• 検索結果がありません。

伊藤整「イカルス失墜」論:その成立基盤と作品解 釈

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "伊藤整「イカルス失墜」論:その成立基盤と作品解 釈"

Copied!
17
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

伊藤整「イカルス失墜」論:その成立基盤と作品解

著者 飯島 洋

雑誌名 国語国文

巻 79

号 7

ページ 45‑60

発行年 2010‑01‑01

URL http://hdl.handle.net/2297/38144

(2)

﹁イカルス失墜﹂は︑一九三二年九︑十二月︑季刊﹁文学﹂第

三︑四冊に発表され︑翌年二月︑短編集﹁イカルス失墜﹂︵椎の

木社刊︶に収録された︒この作品の特徴として︑観念性が極めて

強いことが挙げられる︒作品内現在において事件は何も起こら

ず︑主人公の心を去来する観念と︑過去の出来事に対する思考と

で︑本文の殆どが占められているc主人公はギリシャ神話のイカ

ルスが天上から転落した後の空のイメージをはじめ︑少女虐殺な

ど様々な不吉な観念に想かれ︑その源泉として自己を誹誇する手

紙のことを思い出し︑自己の醜悪さを暴露してゆく︒

先行研究では︑倉西聡氏が﹁外部現実からの反応として作中人

物の意識内部を描く﹂新心理主義の方法を逆転し︑﹁意識内部の

論理による外部世界の意味づけ﹂を通して人物の醜悪さの別挟を

︵1︶試みた作品と捉える︒また︑佐々木冬流氏は﹁精神状態の不安定

伊藤整﹁イカルス失墜﹂論

伊藤整﹁イカルス失墜﹂論

Iその成立基盤と作品解釈I

さ﹂と﹁その要因としての人間関係のあり方の生々しさ﹂﹁潜在

意識と潜在的記憶﹂とをテーマとしており︑新心理主義以来のテ

︵2︶Iマが継続・発展しているという︒

それぞれ重要な指摘といえようが︑これまでの研究は基本的に

は本文をその内部から分析︑解説する方法にとどまっており︑作

品を成立させた要素については殆ど看過されている︒作者自身

﹁晦渋な作﹂︵﹁馬喰の果﹂解題︶と認める難解さもあって︑この

作品は論じる足掛かりに乏しく︑佐々木氏もいう通り定評の割に

︵3︶は論考が少ない︒伊藤整はこれ以前︑所謂新心理主義の論客とし

て活動していた頃︑フロイトの精神分析学やジョイスの﹁厳識の

流れ﹂に関心を寄せ︑その方法を取り入れた短編を量産してい

た︒﹁イカルス失墜﹂の場合︑そのような一見して明らかな︑外

国文学や思想の受容︑影響関係は見出しづらい︒が︑同時期に発

表した多くの汗巾に窺えるように︑同時代の文芸思潮との伊藤の

格闘は続けられており︑この小説にその影が投影されていないと

飯島洋

四五

(3)

作品はこの独特な一文で披かれる︒主人公は﹁壁の下の道﹂を

歩き︑楡の梢の動揺を眼にし︑後に説明されるが差し当たり根拠

不明な﹁私をぢっとしておかない不安﹂に駆られて﹁あてもなく

かうして歩きまはって﹂いる︒

冒頭のこの特異な表現については︑朝日千尺氏が﹁ロレンスの

エッセイや自然詩にこれと類似した表現がみられる﹂と述べた程 も考え難い︒またそれは顕在化していないからこそ︑伊藤の内部において熟考され本質的なものとなって表現された可能性もあろう︒こうした要素を考察することで︑作品論への新たな展望が開かれうると思われる︒

本稿では︑作品内部の分析のみならず︑伊藤と接点のあった外

国作家や︑﹁詩と詩論﹂︑季刊﹁文学﹂︑﹁新文芸時代﹂など︑伊藤

が中心的役割を担った文芸誌との影響関係を探るなど︑本作品の

成立基盤の解明を通して︑﹁イカルス失墜﹂のあるべき解釈を提

示したい︒

樹木のなかに思惟がある︑といふ言葉がどこからか来て私

のなかに巣くった︒ 伊藤整﹁イカルス失墜﹂論

冠u司﹂︑︑胆一ノ

︵4︶度で︑これまで考究されたことはない︒また朝日氏の論は﹁イカ

ルス失墜﹂を離れてロレンスの自然・生命讃歌の思想へと展開し

てゆくが︑それはこの作品には結びついてゆかない︒この言葉は

﹁自分をまぎらすために私がわざわざ思ひ出した﹂ものであると

いう弁疏がのちに吐露されることから︑この一文に深い意味が認

められなかったのかもしれない︒しかし︑﹁樹木﹂と﹁思惟﹂と

は伊藤の読書体験の中で深い結びつきを持っている︒

伊藤は座談会﹁新しき文学の動向に就て﹂︵﹁新潮﹂一九三二年

ママ五月︶において︑﹁ローレンスは精精分析に関する本を言いて居り

ます﹂と述べているが︑それはロ・函・ロレンス︽も遇98目辱器

四目92旨8吊昌O5:倉①君国○異岬弓言冒閉艀胃閏ゞら圏︶及び

︒↑両四口目め国具言①ロロの○口のgopい︑︵zの言ぺ○ペ穴雫弓冒旨国のの里厨①門.

己隠︶を指している︒ゞ騨胃言四目辱器卸as①ロロ8口の巳呂のゞで

ロレンスは

弓一局目旨旦尉号のQ①四口①ロQ旦屋①..⁝.︑弓ロ①言筐耐冒Q①①Q

︵弓①烏卸の匡戸琶呈ごロ言冒①ぐの吊琶目ロq旨く﹈・口四一℃○の砂①のの①の閉︻○口冒計弓①ぐ①︻冒

月巨○員5口庁○儲の○口の①pご○戸喘○吋のxの局口唇胆四○①︻骨四﹈ロ○○口屏崗○一○ぐ①局

計彦①く胃四﹈四口Q四匡計○口︺四口︑画尉○○①の⑳①の○冷す耐○二吋ロ①く○一口口○口.庫

・○①印ロ○言Q①己のロロ○国唱口里辱○口日冒具○凰唱ロ里辱再厨mppH①辱

のロ○口庁ロ①○口の○○口計︻○一A四○庁○︻○由庁置①写く一国媚ロロ○○口の︒○口い・:↑・・

(4)

の○﹇ロ①毎口︺①ゆ壹○−ご①く①H︺計戸の烏吋の①己の胃のロ①局①回﹈一目の○屋四℃の①めゞ働口・

計芦①言筐丘の己は帥①の拝の①庫尋詳彦即口凹匡日日胃言o胃の口再.弓彦①ロ四

J螢坐よ○○局ロロ后〆房の①︵匡画四℃四門四口○冒騨︑︐︲..︑岸巨のの①○○口ppm屋ね①崗耐庁丘︑計

曽①言筐呂呈昼自画ご濤陥届昌普号の冒冒﹄四目月8日①晋

﹄ロの計吋ロロ胃①ロ計○時計琶①口昌ロ・.

︵理性は生の行き止まりである︒⁝:・意思は全ての個人

が︑自身の発展の生気に溢れる自動的な過程を制御するため

に所有している機能である︒意思は本来理性には依存しな

い︒それは本来︑生ける無意識の︑純粋に自然発生的な制御

装置である︒.⁝・・時として自由な精神が崩壊することがあ

り︑そうすると意思は自動回路と同じものとなり︑強迫観

念︑妄想が始まる︒⁝⁝第二の危険は意思が理性のように働

き︑理性の道具となることである︒︶

と述べ︑理性や自意識を︑人間の本能的に備わった意思︑精神の

能動的な活動を自動化し破壊し︑人間を妄想へと陥らせるものと

して批判している︒

また続編の:国自国ゆ国○寓言匡月8門旨扁ゞでは︑

弓崗の①ゆ計琶里声四ぐのロ○面四口Qゆ四口・菌の①の︑ロ○①﹈の①.昌里庁巨①

g尋閏昏厨g︲胃①貝&匡○83冑旨呂昏①喝①臼8旨日扁︲シ

ぐ閉口且弓昼目巨房ゞ目ggg閏普且○昌眉言匡弓胃急筐○冒

伊藤整﹁イカルス失墜﹂論 再開.留日①弓言い昏呉旨瞥尉扇旨P⁝・・・呂言①は日①︑冨冨のロ○閉四○①︑ロ○斤ロ○口胆屋寺部○口﹄﹃四面ロぬのの画く四m①︑︽ロ○乞い冒計庁印めい○口一.

︵木々は手も顔も眼も持たないが︑力強い樹液の香りの血

が大きな円柱を上ってゆく︒巨大な個の生活︑他を圧倒する

意思︑樹木の意思︑人を恐れさせる或るもの︒⁝⁝樹木はい

つも顔を持たず思想も持たない︒巨大で凶暴な思想なき魂を

持つだけだ︶

といい︑樹木を何等思想を持たず︑知的あるいは血理的な思惟に

よって倭小化されることのない愈思によって動くものとして︑畏

怖されるべきものと規定する︒

さて︑これだけでは︑樹木は意忠する存在と考えられ︑理性と

ほぼ同義の思惟とはむしろ相反する関係になっており︑伊藤が両

者を結びつけた一文の意味を勝える必要がある︒

伊藤はこの時期︑レベッヵ・ゥエストゞ弓胃︑寓目鴨z①8陥昼:

PC目○口昌.9月︾ら鵠︶の炎題作を翻訳し︑冒頭と末尾を再構

成して原題のままで季刊﹁文学﹂二九三二年六月︶に発表し

た︒そこでは

吾①ロ○口︲馬ロロ日の貝巴胃は輿冨の目冒耐貝ごロ旦弓︻寓目口

す8丙○口画吾の日⑱言巨g扇閉号雨局日旨巴9口①Hg扁弓①閉

昏の胃用︐の冒房員5口且房8日旨︑四再開ゞ画ロロヶ昌己閉望pm筐

四一七

(5)

ロ厨口冒四計①国里計毎局○口ごロ厨冒目印ぬ一口四宮○口四口Q庁壷①局①の嵐C①国①pQp胆

詳︾彦の四○ヶ活くのm侍医①の四︻ロの昌・①ロは計営夛ご再壹三ご壹四奇声の門口四丙のの四ゆ庁彦の

Hgご冒胆qの①go閉.zo言口里号①局員①①己ORm再昌胃百四の①胃隅|

ロ①詳宮①氏百四の①四局砂ロ①詳言の尉厨一国庁①︸屋四①ロ苛め胃ロロ一望庁彦の胃四門①

すの○○口﹈旨いミロ四奇計写の﹃口︺四床①.﹇︒:﹈国匡庁庁彦のの①ppHp①ロ日﹈四Hご胃

耐ず①○○﹇ロ﹄ロロ○芹ご一口瞬宮①声凹の①四局の.画①ご囚の①目①の︾盲①厨ウ四口い

﹄ロ庁巴︸﹄ぬ①ロ︽.︷...︸の壹○の丙↑:○口①彦の四門の庁写四斤匡館一宮⑳OppQ

︵ここに非センチメンタルだと言はるべき作家群がある︒彼

等は樹木が自ら樹木たらんとする意志のやうな決定的な専行

的な主題について書物を書く意志を持ってゐる︒︒⁝:彼等は

樹木と同じく︑自分が何物で︑なにを為しつつあるかといふ

悟性を持たず︑ただ単に彼等の作るものを作ってゐるのであ

る︒⁝⁝けれどもセンチメンタルな芸術家には樹木のやうな

健康な成育がない・彼は耳を持ち︑眼を持ち︑知的であり︑

:.⁝︵このセンチメンタルな作家の手法によって︶人はあの

醜い響︑ショックを受けるのだ︒︶

と主張されている︒ここでは樹木が樹木であろうとする意志︑樹

木の健全な育成は︑自分がしていることに対する内省的な意識と

対置されていることから︑知的意識や過剰な観念によって遅滞さ

せられることのない存在様式とみなすことができる︒ 伊藤整﹁イカルス失墜﹂論

この文中の﹁センチメンタル﹂という語について︑新心理主義

文壇における理解を確認しておく︒﹁詩と詩論﹂で伊藤と共に行

動した春山行夫は︑﹁主知主義について﹂︵﹁新潮﹂一九三二年二

月︶において︑﹁精神の活動が︑外部へ向けられることの代り

に︑不必要にまで内部に向けられたものがあまりに感ぜんとし

て︑センチメンタルとなるものであるとすれば︑それは必然的に

事物を外部から知るといふ主知の創造的な活動の一半を喪失する

結果︑感性の誇張となり︑デカダンスとなり︑精神の腐敗・病的

状態に陥ることは免れ得ない﹂という︒ここでの﹁主知﹂は︑

﹁事物を外部から知る﹂という記述からして︑主体が自己の観念

や感情を投影せずにそのありのままの姿を認識しようとする態度

といえ︑ウェストや伊藤がここで用いた﹁知的﹂と用法は異な

る︒しかしながらセンチメンタルなるものが︑過剰な主観によっ

て現実を歪め︑外部現実を正確に理解・描写できなくする元凶と

みなされている︒この春山の﹁センチメンタル﹂への評価を伊藤

によるウェスト抄訳に代入し︑知的な態度の作家を主語としてみ

ると︑ロレンスによる理性批判と非常に似通った内容になる︒

この批評を抄訳した意図について伊藤自身は特に語っていない

が︑特にこの作品を選んだことに留意すると︑知性を弄した結果

歪んだ表象を生み出してしまうという認識に︑ロレンスの主張と 四八

(6)

などといった︑現実には存在しない︑あるいは起こっていない事

伊藤整﹁イカルス失墜﹂論 という︒その不安は︑ 共通するものを感じていたといえよう︒

﹁イカルス失墜﹂における﹁思惟﹂は︑ロレンスによって示さ

れた︑人を不毛な観念の枠に閉じ込め︑妄想と精神的混乱に陥れ

る負の側面を念頭において解釈する必要がある︒

その上で︑本文中の﹁思惟﹂という語に着目すると︑それは主

人公を襲う様々な幻像と深い関わりを持つことが判る︒

初出では﹁私﹂は

私は自分のなかの彼女の幻影を︑そこの路上に虐殺し︑内

臓を引きづり出して土まみれとしたまま︑逃走した 白っぽい水面と雲との間に静まった空間のやうなものを自分のイメイヂとして持つてゐることだけを辛うじて耐へてゐ ああ絶対に思惟に平安はない

といったこれまでの過去の時間を指している︒また﹁原罪﹂は︑

本文から窺える限りでの︑﹁私﹂という存在における悪性の部分

に着目すれば︑いま引用した虐殺幻想のような﹁想念の凶悪さ﹂ ともあるが︑これは裏返せば︑思惟している限りは﹁取りかへしのつかぬ錯誤﹂が延々と続くことを意味し︑思惟の不毛性を如実に示している︒﹁無限の無駄﹂とは︑ 象の幻像の氾濫という形をとる︒﹁私﹂を不安に陥れる直接の原因は︑自分を糾弾する手紙であることが後に明らかになるが︑不吉な幻像の氾濫に悩まされることについては︑﹁思惟﹂が大きく影響していると考えられよう︒さらに︑

私がした無限の雑談︑私がした無数の表現︑それは緑色の

淡のやうに人々の皮層にぺつとりとついてゐる︒ 思惟はそれの流れる変転のみでなく︑はたと停止して思惟

自らの断層を露出する瞬間がある私の存在を制約してゐる

原罪と私の日々の表現の無限の無駄との間の取りかへしのつ

かぬ錯誤に気づく一瞬がそれだ︒

四九

(7)

体や顔面はなぜ濾過するために私の性格の歪みを必要とするの

か︒無邪気な少女は︑樹の葉のそよぎは︑なぜ単純にそれだけの

意味で私に入って来ないのか﹂といい︑自己を取り巻く外界が︑

自分の内面を反映して醜悪なものに姿を変えて解釈されてしまう

ことへの苦悩を表明しているが︑初出では自分の不安の原因が思

惟にあることがはじめから主人公自身に明らかになってしまって

いる︒それではこの最後の叫びは切実さや必然性を欠いてしま 思惟に呪縛された状況にあることを象徴している︒

なお︑この部分は単行本では﹁ああ何故か今日私の精神はもの

に追はれて少しの安らかさすらない︒絶対にない﹂と改められ

た︒初出では︑この不安は思惟に囚われている以上逃れようがな

いことが既に認識されている︒作品の末尾では︑次々と襲い来る

観念に不安を掻きたてられた﹁私﹂が︑.切の風景や人間の肉 を抱く﹁私﹂の精神構造を意味することになる︒他者を傷つけようとするこの性向は︑後に思い出すことになる︑知人の﹁童話作家﹂を愚弄︑醐笑し︑﹁彼を引きまはし恥しめて掌に乗せてゐた﹂日々にも当てはまろう︒

﹁樹木のなかに思惟がある﹂という言葉は︑﹁私﹂の単なる無

意味な眩きではない︒そのような言葉が﹁巣くった﹂こと︑さら

にはその﹁樹木の動揺﹂は︑﹁私﹂が自らを妄想と錯誤に陥れる 伊藤整﹁イカルス失墜﹂論

罪﹃ノO

さて︑自己の精神の歪みを通してみた現実によって苦しめられ

るという主人公の痛苦が︑作者の発想とどのようにかかわるのか

を考えてみる︒作者の思惟に対する考えは単純ではない︒新しい

心理小説について︑伊藤は﹁文学が究極に於いて︑個人の精神を

濾過することによって個性づけられるリアリズムの芸術であるこ

とを︑さらに徹底せる結果発生した心理的現実主義にその基礎を

置く﹂﹁今日以後の心理小説は︑発足点から︑文学のカメラ的非

心理的描写法を排除して︑心理的に見た現実の︑小説に於て可能

なる限りの如実の表現を高揚する﹂︵﹁心理小説﹂﹁新文学研究﹂

一九三一年七月︶と述べ︑現実を写実的に描写するよりも︑その

現実を受容する人物の心理によって解釈され意味づけされた光景

を描出することを当然のことと看倣している︒

﹁文学の思考とモラリテイ﹂︵﹁新潮﹂一九三二年十月︑以下

﹁モラリテイ﹂︶では︑ドストエフスキーの小説に関して﹁悪夢

のやうに我々の頭脳を痛めるのは︑一に︑その思考のリァリティ

によってゐる﹂として人を苦しめる幻像が思考を追求した結果と

して生じるとの認識を示す一方︑﹁文学の思考はリァリテイの面

にざらざらと肌触れてゐるものであって︑その秩序は観念的でな

くして感覚的であるべきもの﹂といい︑思考を通して現実と向き 五○

(8)

﹁私﹂を圧迫し︑不安に陥れる様々な幻像は︑単なる不安な情

念の表象にとどまらず︑最終的には自分の﹁フェイタルな行きつ

まり﹂や﹁犯罪者の資格﹂の自覚を齋す︒

伊藤は︑﹁マルセル・プルウストとジェイムズ・ジョイスの文

学方法について﹂︵﹁思想﹂一九三一年四月︑以下﹁プルウスト﹂︶ 合い︑思考の与える痛苦から逃れずそれを続けてゆくことを評価している︒

思惟することから逃れえず︑妄想と痛苦に満ちた内面が外部現

実に投影される状態に﹁イカルス失墜﹂の主人公は置かれてい

る︒そこだけに着目すると︑作者は︑外部現実が﹁私の性格の歪

み﹂によって濾過され変形を蒙ることを︑歪んだ﹁私﹂の人間性

ゆえの特異な︑かつ意味のない体験と捉えているように思われ

る︒しかし︑少なくとも文学にかかわる人間は︑樹木のように思

惟から逃れられる存在ではなく︑寧ろ思考によって現実と向き合

い︑その齋す痛苦を受け入れるべきことを伊藤は理解していた︒

﹁私﹂の抱える痛苦は︑思惟し︑自己の精神を通して外界を解

釈しながら生きる人間の普遍的な問題を提示していると考えるこ

とができよう︒

伊藤整﹁イカルス失墜﹂論

で︑プルーストについて﹁強烈に心に触れるさまざまな出来事

や︑さまざまな瞬間﹂といった﹁理性を以てして把握し難い世界

を︑例へば記憶といふやうな精神作用や︑隠嚥といふやうな比較

作用︑即ち思惟と同様な働きをなす感覚作用によって心の中に所

有せしめる︒芸術は科学を以って鰡識できないものを認識せしめ

る﹂と︑ラモン・フェルナンデの批琲の葛川篤による訳︵﹁プル

ウストの芸術に就いて﹂﹁新文学研究﹂一九三一年一月︶を引

用していう︒川時に伊藤はプルーストに批判的な態度も示し︑

﹁︵過去︶の実在の分析されたる透徹ではなく︑︵現在︶の実在の

潭沌とした榑力﹂の必要性を主張する︒一方でジョイスの方法を

﹁過去に現実を還元し︑その中から本体を引出さうとする時のや

うに︑選択が許されない﹂﹁現実のある一片について︑それに客

観的判断を加へることなく︑混濁した現実を意賊されたとほり︑

厳密にⅣ現する﹂と述べて昨価した︒一九三一年の時点では︑伊

藤は意識や性格の描出における過去の位置付けにはさして関心を

抱いていなかった︒関心は当初飽くまでも︑現在の瞬間の意識の

流動を写し取る技法に集中していた︒﹁意識の流れ﹂が流行した

時期には︑幻想を描くことによってその人間像を明らかにしよう

という姿勢は持っていなかったといえる︒それでも︑この時期に

既に伊藤は︑心理が理知的な操作によって析出できるとは限ら

(9)

伊藤整﹁イカルス失墜﹂論

ず︑記憶や感覚によって明らかになる可能性を認識していたこと

には留意しておく必要がある︒

初期伊藤整がジェームズ・ジョイスから学び取った﹁意識の流

れ﹂は︑人物の思考の流れをそのまま写し取ろうとする試みであ

り︑内部現実を克明に描き出す方法として注目を浴びたが︑多く

の批判にもさらされた︒戦前のジョイス研究の第一人者である土

田杏村は﹁﹁意識の流れ﹂の文学をめぐって﹂︵﹁新潮﹂一九三二

年二月︶で﹁ユリシイズ﹂の描写様式について﹁ただ意識の非合

理的な︑偶然的な流れがある︒.⁝:意識の内容は︑すべて偶然的

のものであり︑一が他を生起せしめなければならない生活上の関

連は︑そこに少しも見られない︒併し実際の意識の流れは︑同時

に我々の﹁生活﹂の転回である筈だ︒我々の過去の生活は︑すべ

て重い荷物となって生活の現在の上に押しか︑って来︑将来への

展開を限定する力となってゐる﹂として︑意識は単に流動してい

るにとどまらず︑その動きは過去の拘束を受けていることを指摘

している︒土田のこうしたジョイス理解は現在の水準に立てば︑

正確とはいえない︒例えば・・皀湧巴のゞの第十五挿話に繰り広げら

れる幻想は︑登場人物たちの﹁隠された衝動や︑内に秘められた

︵5︶心の疵の幻覚﹂である︒しかしながら土田の論は︑意識の精密な

描写に汲々としていた新心理主義文壇にとっては痛烈な批判とな りえたと思われる︒

登場人物が思い描く幻想を描き出すことが︑単なる意識の全面

的な描出の結果たるにとどまらず︑重要な役割を果たし得ること

は︑既に新心理主義文壇でも知られつつあった︒ジョイスやウル

フの作品についてのコンラッド・エイキンの評論﹁小説は何処へ

行くか﹂が町野静雄の翻訳によって一九三二年三月︑季刊﹁文

学﹂に載せられているが︑そこでは彼等の小説が﹁日常の平凡な

観念を与へられるのみでなく︑主人公の幻想の世界をも与へられ

てゐる﹂といい︑﹁我等が性格を知らうとする際︑その幻想の世

界の大切さは何うだ!それは実にある点では人格の謎をとく鍵

である﹂として︑内部現実が︑ただ単にさまざまな意識が絡み合

って流動しているだけでなく︑その人物の為人を明らかにするも

のとしての価値を持っていることが主張されている︒

伊藤は幻想が︑単に外部現実に対する反射的反応たるにとどま

らず︑その人間の性格や来歴を明らかにする意味を担いうるとの

認識を︑一九三一年から三二年にかけて深め︑それを活用しよう

としたと思われる︒

幻想を具体的に作品に取り込む上で伊藤に示唆を与えたと思わ

れるものとして︑さらにユングを挙げることができる︒

﹁私﹂ははじめ︑自分の頭脳の状態を﹁雲が一面に吹き流され

(10)

という想念に遇かれる︒太陽を目指して上昇し翼を焼かれて海に

落ちたイカルスは︑他者を中傷して悦に入っていたところ他者の

糾弾によってその特権的な状態から転落する﹁私﹂と相似し︑そ

の象徴となっている︒

ユングは幻想に︑隠されたものを開示する意味を認めており︑

その論考﹁心理学と文学﹂が坂本越郎の訳により﹁詩と詩論﹂

︵一九三一年三月︶に収められている︒そこでユングは﹁幻想

が︑真の原始的経験であることは疑ひ得ない︒⁝⁝直感は未知

の︑または隠されたもの︑自然によって秘密が守られてゐるも

の︑それらはあるひは︑曾ては︑意識されたとしても︑故意に隠

され︑神秘とされてゐるものへと我々を導く﹂といい︑幻想を︑

夢や誤動作と同様︑本人にまだ気づかれていない心の動きが投影

されたものと看倣している︒心理の内実︑起源に遡行するため

に︑その心理によって引き起こされる幻想を描くことが有効であ

伊藤整﹁イカルス失墜﹂論 て停滞し﹂ているようと形容し︑そこから飛躍して

イヵルスはそのやうな雲をつき抜けて海に落ちたにちがひ

ない︒けれども雲は再びイカルスの上に閉し︑海面もまたイ

カルスの上にそっと閉ぢられてしまった︒ ることの示唆となろう︒尤もこれだけではフロイトの精神分析とあまりかわり映えしないが︑﹁詩人が彼の経験に適った表現を見出すために︑神話的形態へ⁝⁝帰るべきだといふことは極めて論理的である﹂として︑その文学的表現として神話形態の活用を評

価していることも︑﹁イカルス失墜﹂の冒頭の方法と重なる︒主

人公の幻想という形をとってM頭に神話の枠組みを側げ︑作品後

半において問題となる︑主人公の潜在懲朏にある傲慢な態度とそ

のために齋される主人公の脱跣を略水している︒

﹁私﹂の心理を去来する幻想は︑過去の所業とそれが示す自己

の性格を背負っているが︑その過去の開示のされ方も特色を持っ

ている︒不安の直接の起因であるはずの︑自分を指弾する手紙の

ことは︑﹁私﹂の記憶からは最初から欠落していて︑不安な心理

の迷走と︑そこから生じる幻像が分析抜きに描出される︒そして

その記憶は︑探*を中断していた時に突然啓示され︑自己の人格

の再認識へとつながってゆく︒肥憶の探知は﹁私をぢつとしてお

かない不安﹂の﹁原因を思い出さうと努める﹂あいだは果たせ

ず︑植物園で﹁明緑の芝生の上の陽光に眼を細め﹂ているとき

﹁突然今迄のながい夢想の時間に入る前の自分を恩ひ出した﹂︒

﹁プルウスト﹂に引用されたプルースト﹁失ひし時を索めて

第一巻﹂︵淀野隆三・佐藤正彰訳一九一三年武蔵野耆院刊︶に

(11)

伊藤整﹁イカルス失墜﹂論

は︑記憶の蘇りによって過去の事象に対する認識を新たにする部

分がある︒主人公の﹁私﹂は︑﹁マドレエヌがほとびるままに放

っておいた茶﹂を唇に当てる︒その時︑﹁菓子の欠片のまじった

一口の茶が︑私の口うらに触れたその瞬間に︑私は身顛ひしたの

だ︒異常なことが身うちに起ったのに注意を向けて︒いひやうの

ない快さが︑孤立して︑理由もわからずに︑私のなかに襲ってき

た﹂と感じ︑﹁この力強い歓喜は︑いったい何処から私にやって

きたのだらうか?﹂ということに思いを巡らし︑﹁私は︑私のな

かに︑移動する何ものかが︑深いところで人が錨を掲げるやう

に︑浮き上らうとして︑頸へてゐるのを感じるのだ︒⁝⁝疑ひも

なく︑このやうに私のそこで甑動してゐるもの︑それはイマァヂ

ュであって︑この味に結び付けられ︑味の跡を追ひ︑私の意識に

まで現はれようとしてゐる︑視覚的記憶に相違ないのだ﹂と考え

るが︑意識的な探索を断念し︑﹁記憶の探求を放榔﹂した時︑少

年時代を過ごした土地︑コンブレーにおける︑﹁われわれの庭や

スワン氏の園の凡ての花︑ヴィヴォンヌ河の睡蓮︑村の質撲な人

びと︑彼等の小さい棲居︑教会堂︑全コンブレエとその近郊﹂な

どのあらゆる想い出が立ち現れてくる︒

伊藤はこうした記憶を軸としたプルーストの小説の画期性につ

いて﹁感覚の強度を中心にして︑記憶中のあらゆる時と︑場所と を︑感覚の原因から結果へ︑結果から原因へと︑実在の進行とは無関係に︑作者の意のままに駆けまはってゐる﹂︵﹁プルウスト﹂︶と述べている︒﹁イカルス失墜﹂についてみるならば︑外部現実に触れて主人公の心中に様々な表象が生じ︑その原因を探ろうと努める間は果たせずして︑不図立ち入った植物園の﹁植物等の饗宴﹂に﹁当惑﹂しているとき突然記憶が呼び覚まされることが︑感覚を通して記憶を想起するプルーストの発想を受け継いでいる︒

尤も﹁イカルス失墜﹂の場合︑原因となる出来事が当日の朝起

こっているため︑これを過去と呼ぶこと︑またそもそもそれ程重

要な直前の記憶が一旦主人公から失われているという設定には若

干無理がある︒しかしながら︑過去の記憶が人間にとって大きな

意味を持ちうる︑そして記憶が感覚を通して把握されることによ

って︑事象の本質を認識することができると伊藤は考えた︒この

手法を使うことで﹁私﹂は︑理知的探索によっては認識すること

のできなかった︑自分を不安にする素因を記憶から呼び起こし理

解することとなった︒理知の限界を認める立場に立つならば︑自

己の醜悪さとい霜?本質的な問題にたどり着くためにも︑幻想と感

覚的認識が不可欠だったといえよう︒ 五四

(12)

伊藤は﹁詩と詩論﹂や﹁新科学的文芸﹂といった︑旧来の文学

を打破しようと模索する集団に身をおき︑特にジェームズ・ジョ

ィスの作品と様式の受容・理解においては当時の最先端に位置し

ていた︒ジョイスを﹁海洋の中に現はれた氷山の様に意識面に浮

き上る事実と事実を連絡するために︑彼は氷山の面を伝って無意

識の深海まで手探りで没入した﹂と評価し︑登場人物自身によっ

て客体化されることのない流動する思考をその儘写し取ること

が︑﹁急速度に流動する社会事象に対する個人心理の表出に最も

確実﹂︵﹁ジェイムズ・ジョイスのメトオド﹁意識の流れ﹂に就い

て﹂﹁詩・現実﹂一九三○年六月︶と考えた︒この手法は︑

刻々と転変する心理判断や衝動︑直覚の描出のためには有効だっ

ママたが︑一方で﹁偶発的空想︑断片的思考︑全々連続せぬ筋と事

件﹂︵同︶によって従来の小説の構造を破壊するという非難を呼

ぶことになった︒流動する心理を描くことのみに集中した結果︑

その心理が如何にして他者︑社会との関係によって構築されるか

という視座が欠落したことへの批判は︑伊藤の周辺でもなされて

いる︒当時の文芸批評界の重鎮︑青野季吉は︑﹁文学の新らしい諸分

伊藤整﹁イカルス失墜﹂論

派に就て耐ず﹂︵﹁新潮﹂一九三二年四月︶で︑新心理主義の作家

が内面的現実に肉薄することのみに集中していることを指摘し︑

彼等の意図が﹁内面を追及して行って︑ますます外部と︑活動

と︑運動とから隔離して行って︑独自の封鎖された世界に自己を

帝閉することに伽る﹂と述べた︒従来の文壇から見ると︑新心理

主義は人川と外祁との川係を恥視し︑外部現実に対する関心は薄

かった︒ざらに︑伊藤のⅢk︑湘沼泄楜も﹁新社会派と新心理

派﹂︵同前︶で︑意識現象を﹁生山断片﹂﹁生の流れ﹂と捉える新

心理主義の方法を﹁人間行動を﹁説明﹂する凹我の内的選択原肌

を失った必然の結果﹂として︑自我による統括力を喪失した結果

生まれるものと批判的に規定し︑﹁新心理派文学は︑一定の意識

された意図を以て︑意欲された目神を以て︑社会現実において行

動する人間から︑このやうな行動を分離し︑外界によって攪枠さ

れない純粋な識現象︑この精神の領域に閉ぢこもった﹂と述べて

いる︒新心理主義文学は︑迩戯現象を社会とは相互の交渉を持た

ない︑それ自身のみの原理によって流動してゆくものと捉えてい

ると獺沼には考えられた︒また﹁失った﹂﹁閉ぢこもった﹂とい

った言辞からは︑瀬沼がこの手法に対しやや否定的な考えを持っ

ていたことを窺わせる︒

こうした思潮と歩を同じくして︑伊藤も内面の精細な描写を重

五五

(13)

んじるのみならず︑個人の他者との関わりにも関心を寄せ始め

る︒前出の座談会において︑﹁意識の流れ﹂を用いた新心理主義

の手法について︑﹁其欠点といふものは︑スタイルを主にしてゐ

る点から例へば嘉村礒多氏の芸術の有ってゐる良さといふものを

持たすことがむつかしい﹂といっている︒その嘉村礒多について

は︑﹁あ︑いふ風に人間と人間との交渉といふやうなことを取出

して書ける人は︑時代が変ってもさうはないので︑全く文学の流

行が変ってもあ︑いふ作家は常に珍重されるべきものだと思ふ﹂

と高く評価している︒この時期には伊藤は︑作品造型における人

間と人間との関わりの果たす意味に思いを致し︑その足掛かりと

して嘉村の作品に関心を示していた︒

とはいえ伊藤は嘉村の私小説性を評価しているわけではない︒

﹁現代文学の芸術的方向﹂二九三二年十月構成閣言店刊﹁最

近の文学・文章研究と国語教育﹂︶では︑私小説一般を﹁小説の

正しい道である創作過程に全力をうちこむことをせずに︑それを

打壊して︑自己の生活上の汚物を直接に作物に盛り︑それを公然

と公衆の眼前に暴露するといふこと﹂で読者の満足を得ていると

批判している︒嘉村の作品が主人公の醜悪さを示すものだとして

も︑醜悪さの提示そのものが目的ではないと考えられる︒

醜悪な行為をなしながら︑他者に対して自己を恥じずにいられ 伊藤整﹁イカルス失墜﹂論

ない嘉村の仮借なき自己暴露は︑小林秀雄によって﹁︵嘉村の作

中の︶風物も人物も︑氏の倫理観の金縛りの下に喘いでゐる︒

.⁝:氏の文体は観察家の文体ではない︑飽くまでも倫理家の文体

である﹂︵﹁梶井基次郎と嘉村礒多﹂﹁中央公論﹂一九三二年二

月︶といわれ︑嘉村の作品が﹁倫理的﹂と考えられていたことが

窺える︒自分の悪性を自己処罰することが嘉村の作品の特徴であ

ると認識されていた︒

伊藤も一九三二年になり︑モラルやモラリティという言葉を評

論のなかで多用するようになる︒前出﹁モラリテイ﹂では︑フロ

ーベールとスタンダール︑ドストエフスキー等を俎上に載せなが

ら︑作者の思想が濫りに作品を蚕食することを許さず︑綴密に造

形的に描写することを目指す作家と︑自らの精神的な苦闘を登場

人物を通して作品に脹らせる作家の相違を解説しようとしてい

る︒ここで伊藤は︑偉大な芸術家は﹁描写技術として彼等の仕事

を限界することに満足せず︑何の跨踏もなくその点を越して︑裸

形に近い彼等の思考を進展させ﹂ているといい︑﹁バルザックを

ドストエフスキイに及ばぬとするのは︑:.⁝彼が彼の芸術的思考

を︑何等かのモラリテイの教義に到り着かざるを得ないほど深め

ることが出来なかったといふことのためである﹂とする︒伊藤は

作中人物を取り巻く現実や彼の行動を克明に写し取るだけでな

カー

(14)

く︑作者の抱く倫理意識を追究することに価値を見出していた︒

また︑この記述を裏返せば伊藤はドストエフスキーの作品にモラ

リティを認めていたことになるが︑そのドストエフスキーの作品

における人間の描写を伊藤は﹁モラリテイ﹂において﹁あまりの

醜悪さ︑あまりの汚辱︑あまりの暗禮性︑怖るべき虚無感﹂と形

容し︑人間を倫理的に描出したとき︑その絶望的なまでの醜い側

面に焦点が当たることを指摘している︒

倫理観と醜い人間像とは︑伊藤が屡言及している嘉村礒多にお

いて深く結びつく︒嘉村の作品から︑﹁人間と人間﹂のかかわり

の中に生じる葛藤で︑﹁倫理観の金縛り﹂を表出しているものと

して︑﹁曇り日﹂︵﹁新潮﹂一九三○年一月︑のち新潮社刊﹁崖の

下﹂同年四月所収︶を引く︒天皇還御の場面に際会して﹁眼く

るめく異常な感激﹂に襲われた﹁私﹂は︑﹁今か今かと両脚を揃

えて込み上げる恭敬の感情を堰き止めてゐ﹂ると︑警官に呼び止

められて住所︑姓名︑職業を取り調べられる︒そのことで﹁私﹂

は﹁私のどこかに直犯的な嘆かはしい形相が仮りにも認められる

のなら︑何んとも恐れ入るほかない︒愁ひ多ければ定めて人を損

ずといふが︑触ればふ人毎へ︑闇をおくり︑影を投げ︑傷め損ず

る︑悪性さらにやめがたい自分であること﹂を思い知らされる︒

﹁私﹂はそれまで︑些細なことで痛痛を破裂させてしまうといつ

伊藤整﹁イカルス失墜﹂論 た厄介な性格を持て余していたものの︑自己の陰惨な性格を示して他を害しようと意識してはいなかった︒しかし︑他者が自己を不審の目で見た以上︑自分は悪性であると無条件に考え︑﹁熾悔改俊のこころ﹂に棚たされる︒主人公は︑自分の思いとは裏腹に︑他者の視点如何によって自己の本質を決め付けてしまう︒

これと類似した描写が﹁イカルス失墜﹂に見られる︒それは自

己の醜悪さの徹底的な別快として呪れている︒﹁私﹂は﹁妙に眼

玉の暗い男が私を見守ってゐる﹂ことに九づき︑﹁私の目に凶悪

ななにかを﹂見たのに速いないと蝶じ︑かつての屈辱的な体験を

思い出す︒﹁女に棄てられた後﹂の﹁私﹂が﹁残虐な復讐の方法

ばかりを考へつづけ︑手脚の戦くやうな想像に糧かれ︑周囲の旅

行者等の愚劣な顔の一つ一つに自分の憎悪を投げつけてゐ﹂たと

ころ︑私服秤察の尋問を受ける仕儀となり︑﹁私﹂は司自分が正

しく罪人であると感じ﹂︑﹁犯罪と捕縛の恐怖となって私をうちの

め﹂すというものである︒どんな醜い悪性の想像に耽っていて

も︑それが誰にも知られない自分だけの観念遊戯である問は︑犯

罪を実行していない以上自己を罪人と意識する必要はない︒とこ

ろが自己の表情からその抱いている観念を探り当てられた途端︑

自己は現実に犯罪を犯しうる醜悪な人間に転換する︒たとえ︑女

に復薑したり少女を虐殺したりする幻想があくまで想像上の犯罪

五七

(15)

に過ぎず︑実行されることはないとしても︑自己を犯罪者と認識

する︒

本文前半で﹁私﹂は︑﹁壁の下の道﹂を歩いて壁の奥の存在を

想像しながら﹁私のする行為のなかに隠れた意味を︑この墓石の

やうな眼を閉ぢた者等にすら触知されずにゐることはない⁝⁝私

の筋肉のひとつの縮小は︑私自身が自己の意志を悟るよりも前

に︑⁝⁝私の意慾するものを人間のなかの最も愚鈍な者等に知ら

しめてゐる﹂と考える︒﹁私﹂は︑自己を責め立てる︑実際には

そこに存在してはいない何ものかを幻視する︒こうした記述は

﹁生物祭﹂︵﹁新文芸時代﹂一九三二年一月︑のち金星社刊﹁生物

祭﹂同年十月所収︶の︑主人公が故郷の自然の中を歩いていて

草木の揺らめきから﹁知ってゐるぞ︑知ってゐるぞ﹂という声を

感じ取ることと似通う面がある︒しかし﹁生物祭﹂の場合︑父の

臨終が契機とはなるものの︑自分の﹁肉身のすべての非力な敗北

感﹂︑﹁精神の見るに耐へない卑屈さ﹂︑さらにはそうした負の属

性を自分に負わせた父への憎悪の念に︑﹁私﹂は誰による指摘や

告発でもなく︑彼自身の自然な感情の発露として気付いている︒

﹁イカルス失墜﹂になると︑自己の﹁想念の残虐さ﹂を自覚はす

るが︑結局は自分の人格は他者の視線によって明確にされる︒

自分という存在が純粋に自律することはなく︑他者の視点によ 伊藤整﹁イカルス失墜﹂論

って性格を判断され︑それが正しく自己の本質となるという発想

がここに示されている︒伊藤が﹁人間と人間との交渉﹂に嘉村の

特性を見ていたことを考え合わせれば︑この発想を伊藤における

﹁モラリテイ﹂の内実と解釈することが出来る︒

嘉村の作品の場合︑主人公は自己の﹁悪性﹂を﹁思ひ知らされ

た有り難い気持﹂になり︑﹁徴悔改俊のこころ﹂に充たされるよ

うに︑自らを責め︑自己救済を翼う方向にある︒他者からの働き

かけに応える面を持っている︒しかし﹁イカルス失墜﹂において

は︑﹁私﹂は︑自らの有罪性を認識する以前に︑すでに他者によ

る自己規定︑自己告発を感じ取っている︒しかも︑その内容の不

明なままに︑不安に駆られて﹁奴等をそれ故に殺裁しろ﹂と思念

する︒この時点では自分の不安と人格とが結びつくとは認識され

ていない︒しかし︑後にそうした凶悪な想念が表情に表れて警官

の職質を招き自分が犯罪者だと自覚することからわかるように︑

そのような発想そのものが︑自己の凶悪さ︑犯罪者的性格を表出

し︑倫理的な救済の可能性を自ら塞いでしまっている︒

また︑﹁イカルス失墜﹂の﹁私﹂は︑自らの性格について反省

するということはない︒﹁自分の身体にまつはりついてゐる醜悪

さ﹂による﹁精神の消耗﹂を意識する﹁私﹂は︑他者の視線が

﹁私の生来の卑屈感と肉体の薄弱さ﹂﹁暖昧な性格や傲慢さ﹂を 血八

(16)

伊藤はかつて︑知的操作によって人間の内面の機構を明らかに

することができると考えていた︒人が自身では意識することのな

い深層心理も︑精神分析の手法によって顕在化させられる筈であ

った︒ 告発することを感じる︒これは改稿﹁生物祭﹂において︑主人公が﹁私の肉身の全ての非力な敗北感と︑私の精神の見るに耐へない卑屈さ﹂を自覚することと共通するが︑彼は﹁蹟きが︑屈服が︑妥協と誤魔化しが︑無限に私の生活を待ってゐる﹂とあり︑自分の醜悪さとその齋す悲劇からは逃れられないものと認識している︒﹁生物祭﹂の場合はそれを﹁父の属性﹂だとし︑Ⅲ分の悲惨な運命の原因を父に帰している︒﹁イカルス失墜﹂も︑明らかになった自分の属性を他者によって規定され︑唾棄するだけで︑脱却する試みが想定されていない点で︑前作の構造を踏襲している︒﹁生物祭﹂同様︑自分の醜悪さを抱える日々が﹁無限に私の生活を待って﹂いることが予想される︒

﹁私﹂の醜悪さの描出は︑自己の存在のあり方は他者によって

規定され︑それを変えることは出来ないという倫理観を表出して

いるといえよう︒

伊藤整﹁イカルス失墜﹂論

I

フロイトの方法を放棄してからも︑意識の流れをそのまま全面

的に提示するという描写の可能性を疑わなかった︒いずれにせ

よ︑人の意識というものをその現在の瞬間において捉え︑それが

その人の人間性そのものと理解していた︒

一方で伊藤は︑人が自分自身の内面を完全に把握し統括できる

と考えてもいなかった︒﹁錯覚のある配列﹂︵﹁文芸レビュー﹂一

九三○年二月︶では︑﹁私達の存在に不可避の興味あるものだけ

が︑無意識のうちに私達の注意を吸収してしまふ︒私達のなかに

ある無意識な判断が︑明瞭な推理を煩はすことなしに︑私たちへ

の物の重要性︑非重要性の判断をする﹂といい︑ある対象への関

心や情念が︑当人の意識や思考を介することなく決定されてしま

うことが指摘されている︒﹁感情細胞の断面﹂︵﹁文芸レビュー﹂

一九三○年五月︶にいたっては︑精神分析を通して友人の愛人が

自分を愛していると解釈した主人公が︑さらに自分の心理を分析

してゆき︑ついには自分はさして彼女を愛していないと判断して

−し斗よい﹁ノO

﹁イカルス失墜﹂では︑こうした自己意識を統括することの不

可能性の認識が徹底された︒言動を分析し︑あるいは意識を克明

に描出するだけでは︑人間像を完全に描き出すことはできないと

いう理解がなされ︑人間の﹁現在﹂の意識や性格は︑それだけで

五九

(17)

成り立ってはいないという人間観がこの作品には提示されてい

る︒今ある人間は︑それまでの過去の人生の総体を内包して成立

しており︑その心理や精神構造も過去の影響を受けて作動してい

る︒その人が如何なる人間であるかという性格規定も︑その個人

が自ら決定することはできず︑他者が自分をどう見るかによって

左右される︒津沌とした精神を把握する助けとなる筈の論理も︑

人間を救う便とはならない︒小説における思惟の重要性を伊藤は

知っていたが︑その思惟︑理性の限界が暗示され︑人間︑特に文

学者にとって不可避なものである思惟するという性質が︑人に内

面的な混乱を齋すという認識が示されている︒単に従来の精神分

析的手法や﹁意識の流れ﹂からの脱却といった技法の転換を図っ

たのではない・

倉西氏のいう﹁意識内部の論理﹂は︑﹁私﹂にとって確たるも

のとしては存在していない︒理知的な手法で精神の本質に迫るこ

との限界が示されていることから︑この作品には佐々木氏のいう 伊藤整﹁イカルス失墜﹂論

ような新心理主義の単純な継続よりも︑むしろその変質を読み取

るべきであろう︒

本作品において︑人間精神の自律性や理性といったものが︑も

はや信を置くことのできないものとして否定的に捉えられている

といえる︒

ハ注V︵1︶伊藤整の昭和七年I﹁イヵルス失墜﹂論︵﹁武庫川国文﹂四三号

一九九三年十二月︶

︵2︶﹁生物祭﹂と﹁イカルス失墜﹂︵﹁伊雌整研究﹂所収一九九五年十月双文出版︶

︵3︶︵2︶に同じ

︵4︶ロ・西・ロレンスと伊藤整︵﹁国文学解釈と鑑賞﹂六○巻二号一

九九五年十一月︶

︵5︶亀井秀雄﹁伊藤整とジョイス﹂︵﹁国文学解釈と教材の研究﹂一九

六一年六月︶

︵いいじまひろし・県立吉井高等学校教諭︶ 六○

参照

関連したドキュメント

○ 4番 垰田英伸議員 分かりました。.

子どもが、例えば、あるものを作りたい、という願いを形成し実現しようとする。子どもは、そ

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

されていない「裏マンガ」なるものがやり玉にあげられました。それ以来、同人誌などへ

本論文での分析は、叙述関係の Subject であれば、 Predicate に対して分配される ことが可能というものである。そして o

(自分で感じられ得る[もの])という用例は注目に値する(脚注 24 ).接頭辞の sam は「正しい」と

○菊地会長 ありがとうござ います。. 私も見ましたけれども、 黒沼先生の感想ど おり、授業科目と してはより分かり

   遠くに住んでいる、家に入られることに抵抗感があるなどの 療養中の子どもへの直接支援の難しさを、 IT という手段を使えば