商
随一~
論 叢
第 十 五 強 論
叢
民 族 及 び 民 族 政 策
︵ 一 一
︶
松 下
正
士官 一吋
序
l=I
本稿は第一篇に於て民族の本質主論仁︑第二第に於て︑民族政策を論ずるつもりで喜かれたoとこるが本誌制斡の都合
上︑本稿は此れで打ち切ることになった︾ら︑止むを符ず第ニ篤を割没すること込し
KQ
然し︑第凶章には﹁民族政策︸と
し℃論ずべき問題も所々に散在し℃をる︒これは挫裁上甚だ面白くないが︑筆者が儀り使用されてゐない﹁民族政策﹈とは
何を意味するか︑これaに依って推察して戴きたかったのであるo何れ︑稿をはめて﹁民族政策﹂を以扱ふワもりであるo
第四章
民 族 と 文 化
第一節共同枇曾と文化
民族は或ひは文化共同障と概念され.或ひは文化は民族の所産なりと一一一口はれ.時には︑逆に︑民族は文化の
諭
叢
民族及び民族政策ハ二︶
民1
導主
論 重量 第 十 五 続
所産なりと常はれいてをる︒人イズの如く民族の諸構成要素を並列するζとに一依つ℃昆挟の概念を規定してゐる
者も
語諸
謀議
のう
ち−
一片
一語
を最
も重
要耐
し.
又︑
﹁民
族は
本来
文化
的ぜ
あり
︑偶
々政
治的
であ
る﹂
と説
いて
ゐる
と
とは既に第一軍に於て地べたと乙ろである︒民族が文化と不分離D関係に在ろととは常識として何人も肯定ナ
るところセあり︑必やしも皐者の訟を引用するまでも無いところであらうと忠はれる︒共れにも拘らや筆考は
本稿︑第一章に於て民族の概念を規定するに際し︑文化︒宇を特に避けたο明﹂ある︒共れは決して筆者が民族
と文
化心
不八
刀離
性を
無減
した
thめぜは無い︒否︑寧ろ︑﹁文化﹂の重要性を認をる飴り︑共れをして︑
ヘイ
ズの
如く︑他の要素と並列させることを好またかったからである︒
文化は決L
て︑
偉統
︑隆
史︑
共通
の政
府︑
一一
一一
円語
手と
並列
して
民族
を構
成す
る一
分子
勺は
ない
︒又
︑昆
族を
原
因とし︑文化を結果と翻る訟や︑共れを轄倒する聞方も正鵠を得てゐると一一日ふとをは出来たい︒民族仕文化の
所産であると共に︑其れの母樫市﹂もある︒又︑民族に若し存在償値たるものありとすれば共れは文化以外のも
のではあり得たいぜあらう︒共意味に於て.文化は民族の目的であり︑内容である︒然し︑民族の概念主規定
ずるには民投をして他の文化共同髄︑例へば﹁東洋文化﹂の如きより買範閣のも心︑﹁開同文化﹂の如きより地
方的たるものと区別する必要がある︒民族と文化が如何に不可分のものゼあっても︑そのととを高調するとと
に依って︑民族と他の文佑共同開盟を直別するととが出来ない限り︑概念規定は他の形式をとらねばたらない︒
そとで筆者は概念規定を専ら民族の本質に悉く包含すると共に︑他の概念と直別するととを得る形式を用ふる
とと
Lした︒即ち.民族を形式的にのみ概念するととに満足し︑共れに内容を輿ふるととは是を本章に譲った
ので
ある
︒
怨し︑民族と文化の不分離性は形式的乍ら本稿の概念規定で表現されてゐるととに留意して戴き度い︒
︒︒
︒︒
ち︑民族は一定の僚件を備へた共同枇舎であると規定されてをる︒
内川
rH h p
個人の草怒る集合は共同枇命日を形成した
一定の保件︒下に在る多数例人の集合が︑共集合と共同生活の結果とじて下彼等にとって有意義たる枇舎
となる時︑初めて︑共集合は共同枇合と呼ばれるのである︒故に︑マツキIパl
院共
枇舎
を﹁
効果
的批
命日
﹂と
L、,
。
呼んでをる︒即ち︑其構成分子におし︑効果を興へる穂度まで護建してをるととを必要とする︒
そと
セ︑
その
﹁効
果﹂
とか
﹁有
意義
﹂と
か一
言ふ
のは
何の
とと
かと
一辺
ふ問
題︑
と怒
る︒
bる個人が杉並直に属してゐるか中野区に属してゐるかと一五ふゃうたととは︑通常其個人に到してさ程︑豆
大でほあるまい︒彼の法律上の樺利︑義務︑経済的利害︑枇合的地位は︑多くの場合︑始んど直に依って制約
されたいからである︒直は多数個人の集合と共共同生活から自然に叢生した祉舎ではたく︑巾平に行政上の便宜
から設けられた人得的直域に過F
−な
いか
らで
bる︒故に︑直は個人にとって﹁有意義﹂でもなければ﹁効果的
でもたい︒然し︑我々は同様のととを民族の場合には﹂一再ひ得注いであらろ︒例へば︑ある個人が日本人たる
か︑支那人なるかは彼にとって重大たる関心事?なければたらぬ︒彼の法律上の植利義務︑経済︑枇舎的地位
が共れに制約されるととろは賢に大である︒然し︑共れらは寧ろ更に本質的たる差異の結果に過
﹂V A
たい
︒共
差 論
叢
民族及び民族政策
O U
潟、
警主 論 業?
第 十 五 披
四
異と
は一
日一
口語
︑習
慣宗
教等
斡含
hu文化の差異 ιである︒生活様式︑及び生活内容共物の差異である︒そして乍共
文化は該枇舎構成員の共同生活と共に自然に発生したものであり︑同時に︑其時代︑及び共に来る可き時代の
構成員を制約するものなのである︒そこで︑民族は共同吐命日市﹂あると概念される時︑直ちに其れは文化を内容
とするものたるととが明瞭とたるでるらう︒
弐にお文化が民族の目的市﹂あり︑共存在債値であると一五ふのは如何捻る意味に於てであるか︒
我々は先づ3文化を中心とする個人と枇舎の開係から出護しなければならない︒
伺人のための枇舎であるか︑吐舎のための個人守あるかと一再ふ論争はよく我々の耳にするととろである︒大
瞳に於て︑自由主義︑制人主義の立場をとる者は個人︑叉は佃性の隼巌を第一義的とし︑全瞳主義者は枇舎を
第一義的とし︑其れと分離Lたる個人を草たる抽象として排斥する傾向を持ってをる︒口一ツク︑ミル︑グリI
U 1
ラスキーの如きは前誠に麗し︑へーダル︑ボザンケット︑マクヅlガル等は後汲に属する︒我々は誌に
共等の皐設を引用批判する煩を避けるが︑彼等は決Lて︑坊聞に︵時として塵界の一部に︶倖へらるL
如く
︑
極端たる例入主義者ゼも︑極端たる全瞳主義者でもないととに注意したくてはたら友い︒
個人主義者が主張し︑叉︑何人も肯定したくてはならぬ真理は︑凡での慣値は個人に於てのみ賓現ザごられる
と云ふととである︒
我々はよく民族精榊︑日本魂︑調逸魂︑等の一一日葉を耳にする︒共時︑我止は檎もすれば︑期る﹁魂﹂そ有
ずる生物の存布ずるやうた持母を起すととがある︒叉︑共れが更に向tて︑枇舎を男性︑女性に分ち︑或ひば
幼年明︑青年期︑成年期︑老衰期生すに会つ等のととが行はれてをる口然し︑共れは墜に一定の現象又は傾向を
説明する便宜上︑使用したところの対比に過ぎないのである︒害保哀業在感じ︑苔悪を分ち︑美醜を判別し得
る存在は一個の紳粧中植たる脳髄を有して自我の心理的統売を有ずる個人以外には無いのである︒従って一
切の慣値は個人に依つてのみ意識され︑個人に依つてのみ賓現されるのゼある︒故に︑吐舎を構成する各個人
に幸帽子感ぜしめ︑品一品川を掃さしめ︑美を鑑賞せしめ︑買哩訟費らしむること以外に︑社舎の問的とか︑足挨の
使命
とか
一辺
ふも
Dはあり得たいのであり︑若し︑あったとすれば︑某れは︑枇舎O
一階
級︑
一部分の偶蹄忙遁
ぎないのである︒との意味た於て︑若しみ民族に目的又は川崎想ありとするならば︑共れは共民族を構成占める偶
人の目的であり︑理想でなければならだいD
であ
る
c個人主義者が岡家&含む一切吐舎の目的そ倒性の完成に
置いたむは意義ありと云ふべきでるる︒
文化が昆族の目的であり内容であると云ふ命題は右のやうだ倒人と枇曾の聞係を認識したる上に理解され
友ければたらね︑文化とは個人に依って賀現せられたる慣値である︒民族が文化を目的とすると一疋ふのは取り
も置さや︑多数個人が共同社舎を通して︑より大怠る慣値を各個人に意識壮一しむる目的を持っと一疋ふに外なら
ないーのせある︒又︑民族は文化を内容とすると一疋ふのは︑右個人に依って意識され︑費現された債値の総量が︑
共れP集合憧たる昆族を特徴づけると一石ふに外ならたいのである︒
民族 及ぴ 民族 政策 ハ二
U
論
叢
豆ζ
商 撃 論 議
第ー十五捺
以上︑個人主義の立場から匡現︒一一聞を探求したのであるが︑共牛面の艮理は全韓主義に依って設かれるで
あら
+つ
04
慣値主意識する主瞳は無論︑個人である︒然し︑共個人は何故に︑ある特定の封象と善を感じ︑員を売り︑
美と味ふのであるか︒勿論︑それには生物皐的原因もあるう︒然し︑共れのみで説明し切れぬ多くのものが建
されてゐる︒裳督教徒がポリガξーを非とし︑モルモン教徒が之を円以とする道徳間念は生物曲学的に説明すると
とは困難ぜあらう︒老人が歌舞伎そ美と感じ︑青年がレビュー佐美と感やるのは必やしも生物皐的差異のみ吃
はたからう︒普鐙受営性を像件とする虞理の探求に於てすら︑階級︑民投︑時代に依って異なった把揮がたされ
てゐる︒故に我々は慣値を意識し︑賢現する佃人自慢が祉舎に制約されてねるととを知ろのである︒即+勺一︑個人
は全く白山に︑杢く自殻的に︑民たり︑44内念り︑議日たりと意識すろの℃あらうが︑依の意識の方向は既に枇令
︒制約下に在ろの℃ある︒勿論︑モノガミ
1
D祉舎に於て特にポリガミーを主張する少敢の個人もあり得る︒
然し︑此場合に於ても︑伎の意識は枇舎に制約されてゐるのゼある︒即ち︑伎が特にポリガミーを主張するの
は壬ノガミ1七千常識とする枇舎に封ずる意識的反逝市﹂あり︑共意識はモノガミ1の祉命日を前提とするのゼあ
る︒共意味に於で︑彼D意識は枇舎に制約せられてゐるのである口
伺人は戟時に於ては勿論市﹂あるが︑平時に於ても自己の生命︑財産を犠牲として吐合奉仕する︒共れは何故
であるか︒共れを個人の立場から翻れば︑其れは彼の道徳的拡求市﹂あらろ︒然L
︑共
欲求
共物
いは
杭の
属す
る枇
舎の存続︑発展等に依って僚件づけられてゐるのである︒故に︑社舎と俳離した個性の食肢とか︑慣値の賓現
とかは存花し得たいのである︒
文化は︑先に︑個人に依って意識され︑寅現された慣値市﹂あると規定された︒然し︑共れでは不充分であ
る︒共債値は枇合的慣値ずなければたらたい︒故に︑文化は例人に依って意識され︑賓現される︑枇合的慣値
ゼあ
ると
再規
定さ
るべ
きで
あ一
る︒
最後に︑民族の各種の段階に在る共同枇九日日に於ける地位を論辿しゃう︒
一融合と個人︑共れら左文化との闘係は大模以上の設明に依って十分と思はれるが︑特殊の段階に在る民族が
何故︑特に文化共同轄とじて重要硯ぜらるべきであらろか︒文化共同種は必やしも民族に限らたい︒大陸︑地
方︑村落は勿論︑或る意味に於ては家族の如きも其一種と宥倣し得るのである︒共うち︑特に民族に上り大た
る比重を置くためには何等かの根擦が無ければたらぬ筈である︒
我々は先に︑民族の概念を規定するに際し︑祉舎が政治意識を持つに到るか苔かを以て民放と他の共同祉合
とを直別した︒同様の理由を以て民族︑ど他の枇命日より以上に文化的に重要硯ずるの根擦と混じ得るか︒共住口は
勿論︑否定的で・なければ友ら泣い︒何故かたれば︑共れは原因︑結果を轄倒してゐるからである︒世舎は政治
性を帯びるが故に文化的とたるのゼはたく︑共吐舎が特殊の文化性を帯びるが故に政治的とたり︑斯くして民
族と稿せらるるに到るのである︒原因は政治ではたくして文化ゼたければ反らたい︒故に︑我々D問題は依然
",..
ons
叢
民族及び民族政策つ一U
f二
F耳 害主
Z命
叢
i¥. 第 十 五 披
として未解答のまLに残されるのである︒問題の解答は文化共物の分析に依って初められたければたらたい︒
故に我々は此重要なる問題の解答を本章の格尾まで延期したければならたい︒文化は先に︑個人に依って意識
され︑官現されし一世合的慣値引﹂あると規定された︒然らば︑斯く︑意識され︑賢現される祉合的慣値とは何で
あるか︒共れは無論︑人類の精神生活の一切そ包含する︒然し︑共れを便宜上︑左の四項目に分類するととが
一︑言語︒二︑風併習慣︒三︑皐襲︒四︑宗教︒以上のうち︑言語は二以下を含貯場合が多い
出来
ると
思ふ
︒
︐のであるが︑言語として護表され得ざる風習︑︵例へば動作︑服装の如く︶皐欝︵丑円紫︑殊に器禁︑ある種の自
然科
単一
b
如き
︶
J一
一小
敬︵
賦時
︑冥
想に
依っ
て啓
示を
受く
る場
合︶
の存
在し
得る
と共
に︑
三者
の何
れに
も属
せぬ
一一
一口
語もあり得るから︐とれを濁立の項目として取扱ふ可きでるらう︒以上の外花道徳を一項目としで加ふべきか
否かに就いては議論の飴地がある︒然し︑道徳は之を草たる知識の割象として観る時は︑寧ろ車一a塞のうちに合
まるべきであらうし︑大衆の習慣のうちに識り込まれた部分は風俗習慣の一部と看倣し得ベく︑個人の最高債
値として作用する場合は宗教に含まれるから道徳には猫立の項目冷血パへぬととL
した
︒
以上四項目に正営に迫加さるべきは政治であらう︒其れを特に除外したのは弐の二つの理由に依るのでる
る︒第一一は︑政治は共舶の文化項目が或程度に喪建したる時初めて費生し文化を更に促進させる機能を有する
のであって︑共れの存否は他の文化共同躍より民族を直別ずる境用品線であるから︑境界線を娘の内側に置くと
一五ふ矛盾を防ぐためである︒第二は︑政治は本稿︑第三章に於て梢E詳細に説明したから重複を避けんがため
であ
る︒
ト3144hhH
L均三
ZE
吉
語
言語の有無はアリストテレスの指導した如く︑人類と他の動物とを区別する境界たると共に︑言語の差異︑は
多くの場合︑民族の差異を衰微するものである︒又︑同時に︑同一の園一誌を有する一民族内に在っても方言の
多少と其差異の大小は︑共民族の含む文化共同韓の多少と其差異の大小を示すのである︒然し︑
一枇
舎が
犬躍
に於て共通の言語を有する時︑其枇舎は言語共同瞳と呼ばれてをる︒
一
Yn
語が濯なる思想︒符牒市﹂あるか或び拡思想そOものの具帯化したものであるかは心理事の領域に属する問
題である︒然し︑人類が一定の地域に於て共同生活をたずに営りそれを可能たらしむるものは言語である︒故
に一
一一
円語
が単
に.
思想
の符
牒に
過
F4yと仮定してもそれが枇舎に於いて重要注る職能を有し︑Rっその枇舎の共同
意識構成の重要たる要因たるととは確置であ月ねばならゑいc
令我々は先に民族を規定するに際し︑共同意識を以て民族の基礎たりとした︒故にその共同意識形成の原因で
あり且つそれの表徴ゼある国語は民族の要因として極めて重要たる地位を占む可き吃ある︒質にヘイズの如き
は圏諸を以て民族構成嬰素としての第一位を占む可きものたりと主張してゐる︒
園語は如何十たる過程に依り又如何たる意味に於て民族を構成するが︒
論 叢
民族及び民族政策つつ︶
九
1) ,F.m. Miller : 'Il1ree fotrcdnctory工ectnr回 onthe Science of Thonght.
etc.; 15pp・92‑93.
Titchner : A l~eginners' Psychology, p・296
商
湾主
論 費量 第 十 五 挨
。
先づ第一に同一の間訴を有するととはその圏一品を語る枇舎内に於げる各員の了解親密の度を増ナ口我々の了
解や親密の度が大障に於て我々の思想交換の度敢に正比例するととは経験の示すととろである︒故に同一又は
類似の岡話を有するものが他の者に北し︑よりよき了解と親密の念そ有L︑より類似の煮識を有するととLゑ
るのは自然の理市﹂ある︒而してより類似の意識を有するととは彼らの間に於ける善悪︑美醜︑買備に就いての
慣値判断の尺庭を同一又は類似怒らしめ従って彼らを同一の目的に進み︑同一の敵と鞍ふととを可能たらしめ
第二に圏諸は枇合成員の同時代に於ける思想交換の機関たると共に過去と現在を結合する肘具であるo る ︒
既に
杢く
吾人
の岡
田作
を過
F去った過去の文化を認識するには国語の則具に依る外に道は無い︒故に同一の闘語ば唯
に現在の国民に平面的たる共同意識に輿へるDみゼた︿︑立開的に彼等正その渦去とを結びつけ︑彼らをして
その過去の文化含誇らしめ︑それ︾保存して将来に永く此を停へん&ナる努力を矯さしむるのであるc英国民
のシ去クスピアl
︑調
遁国
民の
︑ゲ
1テ︑ハイネ︑猫太民族の蓄約聖書が如何に披らの愛国心を刺激し︑その目的
放の
助成
に寄
興し
たか
はの
払跡
地を
建さ
ぬと
とろ
市﹂
あら
う︒
勿論以上のととを以て同一国語は民族構成の絶封的要素︑たりとか又は同一国族は必や濁自の国語を必要とす
といふ風に解躍しではならたい︒スヰス凶民の如きは伊太利︑調逸︑悌蘭四の三園語を併用し︑白耳義国民は
悌蘭西諸とプレミアシユを共に困語とし︑米悶民は英国民と共に英語を困語とし︑而して皆︑強度の民族意識
を有する︒然し︑斯くの如き事置は決して国語の重要性の反詮とは・ならない︒民族は市イズの指遁したるが如
く︑静的存在ではなく動的存在である︒
現在の民族は結えざる護展︑進化の一過程に過ぎない︒故に前述の例外の如きは有力たる例外たることは勿
論であるが︑永久に例外たり得るか否かは甚だ疑問である︒現にスヰスの如きは特殊の停統︑特殊の地形に悪
まれ例外的に強度の足挨一意識の設建を翻るに至ったが︑而も向欧州大戦中に於ける三国語市民の相互的反感が
却ってスヰスをして永世中立の保約を保たしむるに寄興するととろ大たりしとと︑白耳義に於けるフレミシユ
運動の戦後増々蟻烈たるとと等を翻れば現在の如き費態的欣態が決して永久に持績するものとは思はれ喝ない︒
彼らはあるひは分裂して新民族性を形成するか︑あるひは一因語が他を併呑するか︑あるひは二ヶ図又は三ケ
国語が共第に混合融和して新図請を形成するかそのうちの何れかをとるゼあらう︒蓄塊洪帝国の分裂の如きは
第一の例︑英国に於けるウヱルシユの如きは第二の例︑現代欧洲各国民の如きは第三の例である︒
斯く
の如
く︑
は前越の如く︑言語は意識の表現
Tb り ︑
一民
族︑
一国語の原則は一般的傾向と認めたくてはたら喝ないのずある︒そして︑共傾向の真因
一枇舎を他より特徴つけるマIクであるからである︒この鮪は就に
十八世紀の鯵胡に於て︑へルデルに依って弐のやうに道破されてゐる︒即ち﹁凡そ人足は共祖先の一百五聞に勝り
て︑より隼い何物を持ってゐるか︒共全思想領域︑その偉統︑歴史︑宗教及び生活基礎︑そり会感情と精紳は
その言語の中にとそ宿ってゐるのだ︒一人足からその国語を奪ふζとはその永遠の財貨を奪ふととだ︒一岬がと
→言必h
a同
重量
民族及び民族政策三一﹂
jl}j
尋基
論
の世界に凡ゆる種類︑の言語を許し紛ふた以上は又知者たるものは菅にその諸人民の諸一言語を許容するのみたら
叢 第 十 五 銃
や又之を骨帯責せねばならぬ︒::::;一人民の最善の交化は他国の言語によっては表現せられ能はぬ︒それは
一民族の土壌の上にのみ最も麗しく栄える︒否更に極一一月せんかそれは島族の相縫した︒並びに︑相続せらるべ
一人民の心情は言葉と共に創法せられるのだ﹂と
き方
一一
月に
より
て
Dみ
柴え
るの
だ︒
ヘルデルの此感歎に封し︑筆者は全く同感であるが︑言語の費質又は滅亡は必やしも共れを﹁写室﹂せ向者
︒意思又は其九を﹁奪ふ﹂とする者︒意思に依るもOでないことを附加せねばならたい︒言語は意識の表現で
ある︒従って意識が何らかの原因に依って費化ナる時は一一一口語も亦費化せざるを得ない︒現に︑我々の使用するj
日本語︒如きも︑支那文化との接備に依って多大の礎化そ受け︑叉︑欧米文化との接摘に依って更に新たたる
礎化を受けつLある︒然し︑共れは決して我々が他より整質を強制せられたのではた︿︑他の原因に依って我
民族の意識が鑓化したものが共まLの形にて表現されたに過ぎないのである︒我々が過去に有し︑現在失った
意識︑言語のうちには多くの隼いものがあったであらう︒然し︑共れは単なる損失ではたくして︑我々は新に隼
いも
のを
獲得
した
ので
ある
︒故
に︑
一一
一口
語の
饗質
は共
れが
徐?
と且
つ自
然に
行は
る
L限り︶必やしも悲しむべをa
とと
では
たく
叉︑仮令b悲しむべきことぜあるとしても其れを防ぐことは不可能甲子あらうと思はれる
cp
勿
論︐我々は此際.一言語の費質は︑意識の嬰質を意味し︑意識の饗質は民族共ものの境貿を意味することを知ら
なくてはたらない︒然し︑共れとて必やノしも悲しむには営らない︒民族は絶えざる進化の過程に在る動的存在
Herder: Briefe zn Beforおr1ln.'.¥"der Hunmn:tat, Br. 10, Bi. 1, Sl 146‑148.
2)
であ る
OJ
還境の鍵化に依って多少の費一質を来すは首然でるらう︒但し︑民族は一時代にのみ存するもりでは無
く敢代KE
って
存在
P縞けるものである︒故忙︑一一一口語は過去と現在を切り離す程度の経質は受くべきではなか
らう
D過去の成就を保存しつL︵多少の破壊は不可避的であらうが︶︑新たなる樺験に依る新た怒る意識を共れ
に加ふべきものセあらう︒
い言語の品質質が他から強制せられた場合は全く別個の考察を必要とするoプロシヤが十三世紀以来英領内の一ポ
ーランド人を滴塩化するに努め之Kドイツ語を強制した︒都し︑斯る強制仕却ってポーランド人を妓般せし
め︑彼等は愈々共母閤語に執著した︒アイルランド人は共母国語を忘れ︑全く英語閤昆と化した後︑増島英国
抽 出 h z
み ︑
民族意識を担くした︒共れに反じ.英領カナダに於けるケぺツク州は一芯来︑フランス人の子孫であ
り︑フランス語を詰るのであるが︑今日では全く忠良反るカナダ市民と恋ってをる︒
筆者は必やしも強制を否定する者では危いが︑言語︒闘する限り︑強制は不必要であると信やる︒其れは意
識の塵迫であり︶本能への反逆であるからであるからであらう︒
:高度意識の人の集閣と低度意識の人の集固とが接縄ずる時は︑他の僚件にして等しき時は︑後者は前者陀感
化され︑前者︒方向に意識が費質ナるを原則とする︒言語も亦之に従ふ︒漢民族一が異民族を同化し︐米園民が多
教の移民を同化しつLあるのは其例である︒誌に他の保件と一丙った保件のうち最も重要なのは政治︑即ち同家
の植
力で
−b
る︒
低文
明の
民放
が長
期忙
一日
一八
Jて高度文明の民族を龍率的に統治する時は︑後者が前者の意識にま
論
叢
民族及び民族政策ハ二U
jffj 準
"嗣岡""
議 第十五時抗
匹I
で低下されるとともあり得る︒トルコ民族に封するギリシャ人の如き其例であらう︒
故に︑自国語そ保存し︑共れを其統治干に在る異民族に使用せしめて同化の一手段とたず最も効果的た遣は
一方に於て同家の植力を保持しつL︑他方︑自国の一般文化を高め︑後者をして︑共を嵐一・ぶととに誇りを感ぜ
しむるに在るc共れは恰も.地方出身の者が東京に於て方一百を語るを恥ぢ︑東京間を標準語として掌重するに
何らの強制を要せぬと同様であらう︒叉︑フランス語が欧洲大陸の上流祉舎に好んで使用せられるのは何らフ
一ア
ン久
の強
制に
依る
の℃
たく
.
全く
︑
フランス文化に封ずる親愛の念の然らしむるととろなると同様であら
う ︒
第三節
風 俗 習
憤
昔話が民族意識の表現であるとする喝ならば風俗習慣は民族の無意識︑又は滞在意識生活の表現と一五ふとさが
出来やろ︒風俗暫肢は我々の日常生活の殆んHと全部を規律ずる︒食物︑衣服︑住居の如く物的形態を&るとと
あり刈略儀作川の一如く︑動作の形態をとるととあり︑家族制度︑政治組織︑法制の如く制度の形態をとるとと
あり︑又︑時としては柏崎拝.祭典の如く宗教行事の形態をとるとともある︒櫨拝の如きは純然たる宗教の部門一
に属ずべきもの市﹂之を風俗習慣に一括して論やるは不営であると一五ふ観方もあらう︒共割については第五節.
﹁宗教﹂の部で更に諭やるつもり市しあるが︑現在宗教行事として認められてゐるものの多くは岐に
ι
宗教の本質を離れ︑草たる風習となってをる︒即ち︑瞳拝は本来︑⁝仰と人とD交通ゼあり︑人が一川に凡てを捧ぐるとと
でなければならや︑共れに依って典へられたる法院は人D現置の生活を具酷的に伴ずべきである︒然るに︑事
宜上︑所謂宗教に師依すろ人の多くは︑共設職と五i信徒たるとを問はや所前︑﹁常識﹂人七百生活の規律として
をるのである︒勿論.踏拝︑北パ他の宗教行事は彼等忙とって全く探意味であるのではない口
入よ
く無
意味
なら
ば︑斯る行事は行はれたい告である︒然し︑それが彼らに意味する所以のものは︑共れが宗教であるからでは
なく︑共れが習慣であり風俗であるからである︒自己の属ずるべ似合の全部︑又は自己の最も近親たるものが皆
共れを行ふから自己も共れに従ふことが安易であるからであるc借職の如台も多くは斯る習慣に従ふことを安
易なりとする人々の需嬰に肱じて生じた職業に過をないの勺ある︒恭し︑櫨拝が風俗習慌たりと一五ふことは決
して.共れの債値を否定するよとにはならない︒宗教行事が風習化すればとそ初めて粧台口安定力として共同
枇舎に重きをたずD
であ
る
c未だ風習化されざる宗教は﹁新興宗教﹂﹁類似宗教﹂の名そ冠せられ︑此舎の多敢
員から排撃される︒風脅に反しても特殊の宗教行事を行はうと一五ふのであるから︑共のことが共れそ拐す者︒
現貫生活に極めて有意護なもの一でなければならたい︒故に︑北川れらは︑迷信たりや否やは別として農の宗教と
目ずべきでるり.従って本簡の課題外である︒
道徳ω
大部
分も
︑本
質的
には
風俗
習慣
の一
部−
山﹂
ある
︒
共れが人に依って反省される場合は別ゼあるが︑所
謂︑道徳の大部分は﹁常識﹂化され︑機械化され︑人を一律に︑形式的に統制するものである︒勿論︑道徳も
論
叢 民族及び民族政策つ一υ
一五
向.
第 十 五 貌
一
ー五喝,、
里 竪
~~量
費豊
初めは聖人︑賢者の障勝︑に依って生れたものであらうが︑共れが風習化され︑無意識的に人を律するやうにな
って初めて一つの統制力として共威力を護揮するのであるο
風俗習慣は斯くの如く︑通常︑共名を以て呼ばるL
もの
Lみで校く人知︑生前の各部門左含有するものであ
る
。
共れは如何にして叢生したか︑サムナーは動物の賓験に依って弐のやうに説明してたる︒生れたばかりの動
物を概察すると︑彼は共本能充込の手段に於て甚だ拙劣である︒紋は幾度も試み︑幾度も失敗し︑議に多くの
可能性のうちに一つの趨営たる手段を選揮し︑然る後︑彼は共れを繰り返す︒斯くして︑彼は共手段に熟練す
るのである︒群居生活を友す動物に於ては︑個々の動物は他D動物の粧除によりて餐せられ︑共れを模倣する
ととにより︑早く目的充足の手段を護見ずる︒人類に於ても同様である︒初めに目的あり︑而Lて後︑共れに
建する手段が葉見され︑共れが倖統︑模倣︑権威のカに依って後世に侍はり︑風俗習慣とたると︒
即ち︑風俗習慣は一定の時︑一定の場合に於ける特殊の目的を建成ずる手段が反復に依って同定したもDで
ある
風俗習慣が一定の目的を有するものなる以上︑共れは必然︑有意義ぜあり︑有悦値・なものでたければならな ο
ぃ︒故に︑第三者から槻て︑如何に奇怪た習慣であるとしてもλ例へば印度に於て午を睦拝する如きJ共れが
確立された風習である以上︑其れは有意義であり︑有慎値なものと推定したくてはたら友い︒
William G. Sumner : Folksways, pp・:i‑s 3)
民族を内容づけるものは文化ずある︒そして.其文化は文化の各部門に依って観察される︒一百五同位民族の意
識生活の表現である︒風俗習慣は民族の無意識生活の表現である︒我々は共の何れを主とし︑何れを従とすろ
ととは出i来ないのであるが︑個人の性格は彼が何を一詰るかよりも︑彼が如何に行ふかに依ってより正確に判断
するととが出来る如く︑民族性も言語に於けるよりは︑風俗習慣により正確に去現せられてゐるかも知れな
ぃ︒言語と風俗習慣は何れがより可饗的であるか凸其れは軽々しく結論を下し兼ねる問題である︒外国介の刺枇
に依
って
何れ
も埜
化す
るが
︑立
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氏︑
ま官
︑短
日月
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愛化
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とと
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めて
稀で
ある
︒↓
一一
日話
にせ
よ.
風俗
脅慣にせよ.共れが外国汗の刺激に依って易く礎化する部分は恐らく︑共表面のみであらう︒共根底に於て何れ
も相営に保守的なもω
であ
らう
︑然
し.
一一
一
H語が新問︑雑誌等の如き所謂︑言論機関の形態をとる時︑共れを通
して表はさるLものは風俗科憤より遥かに先行的であるととは事賓である︒故に︑一民族白性格を批判するに
営り︑北ハ民族を代表する一言論機闘を飴りに重要組するととは認識を誤らす原因とたるであらう︒共離に於て︑
風格習慣の方がより正確に民投性を表現してゐると一五ふことが出来ゃう︒
風俗習慌は共本質上︑保守的たものT
ある
︒
そして︑共れが保守的であるととが民族に統一と恒久性を興
へ︑共性絡に一定の形態を興へるのである︒印度が若し︑英国と全く同一の風俗習慣を持つに到ったたらば︑
印度は既に印度たるととを夫び英国の一部となるでめらう︒一世舎の一部のもρが外国の流行を迫ふ傾向に封
L.保守的分子が共れに街し︑深刻たる反感を持ち︑強く反捜するのは寛に民族の自己保存の本能が護勤した
論
主主
民族及び民放政策︒一U
伽仁
商 準 諭 議 第 十 五 競
/¥.
に過ぎないのであるo
風俗習慣は斯くの如く保守的たものであるが︑共れが時と共に徐々と︑又︑ある場合には可成り念激に趣化
ずるととも亦歴史の示すところである︒
共れに封して︑二つの親方が成立し得ると忠ふ︒第一は︑風俗習慣の多少︒礎化は止むを得たいが︑共れが
民族の生命であり︑倖統を除いた民族はあり得たいのだから︑出来る限り風習の地変化は避くべきであると︒共
れは保守主義の立場である︒第二は︑風習の礎化は民族の礎化又は務質であるととは認める︒然し︑民族は艶
化した形に於て存在し績けるのゼある︒又︑仮令︑鑓化が悲しむべきととがあるとしても︑共れは自然の法則
であるから止むを得たい︒人得的に風習の建化を妨げるととは一官に無益であるばかりでなく︑吐舎の進歩的要
素に反感を抱かしめ却って吐舎の健全たる護建を妨げるだけであると︒自由主義の立場が共れである︒
我々は双方に真理があるととを認め・なければたらたい︒従って︑吐舎がとの双方の要素を趨宜に含み︑そし
て共れが十分に表現されるととに依って枇舎は健全に進化するものと思ふ︒然し︑との双方の立場を総合した
る第三の立場も亦成立し得ると思ふ︒
風俗習慣の境化が︑一言語の場合に於て論じた通り︑外部的勢力の強制に依る時は全く有害無益たるととは論
を待たたい︒誌で問題になるのは民族が何らかの原因に依って白護的に共風習を礎化しゃうとする場合マあ
る︒此場合に於て︑第一に注意すべきととは︑風俗習憤は決して偶然に費生したのでたく︑何か一定の目的を
有し
たも
のた
ると
と市
﹂あ
る︒
故に
︑
一民族の風習は共れを費生せしめた白的が倫存ずる限り︑保存せらるべき
である︒然し︑此場合にも一つの除外例が設けられたければならない︒其れは︑最初に一つの風習を費生せし
めた目的が向存してゐても︑共風習以外の風習の方が遥かにより効果的に共目的を建成せしむるととの明かな
る時でるる︒此場合に於ては最初の風習は就に共存在慣値を犬ったのであるから宜しく他の物に依って泣き替
へらるべきである︒との除外例の有せぬ限り︑風習は存続せしむべきである︒
一風習を費生せしめた日的が印に建成せられたか︑又は四問︒挺化に依って共同的が泊犬し︑他の目的が詰
成せらるべき時に於ては共風習は他の風習に依って置き持へられねばゑら友い口事賀上︑一世合に相官急敢な
風習の饗化が起り︑祉命日に不安と混乱を粛してをる朕態は︑共枇舎の目的が鑓更された結川市ゼある場合が多
ぃ︒祉舎の進歩的要素は意識的若しくは無意識的に其目的に添ふやろ風習そ改めつLあるのであり︑保守的要
一議は共れに劃して反動的役割を演じてゐるのである︒故に︑枇舎の目的が費更された場合に於ては︑印刷習は必
然的に改められるでるらう︒又︑共れを促進させるやうに努むべきであらう︒但し︑此場合に於ても犠牲は誌
小険度に止むべきである︒何故かなれば︑口的が饗更されたとは一五へ︑新しい目的と奮目的とは決して無関係
なものゼはない︒雨者は有機的関係を有する︒前者は後者を保件として誕生したのである︒手工業と産業革命
は相封立するものぜはあるが︑産業革命は手工業を保件として叢生したものである︒故に︑新目的達成の手段
たる風俗習慣は︑奮目的の其れに含まるL
一一
切の
成就
を利
用す
べき
ぜあ
る
c慣習は熟練である︒熟練無き者に
さ
きp、
両日目
議 民族及び民族政策つ一U
丸
商
与さ
百命 言霊
第十五時酔
。
不可能なととが熟練者には日常の茶飯事であるc故に︑奮風習のうち︑新目的に反せざるものは出来る限り之
を保存すべきであらう︒
又︑風潮目は間半に共れが風習マあると一五ふ理山に依って傘いと一五ふ一面もある︒共れは仮令︑破損して安住に
塙へないやうな住居でも草に住み習れてをると一五ふのみの理由で捨てるに忍びないのと同様である︒
我々は今まで﹁目的﹂と一五ふことを唯抽象的にのみ述べて来たが︑共れは多くの場合.経済を意味するので
ある
o経済は枇命日生活の基礎であるから人類の精神生活の一切が共れに依って制約されるととは勿論である︒
然し︑経済は共れ白韓としては文化を構成したい︒従って民族の内容であり得ない︒民族の内容をなすものは
経済を基礎とし︑共れに制約せられつL
費生
する
︑一
一一
円語
︑風
俗習
慣︑
宗教
等で
ある
︒故
に︑
民族
の寧
しと
する
ところのものは﹁目的﹂ではたく︑共れを建成せしむる風習である︒目的の塑更と同時に直ちに新風習を費生
せしめ︑民族をして直ちに共れを愛せしむることの不可能たるは白ら明らかであらう︒時と場合に依つては︑
目的達成の時期を多少遅延ぜしめても︑書風習のあるものは保存すべきであらう︒叉︑時としては︑過去の文
化を破壊し︑民族の精神生活を一時宰虚ならしめても目的達成に遇進せねばたらぬ程︑経済生活が切迫して
をる場合もあるゼあらう︒そして︑共如何たる場合が共何れに相営するかを個々の民族︑側々の時代に就いて
のみ論じ得るのである︒