貿易関連知的財産権TRIPs交渉前史 : 知的財産権問 題からみたウルグアイ・ラウンドへの道
著者 嶋田 巧
雑誌名 同志社商学
巻 56
号 5‑6
ページ 156‑181
発行年 2005‑03‑15
権利 同志社大学商学会
ドウシシャ ダイガク ショウガッカイ
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007317
貿易関連知的財産権 TRIPs 交渉前史
──知的財産権問題からみたウルグアイ・ラウンドへの道──
嶋 田 巧
蠢 知的財産権の歴史と本稿の課題──序に代えて 蠡 米国の通商政策の転換
蠱 南北間の技術格差と三極の共同利害 蠶 パリ条約修正交渉の挫折
蠹 GATTかWIPOか 蠧 GATTと知的財産権
蠻 プンタ・デル・エステ宣言へ──結びに代えて
Ⅰ 知的財産権の歴史と本稿の課題──序に代えて
ウルグアイ・ラウンドの交渉は,GATT史上もっとも困難で長期にわたった包括的な 交渉であった。固有の意味での貿易次元を越えた新しい領域が交渉の対象とされ,また 多くの発展途上国が参加するなかで錯綜した利害の対立のもとで複雑な様相を呈した。
同時にそこに常に南北次元があらわれたが,とくに貿易関連知的財産権
TRIPs
交渉で は,それがもっとも鋭くあらわれたことが特徴的である。しかも,総じて自由化を追求 した開発諸国が,知的財産権に関してはその保護のグローバルな拡大・強化を求めたこ とが注目される。こうして知的財産権を私権として包括的にとりあげ,最低の保護基準 を規定したTRIPs
協定が成立した。本稿は,TRIPs協定の意義を明らかにするためのひとつの準備作業として,ウルグア イ・ラウンドで知的財産権がはじめて本格的にとりあげられるにいたった前史を,より 正確に言えば,その歴史的背景とコンテキストを,南北次元に焦点をすえながら多面的 に検討する。つまり知的財産権の規制・保護をめぐる問題を中心に,ウルグアイ・ラウ ンドへの道が,なぜ,どのように,開かれていったかを明らかにする。
それに先だって
15−6
世紀のヨーロッパに法制的な起源をもち,その後国際的なハー モナイゼーションが進められたが,属地主義の原則によって支配されてきた知的財産権 の保護をめぐる歴史に,あらかじめごく簡単に触れておこ1
う。
それは特権から経済的権利としての確立のプロセスであり,特許については
1474
年────────────
1 知的財産法の歴史について,ごく簡単には,角田政芳・辰巳直彦『知的財産法』有斐閣,2000年,9−
24, 370−384ページ,参照。
156(676)
のヴェネチアの特許法にまでその起源を遡ることができる。その後,1790年に米国 で,1791年には自然法思想に基づくといわれる特許法がフランスで制定され,ドイツ でも
1877
年には制定された。産業的発展との関連の深い特許制度は,国内及び諸国家 間で繰り返し対立の原因となり,自由貿易の推進派と特許独占の認可を弁護する者との 激しい戦いは,19世紀後半にひとつのピークに達し2
た。当時,特許保護の概念は,多 数のエコノミストなど自由貿易の支持者によって厳しく批判されたが,大部分は法律 家,エンジニア,産業家からなる特許支持者の政治的勝利に終わった。こうして特許制 度はほとんどすべてのヨーロッパ諸国で(再)確立し,1883年に特許権を含む工業所 有権の保護に関するパリ条約が成立した。
他方,無断の複製や模倣を禁止して著作権を保護する世界最初の立法は,1545年に 成立したヴェネチアの出版特許制度であったといわれる。それは活版印刷の発明による 大量の複製技術を背景としたものであったが,その後イギリスで世界最初の著作者保護
(出版権)法といわれる「アン条例」が成立し,米国,フランスで
1790−1791
年に著作 権法が制定され,ドイツでも1838
年に著作者の保護を意図する法律が制定された。こ うして1886
年のベルヌ条約の成立によって国際的なルールの形成がはじまった。19
世紀に確立された自由競争の基本的なノルムは,しばしば相対的に弱い知的財産 権の保護の形態を誘導し3
たといわれるが,1880年代後半には知的財産権のいっそうの 保護とハーモナイゼーションの最初の試みであるパリ条約とベルヌ条約が成立したので ある。
その後二つの条約についてそれぞれ数次にわたる修正がなされ,1967年にはこれら の国際的諸条約を運営するために世界知的所有権機構
WIPO
が設立された(WIPOは1974
年には国連専門機関となった)。そして知的財産の国際取4
引が広がるなかで,その 利用と実施が国際経済関係の主要な問題となり,紆余曲折を経てウルグアイ・ラウンド で知的財産権のいわゆる貿易関連側面が包括的にとりあげられるに至った。なお知的財
────────────
2 Kulessa, M. E., and T. Bruehl, International Protection of Intellectual Property and Its North-South Implica- tions : The General Discussions and the Case of Biotechnology in Singer, H., Hatti., N. and R. Tandon eds., TRIPs, The Uruguay Round and Third World Interests,New World Series, Vol. 15(Part I), B. R. Publishing
Corporation, 1998, pp. 611−612. 当時の新興工業国オランダでは,議会が1809年に制定された特許法を
廃止し,別の特許法は1912年まで導入されなかった。スイスでも特許法を求める試みは何度も失敗し た後,1887年にはじめて成功した(cf. Patel, S. J., IPR in the Uruguay Round : A Disaster for the South? ,Economic and Political Weekly,May 6, 1989, p. 980)。
3 Reichman, J. H., Implications of the Draft TRIPS Agreement for Developing Countries as Competitors in an Integrated World Market,UNCTAD, Discussion Paper, No. 73, Nov. 1993(in Singer, H., et al.,op. cit., p.
520).
4 その価額が一定程度知的(財産的な)要素を反映する財・サービスの取引,知的財産を直接販売あるい は貸出すことでロイヤルティやライセンシング・フィーを得る取引,とくに知的財産利用のコントロー ルを維持するために選好される外国直接投資の三つに分類できる(cf. Maskus, K. E., Normative Con- cerns in the International Protection of Intellectual Property Rights,World Economy, Vol. 13, No. 3, Sep.
1990, p. 389)。
貿易関連知的財産権TRIPs交渉前史(嶋田) (677)157
産権の語は,歴史的には著作権だけを示し,特許や商標などは工業所有権として言及さ れてきたのである
5
が,その後これら全体が包括的に知的財産権とされた。
以下,ウルグアイ・ラウンドにおいて知的財産権の保護がとりあげられるに至った背 景,その政治的経済的コンテキストを明らかにすることを主眼として,次の五つの点を とりあげて論じる。
第
1
は,米国における通商政策の転換,第2
は,南北の技術的格差のもとでの米欧日 の共通の利害,第3
は,WIPOにおけるパリ条約修正交渉の挫折,第4
に,それと直接 関連する交渉の舞台としてのGATT
の選択,さらに第5
として,ウルグアイ・ラウン ド以前のGATT
における知的財産権をめぐる議論と交渉の推移を整理する。最後に,プンタ・デル・エステ宣言における
TRIPs
交渉に関連した内容を検討し て,本稿の結びに代える。Ⅱ 米国の通商政策の転換
まず最初に,米国における知的財産権の保護をめぐる通商政策の転換をとりあげ
6
る。
その基本的かつ一般的な背景は,とくにダイナミックな技術集約的な財の生産・貿易 において,技術が競争力に影響を及ぼす基軸的な要因として認識されてきたことであ る。これは研究開発
R & D
支出の増大傾向に反映されたが,とくに情報やバイオテク ノロジーの分野において新技術と結びついた知的生産の高度な外部性が,R & D の成 果の専有性を大幅に制約する顕著な傾向がみられた。こうしてレーガン政権のもとで,反独占的意図から競争を重視して知的財産権の保護を抑制する傾向にあった戦後の国内 政策の転換が図られた。製造業と技術的優位が侵食されるなかで,連邦巡回控訴院の設 立(1982年
10
月)などプロパテント政策への転換が進んでいった。同時に,競争力の相対的な低下による巨額の貿易赤字も,米国のイノベーションを他 の諸国が模倣することを許容し,また模造商品の普及を招くほど技術・科学システムが 余りにも開放的にすぎた結果として考えられた。こうしたなかで国際的な知的財産権シ ステムの改革と保護の強化が主張された。それに基づく独占的な地位が,米国の競争力 を強化し,アジア諸国等による「模倣的な道」に基づく工業化によるいっそうのキャッ チ・アップを阻止するための道具として認識されたのである。
────────────
5 Stewart, T., Trade-Related Aspects of Intellectual Property Rights ,in T. Stewart, ed.,GATT The Uruguay Round : A Negotiating History,Vol.蠡,Kruger Press, 1993, p. 2246.
6 South Centre,The TRIPS Agreement : A Guide for the South, Nov. 1997, pp. 3−4, Carlos M. Correa,Intellec- tual Property Rights, the WTO and Developing Countries : The TRIPS Agreement and Policy Options, Third
World Network, 2000, pp. 10−12,村上政博「米国の新通商政策と知的所有権保護強化」『国際問題』No.
329, 1987年8月,坂井昭夫『日米ハイテク摩擦と知的所有権』有斐閣,1994年,83−159ページ,佐々
木隆雄『アメリカの通商政策』岩波新書,1997年,181−187ページ,高倉成男『知的財産法制と国際 政策』有斐閣,2001年,116−139ページ,など。
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S. K. Sell
によれば,知的財産の保護政策の普及について,1960−70年代のさまざま な多角的フォーラムの勧告は些細な結果をもたらしたにすぎず,最近の普及のもっとも 重要な要因は強制であっ7
た。1980年代初頭にさまざまな米国企業団体の強い要請でお こなわれた,ハンガリー,韓国,シンガポール,台湾との双務的な協議を通じてすみや かに成果が得られた。これによって政府は勧告だけでは無力で,貿易と知的財産権をリ ンクした体系的な双務的協議つまり強制戦略が有効であることを学んだ。
知的財産権を保護するための貿易戦略の展開に決定的であったのは,産業界が貿易政 策に直接影響を及ぼすようにデザインされた貿易交渉勧告委員会
ACTN
であっ8
た。
ACTN
が設立した知的財産に関するタスクフォースの勧告が貿易戦略の発展にとって 根本的であり,それは本質的にGATT
に知的財産権を組み込むという長期的な目標を 持つことを必要とした。企業にとって知的財産権をGATT
にリンクさせる明白なメリ ットは,それによってグローバルなカバリッジが得られることと,貿易紛争を解決する ために発展してきた実施メカニズムが利用できることである。こうして
1984
年10
月には通商関税法が成立して,74年通商法301
条が改正され,不公正な貿易慣行にサービス・直接投資・技術に関するものを含むことが明確にされ た。知的財産権の保護が「公正」あるいは「衡平」でない,事実上,米国と同等の知的 財産権制度を有していないことが,不公正な貿易慣行に当たるとして,その整備を外国 政府に求めることになった。また
1984
年商標不正品法によって商標を侵害する財やサ ービスの取引に対して刑事罰を課すこととし,一般特恵関税制度GSP 1984
年更新法(通商関税法第
5
編)によって,GSP 待遇の適格性基準として特許,商標,著作権を含 む知的財産権の保護と投資・サービス障壁の引下げが追加され9
た。さらに
85
年1
月の「産業競争力に関する大統領顧問委員会」(通称ヤング委員会)による「国際競争力と新 たな現実」と題する報告書(いわゆるヤング・レポート)は,貿易を国家的優先事項と し,相対的に優位にある技術開発力を維持・強化するために,各国に知的財産権制度の 整備を求める方針を示した。パリ条約等の内国民待遇原則のもとでも,保護法制がない ことやその水準の低さ,あるいは法の執行が不十分なことを問題としたのである。たと えば,特許対象の制限,特許期間の短さ,強制実施権の存在,ソフトウェアなど新技術 に関連する保護の遅れなどである。
ACTN
の委員長が1981
年からファイザーのCEO
のE.
プラットで,競争力委員会のJ.
ヤング委員長がヒューレッド・パッカード社長であったことが端的に示すように,レ ーガン政権下の通商政策は,ハイテク産業界の強い影響力のもとで形成されたのであ────────────
7 Sell, S. K.,Power and Ideas : North-South Politics of Intellectual Property,SUNY Press, 1998, pp. 182−183.
8 Braithwaite, B., and P. Dras,Global Business Regulation,Cambridge University Press, 2000, pp. 61−62.
9 Bradley, A. J., Intellectual Property Rights, Investment and Trade in Services in the Uruguay Round : Laying the Foundation ,Stanford Journal of International Law,Spring 1987, pp. 73−74.
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る。
こうして
1985
年秋には韓国に対して301
条に基づく最初の行動がとられ,プンタ・デル・エステ閣僚会議の「まさに直前に」知的財産権の保護を強化するために「貿易制 裁という脅威を用いた最初の重要な勝利」を実現し
10
た。すなわち,86年
7
月の米韓協 定において,韓国は,コンピュータ・プログラムの保護や国際的に周知の商標を保護す る著作権法の改正とエンフォースメントの強化,医薬品や化学品の物質特許の導入その 他に同意したのである。それだけでなく米韓交渉は,知的財産権に関する
GATT
イニシアティブに対する途 上国の反対から,韓国を切り離すという「重要な副次的な目的」をもっていたといわれ11
る。たとえ,それは明白でなかったとしても,他の発展途上国に対するひとつの例とし て役だったこ
12
と,新ラウンドにアジェンダとして知的財産権をとりあげることに対する
韓国や
ASEAN
諸国などの抵抗を弱め,これら諸国が穏健派グループを形成する要因となったことも否定できないであろう。ウルグアイ・ラウンドの初期に知的財産権に関す るルールづくりに関心を示した(ただし,その適用においては途上国への配慮や援助が 必要であるとしたが)穏健派は,「経済発展のために知的財産制度の果たす役割を認識 し
13
」ていたといわれるが,それが,どこまでナショナル・インタレストを反映したもの であったかについては疑問である。
むろん輸出志向型工業化が進みグローバル経済へ接合されたアジアやラテン・アメリ カの一部諸国において,国内産業の少なくとも一部が知的財産権の保護への関心を強め たことは事実であろう
14
が。たとえば,ブラジル,韓国,メキシコ,フィリピン,シンガ ポールのビデオ・レコード生産者,タイやマレーシアのコンピュータ協会,及びインド の一部の製薬企業は,すべて保護のより強い基準に関心を示した。さらに
80
年代後半 にはインドの連合商業会議所は政府にパリ条約への加盟を要請し,91年にはコンピュ ータソフトウェア輸出業者は反ソフトウェア偽造連盟を形成した。ともあれ米国は「公正貿易」運動の文脈において相手国に直接譲歩しない攻撃的相互 主義(一方主義)に成功しつつあったが,それは世界貿易システムの必要とする「正統 性と包括性」をもたらすものではなく,限界を有するものであっ
15
た。
────────────
10 Watal, J.,Intellectual Property Rights in the WTO and Developing Countries, Kluwer Law International, 2001,
pp. 18−19. 同年,ソフトウェアを著作権で保護しない方針をとっていることでブラジルに対して301条
を発動したほか,台湾,メキシコ,シンガポール,カナダとの間でも知的財産権に関する2国間交渉が 開始された。その結果,たとえば,台湾では1985−86年に著作権法や特許法が改正され,コンピュー タ・プログラムの保護や物質特許が導入されることになった。
11 Ryan, M. P.,Knowledge Diplomacy : Global Competition and the Politics of Intellectual Property,Brookings Institution Press, 1998, p. 75.
12 Watal, J.,op. cit.,p. 18.
13 高倉,前掲書,141ページ。なお問題は,いうまでもなく知的財産権制度一般ではなく,その制度の下 での知的財産の範囲,保護の水準,エンフォースメントなどである。
14 Sell, S. K.,op. cit.,p. 213.
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160(680)
通商法
301
条やGSP
待遇の適格条件をテコとした双務的な強制戦略の結果,途上国 は知的財産権に関する新しい法や政策を公式には受入れたが,その実施とエンフォース メントには抵抗した。途上国の「公式の政策」と「実際のコミットメント」の間にはギ ャップがあり,それは紙の上で遵守の確保に大部分成功したにすぎない。これら諸国 は,政策は変更したが,知的財産権の保護についての考え方は変えなかった。それだけでなく,双務的な国別交渉は米国のアプローチを一貫しないものにしうる し,場合によっては将来の交渉成果を制約するかもしれない。さらにある交渉を通じて 達成された成果は,他の開発諸国によって ただ乗り しやすくなるであろう。
これらは,双務的交渉による既存の成果を強化するだけでなく,その弱点を克服し,
また米国のリーチを拡張するためにも,多角的な交渉の必要性を示唆するものであっ た。こうして
1985
年9
月の「新通商政策」や通商代表部USTR
の「知的財産権保護政 策の骨子」(86年4
月)によって,中長期戦略として国際的なレベルで知的財産権を保 護するルールの整備・強化を図る方針が明確にされた。さらに米国は双務的な圧力を継 続する一方で,GATTにおいてこの問題を扱うことを強く主張し,実際,ウルグアイ・ラウンドにおいて
TRIPs
協定を強硬かつほとんど非妥協的に追求したのである。なお米国の
301
条に匹敵する通商法はもたなかったが,ECも1984
年に,知的財産 権とくに著作権の分野で,将来重要な役割を演じると考えられた(著作権に関するEC
グリーン・ペーパー) 新しい貿易政策インスツルメント を創出し16
た。1994年まで存 続したこのインスツルメントは,ECの経済的利害に影響する他国の 不法な
illicit
商 業的慣行 すなわち 国際法あるいは一般に受け入れられた諸ルール の侵害に対して 報復を許容するものである。知的財産権の分野では,これは主として既存のパリ条約及 びベルヌ条約のもとでの諸義務を侵害している諸国に対して用いられるとみられたが,米国の通商法の線に沿ってすなわち
GSP
の停止という双務的な措置がとくに韓国に対 してとられた。そこには米韓交渉で,韓国が米国の要求に同意した内容が他国には拡大 されなかったというむしろ特異な背景が存在した。すくなくとも米国と同様の有利な待 遇を要求したEC
の行動は−ある視点からみれば一方主義的なものであったが−,最恵 国待遇を要件とするベルヌ条約の諸条項を侵害する点で差別的な制度(米韓協定)に逆 襲するものであった。────────────
15 Damschroder, M. L., Intellectual Property Rights and the GATT : United States Goals in the Uruguay Round ,Vanderbilt Journal of Transnational Law, Vol. 21, No. 1, 1988, p. 372, Sell, S. K.,op. cit.,pp. 188−
198, Gadbaw, M., and T. J., Richards, eds.,Intellectual Property Rights : Global Consensus Global Conflict, Westview Press, 1998, Introduction, pp. 28−29.
16 Trebilcock, M. J., and R. Howse, The Regulation of International Trade, Routledge, 1995, pp. 261−262. K.
Stegemannによれば,それは知的財産を目標とするものではなく広範に用いられることもなかったが,
ECは,欧州経済領域協定EEAや中東欧諸国との双務的協定などに関連条項を含めることを通じて知 的財産権の保護の拡張を試みた(cf. K. Stegemann, The Integration of Intellectual Property Rights into the WTO System ,The World Economy,Sep. 2000, Vol. 23, No. 9, p. 1241)。
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Ⅲ 南北間の技術格差と三極の共同利害
1
南北間の技術格差以上のような知的財産権の保護に関する米国の通商戦略は,特許制度の特異さなどの ために,日・欧とも摩擦を引き起こすものであった。とはいえ,世界的な規模での知的 財産権制度の整備は,日本の長期的利益とも合致する望ましいものであり,新ラウンド においてそれが交渉課題となったのは,「米国の強談判と日本の緊密な協力」によ
17
る。
EC
は,知的財産権を包括的に含む新ラウンドに,当初,必ずしも積極的でなかった が,米・欧・日の三極の間には経済的,技術的先進国として共通の利害が存在した。実 際,アジアやラテン・アメリカの一部諸国の急激な工業化が世界経済の重層化と南北問 題の変容をもたらしつつあったとはいえ,全体として南北間の経済的,技術的格差は深 刻かつ巨大であった。とくに技術面における北の多国籍企業の隔絶した優位と途上国の 周辺的な位置は誰の目にも明らかであった。実際,財,サービス,外国直接投資,知的財産のすべての面で,OECD諸国が圧倒 的に優越的な位置にあったことを確認しておこう(表参照)。サービスや直接投資のフ ローと比較しても,知的財産所得に占める南北の格差は巨大である。すなわち,1990 年の時点で世界全体の知的財産所得
330
億ドルのうち,OECD諸国が322
億ドル(97.6%)を占めたのに対して,非
OECD
諸国はわずかに8
億ドル(2.4%)にすぎず,発展 途上国の米・EC・日の三極に対する技術依存が決定的であることは明白である。こうした技術依存は,特許の現状に典型的にあらわれてい
18
る。1970年代に約
350
万 の特許が存在したが,そのうち約20
万が途上国によって認可されたにすぎず,途上国 の国民(企業)による所有はわずか1% 程度(約 3
万)にすぎなかった。さらに特許の 圧倒的多数が主として主要5
カ国の多国籍企業によって所有される一方で,そのほとん────────────
17 村上,前掲論文,30ページ。
18 Patel, S. J.,op. cit., p. 980.
表 財・サービス・知的財産・対外直接投資のグローバル・フロー,1990年
(単位;10億ドル,%)
財の輸出 サービスの輸出 知的財産所得 直接投資所得* 世界全体
OECD諸国
非OECD諸国
3500(100)
2793(79.8)
707(20.2)
82.0(100)
68.6(83.7)
13.4(16.3)
33.0(100)
32.2(97.6)
0.8 (2.4)
11.5(100)
10.4(90.1)
1.1( 9.9)
*グローバルな受取りと支払いの平均
資料:GATT及び,サービス・知的財産・対外直接投資の数字は,IMF, Balance of Payments tape。
出所:Hoekman, B. M., New Issues in the Uruguay Round ,The Economic Journal, Vol. 103, No.
421, Nov. 1993, p. 1529, Table 1.(ただし,世界以外の輸出・所得額は筆者算出)
同志社商学 第56巻 第5・6号(2005年3月)
162(682)
どすべては途上国の生産プロセスでは使用されていなかった。途上国は明らかに世界の 特許システムの周辺に位置していたのである。途上国は,世界人口の約四分の三を占 め,高等教育の登録者数では
40%,GDP
では20−25%,工業生産でも 15−20% に達し
ていたが,世界の特許ストックの1% を占めたにすぎない。
それゆえ,第三世界がその自立に向けて特許システムの示す高度に不平等な国際関係 を再構築しようとしたのは何ら不思議なことではない。
はじめて技術移転の問題をとりあげた
1961
年の第16
回国連総会において,先進国が 特許を独占し途上国の経済と技術を支配しているとして,発展途上国が批判したのはこ の点を示すものであろう。しかも,A. パサードも言うごとく,特許は単に技術格差の 結果を如実に物語る指標であるだけでなく,格差を固定化する作用をもつものであ19
る。
こうして私的企業に認められた独占的な権利と公共的なあるいはナショナルな利害を 守る規範との間に利害の対立が存在し,特許独占の承認はその供与国の利益に役だつと 考えられていた。こうしたなかで,ほとんどの発展途上国において特許法は,必然的 に,その承認によって付与される独占的な私的権利を,公共の利益において制限するた めのさまざまな手段を含んでい
20
た。強制的ライセンス,権利のライセンス,自動的な失 効などであり,その他,一部のものが特許適格性から除外され,期間も
5
年から21
年 とさまざまであった。たとえば,パリ条約には未加盟であるが
WIPO
設立条約には加盟していたタイの特 許制度においては,不特許発明として医薬品,飲食品,化学物質及び農業機械があげら れ,存続期間は出願日から15
年とされていた。許諾実施義務違反の制裁として,強制 実施許諾のほかに特許取消し制度などがおかれていた。またインドでも,不特許発明と して食品,医薬品,及び化学物質があげられ,存続期間は特許付与日から原則14
年と していた。また実施義務を明確に規定し,不実施制裁として強制実施許諾制度のほか特 許の取消し制度をおき,さらにライセンス・オブ・ライト制度をおいてい21
た。このよう な途上国に当時広がっていた知的財産権の保護の基準は,そんなに古くない時に開発世 界に適用されていたものにしばしば類似したものであ
22
る。
2
三極の共同利害他方で,米欧日の三極においては工業所有権や著作権などの制度は当時すでに整備さ
────────────
19 Foreign Affairs, Feb./Mar. 2001(A. パサード「知識革命の南北格差を是正せよ」『論座』2001年5月
号,256ページ). 20 Patel, S. J.,op. cit.,p. 980.
21 以上,土肥一史「知的財産権をめぐる先進国と途上国」『国際問題』No. 392, 1992年11月号,31−33ペ ージ。
22 Reichman, J. H.,op. cit.(in Singer, H., et al.,op. cit.,p. 520.),UN,Trade and Development Report, 1991, p.
179.
貿易関連知的財産権TRIPs交渉前史(嶋田) (683)163
れ,保護の制度的な特徴は大部分比較可能であ
23
り,少なくとも旧来型・成熟型の技術は 米国と「ほぼ同等に」保護されてい
24
た。たとえば,化学物質や医薬品についての特許適 格性は,1970年代末頃までにはほとんどすべての先進国で認められ,共通のカバリッ ジを有するに至っていた。それだけでなく,安全保障や経済的な主導権がからむため利 害調整が困難な先端技術分野においても,コンピュータ・プログラム,微生物,植物新 品種,半導体チップのデザイン等において米国主導ながら同一歩調で保護が開始されつ つあっ
25
た。たとえば,コンピュータ・プログラムでは米国が
1980
年の著作権法改正で 著作物として保護することを明確にしたのに続き,1985年には,米国の情報産業の独 占に対抗すべく「独自立法」による保護の主張が通産省を中心に存在していた日本のほ か,西ドイツ,イギリス,フランスでも著作権による保護が,米国の圧力を背景に決定 された。ECにおいても「属地主義を否定する究極の統一広域特許条26
約」とされる単一 の統一特許を認める共同体特許条約
CPC
が当時の加盟国9
カ国の署名により1975
年 に成立していた。ただし,それはコンピュータ・プログラムそのものについては特許の 対象としていないし,「域内後進国」のアイルランドやスペインの反対のために未発効 であっ27
た点は注目しておかねばならない。
いわば模倣的な発展段階にあった途上国の一般に弱いが多様な保護とともに,これら の例は,知的財産権の保護の性格と範囲,その保護によるイノヴェーションの促進と普 及や公共的利害の間の適切なバランスが,国ごとにまた特定の国においても時代ごとに 多様であ
28
ることを示している。
ところでロイヤルティの国際収支は当時米国だけが黒字であったというが,対途上国 に限定すれば
EC
主要国と日本などのロイヤルティ収支も黒字であったと思われる。こ うして発展途上世界に対して知的財産権の保護の劇的な強化を強制することによって,すでに知的財産権の尊重すべき保護国のクラブに参加していたほとんどの開発諸国が,
その収支を改善する一方で,開発諸国間のロイヤルティ等の収支にはそれほど大きな変 化はないはずであっ
29
た。
────────────
23 Kulessa, M. E., and T. Bruehl,op. cit.(in Singer, H., et al.,op. cit.,p. 612)
24 村上,前掲論文,28ページ。
25 同上。化学物質については,ドイツや北欧諸国では1967〜68年,日本でも1976年には適格とされ,医 薬品についても,ドイツやフランスでは1967年,イタリアでも1979年までに認められた。ただし,ス イスで化学物質が適格とされたのは1987年であり,スペインでは両方とも市場統合完成の1992年以前 に適格とされるとは予想されていない(cf. Patel, S. J.,op. cit., p. 980,ただし,彼は,開発諸国ですら 医薬品などがこの時期まで特許の対象とされなかったとする文脈において,この点を指摘している)。 26 角田・辰巳,前掲書,376ページ。ただし,1973年に成立した特許付与手続に関するヨーロッパ特許条
約は1977年に発効した。
27 相澤英孝「ヨーロッパにおける知的所有権法の動向」『国際問題』1987年8月号,No. 329, 33−36ペー ジ。なお,この条約を批准した7カ国で効力を発生させるために,1985年12月に会議が開かれたが,
その目的は達せられなかった(同,34ページ)。
28 UN,op. cit., p. 179, Trebilcock, M. J., and R. Howse, op. cit., pp. 250−251(それだけでなく最近の研究 は,過度の保護がR & Dに関して浪費的支出をもたらしうることを示している)。
同志社商学 第56巻 第5・6号(2005年3月)
164(684)
B. Debroy
によれば,知的財産権のより強い保護の要求が,北によって提起された理 由は単純であ30
る。それは,開発諸国のロイヤルティ収入を増大し,輸出の直面する競争 をより小さくし,開発諸国に対する闇取引に近い
gray
輸入もより少なくなるからであ る。また無許可の使用を発見し,それを阻止する費用も減少するであろう。また
M. E. Kulessa
とT. Bruehl
によれば,知的財産権の有効な保護に関する多くの 工業諸国における利害の増大は,一般に次の三つの独立した要素からなるグローバリゼ ーションの進展に直接結びついてい31
た。第
1
は,国際分業と需要における構造的な変化 であり,先進国は有効な保護によって 非物質的な比較優位 を促進し,外国の競争相 手と対抗する可能性である,第2
は,技術進歩とその経済的帰結で,知識やアイデアの 新しい製品やプロセスへの転換は目的であるだけでなく,保護・強化の理由であった,第
3
は,財,サービス,投資のグローバルな自由化のもとで,模造品やコピーがますま す容易に浸透していったことである。ともあれ巨大な技術格差を反映して南北の知的財産権制度が大きく異なるなかで,同 一歩調で進みつつあった北の保護制度を南の諸国へ拡大することは,当時圧倒的な技術 優位にあった米国だけでなく日・欧の利害にも基本的に合致するものであった。グロー バリゼーションがすすむなかで三極の諸政府とその背後にある各国のビッグビジネス は,利害の共通性を有していたのである。実際,1986年
3
月に米国通商代表部が国内 の主要企業に対して外国のカウンターパートの諸企業が知的財産権の保護の重要性に注 目するように働きかけることを求めたのに対して,欧・日系のビジネスグループは,当 初は知的財産がGATT
の交渉に ふさわしくない ことを恐れていたが,結局,新し いレジームがすべての開発経済にとって利益であり,GATTベースの解決が一方的な報 復の必要を消失させ,貿易関係に平穏を回復するために多くをなし得ることを確信した とい32
う。
Ⅳ パリ条約修正交渉の挫折
1
パリ条約修正への道南北間の巨大な技術格差に基づく三極の共同利害を背景に,インドやアンデス同盟諸 国による少なくとも
1960
年代後半まで遡り得るパリ条約の基本的な修正を求める試み が挫折したことが,ウルグアイ・ラウンドで知的財産権がとりあげられる重要な要因と────────────
29 Stegemann, K.,op. cit.,p. 1242.
30 Debroy, B.,Beyond the Uruguay Round : The Indian Perspective on GATT,Response Books, 1996, p. 134.
31 Kulessa, M. E., and T. Bruehl,op. cit.,p. 612.
32 Pratt, E. T. Jr., Intellectual Property Takes Key Place in Trade Policy ,Financier,1989, Vol. 11, pp. 24−25
(ただし,Stegemann, K.,op. cit.,pp. 1241−1242による).
貿易関連知的財産権TRIPs交渉前史(嶋田) (685)165
なった。
修正に向けてのプロセスは,困難であり,また問題は複雑であった。賭けられたもの
stakes
は大きく,議論は長く厳しいものであった。その歴史はなお書かれるべきものにとどまっているが,もしそれが書かれるとすれば,おそらく
1975
年がその分水嶺であ ろう−S. J. Patelが述べてい33
るように,その歴史を本格的に叙述することは困難である が,以下,まず,パリ条約修正のための第
1
回外交会合(1980年)が開かれるまでの プロセスを,1975年までの時期を中心に簡単に跡づけるとともに,発展途上国の基本 的立場を明らかにしておこ34
う。
第三世界のイニシアティブにより特許システムの修正を求める動きは,1961年の国 連総会第
16
会期にブラジルとコロンビアが技術援助における特許の役割の問題を提起 したことに始まる。この時に採択された総会決議に基づく,64年の「発展途上国に対 する技術移転における特許の役割」と題する国連事務総長報告書は,その後の技術移転 と知的財産権問題をめぐる嚆矢というべきものであった。その基本的な立場は,途上国 への技術移転と特許制度との間にはほとんど因果関係はないとするものであったが,60 年代後半には特許に関する国際条約の検討と修正が要求されるにいたった。こうしたな かで工業所有権の保護強化に向けて,内国法の同質性を追求してきたパリ条約の方向性 の継続は困難になった。さらに
1972
年の第3
回UNCTAD
総会で「技術移転に関する決議」が採択された。開発諸国からの円滑な技術移転と固有の技術創造を促がす条件の保証を求めるもので,
法的・制度的側面は
WIPO,経済的・開発的側面は UNCTAD
という作業分担も決定さ れた。そして1974
年5
月には同趣旨の内容を含む新国際経済秩序樹立の宣言が採択さ れ,それに基づく行動計画のなかに,途上国の一般的な必要性と条件に対応した技術移 転に関する国際行動綱領の作成がおり込まれた。またこの宣言は,現存の国際関係を再 編成するための主要原則の一つとして,「実現可能な場合には」との限定を付しつつ も,国際経済協力の可能なすべての分野において,途上国に対する「特恵待遇と非相互 的待遇」を定めた。多国籍企業がかなり一方的な経済力と技術力を行使している高度に 不完全な技術市場において,途上国が対抗力を持ち得るような積極的な方策によって構 造的な不平等を克服するために,特別待遇原則を行動綱領に組込むことが重要だからで ある。1975
年には国連経済社会局,UNCTAD, WIPO事務局が共同で作成した『発展途上国 への技術移転における特許制度の役割』が発行された。それは,伝統的な内国民待遇や────────────
33 Patel, S. J.,op. cit.,p. 982.
34 ibid.,pp. 982−983のほか,Sell, S. K.,op. cit.,pp. 109−119,UN,op. cit., pp. 179−180,本浪章市・竹本正 幸・岩崎憲次共訳『多国籍企業と行動綱領−国連報告書』ミネルヴァ書房,1977年,坂井昭夫,前掲 書,200−210ページ,土肥,前掲論文,27−28ページなど。
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166(686)
無差別主義の原則に挑戦し,特許保護の国際システムの徹底的な批判を展開し,この問 題に関する古典とされた。また
UNCTAD
もパリ条約の修正問題に集中した『国民的発 展のためのインスツルメントとしての国際特許制度』を発行した。同年9
月の国連総会 第7
回特別会合の決議は,技術の移転と発展において途上国を援助するためのより満足 できるインスツルメントになるように,とくに途上国の特別の必要を満たすために,特 許と商標に関する国際的諸条約を再検討・修正すべきであるとした。その後,UNCTAD で,当時の途上国の基本的立場をもっとも良く示す途上国の専門 家グループによる特許システムの役割と途上国への技術移転に関する声明が発表され た。それは,長期にわたりこの問題に関する第三世界すべてのイニシアティブの「基本 的源泉」となるとみられたもので,国際基準,国内特許法及び特許の運営システムに関 して修正されるべき正確な方向を定める具体的な提案を含んでおり,国際基準に関連し て次のように述べてい
35
た。独占的な特許の権利と途上国の経済的社会的必要の間のバラ ンスにおいて,公共の利益に有利な決定的な転換がなされるべきである。こうした転換 は工業所有権の国家的法制化の適切な修正を通じてのみ達成され得るし,またとくにパ リ条約の国際基準の適切な修正によって大きく促進される。
そしてパリ条約の修正プロセスは,最小限,次の三つの基本的目的を満たさなければ ならない。第
1
は,国際基準が途上国の経済的社会的政治的諸条件とナショナルな発展 目的に適合し,またそれ自身の必要に応じて法と慣行を調整する各国のフレキシビリテ ィをどんな形でも制約しないことである。そうであれば,工業所有権システムは,途上 国への技術移転を促進する有効なツールとして役立ちうる。第2
は,途上国が科学技術 的インフラを強化し専門家を訓練することを助けるために,そのシステムの直接かつ継 続的な課題は,できるかぎり最短の期間でかつ最大限広い技術援助を提供すべきことで ある。第3
に,国際基準は,生じてきた歴史的経済的諸変化と途上国(パリ条約のメン バーであるかどうかを別にして)の国内法制化と慣行における新しい諸傾向を反映すべ きである。これらの諸目的を達成するためにパリ条約の修正プロセスは,次のような諸点をとり あげ解決すべきである。(a)途上国における特許の実施は,発展のために最も重要で,
それは輸入や関連する独占の創出によっては決しておきかえられないこと,(b)特許所 有者の権利とその義務のバランスの確立,(c)既存の条約の条項において許容されてい る濫用を阻止すること,(d)とくに次のような諸点について各国の権利を承認するこ と,すなわち,国内法に含まれるべき工業所有権の形態,タイプ,モダリティの決定,
特許等の保護の権利から除外される生産物(グループ)やプロセスの明確化,経済的発
────────────
35 ibid.,Annexure蠡(UNCTAD, Report of the Committee on Transfer of Technology ; Role of Patent System in the Transfer of Technology to Developing Countries : Conclusion of Experts from Developing Countries, 1975),pp. 988−989.
貿易関連知的財産権TRIPs交渉前史(嶋田) (687)167
展のために必要なライセンシングシステムのタイプと形態(強制的ライセンスなど)の 設立,特許その他の保護の自動的な無効化あるいは取り消し(国家的理由のための収用 を含めて)の理由に関する決定など,(e) 内国民待遇 に関連して,特別なフレキシ ビリティ及び優先権,保護の期間,ナショナルな発明的な能力の促進などに関連する条 項を含む,途上国に有利な 非相互主義的な特恵的な待遇 のシステムの確立,等々で ある。
さらに開発諸国を含むすべての諸国のコンセンサスを達成するために修正された途上 国の諸要求が,1975年
12
月のUNCTAD
技術移転委員会の決議3(蠢)に具体化され
た。それは,パリ条約の修正プロセスがWIPO
及びUNCTAD
の責任と権限を全面的 に考慮し,次のような諸点によってガイドされるべきとした。すなわち,公正かつ合理 的な条件での技術の有効な移転の促進,特許製品の輸入は一般的には途上国における特 許の実施に代わるものではないこと,特許の権利の濫用を避け途上国で機能する特許の 蓋然性を高めるためのより適切な条項,伝統的な特許以外の発明に関する保護の導入(産業発展特許や技術移転特許など),工業所有権分野における技術援助の必要,全途上 国へ特恵的待遇を付与する可能性などである。
これらの諸点が
WIPO
で合意されたガイドラインの基盤を形成し,途上国の特別の 必要に役立つようにパリ条約を修正する準備作業が始まり,1980年まで続い36
た。
内国民待遇と優先権制度の二つの原則を柱とするパリ条約の主要な機能は,発明者の 保護及び国内的な特許の法制化と慣行のガイドラインの設立であり,特許保護の一定の 最小限の国際基準を設定していた。ただし,それは国内法の当該条項との一致を示唆し ているにすぎず,ルール違反に対しても総会の是正勧告にとどまり効果的な制裁措置は とられなかった。また国際司法裁判所による紛争解決の追求を許容していたが,実効的 でなかったといわれる。米著作権局によれば,多くの場合,WIPO は紛争処理のために インフォーマルな専門家グループを任命して, 進行中の問題をとりあげるために,最 小限,すべての国に体系的かつ学問的にまた協議的な方法で調査する機会 を提供した にとどまったのであ
37
る。保護のインフォースメントに関するいわゆる脆弱性である。
当時かなりの途上国がこうしたパリ条約の主要な条項をその国内法と慣行に組込んで いたが,それは,UNCTADの研究によれば,途上国市場における外国の特許所有者に 付与された「逆特恵システム」という「異例の状況」を正当化するものであった。また 多くの途上国によれば,パリ条約に具体化された諸基準は,工業所有権に関係する国内
────────────
36 他方,1977年から途上国における技術の移転と発展を促進するための完全に新しいインスツルメント に関する作業の交渉がUNCTADで始まった。すなわち,技術移転に関する国際行動綱領の作成であ る。1985年までに二つの主要な条項を除いて,行動綱領のすべての実体的な条項が事実上合意された が,その後交渉は失速した(ibid.,p. 983)。この交渉について詳しくは,Sell, S. K.,op. cit., pp. 79−106.
37 Stewart, T.,op. cit.,pp. 2247−2248.
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168(688)
法に開発の諸条項を採択するのをさまたげるものであっ
38
た。1974−75年頃を分水嶺とし て先進国の技術独占の打破を求めて
G 77
のもとに結集した途上国は,非相互主義的な 特別待遇を含めて異なるレベルの発展と必要に知的財産権制度を調整するより大きなフ レキシビリティの方向を目指したのであ39
る。
S. J. Patel
によれ40
ば,パリ条約はその成立以降長い間 金持ちクラブ にとどまって おり,1900年以降
67
年まで6
度にわたる修正も,特許所有者の独占的な権利を強化し たにすぎない。その構造を通じて,技術先進国の特許所有者の利害と新興工業諸国の公 共の利害との間の基本的な非対称性あるいは対立がつねにあらわれた。とくに第5
条に 関する歴史的な妥協の結果,重大な条件の導入により強制的ライセンスの供与は厳しく 制限された。こうして19
世紀の新興工業諸国と同じ問題に直面して, 公的なコストで 私的な利益 を図る動きを阻止し,公共の利益を守るような制度の構築のために,国内 特許制度と不平等なパリ条約の根本的な刷新を図ろうとしたのである。また
B. Braithwaite
とP. Dras
によれ41
ば,第二次大戦後の知的財産権のハーモナイゼ ーションは辛いほどに遅く,ますます多くの途上国がパリ条約等に参加した。1国
1
票 制の原則のもとで,西欧諸国は途上国の連合のため投票で勝利することができず,これ らの条約は「西欧クラブ」であることをやめた。しかし,途上国は拒否権連合であるだ けでは満足せず,その経済的発展段階を考慮した国際システムを求め,西側の眼から は,幅をきかせ始めたのである。こうして著作権の分野では1967
年のストックホルム 議定書の獲得に成功42
し,工業所有権の分野ではパリ条約の修正が,1980年から始まる 外交会議の主題になったのである。
発展途上国は知的財産を私的財産ではなく人類共通の遺産であると論
43
じ,また知的財 産の制度化を自由貿易の器官
organ
ではなく,開発諸国における知的財産権所有者の保 護主義の道具とみなし,不均等な発展(あるいは低開発)を基礎づける技術ギャップが 維持されるとし44
た。
────────────
38 Sell, S. K.,op. cit.,p. 110.パリ条約の加盟国は1986年1月の時点で97カ国,そのうち64ヶ国が途上国 であった(ibid., p. 108)。1973年には開発諸国及び東欧社会主義の実質的にすべての国のほか,途上国 の加盟も44カ国にのぼりすでに80カ国に達していたが,有力な一部諸国を含めてなお62の途上国が 未加盟であった(cf. Patel, S. J.,op. cit.,p. 990)。
39 South Centre,op. cit.,p. 10, UN,op. cit., p. 179.
40 Patel, S. J.,op. cit., pp. 981−982. こうした途上国サイドの議論では公共の利益がナショナル・インタレ
ストとしばしば同一視されている点で問題であるが,ここでは立入らない。
41 Braithwaite, B., and P. Dras,op. cit.,p. 61.
42 これは著作権へのより大きなアクセスを途上国に付与することを目的としたもので,国際的な著作権に おける危機を時としてもたらしたといわれる(ibid.)。
43 Sell, S. K.,op. cit.,p. 179.
44 ibid.,p. 83.
貿易関連知的財産権TRIPs交渉前史(嶋田) (689)169
2
パリ条約修正交渉の挫折パリ条約の修正プロセスは,1974年の
WIPO
特別会合でインドの代表団が公式にそ の修正を要求したことにも示されるように,途上国のイニシアティブのもとで工業所有 権とくに特許制度を焦点として発展途上国の特殊な必要を考慮して経済発展と技術移転 を図るというコンテキストにおいて展開し45
た。
パリ条約を修正するための現実の交渉は,知的財産権を管轄する
WIPO
に移され た。それは,パリ条約等の国際諸条約の運営,知的財産権法の公布における技術的援 助,各国法の調和化という主として三つの使命を有していた。途上国政府はその経済に固有のより困難な問題のためのスケープゴートとして特許を 利用したとの若干の疑いがある
46
が,1980年
2
月に第1
回の外交会議が開かれ,修正プ ロセスがはじまった。しかし,1984年2・3
月の第4
回外交会議において南北の対立は 激化し,妥協的な解決を探るために開かれたその後の協議も成果をあげられなかった。こうして途上国のイニシアティブで始まった「知的財産権のための公共圏を拡張する試
47
み」たるパリ条約の修正交渉は挫折したのである。
あらかじめ開発諸国と途上国の交渉ポジションや見解の基本的な相違と具体的な焦点 となった問題を確認しておけば,次のようである。
南北の対立を根本的に規定したのは,特許(及びその他の知的財産権)の保護の目 的であっ
48
た。途上国がそれ自身の発展と技術ギャップの縮小を最も重視したのに対し て,開発諸国は所有者に属する権利(それゆえ財産の神聖さ)を至高のものとしたので ある。知的財産を有形資産と同じ私的権利であるとして途上国とは完全に異なる見解を 有していた開発諸国は交渉入りを嫌がった。しかし,特許の保護システムのどのような 弱体化や保護の制限もパリ条約の基本的性格を変えるとして,それを妨げるべく基本的 に現状維持すなわち反修正のスタンスのもとで交渉に参加し
49
た。その後,とくに米国は 保護を強化する方向で修正を求めるに至ったが,会合自体においてこの転換の最初の証 跡が明白になったのは
1984
年初頭の第4
回会合の時であった。ただし,それは1986
年4
月のUSTR
の声明までなお全面的なものではなかった。これに対して途上国は,経済的,技術的により強力な工業諸国の利益のためにだけ国 際特許システムが機能している現状を変更すべく,知的財産権を経済的発展の促進のた めに用いられるべき公共財と位置づけて,修正を求めた。パリ条約の修正会議を通じ
────────────
45 Patel, S. J.,op. cit., pp. 978−987.そのほか,Sell, S. K.,op. cit.,pp. 107−140など。
46 May, C.A.,Global Political Economy of Intellectual Property Rights : The new enclosures?, Routledge, 2000, p. 83.
47 ibid.
48 ibid.
49 ibid., Sell, S. K.,op. cit.,p. 108, p. 139.
同志社商学 第56巻 第5・6号(2005年3月)
170(690)
て,当時アンデス同盟事務局の外国投資と技術政策に関する代表であった
C. Vaistos
に よる特許システムのネガティブな効果に関する議論が繰り返され50
た。その主要な点は,
漓途上国によって認められた特許は,圧倒的に外国人(通常は多国籍企業)によって所 有されている,滷途上国で承認された特許の主要な機能は,多国籍企業の利潤の最大限 化を助ける,澆特許は外国投資の代替物であり,途上国市場を獲得する手段である,潺 特許はしばしば現地企業を取得する推進力である,潸特許は北から南への技術フローを 制限する手段である,澁特許は制限的なビジネス慣行の深刻な源泉でありうる。
こうして南北対立は相互主義を伴わない特恵待遇などの要求として具体的にあらわれ たが,最も集中的に議論されたのは特許の実施の問題であっ
51
た。すなわち,ある国に財 が輸入されるとき,いわゆる生産物の製造プロセスを保護する特許が存在する場合に は,所有者が当該輸入品に関してあらゆる権利をもつとする条項(第
5
条の4)に関連
した問題である。G 77は,特許のほとんどが不実施あるいは適切に実施されていない と論じて,輸入が実施を構成しないことや濫用を構成する不実施等が制裁に従うべきこ とを明確にすることを求めた。この条項を削除するかあるいは少なくともそれからの免 除を追求した。さらに途上国の特許権者の手数料の軽減と優先権の期間を延長する新し い条項を提案した。このように南北間の相違は出発点から根本的であり,これらの相違の深さと扱いにく さは長く困難な交渉プロセスを通じて増大したといわれるが,以下,パリ条約の修正の 試みが挫折に至る経緯を跡づけておこ
52
う。
第
1
回外交会合はほとんどもっぱら手続的な運営的な諸問題に集中したが,1981年9
−10
月の第2
回会合では,G 77は特許の実施に関する非相互主義的な特恵措置の導入 を提案し53
た。それは途上国に限り特許付与後
30
ヶ月の不実施で強制実施権を認め,特 許権者自身による実施を認めない排他的な強制実施権も2
年半を限度に許容されるとし た。さらに不実施5
年で,特許の消滅を図り得ることなどを含んだ。それはパリ条約の基本的性格を変えるものとして非難されながら,排他的権利の行使 から生じるであろう濫用に対して加盟国に法律を制定する権利を認めている
5
条(A)の修正に関連して,開発諸国(グループ
B)の分裂のもとで妥協的ないわゆるナイロビ
・テキストが作成された。排他的な非自発的(強制)ライセンスの承認,非排他的な強 制ライセンスを最初に発行することなしに,失効あるいは取り消しの手段が,条件付き であるが条約を媒介して国内法において許容されること,及びこの特別条項が途上国に
────────────
50 Sell, S. K.,op. cit.,p. 111.
51 ibid.,p. 119−120. さまざまな知的財産の保護について各国に大幅な裁量の手段を認めているパリ条約の
唯一の例外が第5条の4である(cf. UN,op. cit., p. 180)。 52 ibid.,pp. 119−140, Stewart, T.,op. cit.,pp. 2249−2253.
53 坂井,前掲書,203−204ページ。
貿易関連知的財産権TRIPs交渉前史(嶋田) (691)171
限定されるこ
54
とが,その主な内容であった。その決定的な特徴は,薄められた形態では あるが,排他的な強制ライセンスを許容したことにある。
米国やスイス(とくに産業界すなわち製薬業界)はナイロビ・テキストに反対であ り,グループ
B
の6
カ国も不満であったが,実質的にほとんど合意は成立して−公式 には受入れられなかったが−,高度に薄められた内容に不本意ながら同意した途上国は「一定の注目すべき勝利」を達成したように思われた。
しかし,1982年の第
3
回会合はナイロビの融和的な雰囲気から奇妙な180
度 の転 換を示した。すなわち,新しいダヴィラ・テキストは,ナイロビ合意からのもっとも重 大な離脱として,排他的な強制ライセンスの供与を許容していたパラグラフを排除し て,ナイロビ以前の状況に逆戻りした。米国の圧力のもとで以前のポジションを鋭く逆 転させたグループB
諸国は,実質的に満場一致で,新しいテキストを満足すべき解決 の基盤として称賛したのである。とはいえ,ニュージーランドはなお次のように論じた。 開発 諸国がすべて均等に 発展しているのではなく,産業的により弱い開発諸国に特別条項を拡張することを真剣 に検討しなければならない。すなわち,ニュージーランドのような特定の技術的小国の ために,特別の手段へのアクセスの機会が確保されねばならない。我々が求めているの は,ある種のただ乗りなどではなく,特許問題における「発展の相対的なレベルに関す る公正かつ正当な認識」である。
これに対して,ナイロビ・テキストでさえ重大な妥協とみなした途上国グループは,
米国の舞台裏での指揮に怒り,新しいダヴィラ・テキストを拒否した。それは,排他的 な強制ライセンスすなわち特許を認めている国でそれを実施するように特許所有者に圧 力をかけることのできるインスツルメントを獲得するという最大の目的に反するからで ある。
こうして第
3
回会合は,グループB
諸国がダヴィラ・テキストに固執する一方で,途上国はナイロビ条項が妥協の絶対的な限界であるとして暗礁に乗りあげて終わった。
米国が国際貿易とリンクして特許保護の国際システムの強化を積極的に追求するよう に転換したなかで開かれた第
4
回会合では,ナイロビ・テキスト以前に戻り,再び5
条(A)に焦点がすえられた。Bグループ
6
カ国が初期の妥協的な諸提案を静かに引下げ ることによって,議論の一つの要素であることをやめたなかで,グループB
諸国は前 のポジションを繰り返すとともに,途上国等に対するより有利な待遇の要求を拒否し た。他方,G 77・発展途上国は,ナイロビ・テキストのもとに団結し,満場一致でダヴ────────────
54 ただし,異なる待遇を望んで南北の妥協の媒介役を演じたBグループの6カ国は,これを未決と考 え,第3回会合で問題を提起するとした(6カ国は,カナダ,オーストラリア,ニュージーランド,ポ ルトガル,スペイン,トルコ)。cf. Sell, S. K.,op. cit., p. 125.
同志社商学 第56巻 第5・6号(2005年3月)
172(692)