近世庶民教育における徳育の構造 : 大坂の寺子屋 師匠と往来物を手掛かりに
著者 和田 充弘
雑誌名 同志社大学日本語・日本文化研究
号 12
ページ 201‑215
発行年 2014‑03
権利 同志社大学日本語・日本文化教育センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013492
要 旨
近世の大坂は巨大な商業都市であり、全国的にみても、当時の庶民教育は実用 を重んじ、職業と生活の実際に役立てようとする傾向が強いといわれるが、詳細 をみてゆくと、そのような世俗的性格だけでなく、あわせて徳育も重視されている。
大坂における寺子屋師匠没後の墓碑・顕彰碑には、様々な角度からなる、世間離 れした点への人物評が寄せられ、学者、文人、書家たちとの知的で風雅な交友関 係も推測される。また大坂版の往来物を全体的に捉えると、そこには一定の世界 観がそなわり、さまざまな場面において、教育する側の配慮に根ざした聖性・道 徳性、すなわち心の教育や内面形成の尊重と、世俗性との均衡が保たれていた。
聖性・道徳性と世俗性の対立が厳しく、否定し合うのではなく、聖性・道徳性か らの働きかけのもとで、両者の緩やかな共存が成立しているところに、近世庶民 教育における徳育の構造的な特徴を見いだすことができよう。
キーワード
日本文化 庶民教育 徳育 寺子屋 往来物1 はじめに:大坂の寺子屋に関する先行研究・基本史料
本稿では主に、大坂における寺子屋師匠の墓碑・顕彰碑の分析、および大坂版往来 物の解読を通じ、近世庶民教育における徳育の構造的な理解をめざすことにする。そ こで本格的な考察の前提として、先行研究を踏まえ1、近世大坂における寺子屋教育の 全体像を以下に列挙しておきたい。
第一に、寺子屋やそれに類する呼称は大坂でも一般的に用いられ、寺子屋の他には、
寺、寺屋、手習屋、訓蒙屋といった例がみられる2。教師は御師匠様、師の坊であり、
教え子は弟子、寺子、手習子などと呼ばれていた。大半は庶民の身分に属する師匠が 経営し、「寺子」が中世寺院の俗人(武士、庶民)教育に由来する一方、「屋」は商業 都市ならではの稼業的性格の現われであった。
近世庶民教育における徳育の構造
─大坂の寺子屋師匠と往来物を手掛かりに─
The Structure of Moral Education in Common People, Early Modern Japan:
Terakoya Teacher and Ouraimono in Osaka as a Clue
和田 充弘
第二に、「屋」が付く施設名は、手習塾である寺子屋以外にも及んだ。珠算塾は算盤屋、
篠崎小竹(1781 〜 1851)の梅花社、藤沢東嘆(1795 〜 1865)の泊園書院といった詩 文や儒学の結社は読物屋、一文屋(三文稽古)というのは貧困層対象の手習塾を指した。
籠谷次郎氏の調査によると、大坂では初級の寺子屋と、より上級の私塾との間に明確 な区別はできず、両者は重複し、或いは接近する間柄であったという。寺子屋・寺子 屋師匠と書道塾・書家とを分けるのも実際には困難である。
第三に、町人生活に密着した教育内容が、大坂ではより濃厚に確認できる。手習に 算術(珠算)を兼ねて学習させる寺子屋が実に多く、往来物についてみても元禄 7 年
(1694)刊行の『商売往来』は大坂の作者・書肆によるもので、類書中では江戸時代を 通じての全国的なベストセラーとなり、大坂版の地誌型往来物には、後述するように 商業都市の自負と気概が色濃く示されている。
第四に、大坂の寺子屋では芸能・遊興との交渉が柔軟に行われている。寺子屋を講 釈の演芸場に提供することもしばしばで、全国的な事例と同じく、寺子屋の教育内容 に謡曲の稽古が含まれていた。その他、寺子屋が関わる年中行事に松噪子、天神祭が あり、七夕には教場を飾りつけて開放し、その時は遠国が女子の楽しみであった3。
第五に、大坂町奉行との関連も興味深い。慶安元年(1648)、牢人取締の触が手習師 匠をその対象に含み、安永 2 年(1773)、京都五条家所蔵の天神御影巡回の触では、特 に寺子屋が所在する町内への通知が促され、寛政 9 年(1797)には高札の写しを手本 に使用すべき旨が触れ出されている。文化 5 年(1808)には町奉行平賀貞愛が『六諭 衍義大意』をみずから印施(自費出版と配布)し、謡曲稽古の折に用いることを勧めた。
他に相応の教育施設が少ないことから、幕吏子弟の寺子屋入門も珍しくなかったとい う。幕藩権力は既存の寺子屋を教化政策の手段とするだけでなく、民間からの寺子屋 の自生を後押しし、みずからもその恩恵に浴することがみられた。
上記とも一部内容を重複させるが、大坂の寺子屋に関する代表的な史料を次に掲げ ておく。
付タリ手習子をとり居候もの、右三ヶ条〔他国他町出身、身持不審の医師取締〕のと をり可致吟味事。(慶安 1.9.14 補触)4
前述した、幕府による不審者・牢人の取締対象に医師だけでなく、手習師匠を含む 記事である。近世前期におけるその身分的な出自がうかがい知れる。大坂の寺子屋に 関しては管見のところ、この史料が初出である。
寺に来ては宿のよからぬ事を白地ニ語リ……(笹山梅庵『寺子制誨之式目』、元禄 8 年 1695 刊『手習仕用集・手習新式目』と合綴)5
近世中期、「寺」「寺子」の名称が登場する事例である。作者の笹山梅庵は当地の寺 子屋師匠でもある。
天王寺元三大師堂の傍に筆塚立、今年〔元文 3 年 1738〕八月十八日東行〔竹〕堂卒ス し る し の 塚 也、 筆 道 の 門 人 四 千 七 百 八 十 三 人 に 及 び し と ぞ。(『 摂 陽 奇 観 』 巻 之 二十六)6
門人が師匠を没後に顕彰する、いわゆる筆子塚建立の記事である。ここでは門弟の 人数が膨大である。
大坂中寺子屋二千五百軒余、凡七万五千人懸銭一人前三銅宛〔1752 宝暦 2〕。(同前巻 之三十)
これも近世中期のもので、表現に誇張を含むと思われるが、寺子屋の市中総数、寺 子の延べ人数を挙げている。
京都五条家鎮守天神御影、為弘町々へ近々相廻り可被申旨、信心之輩可受之旨被仰渡候、
尤丁内ニ寺子屋有之町々ハ、各別申聞置候様被仰渡候。(安永 2 年 1773 3 月補達)7
これは先に述べた、天神御影巡回についての大坂町触である。師匠を取締の対象と した近世前期と比べ、幕藩権力の寺子屋への認知度は高まっているといえよう。寺子 屋は町の支配と自治のシステムに組み込まれていた。
大坂の寺子屋に関する先行研究と基本史料からまとめると、稼業的な経営形態、商 業密着型の教育内容、支配・自治との一体性といった点に、政治、経済、生活の実態 に沿った世俗的性格が支配的である点が認められるが、それだけでなく、学問、芸道、
神祇信仰との重なりにおいて、聖性・道徳性の所在を裏付ける諸要素も確実にみてと れる。ただし研究の現段階を踏まえた事実確認に立てば、寺子屋教育の内部や核心を 占めているのはあくまで世俗的性格であり、外部や周辺に付随するのがその他の要素 だということになる。この場合、世俗性の中からの、功利的傾向が専行する可能性に 対して、幾らかの制御的機能をかろうじて果たしているのが、聖性・道徳性といった 徳育に関わる側面なのであったと解せよう。
ここで徳育、世俗性、聖性・道徳性の語について確認しておく。まず徳育と知育を 明確に区分するのは、近代公教育の考え方である。例えばコンドルセ(Condorcet、 1743 〜 94)は「公教育は知育のみを対象とすべきである」「公権力はいかなる問題に 関しても、思想を真理として教授せしめる権利をもつことはできない。公権力はいか なる信仰をも課してはならないのである」と述べ8、国家権力による個人の内面や各家
庭の価値観に対する不干渉を尊重する立場から、公教育の範囲を知育に限定して、そ こから徳育にかかわる特定の宗教や思想を除外している。それがすなわち、近代公教 育における世俗化(宗教的中立)の原則である。しかし近世日本の教育では、知的な 読書を伴う仏教、儒学、国学の学問が内面形成を大きな目的とする点で、徳育は知識 の教育を含んでおり、また芸道も身体的な作法を用いながら、風雅さの面からの内面 形成に寄与した。聖性にしても、教育史研究の立場によれば、宗教的なものに限定せず、
人間の内面形成、つまり心や道徳の教育に価値を見いだすときに、それらを指すもの として用いており9、本稿ではこうした意味の広がりを踏まえて、聖性・道徳性と並べ て記した。世俗性についても近代公教育での世俗化の概念とは距離を置き、あくまで 聖性・道徳性の対立概念として捉え、政治、経済、生活が各々の実用的傾向を強め、
ときには内面形成の理想と相反する可能性を含んでいることを念頭に、この言葉を使 うことにする。ちなみに寺子屋については、大正・昭和戦前の研究では寺院起源説と 世俗的性格の強調との対立がみられたが、戦後は後者の延長上といえる、民衆の政治的、
経済的な実力形成という側面が注目されている10。その意味で本稿は聖性・道徳性の側 面からの、寺子屋を含む庶民教育の再検討にあたる。
2 寺子屋・私塾師匠関連碑文の分析
本節では新たな試みとして、近世から明治に及ぶ大坂(大阪)での私塾(書道、儒学、
漢詩文、算術)の師匠にまつわる墓碑、顕彰碑を数多く選び出し、それぞれの碑銘の 文面を分析してゆきたい。明治まで含めたのは、そこに近世との連続面を捉え、より 多くの事例を掲げたい意図からである。私塾とはいっても内容的にみて、寺子屋、往 来物をはじめ、初級の庶民教育に該当し関連する事例が頻繁に出てくる。ほとんどが 活字翻刻史料に拠る今回調査の全容は、<別表>に掲げておいた。その特徴は以下の 諸点にまとめられよう。
第一に、書家が寺子屋師匠を兼ねていると推測できる事例が目立つ。芸道本位の狭 義の書道塾には限定しにくいであろう、門人の多さを誇る例が多く(<別表>中の通 し番号 1、3、4、5、10、12、14、以下同)、代々「閭里書師」を務め、児童と書き初め をしたとするもの(15)、児童への指導を明記するもの(3、7)、もみられる。
第二に、読物屋や算盤屋の所在を物語る例が登場する。書・儒を兼ねるものが多い が(7、12、14、15、21、24、25)、これらは寺子屋における手習と儒学の初歩(読物)
の指導に当たるだろう。(9)では児童に儒学書の句読(漢文テキストの読み下しと暗誦)・ 義理(道徳的な面からの内容理解)を授けたと明確に述べ、(18)の算術塾は「従遊数千」
とあり、通俗化した算盤屋の様相を呈している。
第三に、師匠に対する人物評が極めて面白い。それらを分類すると、⑴市井に在り ながらの世俗からの超越、風雅、清貧、教養人(2、3、5、7、10、11、12、17、18、
23)、⑵義侠心(9、12、22、23、25、27)、⑶飲酒の交わりへの愛好(5、12、25)、⑷
懇切丁寧な指導者(3、9、26)、⑸儒教道徳の体現、道徳的な人格者(2、7、8、9、
10、22、23、26)、といった恩師の人柄への評価がみられる。彼らが特に経済的な利害 関係から隔絶し、その意味で世間離れした人物であることの意味づけは多種多様であ る。世俗の社会一般からの超越の仕方は硬軟さまざまで、学問、芸道に基づく聖性・
道徳性の保有者に該当する人もいれば、義侠心や飲酒好きなど、その枠を超えてしまっ ている人もいる。清貧と懇切丁寧さは、実利の度外視という点で相通じているといえ よう。
第四に、石碑の施主を調べると、嫡子などが 9 件、門人が 13 件であり、「先生」を 墓標他に含むものは 17 件である。当然とはいえ、恩師を追慕する心情が石碑の建立を 促した。
第五に、碑文の撰者などをみてゆくと、著名な学者、文人、書家の名前が頻繁に登 場する。形式的に、時には金銭の授受を介して、依頼を受けた場合を割り引かねばな らないとはいえ、私塾、ひいては寺子屋の師匠たちがこうした人々との交友関係を有 していた可能性は十分に考えられる。撰者に挙がるのは、江村北海(1713 〜 88)、片 山北海(1723 〜 90、2 例)、皆川淇園(1734 〜 1807)、奥田元継(1729 〜 1807)、奥 田尚斎、篠崎小竹(1781 〜 1851、2 例)、頼山陽(1780 〜 1832)、藤沢南岳(1842 〜 1920、4 例)、その他に、恩師が学んだ人物として、篠崎三島(1737 〜 1813)(12)、
頼山陽(21)、田能村竹田(1777 〜 1835)と広瀬淡窓(1782 〜 1856)(22)、貫名海屋
(1778 〜 1863)(24)、冷泉為忠・広瀬旭荘(1807 〜 63)・藤沢東嘆(1795 〜 1865)(25)
の名が挙げられる。ただしひとつの事実として、大坂を代表する学問所である懐徳堂 の関係者は、その中に見当たらない。
第六に、刊行された書物の作者も 2 例みられる。永井如瓶(子)(2)は往来物の『三 徳筆抄』『邇言便蒙抄』(『難字訓蒙図彙』)『走帆堂筆帖』『庭訓往来諺解』『庭訓諸鈔大成』
を著し11、邨(村)田海石(1835 〜 1912)(27)は明治に至り、大阪府や堺県の小学校 で用いた習字の教科書を多く手掛けている。
第七に、幕吏との交渉例として、在番の役人及び奉行子弟の入門を受け入れた人物 も確認できる(12、14)。
そして第八に、石碑建立活動の時間的な継続性もひとつの特徴といえよう。その期 間は享保から明治末年に及び、近世教育における師弟関係の尊重が、少なくとも価値 観として保たれていたのである。
こうした師匠関連碑文の考察を整理すると、書道、儒学、算術の各塾が通俗化、稼 業化し、それぞれ寺子屋、読物屋、算盤屋へと向かう傾向については、学問と芸道に おける世俗化への傾斜とみなすことができる。しかしその他の点では、恩師への追慕・
顕彰という意図も手伝って、総じて世俗的ではない性格の方が強調されている。その うち多面的な人物評への言及は、教師の人格的な要素という教育の内部、核心部分に おける、聖的・道徳的性格、非世俗的性格の所在を証明しようとするものであり、撰
者に有名な学者、文人、書家たちが並ぶことにしても、これもやはり人的な繋がりに おいて、外部、周辺の人々がもつ聖性・道徳性との交渉や関連づけが確かなものであっ たことを示している。先行研究があきらかにしてきた事実にも増して、大坂の寺子屋・
私塾には、聖的・道徳的性格が強かったことを、非世俗的性格の徹底すらみられたこ とを、ひとまず確認しておきたい。
3 大坂版往来物の世界
近世往来物は習字の手本、書簡の文例を基本とし、そのさらなる展開においては、
日常生活に必携の知識を付録に掲載し、小型の百科事典ともいえる分量を持つものも みられた。ここで取り上げる大坂の往来物は、寺子屋の教材に用いられただけでなく、
寺子屋を中心とする庶民教育の理念と全体像を描き出しているものでもある。
その第一として、藩校、私塾の学則・校則に当たるものが寺子屋でも作られ、それ がそのまま往来物に仕立てられた事例を取り上げたい。次に引用する二点は、いずれ も大坂の寺子屋師匠を作者とする、そうした往来物である。手習の課業とそれに付随 する生活面での指導について、その意義づけは両者とも共通する。
人は兎もあれ角もあれ、其身は神妙に心を止、一字々々によく見入習ヒ可被申事。/
心入の悪敷者の能物書事なし。先両親ヲ崇、師匠を尊、兄を敬、弟を恵より人の道は 発事に候へば、礼義を正し、友達中えも詞葉づかひ以下、随分慇懃に可被申事。/人 の放心を収メ、身を立、道を得る事、手習より善はなし。(笹山梅庵『寺子制誨之式目』
元禄 8 1695 刊)12
手習とは「心」「身」を正しくし「人の道」に沿うための最善の手立てに他ならず、
そうした要件を抜きにして技術の向上もありえない。また「人の道」は人間関係に即 した道徳の実践に基づくため、通学する寺子同士での「礼義」が尊重された。朱子学、
陽明学を含む儒教の学問観・道徳観に立てば13、人道は天道と連続する。「人の道」は 世俗の社会生活に即した、可能な限りの道徳を問うだけでなく、宗教的な意味での超 越への可能性までも孕んでいた。
先向机摺墨静心調気、相弟子之交不働無礼、慇懃而寺式法之趣不相背、稽古有其定之 内皆可相守、人写十字者、学百字、手本之字形、清書之直、能々相考、筆仕不速不遅、
廻鍛錬工夫、可習之也。(堀流水軒『寺子教訓書』『堀氏 寺子往来』正徳 4 1714 刊、所 収)14
堀流水軒は後述する『商売往来』の作者でもある。この人物も技芸の習得の前提に、
心身を正すことと朋友に対する礼の実践とを強調していた。寺子屋を了えてその先、
それぞれの稼業に就くと、手習の実利的な効用が幅を利かせることになるが、寺子屋 師匠、往来物作者はそのことを主張の前面には出さず、内面形成の理想にこだわった。
第二点目として、往来物の収録文が師弟関係を尊重している例をみてゆく。先の笹 山梅庵『寺子制誨之式目』でも「七尺避而師の影を不踏、一字ノ恩に舌ヲ抜と云り。
主親・師匠に向而一言も口答不可申、制訓の趣厚信じ、弥人の道ノ重事を尋問可被申事」
と述べ、「人の道」との繋がりで厳格な教師像の必要を説いているが、次に挙げた往復 書簡の文例も興味深い。ここでは入門時における志望者・保護者と師匠の書状の遣り 取りに合わせて、師弟関係とそれを支える保護者の在り方についての一つの理念が示 されている。
……向後望御講席、御弟子一分ニ被召加可被下候、㊤少許御指南被遊被下候者、御慈 恩可譬方御座有間敷候、㊥一曲御教可被下候不器用者ニ而、尤雖御面倒於御同心者、
可被辱候、㊤乍御苦労之御事御免許奉仰候、㊥乍御世話御伝受給候ハヾ可為幸甚候。(「師 匠を求るに遣す状」山本序周『文林節用筆海往来』享保 18 1733 刊)15
文中の㊤㊥は相手の地位や教授内容の格式に応じた書き換えである。いわゆる書札 礼の一例にあたる。儒者の講釈から音曲の伝授まで幅は広いが、いずれも入門を依頼 する文章である。師匠に対する謙虚さ、へりくだりが目立つ点を確認しておきたい。
次に挙げるのは前掲の文例への返信とは異なる、それとは別のひと組からの、寺子 屋入門の依頼状に対する師匠の返事である。
書法之義御稽古可被成旨、㊤上木道御勤学可被遊旨、㊥手習之義御励可有之由、御殊 勝千万に奉存候、㊤誠深切之御儀に奉存候、㊥扨々奇特之事ニ存候、世上能書之人数 輩御座候処ニ、㊤就夫数多指南者御座候処ニ、㊥随而善師匠世間ニ大分有之候ニ、下 拙御好被成候段、面目之至ニ候、、㊤私式御撰被下大慶之至奉存候、㊥我等教訓御求之 段如何敷存候へ共、存知候程者、無秘密伝受可申述候、㊤乍憚覚悟仕候程者不残御相 伝可申上候、㊥不及辞退随分談合可申入候。(「手習の師を求る状、返事」同前)
入門許可の返事を出す師匠も謙虚である。文意の要点は二つ、数多くの師匠たちの 中から自分が選ばれたことへの謝意と、もう一つは選ばれた以上は覚悟をさだめ、全 力を注いで指導するという決意の表明である。日本の伝統的な教育における師弟の礼 は周知の事実だが、その根底には「人の道」に対する敬意という両者共通の理解と、
それを分かち合いながら人間関係を構築することへの責任感が具わっていた。寺子屋 のように門人が年齢的に未熟であれば、保護者がこうした関係に与する度合も高くな るであろう。師弟の関係、保護者と師匠との関係とはこのような意味において、師匠 の重視する教育内容(手習など)の道徳的性格を、その極めて近くから支えるための
間柄なのであった。師弟の礼という知恵が生かされてこそ、手習の教授と学習は卑俗 な功利化から守られた。
寺子屋・私塾からその外へと、世界をさらに広げたい。第三点目として、実社会で の処世、つまり大坂商人の経済活動や社交の具体相に触れている往来物を取り上げる。
凡、商売持扱文字、員数、取遣之日記、証文、注文、請取、質入、算用帳、目録、仕 切之覚也。/……考贋与本手、貫、目、分、厘、毛、拂迄、以天秤、分銅無相違、割 符可令売買也。/……聞合直段相場、不残於売払者、運賃、水上口銭、差引相究、都合、
勘利潤之程、出入之有損失者、可弁之。(堀流水軒『商売往来』元禄 7 1694 刊)16
商業に関する語彙が列挙され、利益の追求のための才覚が重んじられる。流水軒『商 売往来』の記載はほとんどこうした内容に終始し、まさしく世俗的性格の明瞭さゆえ 庶民の需要にもよく応えて、大坂の寺子屋における使用頻度も高かったという17。しか し本文末尾になると、それとは様相を異にする。
抑生商売之家輩、従幼稚之時、先手跡算術之執行、可為肝要也。然而、歌、連歌、俳諧、
立花、蹴鞠、茶湯、謡、舞、鼓、太鼓、笛、琵琶、琴稽古之儀者、家業有余力折々心懸、
可相嗜……惣而、見世棚寄麗、挨拶応答、饗応、可為柔和、大貪高利、掠人之目、蒙 天罪者、重而問来人可稀、恐天道之働輩者、終、富貴繁昌、子孫栄花之瑞相也。倍々 之利潤無疑。(同前)
商人一般の学習段階として、必須の「手跡算術」(手習、算盤)に始まり、「家業」
の「余力」を条件に芸道の「稽古」を容認する。さらには店先や対人関係に気配りし、
逆に独りよがりに暴利を貪ることを戒める。そしてこうした教訓に従うことが「天道」
への畏敬であり、それはひるがえって一家の繁栄と子孫の長久をもたらすとされる。
つまり風雅さを帯びた、芸道の習得とも関係する社交への配慮の対極に、世俗化の中 の悪例としての利己主義的な貪欲があり、そうした状況において聖性・道徳性の維持 をさらに強化する「天道」の宗教的性格がはたらき、最終的には世俗的な生活におけ る健全さと、究極的な聖性の獲得にあたる生命の永続とを併せて導く。それが『商売 往来』の結論であった。社交の重視は流水軒の他の往来物にも確認でき、例えば『堀 氏 寺子往来』では所収文例 23 点のうち、19 点が、祝福、勧誘、返礼、報告、進物、
見舞の各項目に分類されるものであり、経済的な面での実用性に直接かかわる証文の 類は 4 点(「家屋敷沽券状之事」「預リ申銀子之事」「借家請状之事」「〔奉公人〕請状之事」)
と少ない。社交に伴う心遣いのやり取りを主内容とする、私信の量的な優位がここに みてとれよう。
最後に第四点目として、地誌型の往来物を取り上げ、大坂三郷の町域とその周辺に
まで広がる、より大きな空間についての情景描写を見てゆくことにする。
先此京者、仁王十七代仁徳天皇御在位八十九年、吹風不鳴枝、豈謂堯舜之御世乎。/
住吉四社明神者、神功皇后三韓有御退治、御帰帆之時御鎮座之御神也。/真清水者、
摸洛陽清水寺……寺頭之遠近者無双之絶景也。争劣都東山哉。/天王寺者聖徳太子之 草創、七堂加藍之霊地也。……此所伶人者、不耻都舞楽也。/四橋之風景、左右前後 之舟之行遣、画工争及筆力哉。/道頓堀之歌舞喜浄瑠璃芝居見物之僧俗男女貴賤、群 衆夥敷、提重弁当双肩、日本橋之往来更難述言語。(早川正斎撰『浪花往来』延宝 6 1678 刊)18
都市大坂のルーツは古代にさかのぼり、理想の王政にイメージが重ねられた。神社 仏閣の紹介にいとまがないが、王城の地・花の都である京都へのなぞらえを忘れてい ない。それらと同時に、四ツ橋、道頓堀、日本橋の活況が描かれている。この他にも『浪 華随筆』(宝暦 101760 刊)では「抑摂州大坂ハ交易運遭之便宜、日本無双之湊にして、
一ノ渕両川口潮時順風にまかせ、入船出帆幾千艘といふ」と港湾の賑わいに触れつつ、
「難波十景」として「淡路島霞」「葛城嶺桜」「難波津夏月」「二上岳雪」「住吉郭公」「伊 駒山時雨」「須磨浦風」「明石潟霧」「田蓑島鶴」「天王寺鐘」を紹介する19。物質的な繁 栄と享楽が、神話にも繋がる古代王朝やさまざまな神仏の宗教的性格と、自然景観の 風雅さにより潤色されているといえるし、両者の均衡が無粋さを和らげているとも取 れよう。世俗化と聖性・道徳性の双方の強調が相反する方向に働きながら、あたかも 力の互角な綱引きのように、巧みなバランスが保たれている。
こうして大坂の往来物を並べ直すと、そこには一定の秩序だった世界が浮かび上が るだろう。手習を主とする寺子屋の教育内容、教育の現場に始まり、師弟や保護者の 対人関係、商人の生活する場面、さらには都市の全体及び近郊へと空間を広げる中で、
いずれの次元においても聖性・道徳性と世俗性との均衡が維持されていた。そしてそ のような均衡とは、おおむね聖性・道徳性の優位という、教育に携わる側の意向によっ て実現されるものであり、行き着くところ、そうした世界観を提示することこそが、
大坂版往来物の総意・真意としての隠された教育的機能なのであった。
4 むすびにかえて
教育史が考えるべき聖性・道徳性とは、宗教のみならず、人間の内面形成に価値を 見いだす立場一般へと意味を広げたものである。またその場合には、対立概念の世俗 性にしても、宗教に対する世俗の世界というだけではなく、一度は世間の事柄全般へ と意味を広げながらあらためて概念規定を試みるのであれば、世俗の世界における実 利の重視と欲望の増大が、理想としての内面形成に影響を及ぼし、さらにはそれを妨 げる可能性をもつことを含めた上で、その意味を押さえて行かなければならないだろ
う。付け加えるならば、このような聖性・道徳性と世俗性は、少なくとも研究する側 の私たちの思考においては、単純な優劣や棲み分けの問題ではなく、仮に緊張や対立 を孕んでいたとしても、両者の共存や交渉の仕方そのものに注目することが、教育史 にとどまらず日本の思想史・文化史を研究する際の視点としては不可欠であろう20。
近世日本の教育思想において権威的な地位にあった朱子学の場合、天理・人欲説や、
義の優先に対する利の劣勢にみられるように、聖性・道徳性と世俗性は厳しく対立し、
特に前者が後者を否定するような関係が原則であった。近世庶民教育にはこうした朱 子学からの影響も考えられ、その他にも生活の経験に根ざして厳格な自己規律を説い た、通俗道徳の存在を無視することはできない21。しかしこれらとは別に、庶民生活に 基づきながらも、寺子屋・私塾の師匠や、往来物の作者などの出版関係者といった、
民間での教導を担う人々の手で形作られた教育理念が示したものは、聖性・道徳性の 優位を保ちながらも、世俗性との緩やかな共存をめざすような関係であった。そうし た関係とは、人的な要素を基礎的な単位とし、或いは世界観を提示しながら、ときに は世俗性からの超越を強調する余り、聖性・道徳性の枠組に収まり切らないものを容 認するなど、聖性・世俗性の意味を多様かつ柔軟に捉えるものであり、或いはさまざ まな次元において聖性・道徳性と世俗性の均衡を維持しようとするものでもあった。
そして聖性・道徳性からの、つまりは教える側からの働きかけによって、こうした共 存の関係を成立させているところに、学問の知識や芸道の風雅さを具えながらの、近 世庶民教育における徳育の構造的特徴の一典型を確認することができるのではないだ ろうか。さらに今回、事例として取り上げた大坂の地域的特性を絡めて言えば、利潤 と欲望の追求に聡い当時国内最大の商業都市において、それらが極端に走ることを食 い止めたのは、文芸や芸能における人情尊重の主張だけでなく22、庶民教育の当事者に おける、聖性・道徳性と世俗性についての巧妙なバランス感覚なのであった。
さいごに史料を一点、紹介しておきたい。大坂(大阪)の寺子屋龍雲堂は<別表>
にも載る根来氏の 3 代により、文政年間から明治 42 年(1909)まで経営された。以下 に碑銘の表面全文を掲げる「誠斎根来君頌徳碑」(大蓮寺境内、大阪市天王寺区下寺町、
に現存)は、その終焉にあたり、伝統的な教育観の衰退への惜別を告げるものであった。
大阪の教育史を語る上で史料的価値は重要である。翻刻は筆者(和田)の現地探訪に 基づく。みずから文章を作成し揮毫した近藤元粋(号南洲、1850 〜 1922)は伊予松山 の出身、明治の大阪を拠点とした代表的な漢学者である23。
根来君、忠次郎、号誠斎、大阪人、父益次郎、号寛斎、母小西氏、文久二年九月生君 于北堀江之家、君性謹厚、少時就府下諸宿儒修学、又学于大阪師範学校、業成起学習館、
授徒教導、一以誠実為本、懇切周到、無不感服者、祖父秀斎翁、善書、性至孝、人称 之孝書家、君之謹厚誠実、蓋有所淵源也、頃日君不幸罹篤疾、廃館、往東京養疾、其 開館二十八年間、勤勉如一日、学徒惜別有灑涕者、実本年八月十五日也、配佐佐木氏、
生一男二女、君弱冠嗣家、勤苦経営、授徒之外無他嗜好、其去此也、学徒相謀、欲建 一碑于東郭大蓮寺中、記旧恩以頌其徳、乞文于余、余謂、近世風俗澆季、幾無知師弟 恩誼者、而今持有是美挙焉、不可不旌也、乃不辞而記此、使世人有所模範。明治 四十二年十一月 伊予松山近藤元粋撰併書。(以下裏面)発起人 福田平兵衛〔含め 56 名を列記〕。
近世社会の徳育は近代学校教育の道徳教育に代わり、戦前の修身科は戦後の空白期 を経て「道徳」の時間特設に至り、現在その教科化が検討されている。真に惜別の対 象とすべきは本稿でみてきた徳育の構造そのものであり、その批判的な再構成も今後 の教育にとっては一つの指針となろう。
注
1 以下、文部省編(1890 〜 92)『日本教育史資料』、(1913)『大阪市史』2、乙竹岩造(1929)『日 本庶民教育史』下巻 目黒書店、(1940)『東区史』2(清文堂出版 1982)、籠谷次郎(1977)
「大阪における寺子屋・私塾について―その存在の確認をめざして」『ヒストリア』75、(1979)
『西区史』3 清文堂出版、山中浩之(1990)『新修大阪市史』4 第 4 章第 3 節、梅溪昇編(1998)
『大阪府の教育史』第 2 章第 8 節 2 〜 7 項(竹下喜久男著)思文閣出版、に基づく。
2 与謝野晶子(1878 〜 1942)は小学校のことを友達と「おていら」と呼び合ったと回想する。
明治 10 年代後半、大阪府併合(明治 14 年 1881)後の同府堺区では、まだ近世的な呼び方が 通用していた。和田充弘(2013)「寺子屋教育の仏教文化的前提―一五世紀後半・―六世紀 の堺における識字の諸相」『立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所紀要』7、を参照。
誠斎根来君頌徳碑(筆者撮影)
3 牧村史陽『大阪ことば事典』講談社学術文庫 1984、に「七夕やウラ盆の夕暮に、船場あた りのいとはん達が十人、十五人の一団となって、たがいに相手のうしろ帯を持って列を組み ながら、唄い歩いたもの。もと遠国ではやったものというところから出た語であるといわれ る」と載る。
4 『大阪市史』3(1911)所収。
5 『往来物大系』39 大空社(1993)影印所収。
6 『浪速叢書』3(1927)所収。
7 『大阪市史』3、所収。
8 コンドルセ(松島均訳)(1973)「公教育の本質と目的」世界教育学選集 23『公教育の原理』
明治図書,p.31,p.37.
9 沖田行司氏は「近代以前、まだ学問や教育が儒教や仏教を背景に成立していた時代には、人 間の「学び」と「教え」には、単なる知識の授受以上に、ある種の「神聖さ」が介在していた。
……そこでは、「心」を介在しない「学び」や「教え」などは在りえないのである」「明治以来、
日本の近代教育の目指したものは、豊かな人格形成でも、「心の教育」でもなく、一貫して 近代産業社会に必要な知識教育であり、そうした能力を持った人材教育にあった。それが戦 前の臣民教育という形態をとろうが、戦後の個性尊重の教育、民主的な教育というスローガ ンの下に展開されようが、日本近代教育の基底に流れているのは、産業社会に適合する能力 を有した国民を創出することであった」と指摘する。同(2002)「日本の学びにおける聖と俗」
『基督教研究』63-2 pp.2-5.、同(2000)『日本人をつくった教育』大巧社も参照。このほか 近世文学研究の中野三敏氏は、「雅」を伝統的な品格のある文化、「俗」を新興の人間味豊か な文化と捉え、両者が均衡を保った一八世紀に江戸時代の成熟の姿を見いだしている。
同(2012)『江戸文化再考』第 2 章 笠間書院。近代公教育に代表される、世俗化即ち非宗 教的という概念規定だけでは、特に近世以前の日本の文化、思想、教育を正確に捉えること はできないだろう。
10 高橋俊乗(1926)「石川謙氏の寺子屋起源論について益を請ふ」『哲学研究』129、同(1943)『近 世学校教育の源流』第 3 章「寺子屋形式の源流と展開」永沢金港堂、石川謙(1926)「寺子 屋の意味・語史及起源について」『教育論叢』9・10・11 月号、同(1960)『寺子屋』至文堂。
両者の論争は今なお本質的に克服されていない。入江宏(1977)「近世下野農村における手 習塾の成立と展開―筆子名寄帳の分析を中心に―」『栃木県史研究』13、梅村佳代(1991)『日 本近世民衆教育史研究』梓出版社、同(2013)「近世後期、子どもの読み書き稽古と往来物」『書 物・出版と社会変容』15、八鍬友広(2002)「近世民衆の人間形成と文化」辻本雅史・沖田 行司編『新 体系日本史 16 教育社会史』山川出版社、拙稿「寺子屋教育の仏教文化的前提―
一五世紀後半・―六世紀の堺における識字の諸相」前掲、も参照。
11 石田誠太郎(1974)『大阪人物誌』臨川書店復刊に拠る。
12 『往来物大系』39、影印所収。
13 近世中期上方の往来物作者には、手習を道徳的に意義づけるべく、儒者の説く学問との通底 をはかる意識がみられた。和田充弘(2006)「元禄・享保期の出版文化と往来物作者たち」『教 育史フォーラム』創刊号を参照。
14 『往来物大系』40、影印所収。
15 『往来物大系』22、影印所収。
16 『往来物大系』67、影印所収。
17 前掲、乙武岩造『日本庶民教育史』下巻、の古老調査に基づく。
18 『往来物大系』53、影印所収。
19 同前。
20 石田一良氏はさまざまな対概念を人間の「運命的課題」とみなし、それらの関係の仕方を「応 答」してゆくことが「文化」であると考える。同(1951)『文化史学の理論と方法』同志社 大学出版部,pp.60-61.
21 近世中期以降の石門心学や民衆宗教を踏まえた通俗道徳の概念は、安丸良夫(1974)『日本 の近代化と民衆思想』青木書店、を契機に、日本史学、日本思想史学の分野で広く用いられ ている。
22 人情尊重は朱子学の性即理説への反論として、心情に倫理的な価値を見いだす立場を指し、
思想史の領域では近世中期以降の、陽明学や徂徠学の流行とそこからの影響について言う。
23 管見の範囲では、近藤元粋は堺市中区上之に現存する、陶荒田神社の正面門柱(大正 7 年 3 月、
兒山養守奉献)にも碑文を書いている。兒山家は近世を通じ旗本小出氏に仕えこの地域の大 庄屋を務め、学制発布時には学区取締に選ばれ、教員も輩出している。岸和田藩儒者を経て 堺県の教育行政と中等教育・師範教育を担当した土屋鳳洲など、明治の漢学者と学校教育の 関連性は重要な研究課題である。和田充弘(2013)「堺の近代教育史」木村一信・西尾宣明 編『国際堺学を学ぶ人のために』世界思想社を参照。
参考文献
石川謙(1926)「寺子屋の意味・語史及起源について」『教育論叢』9・10・11 月号.
―(1960)『寺子屋』至文堂.
石川松太郎監修(1993, 1994)『往来物大系』1-100,大空社.
石田一良(1951)『文化史学の理論と方法』,同志社大学出版部.
石田誠太郎(1974)『大阪人物誌』正・続編,臨川書店復刻.
入江宏(1977)「近世下野農村における手習塾の成立と展開―筆子名寄帳の分析を中心に―」『栃 木県史研究』13,pp.21-46.
梅村佳代(1991)『日本近世民衆教育史研究』,梓出版社.
―(2013)「近世後期、子どもの読み書き稽古と往来物」『書物・出版と社会変容』15,
pp.1-33.
大阪市参事会(1911)『大阪市史』3,大阪市参事会,p.29, pp.198-201, p.815.
沖田行司(2000)『日本人をつくった教育』,大巧社.
―(2002)「日本の学びにおける聖と俗」『基督教研究』63-2,pp.2-8.
乙竹岩造(1929)『日本庶民教育史』下巻,目黒書店,pp.968-1007.
籠谷次郎(1977)「大阪における寺子屋・私塾について―その存在の確認をめざして」『ヒストリア』
75,pp.54-86.
木村敬二郎(1929)『稿本大阪訪碑録』船越政一郎編『浪速叢書』10,同刊行会.
コンドルセ,松島均訳(1973)「公教育の本質と目的」世界教育学選集 23『公教育の原理』,明治 図書,pp.9-55.
高橋俊乗(1926)「石川謙氏の寺子屋起源論について益を請ふ」『哲学研究』129.
―(1943)『近世学校教育の源流』,永沢金港堂.
竹下喜久男(1998)梅溪昇編『大阪府の教育史』第 2 章第 8 節 2-7 項,思文閣出版,pp.242-266.
中野三敏(2012)『江戸文化再考』,笠間書院,pp.47-81.
濱松歌國(1926)『摂陽奇観』船越政一郎編『浪速叢書』3,同刊行会,p.324,p.494.
八鍬友広(2002)「近世民衆の人間形成と文化」辻本雅史・沖田行司編『新 体系日本史 16 教育社 会史』,山川出版社,pp.171-244.
安丸良夫(1974)『日本の近代化と民衆思想』,青木書店.
山 中 浩 之(1990) 新 修 大 阪 市 史 編 集 委 員 会 編『 新 修 大 阪 市 史 』4, 第 4 章 第 3 節, 大 阪 市,
pp.700-709.
和田充弘(2006)「元禄・享保期の出版文化と往来物作者たち」『教育史フォーラム』創刊号,教 育史フォーラム・京都,pp.39-59.
―(2013)「寺子屋教育の仏教文化的前提―一五世紀後半・―六世紀の堺における識字の 諸相」『立命館大学白川静記念東洋文字文化研究所紀要』7,同研究所,pp.69-80.
―(2013)「堺の近代教育史」木村一信・西尾宣明編『国際堺学を学ぶ人のために』,世界 思想社,pp.258-271.
【別表】近世大坂における私塾及び寺子屋師匠の墓碑・顕彰碑
師匠名 分類、号(舎名) 没年(建立年) 碑文より引用 施主 備考
1 秦竹探 書、忘筌堂 享保 15 1730 「名赫一時、従徒満門」 「忘筌堂秦先生墓」
2 永井如瓶 書、走帆堂 享保 16 1731 「幼而懐逸志」「晩喜宋学、以安心於主静、
毎触景致、而遣興倭歌、䍸儻亦克守分」
嫡子、
門人
「浪華懲斎主橋本嘉謹敬誌、孝子道 純及門人等建之」
松浦壱岐守の招聘を辞す、大坂城代 の選定書家、往来物作者 3 山本文龍 書 元文 2 1737
「其為人、恬憺不羈、清介絶俗、赤貧自安」
「受業者、満其門、莫貴莫賤、莫少莫長、
諄々焉道之」 門人
「大定先生之墓」「上月専庵謹撰」「摂 陽門人謹建」、佐々木専念(松竹堂 専林の父)門下
4 東竹堂 書 元文 3 1738
「門人四千七百三十八人」「与其出金助工 者共計三十人、敬記始末者、不忘恩於後 也」
門人
宝筺印塔に「竹堂先生行書奉納摩訶 般若経」を納む、「大坂大字中字社 門人等勤建」、松竹堂に学ぶ 5 佐々木専林 書、松竹堂 寛保 1 1741 「到処人皆重之、問道学術之士憧々盈門、
然先生禀質、素有淵明逸少之風」「居常 沽酒設席、布紙走筆、簡然自楽焉」
嫡子、
門人
「佐々木志頭磨専林先生塔碑并叙」、
専林は専念の子
「門人梅渓鶴九皐謹誌」
6 新興蒙所 書、積小館 寛延 4 1751 建 「前肥蓮池城臣新興光鐘撰」
7 高橋鈍斎 書、儒 安永 7 1778
「為人温柔好学」「罷仕後別卜静居、縦意 読書、傍教授近里子弟、其余嘯咏適意、
専従事于養痾」
実弟 33 歳で没、江村北海が詩を指導
「北海江邨綬撰」
8 澤井穿石 書、松竹堂 安永 8 1779
「伝云、師厳而教尊、師道之重、豈唯道 徳仁義之謂乎、雖小道末枝亦然矣」「猶 子之情不為不厚、使之裁就義、則庶乎不 差矣」
嫡子 「穿石先生墓」、佐々木志頭磨を襲名、
「門人藤常充謹書、哀子三吾建」「越 後片猷〔片山北海〕拝撰」
9 林淡水 儒 天明 2 1782
「君為人篤実慈良」「其志常願行有益于人 也」「其平居則為子弟授句読講義理、至 老諄々不倦、性又尚質倹、菲衣粗食常晏 如也」
甥 「平安皆川愿〔淇園〕撰、稲葉通龍 新右衛門建」、医師
10 井村圭屑 書、正月堂 天明 7 1787
「従事古義之学、且学倭礼」「兼通小笠原 小池両流」「以書学起家、弟子千三百余 人矣、先生禀性健実、老益矍鑠」
門人
「圭屑井邨先生墓」「北海処士片猷拝 撰」「上田信義謹書、題字孝孫敏慎〔井 村観水〕謹書」、提灯屋兼寺子屋 11 岳玉淵 書 寛政 10 1798 「資性簡然、抱淵䌘之才、諤々不阿焉」「自
謂与其強要名聞也、寧従吾所好尋秦漢諸 名跡、而極其要訣、䟊々不能休焉」
嫡子、
門人
「九疑先生碑」、「播州奥田元継〔那 波魯堂の弟〕撰、男衡建、門人森世 黄篆、谷口荘隷」
12 武内確斎 儒、書 文政 9 1826
「緩急之際、歓然救恤、産為之空、而不 顧也」「博覧群書、工詩及篆刻」「性又好 酒善謔、同社文酒之会、無翁不楽、以此 交道日広」「徒弟加滋」
嫡子
「友人篠崎弼〔小竹〕撰并書、頼襄〔山 陽〕題表」町代職、篠崎三島を師、
町奉行斎藤利通息も入門
13 香川子硯 書 「子硯香川先生之墓」、養子が琴橋、
三代目麗橋 14 香川琴橋 書、儒 嘉永 2 1849
「従学琹渓劉翁、名声稍振、徒弟満塾、
阪城加番米倉侯、東町奉行戸塚君〔忠栄〕、
皆延教授其郎君」
「琹橋香川先生之墓」、「篠崎弼〔小竹〕
撰并書」町奉行及び在番子息も入門 15 篠原澂餘 書、儒、
正書塾 安政 2 1855
「世為閭里書師」「歳丁未試筆詩曰、六十 書師業弗精、歳朝徒爾喜安寧、依然便被 児曹誘、尺幅揮成老復丁」
「友人大阪澤愨書」、著書に藤樹文集
(附録共)など
16 三瓶信庵 書 安政 2 1855 「信庵先生之墓」、堺・和田益斎(幾
太郎父カ)と交流 17 大道寺停雲 書 安政 4 1857 「為人篤実博雅、黙達多技、最善書法、
旁通術数地理国学点茶、世称五達」「遊 観四方、毎逢名区佳境、諷詠吟哦、以為娯」
門人 「停雲先生招魂碑」「浪華平瀬儀迢建 石并謹撰兼書表字、門人檪保教謹書」
18 福田金塘 算 安政 5 1858
「為商為農、非我之志、丈夫之業、若不 有為、則隠於道耳」「従遊数千、頼以成 名者居多」
門人
「司天生福田先生之碑」「門人同志建 之、発起岩田清庸、池田正慶、岸本 増弘」、弟は理軒、順天堂
19 和田小洲 書、玉池堂 安政 6 1859 「小州和田先生墓」
20 呉北渚 書 文久 4 1864 嫡子 「男勤謹建」「呉又兵衛策識」
21 後藤松陰 書、儒 元治 1 1864 「松陰後藤先生墓」、頼山陽門人、篠
崎小竹女婿 22 藤井藍田 書、玉生堂 慶応 1 1865
「性温而直、好義勇為、曾聞吉田松陰就縛、
寄詩画以激之、又与長藩勤王諸士、往来 最密、以故為幕人所執」
実娘
大正 3 年贈位記念碑、「藤沢南岳篆 額并撰、男元書」八木巽処、田能村 竹田、広瀬淡窓に学ぶ
23 井邨寛斎 書、正月堂 明治 7 1874
「天資快雅」「其配早歿、竟不復娶、事母 至孝、而接人忠懿、稍有侠骨、人曰為奇 人、平居不食温物、乃号冷仏、亦可称奇」門人
「藤沢恒〔南岳〕撰、海石田〔邨田〕
寿書」もと下館藩士、脱藩来坂、正 月堂 5 代目として入婿
24 高見昭陽 書、儒 明治 13 1880 門人カ
「昭陽高見先生之墓」「周旋人黄葉秋 造、藤堂倫郎、小西猛夫、小津甚市、
書林松田正助」、貫名海屋門、小学 校勤
25 上野梅塢 書、儒 明治 42 1909 「先生容貌偉大、豪飲侠気、巨口善談、
教人亦厳、故皆推服」 門人
「梅塢上野先生墓表」「友人南岳藤沢 恒撰并篆額、門人梧窗湯川享謹書」、
冷泉為忠、広瀬旭荘、藤沢東嘆門、
医師 26 根来誠斎 書、龍雲堂 明治 42 1909 建
「君性謹厚、少時就府下諸宿儒修学、又 学大阪師範学校」「一以誠実為本、懇切 周到、無不感服者」「謹苦経営、授徒之 外無他嗜好」
門人
「誠斎根来君頌徳碑」「伊予松山近藤 元粋撰併書」「発起人福田平兵衛」
以 下 56 名、 秀 斎、 寛 斎、 誠 斎 の 3 代
27 邨田海石 書 明治 45 1912
「東去従大橋訥庵、嶋田篁村」「明治初遊 于清、不得志乃帰」「為人奇骨稜々、頗 帯侠気、愛国至誠、最超同人、晩号養素、
浩気愈旺」
門人
「海石邨田先生碑」「友人南岳藤沢恒 撰、門人愛石玉木享敬書」、正月堂 出身、小学校教科書習字手本作者
※ 『稿本大阪訪碑録』(浪速叢書 10)同刊行会 1929、石田誠太郎『大阪人物誌』正・続編 臨川書店復刻 1974、所収碑文より作成/根 来誠斎碑(天王寺区下寺町、大蓮寺内)は現地探訪/ゴシック表示名は明確に寺子屋師匠にあたる