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金銅鳳凰の造像と平安時代の貴族社会

ドキュメント内 目次 はじめに 第1章 瑞獣と鳳凰 (ページ 40-53)

第3章  平等院鳳凰堂の鳳凰

第2節  金銅鳳凰の造像と平安時代の貴族社会

 金銅鳳凰が造像された背景には、平安時代中期から後期の貴族社会を取り巻いていた社 会状況が大きく影響しているのではないかと考えられる。

 この節では、金銅鳳凰造像及び平等院建立と、平安時代中期から後期に貴族社会に影響 を与えた末法思想について考察する。

 末法思想は仏教の歴史観のひとつであり、釈迦の入滅後 1500 年または 2000 年以降の 時期である末法に入ると仏教が衰退するという思想である。まず、釈迦が入滅した後の 500 年または 1000 年間を正法といい、この時期は仏法がよく保たれ、正しい修行によっ て悟りを得ることができる。その後の 1000 年を像法といい、この時期は教法、修行は行 なわれ、正法の時期と似ているが、悟りを得る者がいなくなるとされている。正法、像法 を経た後の 10000 年は末法といい、教えは説かれているだけで修行する者がなく、悟り を開く者がいない時期であるとされている。

 末法は仏教の歴史観における区分のひとつであるが、平安時代中期以降災害や戦乱が起 こり始めたため、終末論のようにも捉えられていたようである。末法への恐れや極楽浄土 に対する憧れは、貴族を中心に強まり、特に貴族達は寺社の建立や仏像の造像、写経など も作善を行なったのである65

 また、日本の仏教は平安時代頃まで国家鎮護のためという側面が強く、信仰しているの は貴族が中心であった。しかし、平安時代中期になると、庶民の救済を行なおうとする僧 が現れるようになり、庶民にも仏教の教えが広まるようになったのである。このような時 代背景を元に極楽浄土への往生を求める浄土教が急速に広まったのである。

 浄土教信仰は、浄土という理想世界に往生し、成仏することを願う信仰である。そして、

平安時代中期以降、釈迦、薬師、阿弥陀、弥勒などの仏の多種多様な浄土の中から、阿弥 陀如来の西方極楽浄土の信仰が優越していった66と考えられている。これは阿弥陀如来 の極楽浄土に往生し仏果を得ようと期する考えで、他力の教えである。浄土教の広がりと 共に、西方極楽浄土の主である阿弥陀如来を信仰する阿弥陀信仰が広がり、阿弥陀如来像 の造像や阿弥陀堂の建築が盛んとなった。

 また、貴族は寺院建立や仏像造像だけではなく、写経も行なっていた。そして、写経し た経典を金属製の箱や経筒の中に納めると、さらに石または陶器で製作した容器に納め、

経塚に安置していた。

 平等院(図 26)は、末法に入るという不安が広がり、寺院の建立や仏像の造像が盛ん

となり、浄土教や阿弥陀信仰が広がっていた時代に建立された。平等院は、末法初年に当 たる永承 7 年(1052)に藤原頼通が父である藤原道長(966 - 1028)の別荘「宇治殿」

を寺院に改めたのが始まり67であり、極楽浄土を願う浄土教が日本の社会に広がってい た時代である。

 創建当初、平等院には阿弥陀堂だけではなく、本堂や法華堂、五大堂なども建っていた が、戦火や災害などで焼失し、阿弥陀堂だけが存続している。この創建当初の伽藍内の建 造物から、平等院は極楽浄土への往生を願うだけの目的で創建されたのではなく、現世で の祈りも積極的に行い、末法を乗り越えようとする思想もあったのではないかという考え も示されている68

 鳳凰堂は、天喜元年(1053)に定朝作である阿弥陀如来坐像を安置する阿弥陀堂とし て建立され、平等院は極楽浄土を再現したような寺であったと言われている69

 阿弥陀如来は、無量光仏、無量寿仏ともいわれ、無明70の現世をあまねく照らす仏で あるとされ、世界の西方に極楽という浄土を持ち、説法を行なっているとされている。『佛 説無量寿経』では、一切の衆生71を救済するために「四十八願」をたて、修行を行ない、

仏となったと説かれている。今も説法を行ない、一切の衆生が極楽へ往生するために導い ているとされている。このような阿弥陀如来が生命のあるもの全てを極楽に往生するため に導いてくれるという教えが、末法思想が広がっていた平安時代中期以降の人々の心を捉 えたのである。

 鳳凰がいつ頃日本に伝わってきたのかを正確に知ることはできないが、日本の工芸品や 装飾品に表される鳳凰はどれも鳥の姿をしている。したがって、第1章で述べたように、

日本に伝わった鳳凰は漢代に登場し、唐代に定着したものであったと考えられる。装飾品 などに使われているため、中国における鳳凰の瑞鳥という扱いと同様に、おめでたい鳥、

縁起の良い鳥であると認識されていたということが分かる。

 ここで注目するのは、鳳凰の瑞鳥として側面と、第 1 章で述べた死者の魂を天まで運 ぶ役割を持つ鳥という側面である。

 平等院は、浄土への憧れを持って建立され、平等院は西方極楽浄土を現世に再現したよ うなものであるとも言われている。極楽浄土は、苦が存在しないこの上なく安楽な世界で あるとされている。このような理想的な世界を表現するために、瑞鳥であり、おめでたい ものの象徴と言える鳳凰を阿弥陀堂の屋根に据えたと考えることができる。

 また、鳳凰が死者の魂を天まで運ぶ役割を持つことを考えると、平等院阿弥陀堂の金銅

鳳凰は死者の魂を天に導くために降り立った姿であるとみることもできる。

 阿弥陀如来は人が死期を迎えるとき、西方極楽浄土よりその人を迎えに来るとされてい る。これは阿弥陀来迎図などで表現されている。阿弥陀如来に迎えてもらい、鳳凰に天ま で導いてもらうという最も理想的な形を表現したものであるとも考えられる。

 いずれにしても、末法に入るという不安にさらされるなか、極楽浄土に対するとても強 い憧れを持って、平等院が建立され、金銅鳳凰が制作されたのではないかと想像できるの である。

おわりに

 鳳凰は、その誕生から時代の流れと共にその姿を変化させてきた。誕生初期は異様な怪 物のような姿であったが徐々に変化し、漢代以降、現在の鳥のような姿で現れた。唐代に は、鳳凰は現在の姿に定着をしたと考えられている。そして、鳳凰の仲間とされていた鳥 である鸞、鵷鶵、鸑鷟などは次第に鳳凰に吸収されていった。

 日本に鳳凰が伝わった正確な時期はわかってはいないが、その図像は日本と大陸が交流 したときに伝わったと考えるのが自然である。『山海経』は宇多天皇の時代に日本に伝わっ たとされている。遅くとも、このときに日本人は鳳凰という鳥の持つ意味を知ったと言え るだろう。

 鳳凰は、天下が安定しているときに姿を表し、また、死者の魂が天に昇るために天の入 り口である崑崙山に至った時にその魂を迎え、天へと運ぶ役目を担っていたとされている。

 平安時代中期以降、貴族を中心として人々の間に末法思想が浸透し、浄土教が盛んにな り、民衆にも仏教が広がった。生活の中に仏教が密接に関連していた当時、末法の時代に 入るということが人々に与える不安は大変なものであったのではないだろうか。末法の時 代に入るという不安の中で、貴族は経を経筒に納め、経塚を造営した。そして、藤原頼通 は浄土教の象徴である阿弥陀堂を建立して、阿弥陀如来坐像を安置し、末法の世において 極楽浄土への往生を求めたのではないだろうか。平等院において極楽浄土の世界を表現し、

そこに縁起の良い鳥として鳳凰を据えたのであろう。鳳凰は死者の魂を天の入り口で迎え、

天へと運ぶ役目を持っていることから、藤原頼通は阿弥陀堂の両端に金銅鳳凰を据えるこ とによって、阿弥陀如来と鳳凰の力によって、極楽浄土への往生を願ったのではないだろ うか。

 平等院は、鳳凰堂以外の建築物が過去の戦乱によって焼失しているため、建立当初の建 築物の屋根の両端にどのようなものが据えられていたかを知ることができない。

 極楽浄土への往生の願いを込めて造られた阿弥陀堂に据えられた金銅鳳凰は、当時最高 の技術を持った職人たちの手で制作されたことは間違いないが、金銅鳳凰の制作技法につ いては謎が多く、現代の技法を元に推測しなければならない。

 平等院が建立された時代は、今から末法の時代へ入るという当時の日本人にとっては不 安に満ちた時代であった。ここで、極楽浄土への往生を願う阿弥陀如来信仰と、死者の魂 を天へと運ぶ瑞鳥の鳳凰、そして、末法という不安に満ちた社会情勢が組み合わさったの

ドキュメント内 目次 はじめに 第1章 瑞獣と鳳凰 (ページ 40-53)

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