明治初 期 にお け る英 学の 研究
清
永
貞
助
は し が き 徳 川 幕 府 が 行 きづ ま って 来 た時,た ま た ま強 大 な外 圧 が 加 え られ,日 本 が 世 界 史 の流 れに ま き こまれ た。 幕 府 に代 り た維 新 政 府 の政 策 内容 。方 向 は世 界 史 の必 然 性 の 流 れ に沿 って流 れ た 。新 政 府 は 国家 の独 立 維 持 と資 本 主 義 体 制 め急 速 な確 立 め だめ に,外 圧 を巧 み に利 用 して,西 洋 の 近 代 兵器 ・兵 制 を取 り入 れ,き らに英 国 を 中心 と した西 洋 の先 進 国 の主 業 力 ・文 明 ヵ を積 極 的 に利 用 して,わ が 国の 近 代 化 を図 ろ うとし た。 そ の 近 代化 の 指 導 者 と して多 くの外 国人 を招聘 した。 ま た封 建 時 代 の身 分 の枠 を越 え て人 材 を先 進 国 に留 学 きせ た り,先 進 国 の学 校 体 系 の移 殖 を図 った り,指 導 的 人 材 の確 保 ・養 成 に異 常 な 努 力 を払 った 。 当 時蘭 学 は衰 え,洋 学 は英 ・独 ・仏 そ の他 に 多様 化 してい だ が,七 つ の海 を支 配 して いた英 国 の 国 力 を反 映 して,英 学 が最 も優 勢 で あ った 。英 学 に通 じて い る こと は,身 分上 昇 の 飛 躍 台 で あ った 。 天下 の俊 秀 は こぞ って英 学 を学 ん だ。 世 は ま さ に英 学万 能 の感 が あ った 。 明治 維 新 の 大 業 は な っ て も,明 治4年 の 廃藩 置 県 以 前 は 新 政 府 の威 令 の行 な われ る と ころ は,旧 徳 川 幕府 の直 轄地 に す ぎ な か っ た 。 した が って,明 治5年 の学 制 頒 布 ま で は,新 政 府 お よび各 藩 が そ れ ぞ れ の立 場 で富 国強 兵 策 を行 って い た の で,英 学 も質 量 と もきわ めて 多 様化 され て い た 。 従 来 の英 学 史 は ほ とん ど文 法 ・辞 書 ・文 学 ・翻 訳 ・教 育 とい った分 類 別 に あ るい は 書誌 学 的 に あ るい は文 献 学 的 に研 究 され て きた 。 本 論 は,政 府 お よび 藩 の 教 育機 関 お よ び私 塾 な どに お い て い か に英 学 が学 ば れ て い たか を,そ の 英学 が 当 時 の社 会 にい か な る意 味 を もっ て い たか に ふ れ っ っ,歴 史 的 に捉 え,そ の歴 史 的 意 義 を明 か に し ょ うと した もの で あ るが,浅 学 に 一26=明治初期 におけ る英学 の研究 加 えて,時 間 的 ・経 済 的 制 約 の た め に,関 係 資 料 を じ ゅ うぶ ん に検 討 す る こ とが で きず,さ だ め し誤 謬 も少 くな い もの と思 って い る。
暮 末 の 英 学
鎖 国 禁 教 以 来,西 洋 の書 籍 は一 切 輸 入 を禁 止 され た。 長 崎 の通 詞 の なか に は実 際 蘭 学 を学 び蘭 書 を読 む こと の で き る者 も少 くな か っ たが,表 向 き は,た だ通 訳 の た め に オ ラ ン ダ語 を習 うこ と しか 許 され な か っ た。 その 後 享 保5年(1720年)に 欧文 の 書籍 も技 芸 等 の書 物 で,宗 教 に 関 係 の な い も の は輸 入 が 許 され た。 しか し,幕 府 は オ ラ ンダ以 外 の 西 洋 諸 国 との 通 商 を 許 さ なか っ た の で,欧 文 の書 籍 とい って も蘭 書 に限 られ て い た 。 そ こで い わ ゆ る蘭 学 が起 り,次 第 に発 達 して行 っ た。 18世 紀 の終 りに は,ア メ リカの独 立(1783年),フ ラ ンス大 革 命(1789 年)と い う世 界史 的大 事 件 が 相 つ い で 起 り,イ ギ リス で ぽ この少 し前 に産 業 革 命 が は じま っ て世 界 の工 携 の 地 位 を獲得 して い た。 そ し て オ ラ ン ダの 制 海 権 は衰 え,イ ギ リス が 海 上 の覇 権 を握 り,東 洋 に進 出 し,文 化5年 (1808年)に は英 艦 フ ェ ー トソ(Phaeton)号 事 件 が 起 り,幕 府 は 英 語研 究 の必 要 を感 じて,翌 年 和 蘭 通 詞 に英 語 を学 ぼ しめ た。 これ が わが 国 に 畑 け る公 式 の 英 語 学 習 の は じま りで あ る。 その 後 ヨ ー ロ ッパ,ア メ リカ の先 進 諸 国 で産 業 革命 が進 み,市 場 を求 め て来 航 し,開 国 を迫 る 国 が多 くなf 幕 府 は 米 。英 ・露 ・蘭 ・仏 と修 好 通 商 条 約 を締 結 す るの や む な きに い た っ た。 こ うして,洋 学 は外 交 上,国 防 上,教 育 上 蘭学 の み でな く,英 ・仏 ・ 独 ・露 語 の学 問 に分 化 して 行 った 。 特 に英 語 は 当時 の英 国の 国 際 的 地位 を 背 景 に実 用 価 値 が 高 く,そ の 必要 が 痛 感 ざれ,幕 府 の 最 高 の 教 育 。研 究 機 関 で あ る開 成 所 にお い て も,慶 応 年 間 に は大 勢 は英 学 に 移 った 。幕 府 が安 政5年(1858年)長 崎 英 語 伝 習 所 を設 げ る と,薩 摩 藩,佐 賀藩 を は じめ と して 各藩 の な,かに も,英 学へ の転 向が見 られ た。 また福 沢諭吉 の慶応義塾9・ 近 藤 真 琴 の攻 玉 鸚 伊 東 保 義 の伊 東 民 塾 な ど英学 を教 授 す る私 塾 が 設 立 き れ た。 幕 府 俵 ま た西 洋 文 明 の現実 を体 験 し,こ れ を じゅ うぶ ん に理 解 し, 27一"明 治初期 における英学の研究 日本 へ 移 植 す る必 要 を感 じ,万 延 元年(1860年)か ら慶 応3年(1867年) の 間 に,7回 の遣 外 使 節(う ち遣 米2回,遣 英1回,遣 仏2回,遣 露1回, 遣 欧1回)を 派 遣 して い る。 ま た 慶 応 元 年(1865年)に は6名 を ロ シャ へ,翌 年 開成 所 か ら中 村 敬 輔,箕 作 奎吾,菊 池 大 麓 等14名 を英 国へ 留 学 せ しめ て い る。 そ の ほか に長 州 藩 で は 文 久3年(1863年)井 上 馨,井 上 勝, 伊 藤 博 文 等5名 を,薩 摩 藩 は それ か ら2年 遅 れ て慶 応2年 に家 老 新 納 刑 部, 五 代 友 厚,寺 島宗 則,森 有 礼 等19名 を英 国 に 留学 させ て い る。 この ほか に 新 島襄 の よ うな 密航 留 学 生 もい る。 明 治6年 新 政 府 は,留 学 生 や 密 航 海 外 留 学 者 の総 引揚 げ を行 な っ たが, そ の時,イ ギ リス に14名,オ ラ ソダ に3名,フ ラ ンス に6名 い た と記 録 さ れ て い る。 ア メ リカに は200名 近 くい た らしい 。 これ らの人 々が,新 政 府 の要 職 に つ き,新 時 代 を指 導 し,直 接 間接 英 学 の 発 展 を もた らし た こ とは 測 りしれ な い ものが あ る。 英 学 の 研 究 に は辞 書 や文 法 書 が 必要 で あ り,い く冊 か の辞 書 ・文 法 書 が 編 纂 され た 。 そ の うちで,わ が 国 の英 学 史 上 特 筆 大 書 す べ き もの で あ り, 明 治 に い た って も使 用 され た もの は,文 久2年(1862年)江 戸 の 洋 書取 調 所 か ら出 され た堀 達 之 助 ・堀 越 亀 之 助共 編 「英 和 対 訳 袖 珍 辞 書 」 通 称 「開 成 所 辞 書 」 お よ び安 政 の頃 出版 され た 手塚 律 蔵 ・西 周 助 閲 厂伊 吉 利 文 典 」一 俗 称 「木 の葉 文 典 」 で あ る。 さ らに注 目す べ き こ と は,文 久 元 年 に 邦文 も含 め て最 初 の 新 聞7舵 NagasakiShippingListandAdvertiserと い う英 字 新 聞 が創 刊 され, 維 新 ま で に,さ らに6紙 が発 刊 され て い る。 新 聞 よ り1年 お くれ て文 久2 年 に は わ が 国最 初 の英 文雑 誌The/spanP鰯 罐 が 出 版 され,維 新 まで に ほ か に2誌 が創 刊 され て い る。 以上 は幕 末 の英 学 につ い て 述 べ た もの で あ るが,こ れ に よ って,当 時 す で に,西 洋 の 近代 科 学 の摂 取 の必 要 が 痛 感 され て い たが,そ れ を じゅ うぶ ん に咀 嚼 し うる人 材 が少 なか った こ とが 明 らか で あ る。 明治 元 年 政 府 直 轄 の学 校,諸 藩 の 学校,郷 学,私 塾,寺 小 屋 の 合 計 は約1万 に の ぼ り,教 育 一28一
明治初期 における英学の研究 が相 当 に 普 及 し て,施 設 の面 で も人 的 の 面 で も,近 代教 育 へ の移 行 は たい し た困難 もな く行 な わ れ うる素 地 が で きて い た こ とを もそ え て お きた い。
西欧志向的教育政策
明 治新 政 府 の担 当者 は,藩 幕 体 制 的秩 序 を打 破 して,近 代 的 国 家 体 制 を 確 立 し,欧 米 の資 本主 義 列 強 の強 大 な る圧 力 の も とで,い か に して 日本 の 対 外 的 独 立 を確 保 して 行 くか とい う難 問題 の前 に立 た され て い た の で あ る。 尊 王壞 夷 か ら開 国へ の 目ま ぐる しい 変化 は,欧 米 先 進 国 の 評価 を軸 と して 転 換 して い る。 薩 英 戦 争 お よ び長 州 藩 の英 ・仏 。米 ・蘭 の 連合 艦 隊 との砲 撃 戦 は,資 本主 義 諸 国 の 軍 事 力 とわ が 国 との軍 事 力 お よ び その 背後 の 文化 と産 業 の 落 差 を ま ざま ざ と示 した 。 自国 の強 化 ・防 衛上,好 む と好 ま ぎ る とにか か わ らず,西 洋 文 明,こ とに産 業 ・技 術 ・軍 備 とい った物 質 文 明の 新 知 識 ・技 術 を吸 収 し,移 植 す る教 育政 策 を と ら ぎ るを えなか った。 新 政 府 の 教 育 が 旧幕 藩 体制 の指 導 原理 で あ っ た儒 学 を否 定 して,西 欧,こ とに 当 時 の最 強 国英 国,志 向 の方 向 で展 開 され た の も当然 の推 移 で あ る。 後進 国 で あ るわが 国 が西 欧 の最 高 の知 識 ・技 術 を備 え た人 材 養 成 が 急 務 で あ る こ とが わ か って い て も,そ うい う人材 を養 成 し うる教 育 機 関 が 存在 して い な か った。 そ うい う時 点 にお い て は,先 進 国 の学 校 体 系 を移 殖 して, 初 等 ・中 等 ・高 等 とい う教 育 体 系 を通 して人 材 を養 成 して は,ど ん な に急 い で も最 低15年 はか か る。 最 も手 っ と り早 い方 法 は,高 度 の知 識 ・技術 を そな えた 人 を先 進 国 か ら招聘 す る こ とで あ る。 つ ぎは 先 進 国 へ 留学 生 を 送 る こ と で あ る。 わが 国 は この三 つ を 同時 に採 用 して,政 治 ・経 済 ・教 育 その 他 あ らゆ る分 野 に お い て 急速 な近 代 化 を推 進 す る と と もに,近 代 化 の 前 衛 とな る人 材 の 養成 に つ とめ た。 西 欧化 の 代表 的 イデ オ ロー グ福 沢 諭 吉 が 中 津 藩 の 厂足 軽 よ りは数 等 よ ろ しい け れ ど も,士 族 中 の下 級(1)」の次 男 に生 れ な が ら,文 字 通 り歴 史 的 人 物 に な った の も,高 橋 是 清 が下 級 武 士 で あ る3人 扶 持 の家 に生 まれ な が ら 大 蔵 大 臣 に な った の も,英 学 を習 得 す る ことに よ っ て,因 襲 的 な社 会 か ら 一29一明治初期 におけ る英学 の研究 、._ 離 陸 し て文 明開 化 の リー ダー に な っ た た め で あ る。 明 治 維新 は 価値 尺 度 の 変 革 で あ っ た。 儒 学 を究 め て い るよ り も,初 歩 的 な もの で も西 欧 の 知 識技 術 を持 って い る こ とが 必 要 で あ った 。 そ れ で官 公 立 の学 校 で も私 立 の 学校 で も,儒 学 を否 定 して 英 学 志 向 の 教 育 方 針 に転 換 し,「 四 書 か らバ レー万 国 史」 が,当 時 の教 育 機 関 の 基 本 的 な パ タ ー ソに な っアこn
藩学における英学
藩 学 の 目的 が 士族 に対 す る教 養 の伝 達 か ら,幕 末 に至 っ て社 会 的 に有 用 な人 材 の育 成 に転 換 す るに つ れ て,教 科 内容 も変 化 した 。従 来,藩 学 は そ の 目的 か ら,朱 子 学 中心 の構 成 で,四 書 ・五 経 は 必 須教 科 書 で あ っ た。 社 会 的 に 有用 な 人材 とは,藩 の 財政 窮 乏 を救 い,外 圧 か ら藩 の 独 立 を保 持 し うる指 導者 で あ った。 従 って 教科 は殖 産 興 業 と富 国 強 兵 に最 も有効 な 西欧 の 知識 ・技 術 に 変 っ た。 そ し て英 国 の 国 力 を反 映 して,慶 応 年 間 に は 大勢 は 蘭学 か ら英 学 に移 っ た こと は既 に 述 べ た通 りで あ る。 な か で も佐 賀 藩, 鹿 児 島 藩,高 知藩,熊 本 藩,萩 藩(2)では 比較 的早 く英 学 が 起 った 。 明 治 にな る と英 学 は ます ます 多 くの 藩 で採 用 され た。 加 賀 藩 では,明 治 元 年,「 当 節 に至 り候 て は洋 学 に も亙 り宇 内 の形 勢 事情 に も通 達 不 致 て は 不 相 成 儀 に付(3)」とい う理 由 で,英 仏 学 を授 け るた め に道 済 館 を新 設 した が,翌 年 に は,生 徒増 の た め に,さ らに捐 注 館 を設 け て,こ こを英 学 伝 習 場 とし ナこ。 翌 明治3年 従 来 数 ケ所 に分 散 して い た藩 学 を,洋 学 を 目的 と し た東 校,皇 漢 学 を 目的 と した 西校 に 吸収 統 合 した 。 そ の後 東 校 と西 校 は合 併 して金 沢 中学 校 とな り,英 国人 サ イ モ ン ス ソを 招 い て,英 学 を教 え させ た 。 大 政 奉 還 に よ って七 十万 石 の一 大 名 に転 落 した徳 川亀 之 助(家 達)は 静 岡 の城 主 を仰 せつ け られ た 。 静 岡藩 は 明治 元 年11月 静 岡学 問所 に お い て洋 学 教育 を始 め た。 フ ラ ソス 語 を主 と し,英 語 ・蘭語 ・独 逸 語 を 副 と した も の で あ った 。 明治2年9月 の 「静 岡藩 官 職 史 員 改 正概 略 」 に よ れ ば,同 所 教 授 陣 は次 表 の通 りで あ る。 一30一明治初期にお ける英学 の研究 小参事学校 係 一 等 教 授 二 等 教 授 向山黄邨 河 田獺
臟 蒹 醐 真郷
漢 漢 漢 漢 中村敬太郎 宮原寿三郎 外山 捨八 長谷 部甚弥 漢 仏 仏 羅 望肪 一郎 長 田鍾太郎 田中周太郎 英 英 名村五 八郎 堀 越五 郎乙 明治4年10月 か ら米 国 宣 教 師E.W.Clarkが 物 理,化 学 の 教 師 とな ら た 。 この学 問所 は,江 戸 の 開成 所 ・昌平 黌 の漢 学,横 浜 の 語 学 所 が 合 体 し て成 立 した よ うな もので あ り,教 授 陣 も蔵 書 も,す べ て これ を継 承 した も の で,ま こ とに壮 観 を極 めて い た 。 教 科 書 は原 書 を使 用 して地 理 ・歴 史 ・ 数 学 等 を講 じ,生 徒 は洋 学 約250人 で,う ち英 学100人,仏 学50人,蘭 学20人,独 学80人 で あ った 。 熊 本 藩 は 明治 元 年,岡 田 摂 蔵,野 々 口為志 を教 師 と して洋 学 所 を開 設 し た が,藩 政 改 革 で,一 旦 休校 し,3年11月 復 興 し,翌 年7月 宣 教 師 フ ェ ル ベ ツキ(Guido.F'ridolinVerbeck ,1830-1898)の 推 薦 に よ って,米 国 陸 軍砲 兵 大 尉 ジ ェ ンズ(Capt.L.L.∫anes)を 招 い て英 語 を教 え させ た 。 生 徒 は1年 後 に は英 語 が 自由 に話 せ るよ うに な っ た とい われ る。 ジ ェ ンズ は熱 心 な ク リス チ ャ ソで,キ リス ト教 的 感 化 も大 き く,生 徒 た ち は 日本 の 精 神的 革 正 を 唱 えて熊 本 ノミソ ドを組 織 す るに い た っ た。 彼 は また 農学 者 で, 養 蚕飼 育 法 を伝 え,荒 蕪 地 開 拓 法 を教 え,米 国 の農 具 を輸 入 せ さ た り し た。 農 学 博 士 横 井 時 敬 は農 学 上 の門 下 生,海 老 名 弾 正,徳 富 猪一 郎 な どは 宗 教 上 の門 下 生 で あ る。 彼 は在 職5年,の ち に大 阪 洋学 校,京 都 の第 三 高 等 学 校 の 教 師 に招 か れ た 。 この他 明治 元 年 に は 山 口藩 の博 習 堂 に て,明 治2年 に は 久 留米 藩 の 明善 堂 に て,翌 年 に は 名古 屋 藩 の洋 学 校 お よ び岸和 田藩 の文 学 館 に て,明 治5 年 に は盛 岡 藩 の修 文 所 に て英 語 を教 えは じめ るな ど,英 学 は い よ い よ盛 ん に な って,英 米 人 を迎 え て正 則 に英 語 を 教 え る と ころ も少 くなか った 。 当 時 の藩 校 で使 われ た 教 科 書 は大 同小 異 で あ ったが,ア メ リカの もの が 一31一明 治初 期 に お け る英 学 の研 究 多 く,綴 字 書 で は ウ ェ ブ ス タ ー の ス ペ リ ン グ ・ブ ッ ク,読 本 は ウ ィ ル ソ ソ, ユ ニ オ ソが 多 く,文 典 で は ク ワ ッ ケ ン ボ ス,ピ ネ オ,モ ー レ ー,歴 史 で は パ ー レ ー や ホ ワ イ トの 万 国 史,ク ワ ッ ケ ン ボ ス の 米 国 史,グ ー ト リ ッ チ の 英 国 史,同 米 国 史,ビ ー ム の 英 国 史,同 ロ ー マ 史,ピ ン ノ ッ ク の 仏 国 史, 地 理 は ゴ ー ル ドス ミス や コ ル ネ ル や ミッ チ ェ ル,チ エ ソ バ ー の もの,窮 理 書 は ク ワ ッ ケ ン ボ ス や ノ ル ト ソ の も の が 多 く,チ エ ソ バ ー や ノ ル ト ソ の も の も あ っ た 。 会 話 は ハ ソ テ ル ベ ー ル,修 身 書 と経 済 書 は ウ エ ー ラ ソ ド,動 物 学 は ウ ー ド(4)の もの が 用 い られ た 。 こ うい う原 書 を 素 読 ・会 話 ・輪 読 に よ っ て 教 授 し た 。 以 上 の 藩 黌 は 明 治4年7月 の 廃 藩 置 県 に よ っ て 一・時 閉 鎖 さ れ,翌 年8月 の 学 制 頒 布 に よ っ て 廃 校 に な っ た も の も あ り,中 学 校 に な っ た も の も あ る。
文部省の成立
明 治 元 年2月 新 政 府 は学 校 掛 を設 け,学 舎 制 案 を作 成 させ ナこ。 「明 治 二 年 七 月 に は,大 学 に対 して 教 育統 轄 機 関 と して の任 務 を担 当 させ,そ の た め に 大学 別 当,大 監 等 が 任 命 され た 。 この よ うに大 学 が学 校 を管 理 し た時 代 に は,東 京 に:おけ る大 学 東 校,大 学 南 校 を 管轄 した こ とは もち ろ ん,天 文 暦 道 ・図 書 出 版 ・大 阪理 学 所,函 館 病 院 ・大 阪 府 立 医学 校 同病 院 ・長 崎 、医 学 校 同病 院 ・高 知 藩病 院 ・売 薬 取 締 の こと等 を管 轄 して い た 。 ま た 明治 二 年 に しば ら くの 間 で は あ っ た が,府 県 学 校 取 調 局 が 大学 内 に設 け られ, 新 政 府 に直 属 した府 県 の学 校 施設 お よ び そ の指 導 に当 る こ と にな った の で あ った(5)」この仕 事 は間 もな く民 部 省 に移 され ナこが,行 政 を行 使 で きるの は,新 政 府 直轄 の府 県 のみ で,藩 の 学 校 に 対 して は監 督 は で きなか っ た。 これ は教 育 ばか りで な く,行 政 全 体 につ い て い え る こ とで あ った。 これ で は到 底 統 一 した 政 治 を行 ない,明 治 維 新 の 目的 を 達成 す る こ とは で きなか っ た。 さ らに一 歩 を進 め て廃 藩 が絶 対 必 要 で あ る とい うの が,当 時 の要 路 に あ る者 の意 見 で あ った 。政 府 もつ い に意 を決 し廃 藩 置 県 を 断 行 した 。 そ して 明治4年7月 大 政 官 布 告 を も って大 学 を廃 して 文 部 省 が お か れ,全 国 一32明治初期 におけ る英学の研究 の為 政 を統 轄 す る中 央 教 育 行 政 官 庁 と な った 。文 部省 が創 立 され て間 もな く,文 部 省 は 同年12月23目 開化 二隆 ク文 明 月 二盛 二人 々其 業 二安 シ其 家 ヲ保 ツ所 以 ノ者 各 其 才 能 技 芸 ヲ生 長 ス ル ニ由 ル是 学校 ノ設 ア ル所 以 ニ シ テ人 々学 ハ サ ル ヲ得 サ ル 者 ナ リ… …(6) とい う布 達 を出 し,国 家 が 国民 に 対 す る教 育 の責 任 を果 た す た め に,進 ん で 諸 学 校 を施 設 して,国 民 を開 明 の域 に達 せ し む る諸 方策 を推 進 した。
政府直轄の学校
新政 府 が,明 治維 新 直 後,最 初 に実 施 し よ うと した の は,列 強 に伍 して 行 くた め の 指導 者 養 成 を 目的 と し た大 学 創 設 で あ った。 東 京 ・京 都 に大 学 を設 置 し て,こ れ を新 時 代 の エ リー ト養成 の機 関 とす る と と もに,東 西 両 地 方 のす べ て の学校 を この 大学 に 統轄 させ る こ とで あ った 。 京 都 で は,ま ず 明 治 元年 学 習院 を復 興 し,大 学 寮 と改 称 した が,大 学 設 置 ま で に は いた らな か った。 東 京 にお い て は 明治 元年6月 洋 医学 の機 関 で あ った 医 学 所 を再 建 し,つ づ い て,昌 平 校 を復 興 して 昌 平学 校 と改称 し, 学 問 の 中 心 と しよ うと計 画 した。9月 に は洋 学 の 中心 で あ った開 成 所 を復 興 した。 政 府 は9月16日 教 育 に関 す る令 を下 して 一 団体 ヲ弁 シ名 分 ヲ正 ス ベ キ事 一・ 漢 土 西 洋 ノ学 ハ 共 二皇 道 ノ羽 翼 タル事(7) とい い,大 い に洋 学 を奨 励 した 。 これ で,教 育 に対 す る当 時 の考 が よ くわ か る。 す な わ ち,教 育 の 本 質 は 国 学 の 講究 を主 とし,漢 学 の 研 究 を従 と し,西 洋 の格 物 究 理 の 学 を授 け る ことを そ の羽 翼 と して い る。 こ うして, 徳 川 時 代 の学 校 にお い て第 一一の地 位 を 占 め てい た漢 字 は国 学 に 従属 す るに い た った の で あ る。 開成 所 は一 ツ 橋外 護 持 院 ケ原,す な わ ち も との 開成 所 の 跡 に た て られ た 。 明 治2年6月15日,従 来 昌 平 学校,開 成 所 お よ び医 学 所 は 各 独 立 して い て,3校 間 の連 絡 が不 十 分 で あ った の で,3校 を総 合 ル て大 学 校 と し,昌 平 学 校 を そ の根 幹 とし,医 学所 ・開成 所 は と もに そ の 一33一明治初期 にお ける英学の研究 分 局 とせ られ た 。 同年12月17日 自今 大 学 校 ヲ大学 ト改 称 開成 所 ヲ大 学 南 校 医 学 所 ヲ大 学 東校 ト可称 事(8) とい う御 沙 汰 が 太政 官 か ら あっ た。 この改 称 は開 成 所 は神 田 錦 町 に あ って 旧 昌平 黌 跡 に あ る大 学 本校 か ら南 に 当 り,医 学 所 は下 谷 和 泉 橋 近 くに あ っ て大 学 本校 の東 に当 った か らで あ る。 開成 所 は一 時 出版 警 察 事 務 を も行 って お り,ま た大 学 南 校 にな って か ら, しば ら くの 間翻 訳局 も併 設 され るな ど,複 雑 な性 格 を もっ て い た。 明 治2年 正 月 に は 人材 登 用 の た め に士 民 皆 昌平 ・開 成 の2校 に入 る こ とを 許 した。 政 府 が新 時 代 に 必要 な人 材 を積 極 的 に養 成 し よ うとい う構 え が見 られ る。 当時 は一 口に士 族 とい って も士 族 内部 に は厳 重 な 身 分 差 が あ り, 上 級 士 族 と下 級 士 族 との 問 には 士族 と農工 商 と 同 じ程 度 の身 分 的 な距 離 が 存 在 して い た 。 そ れが 学 問,こ とに 英 学 に お い て優 秀 な成 績 を あ げ る こ と に よ っ て身 分 にか か わ らず,地 位 上 昇 が 可 能 に な った。 これ は下 級 士 族 や 進 歩 的 な庶 民 に大 きな希 望 を与 え,才 能 もあ り,意 欲 もあ る人 材 を これ ら の学 校 へ 吸収 す る ことが で きた。 明治 初 年 す で に教 育 の機 会 均 等 と,学 歴 主 義 が す で に芽 ば えつ つ あ った の で あ る。 大 学 南 校 は 明治 元 年 中 浜 万 次 郎 を 中 博士 に任 じ,明 治2年1月 に は仏 人 プー セ ー,英 人 ノミー リー(9)を招 い て,英 ・仏 の学 科 を設 け,外 国 人 教 師 が 外 国 語 を もって 教 うる もの を正 則 と し,邦 人教 官 が訳 読 に よ って 教 うる も の を変 則 と した。 同年4月 に は米 人 フ ルベ ツキ を英 語 学 お よ び学 術 教 師 に 採 用 した。 フ ルベ ツキ は オ ラ ン ダ系 ア メ リカ人 で,宣 教 師 と して安 政6年 (1859年)来 日 し,布 教 の か た わ ら,長 崎 ・佐 賀 で英 語 ・政 治 ・経 済 ・理 学 を教 え,そ の 門下 か ら大 隈重 信,福 島種 臣,江 藤 新 平,大 木 高 任,伊 藤 博 文,大 久 保利 通,横 井 小 楠そ の 他 多 くの 明治 新 政 府 の高 官 ・指 導者 が輩 出 した 。 フル ベ ツキ は翌3年10月 大 学南 校 の教 頭 とな り,後 政 府 顧 問 と な り,わ が国 の 近 代化 政 策 推 進 の枢 機 に参 画 し,い わ ゆ る お雇 い外 国 人 の うち で最 も重 用 され,輝 か しい業 績 を残 した 。 明治3年7月27日 大 政 官 布 告 を もって,つ ぎの よ うに諸 藩 か ら大 学 南 一34一
明治初期 にお ける英学の研究 校 に貢進 生 を出 さ しむ る こ とが 定 め られ アこ。 大学 南 校 二於 テ外 国教 師 御 雇 相 成 人 材 成 育 被為 在 候 問藩 々 二於 テ 現 高拾 五 万 石 以 上 三 人 同 五 万 石 以 上 二 人 同 五 万 石 未 満 以 下 一 人 右 之 通 十 六 歳 以 上 二 十 歳 マ テ 人 材 相選 来 ル十 月 迄 二南 校 へ可 差 出 候 尤 年 限 学 費 等 之 儀 ハ 南校 ニテ 可承 合 事 但 是 迄 南 校 入 舎 之 内 其選 二当候 者 有 之候 ハ 丶差 加 へ 不 苦 候 事 ㈹) この貢 進 制 度 と と もに独 逸 学 を も教 え る こと にな り,ド ィ ッ人教 師 を傭 っ た。 この貢 進 生 制度 は 明 治4年 の廃 藩 置 県 の直 後 に廃 止 され た が,そ れ に代 わ る給 費 生 調 度 が で き,大 学 南 校 は全 国 の 俊 英 が互 い に切瑳 琢 磨 し合 うエ リー ト層 養 成 の機 関 と して発 展 した。 貢 進生 は 南 校 だ け で な く,海 軍 兵 学寮 に も,ま た私 立 の 慶応 義 塾,同 人 社 学 校 に も入 学 して い た。 南 校 に は,明 治4年1月 を例 にす るな ら310人 の 貢 進生 が 入学 して い た。 貢進 生 は全 部 寄 宿舎 に入 った 。膳 所 藩 の貢 進 生 と して,明 治3年 南 校 に入 学 し た杉 浦 重 岡 は, 自分 は一 藩 の秀 才 と して選 ばれ た の で あ 為。 す な わ ち一 藩 を代 表 したの で あ るか ら,自 分 の成 功 不 成 功 は一 藩 の 名誉 に 関 す るの で,も し不 成 功 な らば,自 分 は もち ろん 自分 を選 び出 して くれ た人 々 に対 して も申訳 が な い の で あ る(11)。 とい う気 持 で,勉 強 に励 ん だ とい う。 各 貢進 生 は皆 こ うい う気 持 で,藩 の 名誉 をか け て,西 欧 の新 知 識 を吸収 した の で あ る。 こ う して貢 進生 制度 は 全 国各 藩 のす ぐれ た 人 材 を網 羅 して,明 治時 代 の指 導 者 を大 量 に養 成 す る 役 割 を果 した 。 明 治3年 閏10月 大 学 南 校 に お い て は つ ぎの よ うに規 剿 を改 正 した。 少 し長 い が 当 時 の 洋学 の 本 山 の様 子 が よ くわか る の で引 用 す る。 今 般 当 校 学制 ヲ変 革 シ生 員 ヲ限 リ歳 月 ヲ期 シ声 音 会 話 ヨ リ始 メ漸次 諸 科 二渉 リ博通 精 確 以 テ実 用 ノ全 才 ヲ教 育 セ ン コ ヲ要 ス蓋 シ教道 ノ道 予 35一
明治初期 におけ る英学 の研究 メ其 標 的 ヲ立 テ大 体 ヲ示 サ ・ レハ 舟 ニシ テ方 針 ナ キ カ如 ク或 ハ方 向 ヲ 謬 ラ ソ`Tヲ 恐 ル今 定 ムル 所 ノ規 則 逐 条 左 二掲 ク有 志 ノ輩 之 二従 テ勉 励 セ ハ進 歩 自 ラ速 ヲ加 へ 成 功 亦 随 テ 大 ナ ラ ンカ 第 一 条 一 当 校 ハ 当 分 大 中 小三 校 ノ教 導 ヲ兼 ヌニ 三 年 ノ後 ハ 之 ヲ区 分 ス ヘ シ 第 二 条 一 生 徒 ハ 当分 千 人 ヲ限 トス 入舎 生 ハ貢 進 生 共 五 百 五 十 名 ヲ限 トス 第 六 条 一 修 業 時 間 ハ午 前 第 九 字 ヨ リ第 十 一 字 二至 リ午 後 第 一 字 ヨ リ第 三 字 二至 ル事 第 七 条 一 諸 生 徒 ヲ正 則 変 則 ノニ 類 二分 チ正 則 生 ハ教 師 二従 ヒ韻 学 会 話 ヨ リ 始 メ変 則 生 ハ 訓 読 解 意 ヲ主 トシ教 官 ノ教 授 ヲ受 クヘ キ 事 但 シ正 則 生 既 二洋 学 ヲ研 究 シ独 見 ノ学 力 ア ル者 ハ 正 科 ノ他 別 二講 習 ヲ授 ケ其 学 力 ヲ助 ク初 学 ニ シテ 独 見 シ能 ハサ ル者 ハ 素 読 ヲ授 ヶ 教 官 之 ヲ教 授 スヘ キ 事 第 九 条 一 学 業 ハ正 則 変 則共 普 通 専 門 ノニ 級 二分 チ 普 通 熟 達 ノ上 二非 サ ンバ 専 門科 二入 ル ヲ許 サ ・ル事 第 十 二 条 一 諸 生 徒 階 級 ハ九 等 二分 チ 最 下 ヲ初 等 トシ最 上 ヲ第 一 奪 トス 第 廿 五 条 一・ 普 通 専 門 ノ課 業 大 凡 左 ノ如 シ 普通科 初 等 綴 字 習 字 難 ベ ラソシユー ゲ/ 数学 加減 乗 除 八 等 文 典 ク ワ ツ ケ ンボ ス小 会 話 書 取 一36一
明治初期 における英学 の研究 数 学 分 数 比 例 七 等 文 典 ク ワツ ケ ンボス 大 地 理 ゴル ドス ミツ ト 翻 訳 魏 瑛 文 二.` 数 学 開 平 開 立 六 等 万 国史 ウ ィル ソ ン 作 文 代 数 五 等 究 理 書 ク ワツ ケ ン ボス 柬 牘/ 幾 何 学 専 門 科 分 テ ー 二 三 四 ノ 四 等 トス 其 学 ハ 大 凡 左 二示 ス カ如 シ 法 科 省 略 理 科 省 略 文 科 レ ト リ ツ ク ロ ジ ツ ク 羅 甸 語 各 国 史 ヒ ロ ソ ヒ 冖一(13) 明治4年7月 大 学 を廃 して,文 部 省 が 設 置 され,大 学 南 校 と大 学 東 校 は そ の直 轄 と な り,単 に南 】交 ・東 校 と称 す る こ とに な っ た。 同年9月 東校お よ び南 校 が 閉 鎖 され,同 時 に貢 進 生 の制 度 も廃 され た。西校 は翌月再 び開 校 され た が ・ 南 校 で は変 則 を廃 して 正則 の み と し,外 国 人 につ い て,外 国 語 で学 問 の で きる もの を試 験 して 入 学 せ しむ る こ とにな った 。変則生は, 南 校 で 学 ぶ こ とが で きな くな った の で,こ の語 学 の で きな い 変 則生 の た め に専 門 学校 を開 設 して,そ こで 諸 学科 を教 え る こと にな った が,つ い に授 業 は行 な わ れ な か った ・ そ の 後辻 新 次 男爵 な どの 奔 走 に よ って共 学 舎 とい う私 立学 校 を つ く り,英 ・仏 ・独 書 を訳 読 で学 ぶ 者 を入 学 せ しめ,変 則 生 を救 済 す る こ とが で きた(14)。 これ で 南 校 は 正 則 変 則 の 区別 が な くな り , 外 国 か ら来 た教 科 書 を す べ て 外 国語 で教 授 す るて とに な った。 明 治5年3月 天皇 陛 下 は学 事 ご奨 励 の た め,南 校 に ご臨幸 に な り,内 外 教 官 の進 講 お よ び教 授 の実 際 を も ご覧 に な っ た。英 学 関係 で は英 人 ス コッ ト,ウ ィル ソ ン,ホ ワィ マ ー ク,メ ー ジ ヨル,グ リフィ ス,米 人 ヴイ ダ ー, ハ ウスお よ び 日本 人 教 官 の授 業 を ご覧 に な った。 な お教 頭 フエ ルベ ツキ, -37一
明治初期 におけ る英学の研究 教 官 出浦 力雄 の両 名 は,陛 下 の こ前 に進 み,フ エ ル ベ ツキ は英 語 で人 民 教 育 お よ び勧 善学 な どの大 意 を10分 間 述 べ,出 浦 が これ を通 訳 申 しあ げ た。 陛下 は,そ の 時 フエ ル ベ ツ キ につ ぎの 勅 語 を 賜 った 。 従 来,南 校教 頭 と して尽 力 の段,朕 甚 だ 之 を嘉 み す 。 朕 更 に汝 の勉 励 し て 生 徒 を して 益 々研 学 懈 た ら ざ らし めん 事 を望 む(15)。 天 皇 は これ よ りさ き東 校 へ 臨幸 あ らせ られ,ド イ ツ人 医 学 教 師3名 に も 勅 語 を た ま わ っ た。 陛 下 が い か に 教育 を重 んぜ られ,ま た洋 学 に ご関 心 を お もち に な っ て い られ た か は,こ れ らの こ とか ら も明か で あ る。 南 校 は 明 治5年5月 学 則 の改 正 を行 な った。 東 京 帝 国大 学 五 十 年 史 に よ って,当 時 の 授業 を理 解 す るた め に上 級 ・下 級 の例 と して,英 一,五 の課 程 を下 に示 そ う。 ︹ フ エ ル ベ ッ キ
教
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ハ ウ ス 英 幽 ノ 部 宇都 宮少 教授 教官柳本大助教 高橋浩 時 月 火 水 木 金 土 七 字 ヨ リ 八字 マデ 高 図 画 ウ 幾 何 学 ハ 文 典 ウ 窮 理 学 ウ 幾 何 学 ハ 文 典 八 字 ヨ リ 九字 マデ ウ 窮 理 学 柳 ウ 算 術 ハ 作 文 ウ 算 術 ウ 算 術 ハ 作 文 九 字 ヨ リ 九字半 マデ 体 操 同 同 同 同 同 九 字 半 ヨ リ 十字 マデ ウ 窮 理 学 柳 ウ 算 術 ギ 文 学 ハ 読 方 ギ 文 学 ハ 読 方 十 字 ヨ リ 十 一字迄 ギ 修 身学僻
学
宇
ハ 歴 史 ギ 修 身 学 ギ 化 学 宇 ハ 歴 史 十 一 字 ヨ リ 十二字迄 ギ 生 理学 ギ 化 学 宇 、 フ 代数学 ギ 地 理 学 ギ 生 理学 フ 代数学 __..38一明治初期 にお ける英学の研究 教 師 ウ イ ル ソソ 英五 ノ部 教'官河野径徳 1 時 月l I l 算術 I1 1 会 話 火 水 木 金 土 同 同 同 同 同 書 取 会 話 書 取 会 話 書 取 七 字 ヨ リ 八字マテ ー ーi 八 字 ヨ リ 堀 字マ テ ー i i lI Iー 九 字 ヨ リ 九字半迄 `li 九字半 ヨリ 十字 マ テ ー 十 字 ヨ リ 十一字 迄 Ir I 十 一 字 ヨ リ 十二字迄 体 操 同 .同 同 同 同 読 方 文 典 読 方 文 典 読 方 読 方 習 字 習 字 、 修 身 学 習 字
習
字
修身 学-,
文 典 地 理 学 文 典 地理学 文 典 暗 誦 <16) 英 一,ご,'三 は ほ とん ど同 じ課 程 で あ る。 英 四,五,六,七 は大 体 同 じ よ うで,一 段 と程 度 が下 り,英 八,九 は ほん の 初歩 で,単 句,書 取,読 方, 体 操,算 術,読 方,習 字 か らな って い る。 南 校 は 明 治5年 学 制 が 頒 布 に な る と と もに,第 一 大 学 区東 京 第 一 番 中学 とな り,さ らに翌 年 東 京 開 成 学 校 とな り,法 学 ・理 学a学 ・諸 芸 学 ・ 鉱 山学 等 専 門学 科 を教 え る こ とにな り,明 治10年 に東 京 医 学 校(元 の東 校)と 合 併 して東 京 大 学 とな り,明 治19年3月 帝 国大 学 とな っ た。 その 他 政 府 直 轄 の県 や 政 府 が 次 の よ うな 洋 学校 を 開 い た。 明治 元 年 神 戸 ・に洋 学 伝 習 所,大 阪 に舎 密 局(明 治3年 に大 阪 理 学所 と改称),明 治2年 に大 阪 に大 阪洋 学 校,明 治4年 に工 部 省 に 工 学校,外 務 省 に漢 洋 語 学 所, 京 都 府 に外 国語 学 校,明 治5年 に東 京 に開 拓 使仮 学 校,師 範 学 校 が 設 け ら 一39一明治初期 にお ける英学の研究 れ,い ず れ の 学校 で も英 学 が教 授 され た。 これ ら につ い て の詳 細 は他 日に ゆ ず る こと にす る。
英
学
塾
幕 末 か ら明治 初 年 にか け て,外 国語 と近 代 科 学 を教 授 す る学 校 が重 視 さ れ るにい た っ た こと は しば しば述 べ た。 明治 新 政 府 が 富 国 強 兵 策 を実 施 す る に は,西 欧 の新 しい 知 識 ・技 術 を そ な え た人 材 を多 量 に必 要 と した の で. 官 立 学 校 ばか りで は,と うて い そ の需 要 を み たす ことが で きな か った 。 そ うい う時 代 の要 求 に応 じて,民 間 に お い て もま た外 国 語,と くに英 語 そ の もの お よ び原 書 に よ って 近 代 学 を教 え る英 学 塾 が つ ぎつ ぎに誕 生 し た。学 制 頒 布 ごろ ま で に東 京 に設 け られ た主 な る もの を あ げ る とつ ぎの通 りで あ る。 塾 名1学 科1生 徒 塾 到 創 立 年 隔 考 慶 応 義 塾 英学 323 福沢 諭吉 安政5年 米人2 伊 東 氏 塾 英学 ・算 術 50 伊東 保民 慶応3年 三 叉 学 舎 英学 108 箕作 秋坪 明治元年 鳴 門 塾 英学 216 鳴 門 義民 〃2年 攻 玉 社 英 学 ・航 海 学 351 近藤 真琴 〃2年 共 立 学 舎 英学 111 尺 振 八 〃3年 在 斉 館 算 術 ・測 量 ・英 学 51 大坪 正慎 〃4年 真 宗 東 派 学 塾 皇 ・釈 ・漢 英 ・筆 ・洋 算 147 (5) 大谷 光勝 〃4年 集 義 塾 英学 (5)50 並 河 等 //4// 共 立 学 校 英学並尋常小学科 (io)109 佐 野 鼎 //4// 勧 学 義 黌 英 学 ・洋 算 ・支 那学 272 石川 総 管 {遠藤 胤域 /151/ 英人2 有 隣 堂 英 学 ・算 ・測 量 180(3) 中井孝 太郎 〃5〃 共 学 社 英 学 ・仏 学 52 西 野 譲五 〃51ノ 共 励 学 舎 英学 155 石 田 英洲 //5// 一40一明治初期におけ る英学 の研究
塾
名1学
科i生
徒 陣
到
創立 年1鰐
冖 育 幼 舎 英学 (35)102 吉 田 定 一 〃5〃 教 育 所 英 学 ・算術 ・筆 道 (61)159 不 明 //5// 報 国 学 舎 皇 ・漢 ・英 ・算 ・筆 195 (15) 有馬 頼咸 u5it 英人2 明 治 学 舎 英 学 ・算 術 58 岩本 忠蔵 〃5〃 米 人1 開 蒙 社 英 学 ・数 ・そ の他 117 (50) 戸長 ・町 年寄 が執 事 ノ!5〃 共 慣 義 塾 英学 102 南部 信民 〃51ノ 米 人1 日 章 堂 英 学 ・仏 学 ・洋 算 104 (2) 渡 辺 済 〃5〃 同 人 社 漢 学 ・英 学 ・数 学 253 中村 正直 i/6〃 第 二 番 中 学 (育英義塾) 英 学 ・仏 学 ・独学 63 {二 品 宮有 栖 川 不 明 和蘭人独逸人 春 風 社 独 学 ・英 学 ・算 術 102 (2) 司馬 盈 々 不 明 駿 河 台 学 舎 英 学 ・独 学 65 小 堀 清 不 明 米人1 北 門 社 英学 ・漢 学 34 山東 真砥 不 明 成 義 塾 英学 :1 鏡 光 照 不 明 掬 養 社 英学 59 伊藤 二郎 不 明 進 文 学 社 英学 70 橘 機 郎 不 明 遷 喬 学 舎 英学 75 木股 楳軒 不 明 1 1 C17) 地 方 に設 置 され た英 語 塾 もか な りの数 にの ぼ る と思 わ れ る。 当時 は ま だ キ リス ト教 の宣 教 を許 さない とい う特殊 事 情 が あ った の で,米 英 の宣 教 師 は ま ず間 接 的 な伝 導 の手 段 と して,自 宅 で 私塾 を開 い た り。公私 の学校 に 雇 わ れ て,正 則 の英 語 教 授 や 英 語 を通 じて 西 洋 の学 術 を 日本 の青 年 男 女 に 教 え る こ とを は じめ た。 これ はキ リス ト教 主義 学校 の萠 芽 とな り,ま た, 英 語 研 究 の系 譜 に おい て,一 つ の 大 きな_°,mと な った の で あ る。 これ らのA 外 国語 を教 授 し,原 典 で近 代 学 を講 読 して い た 私立 学校 の数 は 明確 で な い が,東 京 ばか りで な く,地 方 の 都 市 に も続 々開 設 され た。 私 塾 を開 い て 教 授 して い た人 々 の なか に は,学 力 もあ り,識 見 に富 ん だ時 代 の 先 覚者 が 少 くなか っ た。 その 主 な る塾 を少 しあ げ よ う。 一41一 冖明治初期 におけ る英学 の研究
塾
名1所
在 地1学
科
陣
到
創 立 年
バ ラ 塾 藍 謝 堂 謹 中 学 舎 用 行 義 塾 横 浜 横 浜 静 岡 静 岡 英 ・独 ・仏 英 ・漢 ・仏 英 ・数 エ ジ ー ムズ ・バ ラ 高 島嘉 右 衛 門 保 科 頼 母 ノ 足 立 儀 八 明 治3年 明 治4年 明 治5年 明 治5年 東 京 の30校 の 生 徒 だ け で も4,000人 近 い 。 明治 の初 期 に狭 い東 京 で, これ だ け の人 が 外 国 語 を学 ん で い た こ とは驚 くべ き こと で あ る。 ま さに英 語 ブ ー ム で あ る。 文 明 開 化 ム ー ドの 中 で の英 語 ブ ー ムの 一端 は 世 界 ノ交 通 開 ケ シ ヨ リ文 運 ノ進 ム ヤ 日二駸 々 タ リ天 下 ノ学 徒豈 二拱 手 坐 視 ス ヘ ケ ンヤ… … 其 他 夜 学 院 ヲ設 ケ官 員 及 ヒ商 売 日用 二奔 走 ス ル者 ノ 為 メ通 学 入 社 ヲ許 ス是 我 社 ノ文 明 ヲ企 望 シ生 徒 ヲ愛 愍 シ国 家 二報 ユル ノ 微 意 也 有志 ノ者 来 テ学 二就 ケ ヨ(18) とい う進 文学 社 の入 学 案 内, 英 語 初歩 の書 許 多 あ り と雖 も多 くは迂 遠 に過 ぎて疾 の進 歩 に至 らず 。 此 書 は綴 りお よ び会 話 等 に も片 仮 名 を附 し漢 字 を添 へ 入 り安 く覚 え易 き を 旨 とせ り(19) とい う英 語 入 門 書 案 内, 洋 暦 千 八 百 七 十 一 年 第十 一 月一 日即 チ 日本 明 治 四 年 辛 未九 月十 九 日 ヨ リシ テ予 私 塾 ヲ開 キ英 学 ヲ教 授 ス因 テ書 生 ノ意 二任 セ 或 ハ通 学或 ハ寄 宿 トモ勉 メ テ之 二教 授 セ ン ガ為 メ朝 午 夕各 其 時 間 ヲ期 ス 願 クハ 入社 ノ書 生 怠 惰 ナ ク勤 学 シ テ予 ガ学 舎 ヲ設 ケル 素志 二負 カザ レ(20) と い う米 国 人 の塾 生 募 集 の広 告 な どに,当 時 の英 語 学 習 熱 が 伺 われ る。 さて 明 治初 期 に三 大 塾 とい われ た の は慶 応 義 塾 と攻 玉 社 と同人 社 であ る。 そ の うち最 も古 く,最 も大 き く,現 在 まで栄 えて い るの は慶 応 義 塾 であ る。 慶 応 義 塾 は,は じめ蘭 学 塾 と して 出発 した が,時 代 の趨 勢 をか え りみて 万 延 元 年(1860年)英 学 に転 向 した。 そ の後 所 在 地 ・性 格 と もい くた び か 変 った が,明 治初 年 頃 の授 業 形 態 はつ ぎの よ うで あ る。 一42一明治初期 にお ける英学の研究 日 月 火 水 木 金 土 8∼9時 保 小 幡 クエ ッ ケ ソポ ス 合 衆 国 史 色、 蟋(三)繍 説 嚇 読 9一 輪 床 永 田 ・・イ ス クー ル 地 理 書 素 読 邑 木村 他 文 典 並 雑 書 素 読 10∼12時
保
色
算 術 水土 福沢床
み 口 算 術 ウ ェ ー ラ ソ ド 修 心 言侖 1時 以 後 iI 月 木 小 幡(篤)ウ ェ ラ ソ ド 経 済 書 会 読 火 金 小 幡(三)ピ ノ ッ フ 仏 国 史 会 読 火 金 永 島 クエ ッ ケ ンボ ス 合 衆 国 歴 史 水 土 小 泉 同 上 火 金 松 田 ペ ー トル パ ル ト 万 国 歴 史 水 土 永 田 同 上 火 ± 馬場 ハ イス ク ール 地 理 書 火 金 藤 野 グ ラマ ス クー ル 地 理 書 水 土 木 村 ハ イス クー ル 同 上 月 木 海 老 名 文 法 会 読 6時 月 木 テ ー ロ ル 万国歴史会読 C21) 慶 応 義 塾 は入 社 一 入 学 の意 味一 して,3か 月 間文 法 を学 び,半 年 地 理 書, 半 年 歴 史 書 を教 科 書 と して,英 語 の読 書 力 を養 い,1年3か 月経 過 す る と, 前 の 表 の 中 か ら適 当 な 授 業 を選 ん で,講 義 を 聞 く ことに な る。教 材 に難 易 の別 とか,授 業 全 体 が 体系 を な し て い る とい うの で はな く,た だ原 書 を読 一43一明治初期 におけ る英学 の研究 破 す る とい うし くみ で あ った 。 三 重 県 で家 老 格 の家 に生 まれ,貢 進 生 と して 明 治2年 慶 応 義 塾 に入社 し, 明 治4年 か ら母 校 の英 文 学 の教 官 に な った 門 野幾 之進 は,当 時 の授 業 につ い て 教 わ る とい って も別 に時 間 が あ る ので は な し,門 野 さん 今 暇 だか らや ろ うか,そ れ で は お願 い します とい って 阿 部 さん な ら阿 部 さん に一 寸 習 う く らい の こ とで … …(22) と い え,さ らに 当 時 の 授 業 の模 様 を あ る級 で は七 人 か 十 人 あ る。 そ の七 人 か 十 人 の人 が 教 場 へ 出 て籤 を引 く,竹 の筒 が 教 場 にお い て あ って,振 出す と番 号 が 出 る。 その 籖 を 引 い て 今 日の 当番 が決 ま る。 この 人 が 一 番,こ の人 が二 番,こ の 人 が 三番 と い うよ うに番 号 が決 ま る。 そ うす る と,籖 の順 に生 徒 が 坐 っ て先 生 は ア ソバ ィア で真 ん 中 に坐 る。 … … ここか らこ こま で 今 日は会 読 します とい う と,そ の本 の 申 の一 節 をmの 人 が 読 む。 そ うす る と,後 の六 人 な り 七 人 な りの人 が 読 ん だ人 に 向 っ て,こ れ は ど うい う意 味 だ,こ っち は ど うい う意 味 だ と根 堀 り葉 堀 り質 問す る。 それ に対 して そ の人 が答 え る。 間 違 って い る と次 の 人 の説 を 聞 く,そ の人 も間 違 って い る,そ うす ると 合 うと ころ ま で行 く。 三 番 目の 人 が 正 し く解 釈 す る と,mは じめ の人 と二 番 目の人 に黒 点 を つ け て三 番 目の人 に 白点 をつ け る。皆 が わか らな い と きは皆 が 黒 点 で,そ れ は こ うだ と,そ こで は じめて 先 生 が 解釈 す る。 だ か ら一 つ の本 を読 む に もな か な か厳 密 に研 究 し アこ訳 です(23)。 と述 べ て い る。 白点 が 多 い と進 級 し,黒 点 が 多 い と下 級 す る とい う身 分 も 出 身 閥 もな い能 力別 進 級 制 度 で あ る。 明 治4年 の 「慶応 義 塾 社 中之 約 束」 の 中 に 「人 の才 不 才 に 由 り,今 日人 に学 ぶ も明 日は又 却 て其 人 に教 ふ る こ と あ り。 故 に師 弟 の分 を定 め ず,教 ふ る者 も,学 ぶ 者 も概 して之 を社 中 と 唱 ふ るな り(24)」と あ るが,慶 応 義 塾 に限 らず,当 時 の塾 は も ちろ ん 官 学 に お い て も,師 弟 が寝 食 を と もに す る生 活 共 同 体 的 な 求道 の場 で あ っ た。 攻 玉 社 は鳥 羽 の 藩士 近 藤 真 琴 の塾 で あ る。 彼 は 幕 府 の海 軍 操 練 所 へ 通 う II
明治初期 におけ る英学 の研 究 か た わ ら,文 久3年 四谷 坂 町 の 自宅 に 「攻 玉塾 」 を 開 き,蘭 学 ・洋 算 お よ び航 海 術 を教 えて い たが,明 治2年 攻 玉社 と改 称 し,科 目は数 学 ・英 語 ・ 漢 学 で あ った が,上 級 の 者 に は航 海 術 も教 えた。 そ の塾 則 第 一・条 に 凡 テ外 国 ノ学 二志 ス 者 ハ 先 ツ本 国 ノ事 情 ヲ詳 密 二了 解 シテ所 長 ヲ取 リ 国 力 進 歩 ノ補 助 トシ我 威 武 以 テ 軽侮 ヲ防 キ文 明以 テ信 義 ヲ立 ツル ヲ大 主 意 トス 故 二当 社 ニア ツテ ハ 国 史 二心 ヲ用 ヒ怠 慢 アル ベ カ ラザ ル事(25) と うた って い る よ うに,洋 学 を国 力伸 長 の手 段 と して い る。攻 玉 社 の本 科 は航 海 測 量 習 得 所,陸 地 測量 習得 所 を主 体 とし,誠 意 ・礼譲 ・質 実 剛健 を モ ヅ トー に洋 学 を探 究 した 。 「海 軍 兵 学 寮 が 海 軍士 官候 補 生 を卒 業 させ る まで は,攻 玉 塾 で 真琴 の 教 育 を受 けYP者 が,す ぐ海 軍 中尉 ・海 軍 少 尉 に採 用 され て い た よ うだ か ら,い わ ば 当時 の攻 玉塾 は,実 質 的 に は海 軍 兵 学 寮 の 前身 で あ る と同時 に,そ の予 備 校 で もあ った わ け で あ る。」(26) 中村 敬 宇 の 同人 社 は 明 治6年 の創 立 で あ るの で本 論 の対 象 外 で あ るが, 三 大塾 の 関連 で簡 単 に触 れ て お く。 同 人社 の 開業 願 に 第 五 条 学 科 英 学 算 術 支 那 学 教 則 英 学 ハ 生 徒 之 力 二随 ヒ三 級 二分 チ,綴 字 法 ・単 語 ・会 話 ノ類 ヨ リ地 理 ・歴 史 ・究理 ・経 済 ・修 身学 等 ノ書 訳 読 ・輪 講 等 為致 候,算 術 ハ 四 法 及 開方 ヨ リ代 数 ・幾 何 ・微 分 ・積 分 二至 ル 迄 等 級 二応 ジ授 業 致 候,支 那 学 ハ英 学 ノ余 力 ヲ以 テ初 学 読 本 ・皇 漢 歴 史 ・西 洋 翻 訳 書 等 生 徒 之力 二応 ジ授 業 致 候(27) と あ る。 これ に よ って,同 人 社 の みな らず,当 時 の英 学 塾 で い う英 学 とは ど うい う もの で あ るか,ま た漢 学 か ら英 学 へ の推 移 が,明 らか に示 され て い る。 慶 応 義 塾 は福 沢 諭 吉 の塾 で あ り,攻 玉社 は近 藤 真 琴 の塾 で あ り,同 人 社 は 中村 敬 宇 の塾 で あ る よ うに,こ の 頃 の塾 は,学 校 が あ っ て,教 師 が い る の で はな く,教 師 が あ っ て,そ の 師 を 慕 って生 徒 が入 門 して来 る とい うよ 一45一
明治初期におけ る英 学の研究 うに,教 師 の個 人 的 な 名 声 ・魅 力 が塾 の支 柱 とな って い た 。 従 っ て,教 師 に対 す る評 価 で急 速 に発 展 し もし,ま た衰 微 し も した。 当 時 の私 学 に つ い て は 「同 人社 は教 育 家 を 出 し,共 学 舎 は士 人 を 出 し,慶 応 義 塾 は 商 工 人 を 出 す(28)とい う世 評 が あ っ た。 全 体 と して み れ ば,南 校 を頂 点 とす る官 立 系 と慶 応 義 塾 を筆 頭 とす る私 立 系 が 当 時 の 英 学 界 を質 的 に も量 的 に も二 分 して い ナこ。 外 人 教 師 直伝 の英 学 を看 板 とす る官 立 と,師 の魅 力 と団結 力 を 誇 る私 立 が,互 に競 って英 学 を導 入 し,指 導 者 の養 成 につ とめ た の が,明 治 初 期 の英 学 の状 況 で あ って,当 時 は ま た官 尊 私 卑 の観 念 は な か っナこ。 小 学 校 ・中 学 校 ・女 学 校 に お け る 英 語 教 育 明 治2年2月5日 行 政 官 に おい て 諸 府 県 施 政 順 序 を制 定 し,そ の 中 に府 県 は小 学 校 を設 くべ き こ とを あ げ てい る。 これ よ りさ き沼津 兵 学 校 付 属 小 学校 が 明治 元 年11月 に設 け られ,わ が 国 の 最 初 の 小 学校 とな っ ナこ。(29)京都 府 は小 学 校 を 明治2年12R迄 に64校 設 け た。 翌 年 東 京 も6校 設 け た 。 明治 3年2月 の 「大 学 規 則 拜 中 小 学規 則」 は新 政 府 が,初 等 教 育 に つ い て規 定 を は じめ て公 布 した もの で あ るが 「子 弟 凡 ソ八 歳 ニ シ テ小 学 二入 リ普通 学 ヲ修 メ兼 テ 大 学専 門五 科 ノ大 意 ヲ知 ル」(30)とあ る よ う に当 時 は小 学 は大 学 に 入 学 す る準 備機 関 とみ られ て い た 。 従 って科 目は 「習 字 ・句 読 ・語 学 (仏 ・英 ・蘭 ・独 乙),算 術(和 洋)・ 地 理 学 ・作文 ・五 科 大 意(31)」 とな って い て,英 語 以 外 の外 国語 も教 えて い る。 中 学 に関 す る最 初 の 規定 も 「大 学 規 則 拜 中 小 学 規 則」 の 中 の 「子 弟 凡 ソ 十 五 歳 ニ シテ 小 学 ノ事 訖 リ十 六 歳 二至 リ中学 二入 リ専 門学 ヲ修 ム科 目五 ア リ大 学 五 科 トー 般 子弟 凡 ソニ 十 二 歳 ニ シテ 中 学 ノ事 訖 リ乃 チ其 俊 秀 ヲ撰 ヒ之 ヲ大 学 二貢 ス(32)」で あ る。 当 時 は高 等 普 通 教 育 と専 門 教育 との区 別 が 判 然 と して い なか っ た・ 中学 教 育 と専 門教 育 と の間 に は,程 度 の差 が あ るに過 ぎなか った 。 い わ ゆ る五 科 とは教 科(神 教 学 ・修 身 学)・ 法 科 ・理 科 ・医 科 ・文科 を さ し,書 籍 を海 一46一
明治初期 にお ける英学 の研究 外 か ら購 入 し,外 国人 を招 聘 し て講 読 して い た が,内 容 は学 校 に よ っ てか な り異 っ て い た。 明 治3年4月 東 京 の駿 河 台 に 中学 校,同 年12月 京 都 府 下 中学 校 が 開 校 さ れ た 。 さ らに 明治4年12月 に は直 轄 の小 学校 お よび洋 学 校 が設 け られ た。 これ に関 す 丶る文 部 省 達 無 号 はつ ぎの通 りで あ る。 一 開 化 日二隆 ク文 明 月 二盛 二人h其 業 二安 シ其 家 ヲ保 ツ所 以 ノ者 各 其 才 能 技 芸 ヲ生 長 ス ル ニ由 ル是 学 校 ノ設 ア ル所 以 ニ シテ 人hハ 学 ハ サ ル ヲ 得 サ ル者 ナ リー … 当府 下 二於 テ共 立 ノ小 学 校 並 二洋 学 校 ヲ開 キ 華族 ヨ リ 平 民 ユ至 ル迄 志 願 ノ者 ハ学 資 ヲ イ レテ入 学 セ シ メ幼 年 ノ子 弟 ヲ教 導 スル 洋 学 校 入 舎 ノ心得 但 当 分英 独 乙 ノ事 一・ 受 業 料 毎 月 金 三 両可 相 納 事 一 書籍 等 ハ 銘 々持 参 可 致 事 一 稽 古 時 間 ハ 毎 日六 字 間 ノ事 一 生 徒 ハ 男 子十 歳 ヨ リニ 十 歳 迄 ノ事(33) わが 国 で は 従 来 女 子教 育 が振 わ な か っ たの で,文 部 省 は 翌4年12月 東 京 に官 立 の女 学校 を設 け た。 これ に関 す る文 部 省 布 達 は つ ぎの通 りで あ る。 人 々其 家 業 ヲ昌 ンニ シ是 ヲ能 ク保 ツ所 以 ノ者 ハ 男女 ヲ論 セ ス各 職 分 ヲ 知 ル ニ ヨ レ リ今 男子 ノ学 校 ハ設 ア レ トモ 女 子 ノ教 ハ未 タ備 ラ ス故 二今 般 西 洋 ノ女 教 師 ヲ雇 ヒ共 立 ノ女 学 校 相 開 キ 華 族 ヨ リ平民 二 至 ル迄 受 業 料 ヲ 出 シ候 ハ 丶入校 差 許 候 問 … … 女 学 校 入 門之 心 得 但 当分 英 学 ノ事 一 受 業 料 毎 月 金 弐 両 可 相 納 事 一 書 籍 等 ハ銘 々持 参 可致 事 ・ 一 稽 古 時 間 ハ毎 日五 字 間 ノ事 一 生 徒 ハ 女 子 八 歳 ヨ リ十 五 歳 迄 ノ事 一47一
明治初期におけ る英学 の研究 但 女 学 校 ハ 凡 テ 通 稽 古 ノ 事(34) 翌 年2月 南 校 内 に 開 校 し た が,生 徒 が 日 毎 に 増 加 し た の で,校 舎 を 竹 平 町 に 新 築 し,東 京 女 学 校 と改 称 し た 。 学 校 の 体 裁 は尋 常 小 学 校 に 英 語 を 加 え,小 学 校 は 日 本 女 教 師 が 教 え,語 学 は 米 人 教 師 が 教 え た 。 ま た 英 語 に 習 熟 す る生 徒 を し て 通 弁 さ せ た 。 文 部 省 は こ の 学 校 を 女 学 校 の 模 範 に し よ う と考 え て い た 。 修 業 年 限 は6年 で 上 下 等 本 科 に 分 れ,そ れ ぞ れ6級 に 分 れ て い た 。 文 部 省 第 一 年 報 に よ る と 同 校 の 英 語 に 関 す る様 子 は つ ぎの よ うで あ っ た 。 教 科 書 に は ウ ユ ル ソ ソ リ ー ドル,ユ ニ オ ン リ ー ドル,フ レェ ス ブ ッ ク,ク ヱ ッ ケ ン ブ ス 文 法 書,コ ル 子 ル 小 地 理 書,ウ ユ ル ソ ン ス ペ リ ソ グ, ス ク ウ ル レ ジ ス テ ル,ヘ ル テ ル ス ア リ ソ メ チ イ ク,英 和 字 彙,英 和 辞 書, ヘ ボ ン氏 辞 書,ユ ニ オ ソ フ ラ イ マ ル で あ っ た 。 生 徒 は つ ぎの よ うで あ っ た 。 上 等 は 明 治5年 に は ま だ な か っ た 。 生徒 等級 第 一 級 第二級 第三級 第四級 第五級 第六級 合 計 英 学 下 等 一 人 五人 十五人 十七人 三十八人
お 雇 い 外 国 人
日本 が 開 国 に 踏 み きっ て か ら,わ が 国 の 西 欧 の 知識 技 術 に,外 国 人 の寄 与 は実 に大 きか った 。彼 等 の 中 に は伝 道 の た めに 派 遣 され て来 て政 府 や 府 県 や 私 塾 な ど に雇 わ れ た もの と,明 治 新 政 府 が 直 接 外 国 か ら招 聘 した もの とが あ る。 明 治 初 期 の 日本 の近 代 化 とい う観 点 か らみ る と,政 府 雇 い外 国 人 が 最 も重 要 な 歴 史 的 役 割 を果 した。 彼 等 の役 割 は,「 明 治 新政 府 が近 代 国 家 建 設 の た め に,欧 米 先 進 国 の近 代 的 な諸 制 度 ・資 本 主 義 的 な生 産 技 術 ・方 法 の移 殖 を,そ の実 際 面 で 知識 ・技 術 を提 供 して 指 導 し,そ の 急速 な 移 殖 を成 功 させ た こ とで あ る(35)。」 明 治 新 政府 の指 導 者 が 偉 か った 点 は,こ れ ら外 国 人 を2人 を例 外 と して(36) .・明治初期 における英学の研究 助 言 者,助 力 者 と して扱 い,政 策 の決 定 の 主 導 権 を堅 く維 持 し,先 進 諸 国 の 東 ア ジア へ の帝 国 主義 的進 出 に狂 奔 して い た きび しい 国際 環 境 の も とで, わ が 国 の 独 立 を確保 した こ とで あ る。 紙 面 の都 合 で,お 雇 い外 国 人 につ い て は詳 し く述べ る こ とは で きな い が, 学 制 頒 布 ま で の お雇 い外 国人 につ い て 簡 単 に 述 べ よ う。 明治5年 以 前 の ま とま っ た資 料 はな い 。 明 治5年 の政 府 雇 い外 国 人 数 は 合 計369名 で,職 務 別 に み る と学 術 教 師102名,技 術 者127名,事 務 家43 名,職 工46名,雑51名 で あ る。 これ を各 省 に お け る国 籍 別 分 布 を み る と下 の よ うにな る。 冖 ア メ リ カ イ ギ リス ! フ ラ ン ス ド イ ツ } そ の 他 計 太 政 官 l
i
1 1 1 外 務 省 2 【1 』l l 2 大 蔵 省 3 771一
一 19 兵 部 省 i 3!41
2 9 文 部 省 6 5 4 811i
24 工 部 省 .104 1 33 m I 16153 開 拓 使 5 il
i 一 5 計1、6 i 119 49 8 21 213 くヨ ラ 工 部 省 に は 同 年 の お 雇 い 外 国 人 の 約72%に あ た る153名 が い る 。 そ の う ち イ ギ リス 人 が,約68%に あ た る104名,つ づ い て フ ラ ンス 人 が 約 22%の33名 と な っ て い る。 明 治 新 政 府 が 富 国 の た め に,工 業 立 国 を め ざ し て,当 時 工 業 の 最 先 進 国 イ ギ リス か ら,い か に 大 量 の 技 術 者 を 招 聘 し た か を 示 し て い る。 ,・明治初期 にお ける英学 の研 究 明 治5年 南校 は普 通 科 生 徒440名 余 で,専 攻 す る外 国 語 に よ って英 学 生, 独 学 生 お よ び仏学 生 に分 れ,多 数 の 内外 教 師 に よ って担 当 され て い た。 そ の うち外 国 人 教 師 は教 頭 フ ル ベ ツ キ を は じめ米 英 人8名,ド イ ッ人4名, フ ラ ンス人5名 で あ った 。東 京 医学 校 に は ドイ ツ人 医 師2名 が い た。 っ ぎ に 明治4年2月 まで に 雇 わ れ た外 人 の 名 を あ げ よ う。*印 は宣 教 師(38)。 国籍 氏 名 月 俸 雇用期間 勤 務 校 ・担 当科 目 (東京) 英 バ ー リ ー 2年1月2年12月 マ デヨ リ 開成学校英語教 師 英 Meyerメ ・一 エ ル 洋 銀 200元 2年8月 ヨ リ 3年4月 マ デ 大学南校 英語教 師 英 AlexanderWilson 洋 銀 250元 2年12月 ヨ リ 3年7月 マ デ 大学南校 英語教師 米 *EdwardCornes 3年 正 月 ヨ リ3年7月 死 亡 大学南校 英語教師 英 CharlesH.Dallas 洋銀 250元 3年5月 ヨ リ 3年11月 マ デ 大学南校 英語教師 英 Bowring 200元 3年8月6年8月 マ デヨ リ 大学南校英語 ・普通学教師 米 DavidThompson 洋 銀 300元 3年8月 ヨ リ 3年12月 マ デ 同 上 英 Roper 洋 銀200元 3年10月4年10月 マ デヨ リ 同 上 英 Sandeman 洋 銀200元 4年1月6年6月 ヨ リマ デ 大学南校 英語学教師 米 EdwardH.House 洋銀250元 4年1月6年1月 マ デヨ リ 大学南校英語学 ・英文学教師 英 Hall 洋銀 200元 4年1月 ヨ リ 5年8月 マ デ 大学南校 英語学教師 米 Crownishield 洋銀200元 4年2月4年8月 マ デヨ リ 同 上 英 Whymark 洋 銀 200元 4年2月 ヨ リ 5年8月 マ デ 同 上 C38) さ らに明 治5年 に在 職 の英 学 関係 の外 人 教 師 を 「文 部 省 御 雇 外 国人 明細 表(39)」か ら抜 き出 して み よ う。()内 は年 令。 一SO一
明治初 期におけ る英学 の研究 冖 国 籍 氏 名()内 年 齢 月 俸 雇用期間 勤 務校 ・担 当 科 目 米 PeterV.Veeder'(47) 300円 4年3月7年4月 マ デヨ リ 東 京 南校 理学 、 米 WilliamGriffis(29) 30Q円 5年 正 月 ヨ リ 7年2日 マ デ 南校 理学 米 *GuidoF .Verbeck(43) 600円 6年9月2年4月 々 デヨ リ 南校 英語教師 ・教頭 米 HoraceWilson(29) F 200元 4年8月7年9月 マ デヨ リ 南校 英語学 米 ThomasB.Washington (23) 150円 5年8月 ヨ リ 6年9月 マ デ 南校 英語学 米 1VlaronM.Scott(3Q) 250円 5年8月7年8月 ヨ リマ デ 東京 師節単校 英語学 米 EdwardWarren,Clark (26) 300元 4年10月 ヨ リ 7年11月 マ デ 静 岡県 英語 学 米 li/lartinIV.Wyckoff(23) 250元 5年6月 ヨ リ 7年8月 マ デ 敦賀県 英仏語学 英 JamesGreen 250円 4年6月 ヨ リ 7年7月 マ デ 大 阪 開明学校 英語学 英 FredrickA.Meer 300元 5年1月 ヨ リ 8年3月 マ デ 高知県 英語 学 英 マ イ エ ル 妻ア ン ニ ー ・ マ イ ヤ ル 50元 、_=一 5年x月 ヨ リ 8年3月 マ デ 同 県 英 語学 ・女 工 英 ダ ル ネ ー(22) 初2年250元年200元 3年3GO元 4年10月 ヨ リ 向3力 年 山 口県 英語学 英 HerbertStevens(34) 次 半年150元前半年100元 後1年200元 4年7月 ヨ リ 向2力 年 同 県 英語学 米 L.L.Janes(37) 400元 一 4年8月 ヨ リ 7年10丹 マ デ 白川県 英語学 蘭 H.Schepel(30) 食250元 料50・ 4年11月 ヨ リ 6年12月 マ デ 鹿 児島 英仏語学 1英! CharlesH.Dallas(32) 250円 5年1月 ヨ リ 8年2月 マ デ 置賜県(米沢学校) 英仏語学 二 つ の表 を比 較 す る とMeyerやDAIlasの よ うに,大 学南校 の契約が 満 期 に な って か ら地 方 に 行 って い る者 もい る。 これ らお 雇 い 外 国 人 の 質 は ど うで あっ た ろ うか。 政 府 は苦 しい 財 政 か ら 高 給 を支 払 って い た の で,そ の 人 選 に は深 い注 意 を払 い,厳 重 な契 約 書 を 一 一5'1一
明治初期におけ る英学 の研究 取 りか わ して い た。 それ は政 府 雇 入 れ の 外 国 人 の な か に もい か が わ しい人 物 が い た か らで あ る。 そ こで政 府 は明 治3年2月 に 「外 国人 雇 入方 心得 条 々」 を布 告 した 。 そ れ で も 「ダ ラ ス ・リソ グ事 件 」 な どが起 った の で,明 治4年11月 文 部 大 臣 田 中不 二 麿 は外 人 教 師 の雇 入 れ に関 して の建 議書 に 是 迄 南 校 教 師 御 雇 入之 法 疎 漏 に して… … 教 授 免許 之証 書 も無 之 其 学 力我 生徒 に も劣 り候 者 往h有 之(40)」 と述 べ て い る通 り,外 国 人 の 招聘 には,政 府 も苦 慮 してい た 。 しか し,明 治 の初 期 に は ま だ攘 夷論 も残 存 して お り,キ リス ト教 も禁 止 され てい た し,交 通 の不 便 な非 文 化 国 で,た えず 生 命 の危 険 に さ ら され て い る の で,宣 教 師 で 使命 感 を もっ てい る者 は別 と して,そ れ 以外 の者 の場 合 は,相 当優 遇 して も,人 材 を招 聘 す る こ とは困 難 で あ った 。 フル ベ ツ キ は注 意 深 く,自 分 の 連 発 拳 銃 が整 備 され て い るか を調 べ,そ れ をサ ッ ク ・ コー トの右 手 の ポ ケ ッ トに 入 れ て歩 い て い た との こと で あ る(41)。大学 南 校 の 中 に も専 門 的素 養 の ない 「商 店 員,ビ ール醸 造 人,薬 剤 師,百 姓,船 員,曲 馬 団 の道 化 役 者(42)」な ど もま じ り,在 留外 国人 の間 で は こ の 学 校 を 「無 宿 者 の 収 容所(43)」 と酷 評 す る もの もい た とい う。 し た が っ て,女 性 関 係 も乱 れ,酒 気 を お び て教 壇 に立 つ 教 師 もあ った 。 しか し,彼 等 の 中 に は,帰 国後 自国 で 重 要 な ポ ス トに つ き,輝 か しい業 績 を あげ た もの も少 くな か った こ とで 明か な よ うに,そ の素 質 は お お むね 良好 で,そ の高 い教 養 ・技 術 を もっ て,そ れ ぞれ の専 門 の分 野 で,熱 心 に 誠 実 に明 治 日本 の建 設 に協 力 し,わ が 国 の発 展 の基 礎 を築 い た こ と は明 ら か な 事 実 で あ る。
留
学
生
幕 末 に欧 米 にお け る学 術 研 究 の た め に,幕 府 お よび諸 藩 が 留学 生 を蘭 ・ 英 ・仏 ・露 等 に送 った こ とはす で に述 べ た 。 留 学 生 に は軍 人 が多 か っ た。 一 部 を除 い て,多 くの者 は,ニ1学 力 にか け,適 切 な管 理 組 織 もな か っ た の で,遊 ん で ばか りい て ろ くに勉 強 も しなか った 。 従 って そ の 費用 の割 に, -52一明治初期 における英学の研究 学 術 研 究 の上 に大 きな貢 献 を す る こ とは で きなか った。 そ こで,新 政 府 は 明 治6年 海 外 留 学 生 の総 引上 げ を行 な った。 明 治新 政 府 に な っ てか らは,親 し く,欧 米 の文 化 に接 し,そ の知 識 を 吸 収 す る必 要 が一 般 に認 め られ,海 外 留 学 生 の数 は著 し く増 加 し,明 治 元年 か ら同5年 に至 る間 に,ア メ リカ に 留学 した者 だ け で も約500人(44)に 達 して い る。 新 政 府 の最 初 の 留学 生 は嘉 仁 親 王 の英 国留 学 で あ る。親 王 は, 維 新 の際 軍 務 に服 して功 労 が あ った。 明治3年10月 勅 許 を えて軍 事研 究 の た め英 国 に渡 航 しだ。 政府 は英 国留 学 生 の経 験 の あ る菊 池 大麓 を 留学 生 並 と して,嘉 仁 親 王 に随 行 せ しめ た。 さ らに 同 月,将 来 外 国 教 師 に代 るべ き邦 人 教 師 養 成 の た めに 大学 東 校 か ら池 田謙 斉 ほか8名 を医 学研 究 の た め ドイ ツに,大 学 南 校 か ら目賀 田種 太 郎(静 岡 人),香 月経 五 郎(佐 賀 人),長 谷1ff雉郎(姫 路 人),松 本 荘一 郎 (大垣人)を 米 国 に留 学 せ しめ た。 な お この 月 に は神 田乃 武,馬 込 為 助,矢 田部 良吉 の3名 に米 国 留 学 を許 可 した。 神 田 と馬 場 は 自費 留 学生 で あ っ た。 翌11月 に は能 久 親 王 は兵 学研 究 の た め ドイ ツへ,佐 賀 藩 知 事鍋 島直 大 は英 国 に留 学 を許 可 され るな ど,当 時 支 配 階 級 に あ っ た者 の 洋 学 熱 もい か に高 か っ たが うか が わ れ る。 この 月 に は さ らに ベ ルギ ーへ2名,ド イ ツへ3名 , ロシ ヤへ1名 調 査 また は研 究 の た め に派 遣 され た 。 これ まで 政 府 に は留 学生 を管 理 す る規 程 は なか っ た が,明 治3年 月12 日大 政 官 布 告 を もって 海 外 留学 規 則 を定 め た。 そ の規 則 に よ る と,海 外留 学 生 徒 は す べ て大学 の管 轄 と し,大 学 よ り留 学 免 状,外 務 省 よ り渡 航 免 状 を下 附 し・ 留 学 中 諸 般 の 事務 は すべ て弁 務 使 に依 頼 し,そ の指 令 に従 うべ き もの と し た。 留学 に は・ 官 選 と私 願 との別 が あ り,官 選 の場 合 は太 政 官 にて ・ 大 学 生 徒 は 大学 に て,'士 庶人 は その 府 藩 県 の庁 にて 選 び,生 徒 を上 程 す る前 に 地 方 の 氏 神 へ参 拝 し,国 恩 報 効 を祈 念 し,神 酒 を拝 戴 して国 体 を辱 しめ な い 誓願 を立 て,帰 朝 の時 ま た告 賽 す る よ う,東 京 よ り上 程 の 者 は神 祗 宮 へ 出 頭 神殿 へ参 拝 す べ き もの とな っ てい'る(45)。文 部 省 が設 置 さ れ る と,留 学 生 の こ とは そ の管 理 に な っ た。 一53一 \
明治初期 における英学の研究 同年12月 には,西 園寺 公 望 が仏 国 へ,金 沢 の人 佐 雙 左 仲 は 兵部 省 か ら 選 ばれ て,造 船 専 攻 の た め英 国へ 留 学 を命 ぜ られ て い る。 翌4年11月3日 に は,開 拓 使 次 官 黒 田清 隆 の斡 旋 に よ って 女 子5名 を 選 抜 して,米 国へ 留 学 せ しむ る こ とを決 定 した。 これ はわ が 国 に お け る女 子 の海 外 留 学 の最 初 で,破 天荒 の英 断 で あ る。 そ の女 子 の 名 は 東 京 府 出仕 士 族,吉 益 正雄 娘 吉 益 亮 子(16才) 静 岡県 士 族,永 井 久 太 郎娘 永 井 繁 子(10才) 東 京 府 士 族,津 田仙 弥 娘 津 田梅 子(7才) 青 森 県 士 族,山 川 与 七 郎娘 山川 捨 松(12才) 外 務 中録,上 田酸 娘 上 田悌 子(18才) で,翌 目彼 女 等 は宮 中 に召 され,皇 后 陛 下 か ら次 の令 旨 を賜 わ った 。 其 方,女 子 に して洋 学 修 業 の 志,誠 に 神妙 の事 に候 。 追 々女 学 御 取建 の儀 に候 え ば,成 業 帰 朝 の上 は,婦 女 の模 範 と も相 成 候 様 心 掛,日 夜勉 励 可 致 事 。 彼 女 等 は11月12日 岩 倉 大 使 一 行 に 加 わ り,総 勢48名 で,渡 米 し,ワ シ ソ トン附 近 の ジ ラル ジ町 の小 学 校 を経 て ヴア サ ールー(一 説 にポ ッ ヶ プ レー女 学 校)に 入 学 して勉 強 し,同15年10月 帰 国 しa。 っ い で に,女 子 留 学 生 第1号 の 帰 国後 の消 息 を述 べ よ う。繁 子 は高 等 女 子 師 範 学 校 の 音 楽 教 師 とな り,そ の 後 海 軍大 将 瓜 生 外 吉 夫 人 とな った 。梅 子 は学 習 院 女 子 部 教 師 とな り再 度 米 国 に 留学 し,明 治33年9月 に津 田英 学 塾 を創 立 し,そ の 校 長 とな った 。 捨 松 は元 師 大 山巌 夫 人 と な り,悌 子 は儒 者 乙 骨 耐 軒 の 次 男 絅 二 と結 婚 し,文 学博 士 上 田敏 を生 ん だ(46)。亮 子 は不 幸 に も明治19年 コ レラ にか か って 死 亡 した(47)。 文 法 ・辞 書 ・翻 訳 等 「木 の葉 文 典 」 を中 心 書 と して 明治 の 改 元 を迎 えた英 学 界 は,文 法 書 は 「木 の葉 文 典 」 の ほか に,す で に各 学 校 の 使 用 教 科 書 と して 引用 した よ う につ ぎの書 が 使 わ れ た 。 -54一
明 治初 期 に お け る英 学 の 研究 J.S.Pinned:PrimaryGrammaroftheEnglishLanguage G.P.Quackenbos:FirstBookinEnglishGrammar EnglishGramrn .ar 英 和 辞 書 は 文 久2年(1862年)に 幕 府 の 洋 学 調 所 か ら 出 版 され た ,堀 達 之 助 ・堀 越 亀 之 助 共 編 「英 話 対 訳 袖 珍 辞 書 」 一 通 称 「開 成 所 辞 書 」 が , 明 治 に な っ て も版 を 重 ね,明 治2年 に 出 版 さ れ た 厂改 正 増 補 和 訳 辞 書 」 ∼ 通 称 厂薩 摩 辞 書 」 と な らん で 明 治20年 頃 ま で 広 く行 な わ れ た 。 和 英 辞 典 は ヘ ボ ン博 士 の,8年 に わ た る努 力 の 結 晶 で あ る 「和 英 語 林 集 成 」 一 俗 称 厂平 文 字 書 」 が 慶 応3年 上 海 で 出 版 され た 。 この 辞 書 は 厂和 英 辞 典 史 の 臂 頭 に 飾 られ る 千 古 不 磨 の 大 金 字 塔 で あ る 。(48)」「平 文 字 書 」 淋 明 治 前 半 の 唯 一 の 和 英 辞 典 で あ る と い う で も過 言 で な い 。 そ の 後 し ば ら く の 間 出 版 さ れ た 和 英 辞 典 は 「平 文 字 書 」 を 骨 子 と し,あ る い は 一 部 を書 き か え た り,簡 略 化 し た もの に 過 ぎ な か っ た 。 、 明 治 の 初 期 は 「文 明 開 化 」 を ス ロ ー ガ ン と し た の で,近 代 化 ・啓 蒙 に 役 立 つ 洋 書 は つ ぎか ら つ ぎへ と翻 訳 され た 。 そ の 数 例 を あ げ よ う。 明 治 元 年 英 人 ブ ラ ソ ク 原 著,鈴 木 唯 一 訳 「英 政 如 何 」,米 医 師 グ ロ ッ ス 著,田 代 一 徳 訳 「切 断 要 法 」,明 治2年 に は 英 人 ウ ィ リ ア ム ・ ト ー マ ス ・ブ ラ ン ド著, 福 沢 諭 吉 訳 厂英 国 議 事 院 談 」(2冊),英 国 の1867年 式 歩 兵 練 法 を 上 村 又 八 が 訳 し た 「英 吉 利 歩 兵 練 法 」,英 国 海 軍 法 律 の 抜 萃 を 小 幡 甚 三 郎 が 訳 し た 「英 国 軍 艦 刑 法 」,英 人 ス マ イ ル ス 原 著,中 村 正 直 訳 厂西 国 立 志 編 」,英 人 ウ ィ リ ア ム ・フ ラ ン シ ス ・コ リ ー ル 原 著,河 津 孫 四 郎 訳 「西 洋 易 知 録 」 (6冊)・ 英 人 トー マ ス ・シ ー ・フ レ ッ チ ェ ル 原 著 厂泰 西 農 学 」(8冊) ,明 、 治4年 に は ジ ョ ン ・ ミル 原 著,中 村 正 直 訳 「自 由 之 理 」(5巻) ,数 氏 の 著 作 か ら内 田 正 雄 ・西 村 茂 樹 が 共 訳 し た 厂輿 地 誌 略 」,英 人 ウ エ ラ ン ド原 著, 小 幡 篤 次 郎 訳 厂英 氏 経 済 論 」(3巻),米 人 ヨ ン グ 原 著,何 礼 之 訳 「政 治 略 源 」,パ ー レ ー 原 著,石 川 静 斉 訳 撰 「西 洋 夜 話 」,米 人 ス ミ ツ ド原 著,神 田 孝 平 訳 「星 学 図 説 並 図 」 の ほ か 原 著 者 名 不 明 の も の が 数 多 く訳 され て い る。 :オラ ン ダ 語 ・ フ ラ ン ス 語,ド イ ツ語 か ら も各 方 面 の 書 物 が 翻 訳 され て い る 。 -55一