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目次 はじめに 第1章 瑞獣と鳳凰

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平等院・金銅鳳凰(鳳凰堂中堂旧棟飾)の制作に関する考察

教科教育専攻 美術教育専修 谷川源

提出日 2011 年 2 月 15 日

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目次

はじめに

第1章 瑞獣と鳳凰  第1節 瑞獣という存在  第2節 鳳凰とは何か

第2章 金属工芸の歴史  第1節 金属工芸の歴史  第2節 金属工芸の諸技法

第3章 平等院鳳凰堂の鳳凰  第1節 金銅鳳凰の制作技法

 第2節 金銅鳳凰の造像と平安時代の貴族社会 おわりに

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はじめに

 平安時代に藤原頼通(992 - 1074)によって建立された平等院(京都府宇治市宇治 蓮華 116)の鳳凰堂には、その屋根の両端に金銅鳳凰が据えられている。鳳凰堂は本来、

阿弥陀堂と呼ばれていたが、鳳凰が翼を広げたような堂の形と一対の金銅鳳凰の存在に よって、江戸時代頃から鳳凰堂と呼ばれるようになったと言われている。

 また、鳳凰堂の鳳凰が据えられている場所は、一般的な寺院建築物では通常、鴟尾が据 えられていることが多く、屋根上に鳳凰が据えられている建造物は、鹿苑寺金閣や即成院 山門、平安神宮神苑の東神苑にある泰平閣(橋殿)があるが、いずれも1羽のみであり、

他にはあまり知られていない。なぜ、平等院阿弥陀堂の南北両端に鳳凰が据えられている のだろうか。そこには、単純に装飾であるということではなく、平等院を建立した藤原頼 通は意味を込めたはずである。

 そして、国宝に指定されているこの金銅鳳凰には金属工芸の諸技法が用いられており、

頭部、胴体、脚が鋳造で風切羽と尾羽が鍛造によって造られている。金属工芸の技法は現 在、鋳金、鍛金、彫金の分野に分けられているが、この鋳金、鍛金、彫金という分野で呼 ばれるようになったのは明治時代になり東京美術学校(現:東京藝術大学)が設立されて からであると言われている。そのため金銅鳳凰が造られた当時は、このような区分はなく、

当時の職人たちが代々伝え、高めていった技術であったと考えられる。当時の最新技術を 用いて造られた鳳凰堂と金銅鳳凰に対して、人々はどのような思いを込めていたのであろ うか。

 そこで鳳凰とはどのような鳥であるのか、当時の人々にとってどのような存在であり、

どのように解釈されていたのかという視点と、金銅鳳凰がどのような材料や道具、技法を 用いて制作されたのかという視点から、なぜ金銅鳳凰が造られ、他の建造物では鴟尾が配 置されている場所に据えられたのかを考察する。

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第1章 瑞獣と鳳凰

第1節 瑞獣という存在

 本節では、鳳凰を含む瑞獣全体について考察していく。

 古代中国の神話の中では、数多くの幻想動物を見ることができる。これらの幻想動物は、

元来、民俗に深く根ざし、非日常的な力の象徴とされてきたものである。人間の力が及ぶ ことができない自然の力のあらわれとして、崇められ、恐れられてきたものであると言え るだろう。そして、徐々に皇帝や君子の支配の正当性を表すシンボルとして使われるよう になっていったと考えられる。

 数々の幻想動物はふたつに分類することができ、ひとつは美徳、慈愛、守護の化身であ り、もうひとつは悪や死をもたらす恐怖の対象である。当然、人々に歓迎されるのは前者で、

前者に分類される動物は、獣類と禽類の 2 種類に分けられ、「瑞獣」「瑞鳥」「瑞禽」と呼 ばれている。「瑞獣」はめでたい獣、「瑞鳥」や「瑞禽」はめでたい鳥という意味で、瑞兆 として姿を現すとされている1

 具体的に瑞獣とは龍、応龍や鳳凰、鸞、麒麟、霊亀、獬か い ち豸、九尾の狐のことである。そ の中でも応龍、麒麟、霊亀、鳳凰の4つの瑞獣は、『礼ら い き記』(成立年代不詳、前漢)の礼運 篇で、この世の動物たちの長であると考えられた特別な4種の霊獣として「四霊」と呼ば れている2

 唐代の武徳4年(624)に、勅命により編集された『芸文類聚』(624 年)では、取り 上げられている動物は「鳥部」「獣部」「鱗介部」「蟲豸部」「祥瑞部」「災異部」の6項目 に分けられている。龍は「鱗介部」に入れられ、鳳凰や鸞は「祥瑞部」に入れられている3。  龍は最も有名な瑞獣のひとつである。『史記』(紀元前 91 年、前漢)の劉邦の出生伝説 以後、中国皇帝のシンボルとして扱われ、皇帝のシンボルとしての龍は5本指であり、体 色は黄色であった。また水中や地中に棲み、雷雲や嵐を操り、竜巻となり天に昇り自在に 飛翔する水の神として、崇拝の対象であった。日本では、雷鳴の伴う稲妻を春から夏は龍 の昇天、秋は龍の降臨であると考えていたようである4

 龍の姿は後漢時代には、角は鹿、頭は駱駝、眼は鬼または兎、うなじは蛇、腹は蛟また は蜃、鱗は鯉、爪は鷹、掌は虎、耳は牛に似ているという「九似説」で考えられていた。

 龍は卵から生まれると 500 年で蛟となり、さらに 1000 年で蛟龍と呼ばれるようになり、

500 年が経つと角が生え角龍となる。この角龍が一般的に知られている龍である。そして、

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さらに 1000 年を経ると翼が生えて応龍(図1)になるとされている5。この翼を持つ龍 は特に位が高いと考えられており、火焔のような翼を持つとも、蝙蝠のような翼を持つと も言われている6。卵から生まれ、応龍となるまでにはおよそ 3000 年の時間が必要であ ると考えられていることからも、翼を持っている応龍がいかに高い位の龍であるかという ことを想像することができる。

 応龍は「変幻」を表す存在であり、360 種類の鱗をもつものの長であるとされている7。  また、応龍は『山海経』の「大荒東経」の中に登場する。

 大荒東北隅中有山、名曰凶犂土丘。應龍處南極 [ 應龍龍有翼者也 ]。殺蚩尤與 夸父 [ 蚩尤作兵者 ]、不得復上 [ 應龍遂住地下 ]。故下數旱 [ 上無復作雨者故也 ]。

旱而爲應龍之狀及得大雨 [ 今之土龍、本此氣應自然冥感非人所能爲也 ]。

 この中で応龍は、帝王黃帝に直属していたとされ、天地を行き来することができたとさ れている。水を蓄え、雨を降らせる能力によって嵐を起こし、蚩し ゆ う尤と争う黄帝の軍を援護 した。しかし、このとき殺生を行なったため邪気を帯び、神々の天へ登ることができなく なり、中国の南方に棲むようになった。そのため、天界で雨を降らせる者がいなくなり、

下界ではたびたび干ばつが起こるようになった。そのときに土で応龍を作ると大雨が得ら れたとされている8。『山海経』については、本章第2節においてあらためて取り上げる こととする。

 龍の仲間は、応龍だけではなく、中国皇帝の象徴となった黄色い身体をした黄龍や四神 に数えられる東の青龍、身体が白い白龍、赤く輝く身体を持つとされる赤龍、身体の黒い 龍は黒龍であり、仏教では倶利伽羅龍であるとされている。白龍は吉祥とされることがあ り、赤龍は赤く輝くことから絶対的威力や霊性を示す太陽を象徴し、龍の中でも最も尊貴 な存在であるとされている。赤龍には英傑出生に関する伝説が多く、前漢の高祖劉邦の出 生の伝説もそのひとつである。

 麒麟(図2)は「信義」を表す存在であり、360 種類の獣たちの王と言われている。

優れた皇帝が在位するときや聖人が出現するときに姿を現すとされている。麒が雄、麟が 雌であるという説もあり、牛と馬が交わって生まれたとされていることから、その姿は身 体が鹿、尾は牛、そして頭に角が1本生えていると言われている9。また、徹底した不殺 生で、生きた虫や草を食べることはなく、また踏むこともないとされている。そして角は、

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肉で覆われ他者を傷つけないようになっているとされている。陰陽五行説に由来する方位 神の配置では、中央に位置している。中央は元々、黄龍が配置されていたが、時代を経る と麒麟となっていったようである。その影響もあり、麒麟には龍の特徴が付加されること もある。

 瑞獣とされているにも関わらず、人間に捕まる話が存在し、孔子が書いたとされる『春 秋』にも「獲麟」という言葉が登場する珍しい瑞獣である。

 霊亀(図3)は 1000 年以上生き、霊力を持って吉凶を予知することができるようになっ た亀ではないかと言われている。霊亀はその甲羅に仙人が住む不老不死の島である蓬莱山 を背負っているとされる10

 そして、鳳凰は 360 種類の羽を持つ動物の長とされている。鳳凰については本章第2 節において詳しく説明することとする。瑞獣には、これら四霊のほかに、天下泰平のとき に現れ幸福をもたらすとされた九尾の狐、優れた裁判官が生まれると姿を現す正義や公正 を表す獬豸、平安な治世に姿を現すとされる青い羽を持つ霊鳥である鸞がいるとされてい る。

 九尾の狐(図4)は、日本でも有名な幻獣である。その姿は、全身金色の毛で覆われた 九本の尾を持つ狐であり、美女に化ける話が多い。九尾の狐が話に登場する場合の多くは、

国を滅亡させたり、疫病を広げるなど害を与える存在として描かれることが多いが、麒麟 や鳳凰、龍のように天下安寧の象徴として現れることもある。

 『山海経』の「南山経」「海外東経」「大荒東経」に、九尾の狐の記述が存在する。

 又東三百里、曰青丘之山 [ 亦有青丘國、在海外。水經云、卽上林賦云秋田於青丘 ]。

其陽多玉、其陰多靑 [ 、黝屬。音瓠 ]。有獸焉。其狀如狐而九尾 [ 卽九尾狐 ]、

其音如嬰兒、能食人。食者不蠱 [ 噉其肉、令人不逢妖邪之氣。或曰、蠱、蠱毒 ]。

有鳥焉。其狀如鳩、其音若 [ 如人相 呼聲 ]。名曰灌灌 [ 或作濩濩]。佩之不惑。

英水出焉、南流注于卽翼之澤。其中多赤 [ 音懦 ]。其狀如魚而人面、其音如鴛鴦。

食之不疥 [ 一作疾 ]。

 この「南山経」での記述に登場する九尾の狐は、青丘の山に棲み、人間の赤ん坊のよう な泣き声をして、人を食べるとされている。また、逆にこの狐の肉を食べた者は邪気に出 会わなくなるという。

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 青丘國在其北 [ 其人食五穀、衣絲帛 ]。其狐四足九尾 [ 汲郡竹書曰、柏杼子征 于東海、及王壽、得一狐。九尾。卽此類也 ]。一曰、在朝陽北。

 有青丘之國。有狐九尾 [ 太平則出而爲瑞也 ]。

 「海外東経」では、青丘国に関する解説がされ、そこには九尾の狐がいると書かれており、

「大荒東経」では、青丘国があり、そこに九本の尾を持つ狐がいると書かれている。

「大荒東経」の九尾の狐は、「南山経」と違い、天下太平の時に姿を表し、瑞祥となるとさ れている。これら3つの文章で共通していることは、九尾の狐は、青丘の山もしくは青丘 国に棲んでいるということである。後世において、信仰の対象にもなっているにも関わら ず、九尾の狐に悪いイメージがあるのは、『世界の「神獣・モンスター」がよくわかる本』

(2007 年)にあるように、「南山経」にある「人を食う」というイメージが強かったので はないだろうか。

 獬豸(図 5)は、『説文解字』(100 年頃)『神異経』(成立年代不詳、前漢)『漢書』(80 年)などに登場する。『説文解字』には、牛に似た一角獣と記述され、『神異経』では、牛 に似た一角獣で東北の荒野に棲み、毛色は青で足が四本あり、熊に似ているとされている。

『漢書』では、鹿に似た一角獣であるとされている11

 獬豸は別名、任法獣とも言われ、その性格は実直で責任感が強く、善悪を見分ける力が あるとされている。そのため、争い事があるときに現れると、善悪を見分け、間違ってい るほうを角で突くとされている。また、他の瑞獣が天下太平の象徴であるとされるのに対 して、獬豸は君子の裁判が公正に行われる時代や優れた裁判官が生まれたときに姿を現す 正義や公正を象徴する瑞獣とされている。

 鸞は、『山海経』に名が登場し、鳳凰と同じように天下安寧の象徴とされていたり、鳳 凰と同時に登場しているなど共通点が多いため、本章第2節において鳳凰とともに紹介す ることとする。

 瑞獣は、数多くの幻想動物にみられるふたつの類型のひとつであり、美徳や慈愛、守護 の化身である。これらは、社会に平和が訪れることを予告し、社会の安定の象徴として捉 えられていた。元々、幻想動物はそれぞれの地方で信仰されてきた存在であり、人間が敵 うことができない、そして人間の生活を支えてくれる自然の力を具体化したものと考える

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ことができるのではないだろうか。

 瑞獣は、鳳麟亀龍が「四霊」とされ、めでたいことの前触れとして崇拝の対象となった が、本節でも紹介しているように、神々しく瑞兆とされている動物は「四霊」だけではな く、鸞や九尾の狐、獬豸も瑞獣とされている。また、陰陽五行説に由来し、東方の神が青 龍、南方の神が朱雀、西方の神が白虎、北方の神が玄武というように、「四霊」以外にも神々 しいとされる動物は存在する。

 時代や説によって、それぞれの瑞獣の容姿や性質、方位神との関係は異なり、統一され ているわけではない。そして、龍や鳳凰、麒麟のように現代でも人々に知られている瑞獣 もいる一方で、霊亀や解豸などあまり存在が知られていない瑞獣もいる。このことから、

かつてはもっと数多くの瑞獣がいた可能性も考えられる。時代の経過とともに忘れ去られ たり、他の瑞獣に取り込まれていったものも少なくはないであろう。

 しかし、瑞獣はそれぞれの時代や中国の諸民族の人々の生活の中に深く根付き、また、

前漢の劉邦の伝説以降の龍のように権力者の象徴となり、時代によって様々に変化をして きたと言えるだろう。

第2節 鳳凰とは何か

 第1章第1節で述べたように、古代中国の神話や伝説の中には瑞獣と呼ばれる幻獣がい くつか存在している。本節では、多く登場する瑞獣の中で、鳳凰とその類の鳥について考 察していく。

 鳳凰は「平安」を表す 360 種類の鳥類の長とされ、古代中国において徳の高い王が治 める治世や優れた知性を持つ者が生まれるときに現れると言われている。

 中国古代の地理書と言われている『山海経』には、河川の水源や山々の距離が記録され、

そこに生息する不思議な人間や鳥獣の情報、神々の情報が収められている。また、神々の 祭祀や吉兆・凶兆に関する記述や神話・伝説についても多く記述されている。

 『山海経』は、平安時代の宇多天皇の時代(887 - 97)に日本に伝来したと言われている。

 本論では、平等院の金銅鳳凰の造像について考察していくため、本節では平安時代に日 本に伝わり、鳳凰についての記述がある『山海経』を中心として、鳳凰について考察する。

 『山海経』は「五蔵山経」と「海外四経」「海内四経」「大荒四経」「海内経」から成る。

「五蔵山経」は南・西・北・東・中に分かれ、洛陽を中心とした中国国内の地理を記し、「海 外四経」「海内四経」「大荒四経」はそれぞれ南・西・北・東に分かれ、異国について記し

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ている。「大荒四経」の「大荒」は世界の中心、すなわち中国から最も遠い所を意味し、

この地方の山や国について記している12

 『山海経』は漢代に学者である劉りゅうきょう向と劉りゅうきん歆(後に劉秀)によって、32 篇が校訂されて 18 篇とされ、現在伝わる『山海経』には叙録がつけられている。この山海経叙録によると、

『山海経』は堯・舜の時代に作られた書物で、治水事業を行なっていた禹が、国内を5つ の山に、国外を8つの海に分け、それぞれの地にある宝物や水、陸地や草木・鳥獣、そし て麒麟・鳳凰などの棲む所・吉兆が隠れている所、世界の果ての国々・人種について記し たものである13。山海経の著者は、堯・舜の時代に治水事業を行なっていたとされる禹・

益であるとされているが、作者は不明である。

 全釈漢文大系第 33 巻『山海経・列仙伝』において著者の前野直彬は、『山海経』が書 かれるまでに長い口頭伝承の時代があり、伝承されていくあいだに変化し、ある時点で文 字に書かれ、また口頭で伝承され、それが繰り返されることによって出来上がったと推定 すると述べている。

 『山海経』の中には比較的新しい部分と古い部分があり、「五蔵山経」が最も古く、「海 外四経」「海内四経」「大荒四経」と続いていくことから、『山海経』は口頭で伝承されて きた中国の各民族の神話や伝説、文化が集まりまとめられ、それが繰り返されることによっ て作られた観念の記録であり、多くの人々によって作られていったと考えられるとも述べ ている。

 この『山海経』には、鳳凰やその仲間であると考えられる鳥が登場している。

 『山海経』には、鳳凰という記述はないが鳳皇という鳥が登場している。その鳳皇と仲 間の鳥が登場する文章を『山海経・列仙伝』から引用し、鳳凰との関係を考察する。

 「南山経」には鳳皇についての記述を見ることができる。

 又東五百里、曰丹穴之山。其上多金玉。

丹水出焉、而南流注于渤海 [ 渤海、海岸曲岸頭也 ]。

有鳥焉。其状如鶏、五采而文、名曰鳳皇。

首文曰徳、翼文曰義、背文曰礼、膺文曰仁、腹文曰信。是鳥也、飲食自然、自 歌自舞、見則天下安寧 [ 漢時鳳鳥數出。高五六尺、五采。莊周説レ鳳、文字與 此有異。廣雅云、鳳鷄頭燕頷、蛇頸龜背魚尾。雌曰皇、雄曰鳳 ]。

(10)

 この文章の通釈は、以下である。

 さらに東方 500 里のところに丹穴山があり、山上には黄金と玉が多く、丹水がこの山 から南へと流れて渤海に注ぐ。鳥がいて、その鳥の形は鶏のようで、五色の模様がある羽 を持つ。この鳥を鳳皇と名づける。頭の模様は徳を表し、翼の模様は義を表し、背の模様 は礼、胸の模様は仁、腹の模様は信を表す。この鳥は水を飲むことやえさを食べることに 苦労はせず、自ら歌を歌い、舞う。これが出現すると、天下は安泰となる(漢代に、鳳の 鳥はたびたび出現した。背の高さは5、6尺で、五色の羽を持っていた。莊周が鳳を説明 した文章には、これと違う点がある。『廣雅』には、鳳は鶏の頭、燕の頷、蛇の頸、亀の背、

魚の尾を持ち、雌を皇といい、雄を鳳という)。

 この文では、鳳皇の棲む場所が丹穴山であるとされ、その姿に関する記述がある。ここ で鳳皇は、鷄のような姿で、5 色の羽毛を持ち、身体の各部の模様がそれぞれの徳目が表 すとされている。水を飲むことやえさを食べることに苦労しないという記述があるが、具 体的に何を食べているのかという記述はなく、一般的に言われている竹の実を食べ、甘露 を飲むという記述はない。

 また、「南山経」には他にも鳳皇に関する記述がある。

 又東五百八十里、曰南禺之山。其上多金玉、其下多水。有穴焉。水出輒入。夏乃出、

冬則閉。佐水出焉、而東南流注于海。有鳳皇鵷鶵[ 亦鳳屬 ]。

 通釈は、さらに東 580 里のところにあるのを、南禺山という。山上には黄金と玉が多く、

ふもとには川が多い。洞穴がある。川が流れ出ては入っていく。夏には流れ出て、冬には 閉ざされる。佐水は、この山から出て、東南へと流れ海へと注ぐ。鳳皇や鵷えんすう鶵が棲んでい る。(鵷鶵も鳳皇の仲間である)である。

 また、「西山経」には鸞鳥という鳥が登場し、後世には瑞鳥として鳳凰と並んで登場する。

 西南三百里、曰女牀之山。其陽多赤銅、其陰多石捏 [ 卽礬石也。楚人名爲涅石、

秦名爲羽捏也。本草經亦名曰石捏也 ]。其獸多虎豹犀兕。有鳥焉。其狀如翟而五 采文 [ 翟似雉而大、長尾。或作樂鳥。樂鳥、雕屬也 ]。名曰鸞鳥。見則天下安寧 [ 嶲 説鸞似鷄、瑞鳥也。周成王時、西戎獻之 ]。

(11)

 この文章の通釈は、その西南 300 里にあるのを女牀山という。山の南側には赤銅が多 く。北側には石せきでつ捏が多い。(すなわち礬ばんせき石である。楚の人々は捏石と名づけ、秦では羽捏 というものである。『本草経』でも石捏と名づけている。)獣には虎・豹・犀・野牛が多い。

鳥がいる。その形は翟てきのようで5色の模様がある。(翟は雉に似て大きく、長い尾を持つ。

または樂鳥となっている。樂鳥は、雕の属である。)名を鸞鳥(図 6)という。この鳥が 出現すると天下は安泰となる。(旧説によると鸞は鶏に似て瑞鳥である。周の成王の時代、

西戎がこれを献上したと言われている。)である。

 この文では、鸞鳥が登場し、女牀山に棲むとされている。その姿は雉に似ていて、5 色 の羽を持っているとされている。南山経の鳳皇は鶏に似ているとされているため、区別が されているようだが、文中の補足にもあるように、鸞鳥も鷄に似ている瑞鳥であるという 記述も存在する。

 海外西経には、以下のように鳳皇と鸞鳥に関する記述がある。

 此諸夭之野 [ 夭音妖 ]、鸞鳥自歌、鳳鳥自舞。鳳皇卵民食之、甘露民飮之、所 欲自從也 [ 言滋味無所不有、所願得自在。此謂夭野也 ]。百獸相與群居。在四蛇北。

其人兩手操卵食之、兩鳥居前導之。

 この文章の通釈は以下のようである。

 この諸夭の野には、鸞鳥が自ら歌い、鳳鳥が自ら舞っている。鳳皇の卵は住民が食べ、

甘露は住民が飲み、欲しいものは自然とかなえられる。希望するものは思い通りになると いう意味で、これが沃野のいわれなのである。百獣が群生している。四蛇の北にある。そ の住民は両手で卵を持って食べ、2 羽の鳥が前にいて先導している。

 後述するが、大荒西経にこの文に似たような記述が存在する。

 海内西経にも、鳳皇と鸞鳥に関する記述がある。

 開明西有鳳皇鸞鳥。皆戴蛇踐蛇、膺有赤蛇。

 開明北有視肉・珠樹・文玉樹 [ 五彩玉樹 ]玗琪樹 [ 玗琪赤玉屬也。呉天璽元年、

臨海郡吏伍曜、在海水際得石樹。高二尺餘、莖葉紫色、詰曲傾靡、有光彩。卽 王樹之類也。于其兩音 ] 不死樹 [ 言長生也 ]。鳳皇鸞鳥皆戴 [ 音伐。盾也 ]。又

(12)

有離朱木禾柏樹甘水 [ 卽醴泉也 ] 聖木 [ 食之令人智聖也 ] 曼兌 [ 未詳 ]。一曰、挺 木牙交 [ 淮南作璇樹。璇、玉類也 ]。

 このふたつの文章は、それぞれ「開明獣の西に鳳皇・鸞鳥がいる。いずれも蛇を頭に 載せ、蛇を踏みつけ、胸に赤い蛇をまとっている。」「開明獣の北に視肉・珠しゅじゅ樹・文ぶんぎょくじゅ玉樹・

う き じ ゅ琪樹・不死樹があり、鳳皇・鸞鳥は皆、頭に盾を載せている。また、離り し ゅ朱・木禾・柏樹・

甘水・聖木・曼まんたい兌があり、1本は挺木牙交となっている。」と書かれており、ここに登場 する鳳皇・鸞鳥は、頭に蛇を載せ、踏みつけ、胸に赤い蛇をまとう、頭に盾を載せている など、南山経に記述されている鳳皇や鸞鳥の姿とは大きく異なる。

 鳳皇・鸞鳥の棲む土地が、5色の模様のある玉の木である文玉樹や不死樹、醴泉である 甘水、食べた者が優れた知恵を持つようになる聖木があるなど理想的な世界であることは、

『山海経』の中に複数記述されており、共通しているようである。

 そして大荒南経、大荒西経、大荒北経にも鳳皇、鸞鳥、鳳鳥が登場する記述がある。

 有〓民之國 [ 爲人黄色 ]。帝舜生無淫、降〓處。是謂巫〓民。巫〓民 姓、食 穀、不績不經服也 [ 言自然有布帛也 ]。不稼不穡食也 [ 言五穀自生也。種之爲稼、

收之爲穡 ]。爰有歌舞之鳥、鸞鳥自歌、鳳鳥自舞。爰有百獸相群、爰處百穀所聚。

 これは、大荒南経の一文であり、「〓ちつみん民の国があり、この国は帝舜が無淫を生み、無淫 が〓へ下って住んだ。巫〓民は穀物を食べるが、五穀は自然に生え、衣服は着るが自然に 布ができる。ここに歌舞する鳥がいて、鸞鳥は自ら歌い、鳳鳥は自ら舞う。ここには百獣 が群れで棲み、百穀が集まっている場所である。」と書かれている。ここにも、鸞鳥が自 ら歌い、鳳鳥が自ら舞うという記述がある。

 また、五穀が自然に生える、自然に布ができる、百獣が群れで棲む、百穀が集まるなど 理想的な場所として書かれている。

 西北海之外、赤水之西、有先民之國。食穀、使四鳥。有北狄之國。黃帝之孫曰始均、

始均生北狄。有芒山、有桂山、有 山 [ 此山多桂及 木。因名云耳 ]。其上有人、

號曰太子長琴。顓頊生老童 [ 世本云、顓頊娶于滕 氏。謂之女祿、産老童也 ]、

(13)

老童生祝融 [ 卽重黎也。高辛氏火正、號曰祝融也 ]、祝融生太子長琴。是處 山、

始作樂風 [ 創制樂風曲也 ]。有五采鳥。三名。一曰皇鳥、一曰鸞鳥、一曰鳳鳥。

有蟲、狀如菟、胸以後者裸不見 [ 言皮色青、故不見其裸露處 ]、青如狀猨 [ 狀又似猨 ]。

 これは大荒西経にある一文で、この通釈は以下のようである。

 西北の海の外、赤水の西に、先民の国がある。住民は穀物を食べ、4 羽の鳥を使う。

ほくてき

狄の国がある。黃帝の孫を始し き ん均と言い、始均が北狄を生んだ。芒山があり、桂山があり、

山がある(この山にはモクセイと 木が多い。そのため、名がついたのである)。その 上に人がいて、太子長琴と呼ばれている。顓せんぎょく頊が老童を生み(『世本』には、顓頊が滕とうほん 氏から妻を迎え、この女を女祿といい、老童を生んだとある)、老童が祝融を生み(すな

わち重ちょうれい黎である。高辛氏の火正の職を務め、祝融と呼ばれた)、祝融が太子長琴を生んだ。

この人が 山にいて、初めて音楽を作った(曲を創作したのである)。5色の鳥がいて、

3つの名を持つ。1つは皇鳥といい、1つは鸞鳥といい、1つは鳳皇という。虫がいて、

ウサギのような形で胸から後の部分は毛がないが見分けられず(皮膚の色が青いため、裸 の部分が見分けられない)、青くサルのような形である(形はまたサルにも似ている)。

 ここでは5色の羽の鳥が登場するが、名前を3つ持ち、それがそれぞれ皇鳥・鸞鳥・鳳 皇であるとされ、この文章内では同一の鳥として扱われている。

 また、大荒西経にはもうひとつ鸞鳥、鳳鳥に関する記述がある。

 西有王母之山壑山海山 [ 皆群大靈之山 ]。有沃之國 [ 言其土饒沃也 ]、沃民是 處沃之野鳳鳥之卵是食、甘露是飮。凡其所欲、其味盡存 [ 言其所願滋味、此無 所不備 ]。爰有甘華甘柤白柳視肉三騅璇瑰瑤碧 [ 璇瑰亦玉名。穆天子傳曰、枝斯 璿瑰。枌回二音 ] 白木 [ 樹色正白。今南方有文木、亦黑木也 ] 琅玕白丹青丹 [ 又 有黑丹也。孝經援神契曰、王者德至山陵、而黑丹出。然則丹者別是彩名、亦猶 黑白黃皆云丹也 ]。多銀鐡。鸞鳥自歌、鳳鳥自舞。爰有百獸相群。是處是謂沃之野。

有三青鳥、赤首黑目。一名曰大 [ 音黎 ]、一名少 、一名青鳥 [ 皆西王母所使也 ]。

有軒轅之臺。射者不敢西嚮射。畏軒轅之臺 [ 敬難黃帝之神 ]。

 この文の中には、人々が鳳鳥の卵を食べ、甘露を飲むという記述や、鸞鳥が自ら歌い、

鳳鳥が自ら舞っているという記述があり、海外西経にも同様の記述が存在する。

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 また、文中の「沃之野」は海外西経の「諸夭之野」と同様であると推定されている。

 そして大荒北経にも、鸞鳥と皇鳥の記述がある。

 東北海之外、大荒之中、河水之閒、附禺之山、帝顓頊與九嬪葬焉 [ 此皆殊俗義 所作冢 ]。爰有 久文貝離兪鸞鳥皇鳥大物小物 [ 言備有也 ]、有青鳥琅鳥玄鳥黄鳥 虎豹熊羆黄蛇視肉璿瑰瑤碧。皆出衞于山 [ 在其山邊也 ]。丘方員三百里、丘南帝 俊竹林在焉。大可爲舟 [ 言舜林中竹、一節則可以爲船也 ]。竹南有赤澤水 [ 水色赤 也 ]。名曰封淵 [ 封亦大也 ]。有三桑無枝 [ 皆高百仞 ]。丘西有沈淵、顓頊所浴。

 ここには、東北の海の外、大荒の中、黄河の流れる辺り、付禺の山に帝顓頊と9人の夫 人の墓があり、きゅうきゅう久・文貝・離り ゆ兪・鸞鳥・皇鳥・青鳥・琅鳥・玄鳥・黄鳥・虎・豹・熊・羆・

黄蛇・視肉・璿瑰・瑤碧の全てがそろっていると書かれている。この文中には、これ以上、

鸞鳥・鳳鳥に関する記述はないが、皇帝の墓にそろっているということから、伝説上の帝 王である顓頊の理想的な治世や、その正当性を表していると考えられている。

 海内経には、鸞鳥と鳳鳥、鳳の類とされる鳥の記述がある。

 西南黑水之閒、有都廣之野。后稷葬焉 [ 其城方三百里、蓋天下之中、素女所出也。

離騷曰、絶都廣野而直指號 ]。爰有膏菽膏稻膏黍膏稷 [ 言味好、皆滑如膏。外傳曰、

膏粢之子、菽豆粢粟也 ]、百穀自生、冬夏播琴 [ 播琴猶播殖。方言俗耳 ]。鸞鳥 自歌、鳳鳥自儛。靈壽實華 [ 靈壽木名也。似竹有枝莭]、草木所聚 [ 在此叢殖也 ]。

爰有百獣相群爰處 [ 於此群聚 ]。此草也、冬夏不死。

 有贏民、鳥足 [ 音盈 ]。有封豕 [ 大猪也。羿射殺之 ]。有人、曰苗民 [ 三苗民 也 ]。有神焉。人首蛇身、長如轅 [ 大如車轂。澤神也 ]。左右有首 [ 岐頭 ]。衣紫 衣、冠旃冠。名曰延維 [ 委蛇 ]。人主得而饗食之、伯天下 [ 齊桓公出田於大澤見之。

遂霸諸侯。亦見莊周。作朱冠 ]。有鸞鳥自歌、鳳鳥自舞。鳳鳥首文曰德、翼文曰 順、膺文曰仁、背文曰義。見則天下和 [ 言和平也 ]。又有青獸、如菟。名曰 狗 [ 音 如朝菌之菌 ]。有翠鳥、有孔鳥 [ 孔雀也 ]。

 ひとつめの文章には、「西南、黒水の辺りには都広の野があり、百穀が自然に生じ、鸞

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鳥が自ら歌い、鳳鳥が自ら舞う。霊寿が花をつけ、実り、草木が集まる所で、百獣が群れ 合って棲み、ここの草は冬も夏も枯れない。」とある。ここでもまた鸞鳥は歌を歌い、鳳 鳥は舞を舞っている。そして、百穀が自然に生じ、百獣が群れ合って生息し、冬も夏も草 が枯れないなど理想的な世界となっている。

 ふたつめの文章にも、自分で歌う鸞鳥と自分で舞う鳳鳥がいると書かれている。また、

鳳鳥の身体の紋様についての記述があり、頭の紋様は徳、翼は順、胸は仁、背部は義の字 をなすとされている。この記述は、南山経にある鳳皇の身体の模様の記述とは多少異なる が、鳳鳥が現れると天下が平和になるという記述は共通している。

 『山海経』の中には、以上のように鳳皇・鸞鳥・鳳鳥、そして、その仲間とされる鳥が 登場する記述がある。『山海経』の中に登場する鳳皇は、南山経にある姿の記述から鳳凰 であると言える。また、鳳鳥は鳳凰と同一の鳥であると考えることができる。

 鸞鳥は、時代を経るに従い、鳳凰よりも格下の瑞鳥とされるようになるが、『山海経』

においては同格の存在であるか、もしくは鳳凰と同一の鳥であるかのような記述がみられ る。このため、当初、鳳凰と鳳皇・鳳鳥・鸞鳥の間に明確な区別は存在してなかったと考 えられる。各文中に見られる鳳皇・鸞鳥・鳳鳥の特徴は、5色の羽を持つことや自ら歌っ たり、舞ったりすることである。

 その姿についても記述が統一されているわけではなく、南山経・丹穴山の鳳皇は鶏の姿 で 5 色の羽であるが、海内西経では頭に蛇を載せ、蛇を踏みつけ、胸に赤い蛇をまとっ ていると記述されている。また、南山経・丹穴山の鳳皇は、文中の補足で『廣雅』(230 年頃)における鶏の頭、燕の頷、蛇の頸、亀の背、魚の尾という鳳皇の姿の説明をしている。

 『廣雅』は魏の時代に編集されたものであるので、この鳳凰の姿は漢代以後の姿である。

 鳳凰のイメージは歴史の中で、徐々に形成されていったものである。漢代以前は鳳凰の 姿についての具体的な記述は少なかったようである。『説文解字』には、頭部は鷄の嘴と 燕の頷、胴体には龍と同様の紋様があり、背中は亀に似て、魚の尾をしていて、羽毛は五 色と記述されている。『爾雅』(前2世紀頃)に登場する鳳凰は、『説文解字』の記述と類 似している14

 『宋書』(488 年)に記述がある鳳凰は、蛇の頭に燕の頷、亀の背に鼈すっぽんの腹で鶴の頸を していて、鶏の嘴を持っているとされ、前半身はコウノトリのようであるが、尾羽は魚の 尾鰭をしているとされている。これらの鳳凰の姿は、現在の孔雀のような姿の鳳凰とは全 く異なり、異様であり、怪物のような姿をしていると言える。中国で発掘されている秦代

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以前の青銅器に見られる鳳凰の図像は、現代の図像とは異なり『説文解字』『宋書』のほ うに近いため、『説文解字』などの記述にある鳳凰の姿が当時の主流であったということ ができる。

 鳳凰の姿が、現在と近いものになったのは、唐代の頃(図 7)であると考えられている が、その原型は、漢代には存在していたようであり、唐代には定着したようである15。日 本に伝来した鳳凰の姿は、南法華寺の鳳凰文磚(図7)や正倉院宝物の紫地鳳凰唐草文丸 文錦(図9)で見ることができるが、これらの日本の鳳凰は、唐代に定着したと考えられ ている現在のような姿の鳳凰である。

 『説文解字』などにみられる怪物のような鳳凰の姿は、漢代になると鳥の姿として描か れるようになり、唐代になると、ほとんどが5本の尾羽を持つ鳥の姿に統一されるように なった。また、孟子の時代に鳳凰は鳥類の王として見なされるようになったようである。

 鳳凰は「鳳」が雄で、「凰」が雌であると言われており、また『毛詩陸疏広要』(三国時代)

では、鳳凰は5種類に分けられ、赤いのが鳳凰、青いのが鸞、黄色みを帯びているのが鵷鶵、

紫みを帯びたのが鸑がくさく鷟、白いのが鵠こくであるとしている。しかし、『中国文化百華 002 幻想 動物の文化誌「天翔るシンボルたち」』では、鵠は白鳥やコウノトリの意味で用いられる のが普通で、鳳凰の1種類であるという説は珍しいとしている。

 鸞については、先に紹介した通り『山海経』に記述が存在しているが他にも、前述の『毛 詩陸疏広要』で鳳凰の1種で色が青いものであるという説や『初学記』(727 年)の鳳凰 の雛を鸞とする説などがあり、鳳凰と鸞を厳密に区別せず「鸞鳳」と呼ぶ言い方も用いら れている。『説文解字』では、赤の五色紋様で鶏の形という記述があり、色彩について統 一されていない16

 鳳凰は、君主が天意に従い、民衆の生活を大切にする治世のもとで、社会が平和である きに現れるとされているが、これはまたその時に王権に正当性を持たせるという意味も含 まれている17。この理想的な治世が実現されるときに現れるという条件は麒麟と同じであ り、『説文解字』に記述がある他、先秦時代の書物にも見ることができる。しかし、『山海 経』における鳳皇・鸞鳥・鳳鳥には為政者や政治との関連が見られないため、時の王権に 正当性を持たせるために鳳凰の類が使われるようになるのは、この後であると考えられて いる18

 『山海経』の南山経・丹穴山の文章において、鳳皇が現れると天下は安寧となるという 記述はあるが、どのような条件で現れるのかという具体的な記述は見当たらない。しかし、

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社会が安定しているときに現れるということは、時代を通じて一貫しているようである。

 現在、鳳凰は梧桐の木にしか止まらないとされ、殺生を嫌うため生虫は啄ばまず、竹の 実と甘露以外は口にしないと言われているが、『山海経』では、鳳皇のいる山に梧桐は登 場せず、竹の実も登場していない。このことから、『山海経』が編集された頃は、まだ鳳 凰と梧桐・竹との結びつきが明確ではなかったと考えることができる19。しかし、『毛詩 箋解』(185 年頃)には、鳳凰が梧桐の木に止まり、竹の実を食べるという記述があり、

後世に伝わる鳳凰と梧桐、竹の実の関係はここから始まったと考えられている20。  また、鳳凰は古代中国において、死者の魂が天に昇るために天の入り口である崑崙山に 至った時にその魂を迎え、天へと運ぶ役目を担っていたとされ、崑崙山の近くにある丹穴 に棲んでいるとされている21。この「丹穴」という記述は、先にあげた『山海経』「南山経」

にも「丹穴之山」として登場しているため、同じものではないかと考えられる。

 四神あるいは四聖獣のひとつとして数えられる朱雀(図 10)は、陰陽五行説に由来し、

五大元素とされる木、火、土、金、水のうち火を表し、季節は夏、方角は南にそれぞれ対 応している。

 朱雀の図像が具体化されたのは、漢代になってからではないかと考えられているが、そ の姿は鳳凰や鸞に非常によく似ているほか、食べるものや梧桐の木にとまること、瑞鳥と しての存在など多くの点で鳳凰と共通点を持っている。朱雀はその姿を表現されるときは、

5色の羽毛を持つが、体の形は小さなウズラに似ているとされ、初期の頃は怪物のようで あり唐代以降は孔雀や雉に似ているとされる鳳凰の姿とは少し異なる。

 鳳凰を象った象形文字は「風」を意味しているため、古くは風の神とされていたと考え られるが、時代が下ると火の精として扱われるようになることもあり、これは朱雀が四神 において南方を守護し火の属性を持つとされているためである22

 『山海経』を中心として、鳳凰について考察した。鳳凰の姿は、漢代以前と以後では異なっ ているが、天下太平の証であるという点は鳳凰が想像されて以来、変わることないようで ある。『山海経』には、鳳凰ではなく鳳皇・鳳鳥・鸞鳥が登場しているが、記述の中に同 一視しているものがあることから、『山海経』が編集されていた頃には、明確な区別がさ れていなかったと考えることができる。

 このように鳳凰の仲間であるとされる鳥は、『山海経』だけではなく、様々な文献に何 種類か登場している。また、『山海経』に登場するこの鳳皇や鳳鳥は後の時代の鳳凰の基 本となったのではないかと考えられる。天下太平の時に現れ、自ら舞を舞う鳳鳥に、時代

(18)

が進むと当時の思想や新たな設定、他の瑞鳥の性質が付加され、それが繰り返されること で、漢代から唐代の間に鳳凰という鳥のイメージや性格がはっきりと確定したのではない かと考えられる。

 そして、その鳳凰が美術品・工芸品その他中国から伝わったものと共に日本にやってき たと考えられるのである。

 しかし、現在日本で知られているのは、鳳凰だけといっても間違いではないだろう。日 本にも鳳凰をモチーフとしているものが多く存在するが、そのいずれも鳳凰である。鸞や 鵷鶵、鸑鷟といったものを目にすることはないと思われる。

 では、鸞や鵷鶵といった鳥たちは日本には伝わらなかったのであろうか。

 『中国文化百華 002 幻想動物の文化誌「天翔るシンボルたち」』でも述べられているよ うに、鳳凰が漢代以降その姿が現在のような鳥の姿へと変化していくにつれて、鸞などの 鳳凰の仲間とされる鳥たちは鳳凰へと統合されていったのではないだろうか。

 朱雀についても同様のことが言えるのではないだろうか。鳳凰は元々、風の神や風の使 いとして考えられていたことを紹介したが、時代を経ると火の精として扱われることも あった。このことにより、鳳凰と朱雀は元々仲間ではあるが異なる鳥であったが、鸞や鵷 鶵、鸑鷟が徐々に鳳凰に取り込まれていったと考えられるように、朱雀も同一の存在とし て扱われるようになったのではないかと考えられる。

 そして、数々の美術品・工芸品や宗教・文化とともに鳳凰が日本へと伝わった時には、

鸞も鵷鶵も鸑鷟も鳳凰に吸収されていたのではないだろうか。朱雀は都を守護する四神の ひとつとして、日本に伝わったが、朱雀としては信仰の対象にはならず、鳳凰と同一の鳥 として見られるようになったと考えられる。

 本節で取り上げた『山海経』は宇多天皇在位期に日本に伝わったとされているが、鳳凰 の図像は、これ以前から日本には伝わっているため、鳳凰についての知識も伝わってきて いたと考えられる。

 日本における鳳凰は、その姿は漢代から唐代にかけて定着した鶏のような姿であるが、

その性格は『山海経』をはじめとして、『廣雅』や『説文解字』、『宋書』、『爾雅』などの 書物に登場するそれぞれの鳳凰の特徴を持っているのではないだろうか。そして、鸞や鵷 鶵、鸑鷟、朱雀の特徴をも吸収しているようである。

 したがって、日本における鳳凰は、優れた君主がいる平和な時代に現れ、5 色の羽毛を 持つ瑞鳥であり、死者の魂を天まで導く役割を持つ鳥という認識があったのではないかと

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考えられる。これは最も理想的な存在であると言え、このことから、あらゆる装飾に鳳凰 が使われたのではないかと推測することができるのである。

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第2章 金属工芸の歴史

第1節 金属工芸の歴史

 金属工芸の歴史は、金属の加工の歴史ということができ、人類の文明の発展の歴史とい うこともできる。本節では、人類が金属を扱うようになった歴史や、日本における金属工 芸の歴史についてみていくこととする。

 人類が一体どのようにして金属を発見したのかということは不明であるが、最初に使用 した金属は銅や金銀であったと考えられる。紀元前 8000 年頃に、銅鉱床に銅が自然銅の 状態で地表に露出しているところを偶然、新石器時代の人が発見したと言われ、このとき に発見された銅は、自然銅であり単純な銅の鉱石であったために、精錬を行う必要がなかっ た。この時代の銅の収集は、地表に露出している自然銅の塊を探し、採掘していたものと 考えられている23。このように、人類が金属を使用し始めた初期の時代には、精錬を行わ ずとも金属の単体として存在する金や銀、そして銅の中でも自然銅を用いていた。これら の金属は、「打つ」「叩く」などの金属の塑性を利用した加工方法によって、線に延ばされ、

または板に広げられて使用されていたと考えられる。

 この当時の人類は、まだ鉱石から金属を取り出す冶金技術や金属を溶解させる技術を 持っていなかったため、まず精錬する必要のない金や銀、自然銅を手に入れ、それら金属 の加工には鍛金の技法が用いられていたと考えられる。そして時代が進むと、人類は鉱石 から金属を取り出す冶金技術を知るが、この技術をいつ人間が知ったのかは不明である。

 このように、まずは、打つ、叩くなどの鍛金技法が発達し、人類が金属を精錬する技術 を手に入れると、次に鋳金技法が出現したと考えられている24。そして、鉱石の精錬技術 や鋳金技術の発達していく過程で、銅と錫を合わせた青銅や銅と亜鉛を合わせた真鍮など の合金を創りだす方法を発見したと考えられている。その後、銅を精錬するよりもより高 い温度を得る方法を見つけ、鉄の精錬技術を手に入れたと考えられているが、銅の発見・

使用から鉄の発見・使用までは相当な時間がかかったと想像される。

 日本において、青銅器・鉄器は弥生時代前期から朝鮮半島を通じて中国大陸から伝わっ たものが使用されるようになり、後期以降は盛んに使用されるようになった。ここで、日 本が特殊であるのは、当時の最先端の材料である鉄が、銅と共に大陸から伝わり、そし て、材料だけでなく完成品や金属品を作り出す技術や技術者も同時に渡ってきたことであ る25。日本のような特殊な状況もあるが、人類は初め金・銀・銅などの精錬せずに手に入

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れることのできる金属を発見し、加工し、その後、合金や鉄など技術が必要な金属も使用 するようになっていたのである。

 金属工芸で使用される金属は金・銀・銅・鉄であるが、ここでは、融かしたり、叩いた りするなどして特に使用されることが多い銅および銅の合金について触れることとする。

 鋳造法の伝来により、銅鐸・銅矛・銅鏡などの各種青銅器は模造・改造をされるように なるが、当時の日本国内は銅資源が乏しかったために、材料のほとんどが輸入されたもの であったと考えられる。また、この当時使用されていた鉄製品のほとんどは、大陸から供 給された鉄地金(鉄鋌)などを成形した鍛造品であった26

 青銅器が模造・改造されていた頃と同時期に製造されていた鉄製品が、大陸から供給さ れた鉄地金を用いていたということ、金属の加工技術や技術者は伝わったが金属を自前で 確保する技術は、当時まだ獲得していなかったということ27から、青銅器の材料として 輸入されていた銅も鉱石の状態のものが輸入されていたのではなく、大陸ですでに銅地金 として加工されたものが輸入されていたと考えるほうが自然であると言える。

 古墳時代の金属工芸品は古墳出土品にみることができ、弥生時代に銅鐸などの模造・改 造を行なっていたことから、高度な鋳造技術を習得し、この技術は古墳時代に受け継がれ ていたと考えられる28。この時代の金属工芸品は、銅鏡が中心となるが、後期には装身具 類や馬具も登場する。耳環や指輪、帯金具、腰佩など様々なものが出土し、透彫や毛彫を 施したものをみることができる。また、6世紀後半の兵庫県高川古墳から出土した耳環か らは、現在日本最古の銀鑞が発見されている29

 鋳造、毛彫、透彫、鑞付、鍍金といった金属工芸の基本的技術は古墳時代後期には日本 に定着していた30と言え、耳環などを制作していることから鍛金技術も他の技術と同様 に定着していたと考えられる。

 『金・銀・銅の日本史』(2007 年)の中で、村上隆は「日本最古の勅撰の歴史書である『日 本書紀』や、六九七年からの正史として編纂された『続日本紀』をひもとくと、ちょうど 七世紀の中頃から、金、銀などをはじめ、日本の古代に突然、鉱物名が登場してくること になる。どうやら七世紀の後半は、鉱物資源を国産で調達しようとする機運が盛り上がっ た時期のようだ。」と述べ、これ以前には、文字として記録がないと述べているが、記録 が残されるようになる以前から原材料の多くを中国大陸、朝鮮半島からの輸入に頼りなが らも、少しずつ鉱石の採掘、精錬の技術を身につけ、高めていたということは考えられる ことである。

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 そして、日本において、銅の大きな鉱脈が発見されたのは 708 年である31。7世紀以 降寺院の建立や宮殿の建設などにより国内での金属の使用量が増加したことなどから、原 材料を日本国内で確保できるような体制を整える必要が出てきたため国を挙げて、日本中 を調査していたのではないかと考えられている。金属材料を自力で確保できるようになる 技術は当時、中国や朝鮮半島からの渡来人によってもたらされたと考えられている32。  飛鳥時代から天平時代に盛んに制作されていた押出仏または打出仏、鎚鍱仏と呼ばれる ものは銅製鋳物の原型に銅板を置き、その銅板を金鎚で叩き原型の形を打ち出す技法や、

銅板の裏側から原型を押しつけるようにして銅板を成形する技法が用いられている。これ らの技法を用いるためには、まず銅板が必要であり、またその板の厚さは薄くかつ均等で なければならない。押出仏自体は、天平時代以降はあまり造られなくなったようであるが、

このことから飛鳥時代から天平時代の間には、日本人は銅の塊を打ち延ばして、均一な厚 さの薄い銅板を作る技術を習得していたと考えられる。

 東大寺(奈良県奈良市雑司町 406 -1)の銅造盧舎那仏坐像が鋳造される頃には、大 量の銅と金が必要であったと考えられることから、このころには自力で金属の生産が可能 になっていたと考えられる。鋳金、鍛金、彫金の技術は、この時代精緻になってくるとと もに、飛鳥時代には見られなかった技法が現れるようになる。鋳金では、薄肉鋳造の技法 が現れるようになり、レリーフ状のものが制作されるようになる33。彫金では、毛彫りな どの線彫りだけではなく蹴彫りが用いられるようになり、彫り崩しの技法によって立体感 を表現するようになったのである。

 特に聖武天皇の東大寺建立などの政策を背景に、金属による仏具の制作が盛んとなり、

技術が高められたようである。次節で材料や制作技法の詳細は紹介するが、奈良時代は金 工品が多く正倉院に多く収められている。この当時、金属工芸品の材料には、金・銀・銅・

青銅・赤銅・砂張・鉄など様々な種類の材料が用いられ、技法も鋳金、鍛金、彫金の現代 みることができる技法はほとんどみることができる34

 奈良時代には、金属工芸の技法はほぼ最高点に達していたと考えられ、鋳金の技法は、

この後 1000 年間、細かい工夫改良はあったものの画期的な新技術は生まれなかったよう である35。鍛金、彫金も道具などの工夫改良はあったであろうが、画期的な新技術の発明 はなかったと考えられる。

 平安時代になると、唐風の影響が少なくなり、金属工芸品も他の文化同様に日本風のも のへと変化していくが、平安時代初期の約 100 年間は過渡期とも言え、最澄・空海によっ

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てもたらされた密教の影響などにより唐末文化の吸収も行われていたと考えられている。

 初期の金属工芸遺品は非常に少なく、神照寺(滋賀県長浜市新庄寺町 323)の鐘、栄 山寺(奈良県五條市小島町 503)の鐘、興福寺(奈良県奈良市登大路町 48)の金銅燈籠 などが知られている。金属工芸品の和様化は、平安時代以降に完成したと考えられており、

その中期以後になると遺品が多くなり、平等院の鐘、鳳凰堂の鳳凰像、金峯山から出土し た金銅経筒、金銅経箱、中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関 202)の華鬘などがあ る36

 平等院の梵鐘(図 11)は、平等院創建の天喜元年(1053)前後に鋳造されたものであ ると考えられるが、銘文がないため制作年代は確定することができない。

 梵鐘の鋳造技法は現在も伝承されているが、基本的な鋳造技法は変化していないと考え られる。梵鐘は惣型法という技法を用いて製作される。この技法は回転体型のものを制作 するときに利用される。作りたいものの縦断面の半分の形の板を鋳物砂に当てて回転させ て鋳型を作る方法で、回転させる板のことを挽き板(図 12)という。挽き板は、外型用 と中子用の2枚が必要であり、外型は4分割ほどして製作される。惣型法の詳細は、次節 で紹介する。

 平等院の梵鐘は、本体の池の間(図 13)に蓮華をもつ飛天と花皿を捧げる飛天を鋳出 し、草の間に獅子を浮彫風に鋳出している。上帯・下帯には龍と鳳凰を交互に配した唐草 文を、中帯上下には鳳凰と唐草をめぐらせている。この梵鐘は、園城寺(滋賀県大津市園 城寺町 246)、神護寺(京都府京都市右京区梅ヶ畑高雄町5)の梵鐘とともに「天下の三 名鐘」と呼ばれている37

 金堂経筒や金銅経筒(図 14)は、平安中期以降に当時、貴族の間に広がっていた末法 思想の影響によって、写経した経典を納めるために製作された経塚埋納品の中に多く見る ことができる。金峯山から出土した金堂経筒は有名であり、銅製鍛造鍍金であるとされて いる。銘文に寛弘4年(1007)に藤原道長が書き写した法華経を納め埋めたと書かれて いるほか、制作者の名が彫られ、制作年のわかるものでは日本最古である38。また金峯山 からは金堂経箱も出土している。この経箱も銅製鍛造鍍金である。

 金堂経筒は、円盤に切り取った銅板を金槌で叩き、制作したと考えられる。絞り技法 を用いて、筒底を別パーツで制作するのではなく底も含めて一体で制作し、蓋も同様に 1 枚の板から制作したと考えられる。絞り技法については、次節で紹介する。

 金堂経箱は、平らな面があるため筒状のものを制作するよりも難易度が高いと考えられ

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る。一般的に箱状のものは、凹凸が目立ち、また蓋との嵌め合いがあるなど他のものより も難しいと言われている。金銅経箱は、まず箱枠の長さと箱の長さの分の銅板を切り出し、

3 箇所で折り曲げ、最後の角で鑞付けを行なったと考えられる。その後、蓋と底を取り付 けたと推測することができる39

 中尊寺金色堂堂内具である金銅華鬘(図 15)は、銅または青銅に鍍金を施したもので ある金銅で制作されている。この華鬘は金色堂内の清衡壇にかけられていたと考えられて いる。

 この華鬘の用途から、ある程度の軽さが要求されていたと推測することができる。重量 を軽くするためには、厚さを薄くする必要がある。華鬘の地金は銅または青銅による鋳造 によって製作した場合と、鍛造技法によって板を製作し、それを使用したという場合を想 定することができる。しかし、華鬘を観察すると、華鬘中央の総角形と左右の迦陵頻伽文 と地金部分の表面の質感が異なるため、地金部分は薄肉鋳造で制作され、鋤彫りを施した と考えられる。華鬘全体は団扇のような形をし、周囲に覆輪をつけ、その縁の内側を切り 抜き、宝相華文様を透彫りし、そこに鋤彫りを加え模様に立体感を与えている。また、上 部の釣金具には、魚々子地が施され宝相華唐草文が鋤彫りで表現されている。

 華鬘中央の総角形と左右の迦陵頻伽文は、打出し技法で制作されたレリーフで、鋲によっ て留められている40。打出し技法で制作されている迦陵頻伽文には、打出し技法だけでは なく鋤彫りや毛彫りの跡も見られる。この打出し技法で制作されている総角形と迦陵頻伽 文の板厚は薄いと考えられるため、この時代にはある一定の板厚で生産する技術が日本に 定着していたのではないかと考えられる。

 華鬘が制作された平安時代には糸鋸は存在していないので、総角形と迦陵頻伽文は制作 後に切り鏨を打ち込み切り抜いていたと考えることができる。

 金属工芸の歴史は、金属の加工の歴史であり人類の文明の発達の歴史ということができ、

時代ごとに新しく作られた材料や技法が利用され、当時の最先端技術として捉えられてい たと考えられる。日本の金属工芸の歴史をみると、大陸の国々と異なり、ある程度金属加 工技術が発達した後、材料や道具、技術者、完成品をまとめて手に入れた非常に珍しい歴 史を辿っているようである。

 日本の金属工芸の歴史は、本節で紹介したように弥生時代頃から始まっていると考えら れているが、材料や道具、技術者、完成品がまとまって国内に入ってきたという特殊な環 境でもあったため、金属工芸の諸技法は古墳時代にはすでに完成されたものであったよう

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である。そして、奈良時代には聖武天皇の仏教政策を背景に大きなものや数多くの仏具が 金属で作られるようになり、制作技術も金属生産技術もかなり高い技術に到達していたと 考えられる。

第2節 金属工芸の諸技法

 金属を加工し、工芸品などを制作していく技法は、前節において述べているように古代 から存在している。本節では、金属工芸の諸技法について述べ、金銅鳳凰をどのよう制作 したのかを考えていくための足がかりとしていきたい。

 金属を扱う技法は、現在、金属工芸の分野は「鋳金」「鍛金」「彫金」に大別されているが、

このように「鋳金」「鍛金」「彫金」に分かれ、特に「鍛金」という呼称が一般的になった のは、明治時代に東京美術学校(現:東京藝術大学)が設立されてからである41。江戸時 代には「鋳物師」「針金師」「鍛冶師」「鋸鍛冶師」「鋏鍛冶師」「錨鍛冶師」「錺師」「象嵌師」「箔 打師」などに分かれていた42。また、鍛金については「鎚金師」「鎚起師」「打物師」と呼 ばれた職業があったようである。

 ここからは、現在の金属工芸の分野である鋳金、鍛金、彫金に分け、各技法を順番に紹 介していくこととする。

 鋳金は、鋳造や鋳物とも呼ばれているもので、砂や鑞などで原型を製作し、その原型か ら雌型を作り、そこへ融かした金属を流し、立体を制作する技法である。鋳金では純金、

純銀、純銅などよりも融点が低く融けた時の流れが良い銅と錫の合金である青銅や、銅と 亜鉛の合金である真鍮がよく用いられる。金属工芸の他の技法とは異なり、量産が可能で あるが、金属が鍛えられていないため脆いという特徴がある。前述のように、日本でも弥 生時代頃から行なわれている技法で、銅鐸、銅鏡などが造られていた。

 鋳金技法には、鋳型の材料と製作方法により、いくつかのの種類が存在し、石型鋳造、

蝋型鋳造、惣型鋳造、削中型鋳造、踏返鋳造などがある43

 石型鋳造は、最も古い鋳造方法であると言われている。制作物の形を石に彫り鋳型を製 作する。その鋳型に融かした金属を流し込む制作方法で、鋳造が伝わった初期の頃、剣な どを制作する場合によく用いられていたようである。

 蝋型鋳造は、第3章でも触れるが、制作物より小さい粘土で芯を作り、その表面に制作 物の厚さと同じ厚さの蜜蝋や松脂を混ぜた蝋を付け、制作物の原型を制作する。この技法 は、熱して蝋を溶かす、熱して蝋同士を接着するなどをして、細かい表現が可能である。

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蝋で作られた原型に粘土を塗り、その全体を覆った後、加熱し内部の蝋を溶かし出す。蝋 を溶かし出した空間に融けた金属を流し込み鋳造をする技法である。

 この技法は、大型のものを制作するよりも、小型で細かな表現をするものに利用される ことが多く、仏像や仏具、美術品の制作に利用される技法である。原型に塗る粘土は、蝋 型鋳造だけではなく他の鋳造技法でも用いられ、真ま ね土と呼ばれる粘土と砂と水を混ぜたも のである。混ぜる砂の粒子の細かさによって種類があり、例えば仕上げ用は砂の粒子が細 かく、鋳型の外側用は通気を良くするため粗い粒子の砂が使用される44

 惣型鋳造は、回転体型の器物や梵鐘、釜などを制作するのに利用される技法である。制 作物の輪郭の形をした外型と内側の空間の形をした中子型を製作し、鋳型を作る技法であ る。外型は、制作物の縦断面の半分の形をした挽き板を作り、鋳物砂に当て、回転させる ことによって製作する45。最初は粗い砂を用い、順を追って細かい砂に変えていく。この ように製作された鋳型を乾燥させたあと、挽き板が接していた面(制作物の表面)を焼成 し、中子型と組み合わせ、外型と中子型の間の空間に融かした金属を流し入れるのである。

 削中型鋳造は、大型のものを制作するときに利用される技法である。東大寺の銅造盧舎 那仏坐像も、この鋳造法を用いて造られたと考えられている46。この技法では、制作物と 同形の塑像を木材などで骨組みを組み、真土などを使って制作する。十分乾燥させた後、

外型となる粘土を塑像に張り付けて型取りを行なう。外型を一度、塑像から引き離し、制 作物の厚さの分だけ塑像表面を削り取り、再び外型を組み合わせることで鋳型が完成す る。外型と表面を削り取った塑像の間に、融けた金属を流し込み鋳造する技法である。東 大寺の銅造盧舎那仏坐像は巨大であるため、外型を8段に分けて鋳造したと考えられてい る47

 踏返鋳造は、原型を鋳物砂に押し付け、押型を作ることで鋳型とする技法である。この 技法は主に貨幣や鏡などの平らな形状のものを一度に大量に鋳造するときに利用される。

 これらが、主な鋳金の技法である。

 鍛金は、金属の持つ展性や延性を利用し、金鎚や木槌を用いて板や立体などの形状に打 ち延ばしたり、絞る技術を用いて成形する技法である。鍛金という呼称が一般化したのは、

東京美術学校が設立されてからであり、それ以前には鎚金や鎚起、打ち物と呼ばれていた。

 また、江戸時代には鎖、指輪、家具の金具、建築の金物を鍛金の技法を用いて作る錺師 と言われる職人が存在していた48

 鍛金の鋳金との大きな違いは、溶かした金属を型に流して成形するのではなく、板材や

図 5  獬豸 図6  鸞鳥 図 7 - 1  唐代の鳳凰 図 10  朱雀図7-2  飛鳳紋 図9  紫地鳳凰唐草文丸文錦図8  鳳凰文磚
図 11  梵鐘(平等院)
図 16  金鎚 図 21  なめくり鏨 図 18  絞り技法 図 17  当金図 19  毛彫り鏨と使用方法 図 20  打出し鏨
図 23  透し彫り
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参照

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