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ヴ ァ ン ダ ー ビ ル ト ・ ア グ ラ リ ア ン と 南 北 戦 争
一 昌 一 所
隆
一 ︑まえがき
二︑ナッシュヴイル宣一百の背景
三 ︑ヴァンタービルト・アグラリアン
抑えがたき戦争
利己約破慶絶セクショナリズム
オールド・サウスの讃美
むすびに代えて=コモン︐マンにかけた魔法
ま ︼え が き
C イ・ トー はン ジ ンョ C・ カ・
ルフ
ー のン 政治 志 向 に つい
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中﹃ 弟一 つ券中 中車キ中 中ム っ 対 の ﹃縄巾 中キ中申 効な々劫 嘩れ一ン . たゎ
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︵3︶アグラリアンの立場は南部史に脈打つきわだった特徴の一側面を示すと同時に ︑彼らの南北戦争史観にもきわめて特徴ある形をよらて反映されている︒この小論ではナッシュヴイル宣言の背景とアグラリアンの主張 ︑この宣言に加ったF・L︒オウズリーの観点 ︑その後のオウズリーが指導したグループ研究によるオールド・サウスの再構成 ︑ならびにそれと不可分にかかわりあっている南北戦争史観を再検討し ︑オールド・サウスと高北戦争史研究上の基礎的道標を確認してみたいと思う︒
七 六 五 四
︵一 証
︶1 一九 三 年〇 刊に 行 さ れ た ヽ ミミ
﹃態 いヽど 晩ヽ お ヽヽ げ ︼ ︼
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︼沖●車≡oい一oヽ 卜r ∽一F毎︼ ︻● ︼一く︻毎●ゆ≡リヨメ
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ウ 急oコ︼o① F D︻ ︼︼まい一oP 州ざへらoミ車車︻ 卜 Qいヽヽヽ出
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周 知 如の
く ︑
十九 世紀 末
より
南 部 経の 済 的 ナ シ ナ ョ ゼリ ー シ ンョ 急は 速 度 進に 行
し ︑
南部
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南部
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―‑ 39 ‑―
( 1 2 1 )
め の鉄道 ︑鉱山 ︑製鉄 ︑石油 ︑金融体系 ︑そしてついには流通部門さえ掌中に収めて会社の代理人を派遣し ︑支配網をく な死成させたのである︒こうして南部経済は北部資本の植民地と化し︑その状態は一九三二年まで持続するにいたつた o一九〇〇︱三〇年の間の南部の都市人日は総人口の一八%から三判 %に著るしく増大したが ︑南部における工業化の速度は国家の急激な発展と軌を一にしていた oしかし︑一九三〇年に製造工業によつて加えられた南部の一人当りの収入は全国平均の三七% ︑非南部の三〇%にすぎなかった oさらに重要なことにはその一人当りの収入は非南部の四三%にとどまつたことである︒相対的な低収入の持続した︻結果 ︑ 一九〇〇年から三〇年の間に南部十州は三五①万近い人口を他の地域へ流出させることになっ育 中
南部の工業化を促進し ︑低賃金を持続させた大きな要因は南部農業の苦境であつた o第一次世界大戦後 ︑アメリカ農民は ︑需要の世界的規模での減退と過剰生産 ︑これに伴う価格の下落などの要因によつて深刻な経営上の危機に直面した ︒ 一九二〇年代 ︑農業は工業の繁栄にひきかえ ヽ次第にその地位を低下し︑慢性的不況に苦しんだのでぁ痩o工業の発展にもかかわらず依然として農業地域としてと
い時一巾輸 軸 において ︑農業の苦﹂究はもつともきびしい様相を示した o 一九二〇年は南部における農業時代の終りを間一九三〇年に合衆一国の農業人口は四四%であつたが ︑南部は人口の六七・七%が農村地域に居任し︑労働者の四三%が農業に従事し︑合衆国の農場人口の五〇%を擁した oそれにもかかわらず ︑高部の農民は農場当りでも︑また投資額当りでも全国最低の収入にとどまつた ︒しかも南部の非農業従事者一人当り年収四八四ドルであつたのに対して ︑農業従事者は一八九ドルにすぎなかった o彼らは楠花およ
中抑囃︺娃つ 国
魂 雅 額の九六% ︑タバヨの八七%そして米の八四%を生産したが ︑全国総作物価格の三七%を受け張っ
もちろん ︑南部のすべての農業地域が同一の不況に直面したわけではなく ︑また一様に衰退の途を辿ったのでもない︒好況期と不況期との交替もみられた o海岸平野の野菜や果物を中心とした北都市場向けのトラック・フアーミン
グは着実に繁栄をとげた oアッパー・サウスのタバコ地域はアメリカoタバコ会社の独占的支配に反機して作付面積の制限により価格の維持をはかり︑大戦後には協同出荷組合により市場の支配権を掌握し ︑同時に牧畜業や家畜飼育業などを採り入れた多角経営によって北都市場への接近をはかり︑利益をひきだすことに成功した ︒ところが ︑南部の農業人口と農業地域の殆んどは桶作に投入されていた oしかも縮作地域の苦境はもつとも深刻で ︑
問題の解決はもっとも困難なものであった o東部ノースカロライナから中央テキサスに至る桶花王国は ︑世界の桶花供給の約六〇%を生産したが ︑それは海外で売却された南部の十度物の約半分を占めた ︒縮花の価格は世界市場において決定されたが ︑競争条件の悪化は単一作物制度の欠陥を倍加した o
二〇世紀初頭 ︑小作人の数は減少し ︑クロップ・リーエン制度はその負担を軽減したかにみえたが ︑ 一〇年代に入リボール・ウィーブィルの虫害で荒廃し︑大戦後はポンド周
一十 い 大落以下へし一〇と由泰年はセ二一にンかセらトン︑ト
二〇年代の一般的物価騰貴の中で ︑桶作経営は破局に直面した o
一九一〇年から三〇年の時期に一①の棉作州において小作人によつて耕作された農場は五五・一%から六一・八%に増加した oとりわけ ︑白人小作人の増加は顕著であった o小農は借地人へ ︑さらにシエアクロツパーや賃金労働者に転落した oこの二〇年間に七つの桶作州における抵当額はほゞ四倍に達し︑抵当流れは銀行や保険会社の掌中に帰するところとなった o
しかも地主 ︑小作人ともにクレジツト・システムに依存していたために ︑金融上の隷属性は強化され ︑経営上の桂格に苦しんだ ︒土地 ︑建物 ︑家畜および機械によって保証されたプランターの長期借入額は桶作州におけるプランテーションの評価額のほ賢五〇%に及んだ ︒地主の殆んどが ︑作物を抵当に入れて銀行からの短期借入を行なつた ︒事実上 ︑すべての小作人は商人からの前借によって生計を維持した o 下乙二〇年に小作人の月当り家族平均一二 ︑八〇ドルの前借が約七ケ月に及んだ ︒そしてシエアクロツパーの年収入の一〇%以上が利息の支払にあてられ理 ︒
一‑ 40 ‑̲
‑ 4 1 ‑
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収入についての事例研究をみてみよう︒七つの州に散在していた六四五の典型的プランテーションにおける一九三四年の平均総現金収入は五千ドルを僅かに越えたが ︑自家消費の生産物の価格を含めた純収入は二千五百ドルにとどまった ︒同一プランテーションで借地人は家族平均三五四ドル ︑シェアクロツ
年収みただけであ〇ルのを瀬ド 一金労働者八三一二ル賃はタ くはド︱︑
o ︶
しかし ︑農民はこうした窮状にもかかわらず ︑打開の途を制度的改革運動にもとめるよりも︑むしろ農場から農場へ ︑あるいは農場から工場へ ︑そして再び農場へといった空間的移動のなかにもとめさ ︒南北戦争以来農場組織の墓場といわれる南部は一九二〇年代にファーマーズ・ユニオンを葬り︑地域全体にわたる効果的な農場組織を欠くに至った ︒ファーマーズ・ユニオンは ︑倉庫運動 ︑協同の構い想 ︑公教育および農村クレジットヘの寄与をなしたが ︑協同の失敗 ︑ 二一一オンの作付面積の減少と作物経営の不振 ︑され に大戦後のインフレーションによって急速に衰退し ︑新しい揚同運動にリーダーのエネルギーを吸収されてしまった ︒しかも小作制度による教育水準の低下と︑土地の涸渇︵
︲ 4
︶
は ︑
製 造 工 業 品 世の 界 市 場 制 覇 に 施 政 主の 眼 を お たい
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デ ィ ング
︑ ク
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= 典 型 的 に は マク ネ リ ホ・ ー ゲ 法ン 案 再の 度 拒の 否 に 示 さ れ た と= 相 倹 てっ
︑ 農 業 改 革 への 冷 を い よ い 困よ 難 な も
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︵・ 5︶
し て い た
︒
こうした北部資本による南部の工業化の推進とともに現出した南部の植民地状態と農業の窮状に伴う北部への隷属性・南部経済の苦境こそ ︑ 〃もしも一社会 ︑ 一セクション︑ 一人種 ︑ 一世代が工業主義の下にあえいでいるなら︑そしてそれが悪の分子であることをよく知っているなら ︑それを取り去る方法をみつけなければならない ︒⁝⁝それをしないのは臆病であ新庁と工業主義への敵意をむきだしにして ︑全南部の反抗をよびかけた十二人の高部人をたち上らせたのである︒
註︵1︶ Eo稼一一ヽJ● い︐い の日︐FF ﹃トヘ 晩やヽいヽやや トミヘヽ6sヽ
卜やは単oぶ驚 コも ∞CCII卜︼〇
︵2︶ ヽ寧ヽ単︶わ▼卜oや︱︑﹁即のくヨヽ費︶<やヽユ〇ヽい﹂ヽ︐Sヽ月ヽヘ
与やSらoミヽF︼∞ヽ中︱︻Φ︼︺Qす袋yx≡
︵3
︶ 十 州 と は パ
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T︐協チの3■︐ Foユ4DP く手∞︼ざ︼Zoユ■ Qい︼ユ︻やP
∽呂津o常阜ヨP命8損︻P>津営り獄をさす ︒
︵4︾ゴFE Z︻命すo中︻P晩oミきミやや 鳴ミきヽ﹂oヽ中 待力SSヽやミ
ヽヽoいヽ残争︵︻ooo︶やや的ポーや仰
︵5︶E C 句ユオコ9︼卜さいヽSさヽ8ヽSさ村ヽヽ﹂ちきヽゼ・き島や
ゃ∞ ●● ON●︱︱∞〇
︵6︶弓 ∪ OF︼庁仲 > ∪ パ■宅営メ 村ヽべ ﹄oミヽヽ 晩ヽヽR
卜ヽヽややミ革o和︼甲的oや
︵ 7
︶ 工 暑 洛 F
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営 毎
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・ へ
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ヽお﹂ ヽ≡ oo 卜﹃∞︱︱∞〇 ヽ将ヽ≡oや卜∞olあo・O 口 弓まαユ一 月ヽへ 出さへぶ的いヽ︑代
︵ヽ中︑ヘウさS晩Gミ単章︵︼CONVQヽsやヽミ
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H常α≡ oヽ いきt ●●・ 岸∞〇︱︲∞F︼出o∽り①申ユ① コα の中ユ︻oヽ︼o﹂ヽ・ へ車ド︼コ0・ 卜∞ЮII∞ω︒口rコ住D≡︼oヽ へ持t ●町 申∞ベー︲ふr
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︶
︵︲ 4
︶
︵︲ 5
︶
︵︲ 6
︶
一 ヴアンダ ービルト・アグラリアン
如上の現実に苦悩した南部人の間に強烈な歴史意識がよびおこされた ︒ 一九二〇年代から三〇年代の時期は ″南部ルネサンス〃の時期として把握されているが ︑それは単に文学や文芸批評の分野に限定されるものではなく︑第一次世界大戦後の南部あ古い伝統的秩序の急速な崩壊と現代的秩序の誕生という過渡期の歴史的現実に対する南部人の自覚を示す広汎な知的覚理を物語るものであ ︵範︒
大恐慌期に南部あ地域生活についての新しい二つの異質な見解があらわれた ︒ 一つは ︑ヴアンダービルトを中心とするアグラリアニズムで ︑他の一つはチャペル・ヒルを中心としたリジョナリズムであった ︒それらは共に学問的研
―‑ 42 ‑―
一‑ 43 ‑―
( 1 2 5 )
(124)
究を伴っていた o
前者は一九三〇年の十二人の南部人による﹃かく主張する︱南部とアグラリアンの伝統﹄の刊行によって大衆の注目をあつめた ︒これは ︑ 一 ︑工業化を意味する進歩についての近代的考えに反対して ︑二 ︑実証哲学を意味する近代科学の自負に反対して ︑二連発の銃火をあびた農村的美的についての巧みな讃美であり︑宣言の源は ︑南部の伝統的な在り方に手きびしい批判を加えたメンケン主義と南部の工業化を旗印としたアトランタ精神に反対し ︑残忍な変化の中に生き続ける南部の伝統の追求にあっ奄 o
他方 ︑後者はH・W・オーダムやR・B・ヴアンスを旗手としてあらわれた oそれは秩序ある工業発展と農業改革を期待し ︑そのための調査研究と計画が南部の物質的文化的ルネサンスの鍵をなすものと考 ︶え︑排他的セクショナリ
キ卒韓兜申れゲ鞄 靭 の統合を促進して国家にくみこみ ︑全国一家的な利益という大きな観点の中で多様化を考慮せんと
ここでは ︑アグラリアンの主張を前掲書によってみよう︒編者ランソンによれば ︑この書の狙いは ︑産業革命の前進によつて脅かされている南部のアグラリアニズムの伝統を擁護することにあった oわけても ︑南部自体のなかにアメリカの工業的理想の戦列に加担しようとするきざしのみえることへの反駿が彼らをして ︑たち上らせたのである︒工業主義の弊害は徹底的に糾弾された ︒工業の支配体制下で過剰生産 ︑失業 ︑富の分配での不平等の拡大に直面した ︒労働はきびしく︑そのテンポは猛烈で ︑一展億は不安定であり︑さらに労働節約手段の導入によつて労働は利潤追求にのみ産がれることになった ︒労働は隷属的ないし過酷なものであつてもうけいれられ ︑人間生活の幸福な機能としての労働行為の高貴さは看過された ︒消費についてみれば ︑飽満と無目的性を強制されている︒生産を消費に適合させ ︑価格を規制し︑景気変動から企業を守ろうとする統制委員会はいわばソヴィエト主義者の方式というべきである︒このような一社会では ︑宗教が隆盛をきわめることは期待できず ︑芸術も本来の生命を失い ︑人間と自然との関係
破は 壊 さ れ る
︒ ま た 人 間 と 人 間 と の 間 の よ き マナ
ー︑
応 待
︑ 家 族 生 活 や ロ マ テン ィ クッ な 愛 如の き 生 活 楽の し さ はそ
︵ 5︶
こ な わ れ る
︒ こ こ に み ら れ 如る く
︑ 自 然
と 人 間 調の 和
︑ 人 間 労 働
? 自 然 性
︑ 自 給
自 足 健の 康 生な 活 讃の 美
︑ 合 理 性 や 実 用 性
︵利 潤 追 求
︾ 対に す る 批 判 と し て の伝 統 的
な ︑
総 じ て 重 農 主 義 的 理 想 価と 値 観 が こ 宣の 言 基の 調 を な し て
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︒ ラ ン ソ はン
︑ 現 代 生 活 流の 転 と 不安 定 性 に 反 対 し
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サ・ ウ スの 安 定 性 と イ ス タブ リ ッ シ メ ン ト 存の 在 を 讃 え
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を 再 獲 得 す る た め 南に 部 人 南は 部 の セ ク シ ナ ョ ル 感な 情 を 昂 め
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脅 か さ れ て い る 古 生い 活 様 式 すの べ て 擁の 護 全に 力 を
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し ︑
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ラ リ ア のン 保 守 的 反で 工 業 のプ グロ ラ をム も てっ 民 主 党 を 激 励 す る よ う に よ び か け 屯 o 学校 教育 に つい て
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(127)
( 1 2 6 )
に否定し︑規制という形での妥協を許容できなかっ
アクラリアンは ︑ マス・コミニケーションによって大衆運動を目論んだが失敗し︑わずかにアメリカン・リヴュウとサザン・リヴユウの二誌に発表の場を得ただけであっd ギ
一九三六年にH・エガーとA・テートにより編集された﹃アメリカに寄与しているのは誰か﹄に寄稿したアグラリアンは ︑大きた財産に ︑より明確な攻撃を加えた oこの中でデビッドソンは ︑小さな財産をとりもどさせ ︑農業主義を助長し ︑行き過ぎた工業主義を抑制するものは ︑たとえどのようなものであってもヽ植民地状態の終結に寄与するものであると ︑のべ苺 ︒ランソンとリトルは ︑ヨーマツ ー
々々︲ ︲
を マ
如牢車弾 ↓ G︒M・ォドンヽ不ルは貨幣経済の大きな利潤追求のためにアグラリアン経済をかえりみないプラ
アグラリアンの意義は ︑現代工業主義の俗悪さと破壊性 ︑経歩の無目的性 ︑南部の伝統についての活発な議論をよびおこしたことにあら奄 ︑といえよう︒さらに重要なことには ︑彼らの伝統の追求は地域的同一性についての関心をよびおこした oそれに刺激されて ︑ 一九三四年に経済的政治的そして文化的な全南部の実況に関する﹃南部における文化﹄の刊行がなされた ︒しかし︑寄稿者の示した南部の生活の復雑性は監修者W・T・クーチののべる如く ︑農業対工業の対立という簡単な図式に南部の生活を遺元することのできない反証を示すものであっ沖
o ︶
富のために ︑快楽のために ︑威信のために ︑農業が指導的職業である社会が彼らの描いたユートピアであつた o伝統的な美点へのあこがれは ︑農業文化の礼讃とヨーマンを美化する神話をつくりあげた
o ︶
早くも宣言の翌年 ︑ ヘッセルタインは ︑農業文化とヨーマンの美化を根底から批判し︑現時点ばかりでなく︑高部の七クションの歴史全体を通じても ︑名声を博した詩人や宗教上の秀れた遺産の見当らないこと ︑学者 ︑思想家 ︑多くの軍人や政治家にも傑出せる人物の存在しないこと︑さらに大学も北部にくらべて劣つていること︑学校制度も後進的であることを列挙して反論した ︒メンケンはアグラリアンの無批判な正統主義を真向から攻撃しただ ︑V・J・
ロックの指摘にみられるように ︑アグラリアンの致命的が肺︶ フ ヽ ︑ ︑は ︑保守的逆行的ユートピアの構想にとどまり︑現実と正面から裏組んでいない高踏的批評に終始している点にある ︒ ヘッセルタインは ︑アグラリアンの誤りが南部の工業化の不可避を認識しながらも開発を拒んでいることにあると主張し ︑工業主義の現況への前向きの意識的な取り組にょって南部の明権な特徴を保持するように訴え ︑壊疑や反動の精神によっては何ら益することがない旨をのべた ︒
実際 ︑彼らは何ら改革の具体的提案を行っていないばか釣︶ ︑なネ 南部農業のなかで真に忘れられた莫大な数の二グロと白人シェアクロツパーに全く留意していないのである︒小農を援助する今日のプログラムに何ら実際的効果を及ぼさなかったばかりでなく ︑デビッドソンの如きは ︑小作人を自作農にする努力を放棄したのであ ︵だ︒テインダルののべるように ︑アグラリアンの運動の主要な皮肉は現﹁実から遊離していることであつた oこのた理 ︑彼らは嘲笑的批蜘﹂ うけ ︑工業主義
一 と
一 的美文化が高部においてより強↓ 日な地歩を築くにつれ ︑彼らのプログラムは信頼を失っていった︒
一証︵1︾
︵2︶
︵3︶
︵4︶
た の
Q く ゴざc↑D︻ユ 州ヽい ヽパ﹂Gユ︹蛍しきミヽ中争母Fもや
︻鷺︱醤 中革﹃ヽべ・9どミ革ミトヽさヘユSヽ中ミヽウきC くoやミ
o年げ︼> ∽ 口︻紫首∽S啓 含o費︼Y日一 ︼津ユユ一oヽ ユ中t● り﹃や
ヽけヽヽ3 一● u﹃o十1ミN
きヽ■均o一器︱︲露ヴアンスの作品として ︑ EEヨ営
句営Sあ︵督一一o︼︼Qユご8︵S蓮Y︑ミやや中やヽQヘミさヽご
ミヽ意弥思き︵B超︶を︑オーダムの作品として ︑卜ヽ
卜SSjヽ8ヽい ヽ古懸↑ 晩ミき母ヽや ヽoヽさ﹂き尽 ﹂料 ヽヽヘ
呈ミ きさ やヽ ヽ村 養ヽ ミ
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︵1 0
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︾ 前 者 発の 行 期 間
一九
三 十 三七 年 後 ︑ 者 は 一九 三
五 ︱
四 年二
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ニ
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ルイ ジ ア 大ナ 学
から
各 刊々 行 さ
れた
季 刊 誌
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( 1 2 8 )
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ト 会 長 は
︑ 農 民 は も は や 農 場 生 活 の 崇 高 さ を 語 ら な い
︑
と 書 い た
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■ 口
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爾 日
抑 え が た き 戦 争
ナッシュヴィル宣言に加わったF・L・オウズリーは ︑分軍歌筆の狙いを次のようにのべている ︒南部は戦争によって征服され ︑平和になって屈辱をうけ ︑困窮してのち精神的征服をうけ ︑北部の伝説で教育され ︑戦争犯罪 ︑奴兼犯罪 ︑坂乱の汚名をきせられ ︑その結果南部人の生活様式や生活信条への信頼をゆさぶられ ︑〃リンカンがユニオンを故ったと教育されたために ︑まさしく南部においても英雄視されてい石〃 ︒ ︶
〃この現実にかんがみて ︑南部が正しい認識に復帰するよう北部伝説の不当性に注意を喚起するものであ務ドと︒この章で ︑オウズリーは南北戦争において頂点に達した工業主義とアグラリアニズムの開争の物語を詳説し︑リンカンの英雄伝説に真向から挑戦した o全闘争を光りと闇 ︑真実と偽り︑奴隷と自由人 ︑自由と専制との闘いとし
一‑ 48 ‑―
一‑ 49 ‑―
( 1 2 9 )
M 測 握 す る 北 ヤ卦 用見 解
︑ わ け
ても
奴 隷 制 度 に 注 目 し た J F・
︐
ロー
ズ や J B︒
・ マ クッ スマ タ ー の 見 解 を 一開 し た
︒ 彼 戦は 争 原 因 に つい 複て 数 説 を 認 め な が ら も
︑ す べ て は 二 つ
︵ の
挽 ク シ ョ 間ン 基の 本 的 相 違 か ら 生 じ た と
し ︑
そ れ を 北 部 の 工 業 的 商 業 的 文 明 と 南 部 農の 業 的 文 明 と い 対う 句 で 表 現 し た o 十 ズワ リ ー に よ れ ば
︑ 南 部 農は 業 社 会 理の 想 情に 熱 を さ さ げ た が
︑ 元来 南 部 土の 地 と 天 候 農は 業 経 済 豊の か さ を 増 す の 適に し
︑ し
かも
入 植 者 の 殆 ん ど は
ヨー
マン
であ
たつ の であ る
︒ 新 世 界 環の 境 と 旧 世 界 の 伝統 が 結 び
つい
て ︑
南 部 は 農 業 文 明 の中 心 と な たっ が
︑ そ れ は ずい れ 文の 明 に も 劣
ら な 力い と 将 来 を 約 束 さ れ て い た の
であ
淀 o 戦 争 奴は
隷制
度 争を 点 と し 到て 来 たし ので はな
い ︒
リ カン やン シ ウュ
オー
やド 共 和党 急 進 派 奴は 隷制 度 と自 由 間の 開の 争 刻と す印 る こと
によ
てっ 開 にい 道 義性 衣の 着を せた そ ︒ れ 選は 挙 勝に つた め 偽の 購
であ
たっ 戦 o 争
は ︑
衆合 国 憲 法 定制 期 みに れら た
セク
シ ンョ 問 勢の 力 均の 衡
が ︑
合 国′衆 拡の
大と
成長 伴に
てっ 維 持
でき
なく
なり
︑ 社 会 特の 殊 な 制度
︵ を
奥 つ
一七
タ シ イョ 収を 奪 す かる
︑ さ も
なく
ば ︑
そ 積の 極的 利 益 のた め 政に 府 機の 能
を︵行
使
でき
なく
な たっ と こ ろ 生に じ
た ︒
業工 セ ク シ ンョ
は ︑
0 南 部 市の 場 独を 占 す る ため 高の 関 税 を
要求
←︱ れこ 高は 部 を犠 牲
にし
︑ 北部 が利 益 を
ひき
すだ た め 原の 則 であ
たっ O o 海 運業 や商 船
への
家国 補の 助 要を
求 ︱
← れこ は南 部搾 取 附に
加さ
れ
る ︒
e 鉄 道 運・ 一刊 道︒ 路
など
国内 交 掃あ 連邦
費の 用
によ
改る 善 要を
求 ︱
← れこ 工は 業製 品 南の 部
およ
び 部西
への
輸送 を 国費 すで
るも
中守 却説 却囃 柳 町
統の 一制 す 銀る 行 賛に
成 ︱
← れこ 北は 部 だけ 要の 求 であ
たっ 等 o 掲を げ
た o
れこ ら は南 北 間 利の 益 の
セク
シ ンョ 間 争の にい 油 とを いだ がの 奴 隷 制度 の問 題 であ
たっ 綿 ︒ 繰機 発の
明と
南 部西 に けお 桶る 作 地 拡の 大
は ︑
ニグ
奴ロ 隷 大を き 利な 益
をも
たら
経す 済 的 段手 と たし o プ ラ タン ー 数は 年
のう
ち に巨 額 富の を
つく
たっ 桶 o 花 王国 の
( 1 3 0 )
成立は農業セクションにダイナミックな力を与え ︑常に新しい耕地を渇望せしめた ︒これに対して北部は ︑もしも南部の奴隷制が西部の土地に拡大されるなら勢力の均衡を失い ︑利益の損われるのを恐れて ︑反対の挙に出た ︒ギャリソンや反奴隷制協会 ︑さらに牧師たちも奴隷所有者を告発し︑非難の限りをつくした oこれに応えて ︑南部は聖書による奴隷制度の正当化にとどまらず ︑ ハモンド︑フイツツフュー︑カルフーン︑ ハーパーおよびデューらはフィリップスが南部史の中心テーマと呼んだ人種問題という立場から奴隷制度を正当化し ︑また経済的必要から擁護した ︒准州への奴隷制唐あ拡大をめぐって ︑アボリショニストの攻撃とこれに対する南部の憤激がみられ ︵だ ︒
その上 ︑両セクションは奴兼制度がなかったとしても ︑それ自身の制度や連邦政府に対する要求を弁明し ︑正当化する各々の政治思想を発展させていた o州権論は奴隷制度を擁護するための防御機構ではなく︑工業的商美的北部の搾取と侵略に対する農業社会のとりでであり︑南部内部における地域的利益を擁護するものであった o州と連邦との間の権力の厳格な分割論の立場にたつ南部は ︑保護関税 ︑船舶補助金 ︑国立銀行および連邦支出金による国内交通改善の如き立法を促す憲法解釈に反対した ︒北部とは対照的に ︑南部の農業社会は他の地域の犠牲を求める何らの積極的プログラムを要求しなかった ︒相反する経済的社会的制度から生まれた二つの政治思想を和解させることはできなかった oこうした状況から定着した生活信条は相食をもので一抱れ た ︒北部の急激な成長によって南北の均衡がくず力 ︑リンカンが選出されるや ︑北部との協力関係を断ったのである︒と︒
防れ ズリ︲は ︑南部が北部に政治的 ︑経済的さらに結≡神的に隷属し ︑北部の独善的 ︑偽善約判断に追従している不当性を南北戦争にさかのぼって糾弾し︑奴隷制経済の第一迫 ︑アリストクラシーの支配を否定して ︑南部社会の内部的戦争原因を払拭することにより︑高部の道義的正当性を訴えたのである︒
ところが北部が生んだ神話に代って ︑理想化されたアンテ・ベラム文明の神話がつくられた ︒南北戦争と再建をめぐる衝突と幻滅 ︑二十世紀南部の現実に対する失望は ︑南部をユニオンに調和させるどころか ︑かえつて勝者北部に
蟻 一‑ 50 ‑―
‑ 5 1 ‑ ( 1 3 1 )
対する鋭い反動をみちびいたの
されているのである︒事実 ︑ビ
的 多 様 性 欠 を せ 落 め し
﹂ だ て
o
あ る
︒
一証︵1︶弓ュく①のor市︐命一置思あ︼0ヽ いき≡O op
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︶ きミ f
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︶ き ごミ や 畠
︵4︶ ︑はヽミ︼o 一や
︵5︶ ︑事ヽミ≡o o
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︶ S ミ
︼0 口 S I さ
︵7
︶ き ヽ■
oや
ざ︱
ムナズ破壊的セクシ五 利己的リョ ぎ
﹃抑えがたき戦争﹄にみられたオウズリーの志向は ︑ 一九四〇年代の一連のグループ研究の方向を予示していた oォゥズリー夫妻の﹃レート・アンテベラム南部における社会の経済的基礎﹄を皮切りにヴア/ダービルト・グループの統計的研究が次々と発表され淳 メしかしヽそれらは大学院においてオウズリーがうちだした一つの南北戦争史観を背景にしていたのであり︑原因論の構築をなすものであった o
﹃抑えがたき戦争﹄の出版から十年余りの歳月を経た一九四一年にオウズリーは ︑﹃南北戦争の基本的要因﹄を発表し ︑南北戦争史観を一層明確に示した oこの中で彼は ︑ 〃戦一争が人民の人民による人民のための政治が地上から消減しないように聞われたという演説の本質的見当ちがい牽をつき ︑ 〃南北戦争は ︑自由政府や個人の自由を破壊せん
であ
る ︒
オ ウ ズ リ ー の南 北 戦 争 民観 に
は ︑
失 なわ れ 大た 義 が
いよ
いよ
か た く な 把に 持 リ
ント
ン 指の 摘 す る
よう
に ︑
オ ズウ リ ー は南 部 と
アグ
ラ リ ア ズニ
ムと
を 同 一視 し
︑ 内 就 中
︑ 南 部 内 部 の 緊 張 関 係
︑ 奴 隷 制 度 の も つ意 味 全は く 視 角 か ら ずは
さ れ て い る の で
︵8︾きミ︼唱さ︱賢
︵9︶きミヽ唱・蟹︱輯
︵1 0
︾ ヽい﹂ヽ甲oド
︵1 ︲
︶ プ ラ タン ー 支の 配 す る ア ー ー
いった理解 ︒
︵︲ 2
︶的とまいSPoトユ■●甲≡︱や
︵・ 3
︶ ヽいヽ単・甲p ストクラティックな南部と