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雑誌名 同志社大学日本語・日本文化研究

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室町時代における玄宗・楊貴妃イメージ : 南禅寺 所蔵《扇面貼交屏風》を手がかりに

著者 村木 桂子

雑誌名 同志社大学日本語・日本文化研究

号 12

ページ 109‑130

発行年 2014‑03

権利 同志社大学日本語・日本文化教育センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013488

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要 旨

唐の玄宗皇帝(685 〜 762)と楊貴妃(719 〜 756)を題材とする絵画は、古代か ら近世にわたり連綿と描き継がれてきた。とはいえ、玄宗と楊貴妃のイメージ(ど のような人物として描くのか)とその目的は必ずしも同じではなく、明らかに時代 による変化が認められる。これまでの研究によれば、古代では「長恨歌」に基づい て玄宗と楊貴妃を悲恋の主人公として描くことによって、文学的情趣に訴えること を目的としたり、玄宗が楊貴妃に耽溺する様子を描くことによって、為政者への勧 戒とする手段として用いたりした。しかし、近世になると、古代からのものに加え て、『開元天寶遺事』に基づいて、玄宗を栄華を極めた人物として描くことによって、

為政者の権威を高める装置として利用されるようになった。ただし、古代と近世を つなぐ中世については、作例が乏しいため、玄宗と楊貴妃がどのような人物として 描かれ、その目的は何であったのかについては明らかになっていない。

本稿の目的は、中世の数少ない遺品の一つである南禅寺所蔵《扇面貼交屏風》

中の扇面九点の図様と賛文を分析することによって、空白の中世における玄宗と 楊貴妃のイメージと目的がどのようなものであったかを明らかにすることである。

分析の結果、図様は玄宗の華麗な宮廷風俗を描く近世の作例と構図、モチーフ が共通するものの、賛文は古代と同様に貴族に享受された感傷性や信西入道の「玄 宗皇帝絵」にみられる栄華の儚さを哀れむ無常観を継承していることが判明した。

おわりに、このような不均衡とも言うべき事態は、画を享受する公家や武士は、

俗の世界にあって、風俗への嗜好を強めるのに対して、賛を記す禅僧はといえば、

聖の世界にあって、旧来の世界観を堅持する傾向があることによって生じた可能 性があることに言及する。

キーワード

日本語 日本文化 美術史

室町時代における玄宗・楊貴妃イメージ

─南禅寺所蔵《扇面貼交屏風》を手がかりに─

The Image of Emperor Xuan Zong, Genso Kotei and his consort Yang Gui-fei, Yokihi in 16th Century, Muromachi Period:

Focus on the Fan Paintings Mounted on Folding Screens, Senmen-harimaze-Byobu, the Collection of Nanzen-ji

村木 桂子

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1 はじめに

唐の玄宗皇帝(685 〜 762、在位 712 〜 756)と楊貴妃(719 〜 756)を題材とする絵 画は、古代から近世にわたり連綿と描き継がれてきた。とはいえ、玄宗と楊貴妃のイメー ジ(どのような人物として描くのか)とその目的は必ずしも同じではなく、明らかに 時代による変化が認められる。ただし、現存作例は近世以降の作品であり、古代の作 例は文献資料によって絵画の内容が推測できるものの、中世の作例はほとんど残って いない。

この変化については、系統によって分類した武田恒夫の「玄宗皇帝絵」(『国華』第 1049 号、朝日新聞社、1982 年)がある。これを簡略に纏めた別表 1 をみると、典拠によっ て二つの系統に分類できる1。一つは白居易の詩「長恨歌」に基づくもので「長恨歌図」

と呼ばれ、もう一つは玄宗治世の逸話を編纂した『開元天寶遺事』(五代・王仁裕撰)

に基づいて、玄宗の宮廷風俗を描くもので「玄宗故事図」と呼ばれている2。古代では「長 恨歌図」の系統に、宇多天皇が制作させた「亭子院の長恨歌屏風」や、信西入道が為 政者への勧戒とするために制作させた絵巻の「玄宗皇帝絵」があったが、これらはい ずれも文献資料によるものである。近世では「長恨歌図」の系統に、屏風としては狩 野派の描く《明皇・楊貴妃図屏風》(フリア美術館)や奈良絵の《長恨歌図屏風》(個 人蔵)があり、絵巻としては、奈良絵の《長恨歌絵巻》(大阪大谷大学)や絵入版本の『長 恨歌抄(やうきひ物語)』などが知られている。このほか、「玄宗故事図」の系統が新 たに出現し、「風流陣図」「蝶幸図」「護花鈴図」などの画題で玄宗の繁栄を視覚化した 宮廷風俗画が描かれた。ただし、古代と近世をつなぐ中世については、文献資料や作 品がほとんど残っていないため、玄宗と楊貴妃がどのような人物として描かれ、その 目的は何であったのかについて知ることは難しい状況である。

そこで、本稿では上記の先行研究を踏まえて、中世の数少ない遺品の一つである南 禅寺所蔵《扇面貼交屏風》中の扇面九点の図様と賛文を分析することによって3、空白 の中世における玄宗と楊貴妃のイメージと目的がどのようなものであったかを明らか にすることを目的とする。

そのため、第二章では古代および近世の玄宗と楊貴妃を描く絵画の受容の様相を改 めて分析し、古代では「長恨歌」に基づいて玄宗と楊貴妃を悲恋の主人公として描く ことによって、平安貴族の文学的情趣に訴えることを目的としたものと、玄宗が楊貴 妃に耽溺する様子を描くことによって、為政者への勧戒とする手段として用いられた 例があることを確認する。近世になると、『開元天寶遺事』に基づいて、玄宗を栄華を 極めた高貴な人物として描くことによって、為政者の権威を高めるための装置として 制作された。さらには、世俗的メディアと密接に交渉することによって、富裕な町人 のための娯楽的な物語の主人公となっていったことを確認する。第三章では、南禅寺 所蔵の《扇面貼交屏風》における玄宗・楊貴妃関連の扇面の図様と賛文を分析するこ とによって、扇面の図様には、玄宗の華麗な宮廷風俗が描かれており、近世の「玄宗

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故事図」とモチーフや構図が類似しているのに対して、禅僧が記した賛文には、古代 と同様に貴族に享受された感傷性や、信西入道が「玄宗皇帝絵」で意図した栄華の儚 さを哀れむ無常観を踏襲していること、さらに俗世の権威や栄華に対する禅僧のシニ カルな視点があることを指摘する。おわりに、このような不均衡ともいうべき事態は、

画を享受する公家や武士は、俗の世界にあって、風俗への嗜好を強めるのに対して、

賛を記す禅僧はといえば、聖の世界にあって、旧来の世界観を堅持する傾向があるこ とによって生じた可能性があることに言及する。

2 古代および近世の玄宗・楊貴妃イメージ

玄宗と楊貴妃を題材とする絵画のうち、古代の作例は現存しないが、当時の日記や 歌集などの文献資料の中には、しばしば「長恨歌」や玄宗と楊貴妃の故事を絵画した という記述が散見する。ここでは文献資料を読み解くことによって、九世紀に制作さ れた「亭子院の長恨歌屏風」と十二世紀に制作された信西入道(藤原通憲、1106 〜 1159)の「玄宗皇帝絵」の内容と制作状況を確認する。

2.1 古代の作例 「亭子院の長恨歌屏風」

玄宗と楊貴妃を描く最古の作例は、宇多天皇(867 〜 931、在位 887 〜 897)が「長 恨歌」の場面を屏風に描かせた「亭子院の長恨歌屏風」である。その屏風絵の情景を 詠んだ和歌が『伊勢集』に採録されていることから、どのような情景が絵画化されて いたのかを推量する手がかりを与えてくれるのである4

「長恨歌」は、元和元年(806)に中唐の詩人白居易が制作した七言百二十句におよ ぶ長編の叙事詩であり、平安朝の貴族に大いに愛好され、『源氏物語』などの成立に多 大な影響を与えたことはつとに有名である5。その梗概は、玄宗が絶世の美女である楊 貴妃を寵愛するあまり政務を蔑ろにし、安禄山の乱を避ける途上で楊貴妃は殺される。

玄宗はその死を悼み、方士に命じて楊貴妃の魂魄を探し求めるという内容で、哀切に 満ちた感傷詩の代表作である6。このように「長恨歌」は、前半を玄宗と楊貴妃の華や かな恋愛譚と一転する悲劇的な別離、そして後半を玄宗の深い嘆きと幻想的な仙界の 場面という、明暗を対照的に捉えたドラマチックな展開の二部構成となっている。

以下のとおり「亭子院の長恨歌屏風」の和歌をみると、「みかどの御になして」とあ るように、玄宗の立場に立ってその心情を詠んだ和歌五首(五十二〜五十六)と、「き さきの御になして」とあるように楊貴妃の心情を詠んだ和歌五首から成っていること がわかる7

長恨歌の屏風を、亭子院のみかどかかせたまひて、そのところどころよませたまひける。

みかどの御になして

五十二 もみぢばにいろ見えわかず散るものはものおもふ秋のなみだなりけり

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五十三 かくはかり落つるなみだのつつまれば雲のたよりにみせましものを 五十四 帰りきて君おもほゆるはちすばになみだのたまとおきゐてぞ見る 五十五 たますだれあくる知らでねしものを夢にも見じとゆめおもひきや 五十六 くれなゐにはらはぬ庭はなりにけりかなしきことのはのみ積もりて きさきの御になして

五十七 しるべする雲の舟だになかりせは世をうみなかにたれか知らまし 五十八 月も日もなぬかの夜の契りをば消えしほどにもまたぞそわすれぬ 五十九 消えし身にまたも消ぬべし春かすみかすめるかたを都とおもへば 六十  木にもおひず羽もならべでなにしかもなみぢへだてて君を聞くらん 六十一 ゐる雲の人はきえせぬものならばなみだはみをと流れざらまし

これらの和歌から「亭子院の長恨歌屏風」に描かれた場面を類推すると、「長恨歌」

の中盤である玄宗が楊貴妃と死別して以降を題材としており、蜀から還御した玄宗が、

楊貴妃の死から立ち直れずに次第に憔悴していく情景や、玄宗の命を受けて楊貴妃の 魂魄を捜して仙界に行った方士が、楊貴妃と対面して玄宗との思い出話を聞き、形見 の品を受け取ってくるという、「長恨歌」の中盤から後半の玄宗の悲嘆に注目して選択 された情景であることがわかる。

このように「亭子院の長恨歌の屏風」は、詩「長恨歌」に基づいているとはいえ、

屏風に付された和歌を見る限り、玄宗の深い悲しみを表現するために、秋草、紅葉、蛍、

雲、波路といった儚さや悲愁のイメージを強く訴えかける景物を意識的に選択して、

白居易が「長恨歌」に詠み込んだ詩情を表現していることがわかる。そして、このよ うな自然表現における情緒主義は、常に季節意識を帯びているものであるが、なかで も特に秋の表現が多いことを考慮するならば、「亭子院の長恨歌屏風」は、平安貴族の 美意識に基づいて、絵画化されたということができる8。つまり、平安時代の「長恨歌」

を享受する貴族にとって、その興味の中心は玄宗と楊貴妃の哀れを強調するあたりに あったといわれ9、それゆえ「亭子院の長恨歌屏風」では詩の前半の玄宗と楊貴妃の栄 華を極めた生活は和歌や絵画化の対象にもならず、二人の悲恋を描いた詩の中盤から 終盤に深い関心が寄せられていたことを示しているのである。

さらに、鎌倉時代に成立した勅撰和歌集においても「長恨歌の絵」に玄宗が楊貴妃 を追慕する内容の和歌が詠まれていることから10、「亭子院の長恨歌屏風」と類似する 図様が描かれていたと考えられる11。平安時代前期の貴族の美意識が、確実に鎌倉時代 に伝達され、継承されていったことが窺える。すなわち、換言するならば、古代の「長 恨歌」享受は、和歌と絵画を媒体とする「長恨歌屏風」によって、玄宗と楊貴妃の悲 恋と別離の情景を、平安貴族の情趣に強く訴えかけるモチーフを用いて描いた文学性 を重視したものであったといえる。

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2.2 古代の作例 信西入道の「玄宗皇帝絵」

このほか、平安時代末期には、信西入道(藤原通憲、1106 〜 1159)が、後白河法皇

(1127 〜 1192、在位 1155 〜 58)に進覧するために制作した「玄宗皇帝絵」がある。こ の絵については、九条兼実(1149 〜 1207)の日記『玉葉』の建久二年(1191)十一月 五日条に、信西入道がこの絵巻の制作目的を記した自筆書付を転写しており、その部 分を読み下すと次のようになる12

 そもそも長恨歌繪に相ひ具して、一紙の反古有り、披きて之を見る處、通憲法師の 自筆なり、文章褒むべく、義理悉く顯はる、感歎の餘り、留めんと之を寫す、其の状 に云ふ、

  唐の玄宗皇帝は近世の賢主なり、然れども其の始め愼みて、其の終り弃つ、泰岳の 封禪に有るといえども、蜀都の蒙塵を免ぜず、今數家の唐書、及び唐暦、唐紀、楊 妃内傳を引きて、其行事を勘み、畫圖に彰はす、伏して望む、後代の聖帝明王、此 圖を披きて、政敎の得失を愼み、又厭離穢土之志有らば、必ず此繪に見るべし、福 貴常ならず、榮樂夢の如し、之をもって知るべきか、此の圖をもって、永く寳蓮華 院に施入す、時に平治元年十一月十五日、彌陀利生の日なり

沙 彌在判 此の圖君心を悟らんがため、豫め信賴の亂を察し、圖に彰はす所なり、當時の規摸、

後代の美談なり、末代の才士、誰が信西に比べんや、褒むべき感ずべきのみ

この書状からは、臣下である信西入道が、為政者である後白河法皇に対して、藤原 信頼が台頭する当時の政治状況を憂い、六巻に及ぶ絵巻の「玄宗皇帝絵」を制作し13、 後白河法皇に進献することによって、さりげなく為政者を諌めるための手段として絵 巻を用いたことがわかり、絵巻の内容は、善政を行っていた玄宗が楊貴妃に溺れ、外 戚を重用したため政治的混乱を招いたという出来事を描いたものであったという。

さらに、添え状に「伏して望む、後代の聖帝明王、此圖を披きて、政敎の得失を愼み、

又厭離穢土之志有らば、必ず此繪に見るべし」と信西入道が望んだように、この「玄 宗皇帝絵」は、文献資料によると高倉天皇(1161 〜 1181、在位 1168 〜 1180)や亀山 天皇(1249 〜 1305、在位 1259 〜 1305)の座右にあったことが記されている14。高倉 天皇は、外戚として権勢をふるった平清盛の専横に悩まされており、玄宗が外戚であ る楊国忠や安禄山の専横を止められずに政治的混乱を引き起こした状況を反面教師と して、この「玄宗皇帝絵」を鑑賞した可能性もあるだろう。また、亀山天皇が「玄宗 皇帝絵」を見た時期は、元からの親書の対応を巡って混乱していた文永の役の前夜に あたる。これら二件の情報からは、為政者である天皇にとって、政争や国難に対峙し なくてはならない極めて重要な時期に「玄宗皇帝絵」が鑑賞されていたことが窺える のである。

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ところで、これには天皇に対する勧戒だけではなく、信西入道がこの絵巻について「福 貴常ならず、榮樂夢の如し」と栄華の儚さを示す盛者必衰を表す語句を記しているこ とによって、当時の主流であった無常観や因果観を基調とした仏教的な思想を盛り込 もうと意図していたことも見逃せない。そうであるならば、「長恨歌屏風」の情景を詠 んだ和歌に「秋草」、「虫の音」、「白露」という儚さや移ろいやすさを示す感傷的な言 葉を用いて表現しようとした情趣が、この「玄宗皇帝絵」に描かれていた可能性もあ るだろう。

以上のように、「亭子院の長恨歌屏風」が詩情豊かな世界を描き出した文学性を重視 した物語絵であったのに対して、「玄宗皇帝絵」は、為政者を勧戒する目的を盛り込ん だ極めて政治的意図を含んだものである。これは「長恨歌」に『旧唐書』『新唐書』な どの歴史書の記述を追加することによって、従来の悲恋を主題とするのではなく、玄 宗の失政の場面をより強調したのである。このような傾向の玄宗と楊貴妃の故事は、

鎌倉時代に中国故事の教養書として成立した翻訳物語集の『唐物語』第十八「玄宗と 楊貴妃の語」や『太平記』巻三十五「北野通夜物語事付青砥左衛門事」、巻三十七「畠 山入道々誓謀叛の事付楊国忠事」などに見る玄宗と楊貴妃、楊国忠、安禄山について語っ た逸話へと広がっていくのである。さらに、古代、中世の「長恨歌絵」に新たに加わっ た「勧戒」という性格は、桃山時代の公的空間を彩る金碧濃彩の障壁画に描かれた「長 恨歌図」にも受け継がれていくのである。

2.3 近世の作例

近世の玄宗・楊貴妃画題が、典拠によって二つに分類することができるのは前述し たとおりである15。一つは白居易の詩「長恨歌」に基づくもので、一般に近世の作例は

「長恨歌図」と呼ばれており、屏風には《明皇・楊貴妃図屏風》(フリア美術館蔵)や《長 恨歌図屏風》(東京国立博物館蔵)、《長恨歌図屏風》(個人蔵、『国華』1025 号掲載)が あり、絵巻として狩野山雪(天正十八〜慶安五年、1590 〜 1651)筆《長恨歌画巻》(チェ スター・ビーティー・ライブラリィ蔵、アイルランド)などが知られている16。もう一 つは、五代の王仁裕が『開元天寶遺事』に採録した玄宗治世の逸話に基づいて、玄宗 の宮廷風俗を描くもので「玄宗故事図」と呼ばれている。この「玄宗故事図」は、屏 風には《風流陣・明皇蝶幸図屏風》(MOA美術館蔵)、《護花鈴・並笛図屏風》(普賢院 蔵)、絵巻には狩野常信(寛永十三〜正徳三年、1636 〜 1713)筆《明皇花陣図》(山種 美術館蔵)などが知られている。

「玄宗故事図」が『開元天寶遺事』に収録された玄宗の逸話を題材として制作されて いることはすでに述べたが、これらの逸話が画題として定着したのは、狩野派の絵画 制作の手引き書として著された『後素集』によるところが大きい。『後素集』は、狩野 一渓(慶長四〜寛文二年、1599 〜 1662)が門弟の教育のために記したもので、元和九 年(1623)の自跋があり、全三巻からなっている17。その内容は、『図絵宝鑑』や『君

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台観左右帳記』を取り上げて解説しているが、最も特筆すべきは、画題解説に多くの 頁数を割いて紹介していることである。この画題解説の中で玄宗および楊貴妃関連の 画題をみると、「帝王」では三十七件中玄宗が十六件を占め、同様に「美人」では 三十六件中楊貴妃とその姉を含む十五件を挙げている。このことは玄宗と楊貴妃の画 題が、他の皇帝や仕女など比較すると圧倒的な多さを占めていることがわかる。その ほか玄宗もしくは楊貴妃関連の画題は、「仕臣」二件、「器用」二件、「仙女」一件、「隠 逸」一件にも記されており、その総数は三十八件に及ぶ。このうち『開元天寶遺事』

を出典とする画題は十三件あり(別表 2 を参照)、別表 1 の「玄宗故事図」の現存作例 にも挙げた明皇蝶幸図、風流陣図、護花鈴図、鞨鼓催花図などの画題が確認できる。

近世初期に玄宗・楊貴妃画題が質、量ともに飛躍的に増加した背景には、この『後素集』

が大きく寄与していたことはいうまでもない。

これら近世の「長恨歌図」と「玄宗故事図」は、城郭や御殿の公的空間を装飾する 金碧濃彩の大画面障屏画に相応しい画題として盛んに制作された。確かに桃山時代の 障屏画には、最も格式の高い公的空間に金碧濃彩で中国の故事人物を描くという法則 があるという18。この時期に玄宗と楊貴妃の宮廷風俗画が盛行したのは、文化的背景を もたない新興武家が擡頭してきたため、これら異国の繁栄と栄華を主題とする画題が 彼らにとって理想的な生活空間を視覚化したものであったからだという19。例えば、玄 宗と楊貴妃の恋愛譚を主題とした「長恨歌図」においても、六曲一双屏風に詩の展開 順に主要場面を配して、あたかも物語のダイジェスト版となるように構成しているが、

そこに描かれるのは、平安時代の悲恋物語の主人公としての玄宗と楊貴妃ではなく、

玄宗を栄華の主人公とした宮廷風俗画である。

一方、それのみならず「長恨歌図」は、奈良絵や版本の挿絵といった多様な近世的・

通俗的メディアにも描かれるようになり、広く町人階層にも流通するようになってい た。それゆえ、町人の嗜好に合わせて玄宗と楊貴妃のイメージも世俗化していく。す なわち、玄宗は好色な人物としてとらえられ、楊貴妃は婚姻によって一族に繁栄を導 く富貴をもたらす存在というイメージが形成されたのである20

3 南禅寺所蔵《扇面貼交屏風》にみる室町時代の玄宗・楊貴妃イメージ

室町時代の玄宗・楊貴妃に関するこれまでの研究では、五山文学の題画詩を手掛か りに、詩に詠われたイメージの淵源を中国の絵画や文学に求め、画題を明示するもの が主流である。なかでも、五山文学の題画詩が中国絵画の著録や『開元天寶遺事』、『後 素集』などの記述と合致すること21、それによって室町末期から江戸初期にいたる玄 宗・楊貴妃画題の多様性が指摘されている22。また、日本文学研究の立場から、五山 詩の解釈を手掛かりに『後素集』との関連を論じ、さらに『狂雲集』にみる一休宗純

(1394 〜 1481)の楊貴妃像の特質を明らかにしたものもある23。そこで、室町時代後 期から桃山時代にかけての現存作例である南禅寺所蔵の《扇面貼交屏風》の扇面画の

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分析を通じて、十六世紀の玄宗、楊貴妃がどのようなイメージを付与されて、描かれ ていたのかを明らかにしたい。

3.1 南禅寺所蔵《扇面貼交屏風》の概要

南禅寺所蔵の《扇面貼交屏風》は、二百四十面の扇面を一扇につき五面ずつ整然と 貼り交ぜて六曲八隻の屏風に仕立てたものである(図 1)。寺伝によると、この屏風は 後陽成天皇(1571 〜 1617、在位 1586 〜 1611)の御下賜品として伝えられているもので、

この伝承に従うならば、後陽成天皇が崩御する元和三年以前には、すでに屏風形式に なっていたと考えられる24。なお、この扇面の三十五面には十五人の禅僧達の着賛があ り、賛者の生没年から制作年代を考慮すると、最も古いものは月舟寿桂(生年未詳〜

天文二年、1533)で、最も新しいものは後陽成天皇の詩会に参加した集雲守藤(天文 七〜元和七年、1538 〜 1621)の扇面であることから、十六世紀初めから十七世紀初め までのおよそ百年間に制作された扇面群であると考えられる25

これら二百四十面の扇面には、すべて摺畳あとが認められ、実際に扇として使用さ れた形跡を見て取ることができる。これら扇面の図様は、山水、人物、花鳥、走獣な ど多岐にわたり、それらを水墨や金碧濃彩などの技法を用いて描いている。

このように屏風に扇面を貼り付けるという例は、室町時代の作例でしばしば見られ るものである。例えば、元信印のある光円寺所蔵の《月次風俗図扇面流し屏風》(図 2)

のように、屏風の地一面に波と千鳥、芦を描き、その上に「扇流し」の故事を踏まえ て川面に扇を投げ入れたような意匠で扇を貼り付けて六曲一双屏風に仕立てたものが 流行した。ところが、南禅寺所蔵の《扇面貼交屏風》の扇面は、同じ向きに整然と等 間隔に並べられているが、これら扇面のジャンル、画題、季節、賛の有無などを見る 限り、貼り付けられた順序に何らかの規則性は見受けられないようである。

【図 1】《扇面貼交屏風》六曲八隻のうち一隻、南禅寺

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このことから、ある時点で手元に 遺った夥しい数の扇面を保存するため に無作為に屏風に貼付されたものと考 えられている26。本来、扇とは消耗品 であり、場所や季節に応じたものを選 択し、簡単に購入することのできるも のである。ところが、このような消耗 品的な扇も、絵柄や著賛の面白さが認 められたものは大切に扱われ、由緒や 値段の高さゆえに長く保存される場合 もあったという27。そのような状況を 踏まえると、上級の公家や武士の注文

を受けて制作された狩野元信の扇はそれだけでも高価で価値のあるものとして見なさ れていたが28、なおかつそこに当代一流の文化人であった五山の禅僧の賛文が書かれて いれば、付加価値は一層上がったに相違ない。このような由緒のある扇を蒐集した南 禅寺の《扇面貼交屏風》は、近世初期の人々によって次世代に継承すべき重要な作品 群であると見なされていたことがわかる。

ところで、これらの扇面には賛文だけでなく画家の印章が捺されているものが散見 する。そこには狩野元信の印が十一面、ついで元信の三男である直信の印が九面、狩 野永徳の実弟である元秀の印が六面認められ、このほか狩野派の壺印に類似した判読 不明な印章を含むとこの扇面における狩野派の占める割合はおよそ八割近くにのぼる。

元信が扇制作に積極的に関わってきた歴史的事実を鑑みると29、これらの扇面には室町 時代後期から桃山時代に流通していた狩野派の扇面の多彩な様相を見ることができる。

それに対して、当時の扇制作において狩野元信と双璧をなした土佐光茂の扇は確認で きない。例えばこの扇面画の半数を占める百二十面ほどある人物図でいえば、大和絵 系の画題は源氏物語図(№ 19、№ 87)が二面あるほかは、すべて狩野派が得意とする 中国故事人物図であり、玄宗・楊貴妃画題の盛行を考えるうえでも興味深い。

さらにこれは後述するが、禅僧が賛をするために選択した扇面が、すべて中国故事 人物図であることから、禅林とその周辺ではいかなる画題が愛好されたのかを考える 上でも見逃すことの出来ない点である。

3.2 扇面の図様にみる玄宗・楊貴妃のイメージ

南禅寺所蔵の《扇面貼交屏風》には、百五十四面におよぶ中国故事人物図を見るこ とができる。「竹林七賢図」「商山四皓図」などの隠逸の定番の画題をはじめ、秦の始 皇帝、漢の高祖など中国皇帝の故事を描いたものが十九面ある。このうち、玄宗関連 画題は九面あり、そのほかの内訳は、漢の高祖劉邦と楚王項羽の故事を描いた「鴻門

【図 2】《月次風俗図扇面流し屏風》

六曲一双のうち左隻部分、光円寺

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宴図」三面、漢の武帝に関する逸話の「漢武延年図」一面、後漢の光武帝と厳光の故 事を描いた「厳子陵客星館」二面、韓高祖の「封韓信図」一面、秦の始皇帝の暗殺未 遂を描いた「荊軻刺秦王図」二面、始皇帝の宮殿を描いた「阿房宮」一面、周の文王 が在野の賢人を求めた「文王呂尚図」一面である。こうしてみると、皇帝を描いた扇 面のうちほぼ半数が玄宗と楊貴妃関連の画題であることから、中国皇帝のなかでも特 に愛好されていたことがわかる。

では、ここで玄宗および楊貴妃関連の画題を描いた扇面九面の図様を見ていきたい。

まず、扇面の内訳は、「風流陣図」が三面、「明皇蝶幸図」が二面、「明皇撃梧図」、「明 皇乗車図」、「並笛図」、「護花鈴図」がそれぞれ一面ずつあり、それらはいずれも金碧 濃彩で描かれている。

これらは、すべて『後素集』に掲載された画題と共通するもので、なかでも風流陣図、

明皇蝶幸図、護花鈴図は、『開元天寶遺事』に採録された玄宗とその周辺人物の逸話に 基づいている(以下別表 2 を参照)。『開元天寶遺事』が近世の玄宗・楊貴妃画題の新 たな典拠となったことはすでに述べたとおりである。これが日本に舶載された時期は 明らかではないが、すでに室町時代には五山の禅僧が詩作のための必携の書物として 熟読していたという30。たしかに室町時代の五山の禅僧の詩文集には、近世の「玄宗故 事図」を髣髴とさせる「羯鼓催花図」「風流陣図」「明皇貴妃並笛図」などの題画詩が 散見するが、万里集九をはじめとする室町時代後期の五山の禅僧たちは、楊貴妃を題 材とする詩文を好んで作ったため、詩文集においても時代が降るほどその数は増加す る傾向にある。

楊貴妃を愛好する風潮が五山文学のなかで確認できるとはいえ、禅林での詩文がそ のまま絵画の内容に忠実に反映されているわけではない。『後素集』の画題においても 原典とずれを生じさせた逸話があるという31。例えば、別表 2 の№ 2 の明皇蝶幸図は「後 に楊貴妃が玄宗の寵愛を専らにしたことによって、この遊びは行われなくなった」と あるように、楊貴妃が玄宗の後宮に入る以前の逸話であるし、№ 7 の護花鈴図は『開 元天寶遺事』では玄宗の弟である寧王の逸話として記されているが、それが『後素集』

では「貴妃明皇花ざかりの時鳥の爲に花上に鈴をかけて花を見る」とあるように、玄 宗と楊貴妃が主人公の逸話に替わっているなど、画題として成立する際には、必ずし も出典の『開元天寶遺事』の逸話に忠実ではない箇所もある。さしずめ、画家にとっ ては異国の繁栄と栄華を表す象徴として、「長恨歌」などで古代から日本人に親しまれ てきた玄宗と楊貴妃になぞらえることは、至極当然のことであったのだろう。

さて、この屏風に貼られた扇面は、十六世紀初から十七世紀初までのおよそ百年間 に制作されたものであるが、賛者の生没年と画家が判明している場合はその活躍時期 からおおよその制作年代を判断することができる。表 3 は著賛のある扇面の一覧であ るが、玄宗・楊貴妃関連の扇面画九面のうち、著賛のある扇面は次の三面である。

№ 37「明皇蝶幸図」雪嶺永瑾(?〜 1537)

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№ 212「風流陣図」体春龍喜(1510 〜 1593)(図 3)

№ 233「風流陣図」維杏永哲(?〜 1603 頃)(図 4)

この三面が応仁の乱以後の室町時代後期に制作された「玄宗故事図」の絵画遺品とし て注目に値する。

扇面に描かれた画題が、近世に流行した玄宗の宮廷風俗に由来するものであること は言うまでもないが、今ここで室町時代後期と江戸時代初期に制作された「風流陣図」

の図様と比較してみる。

まず、別表 2 の№ 10 にあるように「風流陣図」とは、『開元天寶遺事』を出典とし、『後 素集』に「明皇と貴妃、酒酣の時、官女百余人を両陣にわけ太液庭にて花枝を持、相たゝ かふ、是を見て楽しめる体」とあるように、玄宗と楊貴妃は互いに宮女百人をそれぞ れ率いて、花の枝を武器に見立てて戦闘の真似事をするという趣向の遊びを描くもの である。この作品では玄宗と楊貴妃をそれぞれ右隻、左隻に分けて描いているのであ る32。扇面の№ 212 では、画面右側に侍者に団扇を掲げられた玄宗が、左側のテラスに は椅子に座った楊貴妃が描かれている。左右に別れたそれぞれの陣には、牡丹のよう な大振りの花を付けた枝を手に持った官女を配している。金地に赤、緑、青などが明 るい色調で施され、細身の官女が大きな花を持って賑やかに戯れる様子が、華やかに 描き出されている。

【図 3】№ 212「風流陣図」体春龍喜(1510 〜 1593)賛

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また、№ 233 は、画面右に立っている玄宗を、左に椅子に座った楊貴妃を配し、官 女が花枝をもって戦いの真似事をしている構図は、№ 212 と同じである。さらに、№

233 では玄宗の傍らに松樹を、楊貴妃の傍らに海棠の花を描き込んでいる。海棠といえ ば、楊貴妃の美しさを詠った「海棠の睡り未だ足らず」という詩句にあるように楊貴 妃を象徴する花として著名である。そして、松樹は中国では古来より君子の象徴とさ れてきた。玄宗と楊貴妃を象徴する植物を画中に描き込むことによって、これが単な る中国の宮廷風俗画ではなく、玄宗と楊貴妃を描いた宮廷風俗画であることを鑑賞者 に明確に示そうとする画家の工夫が垣間見える。このような工夫は、十七世紀の作例 である《風流陣・明皇蝶幸図屏風》の右隻「風流陣図」(六曲一双、MOA美術館、図 5)

においても同様であり左右に陣を分ける点、玄宗と楊貴妃をアトリビュートするよう に松樹と海棠を配する点、玄宗は立ち姿で、楊貴妃には椅子が置かれている点など、

屏風と扇面という画面の大きさに違いはあっても、№ 212、№ 233 の構図、モチーフと 共通点が多いことに気付く。

すなわち、南禅寺の扇面画の図様は、『後素集』(元和九年自跋)が成立する以前の 作例とはいえ、狩野派のなかで培われた画嚢を共有していたためか、近世初期に盛行 した「玄宗故事図」の図様と極めて近似していることがわかる。この傾向は、「風流陣図」

のみならず「明皇撃梧図」、「並笛図」、「護花鈴図」などでも同様に見ることができる。

【図 4】№ 233「風流陣図」維杏永哲(?〜 1603 頃)賛

(14)

3.3 扇面の賛文にみる玄宗・楊貴妃のイメージ

《扇面貼交屏風》の「玄宗故事図」を含むこれらの扇はいったい誰が、どのようにし て入手し流通したのだろうか。それを考える手掛かりは扇面の賛者にもとめることが できる。というのは、二百四十面のうち三十五面に、南禅寺に住持した僧および南禅 寺に縁のある十五人の禅僧達の賛があり、その着賛状況をふまえると、この屏風が寺 伝でいわれていた後陽成天皇の御下賜品であるとするよりも南禅寺に伝世した可能性 を考えた方が妥当であるという33

別表 3 の著賛一覧をみると、禅僧が扇を贈った相手には、名前に「侍史」「美少年」「美 丈」「少年」という語が付けられているところをみると、扇の受領者は喝食とよばれる 幼い僧たちであったようだ34。つまり、この扇面の贈答は、ともに南禅寺のネットワー クに属する人物であることが想像できるのである。

喝食には守護大名の子弟がなることも多く、このネットワークは禅林だけでなく、

喝食の親族である上層武家や公家との関わりがあったと思われ、意外に広範な人間関 係をみることができるだろう。そのことは、公家、武家、禅僧等が一堂に会する詩会 や和漢連句の会、あるいは禅僧を講師に招いて行われる中国文学の講釈などを通じて、

当初は独立していた社会が、「身分や職能、立場を超えて融和していく」という室町文 化の特徴がみてとれる35。言い換えれば、南禅寺の《扇面貼交屏風》からは、文芸を仲 立ちに「和漢を融和」を目指した時代の特徴が現れているのである。

ところで、高位の禅僧が喝食のために絵扇に賛文を施すことは、頻繁に行われてい たようで、『蔭凉軒日録』にもそうした記事が散見する。例えば、明応元年十二月廿一 日の条には、「持以彩畫扇一柄云。有人爲惠嶠棣淑美丈。請横川和尚賛。」とあるように、

六角堂の松坊が著色の扇一本を蔭凉軒主の亀泉集証のもとに持参して、この扇を惠嶠 棣淑美丈に進呈するにあたって、横川景三に賛文を書いて頂きたいので、仲介をお願 いできないかと依頼した記事がみえる36。記事の扇は、依頼した日から考えると、おそ

【図 5】《風流陣・明皇蝶幸図屏風》六曲一双のうち右隻風流陣図 MOA 美術館

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らくは正月用の扇として贈るものであったのだろう。ここで注目すべきは、出来合い の濃彩画の扇を入手して、そこに高位の僧の賛を付けて「美丈」に贈ったという点で ある。

南禅寺の扇面をみるとわかるように、金地著色の画面のわずかな空白を埋めるよう に七言絶句が記されている。詩画軸のようにあらかじめ賛を付けることを想定して余 白をとっていないため、賛文の散らし書きにも無理が生じ、絵の具と文字が重なって いたり、擦れて判読不明になっていたりする部分がある。上記の記事からも、絵と文 字とのバランスを重視して一つの作品を作り上げようとする意識よりも、どのような 禅僧の詩文が付けられているのかがより重視されたことが窺える。

それでは、前節で取り上げた№ 212「風流陣図」(図 3)の維杏永哲(?〜 1603 頃)

の賛文を見ると、「恩露妝新楊太真 干戈叢裡闘妃嬪 三郎不識承平後 花陣散成兵馬 塵(恩を露〈めぐ〉まれ妝〈よそおひ〉新たな楊太真、干戈の叢裡に妃嬪を闘はす、

三郎承平の後を識らず、花陣散り兵馬の塵を成す)」とある。この文の大意は、玄宗の 恩寵を受けて、粧いも新たにした美しい楊貴妃は、戈に見立てた花枝が茂みのように 立てられた中で、妃嬪を闘わせた。玄宗は長く続いた太平の世の後がどのようになっ たかを知らなかった。花軍の陣が散った後には反乱軍の兵馬のたてる土埃が充満した というものである。

一、二句では、『開元天寶遺事』の玄宗と楊貴妃の風流陣の故事を踏まえて、宮廷の 華麗な風俗を詠っているが、三、四句では、宮殿に反乱軍が攻め込んで荒れ果てる様 子を詠っている点で、繁栄と凋落を対比させている点が興味深い。というのも、扇面 の図様には、平明な色遣いで、華麗さを追求した宮廷風俗を描き出しているばかりで、

近世初期の「長恨歌図屏風」(六曲一双、円浄寺、図 6)にみられるように、安禄山の 侵攻によって玄宗の宮殿に迫る兵馬やそれに伴って玄宗と楊貴妃が出国する様子など は全く描かれず、図様と賛文の内容が合致していないからである。

このような傾向は、楊貴妃が入内する以前の出来事を描いた№ 37「明皇蝶幸図」の 雪嶺永瑾(?〜 1537)の賛文においても「漁兵□未塵」と安禄山の侵攻を示す「漁陽 の兵」の詩句が見てとれることから(別表 3 参照)、禅僧達は、玄宗と楊貴妃を「玄宗 故事図」に描いた繁栄の象徴として考えていたわけでないことは理解できる。例えば、

五山文学にみる玄宗・楊貴妃関連の詩文には、戦乱を暗示する文言を挿入したり、自 然や音声の描写で戦乱を暗示したり、華麗な宮廷風俗の情景を戦乱時と対応させたり して作詩する傾向があるという37。玄宗と楊貴妃の別離の契機となる戦乱の情景を詠う ことは、平安貴族が享受していた悲恋を主題とする感傷性に通じる感覚があるように 思われる。

禅林における詩文を初心者に分かりやすく解説した『中華若木詩抄』は、初学者を 対象としたもののなかでも、さらに容易に学べるように「童蒙のためにと、仮名抄を も併催した」書物である。その中に宋の趙漢宗の「華清宮風流陣」という詩が掲載さ

(16)

れている。「玉殿の清暉彩旌を颺〈あ〉ぐ 承平の天子も亦た兵を知る 嬌児は風流陣 を識るに慣って 伝えて漁陽に到って藝始めて精し」というもので、一、二句は、豪 奢な宮殿に色とりどりの幟がなびく、風流陣の遊びの様子を詠い、太平の世の象徴で ある皇帝も兵法を知っていたと戯れて、三、四句では、楊貴妃の養子となった安禄山 がこの風流陣を見て戦い方を覚え、漁陽で反乱を起こした際にはその藝が発揮された と皮肉っているのである。

『中華若木詩抄』に注釈を付けた月舟寿桂(?〜 1533)は、南禅寺の扇面の№ 22「四 皓来朝図」、№ 62「風水洞図」、№ 67「花鳥図」、№ 76「秋草図」に着賛している人物で、

「華清宮風流陣」という題を付けながら、玄宗を大いに皮肉っているこの詩に共感・注 目してこの詩を掲載したという38。たしかに、禅僧は世俗を超越した立場であり、権威 や栄華に対してどこかシニカルな視点があることは不思議ではない。

以上のように、扇面に付した賛文には、その内容は栄華と破滅は表裏一体であると

【図 6】《長恨歌図屏風》紙本金地著色、六曲一双、円浄寺

(17)

いう、「盛者必衰の理」に通じるような仏教的な無常観が読み取れる。それこそが、応 仁の乱後の混乱する世を生き抜いた禅僧達が、人生の儚さを玄宗と楊貴妃の逸話のな かに見出したといえるだろう。

4 おわりに

南禅寺所蔵の《扇面貼交屏風》にみる室町時代の玄宗・楊貴妃は、絵画では、近世 の金碧障屏画に描かれた玄宗・楊貴妃と同様に、もっぱら栄華や富貴を極めた人物と して新興武家に受容された。ところが、賛文では古代の信西入道が「玄宗皇帝絵」で 訴えた「福貴常ならず、榮樂夢の如し、之をもって知るべきか」という栄華の儚さを 哀れむ、僧侶が提唱する無常観を踏襲していることがわかる。それにしても南禅寺所 蔵の《扇面貼交屏風》の扇面画については、画が近世を先取りしたものであるのに対 して、賛は旧来の解釈を踏襲しているため、両者の間には大きなずれが認められる。

なぜそのような不均衡な事態が起こったのか。それは、扇面の受け手である喝食が、

上層公家や上層武家の子弟という世俗勢力の出身であったことと関連があるだろう。

南禅寺の扇面にある狩野元信の扇の価格は二百文であったといい、その購買者層は上 層公家や上層武家に限られていた。すなわち、画を享受する公家や武士は、俗の世界 にあって、「玄宗故事図」に描かれた玄宗と楊貴妃を世俗世界の理想像として捉えるこ とによって、風俗への嗜好を強めていったのである。それに対して、賛を記す禅僧は といえば、聖の世界にあって、古代以来の世界観を堅持する傾向があることによって、

このような画と賛におけるアンバランスな状況が生じた可能性があることに言及する。

[図版出典]

図 1 『亀山法皇七〇〇年御忌記念 南禅寺』京都国立博物館(2004)

図 2 『特別展覧会 室町時代の狩野派』京都国立博物館(1996)

図 3・図 4 武田恒夫『南禅寺扇面屏風』フジアート出版(1960)

図 5 『特別展 花』東京国立博物館(1995)

図 6 『名古屋城特別展 王と王妃の物語 帝鑑図大集合』名古屋城(2011)

注・参考文献

1 武田恒夫(1982)「玄宗皇帝絵」『国華』第 1049 号,朝日新聞社は、玄宗と楊貴妃を描く絵 画を主題別に長恨歌系、勧戒画系、唐風俗画系の三種に分類している。長恨歌系は「長恨歌」

を絵画化したもので、古代の「亭子院の屏風」や近世のフリア美術館所蔵の《明皇・楊貴妃 図屏風》などが含まれる。勧戒画系は信西入道が描かせた「玄宗皇帝絵」や円浄寺所蔵の《長 恨歌図屏風》が含まれ、円浄寺本は安禄山の侵攻と玄宗貴妃出国を描き、「長恨歌」の一場 面を描いた長恨歌絵であるとともに、その内容から勧戒画系にも分類できる。唐風俗画系は、

玄宗に関する宮廷風俗図と楊貴妃をめぐる唐美人図を含み、風流陣図、護花鈴図、並笛図な どが挙げられる。ただし、本稿の表 1 ではこれをさらに簡略化し、典拠によって「長恨歌」

(18)

に基づくものを「長恨歌図」、『開元天寶遺事』に基づくものを「玄宗故事図」とした。

2 「長恨歌図」の呼称については、武田恒夫「物語絵から物語図へ」(武田恒夫・辻成史・松村 昌家編(2004)『視覚芸術の比較文化』「大手前大学比較文化研究叢書」2,思文閣出版,

pp.14-19.)が、物語そのものを描く場合を物語絵と称するのに対して、物語を題材とした風 俗画的要素に主眼をおく場合を物語図と区別しているため、本論ではこの区別に従って、古 代・中世の作例を「長恨歌絵」、近世の作例を「長恨歌図」と呼ぶことにする。

3 このほか中世の作例として、室町時代末期の掛幅に長柳斎筆《玄宗楊貴妃図》(クリーブラ ンド美術館藏)、利光印《並笛図》(個人蔵)が知られている。

4 久保田淳(1998)『小町集/業平集/遍昭集/素性集/伊勢集/猿丸集』和歌文学大系 18,明 治書院

5 中西進(1997)『源氏物語と白楽天』岩波書店

源氏物語の各帖は全編をとおして、白楽天の詩文と密接な関連が指摘されているが、長恨歌 を典拠とするものがとくに多い。

6 「長恨歌」は『白氏文集』では「感傷詩」に分類されているが、従来、研究者の間でその主 題を諷喩」とするか「愛情」とするか議論の分かれるところであった。近年の日本では「愛情」

主題とするという認識が共通している。この主題に関する研究史については、下定雅弘(2011)

『長恨歌―楊貴妃の魅力と魔力―』,勉誠出版,pp.33-47.、蹇長春・下定雅弘訳(1993)「長 恨歌の主題に関する議論―『長恨歌』にこめられた悲劇の重層性―」(『白居易の文学と人生Ⅱ』

「白居易研究講座」第 2 巻,勉誠社、下定雅弘・新間一美(1998)『日本における白居易の研究』

(「白居易研究講座」第 7 巻,勉誠社が詳しい。

7 関根慶子、山下道代(1996)『伊勢物語全釈』「私家集全釈叢書」16,風間書房,pp.141-142.

参照。ただし、島田良二(1968)『平安前期 私家集の研究』(桜楓社,p.406.)は、「みかど の御になして」を帝すなわち宇多天皇になって詠んだ歌としており、「きさきの御になして」

を皇后温子の代わりに詠んだ歌と解釈している。

8 関根慶子、山下道代(1996)『伊勢物語全釈』(前出),pp.6-11.

9 近藤春雄(1981)『長恨歌・琵琶行の研究』,明治書院,p.95.

10 関根慶子、山下道代(『伊勢集全釈』(前出),pp.140-149.)は、伊勢の「長恨歌の屏風」を 詠んだ十首の和歌が『続後撰集』(52 /巻 14 恋 4)『続後拾遺集』(55 /巻 17 雑下)『万代和 歌集』(56)『夫木和歌集』(57)『古今六帖』(59)『拾遺集』(60 /巻 8 雑上)にも採録され、

後世に継承されたという。

11 『後拾遺和歌集』、「秋上」には道命法師の「長恨歌の絵に玄宗もとの所にかへりて虫どもな き草も枯れわたりて帝のなげき給へるかたのある所をよめる」として「ふるさとはあさぢが はらとあれはてて夜すがら虫のねをのみぞきく」が採録され、「秋草」、「虫の音」、「浅茅が原」

という儚さや移ろいやすさを象徴する言葉を用いていることから、荒れ果てた野辺に秋草を 配した、もの悲しい情景を描いたものであったことが想像される。

12 『玉葉』建久二年(1191)十一月五日条

 「抑長恨歌繪相具、有一紙之反古、披見之處、通憲法師自筆也、文章可褒、義理悉顯、

感歎之餘、寫留之、其狀云、

唐玄宗皇帝、近世之賢主也、然而、愼其始、弃其終、雖泰岳之封禪、不免蜀都 之蒙塵、今引數家之唐書、及唐曆、唐紀、楊妃内傳、勘其行事、彰於畫圖、伏望、

後代聖帝明王、披此圖、愼政敎之得失、又有厭離穢土之志、必見此繪、福貴不常、

榮樂如夢、以之可知歟、以此圖、永施入寳蓮華院了、于時平治元年十一月十五日、

彌陀利生之日也、

沙 彌在判

(19)

此圖爲君心、豫察信賴之亂、所圖彰也、當時之規摸、後代美談者也、末代之才士、

誰比信西哉、可褒可感而已」

13 『九条家本玉葉六』(宮内庁書陵部編『図書寮叢刊』(2000)明治書院所収)治承三年(1179)

九月四日の条には、九条兼実が宮中で所蔵されていた「玄宗皇帝絵六巻」を借り受けて鑑賞 した記録が記されている。

14 『吉続記』(増補「史料大成」刊行会『増補「史料大成」』(1965)臨川書店所収)文永七年(1270)

八月二十二日の条には、蓮華王院宝蔵に納められていた「玄宗皇帝絵」が、文永七年(1270)

に一時内裏に移された際に火災に遭い、制作からおよそ百十年後に焼失したことが記されて いる。

15 玄宗と楊貴妃を主題とした絵画について、表 1 に掲載の作品は、おもに以下の文献を参照した。

・ 武田恒夫(1960)『南禅寺扇面屏風』,フジアート出版

・ 吉田友之(1979)「長恨歌襖絵の一遺作〈明皇接舞図〉によせて」『日本美術工芸』489 号,

日本美術工芸社

・ 鈴木廣之(1980)「近世初期のおける『長恨歌絵』―フリア美術館本《明皇・楊貴妃図屏風》

を中心にして―」『日本屏風絵集成 人物画―漢画系人物』第 4 巻,講談社

・ 鈴木廣之(1982)「長恨歌図屏風」『国華』1052 号,朝日新聞社

・ 武田恒夫(1982)「玄宗皇帝絵」『国華』第 1049 号,朝日新聞社

・ 脇坂淳(1990)「長恨歌絵巻考」『日本美術工芸』621 号,日本美術工芸社

・ 榊原悟(1993)「長恨歌絵巻のこと」平山郁夫編『秘蔵日本美術大観』5,講談社

・ 展覧会図録(2010)『山種コレクション 浮世絵 江戸絵画』,山種美術館

16 「長恨歌図」の呼称については、武田恒夫「物語絵から物語図へ」(武田恒夫・辻成史・松村 昌家編(2004)『視覚芸術の比較文化』「大手前大学比較文化研究叢書」2,思文閣出版,

pp.14-19.)が、物語そのものを描く場合を物語絵と称するのに対して、物語を題材とした風 俗画的要素に主眼をおく場合を物語図と区別しているため、本論ではこの区別に従って、古 代・中世の作例を「長恨歌絵」、近世の作例を「長恨歌図」と呼ぶことにする。

17 『後素集』,坂崎坦編(1929)『日本画論大観』上,アルス

18 大西廣、太田昌子(1995)『安土城の中の天下 襖絵を詠む』(朝日百科『日本の歴史』「歴 史を読み直す 16」朝日新聞,pp.62-72.

19 仲町啓子(2009)「日本における〈唐美人〉の絵画化とその意味」仲町啓子編『仕女図から 唐美人図へ』「実践女子学園学術・教育研究叢書」17,実践女子大学,pp.29-30.

20 村木桂子(2011)「《長恨歌図屏風》(個人蔵)にみる〈長恨歌図〉の世俗化について―近世 的メディアとの交渉を手がかりに―」『美術史』第 171 冊, pp.48-66.

21 武田恒夫「玄宗皇帝絵」(前出)

22 福田訓子(2009)「玄宗・楊貴妃画題の受容と新展開―室町末から江戸初期を中心に―」仲 町啓子編『仕女図から唐美人図へ』「実践女子学園学術・教育研究叢書」17,実践女子大学 23 岩山泰三(2000)「五山詩における楊貴妃像―題画詩と『後素集』」『国文学研究』131 号

岩山泰三(2012)「『後素集』玄宗楊貴妃関係画題攷」『和漢比較文学』第 49 号

岩山泰三(1993)「『狂雲詩集』楊貴妃関係詩群―表現の位相と儒仏感」『国文学研究』111 号 24 武田恒夫『南禅寺扇面屏風』(前出),pp.12-13. なお、武田は三十五面の扇面に施した禅僧 の着賛状況をふまえると、この屏風が後陽成天皇の御下賜品であるとするよりも、南禅寺に 伝世した可能性を指摘している。

25 武田恒夫『南禅寺扇面屏風』(前出),pp.15-18.

26 並木誠士(2009)『絵画の変―日本美術の絢爛たる開花』「中公新書」1987,中央公論新社,

pp.110-111.

(20)

27 河田昌之(1990)「扇絵概説」(展覧会図録『特別展 扇絵―日本・中国・朝鮮半島―』)和 泉市久保惣記念美術館,p.19.

28 安原真琴(2003)『「扇の草子」の研究―遊びの芸文』,ぺりかん社,pp.189-190.では、上級 の公家や武家の注文を受けて制作された狩野元信や土佐光茂の扇絵が庶民にはとうてい入手 できない高価なものとして、当時の価格について詳しく記している。

29 狩野元信の扇絵制作については、宮島新一(1993)『扇面画(中世編)』「日本の美術」№ 320,

至文堂,pp.37-39.に詳しい。

30 大塚光信・尾崎雄二郎・朝倉尚校注(1995)『中華若木詩抄 湯山聯句鈔』「新日本古典文学 大系」53,岩波書店,p.154.

31 岩山泰三「五山詩における楊貴妃像―題画詩と『後素集』」(前出),pp.47-52.

32 丁如明輯校(1985)『開元天寶遺事十種』上海古籍出版社,p106. 『後素集』(前出),p.123.

33 武田恒夫『南禅寺扇面屏風』(前出),pp.12-13.

34 同前

35 芳賀幸四郎(1981)『中世禅林の学問におよび文学に関する研究』「芳賀幸四郎歴史論集Ⅲ」,

思文閣出版,p.419. 芳賀幸四郎(1981)『中世文化とその基盤』「芳賀幸四郎歴史論集Ⅳ」,

思文閣出版,p.175.

36 竹内理三編(1991)『蔭凉軒日録五』(「増補続史料大成」25,臨川書店所収)明応元年十二 月廿一日の条に「昨日六角堂松坊來于藤寮。持以彩畫扇一柄云。有人爲惠嶠棣淑美丈。請横 川和尚賛。」とある。

37 岩山泰三「五山詩における楊貴妃像―題画詩と『後素集』」(前出),pp.52-54.

38 大塚光信・尾崎雄二郎・朝倉尚校注『中華若木詩抄 湯山聯句鈔』(前出),p.154.

(21)

【別表 1】玄宗と楊貴妃を主題とするおもな絵画

 凡例:【  】は形式、「  」は文献資料にみる作品名、《  》は現存作品名を示す。

「長恨歌絵/図」系

【屏風】

「亭子院の長恨歌屏風」(文献)

【絵巻】

信西入道の「玄宗皇帝絵」(文献)

【屏風】

《明皇・楊貴妃図屏風》(狩野派)

《長恨歌図屏風》(奈良絵)

【絵巻・絵本】

《長恨歌画巻》

《長恨歌絵巻》

(奈良絵)

【版本】

『長恨歌抄』 

『長恨歌図抄』

【屏風】

【扇面】

風流陣図 護花鈴図 鞨鼓催花図 蝶幸図など

「元宗故事図」系

中世 古代

近世

(22)

【別表 2】 『後素集』にみる『開元天寶遺事』出典の玄宗関連の画題リスト

画題 分類

(後素集) 登場人物 長恨歌 内容(後素集による) 出典 原文

1 明皇令鑿玉図 帝王 玄宗

開元年中に内中にて玉 をほらせしむ、玉に古 篆の天下太平の字有、

是を内庫にをさむ。

『開元天寶遺事』

巻上 開元「玉 有太平字」

開元元年、内中因雨過、地潤微裂、

至夜有光。宿衛者記其處所、曉乃奏之、

上令鑿其地、得寶玉一片、如拍板樣、

上有古篆「天下太平」字。百僚稱賀、

收之内庫。

2 明皇蝶幸図 帝王

玄 宗、 宮 女  注)楊貴妃入 内以前の話

玄宗妃の方へ出で給ん ときは必蝶を飛ばせて 其蝶の飛入たる所にと まり給也。

『開元天寶遺事』

巻上 開元「隨 蝶所幸」

開元末、明皇毎至春時旦暮、宴於宮中、

使嬪妃輩爭插艶花。帝親捉粉蝶放之、

隨蝶所止幸之。後因楊妃専寵、遂不 復此戲也。

3 玄宗宴桃下図 帝王 玄宗、楊貴妃

玄宗桃花のさかりに桃 下にてしとねをしきて 貴妃と酒宴してあそび 給図也。

『開元天寶遺事』

巻上 天寶「銷 恨花」

明皇於禁苑中、初有千葉桃盛開、帝 與貴妃日逐宴於樹下。帝曰、「不獨萱 草忘憂、此花亦能銷恨。」

4 醒酒花図 帝王 玄宗、楊貴妃

玄宗と貴妃幸花清宮酒 に酔て自ら芍薬を一枝 折りて二人共に花をか ぎ給、其時酔さむ。

『開元天寶遺事』

巻上 天寶「醒 醉草」/同「醒 酒花」

興慶池南岸、有草數叢、葉紫而心殷。

有一人醉過於草傍、不覺失於酒態。

後有醉者摘草嗅之、立然醒悟。故目 爲醒醉草//明皇與貴妃幸華清宮、

因宿酒初醒、憑妃子肩同看木芍藥。

上親折一枝、與妃子遞嗅其艶、帝曰、

「不惟萱草忘憂、此花香艶、尤能醒酒。

5 樓車載楽図 仕臣 楊国忠

楊国忠子弟春遊の間ご とに大車を以綵帛をむ すび、爲樓載女樂數十 人園中にあそぶ体也、

長安中のこと也。

『開元天寶遺事』

巻上 天寶「樓 車載樂」

楊国忠子弟、恃后族之貴、極於奢侈、

毎春遊之際、以大車結綵帛爲樓、載 女樂數十人、自私第聲樂前引、出遊 園苑中、長安豪民貴族皆效之。

6 貴妃呵筆図 美人 楊貴妃、李白

貴妃筆を染めて李白に さし出す、李白其筆を とって物書。

『開元天寶遺事』

巻下 天寶「美 人呵筆」

李白于便殿對明皇撰詔誥、時十月大 寒、筆凍莫能書字。帝䎮宮嬪十人、

侍于李白左右、令各執牙筆呵之、遂 取而書其詔、其受聖眷如此。

7

花 上 金 鈴 図  護花鈴図とも

美人

玄宗、楊貴妃  注)実際には 寧王の話

貴妃明皇花ざかりの時 鳥の爲に花上に鈴をか けて花を見体。

『開元天寶遺事』

巻上 天寶「花 上金鈴」

天寶初、寧王曰侍、好聲樂、風流蘊籍、

諸王弗如也。至春時、於後園中、紉 紅絲爲繩、密綴金鈴、繋於花梢之上、

毎有烏鵲翔集、則令園吏掣鈴索以驚 之、蓋惜花之故也。諸宮皆效之。

8 鞨鼓樓図 又

云鞨鼓催花図 美人 玄宗、楊貴妃

玄宗と貴妃と樓上にし て鞨鼓をうち給へば時 來らざるに諸木花咲を 見体。

『鞨鼓録』鞨鼓 催花

明皇尤愛鞨鼓、嘗遇二月初、詰旦宿 雨晴、内庭柳杏將吐、覩而歎曰、對 此景物、豈得不與他判斷之乎、力士 遣取鞨鼓、上臨軒縦撃、自製一曲、

名春好光、及顧柳杏皆已發䆯、上笑 謂嬪御曰、此一事、不喚我作天公可乎。

9 液庭鴛鴦図 美人 玄宗、楊貴妃

貴妃明皇二人興慶池に て帳の内に晝寢す、官 女多く水殿の欄干によ り柱により池の鴛鴦を 見寢體也、端午の會也。

『開元天寶遺事』

巻上 天寶「被 底鴛鴦」

五月五日、明皇秘書遊興慶池、與妃 子晝寢於水殿中。宮嬪輩憑欄倚檻、

爭看雌雄䪝姗戲於水中。帝時擁貴妃 於䊒帳内、謂宮嬪曰、「爾等愛水中䪝 姗、爭如我被底鴛鴦?」

10 風流陣図 美人 玄宗、楊貴妃

明皇と貴妃、酒酣の時、

官女百余人を両陣にわ け 太 液 庭 に て 花 枝 を 持、相たゝかふ、是を 見て楽しめる体。

『開元天寶遺事』

巻下 天寶「風 流陣」

明皇與貴妃、毎至酒酣、使妃子統宮 妓百餘人、帝統小中貴百餘人、排兩 陣于掖庭中、目爲風流陣。以霞被錦 被張之、爲旗幟攻擊相䌵、敗者罰之 巨觥以戲笑、時議以爲不祥之兆、後 果有祿山兵亂、天意人事不偶然也。

11 明皇䋓国囲棋

美人 玄宗、䋓国夫

人、楊貴妃

明皇䋓国夫人と碁をう ち給、明皇まけめに見 ゆる時貴妃ゑのこをい だき来て盤の上にはな し石をちらしたる体、

䋓国は貴妃があね也。

『開元天寶遺事』

巻上 天寶「䉋 子亂局」

一日、明皇與親王棋、令賀懐智獨奏 琵琶、妃子立於局前觀之。上欲輸次、

妃子將康國䉋子放之。令於局上亂其 輸贏、上甚悦焉

12 夜明枕図 器用 䋓国夫人

䋓 国 夫 人 夜 明 け の 枕 有、殿中にて夜是を持 すれば則枕より光出て 照す也。

『開元天寶遺事』

巻上 天寶「夜 明枕」

䋓国夫人有夜明枕、設于堂中、光照 一室、不假燈燭。

13 遊仙枕図 器用 玄宗、楊国忠

龜茲国より瑪瑙の如な る枕を玄宗に奉る、則 楊国忠に給はる。

『開元天寶遺事』

巻 上  開 元 

「遊仙枕」

龜茲國進奉枕一枚、其色如瑪瑙、温 温如玉、其製作甚樸素。若枕之、則 十洲三島、四海五湖、盡在夢中所見。

帝因立名爲遊仙枕、後賜與楊国忠。

参照

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