 将 弗 レ支、 猶 以 二前 人 規 模 一、 為 レ未 レ足 三以 称 二上 賜 一、 欲 三従 而 振 起、 更 出 二旧 閣 及 前 二 閣 之 上 一、 僉 以 為 レ難。 師 之 志 不 レ回 也。 先 レ是、 日 本 国 僧 千 光 法 師 栄 西 者、 憤 二発 願 心 一、 欲 下往 二西 域 求 中教 外 別 伝 之 宗 上。 若 レ有 下告 以 二天 台 万 年 一為 レ可 レ依 者 上、 航 レ海 而 来、 以 レ師 為 レ帰。 及 レ遷 二天 童 一、 西 亦 随 至。 居 歳 餘、 聞 三師 有 二改 作 之 意 一、 請曰、思 レ報 二摂受之恩 一、糜 レ躯所 レ不 レ憚、況下 レ此者乎。吾忝 二国主近属 一、他日帰 レ国、当 下致 二良材 一以為 上レ 助。師曰、唯。 こ の よ う に﹁ 天 童 山 千 仏 閣 記 ﹂ に は﹁ ︵ 淳 煕 ︶ 十 六 年、 虚 庵 懐 敞、 天 台 の 万 年 よ り 来 た り、 是 の 刹 を 主 る ﹂ と あ っ て、 懐 敞 が 万 年 寺 よ り 天 童 山 に 入 寺 し た の を 明 確 に 淳 煕 一 六 年 で あ っ た と 伝 え て い る。 た だ し、 懐 敞 が 天 童 山 に 住 持 し た の が 具 体 的 に 淳 煕一六年の何時であったのか、残念ながら楼鑰は月日までは書き残していない。 ま た﹁ 天 童 山 千 仏 閣 記 ﹂ に は、 懐 敞 が 天 童 山 に 住 持 し た こ と に つ づ け て﹁ 百 廃 具 に 挙 げ、 二 老 を 追 跡 す ﹂ と 記 さ れ て い る。 こ こ に い う 二 老 と は 天 童 山 の 第 一 六 世 中 興 で あ っ た 曹 洞 宗 の 宏 智 正 覚 と 第 二 〇 世 で あ っ た 黄 龍 派 の 慈 航 了 朴 の こ と で あ り、 正 覚 と 了 朴 は 天 童 山 の 歴 史 に お い て 長 期 に わ た っ て 住 持 を 勤 め、 伽 藍 の 整 備 や 宗 旨 の 充 実 な ど に 尽 力 し た 禅 者 と し て 特 筆 さ れ て九七 明庵栄西の在宋中の動静について︵下︶ ︵佐藤︶ い る。 し か も﹁ 百 廃 具 に 挙 ぐ ﹂ と あ る か ら、 懐 敞 は 正 覚 と 了 朴 の 二 禅 者 を 追 慕 し、 や は り 彼 ら と 同 じ よ う に 天 童 山 内 の 伽 藍 の 修 復 や 整 備 に 意 を 注 ぎ、 土 木 事 業 も 行 な っ た も の で あ ろ う。 こ の と き 懐 敞 が 天 童 山 内 の 如 何 な る 伽 藍 を 修 復 し た の か、 随 侍 し た栄西が天童山でどのように懐敞を補佐していたのかは記されていない。 そ ん な 中 で 懐 敞 は 天 童 山 内 に 存 し た 千 仏 閣 を 修 復 し た い 旨 を 栄 西 に 告 げ て い る。 千 仏 閣 は 千 仏 宝 閣 と も 称 し、 天 童 山 内 の 山 門 近 く の 一 角 に 存 し た 楼 閣 で あ る。 紹 興 四 年 ︵ 一 一 三 四 ︶ に 曹 洞 宗 の 宏 智 正 覚 が 創 建 し た も の で あ り、 高 閣 を 建 て て 両 廊 に は 千 仏 を 鋳 出 し、 前 の 二 池 の 間 に 七 塔 を 建 て た 壮 麗 な も の で あ っ た と さ れ る 6 。﹁ 天 童 山 千 仏 閣 記 ﹂ に よ れ ば、 懐 敞 に は 創 建 さ れ て か ら 六 〇 年 を 経 た 千 仏 閣 を 改 作 修 復 し た い 意 が 存 し た と さ れ、 そ ん な 懐 敞 の 意 図 を 知 っ た 栄 西 は﹁ 摂 受 の 恩 に 報 い ん と 思 い、 躯 を 糜 や し て 憚 か ら ざ る 所、 況 ん や 此 れ に 下 れ ん 者 か。 吾 れ 国 主 の 近 属 を 忝 く す、 他 日、 国 に 帰 ら ば、 当 に 良 材 を 致 し て 以 て 助 を 為 す べ し ﹂ と 懐 敞 に 告 げ た と さ れ る。 栄 西 と し て は 懐 敞 か ら 黄 龍 派 の 法 門 を 授 受 さ れ た こ と に 対 す る 深 恩 を 感 じ、 後 日、 日 本 に 帰 っ た な ら ば、 良 材 を 送 っ て 千 仏 閣 修 復 の 手 助 け を し た い と 告 げ て い る わ け で あ る。 こ の と き 懐 敞 は 栄 西 の 申 し 出 に 対 し て満足の意を示して﹁唯﹂と頷いたと記されている。 懐 敞 が 天 童 山 の 住 持 を 勤 め て い た 期 間 が ど れ ほ ど で あ っ た の は 定 か で な い が、 少 な く と も 栄 西 が 帰 国 し て 後 も、 し ば ら く の 間は住持として天童山に化導を敷いていたものと見られ、千仏閣の修復に尽力していたことが伝えられる。
天童山と万年寺を往来した栄西の活動
懐 敞 が 天 童 山 に 遷 住 し た 際、 栄 西 は 懐 敞 に 随 侍 し て 同 じ く 天 童 山 に 赴 い て お り、 悟 後 の 修 行 と も い う べ き 研 鑽 に 努 め て い る。 ﹃ 元 亨 釈 書 ﹄ の 栄 西 伝 に は﹁ 淳 熙 之 末、 菴 移 二 天 童 一 ﹂ に つ づ い て﹁ 西 亦 行 補 助 多 矣 ﹂ と あ り、 ﹁ 明 菴 西 公 禅 師 塔 銘 ﹂ に も﹁ 淳 熙 末、 虚 菴 移 二天 童 一﹂ に つ づ い て﹁ 師 亦 随 レ之 ﹂ と 記 さ れ て い る こ と か ら、 淳 熙 一 六 年 ︵ 一 一 八 九 ︶ に 懐 敞 が 天 童 山 に 遷 住 し た 際、 栄西は行動を共にして懐敞に随侍して天童山に到り、懐敞の学人接化などを補助すること多大であったと伝えている。 興味深いのは懐敞に随侍して天童山に移ってまもない頃、 淳煕一六年に栄西は ﹃出家大綱﹄ の草案をなしてい る 7 ことであろう。 ﹃ 出 家 大 綱 并 序 ﹄ の 栄 西 の 自 序 に よ れ ば、 栄 西 は 二 一 歳 の 頃 よ り 満 五 〇 歳 に 至 る ま で﹃ 出 家 大 綱 ﹄ の 構 想 を 練 り つ づ け て い た こ とを自ら書き残している。すなわち、建久六年 ︵一一九五︶ 一〇月一〇日に栄西が著した﹃出家大綱﹄の自序に、九八 明庵栄西の在宋中の動静について︵下︶ ︵佐藤︶ 於 レ此、 栄 西 在 唐 之 日、 伺 二聖 教 一録 二律 畧 一帰 二日 本 一。 即 知 レ時 視 二機 宜 一、 方 勧 二斎 戒 一。 随 レ勧 皆 応 レ之、 喜 哉 千 万 矣。 始 レ自 二二 十 一 歳 一、 至 二于 満 五 十 歳 一、 斗 二藪 両 朝 一三 十 餘 年、 不 レ得 二其 感 応 一。 今 既 得 二感 応 一、 群 機 皆 従。 仍 続 二在 唐 之 記 録 一、 併 書 以 貽 二於 末 世 一。 若 欲 レ持 二斎 戒 一者、 宜 レ従 二 此勧 一。出家要如 レ斯。時建久六年乙卯歳初冬十月乙卯建十日辛酉、喪孝窓裏謹叙。 と あ り、 栄 西 は 二 度 目 の 在 宋 中 に﹃ 出 家 大 綱 ﹄ の 構 想 を 練 っ て い た こ と が 知 ら れ、 斎 戒 を 持 す る こ と を 勧 め て い る。 栄 西 が 二 一 歳 で あ っ た の は 日 本 の 応 保 元 年 ︵ 一 一 六 一 ︶ に 当 た り、 五 〇 歳 で あ っ た の は 南 宋 の 淳 煕 一 六 年 ︵ 一 一 八 九 ︶ で あ り、 満 五 〇 歳とすれば紹煕元年 ︵一一九〇︶ ということになり、 日中両朝で実に三〇余年にわたって文案を推敲しつづけていたことになろう。 在 宋 中 の 栄 西 に と っ て 天 台 山 や 天 童 山 で の 一 時 は 著 述 の 構 想 を 思 案 す る に は 最 適 な 環 境 で あ っ た も の と 見 ら れ る。 ま た 栄 西 は ﹃ 出 家 大 綱 ﹄ の 跋 文 を 著 し た 際 に 自 ら﹁ 喪 孝 窓 裏、 謹 ん で 叙 す ﹂ と 述 べ て お り、 建 久 六 年 一 〇 月 に 母 の 喪 に 服 し て い た こ と が 知 られる。この点で興味深いのは﹃続古今和歌集﹄巻一〇﹁覊旅歌﹂に栄西が詠じた作として、 もろこしにわたりて侍ける時、秋の風身にしみける夕、日本にのこりとまりける母の事など思てよめる。 権僧正栄西。 もろこしの、梢もさびし、日のもとの、ははその紅葉、散やしぬらん。 という一首の和歌が伝えられていることであろう。栄西がこの和歌を詠じた時期は定かでないが、 ﹁日本にのこりとまりける母﹂ と 記 さ れ て い る か ら、 栄 西 が 第 二 次 在 宋 中 に 詠 じ た 作 で あ る と 見 て よ く、 お そ ら く 天 台 山 か 天 童 山 で 本 師 の 懐 敞 に 参 侍 し て い た と き、 秋 の 風 が 肌 身 に 冷 た く 感 じ る 紅 葉 の 頃 に 日 本 に 残 し て き た 老 母 の こ と を 思 っ て 詠 じ た 一 首 で あ ろ う 8 。 あ る い は こ の 和 歌 を 詠 じ た の は﹃ 出 家 大 綱 ﹄ の 草 案 を な し た 時 期 と 重 な っ て い る の か も 知 れ な い。 老 母 は 栄 西 が 帰 国 し た 後、 建 久 六 年 ︵ 南 宋 の 慶 元 元 年 ︶ に 至 っ て 逝 去 し て い る も の ら し い。 建 久 二 年 に は 栄 西 は 五 五 歳 に 当 た っ て い る か ら、 こ の と き 老 母 は 七 五 歳 前 後 に は 達していたものと見られ、栄西が在宋中には七〇歳前後であった計算になろう。 ま た 先 の ﹃ 出 家 大 綱 ﹄ の 跋 文 で 、 い ま 一 つ 注 目 さ れ る の が ﹁ 仍 り て 在 唐 の 記 録 に 続 け て 、 併 せ て 書 し て 以 て 末 世 に 貽 す ﹂ と 記 さ れ て い る こ と で あ ろ う 。 こ の 記 述 に よ る な ら ば 、 栄 西 に は 在 宋 中 の 動 静 を 書 き 記 し た 日 記 の 類 い が 存 し た も の の よ う で あ り 、 お そ ら く 栄 西 は 在 宋 中 に 懐 敞 と 交 わ し た 問 答 や 日 々 に 見 聞 し た で き ご と な ど を 逐 一 に ﹁ 在 唐 記 ﹂ と い っ た 体 裁 で ま と め て い た も の と 見 ら れ る 。 こ う し た 貴 重 な 記 録 が 現 今 に 伝 え ら れ て い た な ら ば 、 栄 西 在 宋 中 の 動 向 は よ り 詳 細 に 辿 る こ と が で き た は ず で あ る 。
九九 明庵栄西の在宋中の動静について︵下︶ ︵佐藤︶ 栄 西 は 懐 敞 と 行 動 を 共 に し て 天 童 山 に 随 侍 し て い る が、 こ の 頃 に な る と 天 童 山 の 懐 敞 の も と に の み 留 ま っ て い た わ け で は な く、 天 童 山 の 内 外 で か な り 自 由 な 行 動 が 許 さ れ て い た も の ら し い。 と く に 比 較 的 に 距 離 が 近 い 天 台 山 の 万 年 寺 と の 間 を 往 来 す る こ と は し ば し ば 存 し た も の の よ う で あ り、 師 翁 の 雪 庵 従 瑾 が 万 年 寺 の 住 持 と し て 健 在 で あ っ た と す れ ば、 栄 西 と し て も 心 強 いものが存したはずであろう。大東急記念文庫に所蔵される金剛仏子栄西録﹃秘宗隠語集﹄の奥書によれば、 治承五年辛丑五月八日、日本 国 ︿州﹀ 上都平城達智門入唐比丘栄西、决并書。 宋紹煕元年庚戌九月日、於 二天台山万年寺 一再治、遣 二之本 国 ︿州﹀ 門徒 一、宜 レ知 レ之。 と 記 さ れ て お り、 栄 西 が 日 本 の 治 承 四 年 ︵ 一 一 八 〇 ︶ 五 月 に 書 し た﹃ 秘 宗 隠 語 集 ﹄ を 携 帯 し て 入 宋 し、 紹 煕 元 年 ︵ 一 一 九 〇 ︶ 九 月 に 万 年 寺 に お い て﹁ 日 本 国 上 都 平 城 達 智 門 入 唐 比 丘 栄 西 ﹂ の 肩 書 き で こ れ を 再 治 し て い る 9 。 紹 煕 元 年 と い え ば、 栄 西 が 懐 敞 に 随 侍 し て 天 童 山 に 到 っ て 以 降 の こ と で あ る か ら、 こ の と き 栄 西 は 天 童 山 を 離 れ て 万 年 寺 に 赴 い て い た こ と に な ろ う。 し か も ﹁ 之 れ を 本 国 の 門 徒 に 遣 わ す ﹂ と あ る か ら、 栄 西 は 再 治 し た﹃ 秘 宗 隠 語 集 ﹄ を そ の ま ま 天 台 山 か ら 日 本 の 門 徒 の も と へ と 送 り 届 け て い る こ と に な ろ う。 第 二 次 入 宋 で は 栄 西 は 単 独 で 行 動 し た の で は な く、 随 侍 し た 門 弟 な ど も 存 し た よ う で あ る か ら、 お そ らくこのとき栄西は門人の誰かに﹃秘宗隠語集﹄を託して日本に向かわせているのかも知れない。 こ の 点、 い ま 一 つ 興 味 深 い の は、 同 じ 紹 煕 元 年 ︵ 日 本 の 建 久 元 年 ︶ に 栄 西 が 台 嶺 す な わ ち 同 じ 天 台 山 か ら 日 本 に 菩 提 樹 を 送 っ ていることであろう。 ﹃元亨釈書﹄の栄西伝によれば、 ︵ 建 久 ︶ 六 年、 創 二聖 福 寺 于 筑 之 博 多 一。 此 春、 分 二天 台 山 菩 提 樹 一、 栽 二東 大 寺 一。 初 西 在 二台 嶺 一、 取 二道 邃 法 師 所 レ栽 菩 提 樹 枝 一、 付 二商 船 一、 種 二筑 紫 香 椎 神 祠 一、 建 久 元 年 也。 西 以 謂、 吾 邦 未 レ有 二此 樹 一、 先 移 二一 枝 于 本 土 一、 以 験 二我 伝 法 中 興 之 効 一。 若 樹 枯 槁、 吾 道 不 レ作。 蓋 菩 提 樹 者、 如 来 成 道 之 霊 木 也。 世 尊 滅 後 一 百 年、 師 子 国 王 受 二仏 記 一、 共 二仏 舎 利 一得 二南 枝 一、 盛 二金 甕 一移 殖。 南 宋 之 始、 求 那 跋 陀 羅 始 栽 二広 府 一。 其 後、 邃 師 分 二台 峯 一。 是 以、 西 為 二法 信 一寄 来。 逮 二東 大 寺 復 一、 勅 以 二此 木 一移 焉。 元 久 之 始、 西 又 取 二台 枝 一、 栽 二建 仁 東 北 隅 一。 両 処 茂 盛、 垂 レ蔭 数 畒 、 至 レ今繁焉、天下分栽。 と い う 記 事 が 記 さ れ て い る。 こ れ は 栄 西 が 建 久 元 年 に 天 台 山 の 菩 提 樹 の 一 枝 を 商 船 に 付 し て 日 本 に 移 植 し た こ と を 伝 え る 内 容 で あ る。 天 台 山 の 菩 提 樹 は も と も と 唐 代 に 天 台 宗 の 道 邃 ︵ 興 道 尊 者、 止 観 和 尚、? │ 八 〇 五 ︶ が 植 え た も の と さ れ、 道 邃 は い う ま で も な く 入 唐 し た 日 本 の 最 澄 ︵ 伝 教 大 師、 六 六 七 │ 八 二 二 ︶ が 天 台 学 を 学 ん だ 本 師 と し て 知 ら れ て い る。 栄 西 は 道 邃 手 植 え の 菩 提
一〇〇 明庵栄西の在宋中の動静について︵下︶ ︵佐藤︶ 樹の一枝を日本に送っているのであり、 やがてその一枝は建久元年内に筑紫 ︵福岡県︶ の香椎宮 ︵香椎神社︶ に植えられたとされる。 建 久 六 年 ︵ 一 一 九 五 ︶ の 春 に 至 っ て、 栄 西 は 博 多 の 安 国 山 聖 福 寺 に 在 っ て、 こ の 香 椎 宮 の 菩 提 樹 を さ ら に 奈 良 ︵ 南 都 ︶ の 東 大 寺 に も 分 か ち 植 え て い る。 ま た 元 久 年 間 ︵ 一 二 〇 四 │ 一 二 〇 六 ︶ の 初 め に は 京 都 東 山 建 仁 寺 の 東 北 隅 に も そ の 一 枝 を 植 え た こ と が 記 さ れ て い る。 仏 陀 成 道 の 霊 木 と さ れ る 菩 提 樹 に 寄 せ る 栄 西 の 並 々 な ら ぬ 思 い が 窺 わ れ、 こ う し て 天 台 山 の 菩 提 樹 は 日 本 の 各 地に移植されて茂ることになったものらしい。 こ れ ら の 記 事 は す で に 栄 西 が 懐 敞 に 随 侍 し て 天 童 山 に 赴 い て 以 降 の で き ご と で あ る か ら、 こ の 間、 栄 西 は 天 童 山 と 万 年 寺 の 間 を 往 来 す る こ と が し ば し ば 存 し た と 解 さ な け れ ば な ら な い。 天 童 山 と 万 年 寺 は 片 道 わ ず か 数 日 で 移 動 で き る 距 離 に あ り、 栄 西がどちらに居たとしてもそれほど違和感はないであろう。 しかも自著の再治を行なっているわけであるから、 ある程度の期間、 半 月 な り 一 ヶ 月 な り を 万 年 寺 に 滞 在 す る こ と も 十 分 に 存 し た も の と 推 測 さ れ る。 こ の よ う に 見 る な ら ば、 栄 西 は 天 童 山 で は 師 匠の懐敞に参随し、万年寺では師翁の従瑾のもとで種々の活動をなし、頻繁に両寺を往来していたものであろう。 さ ら に 鎌 倉 の 鶴 岡 八 幡 宮 に は、 栄 西 が 南 宋 の 地 か ら 持 ち 帰 っ た と さ れ る﹁ 長 命 富 貴 堆 黒 箱 ﹂ 一 合 が 所 蔵 さ れ て い る。 こ れ は 南宋代の木製漆塗りで、 縦一九 ・ 五センチ、 横一九 ・ 七センチ、 高さ一二センチの黒箱であって、 厚く塗り重ねた漆層を削り込み、 全 面 に も 遶 を 施 し た も の で あ る。 底 裏 に 朱 漆 で﹁ 贈 二日 本 客 僧 栄 西 禅 師 一。 明 昌 元、 侍 郎 周 宏 ﹂ と い う 銘 文 が 書 か れ て い る か ら、 侍 郎 の 周 宏 が 日 本 の 客 僧 栄 西 に 贈 っ た も の で あ る こ と が 知 ら れ る。 た だ し、 侍 郎 の 周 宏 が 具 体 的 に 誰 な の か が 定 か で な い 上 に、 明 昌 元 年 ︵ 日 本 の 建 久 元 年、 一 一 九 〇 ︶ が 南 宋 と 対 峙 し て い た 金 国 の 年 号 で あ る 点 が 問 題 と さ れ て い る 10 。 周 宏 が 金 国 の 官 僚 で こ の と き 何 ら か の 事 情 で 南 宋 国 内 の 明 州 に 到 り、 た ま た ま 日 本 僧 栄 西 と 知 り 合 う 機 会 を 得 た の か も 知 れ な い が、 現 在 の と こ ろ、 詳 しい事情や背景は何ら辿れないのが実情である。
虚庵懐敞が栄西に付与した偈頌
ま た 天 童 山 の 懐 敞 が 嗣 法 門 人 で あ る 栄 西 に 付 与 し た と さ れ る 偈 頌 の 文 面 が 伝 え ら れ て い る。 ﹃ 黄 龍 十 世 録 ﹄ の﹁ 慶 元 府 天 童 虚 庵 懐 敞 禅 師 ﹂ の 章 に は﹁ 偈 寄 二 千 光 法 師 一 ﹂ と い う 付 法 偈 が 載 せ ら れ て お り、 こ れ は﹃ 鄰 交 徴 書 初 篇 ﹄ 巻 二﹁ 詩 文 部︿ 宋 ﹀﹂ に も 収 め ら れ て い る か ら、 か つ て 懐 敞 が 栄 西 に 付 与 し た 伝 法 偈 と し て 珍 重 さ れ て い た も の で あ ろ う。 原 本 に は お そ ら く 懐 敞 の 落 款一〇一 明庵栄西の在宋中の動静について︵下︶ ︵佐藤︶ が 押 さ れ、 年 月 日 な ど も 記 さ れ て い た は ず で あ り、 中 国 黄 龍 派 の 貴 重 な 墨 蹟 で あ っ た だ け に 散 逸 し て い る の が 惜 し ま れ よ う。 すなわち、 ﹃黄龍十世録﹄の﹁慶元府天童虚庵懐敞禅師﹂の章の末尾に、 偈寄 二千光法師 一。 住 二太白名山 一虚庵懐敞。 不 レ露 二鋒 鋩 一意 已 彰、 揚 レ眉 早 堕 二識 情 郷 一。 著 衣 喫 飯 自 成 現、 打 レ瓦 鑽 レ亀 空 著 忙。 若 信 二師 姑 元 女 子 一、 無 レ疑 二日 本 即 南 唐 一。 一 天 月 色 澄 二江 上 一、 底意分明不 二覆蔵 一。 と い う﹁ 偈 を 千 光 法 師 に 寄 す ﹂ と 題 し た 偈 頌 が 載 せ ら れ て い る。 ﹁ 太 白 名 山 に 住 す る 虚 庵 懐 敞 ﹂ と あ る か ら、 天 童 山 ︵ 太 白 峰 ︶ の住持であった懐敞が千光法師栄西に寄せた偈頌であることが明記されている。 ﹃鄰交徴書初篇﹄巻二﹁詩文部︿宋﹀ ﹂にも、 与 二栄西 一。 懐敞。 不 レ露 二鋒 鋩 一意 已 彰、 揚 レ眉 早 堕 二識 情 郷 一。 著 衣 喫 飯 自 成 現、 打 レ瓦 鑽 レ亀 空 著 忙。 若 信 二師 姑 元 女 子 一、 無 レ疑 二日 本 即 南 唐 一。 一 天 月 色 澄 二江 上 一、 底意分明不 二覆蔵 一。︿霊洞院古写本﹀ 。 と し て 同 様 の 偈 頌 が 収 め ら れ て い る 11 。 た だ し、 ﹃ 鄰 交 徴 書 初 篇 ﹄ で は 表 題 が﹁ 栄 西 に 与 う ﹂ と な っ て お り、 詠 じ た の も 単 に﹁ 懐 敞 ﹂ と 記 さ れ る の み で 肩 書 き は 付 さ れ て い な い。 し か も﹁ 霊 洞 院 の 古 写 本 な り ﹂ と い う 付 記 が 添 え ら れ て お り、 こ の 偈 頌 の 古 写 本 が 建 仁 寺 の 塔 頭 の 一 つ 霊 洞 院 に 所 蔵 さ れ て い た こ と を 伝 え て い る。 霊 洞 院 と は 建 仁 寺 山 内 に 存 す る 法 燈 派 の 高 山 慈 照 ︵ 初 名 は 心 鏡、 広 済 禅 師、 一 二 六 六 │ 一 三 四 三 ︶ の 塔 頭 で あ り、 慈 照 は 法 燈 派 祖 の 無 本 覚 心 ︵ 心 地 房、 法 燈 円 明 国 師、 一 二 〇 七 │ 一 二 九 八 ︶ の 高 弟 で あ り、 南 北 朝 初 期 に 建 仁 寺 第 二 六 世 と し て 活 躍 し て い る 12 。 た だ し、 懐 敞 が 栄 西 に 与 え た 墨 蹟 が な ぜ 法 燈 派 の 霊 洞 院 に 所 蔵 さ れ て い た の か は 定 か で な く、 霊 洞 院 に 所 蔵 さ れ て い た も の が 懐 敞 の 直 筆 で あ っ た の か 否 か も 明 ら か で な い。 霊 洞 院 の 室 内 に こ の 古 写 本 が 現 在 も 所 蔵 さ れ て い る の か 否 か、 い ま だ 確 認 を 取 っ て い な い。 こ の 墨 蹟 の 表 題 が 果 し て﹁ 偈 を 千 光 法 師 に 寄 す﹂であったのか、 単に﹁栄西に与う﹂であったのか、 懐敞の署名が﹁太白名山に住する虚庵懐敞﹂であったのか、 単に﹁懐敞﹂ で あ っ た の か は 明 確 で な い。 懐 敞 の 直 筆 の 原 本 が 現 存 し て い れ ば、 何 れ が 正 し い か も 判 明 し、 落 款 な ど も 押 さ れ て い た こ と で あ ろ う か ら、 黄 龍 派 の 中 国 禅 僧 の 貴 重 な 墨 蹟 と し て 珍 重 さ れ た は ず で あ ろ う。 少 な く と も﹃ 黄 龍 十 世 録 ﹄ で は こ の 偈 頌 は 天 童 山の住持として懐敞が栄西に付与したものと解しているわけである。 いま、この偈頌の本文を書き下して見るならば、およそつぎのごとくなろう。
一〇二 明庵栄西の在宋中の動静について︵下︶ ︵佐藤︶ 鋒鋩を露わさずして意已に彰らかなるに、 眉を揚ぐれば早や識情の郷に堕つ。 著衣喫飯自ら成現するに、 瓦を打ち亀を鑽りて空しく着忙す。 若し師姑は元より女子なるを信ぜば、日本は即ち南唐なることを疑う無かれ。一天の月色、江上に澄み、底意分明にして覆蔵せず。 鋭 い 機 鋒 を 示 さ な く て も 宗 旨 は も と も と 明 ら か で あ る の に、 眉 を 挙 げ て 推 し 量 ろ う と す る と 迷 い の 世 界 に 落 ち 込 ん で し ま う。 衣 服 を 着 た り 粥 飯 を 喫 す る 日 常 の 行 為 に 仏 法 が は っ き り と 現 成 し て い る の に、 瓦 を 割 り 亀 の 甲 羅 を 焼 い て 占 う ご と く 人 は 空 し く 慌 て ふ た め い て し ま う。 も し 尼 僧 が も と も と 女 性 で あ る と 信 じ 切 れ ば、 日 本 が そ の ま ま 南 宋 で あ る こ と を 疑 っ て は な ら ぬ。 天 上 の 月 が 川 面 に 清 ら か に 映 じ て い る よ う に、 仏 法 の 真 理 は 常 に 現 前 し て い て 何 の 隠 し 立 て も な い の で あ る。 お よ そ﹁ 偈 寄 二千 光 法 師 一﹂ な い し﹁ 与 二栄 西 一﹂ の 偈 頌 は 以 上 の よ う に 解 せ ら れ よ う。 こ の 偈 頌 に 示 さ れ て い る よ う に、 懐 敞 は 門 下 に 留 ま っ て 研 鑽 に 努 め た 日 本 僧 栄 西 が 真 に 仏 法 を 体 現 し て い る こ と を 認 め、 印 可 証 明 の 語 と し て 七 言 八 句 の 偈 頌 を 付 与 し て い る わ け で あ る。 い わ ば、 こ の 偈 頌 は 天 童 山 の 住 持 と し て 懐 敞 が 栄 西 を 正 式 に 印 可 証 明 し た 付 法 の 偈 頌 す な わ ち 伝 法 偈 で あ っ た と 見 て よ い で あ ろう。
虚庵懐敞が栄西に付与した相承物
久 し く 懐 敞 の も と に 在 っ て 宋 朝 禅 の 修 行 に 努 め た 栄 西 は、 や が て 天 童 山 を 辞 去 し て 日 本 に 帰 国 す る こ と に な る。 ﹃ 元 亨 釈 書 ﹄ の栄西伝には、その間の動向について、 紹熙二年秋、 辞 レ菴。菴付 二僧伽梨 一、 書曰、 日本国千光院大法師、 宿有 二霊骨 一、 洪持 二此法 一。不 レ遠 二万里 一、 入 二我炎宋 一、 探 二賾宗旨 一。乾道戊子、 遊 二天 台 一、 見 二山 川 勝 妙 一、 生 二大 歓 喜 一。 至 二石 橋 一、 焚 レ香 煎 レ茶、 礼 二住 世 五 百 大 羅 漢 一。 尋 反 二本 国 一、 夢 境 恰 恰。 二 十 年 雖 二音 問 不 一レ継、 而 山 中 耆 宿、 歴 歴 記 二其 事 一。 今 又 再 遊 二此 方 一、 相 二従 老 僧 一、 宿 縁 不 レ浅、 志 操 可 レ貴、 不 レ得 レ不 レ示 二法 旨 一。 昔 釈 迦 老 子、 将 二円 寂 一、 以 二正 法 眼 蔵 涅 槃 妙 心 一、 付 二属摩訶迦葉 一。二十八伝而至 二達磨 一、 六伝而至 二曹渓 一。 又六伝而至 二臨済 一、八伝而至 二黄龍 一、 又八伝而至 レ予。今以付 レ汝、 汝当 二護持 一。佩 二 此 祖 印 一、 皈 レ国 布 レ化、 開 二示 衆 生 一、 継 二正 法 命 一。 又 達 磨 始 伝 レ衣 而 来、 以 為 二法 信 一、 至 二六 祖 一止 不 レ伝。 汝 為 二外 国 人 一、 故 我 授 二此 衣 一為 二法 信 一、 則 二乃 祖 一耳。 先 レ是 在 二万 年 一日、 敞 語 曰、 菩 薩 戒 禅 門 一 大 事 也。 汝 航 レ海 来、 問 二禅 於 我 一、 因 而 付 レ之。 及 応 器・ 坐 具・ 宝 缾 ・ 拄 杖・ 白 払、 其図迦文已下二十八祖達磨以来至 二虚菴 一、嫡嫡相承、不 レ括 二横枝 一、五十三世系連明覈。 と 伝 え て い る。 こ の 記 載 も 天 童 山 の 懐 敞 が 書 き 記 し て 栄 西 に 与 え た 文 書 を 伝 え て い る 点 で 貴 重 で あ る こ と か ら、 つ ぎ に 懐 敞 が一〇三 明庵栄西の在宋中の動静について︵下︶ ︵佐藤︶ 語った部分を書き下して示しておきたい。 紹 熙 二 年︵ 一 一 九 一 ︶ の 秋、 菴 を 辞 す。 菴、 僧 伽 梨 を 付 し、 書 し て 曰 く、 ﹁ 日 本 国 の 千 光 院 大 法 師、 宿 に 霊 骨 有 り、 洪 い に 此 の 法 を 持 す。 万里を遠しとせず、 我が炎宋に入りて、 宗旨を探賾す。 ︵中略︶今又た再び此の方に遊びて、 老僧に相い従う。宿縁浅からず、 志操貴ぶべし。 法旨を示さざるを得ず。昔、釈迦老子、将に円寂せんとして、正法眼蔵 ・ 涅槃妙心を以て、摩訶迦葉に付属す。二十八伝して達磨に至り、 六 伝 し て 曹 渓 に 至 る。 又 た 六 伝 し て 臨 済 に 至 り、 八 伝 し て 黄 龍 に 至 り、 又 た 八 伝 し て 予 に 至 る。 今 以 て 汝 に 付 す、 汝 当 に 護 持 す べ し。 此 の 祖 印 を 佩 び て、 国 に 皈 り て 化 を 布 き、 衆 生 に 開 示 し、 正 法 の 命 を 継 げ。 又 た 達 磨、 始 め て 衣 を 伝 え て 来 た り、 以 て 法 の 信 と 為 す。 六 祖 に至りて止めて伝えず。汝は外国の人為り、故に我れ此の衣を授けて法の信と為し、乃祖に則るのみ﹂と。 こ の よ う に﹃ 元 亨 釈 書 ﹄ の 栄 西 章 に よ れ ば、 別 れ に 際 し て 懐 敞 は 僧 伽 梨 を 付 し、 さ ら に 伝 法 の 語 を 書 し て い る。 栄 西 は 実 際 に懐敞から直筆の相承書を授与されているはずであろうが、残念ながら懐敞直筆の墨蹟は現今に伝えられていない。 この﹃元亨釈書﹄の記事はもともと﹃ 興 禅 護 国 論 ﹄の記載を受けるものであり、 ﹃興禅護国論﹄巻中﹁第五宗派血脈門﹂には、 摩訶迦葉より菩提達磨に至る西天二十八祖を挙げた後、東土 ︵中国︶ における相承を記して、 第二十九可大師 ・ 第三十璨大師 ・ 第卅一信大師 ・ 第卅二忍大師 ・ 第卅三能大師 ・ 第卅四譲大師 ・ 第卅五一大師 ・ 第卅六海禅師 ・ 第卅七運禅師 ・ 第 卅 八 玄 禅 師・ 第 卅 九 奬 禅 師・ 第 四 十 顒 禅 師・ 第 四 十 一 沼 禅 師・ 第 四 十 二 念 禅 師・ 第 四 十 三 昭 禅 師・ 第 四 十 四 円 禅 師・ 第 四 十 五 南 禅 師・ 第四十六心禅師 ・ 第四十七清禅師 ・ 第四十八卓禅師 ・ 第四十九諶禅師 ・ 第五十賁禅師 ・ 第五十一瑾禅師 ・ 第五十二敞禅師 ・ 第五十三栄西。 と い う 直 系 の 血 脈 す な わ ち 単 伝 宗 派 図 ︵ 嗣 書 ︶ の 写 し が 載 せ ら れ て い る。 こ こ で 興 味 深 い の は 六 祖 慧 能 ︵ 盧 行 者、 大 鑑 禅 師、 六 三 八 │ 七 一 三 ︶ ま で で な く、 南 嶽 懐 譲 ︵ 大 慧 禅 師、 六 七 七 │ 七 四 四 ︶ と 馬 祖 道 一 ︵ 馬 大 師 、 大 寂 禅 師 、 七 〇 九 │ 七 八 八 ︶ も﹁ 大 師 ﹂ と 表 記 さ れ、 百 丈 懐 海 ︵ 大 智 禅 師、 七 四 九 │ 八 一 四 ︶ よ り 虚 庵 懐 敞 ま で﹁ 禅 師 ﹂ の 語 が 付 さ れ て お り、 栄 西 自 身 は 法 諱 の み で 書 さ れていることであろう。 さらに同じく﹁第五宗派血脈門﹂には、栄西が紹煕二年七月に帰国の途に着くとき、懐敞が栄西に語ったことばとして、 遂 宋 紹 熙 二 年 辛 亥 歳︿ 日 本 建 久 二 年 ﹀ 秋 七 月、 帰 レ国。 臨 レ別 禅 師 為 書 曰、 日 本 国 千 光 院 大 法 師︿ 西 ﹀、 宿 有 二霊 骨 一、 頓 捨 二世 間 深 重 恩 愛 一、 従 レ仏 剃 レ髪、 著 二僧 伽 梨 一、 洪 持 二此 法 一。 不 レ遠 二万 里 一、 航 レ海 而 入 二我 炎 宋 一、 探 二賾 宗 旨 一。 乾 道 戊 子 歳、 遊 二天 台 一、 見 二山 川 国 土 勝 妙 道 場 清 浄 殊 特 一、 生 二大 歓 喜 一、 嘗 施 二浄 財 一、 供 二十 方 学 般 若 菩 薩 一。 已 而 至 二 石 橋 一、 拈 レ香 煎 レ茶、 敬 二礼 住 世 五 百 大 阿 羅 漢 一。 尋 復 二本 国 一、 夢 境 恰 恰 二 十 年、
一〇四 明庵栄西の在宋中の動静について︵下︶ ︵佐藤︶ 雖 三音 問 不 二相 聞 一、 而 山 中 老 宿 歴 歴 記 二其 事 一。 今 又 懐 二旧 遊 一復 レ之、 宿 縁 不 レ浅、 志 慇 茲 深。 不 レ可 レ不 レ示 二法 旨 一。 昔 釈 迦 老 人、 将 欲 二円 寂 一時、 以 二涅 槃 妙 心 正 法 眼 蔵 一、 付 二属 摩 訶 迦 葉 一、 乃 至 嫡 嫡 相 承、 至 二於 予 一。 今 以 二此 法 一付 二属 汝 一、 汝 当 二護 持 一。 佩 二其 祖 印 一、 帰 レ国 布 二化 末 世 一、 開 二示 衆 生 一、 以 継 二正 法 之 命 一。 又 授 二汝 袈 裟 一、 大 師 昔 伝 レ衣 為 二法 信 一、 而 表 二本 来 無 物 一。 然 至 二六 祖 一衣 止 不 レ伝、 云 云。 其 風 雖 レ絶、 今 為 二外 国 法 信 一、 授 二汝 僧 伽 梨 一而 已。 又 授 二菩 薩 戒 一、 拄 杖・ 応 器・ 衲 子 道 具、 不 レ留 レ一 付 属 畢。 聞 二伝 法 偈 一、 云 云。 此 宗 自 二六 祖 一以 降、 漸 分 二宗 派 一、 法 周 二四 海 一。 世 洎 二二 千 一、 脈 流 二五 宗 一。 謂、 一 法 眼 宗、 二 臨 済 宗、 三 潙 仰 宗、 四 雲 門 宗、 五 曹 洞 宗 也。 今 最 盛 是 臨 済 也。 自 二七 仏 一至 二于 栄 西 一、 凡 六十代也。嫡嫡相承継 レ脈、寔仏法之公験有 レ以者也。是只列 二一轍 一、自餘支派在 レ図、謂 二之宗派血脈門 一矣。 と あ り、 菩 薩 戒 を 授 け た こ と と、 拄 杖・ 応 量 器 や 禅 僧 と し て の 道 具 を 授 け て い る。 先 の﹃ 元 亨 釈 書 ﹄ の 記 事 の も と に な っ た 内 容 で あ り、 栄 西 自 身 が 懐 敞 の 相 承 書 を も と に 書 き 残 し た も の で あ る。 ま た 五 家 の 宗 派 を 挙 げ て、 臨 済 宗 が 最 も 盛 ん で あ る こ と を述べているが、黄龍派と楊岐派の別などについては触れられていな い 13 。 先 の 伝 法 偈 と と も に こ の 懐 敞 が 栄 西 に 与 え た 相 承 書 も 建 仁 寺 裏 に 貴 重 な 什 物 と し て 所 蔵 さ れ て い た は ず で あ ろ う が、 お そ ら く 火 災 な ど で 失 わ れ た も の と 見 ら れ る。 懐 敞 の 相 承 書 の 写 し に よ れ ば、 栄 西 が 第 一 次 の 入 宋 で 天 台 山 を 訪 れ て 石 橋 に 香 を 焚 い て 五 百 羅 漢 に 茶 を 献 じ た 故 事 が 二 〇 年 を 経 て も 山 中 の 耆 宿 の 間 で 語 り 継 が れ て い た こ と が 知 ら れ、 そ の 栄 西 が 再 び 天 台 山 を 訪 れ て 懐 敞 の 膝 下 で 臨 済 宗 旨 を 究 め た こ と が 特 筆 さ れ て い る。 ま た 栄 西 が 外 国 人 で あ る こ と か ら、 懐 敞 は あ え て 法 信 の た め に 伝 法 衣 を 付 与 し た こ と、 さ ら に 応 量 器・ 坐 具・ 宝 瓶・ 拄 杖・ 白 毛 払 子 お よ び 西 天 東 土 の 五 三 世 に 及 ぶ 血 脈 ︵ 単 伝 宗 派 図 ︶ を も 伝 法 の 証 し と し て 授 与 し た こ と が 語 ら れ て い る。 ま た ﹁ 自 餘 の 支 派 は 図 に 在 り ﹂ と 記 さ れ て い る か ら 、 直 系 の 血 脈 す な わ ち 嗣 書 の 類 い と は 別 に 、 当 時 の 主 な 禅 宗 諸 派 の 系 譜 を 記 し た ﹁ 宗 派 図 ﹂ な ど も 栄 西 は 懐 敞 か ら 相 承 さ れ て い る こ と に な ろ う 。 も し 、 こ の ﹁ 宗 派 図 ﹂ の 類 が 現 存 し て い た な ら ば 、 黄 龍 派 の 懐 敞 の 側 か ら と ら え ら れ た 十 二 世 紀 末 葉 の 中 国 禅 宗 の 趨 勢 が 明 確 に な っ た は ず で あ ろ う 。 一方、栄西が懐敞から付与された相承物について、明代初期 ︵日本の室町中期︶ に著された﹁明菴西公禅師塔銘﹂では、 紹 熙 二 年 秋、 辞 二虚 菴 一。 菴 付 二伽 黎 一并 書 曰、 日 本 千 光 大 法 師 有 二霊 骨 一、 弘 二持 此 法 一、 不 レ遠 二万 里 一、 入 二我 炎 宋 一、 探 二賾 宗 旨 一。 尋 返 二本 国 一、 夢 境 恰 二 十 年、 今 又 再 遊 二此 方 一、 相 二従 老 僧 一、 宿 契 不 レ浅、 志 操 可 レ貴。 不 レ可 レ不 レ示 二法 旨 一。 昔 釈 迦 老 子、 将 レ示 レ滅 時、 以 二正 法 眼 一、 付 二大 迦 葉 一。二十八伝而至 二達磨 一、六伝而至 二曹渓 一、 又六伝至 二臨済 一、八伝至 二黄龍 一、 又八伝而至 レ余。今以付 レ汝、 汝当 二護持 一。佩 二此祖印 一、 帰 レ国布 レ化、
一〇五 明庵栄西の在宋中の動静について︵下︶ ︵佐藤︶ 開 二示衆生 一、継 二正法命 一。故伝 レ衣以為 二法信 一、汝当 レ為 二東国之祖 一。遂辞 レ菴帰 レ国。廼建久二年、師年五十一。 と記されており、 ﹃興禅護国論﹄ ﹃元亨釈書﹄の内容とは微妙に相違させている。同じように書き下してみるならば、 紹 熙 二 年 の 秋、 虚 菴 を 辞 す。 菴、 伽 黎 を 付 し、 并 び に 書 し て 曰 く、 ﹁ 日 本 の 千 光 大 法 師、 霊 骨 有 り、 此 の 法 を 弘 持 し、 万 里 を 遠 し と せ ず、 我 が 炎 宋 に 入 り、 宗 旨 を 探 賾 す。 尋 い で 本 国 に 返 り、 夢 境 に あ る こ と 恰 か も 二 十 年、 今 又 た 再 び 此 の 方 に 遊 び、 老 僧 に 相 い 従 う、 宿 契 浅 か ら ず、 志 操 貴 ぶ べ し。 法 旨 を 示 さ ざ る べ か ら ず。 昔、 釈 迦 老 子、 将 に 滅 を 示 さ ん と す る 時、 正 法 眼 を 以 て 大 迦 葉 に 付 す。 二 十 八 伝 し て 達 磨 に 至 り、 六 伝 し て 曹 渓 に 至 り、 又 た 六 伝 し て 臨 済 に 至 り、 八 伝 し て 黄 龍 に 至 り、 又 た 八 伝 し て 余 に 至 る。 今 以 て 汝 に 付 す、 汝 当 に 護 持 す べ し。 此 の 祖 印 を 佩 び て、 国 に 帰 り て 化 を 布 き、 衆 生 に 開 示 し、 正 法 の 命 を 継 げ た ま え。 故 に 衣 を 伝 え て 以 て 法 の 信 と 為 さ ん。 汝 当 に東国の祖と為るべし﹂と。遂に菴を辞して国に帰る。廼ち建久二年、師の年は五十一なり。 と い っ た 具 合 に な ろ う。 こ の よ う に﹁ 明 菴 西 公 禅 師 塔 銘 ﹂ で も﹃ 元 亨 釈 書 ﹄ の 記 載 を 受 け て 懐 敞 の こ と ば を 伝 え て い る が、 と く に 相 違 す る の は﹁ 汝 当 レ為 二東 国 之 祖 一﹂ の 一 語 が 付 さ れ て い る こ と で あ り、 後 世、 栄 西 は 日 本 禅 宗 の 始 祖 と し て の 地 位 が 与 え られるようにな る 14 。
天童山を辞して帰国する
栄西が天童山の懐敞のもとを辞して帰国の途に着いたのは、 南宋の紹煕二年 ︵日本の建久二年、 一一九一︶ 秋七月のことである。 ﹃ 興 禅 護 国 論 ﹄ 巻 中﹁ 第 五 宗 派 血 脈 門 ﹂ に は 明 確 に﹁ 遂 宋 紹 熙 二 年 辛 亥 歳︿ 日 本 建 久 二 年 ﹀ 秋 七 月 帰 レ国 ﹂ と あ る か ら、 栄 西 は 紹熙二年秋七月に日本に向けて帰国の途に着いたことが知られる。この点、 ﹃元亨釈書﹄の栄西伝では単に﹁紹熙二年秋、 辞 レ 菴﹂ と あ り、 一 方 で﹁ 西 趨 出、 到 二奉 国 軍 一︿ 今 改 二慶 元 府 一 ﹀、 乗 二揚 三 綱 船 一、 著 二平 戸 島 葦 浦 一。 本 朝 建 久 二 年 辛 亥 也 ﹂ と も 記 さ れ て い る。 ﹁明菴西公禅師塔銘﹂では﹁紹熙二年秋、辞 二 虚菴 一 。︵中略︶遂辞 レ 菴帰 レ 国。廼建久二年、師年五十一﹂と記されている。 こ れ ら に よ れ ば、 栄 西 は 秋 七 月 に 天 童 山 の 懐 敞 の 席 下 を 辞 し て 急 い で 明 州 の 港 に 赴 い た も の ら し く、 と く に﹃ 元 亨 釈 書 ﹄ で は﹁ 奉 国 軍︿ 今 は 慶 元 府 と 改 む ﹀ に 到 り、 揚 三 綱 の 船 に 乗 り、 平 戸 島 の 葦 浦 に 著 く。 本 朝 の 建 久 二 年 辛 亥 な り ﹂ と そ の 行 程 を 書 き 記 し て い る。 奉 国 軍 と は 明 州 の こ と で あ り、 唐 宋 代 に 奉 国 軍 節 度 が 置 か れ、 慶 元 元 年 ︵ 一 一 九 五 ︶ に 慶 元 府 と 改 め ら れ て い る。 ま た 揚 三 綱 と は 栄 西 が 帰 国 す る 際 に 便 乗 し た 船 の 持 主 で あ り、 日 宋 間 を 往 来 し て い た 博 多 在 住 の 海 商 で あ っ た と 見 ら れ る。一〇六 明庵栄西の在宋中の動静について︵下︶ ︵佐藤︶ おそらく栄西は七月中には日本の地を踏んだものと見られ、着岸したのは筑前 ︵福岡県︶ 平戸島の葦浦であったとされる。 ところで、興味深いのは﹃元亨釈書﹄の栄西伝に、 初良辯謗 レ西。一夕夢、西自 二宋国 一帰齎 二白米 一、普種 二諸州 一。覚後改悔、称揚帰降。間有 二誹者 一、辯曰、勿 レ言、西公非 二汝等毀誉境界 一。 と い う 記 事 が 存 し て い る こ と で あ る。 こ れ は 帰 国 し た 栄 西 を 誹 謗 し た 筑 前 筥 崎 の 良 辯 に 関 わ る 記 事 で あ り、 初 め 栄 西 を 排 撃 し て い た 良 辯 が や が て 栄 西 に 帰 順 し た こ と を 語 る 一 段 で あ る。 そ こ に 栄 西 が 宋 国 よ り 帰 る 際 に 白 米 を 齎 し、 そ れ が 日 本 国 内 の 諸 州 に 植 え ら れ た と い う 逸 話 が 伝 え ら れ て い る。 こ れ が 史 実 で あ れ ば、 栄 西 は 南 宋 の 浙 江 の 地 か ら 何 ら か の 新 米 を 齎 し て い る こ とになり、日本文化史上においても注目される内容といえる。さらに同じく﹃元亨釈書﹄の栄西伝には、 建久三年、於 二香椎神宮側 一、構 二建久報恩寺 一、始行 二菩薩大戒布薩 一。 と あ り、 栄 西 が 帰 国 し て ま も な い 建 久 三 年 ︵ 一 一 九 二 ︶ に 筑 前 の 香 椎 神 宮 の 傍 ら に 建 久 報 恩 寺 を 創 建 し、 初 め て 菩 薩 大 戒 の 布 薩 を 行 な い、 集 ま っ た 道 俗 に 禅 宗 の 菩 薩 戒 血 脈 を 授 与 し た こ と が 伝 え ら れ て い る。 こ れ は 日 本 に 戻 っ て 拠 点 寺 院 を 創 建 し た 際、 栄 西 が 黄 龍 派 の 懐 敞 か ら 伝 持 さ れ た 臨 済 宗 所 伝 の﹁ 仏 祖 正 伝 菩 薩 戒 ﹂ を 人 々 に 付 与 し た こ と を 語 る も の で あ り、 い わ ゆ る 禅 宗 の授戒会を初めて挙行して血脈を授与したことを意味しよう。
栄西が南宋で見聞した記事
栄 西 は そ の 著 作 の 中 で 随 処 に 南 宋 の 地 内 や 禅 刹 な ど で 見 聞 し た 記 事 を 載 せ て い る こ と か ら、 そ れ ら を 整 理 す る こ と に よ っ て、 栄西が南宋社会でなした具体的な活動の一端を窺い知ることができよう。 ﹃興禅護国論﹄巻下﹁第九大国説話門﹂には、 謂語 二西天・中華見行之法式 一、而欲 レ令 三信行人入 二仏法大海之中 一矣。西天事伝言有 レ四。 一、 昔鎮西筑前州博多津、 両朝通事李徳昭、 八十歳之時語曰、 余昔二十有餘歳、 於 二東京 一見 二梵僧 一、 下著 二単裙 一、 上披 二袈裟 一、 冬苦 レ寒而不 レ 著 二餘衣 一、明春帰 二西土 一曰、若在 レ此犯 二仏制 一矣。 ︿宋乾道四年、日本仁安三年戊子﹀ 。 二、 成 都 府 僧 語 曰、 淳 煕 元 年︿ 甲 午 ﹀、 黎 州 有 二梵 僧 来 一、 意 気 神 通、 誦 二神 呪 一口 放 レ光、 聞 者 差 レ病。 下 著 二単 裙 一、 上 披 二単 衣 一、 冬 月 極 寒、 諸 僧与 二綿衣 一、遮 レ手不 レ著、謂 レ非 二聖開 一。恐 レ犯、明春帰 二西天 一、云云。 ︿于 レ時宋紹煕元年、日本建久元年庚戌﹀ 。 三、 広 府 僧 語 曰、 崑 崙 五 十 餘 洲、 商 舶 逐 レ年 往 来。 時 僧 来 穿 レ耳 繋 レ環、 下 著 二単 裙 一、 上 披 二単 衣 一、 与 二西 天 一大 同。 冬 月 不 レ著 二綿 衣 一、 見 二唐 僧一〇七 明庵栄西の在宋中の動静について︵下︶ ︵佐藤︶ 威儀 一、不 二讃嘆 一、云云。 四、 天 台 山 修 禅 寺︿ 今 大 慈 寺 ﹀ 和 尚 祖 詠 語 曰、 聞 西 土 毘 耶 里 国、 維 摩 居 士 方 丈、 于 レ今 見 在。 南 海 僧 常 到 二菩 提 樹 下 一礼 二観 音 一。 大 那 蘭 陀 寺 有 二五千僧 一、多誦 二三蔵典 一。又仏鉢和修衣皆見在。八塔所 レ在、諸人往返巡礼。是皆今時之事也。 又宋朝奇特、 有 二二十箇 一。 一、 淮南僧語曰、 清涼山文殊、 乗 二師子 一現、 云云。 二、 天台山時生身羅漢現、 足跡亦光明。 三、 石橋青龍現、 現則雨下。 四、 国 清 寺 等 聖 跡、 一 一 儼 然。 五、 育 王 山 舎 利 放 レ光。 六、 育 王 山 鱺 鰻 現、 現 則 雨 下。 七、 僧 威 儀 不 レ乱。 八、 寺 中 寂 静。 九、 多 有 二灰 身 人 一 也。 淳 煕 十 六 年︿ 己 酉 ﹀ 春、 象 田 寺 僧 灰 身︿ 今 当 二十 年 一 ﹀。 十、 僧 多 知 二死 期 一。 十 一、 俗 人 持 二菩 薩 戒 一。 十 二、 童 子 持 二五 戒 一。 十 三、 道 俗 無 我。 十 四、 東 掖 山 普 賢 放 レ光。 十 五、 仏 殿 如 二生 身 仏 住 一。 十 六、 経 蔵 僧 堂 荘 厳 如 二浄 土 一。 十 七、 帝 王 必 受 二菩 薩 戒 一。 十 八、 無 下僧 営 二田 業 一 者 上。十九、畜生多有 二人情 一。二十、官法不 レ邪 二枉人民 一矣。 と い う 記 載 が 存 し て お り、 お そ ら く こ れ ら の 内 容 は 栄 西 の﹃ 在 唐 記 ﹄ に 筆 録 さ れ て い た も の で あ ろ う。 そ こ で 以 下、 こ れ ら の 項 目 の 一 々 に つ い て 検 討 し て み る こ と に し た い。 は じ め に﹁ 謂 く、 西 天・ 中 華 に て 見 に 行 な わ る る の 法 式 を 語 り て、 信 行 の 人 をして仏法大海の中に入らしめんと欲す。西天の事、 伝えて言うに四つ有り﹂ とあるが、 これは栄西が西天 ︵インド︶ と中華 ︵中国︶ と い う 二 大 国 で 現 に 行 な わ れ て い る 法 式 の こ と を 語 っ て、 仏 法 を 信 じ 行 な お う と す る 日 本 の 人 々 を 仏 法 の 大 海 に 導 き 入 れ ん と するものであり、まず西天の僧のことについて四つの記事を挙げている。 最 初 に 取 り 挙 げ ら れ て い る の は、 第 一 次 の 入 宋 に 際 し て 筑 前 ︵ 福 岡 県 ︶ 博 多 津 に お い て 両 国 通 事 の 李 徳 昭 か ら 直 に 伝 え 聞 い た 逸話であり、 一 つ に、 昔、 鎮 西 筑 前 州 博 多 津、 両 朝 通 事 の 李 徳 昭、 八 十 歳 の 時 に 語 り て 曰 く、 ﹁ 余、 昔、 二 十 有 餘 歳 に し て、 東 京 に 於 い て 梵 僧 を 見 る。 下に単裙を著け、 上に袈裟を披し、 冬に苦寒にして餘衣を著けず。明春、 西土に帰るに曰く、 ﹃若し此に在らば、 仏制を犯さん﹄と﹂と。 ︿宋 の乾道四年、日本の仁安三年戊子なり﹀ 。 と い う 内 容 で あ る。 こ の 点 に つ い て は 第 一 次 の 入 宋 に 至 る 過 程 と し て す で に 詳 し く 触 れ た と こ ろ で あ る か ら、 こ こ で 改 め て 論 じることはしない。 つぎに示されているのも、同じく西天の梵僧が蜀地 ︵四川省︶ にやって来たことに関する記事であって、 二 つ に、 成 都 府 の 僧、 語 り て 曰 く、 ﹁ 淳 煕 元 年︿ 甲 午 ﹀、 黎 州 に 梵 僧 の 来 た れ る 有 り、 意 気 神 通、 神 呪 を 誦 す れ ば 口 よ り 光 を 放 ち、 聞 く 者