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エヴィンキの人々の社会組織と牧畜経済:ジューに注目して

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(1)

エヴィンキの人々の社会組織と牧畜経済:ジューに

注目して

著者

那孫 孟和

学位授与機関

Tohoku University

学位授与番号

11301

URL

http://hdl.handle.net/10097/00128926

(2)

エヴェンキの人々の社会組織と牧畜経済

ジューに注⽬して

調査地の⼀世帯の屋敷地、ドローンで撮影

資源環境経済学系 国際開発学研究室

学籍番号 B3AD1106 氏名 那孫孟和

(3)

⽬次

エヴェンキの⼈々の社会組織と牧畜経済

... I

第⼀章 エヴェンキの⼈々の社会組織と牧畜経済

... 5

第⼀節 課題の設定 ... 5 第⼆節 課題の背景 ... 7 第三節 親族関係に着⽬する理由 ... 9 第四節 研究の⽅法とデータ収集... 10 第五節 調査ガチャーの概要... 11 1. ⼈⼝流⼊と他⺠族との通婚 ... 11 2. 集落と居住様式 ... 14 3. ⼆重⽣活の発⽣とその要因 ... 15

第⼆章 エヴェンキと少数⺠族政策

... 17

第⼀節 エヴェンキ族の⺠族誌概要 ... 17 第⼆節 先⾏研究から⾒たエヴェンキの⽒族制度 ... 20 第三節 ⺠族政策 ... 25 1. ⺠族政策 ... 25 2. 教育と⾔語 ... 27 第四節 現代の⾏政機構と制度 ... 31

(4)

1. エヴェンキ族⾃治旗の⾏政 ... 31 2. ソムとガチャー ... 33

第三章 草地政策と牧畜政策

... 36

第⼀節 草地政策 ... 36 1. 請負地制度 ... 36 2. 草地管理の制度 ... 37 第⼆節 牧畜政策 ... 42 1. エヴェンキ族⾃治旗の牧畜の現状 ... 42 2. 歴史的背景 ... 44

第四章 ソロン・エヴェンキ社会に観察される親族関係:

ジュ

ーの編成

... 48

第⼀節 親族関係の呼称と特徴 ... 48 1. 従来の親族関係と呼称 ... 48 2. C ジューにみるモホンの特徴 ... 51 第⼆節 ジューの編成原理... 54 第三節 ⽣産・財産関係にみる活動単位 ... 57 1. 牧畜と家畜管理 ... 58 2. ⼟地管理と財産配分 ... 62

(5)

第四節 まとめ ... 64

第五章 ソロン・エヴェンキの牧畜経済におけるジューの役割と意義

... 66

第⼀節 家畜 ... 66 1. ⽜乳と⾁と⽑⽪ ... 68 2. 草刈り、放牧、⽜舎での飼育... 69 第⼆節 家畜飼育の年間作業... 71 第三節 乳業 ... 73 第四節 A ガチャーにおける請負地の利⽤現状 ... 74 第五節 ジューの牧畜の現状 ... 77 第六節 ジューの役割 ... 80 1. 草刈り労働と⼤型機械の導⼊... 80 2. ⽺の放牧 ... 84 3. ジューの分析 ... 86

結論

... 89

第⼀節 要約 ... 89 第⼆節 研究課題に対する結果と総括 ... 90

(6)

附表

... 96

附表 1 「エヴェンキ族⾃治旗草原管理条例」 ... 96 附表 2 現地調査と調査で⼊⼿した資料について ...100 附表 3 家畜頭数データ ...101 附表 4 住⺠の世帯当たりの主な所得内枠 ...102 附表 5 請負地の⾯積 ...103

参考⽂献

... 105

中国語 ...105 ⽇本語 ...106 モンゴル語(⽇本語訳の題⽬で記す)...108 英語 ...109

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5

第⼀章 エヴェンキの⼈々の社会組織と牧畜経済

第⼀節 課題の設定

開発論では共同体が分業を適切な協業関係へ調整し、組織の原理を提供しているとし て積極的な役割を再評価している。速⽔佑次郎によれば、「村落や部族などの共同体は前 近代的な組織として意識され、近代的発展の桎梏とみなされがちであった。だが実際に は、(中略)近代的な経済発展を⽀えるに不可⽋な組織の原理を提供している」(速⽔ 1995,254)。また、「共同体は合意に基づく協⼒により、分業を適切な協業関係へ調整 する役割を担うのである」(同上,255)。速⽔のいう「共同体」とは濃密な⼈的交流によ って形成される信頼関係で結ばれる集団である(同上,254)。 しかしながら、共同体即ち伝統的関係により編成される組織が具体的にどのように編 成されているかは⼗分な検討がなされてはいない。本論⽂は経済発展の過程で新たに編成 される共同的な集団組織というものがどのように編成されているかをエヴェンキの先⾏研 究を踏まえながら検討し1 、そのうえでその集団がどのような役割を担っているのかを具 体的に明らかにする。本論⽂はこのような事例の⼀つとしてジューに注⽬する2。ジュー は親族関係で結ばれた数世帯からなり 、牧畜の放牧のために共同で作業する集団である 3。エヴェンキの⽣業の基本は牧畜である。本稿では、草地制度・政策の変化の下で、エ ヴェンキの⼈々がこのような⽣業に、どのように取り組んでいるのか、さらに急速な経済 発展の中でどう変化しているのかを検討するものである。 近年、中国政府による様々な少数⺠族政策が制定され、それを背景として辺境地域で ⼤規模な経済開発が進⾏している。こうした環境の中で⼩規模な家族単位の牧畜の経営に 加え、村のコミュニティ内部やエヴェンキ社会の全体も⼤きく変化しつつある。マスメデ 1 中国のエヴェンキ族⼈⼝は約 3 万⼈、ダグール(達斡尓)族の⼈⼝は約 13 万⼈、オロチョン族 の⼈⼝は約 8 千⼈であり、この 3 つの⺠族は⼈⼝規模が⼩さい内モンゴルの少数先住⺠であ り、中国の「三少⺠族」と呼ばれる。本論⽂では、単にエヴェンキという場合には、中国国内 のエヴェンキ族⼀般を指すが、コンテクストからソロン・エヴェンキであることが明らかな場 合でも単にエヴェンキと記すことがある。 2 本稿で親族という場合、特に断りがなければ⽇本の⺠法や⼈類学⽤語同様に婚姻による法定親族 を含む。

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6

ィアから当該⺠族の研究者まで、エヴェンキを狩猟採取⺠として位置付けてきたが、激変 する現代エヴェンキ社会の実態を正確かつ⼗分には伝えていない。牧畜⽣業を始めとする 社会経済的変化が著しい現代エヴェンキ社会は、伝統的な狩猟採取⺠や遊牧⺠などと⾔っ たステレオタイプな⾒⽅とはかけ離れた現状にある。そこで本研究は、⽣業である牧畜の 現状を詳細に検討し、エヴェンキ社会の変化を明らかにする。 現在のエヴェンキは⽣業によって、牧畜エヴェンキ(騎⾺エヴェンキ)、農業エヴェ ンキ、トナカイ・エヴェンキ(馴⿅エヴェンキ)に分けられる。トナカイ・エヴェンキで あるオルゴヤ・エヴェンキは全⼈⼝ 300 ⼈弱で、清朝以前からトナカイを所有しつつ森 林の中で遊牧する⽣活をしている。しかし、森林の中で定住する⼈⼝は 60 ⼈だと⾔われ ている。牧畜エヴェンキとされるツングース・エヴェンキとソロン・エヴェンキは服装と ⽅⾔が⼤きく異なるが、⽣業についてはともにモリン(⾺の意味)エヴェンキとも呼ばれる ことからもわかるように、現在はトナカイではなく⽜⾺⽺を主な家畜として定住牧畜を営 む。エヴェンキの⽣業についての研究は、オルゴヤ・エヴェンキの⿅飼育にとどまり、⼈ ⼝割合が多い騎⾺エヴェンキ、農業エヴェンキ、牧畜エヴェンキについてはほとんど研究 されていない。 今までの研究報告では、エヴェンキの社会では⽒族制度が 1960 年代に消え、その後 は中国の社会にうまく適合できたと⾔われている。共産党の少数⺠族優遇制度による恵ま れた状況の下で、エヴェンキの⼈々は幸せな現代⽣活を送っており、中国の様々な政策の 実施後は⼀気に原始社会から現代社会へ移り変わった、等々と報告されている。しかし実 際にエヴェンキの牧畜経営が今どのようになっているのかは明らかになっておらず、本研 究は、このような問題意識に答えるべく現地調査を⾏った実証的な研究である。本研究で はエヴェンキの⽣業の変化に伴い、彼らが協⼒グループの選択をどのように⾏ったか、ま たその選択したグループがどう変化したかを明らかにする。その中でエヴェンキの社会を ⽀えてきた「親族・集団関係」の形態とその変化の過程を観察する。

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7

第⼆節 課題の背景

17 世紀から 20 世紀初頭までユーラシア⼤陸の東⽅を統治した清帝国時代、エヴェン キ⼈はソロン⼋旗という軍事・⾏政集団に編⼊され4、清帝国の統治に⽋かせない⼤事な 軍事⼒を提供していた。彼らは清帝国の⾂⺠でありながら、統治者の満洲⼈にとって重要 な盟友の⼀つでもあった。ところが、⻄洋で起きた⼯業⾰命と近代化の⼤波が東洋へ波及 する中で、清帝国はその対応に追われて様々な改⾰を⾏ったが最終的に崩壊の運命を免れ なかった。その後、半世紀余りに渡る植⺠地時代や中国の内戦を経て中華⼈⺠共和国が誕 ⽣した。この新政権はマルクス主義を信憑する社会主義多⺠族国家として発⾜し、マルク ス主義社会発展論は⼈々のイデオロギーを⽀配した。そうした国家イデオロギーのもと で、主体⺠族の漢⺠族の農業社会はもっとも先進的と⾒なされ、社会発展の初期段階と⾒ なされていた狩猟採集に依存しながら、⼩規模な牧畜を営んで⽣活していたエヴェンキ⼈ 社会は「原始的・後進的」集団として扱われるに⾄った。東北⼤学などで⾏われている研 究をみても、このような従来の研究の延⻑線上にあるように思われる。すでに失われたか 失われつつある原始的・後進的特徴を留めた⺠俗慣習に関⼼が集中しており、組織集団が 再構築されてグループ協業などが起こっている現在の変化を把握できない。本研究は⼈類 学の研究を踏まえつつ、学際的研究を志向して観察に基づいた分析を⾏う。 20 世紀後半になると改⾰開放政策と⾃由主義市場経済が効果をあげ、中国は経済⼤国 として台頭する⼀⽅、過度な資源開発や⼯業汚染物排出による環境問題に悩まされ始め た。こうした課題に直⾯した上で、世界的に流⾏った原住⺠⽂化への再評価の影響も加 え、近年ではエヴェンキなど「原始的」⽣業を営んでいる集団の⽣活⽅式は「⾃然と調和 的」や「環境保全意識が⾼い」と評価され、理想化されている。こうした評価の是⾮をと もかくとしてその「⾃然と⼈間が⼀体として⽣きる」というイメージが、経済的に発展し たものの⾃然環境の破壊が進んだ中国領内の他の地域から多くの観光客を引き寄せてい る。こうして観光業が脚光を浴びる中で、「原始的」エヴェンキの⽂化や社会は本質化さ れ、観光資源化され、「⽒族社会」としてのイメージがその最⾼の売れ処として舞台化さ れている。 4 清朝の⼋旗組織とは、清朝時代のモンゴル地域に設置された⽀配機構で、満洲⼈が⽀配した階層 化された社会組織、軍事組織のことである。

(10)

8

中国全体における環境危機意識が⾼まりつつあることで、エヴェンキ的な⽣活実践が 初めて価値を付与されたことは⾔うまでもない。しかし、エヴェンキ⼈⾃⾝は彼らが⽣活 している環境をどのように認識しているのかという問題が⼈々の⽬に留まることはなく、 問題の核になっているのは経済の基盤を⽀える草地と牧畜である。外部の⼈々の理想とし てのエヴェンキのイメージが固まるに従って、これらの現実問題に直⾯するエヴェンキに 対する知的関⼼は薄れている。これに対して、本研究は現地調査に⽴脚した実証研究を通 じて「現実としてのエヴェンキ」を学術研究の系譜上に位置付けることが最終⽬的であ る。 中国建国以降は様々な議論があったが、現在のエヴェンキの社会の伝統⽂化の実態に ついては詳細な観察が必要である。現在のエヴェンキを理解するのに⼀番重要なのは⽣業 であり、経済活動であろう。そこでエヴェンキの伝統⽂化は経済活動の中にどう結びつ き、どう⽣きているかを観察することが重要である。エヴェンキの⼈々は他者と共存しな がら、特徴のある親族集団を保って牧畜経済に役に⽴たせている。⽣業の中⼼は今⽇で は、⽜⾺と⽺の牧畜である。⽣産、販売、消費という活動は個⼈で完結するだけではな く、社会的経済的かかわりの中にエヴェンキとしての特質があるのではないか。ただ儀 式、催事などだけではエヴェンキの現在は分からない。草地の管理や、家畜の飼育管理な どにみられる共同作業、協⼒関係にエヴェンキの特質が⽣き残っているように考えられ る。そこで、これらの実態を観察するとともに草地政策や牧畜経済政策の特徴とその影響 を詳細にみる必要がある。エヴェンキ族の⼈々は急速な経済開発・発展の中に置かれ、経 済格差、環境問題、⺠族の独⾃性の保持など様々な問題に直⾯している。中でもそれまで ⾏われてきたエヴェンキ族の経済と⽣活と⽂化の核を成してきた狩猟も遊牧も禁じられ、 定着牧畜を余儀なくされるようになった。これは最も根本的な変化であり、⼤きな変更を エヴェンキ族の社会と経済に与えている。この⼤きな変化の中でエヴェンキ族がどのよう に対応しているか、また政策的にどのように位置づけられているのか明らかにすることが 本研究の⽬的である。

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9

第三節 親族関係に着⽬する理由

かつて⽂化⼈類学分野で注⽬を集めた「未開社会」、「原始社会」、「部落」、「⽒ 族」といったトピックの核⼼であった親族研究は、植⺠地主義列強が近代世界に覇権を確 ⽴する過程に加担したという⼈類学の内省によって、近年徐々に研究者の視野から外れ た。それにもかかわらず、本研究はあえて、⼀世紀ほど前の⼈類学者が過度ともいえるほ ど注⽬していた親族関係を取り上げる結果になったことは時代遅れの感覚との批判を受け るであろうことは否めない。しかしながら、親族関係が現在の⽣業を⽀え変化する状況に 対応する上で重要な意味を持っていることがフィールド調査で観察されている。⼈⺠公社 の解体と牧草地の請負制の展開の結果、牧畜業の在り⽅にも⼤きな変化が進⾏している。 現在の牧畜経営では、⼤型機械の利⽤、牧草地の管理、家畜飼育管理の労働⼒の確保が⼤ きな課題となっている。その中で特に注⽬されるのが、牧畜⺠⾃⾝の経営対応の過程でグ ループ化の傾向がみられる点である。特に乳業の発展とともに⼤型機械の導⼊とその貸し 借りが活発に⾏われているが、これが⾎縁関係をベースにして展開されていることが分か った。その⾎縁関係とは、ジューと呼ばれる親族組織であり、伝統的なエヴェンキの親族 関係に基づいている。 そこで本研究では、牧畜経営の協業組織としてのジューを詳細に調べることにした。 変化への対応として個別経営のみではなく、集団的な対応があり、そこには伝統的な親族 関係の論理が重要な役割を⽰していることに注⽬した。エヴェンキの社会の変化を知る重 要な切り⼝である親族関係に着⽬すると、親族組織としては、ハラ(khal)、モホン (mokhon)、ニモル(nimor)、バルチャ(balcha)、ウリレン(urileng or ulireng)、 ジュー(juu)などが挙げられる。その中で牧畜経営において重要な役割を果たすジュー の起源や協業組織の編成を理解するためには⼈類学的知⾒が必要である。本研究では、⼈ 類学的な視点を踏まえつつ、世帯調査で詳細にヒアリングを⾏い、ジューの編成とその活 動を学際的に観察して分析した。合わせて⺠族政策の現況がどうなっているかその実態を 調査した。

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10

第四節 研究の⽅法とデータ収集

中国は東部、中部、⻄部という三⼤経済区に分けられる。内モンゴル⾃治区は地理的 には北部にあるが、⻄部⼤開発の対象地域に含められ、⼤開発が本格的に⾏われている (鄭杭⽣、奥島孝康編 2002,26)5。東部と⽐べて内モンゴル地域の住⺠の⽣活⽔準には ⼤きな格差があり、この格差是正のために⻄部⼤開発が始まった。しかしこの地域では、 近年、砂漠化の深刻化、環境・⽣態への破壊が懸念され、このような問題を起こさないよ うに⼗分配慮すべきという指摘がある(同上,29)。当該地域にはモンゴル族をはじめ多 数の少数⺠族が存在しており、彼らの置かれた状況をつぶさに観察記録することによっ て、経済開発と⺠族政策の本質と課題が明らかにできるだろう。本研究は、インタビユー と観察によってエヴェンキ内部社会の動きを記録し、その変化の段階の実態を解明する実 証的研究を⽬指している。このような研究によってエヴェンキ族の特質とエヴェンキを対 象にした⺠族政策の本質とその影響が明らかにできよう。 ⼈⼝7万位⼈のエヴェンキ全体のうち、本研究ではエヴェンキ⾃治旗のソロン・エヴ ェンキを対象に現地調査を⾏い、研究課題に照らして調査項⽬を設定して現地調査を⾏っ た。さらに調査村の選定については、急速な変化にさらされ、特に⽯炭開発、補償⾦など の分配で加速する変化の中で広⼤な草原管理と環境問題など⼤きな影響を受けて、エヴェ ンキ社会の⼤きな変化の特徴を観察しやすい村を選定した。筆者は 2012 年 8-9 ⽉、フル ンボイル市エヴェンキ族⾃治旗のエヴェンキの牧畜⺠が居住するガチャーを中⼼に 1 回 ⽬の現地調査を⾏った(計3回の現地調査、附表2)。エヴェンキ族⾃治旗は内モンゴル の東北部、フルンボイル市の東南端、⼤興安嶺の⻄側に位置する。本研究は様々な変化が 集約的に観察されるソムのガチャーを調査地とした。なお、本稿では調査地を B ソム (蘇⽊、鎮に相当)の A ガチャーと匿名で記す。A ガチャーは、B ソムに属する三つの ガチャーの⼀つである。本研究はそこで牧畜⺠にインタビューを⾏い、⽇常活動、⽣活様 式、社会関係について聞き取り調査をした。 具体的な調査の課題は牧畜の現状にエヴェンキの⼈々がどう対応しているかを明らか にすることであり、⽜や⽺など畜産のインベントリデータは、調査票を⽤いてヒアリング した世帯別の調査結果に基づく。世帯調査によると全世帯は 118 軒だったが、⾏政上の 5 中国の⾏政組織が、調査地の内モンゴルでは、省レベルが⾃治区、県レベルが⾃治旗、鎮或いは 郷レベルがソム(蘇⽊)、村レベルがガチャー(嘎査)である。

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⼾⼝登録では 138 世帯になっていた。夫婦で別⼾⼝として登録しているケースが 20 軒あ ったためである。また、本研究では、家畜の予防注射の現場に⽴ち会い、家畜の頭数の再 確認を⾏った。家畜頭数のデータを正確に把握するために、分析データは注射頭数のデー タに基づいた。注射頭数で漏れがあった場合は、調査票のヒアリングの回答を⽤いた。機 械の所有、牧草地の請負⾯積、粗収益などのデータも世帯別ヒアリング調査により収集し た。データの不⼗分な場合は、再度訪問するなどして正確を期した。また現在は携帯電話 が普及しているため、Wechat などソーシャルネットワークを利⽤して確認もした。

第五節 調査ガチャーの概要

1. ⼈⼝流⼊と他⺠族との通婚

過去 60 年のエヴェンキ族⾃治旗全体の⼈⼝変動を⽰したのが図 1 である。流⼊によ り漢族が激増して旗所在地である都市部を中⼼に圧倒的な割合を占めるようになった。 図 1 エヴェンキ族⾃治旗における⺠族別⼈⼝変動 単位:万⼈ 出所:旗誌編(1996)と現地調査資料に基づいて作成(鄂温克族⾃治旗誌編纂委員会編(以下全⽂ 「旗誌」と記す。 0 2 4 6 8 10 1953年 1960年 1964年 1971年 1975年 1978年 1983年 1990年 1998年 2004年 エヴェンキ族 ダグール族 モンゴル族 漢族 その他

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2010 年現在、住⺠登録によると A ガチャーには 301 ⼈が登録され、五つの⺠族から 構成されている。最も多いのがエヴェンキ族で 77%、モンゴル族とダグール族が各々9% を占めていた6。しかし、登録上 A ガチャーとなっているものの、他ガチャーなどに居住 する者が 43 ⼈、逆に他地域登録の A ガチャー居住者が 22 ⼈いたため、実際の A ガチャ ー居住⼈⼝は 280 ⼈だった。当ガチャーに居住する登録済と未登録の漢族流⼊⼈⼝は全 ⼈⼝の約 12%に達していた。 他⺠族の A ガチャーへの転⼊は 60 年代に始まり、最も多かったのが 90 年代であり、 転⼊者の 40 パーセントを占める(表 1)。転⼊理由については、男⼥に関わらず婚姻に よる転⼊が多い。次に多いのは「婚姻関係者の⾎縁」である。現在彼らはエヴェンキ族と 結婚することで、多くが既に当ガチャーの牧畜⺠として「農業⼾⼝」に登録され、牧草地 の請負権を得て牧畜業に従事している。ただし、漢族の中には、屋敷地内に⼟地を開墾し て⾃家⾷⽤の野菜農園を設けている者もいる。 表 1 年代別性別他⺠族*の A ガチャーへの転⼊理由 単位:⼈ 性別 ⼥性 転⼊年代別 ⼥性計 男性 転⼊年代別 男性計 移住理由 2000 1990 1980 1960 2000 1990 1980 1970 1960 トラック運転⼠ 1 1 婚姻 4 2 2 8 1 6 2 9 ⼤⼯ 1 1 「知識⻘年」地 ⽅⽀援 1 1 農業労働者 1 1 婚姻関係者の⾎ 縁 1 1 2 1 2 3 労働者の⾎縁 1 1 2 総計 4 4 3 1 12 1 7 5 2 1 16 注:*他⺠族とは、エヴェンキ族を除き他の漢族、モンゴル族、ダグール族、ロシア族を含む。 出所:現地調査により作成。 6 ダグール族の漢語表記は「達斡尓」で、⽇本では中国語読みに近い「ダフール」と呼ばれてい る。ダグール語の発⾳に最も近いのが「ダグール」であるため、本稿では「ダグール」とす る。

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13

牧畜⺠の暮らす農村地域においては、漢族の多くは少数⺠族との婚姻によりこの地域 内へ移住し、彼らの⼦供は男⼥を問わず「少数⺠族」として住⺠登録の⺠族欄に登録され 7、少数⺠族として扱われる。つまり、漢族でもモンゴル族でもエヴェンキの⼈と結婚し た場合には、⼦供は慣習としてエヴェンキと認められる。これは中国政府の優遇政策によ るものであるが、トナカイを飼養するフルンボイル市のオルゴヤ・エヴェンキに関する最 近の卯⽥の研究においても同様の報告がある(卯⽥ 2015)。農村部へ移住した漢族に少 数⺠族との結婚が多いのは、農村地域の⼈々との婚姻を通じて当地に住⺠登録して「農業 ⼾⼝」を得て、当地の少数⺠と同様の⼟地請負権を取得する権利を得られるからである。 このような権利取得が可能になったのは、1985 年から始まった請負制度による8。世帯 (⼾⼝)別にみた⺠族構成を表 2 に⽰す。 表 2 世帯(⼾⼝)別の⺠族構成(⼾⼝種類) 世帯主⺠族 農業⼾⼝ ⾮農業⼾⼝ 総計 エヴェンキ族 79 34 113 ダグール族 5 3 8 モンゴル族 7 4 11 ロシア族 1 5 6 回族 1 1 漢族 4 4 8 満州族 1 1 世帯主 集計 97 51 148 総計 97 51 148 出所:現地調査により作成。 7 中国では 1 つの世帯を 1 つの「⼾⼝」として⼾籍登録が⾏われている。「⼾⼝」登録情報は「⼾ ⼝簿」という冊に記載され、「⾮農業⼾⼝」と「農業⼾⼝」の⼆種類がある。都市住⺠と公務員 (役員)などの職のあるものは「⾮農業⼾⼝」に、農村の農⺠は「農業⼾⼝」に各々登録され る。農村に居住し「農業⼾⼝」と登録されることが⼟地の請負権を得る基本条件とされる。A ガチャーの場合、牧畜業を営む牧畜⺠であっても農村の農⺠と看做され「⼾⼝簿」に「農業⼾ ⼝」と記される。また「⼾⼝簿」に⺠族欄があって、⺠族名が記される。⽇本の⼾籍は国⺠登 録であり、親族登録であり、住⺠登録である。しかも⼾籍間の連結機能により⽇本⼈の全親族 関係が網の⽬のように登録されている。しかし中国の⼾籍「⼾⼝」には⼾⼝間の連結機能がな く、⽇本の⼾籍と異なる。 8 請負制度(中国語で「個⼈承包制度」という)とは、1978 年に⼈⺠公社の廃⽌後、⼟地の国家所 有のもとで、農地の経営を世帯別に請負する制度である。内モンゴルにおける牧畜⺠の場合は 「牧草地(中国語で草場という)」を請け負うことをいう。当エヴェンキ族⾃治旗では「家庭 経営為基礎的畜草双承包責任制」として 1982 年に世帯ごとの請負制度が導⼊され (旗誌 1996,388)。

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2. 集落と居住様式

A ガチャーは 2 つのウリレン(烏⼒楞、urileng; 集落)からなる(第 2 図)9。今⽇の B ソムでは、エヴェンキ語で集落を指す場合、ウリレンという。本稿では、A ガチャーの 現在の実態から、ウリレンは地縁による集落とみなしている。その 1 つは東にある集落 で J ウリレン(1940 年代、既に集住地であった)、もう 1 つは⻄にある集落で G ウリレ ン(1997 年建設)である。この J と G という 2 つのウリレンは単に居住を共にする集落 の性格が強いウリレンである。東⻄にそれぞれ 46 軒と 50 軒で、計 96 軒の家屋敷地が確 認できた(図 2)。しかし、「⼾⼝」登録上の世帯は 128 世帯であった(2010 年時 点)。このような差は、ガチャー外の居住者が登録していると共に、⼀軒当たりに⼀世帯 だけが居住するとは限らないためである。 図 2 ガチャーの世帯毎屋敷の位置図 注:⿊点は⼀軒の家屋敷地、線は道路を表す。 出所:現地観察により筆者作成。 9 卡麗娜もウリレンを同様の集落という意味で⽤いている(卡麗娜 2012)。孛・吉尓格勒他編 (2004,44)によれば、ウリレンは同⼀モホンからなる遊牧する牧⼾(世帯)であったという。 従来ウリレンは、親族関係の強固な集団によって構成されたものの、⽒族などの出⾃を決定す る親族集団⾃体を意味するものではなかった。

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A ガチャーのエヴェンキが居住する家屋は、40〜50 年代には、⼟壁作りの平屋にな り、90 年代後半から焼レンガ作りの平屋になった。以前は遊牧を⾏っていたため移動し やすいウッゲージューを使⽤していたが10、定住化が進んだ現在では夏の約 2〜3 ヵ⽉の 間にオトルに⾏く⼈しかウッゲージューを使わない11。牧畜⺠⾃ら⼜は何世帯かから委 託を受けた者が放牧のために請負地のオトルまで⾏き⽺放牧を⾏うケースである。

3. ⼆重⽣活の発⽣とその要因

他⺠族の流⼊、通婚という⼤きな変化が進んでいると同時にエヴェンキの⼈々の就業 も変化し、他のよりよい職業と快適な都市⽣活を求める動きも活発である。このことによ ってエヴェンキの⼈々が直⾯するのは教育とそのための⾔語、そして居住地の選択であ る。 従来エヴェンキはモンゴル語で教育を受けることが⼀般的だったが、現在は中国語で 教育を受ける⽣徒が増えている12。⼈⼝流⼊により、エヴェンキの⼟地にも漢族が増え、 中国語の必要性が急速に⾼まり、また就業に際しても中国語が有利とされる傾向があ る 。特に⾼学歴を⽬指し、より優れた教育を受けようとする者にとっては、中国語によ る教育が必須となっている。ソムや鎮という単位の地⽅の⼩中学校の多くが統廃合される 傾向にあり、B ソムの学校では⽣徒数が 2000 年代に⼊ると減少し、結局現在は⼩中学部 に通う⽣徒がいなくなり、幼稚園だけが残っている。良い教育を受けさせるために都市部 の学校に⼦⼥を寄宿させる傾向が強まり、⼀つの世帯がガチャーと都市の⼆ヵ所に分かれ て暮らす⼆重⽣活が急増している。 10 ウッゲージュー(ウルゲジュー)(uggejuu ⼜は urugejuu、語義は「家と部屋」)とは、エヴェ ンキ語で、簡単に組⽴ができる移動しやすい丸い屋根の居住施設である。モンゴル語のゲルに 相当。ジューとはエヴェンキ語の住む「家屋」を指し、または「うち」と⾔う意味もある。 11 当地域におけるオトルとは、牧畜⺠が⽺群や⽜群と共に⼀時的に集居地を離れ、簡易な⽣活⽤ 品を持ち、牧草の良い請負地・放牧地へ出かけるキャンプ地のことを指す(利光有紀 1983)。 12 従来は、殆どの⽣徒は、⼩学校から⼤学卒業まで⼀貫してモンゴル語で教育を受けてきた。学 校⽣活はおろか⽇常の⽣活でも、エヴェンキ語を使⽤する機会が急速に減少している。A ガチ ャーで使われている⾔葉はエヴェンキ語 、ダグール語、モンゴル語、中国語である。

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現在の A ガチャーの⼩学⽣は全員、都市部⾃治旗庁所在地の同⼀ジューの親類の家に 寄宿して通学している。後に詳しく述べる C ジューの事例では、2012 年現在、それまで に⼆世代 18 ⼈が⼩学校以上の教育を受けていたが、うち 16 ⼈がガチャーを離れ都市部 に寄宿していた。家庭の年配者が学校の近くに家を借り⽣徒を送迎する、或いは同じジュ ーの親族や知り合いの家に寄宿させるなどしている。同⼀ジュー以外の家庭に⼦⼥を寄宿 させる場合、寄宿費として⽉ 600 元程度(2012 年時点 1 元は約 13 円、⾃治旗の牧畜⺠ 1⼈当たり年間平均収⼊は「鄂温克族⾃治旗 2012 年国⺠経済社会発展統計公報」による と 12,765 元)が必要である。また経済条件が恵まれた家庭では、⼀家で都市部へ引っ越 し、ガチャーの家や家畜の管理などを同⼀ジューの親族や契約した労働者に頼むこともあ る。 前述のように A ガチャーに住⺠登録をしながらガチャー外に居住する者は 43 ⼈い た。これは、経済的に恵まれた⼈々を中⼼に特に⼦⼥の教育のための都市とガチャーの⼆ 重⽣活といった状況が進展しつつある証左といえる。その際ガチャーに残した⽣業である 牧畜の継続をジューに頼る事例が増えている。⼆重⽣活のような⽣活⾯以上に⽣産活動に おいてジューは重要な役割を果たしているとみられる。以下の章らでは牧畜⽣産がどのよ うに維持されているか、ジューを中⼼に検討する。

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第⼆章 エヴェンキと少数⺠族政策

第⼀節 エヴェンキ族の⺠族誌概要

エヴェンキ社会は、中国の経済発展に伴って著しい変化にさらされている。本稿は、 中国内蒙古⾃治区(以下「内モンゴル」)呼倫⾙爾市(以下「フルンボイル」)鄂温克族 ⾃治旗(以下「エヴェンキ旗」)のソロン・エヴェンキ社会を対象とし 、急速に変化す る社会経済情勢の中、中国の少数⺠族と位置づけられているエヴェンキの⼈々が、⽣業と する牧畜をどのように営み、急速に変化した⼟地制度のもとで牧畜を⽀える⼟地をどのよ うに管理しているかを検討し、伝統的な親族関係がどのような影響を受けているかを明ら かにしようとするものである。 遊牧時代、⼈⺠公社時代を経て遊牧が禁⽌され、定住化が進み、さらに⼟地が世帯ご との請負制へと変化した今⽇ 、⽣産様式は⼤きく変化してきた。とりわけ⼤きな変化は ⼟地請負制によって牧畜が個別経営に分解されてしまったことである。このような変化の 中で複数世帯からなるジューが⽣産活動や⽣活単位として重要な役割を果たしていること がフィールド調査から確認された。 エヴェンキ語でジューは、「居住施設」或は「⼀つの家屋に同居する⼈たちの関係 性」が元々の意味であるが、現在では上記のような共同で作業をする集団という性格が強 まっている。そこでこれまで注⽬されなかったジューに特に注⽬し、今⽇のソロン・エヴ ェンキ社会で果たす役割を事例的に観察する。以下で、まずエヴェンキ社会がどのように 捉えられてきたか概観したのち、経済発展とともに⽣じている地域の変化、特に他⺠族と の通婚13、都市とガチャー(嘎査、村に相当)の⼆重⽣活の発⽣、伝統的な親族関係の現 状、その内部構成に着⽬してジューの分析を⾏い、ジューがどのような集団として再定義 可能か検討する。これを踏まえて機能の⾯から牧畜における家畜管理と⼟地利⽤並びに中 国政府に徴⽤された⼟地の補償⾦の配分の諸点に着⽬し、彼等の⽣活実態からジューの特 質を明らかにする。 13 ただし、狩猟をやめ遊牧を始めた清朝時代より他⺠族(特にモンゴルやダグール)との通婚が 進んだものと推定され、通婚の歴史は決して短いものではない。

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エヴェンキ族は 、シベリア原住⺠の⼀つだったと⾔われており、「エヴェンキ」と⾃ 称している。エヴェンキとは「⼭の奥に住んでいる⼈」という意味である。今⽇、ロシア とモンゴルと中国にエヴェンキは居住している。中国領内のエヴェンキ族はソロン・エヴ ェンキ、ツングース・エヴェンキ(またはハムニガン・エヴェンキとも呼ばれる)、ヤク ート・エヴェンキ(またはオルゴヤ・エヴェンキとも呼ばれる)の 3 つに分類されてい る(孛・吉尓格勒他編 2004,1)。 本稿で扱うエヴェンキは、ツングース系⺠族の⼀つで、ソロン・エヴェンキは 17 世 紀前半にロシアの統治を避けてアムール川に沿って現在の中国⿊⿓江流域に移住、のちに 清朝に服属した。清朝は⾃らの⼋旗組織に基づいてソロン・エヴェンキを満洲的に再編し 「ソロン⼋旗」とした 。この影響を受け、彼らの⽣業は狩猟から遊牧に変化し、かつ遊 牧地域が限定された(旗誌 1996,79,114)。その後 1905 年の時点で、現在のエヴェンキ 族⾃治旗に相当する地域の⼈⼝はエヴェンキ 3,028 ⼈、ダグール 716 ⼈とモンゴルの⼀ 部族 651 ⼈になった 。ソロン・エヴェンキはモンゴル族やダグール族と混住し、モンゴ ルと同様に平原で遊牧をしていた。1980 年代から内モンゴル各地域では、中国政府によ る牧草地の⼟地請負制度の下で定住牧畜が始まり、現在に⾄った。 エヴェンキは、国家再編や異なる⽂化圏との接触、特にロシア、モンゴル、中国の国 境によって分断された結果、現在その差異の広がりが加速していると⾒られる。最近の中 国語やモンゴル語による研究では、エヴェンキ社会の現状、起源や伝統⽂化が報告されて いる。例えば、中国語では『鄂温克族社会歴史調査』(中国国家⺠委編 2009)や『鄂温 克⾃治旗概況』(杜哈拉編 2008)など、モンゴル語では『鄂温克族⺠俗⽂化研究』(斯 仁巴図他編 2008)などがある。他に、上牧瀬三郎(1940)、秋浦(1962)、クネヒト・ ペト(2005)、柳澤明(2007)、龔宇(2009)らによるソロンまたはオルゴヤ・エヴェ ンキに⾔及した研究報告がある。しかし、⽇本、欧⽶でのエヴェンキ社会の研究の多く は、後述の Anderson も含めロシア領内のトナカイ遊牧を営むエヴェンキを含む北⽅ツン グースを対象にするものである。 ジューのように親族関係を基礎とすると⾒られる集団の編成を明らかにするために は、伝統的親族関係を理解しておく必要がある。従来の研究報告としてよく知られる『ト ナカイに乗った狩⼈たち――北⽅ツングースの⺠族誌』(トゥゴルコフ 1981)は、ロシ ア領内のエヴェンキ社会の⽇常的⽣活、慣習などを詳細に描き、エヴェンキの社会を⽀え

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ていたのが⽒族制度であったとしている。また、シロコゴロフの⽂献は、ツングース諸族 を尋ね彼らの⽣活様式と社会構成を詳細に記録し、⽒族が彼らの⽣活の中で⼤きな影響を 与えていたとしている。ツングースの⼈々の間では、⽒族が彼らの⽣活のすべてであり、 同⽒族内の結婚の禁⽌、⽣存のための狩猟地の割当などについては⽒族の「⻑」の命令に 服従しなければならないという(シロコゴロフ 1942,391)。これはエヴェンキだけを対 象にした訳ではないが、⽒族(クラン)という集団、社会制度がツングース系の⺠族にと って重要な役割を果たしていたと⾔える。⽒族とは第⼀に神話、伝説上仮定された出⾃に よって組織された社会集団である。⽗親⼜は⺟親を通じてたどる単系出⾃で、族外婚をと もなう社会集団であり、平等対等な原則を持つ軍事的・宗教的・経済的組織であるとされ る(⽯川他編 1997,331)。 トゥゴルコフは、エヴェンキとシベリアの他のいくつかの少数⺠族の間では 1920 年 代まで⽒族制度が保たれていたとする(トゥゴルコフ 1981,110、113)。エヴェンキ族 の研究者の著作としては『鄂温克族社会歴史』(吴守貴 2008,487)、卡麗娜の研究 (2012)などがある。それぞれ⿊⻯江省にいるエヴェンキおよびオロチョンの社会の伝 統的狩猟について報告し、⽗系⾎縁関係による⽒族社会の特徴があるという。他⽅、中国 国内のエヴェンキとの関係は不明だが、Anderson はエニセイ河⾕下流域のエヴェンキに ついて詳細な研究報告をしている。その第 8 章では、現在のシベリアのエヴェンキにつ いて双⽅的親族(bilateral kin)があるとしている(Anderson 2000)。さらに、少数⺠族 が⺠族内婚規制(national endogamy)を採った場合、若い⼈々が婚姻相⼿を⾒つけるこ とが難しいなど親族関係の危機(kingship crises)に直⾯したエヴェンキを含むツングー ス系の⼈々の婚姻戦略について報告している。これらの既存研究のみでは親族、出⾃集団 の系譜関係を含めた実態が報告されておらず、従来⽒族社会と⾔われたものが⽗系⽒族だ ったのか⺟系⽒族だったのか或いは両⽅あったのか不明で、⽒族社会の構成と特徴を正確 に把握できない。中国の開放経済下においても、フィールド調査による実証的な研究が進 んでおらず、実態は依然として明らかでない。しかしながら、ジューの編成原理を検討す るためにはこれらの先⾏研究、特に⽒族制についての研究成果を踏まえた上で、筆者のフ ィールド調査の成果と突き合わせる必要があろう。 現在、中国のエヴェンキ社会は定住化、経済発展、資源開発といった急速な変化に直 ⾯している。⽣業の核になる牧畜は個別経営に分解されることになったが、筆者のフィー

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ルド調査ではジューのような親族関係が基礎とみられる集団が重要な役割を果たしている ことが観察された。現代の牧畜や⼟地制度の下で、牧畜経営が全く個別・世帯別に営まれ ているわけではないようである。 牧畜と家畜管理、⼟地利⽤と管理は、労働⼒の確保や機械の利⽤の点で個別の世帯の みでは遂⾏が困難であると考えられる。草地の徴⽤の補償⾦配分も補償された世帯が単独 で確保するわけではなく、⼀定の親族の中で配分される。このように⽣活や⽣産において 親族関係によって結ばれた集団が重要な役割を果たしている。その具体的な事例がジュー であった。そこでジューに着⽬してジューがどのように編成されるかを⼈類学の研究を踏 まえて検討し、牧畜や⼟地利⽤などの⽣産活動がどのように⾏われているか明らかにす る。

第⼆節 先⾏研究から⾒たエヴェンキの⽒族制度

清朝時代に佐領制度と辺⺠政策エヴェンキなど「辺⺠政策」によって、⽒族の⻑を佐 領に任命し、軍事的⼋旗制度に編⼊された。佐領は 3 つの⽒族(hala 下位の mohon、モ ンゴル語標記 mokhon、中国語表記は mokun とされる)の三⼈の⻑のうち最も有能者を 選び、佐領に任命したこともある(報告者の現地調査による DDJ ⽒のインタビュー)。 清朝時代には「⺠族」という概念がツングース系諸族の中で普遍化してなかったし、 調査を⾏う側の研究者でも現在の⺠族を単位とするグループを特定して観察していなかっ たため、「諸族」と統合的に記録していた。また、エヴェンキ⾃⾝が⽂字を持たないため 清朝以前の資料が⾮常に少なく、多くの本質に関わる点を確認するのは極めて難しい。清 朝の公⽂書に現れる点々とした根拠と研究者の記述のみがいくつか残されており、⽒族の 単位で具体的にどのように遊牧していたのかは明⽩ではない。「エヴェンキの特徴」を捉 えるには⽒族制度に焦点を当てた⼀貫性のある詳細な⺠族誌が必要である。以下、清朝以 降の研究を以下で検討しておく。 佐々⽊史郎(1989)は「アムール川下流域とサハリンの住⺠に対する統治政策」とい う論⽂を発表している。これによると、清朝は満州語の hala と呼ばれる⽗系⽒族と、満 州語で gašan と呼ばれる集落を⽀配に⽤いて、「辺⺠」(辺境少数⺠族)を⽒族・集落

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の単位で把握し⽀配した。この政策は太宗時代から清朝時代を通じて⼀貫していた(旗誌 1996,733)。各⽒族には⻑がいて、単⼀または複数の⽒族が⼀つの集落を形成し、集落 は清朝の⼾籍、納税(貂を主とし、狐、鼬などの⽪⽑)者台帳の基層区分(単位)とされ ていた。複数の⽒族が⼀集落を形成し納税したことが多く記録されている(旗誌 1996,735)。 「辺⺠」の⽒族には、⽒族とその下位集団があり、満州語では各々を hala と mokhon という。そもそも「辺⺠」の⽒族の内部では、hala や mokhon 単位で社会的宗教的⾏為 が⾏われていた。これを基礎に清朝が⽀配の単位として利⽤した。 満州族の⽒族では、各成員は全成員との親族関係を熟知することが義務付けられ、 「⽒族簿」(clan book)、「⽒族譜」(clan list)が作成、保管されていた。しかし、18 世紀の「辺⺠」たちの多くは⽂字を持たないため帳簿、族譜などがなく、5代⽬までは⼝ 頭で伝えられ、6 代⽬の時はほとんど成員間の親族関係が忘れられていた(旗誌 1996,735)。上位の hala という⽒族集団が実態を失い、その機能が下位集団に移⾏し た。hala レベルでの集団性を保てる領域の広さを越えるまで移動地が拡散拡⼤し、下位 集団の単位で遠くまで遊牧するようになった。その移⾏は各⽒族で異なった。 満州族は⽗系出⾃だとされているが、他の例えばナーナイ族などについては、系譜関 係が明らかな⽗系出⾃集団であるかどうかについて触れられていないと佐々⽊は報告して いる(1995,33-34)。 19 世紀中ごろから欧⽶特にロシア⼈による研究が進み、体系的に調査したのが Shrenk,L.の調査隊であった、1849 年からのアムール再侵略によって現地調査が可能にな り、1854-1956 年の 100 年に渡って、当時中国領内であったアムール川、松花江、烏蘇 ⾥江流域へ⼊り、⺠族学の他に、地理学、地質学、動物植物学者が参加した調査を⾏っ た。そして、以下の出版物で⼈類学、⺠族学関係の部分を報告した。

Shrenk,L. Ob inorodtsakh amurskogo kraya ( Vol.Ⅰ,1883, Vol.Ⅱ,1899, Vol.Ⅲ,1903) (書名訳:『アムール川流域の旅と研究』)

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Shrenk,L. Reisen und Forschungen in den Jahren. 1854-1856, Bd. 3Vols (1985 ~ 1900) (書名訳:『アムール川地⽅』)

Maak,R.K. Puteshestvie po reke Ussri (1861) (書名訳:『アムール川流域と烏 蘇⾥江流域の記録』)

これらは当時の重要な⺠族誌的記述であり、ツングース系諸⺠族に関する⼈類学、⺠ 族学的研究には避けられない重要な⽂献である。⽇本では Shrenk のドイツ語以外の原典 に接することが難しい。19 世紀末期〜20 世紀初頭には、Shirokogoroff,S.M、

Lattimore,O、Laufer,B、Lopatin,I らが厳密な調査を⾏い、多くの著作を出版した。 Psychomental Complex of the Northern Tungus (1936)はロシアと中国双国にまたがっ て分布するツングース系諸⺠族の⺠族組成、社会構造を総合的に捉えることを試みた⼤著 である。著者である Shirokogoroff はロシア⾰命後に中国へ亡命し、中国東北地⽅で現地 調査を⾏うことができた。 19 世紀初頭、ツングース系諸⺠族の⼈類的、⺠族的な調査研究を本格的に始めたのは ⿃居⿓蔵であり、代表著作は『⼈類学及び⼈種学上より⾒たる北東亜細亜』(1924)或 いは『⿃居⿓蔵全集』8 巻(1975)である。1809、1810(⽂化 6、7)年の間宮林蔵探検 以来、⼩川運兵、⽩⿃庫吉、池内宏、和⽥清、島⽥好など東洋史学者による歴史資料と欧 ⽶の⺠族誌との⽐較対照による⽂献研究が主流になった。1930 年代から 1945 年には、 ⽇本の研究者⾃⾝による実地調査が本格的に実施された。秋葉隆、⾚松智城、泉靖⼀らの 東京帝国⼤学と今⻄錦司に率いられる同⼤学の探検グループが代表例である。南満州鉄道 株式会社(満鉄)調査部も⾼い⽔準の調査を⾏い、優れた記録や研究論⽂を残している。 例えば、満鉄の広報誌として発⾏される『書⾹』の 1943(S18)年の 15 巻 6 号「ツン グース特輯」にツングース諸族に関する⼈類学、⺠族学関係の論⽂がまとめて掲載され、 学術的に重要な成果を挙げている。 これ以来、⽇本の研究者による研究調査は⼀時的に終⽌したが、1980 年代の⽂化⼤⾰ 命を終え、改⾰開放以降の⽇本の研究者による研究調査には以下のようなものがある。 ⼤塚和義(1988)、『草原と樹海の⺠−中国・モンゴル・草原と⼤興安嶺の少数⺠ 族を訪ねて』

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畑中幸⼦、原⼭隍(1990)、「中国東北部における⺠族誌的複合」『東北アジアの 歴史と社会』 ⾕野典之の⽂献⽬録(1991)「中国北⽅少数⺠族に関する中⽂⽂献⽬録」『ツングー ス⾔語⽂化論集 1』によると、1950 年代に「⺠族識別⼯作」に沿って、東北地⽅の奥ま で研究者が派遣され熱⼼な調査が⾏われた。『エヴェンキ⼈の原始社会形態』では 1960 −1970 半ばまで⽂化⼤⾰命で 10 年ほど中断され、80 年代からツングース諸⺠族に関す る研究が報告された(秋浦 1962)。 これまで挙げた研究報告の多くは、記述と紹介を並べたことが多い。⼤興安嶺の奥ま で⾏き、珍しい場所、珍しい習俗を⾒たと単純に⾒たことを記録し、⺠族誌的にそれなり の研究価値はあるが、分析⽅法に独創性がない点が指摘されている。以上の報告例ではツ ングース系諸族、更にエヴェンキの社会制度について詳細な学術上貴重な記録が記載され ている。著者たちは各々の時期に諸族の⽇常⽣活に実際に関与し、観察した出来事をイン タビューによる調査データを⽤いて当時の様⼦を再現して我々に⾒せようとしている。 エヴェンキは⽒族社会であったという説の根拠はハラ、モホンの存在である。ハラは 満洲語で苗字の意味であり、モホンは⼀族を意味する。出⾃理論に従えば、苗字は⽗或い は⺟のどちら⼀⽅から継承するものであり、モホンはそうした同じハラを持ち、同じ祖先 に辿ることができる⼈々の集まりを意味する。しかし、ハラ、モホンによって⼈々をカテ ゴライズすることは果たしてエヴェンキ⼈社会従来のやり⽅なのかどうかについて誰⼀⼈ も疑っていないようである。エヴェンキ語の意味からすれば現有のハラ名は河川や⼭など の上流或いは上部に⽣活する⼈々や、どこかの川沿いに⽣活する⼈々を意味する語であ り、そのサブ集団とされたモホンはハラ名の前に⼤、⼩、⻄、東といった規模、⽅向など を表した形容詞を加えたものである。実際、その⾔葉に何らかの親族関係を思い浮かばせ るような意味は含まれていなかったようである 。 エヴェンキ⼈は⽂字を持たないことが原因かもしれないが、ごく最近までエヴェンキ ⼈⾃⾝によるエヴェンキの研究はなく、ほとんど外部の何者かによるエヴェンキの描写で あった。その中で 20 世紀初頭のロシア⼈研究者による研究は系統的な調査に基づくもの であり、当時のロシアにおけるアジアへの興味とその研究⽔準の⾼さを⽰している。例え ば、シロコゴロフは中国に亡命中の間、数回に渡って中国東北地域から内モンゴル北部に

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広がるエヴェンキ諸集団に対する調査を⾏い、それに基づいて『北⽅ツングースの社会構 成』を出版している(シロコゴロフ 1942)。また、トゥゴルコフはロシア領内のトナカ イ・エヴェンキ⼈について⺠族誌をまとめている(トゥゴルコフ 1981)。両⽒の研究は 厳密な現地調査に基づくものであり、当時のエヴェンキ諸集団の現状を細かく描写してい る点では⾮常に価値があることは⾔うまでもない。しかし、彼らによって記述されたエヴ ェンキ社会の諸側⾯あるいは現象は当時流⾏っていた未開社会における⽒族制度研究のト ピックに即して選択されたものである。そのため、両⽒はツングース・エヴェンキの独特 な⽒族社会の構造的特質を描きだしたものの、ツングース諸集団の⽣活実践を通じて特定 の社会・⾃然条件が所与された⼈間集団の地域的営みが持つ深層の意味を照らし出す試み はなかった。 シロコゴロフの研究は同時代のマリノフスキーに代表されるイギリスの構造機能主義 ⼈類学からの影響を受けていた。こうした構造機能主義⼈類学を中国に広めたのは費孝通 である。彼はマリノフスキーとシロコゴロフ両⽅に教わったことがあり、その理論は現在 の中国における⼈類学研究に⼤きな影響を与えている。費孝通によると中国社会は「多元 ⼀体構造」を持ち、漢族と他の少数⺠族が全体的に「中華⺠族」を構成しているとする。 その中で特に⼈⼝規模が⼩さく、⽂化的同質性が⾼い、変化への対応が脆弱な集団は「⼩ ⺠族」とされた(包路芳 2006)。現在、中国におけるエヴェンキ研究は基本的に費孝通 が規定した「⼩⺠族」という視点から研究されている。例えば、孔繁志 2002『敖魯古雅 鄂温克⼈的⽂化変遷』、包路芳 2006『社会変遷与⽂化調適:遊牧鄂温克社会調査研究』 などが代表的である。当時「⺠族」という概念がツングース系諸族の中で普遍化していな かったし、⽀配者である清朝も調査を⾏う研究者の側でも現在の⺠族を単位とするグルー プを特定して観察していなかったため、「諸族」と統合的に扱っている。このような知⾒ からすればエヴェンキに⽒族制度があったかどうかについては疑義が残る。他⽅、本来的 にエヴェンキには⽒族があり、外婚規制、モホンとハラの集団があるからジューが再編で きたと佐々⽊史郎は主張する。次章のジューの観察によって調査地域のジューを確認す る。

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第三節 ⺠族政策

中国における政府の少数⺠族政策を俯瞰し、エヴェンキの位置づけを以下で明らかに しておこう。中国政府は現在 56 の⺠族を定義している。少数⺠族政策の特徴は⾏政機構 の在り⽅や⼟地に関する諸制度、⼈⼝・婚姻政策、学校教育、⾔語政策などに特徴的に⾒ ることができる。 エヴェンキ族⾃治旗⾃治条例には⺠族に関する規定があるが、⾃治旗の⾃治性を⾼め る団結が強調されている。各⺠族間の団結と信頼性を⾼めるため、マルクス主義⺠族理論 と共産党の⺠族政策の教育を⾏い、各⺠族の⾔語⽂字、習慣、宗教、信仰を尊敬し、国家 の統⼀性と⺠族団結を保たなければならないとしている。さらに⾃治旗内の各⺠族が固有 の⾔語⽂字を使⽤し発展させる⾃由を持ち、各⺠族の習慣を保持し改⾰する⾃由を持って いるとしている。また、各⾏政機関において各⺠族の幹部の間で⾔語⽂字の習得を提唱も している。各⺠族の共同繁栄のため⾃治旗内の少数⺠族、特にダグール族オロチョン族の 政治、経済、⽂化等の法的権利を保障すると強調している。 政府はこのような⽅針を謳っているが、実態はどうであろうか。調査地の事例に即し て検討してみよう。⾏政機構の在り⽅は次節で、⼟地と牧草地に関する制度は第三章で詳 しく検討する。以下ではまず現在のエヴェンキの社会に⼤きな影響を与えている⼈⼝の問 題並びに教育と⾔語に着⽬する。また経済発展に伴う他⺠族⼈⼝の流⼊と共に教育問題が エヴェンキの居住地の選択に⼤きな影響を与えるようになったことを調査地の事例に基づ いて概観する。

1. ⺠族政策

⼈⼝の動態を歴史的に振り返ってみよう。旗誌によると清朝の政策によってエヴェン キ族はフルンボイルへ移動させられ、そこで狩猟から牧畜を営むようになった。1732 年 当時のフルンボイルのエヴェンキ⼈⼝は 1636 ⼈であった。これがエヴェンキの⼈⼝が政 府によって把握された最初と⾔えよう。時代が下って清朝末期 1905 年の時点で、エヴェ ンキ族⾃治旗の前⾝となった当時のソロン旗の⼈⼝構成はエヴェンキ 3028 ⼈、ダグール 716 ⼈とオールドモンゴル(モンゴルの⼀部族)651 ⼈だった。ソロン・エヴェンキはその

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時にはモンゴル族やダグール族と混住していた。第⼆回国勢調査の前の 1958 年に、中国 におけるエヴェンキ族の⼈⼝は 1636 ⼈であったという(旗誌 1996,114)。1953 年から 政府機関により 5 回に渡って⾏われた国勢調査(旗誌 1996,90、旗誌 2005,89)によれば (表 3)、⼈⼝は増加している。2000 年、エヴェンキ族のみの⼈⼝で 9702 ⼈となっ た。しかしながら、表 3 に⾒られるように漢族を中⼼とした移住⺠がその増加分の多く を占めている。漢族の⼈⼝は激増する⼀⽅、エヴェンキの⼈⼝はそれ程増えなかったこと が分かる。 表 2 フルンボイル旗全体の⺠族別⼈⼝と割合 ⺠族 年次 全旗総 ⼈⼝ (⼈) エヴェンキ モンゴル 漢 ダグール ⼈⼝ (%) ⼈⼝ (%) ⼈⼝ (%) ⼈⼝ (%) 1953 年(第 1 回) 6399 2311 36.15 2580 40.3 317 4.95 1170 18.30 1964 年(第 2 回) 18861 3588 19.02 6473 34.32 4246 22.51 4340 23.09 1982 年(第 3 回) 91309 6465 7.08 16124 17.66 54611 59.8 11710 12.83 1990 年(第 4 回) 128733 8612 6.69 21674 16.84 79125 61.46 13929 10.82 2000 年(第 5 回) 140055 9702 6.93 24697 17.63 85239 60.86 14770 10.54 出所:エヴェンキ政府機関による国勢調査で、旗誌 1996,99、旗誌 2005,83-84 からの年別データを基に作 成。 1979 年から中国での⼀⼈⼦政策が実施されたが、少数⺠族であるエヴェンキに対して は、当初制限はなかった(旗誌 1996,99-100)。それが 1985 年 6 ⽉から 1000 万以下の ⼈⼝を持つ⼩⺠族でも第⼆⼦までとされた。漢族に対する⼀⼈⼦政策は 2016 年に廃⽌さ れ、⼩⺠族も含めて産児制限はなくなった。2005 年にはエヴェンキ旗の⼈⼝は 142791 ⼈で、エヴェンキが 10234 ⼈となった。 ⼈⼝増加の要因は漢族を中⼼とする⼈⼝流⼊であるから、有効な⼈⼝増加抑制策では なかったが、他⽅では⾃治旗は家族計画を実施して⼈⼝増加をコントロールしようとして きた。エヴェンキ族、ダグール族、オロチョン族に対しては、第⼆⼦までと許可としつつ も、「優⽣優育」と称して、少なく産んで⼤切に育てるよう施策を⾏ってきた。したがっ て、このような施策の下ではエヴェンキ族の⼈⼝の増加が特段歓迎されていたわけではな いことが分かる。

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他⽅、保健衛⽣事業に関しては、「三級構造医療⽀援」を実施してきた。三級とは、 旗、ソム(鎮)、ガチャー(村)の⾏政上の三層を意味し、各層の⾏政単位毎に医療衛⽣ 施設のネットワークを構築し、伝染病の予防努⼒と研究を⾏い、効率的かつ効果的に伝染 病の発病率を下げ、⼈々の健康⽔準を上げようとしている。 次に、政治⾏政の領域で少数⺠族としてのエヴェンキがどのように位置づけられてい るか⾒ておこう。最⾼の意思決定機関である⾃治旗⼈⺠代表⼤会の構成員はエヴェンキ族 とその他の少数⺠族の代表が⼀定程度の⼈数と割合を占めることとされ、法律に基づいて 上級の内モンゴル⾃治区⼈⺠代表常務委員会には⾃治旗が決めた構成員数と割合を報告 し、認可を得なければならない。⾃治旗の旗⻑には、エヴェンキ族の住⺠が就任すること になっている。エヴェンキ族⾃治機関や国家の公務員採⽤時には、エヴェンキおよび他の 少数⺠族に対して優先的に採⽤するとされているが、⾃治旗政府機関の職員(公務員)は エヴェンキ族のみならず他⺠族も採⽤しなければならないとされている。このために実態 としては⾃治旗政府の公務員の⼤半は漢族でもっとも多く、次はモンゴル族である。各⾃ 治機関の職員特にエヴェンキ族等少数⺠族職員を強⼒に養成する必要があるとし、ソムと 旗の各レベル、各部署の管理職や技術専⾨家の職に⼥性も含め彼らを配置し、養成すると している。エヴェンキ族居住地や貧困地⽅に居住し勤務するエヴェンキ族の公務員に対し ては、⽣活環境条件改善、福利給与などのサポートをし、その⼦⼥に対しては就学就職の 優遇政策を図るとしている。 また、司法機関の⼈⺠法院と⼈⺠検察院も⼈事や採⽤において同様の⽅策がとられて はいる。司法⼿続き・訴訟では、各⺠族が⾃分の⺠族⾔語と⽂字を使⽤する権利が保障さ れている。しかし、エヴェンキ族の場合は⽂字がないため、中国語で訴訟せざるを得な い。内モンゴル⾃治区⾃治法によりモンゴル語での訴訟は可能だが、エヴェンキ族⾃治旗 での訴訟などではモンゴル語が使われていないのが現状である。

2. 教育と⾔語

⾃治旗における教育は、国家の教育⽅針に基づいて、各種の学校形態、授業内容、授 業⽤語、⼊学規定等を定めている。⼈⺠教育基⾦会と⼈⺠助学⾦制度等を通じて、九年の 義務教育の実現に努⼒するほか基礎教育と専⾨技術教育、さらに成⼈教育にも努⼒してい

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る。少数⺠族の多いソムではモンゴル語での教育が可能な⺠族学校を設⽴している。エヴ ェンキ族の⽂字が持たないため、⺠族学校の設⽴対象にならない。他に寄宿学校の設置と ⽣活補助のための⽀援⾦を⽀給するなどを実施している。辺境地域、貧困地域のソム地⽅ の⼩中学校の経費予算は他の学校より多めに設定されている。エヴェンキ族が集中的に居 住するソム或いはガチャーでは、教員数が他の学校より多めに配置されている。エヴェン キ族の⽣徒に対しては、⼊学基準で優遇し、例えば⾼校の⼊学基準をさげ、エヴェンキ族 の中学⽣が基本的に全員⾼校に進学できるようサポートしている。また義務教育期間内の 諸雑費の納⼊を免除するなど⼿厚く⽀援している。さらに⾃治旗は国の⺠族政策に従っ て、エヴェンキ族の⾼校⽣が内モンゴル⾃治区内や遠隔の⾃治区外の⼤学の予科(準備コ ース)に⼊学できるよう選抜を⾏い、優先⼊学させている。 エヴェンキ族⾃治旗はエヴェンキ族と他の少数⺠族の教職員を積極的に育成し雇⽤し ている。彼らに対しては住居など⽣活環境と給与の改善を図って、エヴェンキ族居住地、 貧困地⽅での教育活動の促進に努めている。そのような教職員に対してはさらに医療と彼 らの⼦⼥の進学や就職について優遇措置を講じている。 少数⺠族の⽣活環境のサポートとして、少数⺠族の⾔語によるテレビ放送の普及、⽂ 化的な施設の建設など⾏っている。⺠族の特徴ある⽂化芸術を活かした経済活動や観光を 奨励する⼀⽅、政治的活動の取り締まりは強化している。エヴェンキ族と他の少数⺠族の ⽂化遺産の保全のために、歴史的⽂物や古跡を保護・発掘、収集・整理に努⼒している。 そのためにエヴェンキ族研究機構を設⽴するなど⺠族⽂化保護制度の整備を進めている。 内モンゴル⾃治区では中国語とモンゴル語両語で教育を受ける。中国語学校は幼稚園 から全ての授業は中国語で⾏われる。他⽅モンゴル学校で幼稚園から全ての科⽬はモンゴ ル語で教えられている。⼩学校三年から中国語という科⽬が加え、⼤学まで設置されてい る。 以下では調査地の事例に基づいて教育と⾔語の状況を⾒ておこう。A ガチャーのデー タ (J ウリレン、2005 年)に基づくと、全 32 ⼈の学⽣のうち、⼩学⽣ 12 ⼈、37%を占 め、中学⽣ 8 ⼈、25%を、⾼校⽣ 10 ⼈、31%を占めていた。また⼩、中、⾼校それぞれ 3 ⼈の⼦供は中国語学校で教育を受け 28%を占めていた。その他の 72%はモンゴル語学 校で教育を受けている。A ガチャーの適学年齢の⼦供の就学率は 100%と⾔うことが分か

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った。同ガチャーでは学校教育を受けたことのない⼀⼈を除き、他は全員⼩学校以上の教 育を受けていた。 A ガチャーで使われている⾔葉はエヴェンキ語 、ダグール語、モンゴル語、中国語で ある。このうち中国語とモンゴル語しか⽂字がないため、教育は中国語とモンゴル語で⾏ われている。⾏政は中国語であり、内モンゴル⾃治区は⺠族区域⾃治体であるため、モン ゴル語も⾏政機関において使われることがある。テレビや店、⾏政機関などの中国語とモ ンゴル語両語で記すことが法律で定められている。 殆どの⽣徒は、⼩学校から⼤学卒業まで⼀貫してモンゴル語で教育を受けてきた。そ のためエヴェンキ語を学校教育の中で学習する機会は殆どない。2009 年から⼩学校でエ ヴェンキ語の授業が選択の形式で⾏われるようになった。学校⽣活はおろか⽇常の⽣活で も、エヴェンキ語を使⽤する機会が急速に減っている。正しいエヴェンキ語を⾝につける には、書物で学ぶ必要が⾼まっている。しかし、学ぼうとすれば、モンゴル語や中国語を 習得しなければならない。⽂法や語彙を学ぶにはモンゴル語か中国語で書かれた本を読ま なければならないのである。このため、⽂字を持たないエヴェンキ語が消滅の危機にたた されている。 エヴェンキはモンゴル語で教育を受けることが⼀般的だったが、現在は中国語で教育 を受ける⽣徒が増えている。⼈⼝流⼊により、エヴェンキの⼟地にも漢族が増え中国語の 必要性が急速に⾼まり、また就業に際しても中国語が有利とされるようになった。特に⾼ 学歴を⽬指しより優れた教育を受けようとする者にとっては、中国語による教育が必須と なっている。⾔語的に、エヴェンキにとってはモンゴル語が中国語に⽐して使いやすく学 びやすい⾔葉であるにもかかわらず以上のような理由により、モンゴル語さえも学ぶ者が 減る兆候にある。 都市化の進展に伴って調査を⾏った B ソムの学校では学⽣数が 2000 年から減少し、 結局中学部が廃⽌された。最近では、⽣徒がいる家庭の多くは都市部・旗庁在地の BYTH 鎮に通学させるようになった。家庭の年配者が学校の近くに家を借りて学⽣を送迎し、或 いは知り合いや親戚の家に⽉ 600 元で寄宿させるなどしているのである。また、経済条 件が恵まれた家庭では、⼀家で都市部へ引っ越し、ガチャーの家や家畜などを親戚や労働 者に頼むこともある。中学、⾼校、⼤学へと進学するものが増えたが、⾼校以上になる

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と、学校の寮に各⾃寄宿している。教育関⼼の向上により、教育を理由とした別居、⼆重 ⽣活が多く⾒られるようになった。以下の表 4 によって調査地 A ガチャーの C ジューの 事例について教育の実態を詳しく⾒ておこう。 表 3 学歴および就学状況(C ジューの第三世代および第四世代 2012 年現在)1 性別 登録⺠族名 現在の住⺠登録地 1) 最終学歴 就学時居住地 2 修学⾔語 1 ⼥ エヴェンキ ホ旗ガチャー地域 ⾼校 B ソム、旗庁所 在地、ハイラ ル、 モンゴル語 2 男 エヴェンキ A ガチャー ⼩学校 B ソム モンゴル語 3 ⼥ エヴェンキ A ガチャー 中学校 B ソム、旗庁所 在地 モンゴル語 4 男 エヴェンキ A ガチャー 短期⼤学 B ソム、ハイラ ル モンゴル語 5 男 エヴェンキ A ガチャー ⼩学校 B ソム モンゴル語 6 ⼥ A ガチャー ⼤学院就学中 B ソム、旗庁所 在地、ハイラ ル、フフホト、 モ⾃治区外 モンゴル語 7 ⼥ エヴェンキ A ガチャー 中学校 B ソム、旗庁所 在地 モンゴル語 8 ⼥ A ガチャー ⼤学 旗庁所在地、ハ イラル、フフホ ト、モ⾃治区外 モンゴル語 9 ⼥ エヴェンキ A ガチャー 中学校 B ソム、旗庁所 在地 モンゴル語 10 男 エヴェンキ A ガチャー 専⾨学校 旗庁所在地、ジ ャラントン県級 市 モンゴル語 11 ⼥ エヴェンキ A ガチャー 中学校就学中 旗庁所在地 モンゴル語 12 男 エヴェンキ A ガチャー 中学校就学中 旗庁所在地 中国語 13 男 エヴェンキ ホ旗ガチャー地域 中学校就学中 ホ旗庁所在地 モンゴル語 14 男 エヴェンキ A ガチャー ⼩学校就学中 旗庁所在地 中国語 15 男 エヴェンキ A ガチャー ⼩学校就学中 旗庁所在地、ハ イラル モンゴル語 16 男 エヴェンキ A ガチャー 幼稚園就学中 旗庁所在地 モンゴル語 17 ⼥ エヴェンキ ホ旗ガチャー地域 幼稚園就学中 ホ旗庁所在地 モンゴル語 18 ⼥ エヴェンキ B ソム内他ガチャー 未就学 旗庁所在地 注 1: C ジュー及び A ガチャーについては第四章を参照のこと。 2: 旗庁所在地:エヴェンキ族⾃治旗庁所在地 ホ旗:ホーチンバルガ旗 モ⾃治区外:内モンゴル⾃治区外 出所:現地調査により作成。 C ジューは J ウリレンのエヴェンキ最⼤のジューで、10 個の世帯からなっている。す でに死去した祖⽗⺟の下に現在⼦供から曾孫までの三世代がいる。住⺠登録された⼈⼝は 34 名である。表 4 は孫と曾孫の世代の学歴就学実態を⽰したもので、最年⻑者が 40 代 前半、最年少者は未就学児童である。当該のジューは⽐較的裕福であり、平均的に学歴が ⾼く、社会の変化や経済の発展に敏感に反応する傾向が強い親族集団である。エヴェンキ

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