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「再臨」を中心とした批評的考察

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Academic year: 2021

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

滝沢克己・椎名麟三・内村鑑三におけるキリスト教 受容の文学的研究——「インマヌエル」「復活」

「再臨」を中心とした批評的考察

小林, 孝吉

http://hdl.handle.net/2324/1959202

出版情報:九州大学, 2018, 博士(学術), 論文博士 バージョン:

権利関係:

(2)

1

学位申請論文

滝沢克己・椎名麟三・内村鑑三におけるキリスト教受容の文学的研究

――「インマヌエル」「復活」「再臨」を中心とした批評的考察

小林孝吉

(3)

2

序論

本研究の視点と方法、テーマと構成

――キリスト教受容の文学的研究7

注序論

15

第一部

滝沢克己――インマヌエルと存在の宇宙

第一章「存在」――〈最初の滝沢〉をめぐって

1西田哲学と存在の宇宙――神人の原関係

16

2バルト神学とインマヌエルの原事実――信仰の可能性

27

第二章「神」――『西田哲学の根本問題』『カール・バルト研究』

1物への問い――『懺悔』と死の問題

37

2「絶対無の場所」と物の自由――「一般概念と個物」

42

3バルトとハイデッガー――留学前後のドイツの状況

49

4インマヌエルの神と天皇――戦時下の滝沢克己

58

5西田幾多郎の宗教観とバルトのクレドー

65

6西田幾多郎からカール・バルトへ

73

7カール・バルトから西田幾多郎へ

80

8哲学と人生の根本問題

85

第三章「自由」――『芥川龍之介の思想』『夏目漱石』

1芥川龍之介とパスカル――死と回心

93

2「真実の生」と『芥川龍之介の思想』

102

3罪の現象学――『夏目漱石』

108

4罪と自殺――夏目漱石『こゝろ』の問題

118

5死から則天去私へ

122

6先生の死とイエスの死

131

第四章滝沢克己の彼方へ――〈最後の滝沢〉の意味するもの

136

(4)

3

注第一部

142

第二部

椎名麟三――復活体験とキリスト教文学の誕生

第一章椎名麟三の文学と希望――死からの自由を求めて

1死からの自由――一枚の木の葉から《復活のイエス》へ

149

2幼年期から非合法運動、転向まで

153

3出獄後の昏迷と文学との出会い――『運河』から

157

第二章闇と向き合う自由――『深夜の酒宴』と『懲役人の告発』

1『深夜の酒宴』と思想の闇

160

2『懲役人の告発』と社会の闇

163

3『深夜の酒宴』と『懲役人の告発』――〈自由〉と〈ほんとうの自由〉

166

第三章椎名麟三における回心の瞬間――《復活のイエス》との出会い

1回心と初期作品

170

2「死」と「復活」の矛盾

174

3回心の時期と解釈

178

4回心の瞬間

184

第四章キリスト教文学の誕生――『美しい女』

1キリスト教文学としての椎名文学

189

2『邂逅』と〈ほんとうの自由〉

191

3『美しい女』の世界と主人公「私」

196

4〈美しい女〉とキリスト教文学の誕生

202

第五章罪と自由――『運河』

1自伝的作品の系譜――『自由の彼方で』

205

2『運河』の自伝小説的位置

211

3罪と自由――『運河』

214

(5)

4

第六章死と終末のなかで――『断崖の上で』『長い谷間』

1キリスト者とニヒリズム――後期作品への視点

219

2救済願望と空虚――『断崖の上で』

221

3死と終末のなかで――『長い谷間』

224

4二重の死を生きること――キリスト者と自由

230

第七章自由論――『蠍を飼う女』『天国への遠征』

1〈ほんとうの自由〉と自由

233

2〈蠍〉からの自由――『蠍を飼う女』

234

3〈死〉からの自由と〈神のユーモア〉――『天国への遠征』

241

4復活と自由――自由論

244

第八章椎名麟三の文学と〈ほんとうの自由〉――『永遠なる序章』論

1序章としての自由――砂川安太

247

2虚無と自由――竹内銀次郎の死と永遠

252

3偶然と美――竹内登美子の実存と自由

254

4〈ほんとうの自由〉と《復活のイエス》――『永遠なる序章』を超えて

九章椎名麟三の文学から未来へ

1時代の「黒い渦」と〈ユーモア〉

262

2椎名麟三の文学から未来へ――希望の文学

264

注第二部

266

第三部

内村鑑三――十字架・復活・再臨

第一章日本近代とキリスト教――北村透谷と内村鑑三

1明治の時代風景とキリスト教

280

2北村透谷の文学と「一點星」――「楚囚之詩」「内部生命論」

284

3北村透谷と内村鑑三――文学とキリスト教

291

(6)

5

第二章内村鑑三とキリスト教――札幌農学校と渡米前の苦悩の渦のなかで

1札幌農学校と内村鑑三

298

2進化論とキリスト教――科学者としての内村鑑三

306

3苦悩の渦のなかで――内村鑑三と浅田タケ

312

第三章霊的回心と贖罪信仰――『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』『流竄録』

1旧キリスト教国アメリカへ――自由への道

322

2エルウィンからアマスト大学へ――シーリー総長との出会い

327

3贖罪による霊的回心――魂の再生へ

329

第四章悲嘆と希望――『基督信徒の慰』『求安録』

1非キリスト教国日本へ――二つの「J」のはざまで

339

2悲嘆から希望へ――『ヨブ記』と『基督信徒の慰』

343

3罪と矛盾――『求安録』

353

第五章現世と高尚なる一生涯――『後世への最大遺物』『代表的日本人』

1生死の意味と後世に遺すもの――姜尚中『心』と『後世への最大遺物』

361

2天職と高尚なる一生涯――ある桶職の詩と椎名麟三『美しい女』

370

3天と人と社会と――『代表的日本人』

377

第六章信仰と社会――『伝道之精神』と非戦論

1明治二七年日本――『伝道之精神』

384

2日清・日露戦争と内村鑑三――義戦から非戦論へ

389

3信仰と社会――足尾銅山鉱毒事件と「美しい地球・日本」

401

第七章キリスト教と無教会信仰――『無教会』『聖書之研究』

1キリスト教文明と日本の困難――福音の力

408

2キリスト教と無教会の教会――『無教会』と信仰の単独者

411

3キリスト教と十字架――『聖書之研究』と信仰 共同体

417

第八章インマヌエルと福音――滝沢克己と内村鑑三

1インマヌエルと教会――滝沢克己『カール・バルト研究』

433

(7)

6

2義人と罪人――内村鑑三『羅馬書の研究』

442

3楽園 パラダス・喪失 と自由――インマヌエルと福音

459

第九章復活と再臨――椎名麟三と内村鑑三

1「復活のイエス」との出会い――椎名麟三

466

2十字架・復活・再臨――内村鑑三

472

3再臨と宇宙の完成――未来社会への希望

482

第一〇章内村鑑三――私は一基督者である

489

注第三部

498

結論

本研究の意義と独自性

――キリスト教受容と人間と社会の希望

517

注結論

526

〔付録年譜〕

滝沢克己年譜

528

椎名麟三年譜

534

内村鑑三年譜

539

参考文献一覧

547

(8)

7

序論

本研究の視点と方法、テーマと構成

――キリスト教受容の文学的研究

本論文は、日本の近代以降のキリスト教受容において、神学、文学、伝道などで影響

力のあるユニークな人物として、滝沢克己(一九〇九―一九八四年)と、椎名麟三(一

九一一―一九七三年)、内村鑑三(一八六一―一九三〇年)の三人のキリスト者を取り

上げ、その受容体験の意義と独自性を比較、解明する文学的研究である。

これらの人物は、近代以後のキリスト教受容史における位置づけという見方よりも、

それぞれ異なった時期、方法でキリスト教と出会い、生きるために存在をかけた格闘の

なかで、独特な形で「回心 コンヴァー

」を

体 験 し

、滝

沢 克 己 は 神

学・

宗 教 学

、椎

名 麟 三 は 小 説

戯曲などの文学作品、内村鑑三は聖書研究・伝道を通して、生涯にわたって、その「実

験的(1)」信仰を証 あかししている。それぞれ独立性をもった、その三つのキリスト教受容

のタイプを重ね合わせて比較すると、そこには相互に神の言 ことと人間の自由が深い森に

響く木霊 のように呼応し合っていることがわかる。さらに、それはイエス・キリストの

「十字架・復活・再臨」という信仰と福音の、キリスト教の根本問題へとつらなってい

くのである。

本論に入る前に、滝沢克己、椎名麟三、内村鑑三の人物像、キリスト教受容体験の概

要とその核心にふれておきたい。それは、それぞれの生きた時代と社会を超えて、独自

性と共通性をもっている。

滝沢克己は、西洋哲学から、西田幾多郎の「場所の自己限定としの意識作用」(『思想』

一〇〇号記念号、一九三〇年九月号)を知り、西田哲学の困難な研究を通して、西田幾

多郎の「絶対矛盾的自己同一」の

原 、事実を知ることになる。それは一九三三(昭和八)

年二月頃のことで、滝沢克己が二四歳直前の出来事であった。彼はそれを、次のように

顧みている。「私はついに、哲学研究の本来的な対象に逢着致しました。(中略)私を苦

しめ、全ての実在性から私を切り離してきた厚い隔壁は忽然として消滅しました 、、、、、、、、、、、

」 ( 「

代日本における禅仏教とキリスト教」『現代の事としての宗教』所収、傍点引用者)と。

その後、ナチズムの嵐の時代に、西田幾多郎の勧めで、ドイツの福音的神学者カール・

バルトのともで、「処女受胎」の講義をはじめ、聖書、神学を学ぶことになる。あると

き、滝沢はバルトに、西田哲学を通して発見した原事実は、バルトの指し示す「インマ

ヌエル」(=神われらとともにあり)と同一の実在点にかかる同一の事実であることを

(9)

8

告げる。すると、バルトはキリスト教の宣教、イエス・キリストの福音を伝える聖書の

外で、同一の救済の事実を知ることは、「原理的には可能だが 、、、、、、、、、、事実的には 、、、、、不可能であ 、、、、、

る 、」

( 「

何 を

、 い か に

、 私 は カ ー ル

・ バ ル ト の も と で 学 ん だ か

」 『

宗 教 を 問 う

』 所 収

、 傍

点引用者)と答えるのである。

この教会・聖書の外における神認識、信仰の可能性の問題は、滝沢克己にとって決定

的に大きな課題となった。それに関連しては、第二章「「神」――『西田哲学の根本問

題』『カール・バルト研究』」において、ナチズムに抗して神学的実存をつらぬいたカー

ル・バルトと、天皇制国家日本の戦時下の滝沢克己と、二人の歴史の試練のなかでの生

き方も比較、考察している。それは宗教学としては、キリスト教と仏教の比較研究、最

晩年の晴明教の教義の研究まで、生涯を通してつづいていくことになる。

結局、滝沢克己はバルト以後、「二四年間」もキリスト教の洗礼を受けないままに、

独自の「インマヌエルの神学」を確立するのである。そこに、日本におけるキリスト教

受容において、滝沢克己の独自性がある。

ドイツからの帰国後に、滝沢克己はバルト神学と西田哲学の折衝を経た『西田哲学の

根本問題』(江刀書院、一九三六年)、『カール・バルト研究――イエス・キリストのペ

ルソナの問題』(同前、一九四一年)、『夏目漱石』(三笠書房、一九四三年)の著述から

出発し、後にその神学の核心を「神人の原 、関係」と名づけ、神と人との間には、教会の

壁の内外、信仰の有無を問わず、そこには「不可分・不可同・不可逆」な

原 、関係がある

ことを明らかにした。その存在と生命の根源的な一点(=「インマヌエル」)から、バ

ルト神学と西田哲学の可能性と相互に関連する問題点、限界を解明した。それは西洋と

東洋、キリスト教と禅仏教の問題とも関連しつつ、バルト神学と西田哲学の積極面と消

極面を、「不可分・不可同・不可逆」な根源規定から厳密に解き明かすことでもあった。

滝沢克己は、その「インマヌエル」を原点に、哲学、神学、新約学、仏教、文学、経済

学、最後は心身論、新興宗教・晴明教の教義まで研究の対象領域を広げた神学者・宗教

学者である。

三部構成の本論文第一部「滝沢克己――インマヌエルと存在の宇宙」においては、バ

ルトの聖書の外における神認識の原理的可能性と事実的不可能性の問題を〈最初の滝

沢〉とし、晩年の晴明教との出会いなどによる「純粋神人学」の構想を〈最後の滝沢〉

として、滝沢克己のキリスト教受容の独自性の解明を、滝沢克己の西田哲学、バルト神

学、芥川龍之介、夏目漱石の研究を通して明らかにしていく。そのことは同時に、「イ

ンマヌエル」の原事実の実在を究明し、存在の宇宙の「現象学」を映しだしていくこと

にもつながっている。

(10)

9

椎名麟三は、不幸な少年期を経て、戦前の青年期には共産主義による非合法運動、労

働運動における投獄経験をもち、獄中で自らの死と向き合い、転向し、出獄後にドスト

エフスキー『悪霊』から自由を知ることで、文学を志すことになる。敗戦後の時代と精

神の廃墟のなかで、実存的小説『深夜の酒宴』(『展望』一九四七年二月号)で新たな戦

後文学として評価を受けてから、死と自由を描いた『永遠なる序章』(河出書房、一九

四八年)、自己分裂の記念碑となる『赤い孤独者』(同前、一九五一年)などの作品で、

絶望の深化とともに、一時精神的ないきづまりを経験し、一九五〇年一二月、日本基督

教団上原教会の赤岩栄牧師からキリスト教の洗礼を受ける。だが、椎名麟三はキリスト

教の洗礼によっても神を信じることができないままに、死に端を発した精神の苦悩はい

っそう深まっていくのである。

その受洗から約一年後、「復活のイエス」との出会いという劇的な回心を体験する。

椎名麟三は、回心の直後、それを「復活のイエスが、弟子たちの前に立って居られる。

自由!僕たちが言葉としてだけしか知らなかった真の自由として弟子たちの前に立

っていられる。自由 、、!自由とはこれであった 、、、、、、、、、、!……」(「復活」『指』一九五二年二

月号、傍点引用者)と、感動とともに記している。この「復活体験」は、キリスト教の

受洗から約一年後の一九五一(昭和二六)年の一一月か一二月頃と論証とともに推定で

きる。そのとき椎名麟三は四〇歳となっていたのである。

第二部「椎名麟三――復活体験とキリスト教文学の誕生」は、この「回心の瞬間」の

時期を精確に究明することを重要なテーマの一つとしている。このようなキリスト教受

容における独自な「復活体験」をもとに、椎名麟三は『邂逅』(講談社、一九五二年)、

『美しい女』(中央公論社、一九五五年)などのキリスト教文学の代表的作品を発表す

る。その文学と信仰の光源が「復活」の事実であり、椎名麟三はそれを人間的自由と区

別して「ほんとうの自由」=「第三の自由」と呼び、その実現はキリスト者の文学によ

って可能であるとし、プロテスタント文学集団「たねの会」をつくるとともに、小説、

戯曲など、日本における固有なキリスト教文学を創造するのである。本論文第二部では、

主に回心である復活体験以後の文学を主な研究対象としている。

内村鑑三は、明治維新の七年前、一八六一(万延二)年に高崎藩の武士の子として生

まれ、儒教的環境で育つのである。一六歳のとき、アメリカからW・S・クラークを招

いて建学された開拓使附属札幌農学校に、太田(新渡戸)稲造らとともに二期生として

入学する。そこでキリスト教と出会い、クラークの起草した「イエスを信ずる者の契約」

(Covenant of Believers in Jesus )に署名し、一八七八年六月に一七歳で、メソジス

ト監督教会宣教師M・C・ハリスから洗礼を受ける。卒業後の一時期、北海道開拓使御

(11)

10

用掛の官吏として漁業調査にかかわるが、最初の結婚の失敗も影響して、内部の「真空」

に促されるように、苦悩の渦のなかでキリスト教大国アメリカへと渡るのである。それ

は「流竄 」のような渡米であった。

エルウィンのペンシルヴァニア知的障がい児養護院での看護人を経て、アマスト大学

に選科生として入学を許される。そこでシーリー総長と運命的に出会い、その言葉によ

って「贖罪の回心」を経験する。一八八六年三月、苦悩の最中 にあった二五歳前の内村

鑑三に、シーリー総長は、こう語った。

内村、君は君の衷 〔うをのみ見るから可 いけない。君は君の外を見なければいけない。何故

己に省みる事を止 〔やめて十字架の上に君の罪を贖 〔あがな〕ひ給ひしイエスを仰ぎ瞻 〔み〕ないの

か。君の為 〔なす所は、小児が植木を鉢に植えて其成長を確 たしめんと欲して毎日其根を

抜いて見ると同然である。何故に之を神と日光に委 〔ゆだ〕ね奉り、安心して君の成長を待

たぬのか(2)。(「クリスマス夜話=私の信仰の先生」)

それは、それまで内村鑑三の魂を苦悩とともに縛っていた律法から解放される決定的

なキリスト教の受容体験であった。内村鑑三は、『羅馬書の研究』(『聖書之研究』二四

七―二六八号、一九二一年二月―一九二二年一一月)の第三一講のなかで、こう述べて

いる。「律法の廃棄(律法よりの釈放)そしてキリストへの帰属――これが信仰の道又

聖潔の道である」と。だが、内村鑑三はキリスト教大国アメリカに、教派主義のキリス

ト教界に、宣教師や神学に失望し、日本を新たなキリスト教国とすることを夢見て帰国

することになる。その後は、教師として勤めたミッションスクールでの宣教師らとの軋

轢、第一高等中学校教育勅語奉読式での「不敬事件」などがあり、教会、教派によらな

い無教会 、、、信仰者となるのである。

また、日本近代において、日清戦争を「義」のある戦争と見たことを恥じ、日露戦争

以後、キリスト教的非戦論、戦争廃止論の立場をつらぬくのである。そして、日本にお

ける本格的な誌上の信仰 共同体 として、自ら主筆となって雑誌『聖書之研究』を創刊し、

三〇年間、全三五七号にわたって、二つの「J」(Jesus とJapan

)の

も と

、聖

の「

音」の伝道者として生き、第一次世界大戦後の晩年は「再臨運動」「再臨信仰」へと至

る。そこには、畔上賢造、藤井武、金澤常雄、黒崎幸吉、三谷隆正、石原兵永、塚本虎

二、南原繁、矢内原忠雄など、内村鑑三の影響を受けた日本近代以降のキリスト教受容

と、無教会信仰の系譜がある。

第三部「内村鑑三――十字架・復活・再臨」は、日本近代を生きた内村鑑三の評伝的

(12)

11

研究、宗教的著作、聖書講解などをベースにしながら、第八章「インマヌエルと福音―

―滝沢克己と内村鑑三」、第九章「復活と再臨――椎名麟三と内村鑑三」では、第一部

「滝沢克己」、第二部「椎名麟三」を相互に結ぶものと、その独自性に伴う相違点を明

らかにし、「結論本研究の意義と独自性――キリスト教受容と人間と社会の希望」に

おいてそれをまとめている。この無教会信仰者にして伝道者・内村鑑三のキリスト教受

容とその希望の中心点こそが、イエス・キリストの「再臨」なのである。ここに、日本

近代のキリスト教受容における内村鑑三の独自性がある。

このように、滝沢克己の神学の核心は、「神人の原関係」=「インマヌエルの神学」

に、椎名麟三の文学の可能性は、「復活のイエス」=「ほんとうの自由」に根拠をもつ

「復活のリアリズム」にあり、内村鑑三においては、渡米中のアマスト大学での贖罪の

回心を経て、日本独自の無教会主義から「再臨信仰」=「宇宙の完成」へと至る――こ

こには、滝沢克己・椎名麟三・内村鑑三のキリスト教受容と、そこに共通した福音の普

遍的なダイナミズムが未来へと流れている。

本論文の視点と問題意識は、それぞれが異なった境遇、時代、精神の遍歴を背景に、

独自なキリスト教の受容体験を経て、どのように神学、文学、無教会信仰を形成してい

ったかを、第一部「滝沢克己」、第二部「椎名麟三」、第三部「内村鑑三」のそれぞれに

独立性をもった三部構成によって、その評伝的人物像の考察もまじえた文学的研究にお

いて明らかにしていくことにある。

また、本論文では、滝沢克己・椎名麟三・内村鑑三の三人のキリスト者を結ぶ同一点

――それは前述のように、滝沢克己においては、西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」の

事実への覚醒である「第二義のインマヌエル」の生起、椎名麟三は「復活のイエス」と

の出会い、内村鑑三はアマスト大学でシーリー総長の言葉を契機とした「贖罪の回心」

であり、その独自性がゆえの相違点についても、全体の論述のなかで浮き彫りにしてい

く。

その研究方法は、滝沢克己・椎名麟三・内村鑑三という三人のキリスト者のキリスト

教の受容体験を比較対象に、宗教・哲学的な考察を中心的なものとし、世界や日本の文

学作品もその考察と対照させつつ、それぞれが生きた当時の時代背景や社会問題、文化

状況とも関連させた文学研究の領域のなかで、適宜、自分自身の問題をも含む批評の方

法を取り入れて解明、叙述していくことにある。その過程で、日本と世界をとりまく二

一世紀の時代の大きな歴史的困難のなかにある、人間と社会の未来への可能性をも展望

していきたい。

さらに、そこから「インマヌエルの神学」として、人間存在の原事実を証 あかししつづけ

(13)

12

た滝沢克己、「ほんとうの自由」=「復活のイエス」をキリスト教文学のいのちとした

椎名麟三、「十字架・復活・再臨」を通して、人間の救いと宇宙の進化・完成への希望

と、日本に新たな無教会主義という伝道の途 みちを切り拓いた内村鑑三――この日本近代以

降のキリスト教受容の三タイプに共通するキリスト教の根本問題、独自性と共通性など

を、それぞれの先行研究とともに、多領域の分野にも言及しつつ文学的に研究、考察、

批評することによって、未来への人間と社会の原 、希望=純 、福音を明らかにしていくこと

を本論文の主テーマとしている。それは第一部の滝沢克己、第二部の椎名麟三とたどり

ながら、第三部である内村鑑三の「再臨信仰」に集約されていくのである。

内村鑑三は、一九一八(大正七)年三月三〇日の大阪天満教会での「ロマ書」(第八

章一四―二三節)の講演記録である「基督再臨の欲求(3)」のなかで、「此の数節は宇

宙の希望と人類の希望と両 ふたつながら之を簡単明瞭の語を以て示すものである」といい、

最後をこうむすんでいる。

キリストの再臨は人生と全宇宙 、、、、、、に関する最大問題である(4)。(傍点引用者)

また、内村鑑三は、一九一八(大正七)年、『聖書之研究』二二〇号(一一月) に、「聖

書」を「来臨の書」として、次のような一行からはじめている。

聖書は神の来臨 らいりんに関する其の約束の書 、、、、である。……(5)。(「BOOK OF COMINGS.

来臨の書」、傍点引用者)

内村鑑三の聖書研究とキリスト教信仰のいきついた「キリスト再臨」は、人生、宇宙

の最大の問題にして、内村鑑三にとって旧新訳聖書六六書は、その「約束の書」なので

ある。

本論文の構成については、以下の通りである。

第一部「滝沢克己――インマヌエルと存在の宇宙」は、私の著書『滝沢克己存在の

宇宙(6)』(創言社、二〇〇〇年)をもとにしている。それは冷戦構造の崩壊後の世紀

の変わり目をはさんだ、日本社会の「暗い森」といわれた九〇年代半ばから後半を時代

背景に、一「存在」二「神」三「自由」を各章題とし、西田哲学とバルト神学との折衝

を描いた〈最初の滝沢〉から、その融合した『西田哲学の根本問題』『カール・バルト

研究』、文学研究である『芥川龍之介の思想』(新教出版社、一九六七年)『夏目漱石』

を経て、四「滝沢克己の彼方へ――〈最後の滝沢〉の意味するもの」で成り立っている。

(14)

13

一方、執筆時の日本と世界の時代背景は、論文全体の論述構成上、必要に応じて最小

限にとどめ、研究の普遍性と統一性を保つように配慮した。第二部も、一部そのように

扱った。

第二部「椎名麟三――復活体験とキリスト教文学の誕生」は、主に復活体験以前の作

品論を中心とした、同じく私の著書『椎名麟三論回心の瞬間』(菁柿堂、一九九二年)

の延長線上に、それ以後のキリスト教文学を論じた『椎名麟三の文学と希望――キリス

ト教文学の誕生(7)』(菁柿堂、二〇一四年)をその主な内容としている。

それは評伝的研究である第一章「椎名麟三の文学と希望――死からの自由を求めて」

から、「回心の瞬間」を究明した第三章「椎名麟三における回心の瞬間――《復活のイ

エス》との出会い」を中心に、「復活体験」によって齎 もたされた「ほんとうの自由」を光

源に、後期作品を「キリスト教文学の誕生」という視点から考察している。

その主な作品は、『邂逅』『美しい女』、自伝小説『自由の彼方で』(講談社、一九五四

年)『運河』(新潮社、一九五七年)、死と終末を扱った『断崖の上で』(中央公論社、一

九五九年)『長い谷間』(講談社、一九六一年)から、キリスト教的自由論である戯曲『蠍

を飼う女』(『新日本文学』一九六〇年二月号)『天国への遠征』(『新劇』一九六一年一

月号)を経て、第二部の最後に、キリスト教文学への入り口となる、受洗前の『永遠な

る序章』(河出書房、一九四七年)を取り上げ論じている。

第三部「内村鑑三――十字架・復活・再臨」は、私の著書『内村鑑三――私は一基督

者である(8)』(御茶の水書房、二〇一六年)をもとにしたものである。ここでは、第

一章「日本近代とキリスト教――北村透谷と内村鑑三」から、札幌農学校でのキリスト

教との出会い、渡米から新しいキリスト教国日本を期待しての帰国、幾多の失望などの

評 伝 的な 前半 生 を

、『

余 は いか にし てキ リス ト 信 徒 と なり し か

』(

How I became a

Christian 、警醒社書店、一八九五年)、『流竄録』(『国民之友』第二三三―二五一号、

一八九四年八月―一八九五年四月)などでたどりながら、『基督信徒の慰』(警醒社書店、

一八九三年)、『求安録』(同前)から講演録『後世への最大遺物』(便利堂書店、一八九

七年)、信仰と社会、非戦論を経て、雑誌『無教会』『聖書之研究』による、旧約の預言

者にも通ずる伝道者・内村鑑三の「

一基督者 、、

、、」としての信仰の生涯を、内村鑑三の聖書

講解もまじえながら描きだしている。

また、第一部、第二部をもとに、第三部の第八章「インマヌエルと福音」では、滝沢

克己と内村鑑三を、第九章「復活と再臨」では、椎名麟三と内村鑑三を相互に比較しつ

つ、そのキリスト教受容の核心である「インマヌエル」「復活」「再臨」を中心とした、

それぞれの本質的な課題を含む批評的考察を行っている。

(15)

14

さらに、『椎名麟三の文学と希望――キリスト教文学の誕生』と『内村鑑三――私は

一基督者である』は、二〇一一年三月一一日の東日本大震災と福島第一原発のメルトダ

ウン事故である「3・

11」という文明史的転換点を、その時代と社会の背景とし、そ

こからの希望を見いだすこともその研究のなかに含んでいる。

それは旧約聖書の「創世記」による「楽園 パラダ喪失 ・ロ」から、約束された新約のイエス・

キリストによる「楽園 パラダ回復 ・リゲ」へ、さらには未来社会の「新しい楽園」へと流れる永

遠の生命 の河を、「信仰」とともにたどることでもある。

以上のように、本論文は、『滝沢克己存在の宇宙』『椎名麟三の文学と希望――キリ

スト教文学の誕生』『内村鑑三――私は一基督者である』を、それぞれ著書としてベー

スとした独立性をもった三部構成としている。

その上で、この論文は、論題「滝沢克己・椎名麟三・内村鑑三におけるキリスト教受

容の文学的研究――「インマヌエル」「復活」「再臨」を中心とした批評的考察」にそっ

て改訂し、序論「本研究の視点と方法、テーマと構成――キリスト教受容の文学的研究」

と、結論「本研究の意義と独自性――キリスト教受容と人間と社会の希望」を加えるこ

とで三部を融合し、キリスト教受容を扱った論文全体が統一性をもつように構成したも

のである。

(16)

15

序論本研究の視点と方法、テーマと構成――キリスト教受容の文学的研究

(1)札幌農学校で、水産学、農学など科学を学んだ内村鑑三は、生涯を通じて、自ら

体験的に知る、経験することを「実験的」と表現した。本研究における批評的

考察には、このような「実験的」な要素を一部取り入れている。

(2)『聖書之研究』三〇五号、一九二五年一二月二〇日、『内村鑑三全集』第二九

巻、三四三頁。

(3)藤井武筆記、『聖書之研究』二一四号、一九一八年五月。

(4)『内村鑑三全集』(岩波書店、一九八〇―一九八四年)第二四巻、一七二頁。

(5)同前、三五四頁。

(6)本論文では、『滝沢克己存在の宇宙』の「序暗い森のなかで」を省いている。

(7)『椎名麟三の文学と希望――キリスト教文学の誕生』では、「椎名麟三の文学と四

〇年――あとがきに代えて」を省いている。

(8)『内村鑑三――私は一基督者である』では、「序詞天地無始終、人生有生死」と「プ

ロローグ信仰と希望――鈴木範久『内村鑑三の人と思想』と「内村鑑三」」を省い

ている。

(17)

16

第一部

滝沢克己――

インマヌエルと存在の宇宙

第一章「存在」――〈最初の滝沢〉をめぐって

1西田哲学と存在の宇宙――神人の原関係

存在の宇宙に現象する森羅万象を記述すること――それは人間の見果てぬ夢である。

あらゆる言葉と自由は、ここから生まれ、ここへと帰着するのではないだろうか。

神学者・滝沢克己(一九〇九―一九八四年)は、自己という存在の宇宙に起こる出来

事を解読する光源を、「神人の原関係」=「インマヌエルの原事実」と命名し、生涯に

わたってこの一点のもつ聖なる力を証 あかしつづけたのである。「神われらとともにあり」

というインマヌエルの原事実とは、あらゆる瞬間に現生する清冽な希望の生成点にして、

実存の間隙に跳梁する悪魔の威力を無化する、ニヒリズムの消滅点でもある。もっとも

純粋な救済論は、このインマヌエルの原点〔der Urpunkt Immanuel 〕に終始する。

しかも、人間のあらゆる絶望を治癒する救済の原 、生命は、宗教の相違や信仰の有無、

キリスト教会の壁の内外を超え、物質宇宙の生成変化から生命連鎖の歴史を経て、この

現実の自然現象や心的世界までをつらぬく存在の原 、ロゴスである。それは人間にとって

不可 視な対象

で あ るに もかわ ら ず

、 こ の 世界の

じめ

から 終

まで 変わ る こ と な く

開かれた 神秘 シークレットでもある。哲学も、思想も、文学も、そして「太 じめ

こと

あり(1)」(「ヨ

ハネ伝福音書」第一章一節)を人間の言葉でいいあらわす神学においても、すべてはこ

の存在の宇宙の法則の原 、ロゴスの響きを伝えようとしているのである。

若き日の滝沢克己は、この存在の宇宙を理解する定式を、カール・バルトの神学と西

田幾多郎の哲学との格闘と融合から生まれた『西田哲学の根本問題』(江刀書院、一九

三六年)のなかで、次のように表現している。

即ち

MMoMx 神 、て)を隔て対相(し、相接する(。か界世無絶対の虚と)()はこの 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

くしてMx に於てある人間が神に背けるものなるを以て、Mo は単にM とMx とを隔

てる非可逆的な秩序であるのみならず、現実に於ては常に人間にとって絶大の力であ

り、この世界の絶対の死を意味するもの(ーMo )である。この場合我々は特にMo

とーMo とを混同しない様に注意しなければならない。この区別を怠る時、それはま

(18)

17

た必然にM とMo 及びーMo との混同に導き、絶対の非連続の連続の意義は失われざ

るを得ないであろう(2)。(傍点引用者)

西田哲学の根本概念である絶対の非連続の連続を解き明かす結論部分にあたるこの

表現は、きわめて抽象的で難解な印象をあたえる。だが、人間存在とこの世界との根源

的矛盾とその統合――神/人、死/生、瞬間/永遠、自由/必然、一般/個物など―

―をいいあらわしたこの記述には、初期の滝沢神学の思想的エッセンスを見ることがで

きる。この救済の定式のリアリティに、存在の根底から覚醒するならば(それを滝沢克

己は、のちにインマヌエルの原事実そのものを指し示す「第一義」のインマヌエルに対

し、「第二義」のインマヌエルと呼ぶ)、いかなる虚無も絶望も、私たちの実存に暗い影

を投じることはできないであろう。それはセーレン・キェルケゴール(一八一三―一八

五五年)が、絶望の諸形態をその強度において分析した『死に至る病(3)』の光源で

ある「信仰の定式」以上に厳密に記述されているのではないだろうか。

キェルケゴールは、『死に至る病』のなかで、絶望とは罪であり、罪とは「死に至る

病」であると規定する。その罪の反対概念は「信仰」であり、『死に至る病』は「あた

かも確実な海標を目指す如くに信仰を目指して進んでいるのである」(斎藤信治訳、以

下同じ)といい、「信仰」をこう定義している。「信仰とは、自己が自己自身でありかつ

あろうと欲するに際して、同時に自己自身を自覚的に 、、、、神に基礎づけることである」(傍

点引用者)。絶望と罪の深淵で苦悩する人間の「自己」が、自己を措定した「第三者」

(=神)に対して、「自覚的に」(=透明に)自己自身を位置づけるとき、そこには死に

至る病としての絶望の影は自然と払拭されるのである。瞬間ごとの実存は永遠の生命に

ふれてリフレッシュし、罪は透化され、そこには新しい生が約束される。つまり、絶望

のなかの絶望、罪のなかの罪ともいうべき〈死〉ですら、「この病 やまは死 に至

いた

らず」(「ヨ

ハネ伝福音書」第一一章四節)ということができるのである。

この死から生への劇的な回心の瞬間を、プロテスタントの作家・椎名麟三は、『私の

聖書物語』のなかで、次のように表現している。「絶望と死、これが僕の運命なのだ」

(『深夜の酒宴』)という自己認識から出発した推名麟三は、「自分の生き方に行きづま

って、一番いやなものに近づくように聖書へ近づ」(『私の聖書物語』、以下同じ)き、

赤岩栄牧師から無神論者のまま 、、、、、、、洗礼を受ける。しかし、いっこう神を信じることができ

ないまま教会に通い、「懸命に信仰の門をたたいた」のである。そんなある日、すでに

無力と化した聖書を読んでいると、不可思議な現象が起こったのだ。まず、彼は聖書の

なかでもっとも信じがたい復活の箇所だけを、「ナワトビの遊びでもする子供のように」

(19)

18

そのまま素直に、マタイ、マルコ、ルカと読み進んでいく。

「ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行くとき、

そのふたりへ死んだイエスがあらわれたんだな」

と、彼は神妙そうに読んでは考えた。「よろしい。そのふたりの弟子はエルサレム

に帰って十一弟子とその仲間に話したんだな。十一弟子だって?ああ、そうか、十

二弟子のうちユダはイエスを裏切って首をくくって死んじゃったのか。なかなか計算

が行きとどいている。そこへイエスがまたあらわれたんだな。(中略)ふむ、自分は

霊じゃない、噓だと思うなら、自分の手や足を見てくれ、さわって見てくれ、霊に肉

や骨はないが、わたしにはあるのだって?……よろしい、イエス君、そんなにいう

のなら見てあげよう」

そうして、彼は、弟子やその仲間へ向ってさかんに毛脛を出したり、懸命に両手を

差しのべて見せているイエスを思い描いたのである。ひどく滑稽だった。だが、次の

瞬間、そのイエスを思いうかべていた頭の禿げかかった男は、どういうわけか何かド

キンとした。それと同時に強いショックを受け、自分の足もとがグラグラ揺れるとと

もに、彼の信じていたこの世のあらゆる絶対性が、餌をもらったケモノのように急に 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、

やさしく見えはじめたのである 、、、、、、、、、、、、、、(4)。(「神のユーモア」、傍点引用者)

この絶対性の壁が崩壊した出来事は、椎名麟三の存在の宇宙の暗闇を閃光のように照

射し、それは「神のユーモア」としての第二義のインマヌエルが生起した回心の瞬間で

ある。この体験を、滝沢克己の存在の定式で解読すると、以下のようになる。――神(M )

=復活のイエスは、この世界(Mx )=弟子たちと、絶対の虚無(Mo )=三日間の死を

隔てて相対している。だが、怖 じまどう弟子たちは、この復活のイエスに気づかない。

イエスは、自分の身体を見せ、焼いた魚まで食べてみせる。人間にとって、十字架の死

から三日間のイエスの死は、どうしても虚しき淵(=死)に見えるのである。だが、十

字架のイエスと復活のイエスは、死という限界を通して非連続のまま連続し、永遠の生

命(

= 神

)へ

と 円 環 的 に つ ら な っ て い く の で あ る

。つ

ま り

、神

の 側 か ら 見 る と

、神

M ()

/絶対の虚無(Mo )/世界(Mx )であり、復活のイエス/十字架の死/三〇数年間の

イエスの生という矛盾的統合が成立しているのである。

ここで重要なのは、滝沢克己が注意するように、同じ「虚無」(=無)といえども、

神が人間の自己絶対化を戒めるために置いた聖なる限界である「秩序としての無」(Mo )

と、人間の眼から見えるかぎりの怖るべき「虚無」(ーMo

)と

を 混 同 し な い こ と で あ る

(20)

19

神と人の二方向から見ることのできる、このMo とーMo の決定的な区別と関連性こそ

が、初期の滝沢神学の核心部分である。椎名麟三にとっては、「復活のイエス」との邂

逅という体験を経てみると、「幽霊の正体〔死〕は、〔単なる〕枯尾花であったのだ」(「復

活」、補記引用者)。また、滝沢克己にとっては、「悪魔は神の前には最初から無に均し

い」(「パリサイ人のパン種」『カール・バルト研究』所収)ものであり、「既に救われた

るもののみ悪魔に気付き、悪魔の本体を見きわめることが出来るのである」(「悪魔」)。

結局、第二義のインマヌエル=回心の瞬間をもたらした第一義のインマヌエルの原事

実こそ、あらゆる存在の病を癒す神聖な「治療塔」(大江健三郎)なのである。人間は、

この「治療塔」の実在によって、はじめて存在の宇宙が闇から光へ、絶望から希望へと

転回するのである。そして、この文明史的転換点にある現在こそ、存在と世界の深い「癒

し」が「待ちつつ急ぎつつ」(井上良雄『神の国の証人ブルームハルト父子』)求めら

れている。同時に、滝沢克己という思想家と彼の哲学、キリスト教神学、文学、仏教、

存在論、心身論と分野を越境する「

原 、思想」が、新たな人類史の文脈のなかでクローズ・

アップされなければならないほど、社会と人間は困難な試練のなかを漂っている。死者

を甦らせ、心身の病を癒す〈治療塔〉はどこにあるのだろうか。

大江健三郎は、文学において先駆的に、危機のなかを生きる人間の魂の治癒と、環境

破壊の極にある地球という惑星の蘇生をテーマに、『治療塔』(岩波書店、一九九〇年)

と『治療塔惑星』(同前、一九九一年)という近未来の連作小説を発表している(5)。

二一世紀半ばを現在時としたこの作品は、百万人の選ばれた人類が、環境破壊、エイズ

の蔓延、原発事故、局地的核戦争で住めなくなった地球を見捨て、人類の存続をかけて

「新しい地球」へと移民するが、最後はその宇宙計画に挫折して古い惑星・地球に帰還

する物語である。だが、その「新しい地球」で遭遇したのが、宇宙生命(=神)が人類

に遺したのではないかと推測される、あらゆる病と死を癒す永遠の生命の象徴・治療塔

なのである。宇宙船団の日本の責任者である隆は、人類とは、宇宙の生誕以来、神の創

造による知的生物の最後のもの、最後 作品 ではないかというように、この二作品は、

大江健三郎にとっての「文学という神学」ともいうべき側面を色濃くおびている。その

光源は、「信仰をもたないものの祈り」ということもできる。

この小説には、物語の構造や登場人物の性格、古い惑星と新しい地球、テクノロジー

とエコロジーなど、さまざまな矛盾的な二重構造がひめられているが、滝沢克己のいう

神人の原 、関係を象徴的に映しているのが、宇宙意志の顕現 エピフニーとしての〈治療塔〉なので

ある。「生命の樹」とも呼ばれたこの「治療塔」は、「新しい地球」のエンピレオ高原に

あり、カマクラに似た建造物で、礫漠の台地に数百基存在している。この建造物のファ

(21)

20

ザードには、旧約「創世記」の世界を連想させる林檎の樹の模様がレリーフされ、全体

は珪酸塩とバナジウムの合金でできていると専門家は推測する。心身の病をもつものや

死んだものが、この建造物のなかにあるベッドに横たわると、全身が発光し、たちまち

病は癒え死者は復活する。それはイェイツの詩「羊飼いと山羊飼い」(『クール湖の野生

の白鳥』)のイメージとも深く通底していく。

「羊飼いと山羊飼い」は、山羊が乏しい草を食む岩の奥地へと、迷った羊を捜しにき

た若い「羊飼い」が、「山羊飼い」に二人が敬愛した戦争で死んだ人物を悼んだ詩を歌

ってほしいと頼む。「おそらくあんたは思念によってみんなの悲しみを和らげてくれる

何か薬草を摘んだんだろうから」と。すると、「思念」の果てに、山羊の肢でも探るこ

とのできない「小径 」を知った老「山羊飼い」は、こう歌う。

「彼はいま刻一刻と若がえる

彼が現世で送った一生を顧みれば

荘厳の域を越えてみえてこよう

彼が夢に描いていたことがら

彼が従った抱負の数々を思うと

荘厳の域を越えあまりにも控えめ

馬車にゆられて長旅つづけ

彼はおのがいのちの源へ戻りつつ

現世の苦楽のうちに学んだすべて

なしあげたすべてからなる

重い糸巻の糸をほどいてゆく(6)(以下略)」

海の向こうであった大戦の死者は、一刻ごとに若返り、この世の糸巻きの糸を解きな

がら、自分のいのちの源へと戻っていく……。

では、この死者を蘇らせる「治療塔」は、ほんとうに神の意志の具体的な表現点なの

だろうか。神(M )/絶対の虚無(Mo )/世界(Mx )という信仰の証明なのか。であ

るならば、すべての人間は、この「治療塔」により、不死の生命と精神の永遠の新生と

が約束され、さまざまなニヒリズムや戦争は、すべて消滅するであろう。ところが、死

は永遠との接触点 、、、であると同時に断絶点 、、、でもあり(Mo とーMo との区別と関連)、この

生命の聖なる限界はあくまで厳存するのである。この一点にひめられたロゴスへの直観

を欠くことにより、人間の罪と絶望と堕落は、一挙にあらわとなるのである。

(22)

21

たとえば、「治療塔」で永生を得た人々は、ほとんど素裸で治療塔に群れ、ボッシュ

の「快楽の図」を性的なものにおきかえたような堕落の極を示すようになる。一方、治

療塔体験を拒否し、自然の生と死を選んだ人々は、礫漠の地を植物の繁茂する楽園へと

変えてしまう。それは古い惑星で、すでに失われた懐かしい光景なのだ。「ガラス囲い

の向こうには見渡すかぎり植物園と農場がひろがり、草原もあって、そこには家畜や鳥

までが見られるのに加え、林から湖、雪をかぶった山脈がひろがっているのです」(『治

療塔惑星』)。

さらに、「治療塔」は、未来のイメージから人類の過ちの歴史的な象徴である広島の

「原爆ドーム」とオーバーラップしていく。そして、この連作では、「治療塔」の神秘

的作用を科学的に解明し、それを瀕死の古い惑星・地球に建造することによって、神の

ラスト・ピースとしての人類の存続と人間の希望を見いだそうとする。だが、滝沢克己

にとっては、この「治療塔」とは、「新しい地球」ではなく、いま、ここに、しかも歴

史の始原から永遠の未来まで、厳然と実在しつづけるインマヌエル〔Gott ist mit uns 〕

の原事実なのである。

このように、大江健三郎のSF的「宇宙存在小説」は、神(M

)/

絶 対 の 虚

無(

Mo

) ・

死(ーMo )/世界(Mx )の存在論的関係を重層的に映しだすとともに、現実の宇宙と

存在の宇宙との接点のうえに成立している。一方、存在の宇宙から物質宇宙へつながる

存在の最深宇宙を表現している文学作品に、埴谷雄高が全生涯をかけた観念小説『死靈

(7)』がある。

『死靈』は、自己が自己であることの不快を出発点とし、虚無のなかの原 、虚無ともい

うべき〈虛体〉を文学として表現することを目標として、宇宙、生命、死、革命、恋愛、

物質、神、光、夢など、ありとあらゆる人類史的なテーマへの凝視と思索によって成り

立っている。埴谷雄高は、この作品で「虛無を許さぬ全否定」(三章「屋根裏部屋」)、

「偉大な全否定の讃歌」(同前)をめざし、すべての事物の変化、生成する原動力を「自

同律の不快」(=満たされざる魂)と呼び、「これまでもたらされた全宇宙史は、すべて、

誤謬の宇宙史にほかならぬ」(七章「《最後の審判》」)という。また、彼は一生神の問題

に苦しんだというドストエフスキーに対し、「自分は一生存在の問題に苦しんだ」(「《最

後の審判》に添えて」、『群像』一九八四年一〇月号)と書いている。埴谷雄高にとって、

存在の宇宙とは、「光 ひかは暗黒 に照 る、而 しか

して暗黒 は之

を悟

らざりき」(「ヨハネ伝福音書」

第一章五節)という神の創造ではなく、その陰画である非在宇宙の物語である。

光あれといいて、光そこにあれば、

(23)

22

すべての惡、その光よりはじまりぬ(8)。(七章「《最後の審判》」)

それでは、この『死靈』のなかで、存在と非存在の宇宙を表現している場面を、五章

「夢魔の世界」と七章「《最後の審判》」の二つの章からとりあげてみたい。「夢魔の世

界」には、ある医学生の挿話という形で死者と通信を交わす存在の物語がある。「《樽の

なかのヘルクレス》」という綽名をもっこの医学生は、永劫の世界を覗き込むための不

思議な伝導器「《死者の電話箱》」をつくり、死の縁に立つ患者の耳からゾンデを挿入し、

脳へと接続する。オペレーターは、小さな伝声管に向かって絶えずこうつぶやく。「聞

こえますか……聞こえますか……聞こえますか」。

最初は、死にゆく患者の脳裡での応答が計測器の針の揺れで感じられるが、やがてそ

れが消え、不意に悲劇的な動揺が起こると、死者は懸命にオペレーターに呼びかける。

「やつてくる…やつてくる!」と。そして、停止、死の瞬間である。そこで電話箱は、

第二段階に切り換えられる。そこは死の隣の「分解の王国」である。死者は、悲痛な信

号で伝える。「何故にわれをなおとらえるや。われはもはやわれならざるわれなり」。そ

れが第三段階になると、「《死者の電話箱》」は、「《存在の電話箱》」となり、宇宙全体の

私語する無数の存在のざわめきを伝えてくる。その複合音とは、「敢えて永遠を主宰す

る神の言葉でいえば、それは往きつ戻りつする何かがそこに存りつづけることだけにひ

たすら執着している永劫の肯定音にほかならなかつた」と表現されている。さらに、医

学生は、このざわめきのなかから、「《存在からの最後の挨拶》」ともいうべき破調音を

聞き、解読しがたい宇宙と生の謎に直面するのである。このように、「《存在の電話箱》」

は、ビッグ・バン宇宙ならざる存在の深宇宙で、死者や非存在たちが私語するざわめき

と、非在宇宙の実在を証 あかする「われならざるわれ」の語る原 、言語の響きを伝えている

のである。

七章「《最後の審判》」では、この全宇宙に向かっての前代未聞の「最後の審判」が繰

り広げられる。その舞台は、「影の影の影の國」であり、そこで「見つけたぞ!」とい

う「悲痛な合言葉」とともに、最後の審判が開始される。さまざまな亡霊たちが、食物

連鎖のなかで自分を食べて死にいたらしめたものたちを発見し、弾劾する。亡霊宇宙の

法廷で、みじんこは金魚を弾劾し、その対象は最後に「人間」へと至る。そこで人間の

代表として亡霊宇宙の法廷で裁かれるのは、復活の直後、弟子たちの前で焼いた魚を食

べてみせた西方の人の代表イエスである。法廷には、イエスに食われたガリラヤ湖の「異

端の魚」の声が響く……。

(24)

23

おお、いいかな、生をもたらす愛と、生を奪う愛とが、互いに巧妙に木靈しあつてい

るのをお前はまつたく知らないのだ。おお、イエス、お前は俺を食う「自己愛」を、

「汝の敵を愛せ」という「愛」の反對話へと見事にすりかえ、それらを一つの「愛」

にしてしまつたので、お前はお前自身に忽ち「自足」し、お前内部の「魂」の果てし

もなく怖ろしいほど廣い暗黑の深さを見失つてしまつたのだ(9)。

さらに、ガリラヤ湖の「異端の魚」は、次のような思いがけない糾弾の言葉をはなつ

のである。もし、イエスが十字架を負った血まみれの身体と魂をガリラヤ湖へと沈め、

魚たちに自分の肉の一片一片を食わせたならば、「おお、イエス、これまでひきつづき

につづいていた弱肉強食の食物連鎖を携えに携えつづけてきた生と死について思いも

よらぬほどこれまでとまつたく違つたところの新しい新しい生物史の創造の第一頁こ

そがそこにはじまるのだ!」と。この亡霊宇宙の法廷で、イエスは復活の事実を示すた

めに食べたガリラヤ湖の「異端の魚」によって、その「愛の誤謬史」を裁かれるのであ

る。

もう一人、亡霊宇宙の法廷に引きだされたのが、東方の人の代表・釈迦である。釈

迦は、イエスの傍らに立つ。法廷では、イエスは病者を癒し、死者を甦らせ、復活した

「生の人」だが、釈迦は死から出発し、死へとたどりついた「死の人」であると対比

される。この「死の人」釈迦は、苦行によって鍛えられた堅い歯で噛まれた「チーナカ

豆」によって弾劾されるのである。「おお、サッカ、お前は、生きとし生けるものを殺

してならぬ、と繰返し述べながら、その殺してならぬ生きとし生けるもののなかに、い

いかな、他を食わずに、ひたすら食われるだけのこの俺達、お前達の大地の上に綠なす

「生の造化主たる生」をこそひたすらもたらした俺達草木を含めていなかつたのだ」。

だから、宇宙と存在の究極である「涅槃」へ入る前に、何気なくチーナカ豆を食べた釈

迦は、結局は無明のなかにいて「涅槃」へは達しえなかったのだと弾劾される。東方の

代表・釈迦は、その「悟りの誤謬史」を裁かれたのである。

やがて、この亡霊宇宙の法廷は、「生の前の生」(死んだ母親の胎内で三日間だけ生き

ていた胎児の霊)が登場し、「子供づくり」の盲目的営みをつづける人間の親を弾劾し、

最後は物質連鎖の大暗黒の果てに「自己存在!」に到達し、そこで「何が私であるか」

という問いに直面する。ついには、深い地底の隅に地霊とともに住む連鎖悪の初源にあ

る「原始の單細胞」=「存在的存在者」へと至り、その単細胞を生んだ無限の時間と空

間を法廷に呼びだすと、究極的な弾劾者は「非在」へといきつくのである。この「影の

影の影の國」の影たちは叫ぶ。――「誰もいないぞ!」と。ここで、みじんこからはじ

(25)

24

まり、イエス、釈迦、生の前の生、原始の単細胞へとつづいた亡霊宇宙の法廷は閉じら

れるのである。

このように、埴谷雄高は、五〇年間も書きつづけてきた『死靈』全九章を通して、〈虛

体〉を光源とした〈暗黒の光学〉ともいうべき非在宇宙の文学的描出にいどみつつ、宇

宙・生物・物質史の根源的書きかえを試みたのだ。埴谷雄高は、この『死靈』において、

「虚無」(ーMo )の深淵を深く穿孔し、そこにだれも到達しえなかった未出現宇宙と、

存在の絶対の裏面史を発見し、世界の創造者「神」ともいうべき全否定者「原暗黒」へ

と至りつき、そこから食物連鎖をはじめ、人類史のさまざまな「誤謬」を照らしだして

いる。それは前代未聞の不可能性の文学なのである。

一方、『死靈』とは対照的に、神と虚無と世界の関係を、もっとも透明に映しだした

ものに、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』第六編「ロシアの僧侶」のなかに、

数頁だけ描かれている大主教ゾシマ長老の兄で、不治の病のために一七歳でこの世を去

るマルケールや、臨終に際して死の不在を知る、トルストイ『イワン・イリッチの死』

の主人公イワン・イリッチなどをあげることができる。ここでは、「虚無」(ーMo

)は

あくまでも生命の限界(Mo )を証 あかしし、死はそのまま永遠へと非連続のまま連続する。

まさに、存在の宇宙において、「虚無は、いわば神の影である。神の影としての自由 、、、、、、、、、な

のである」(椎名麟三「ドストエフスキー作品中の女たち」『私のドストエフスキー体験』

所収、傍点引用者)。

ゾシマ長老は、兄マルケールのことを、以下のように語るのである。マルケールは、

熱しやすく癇癖のつよい性格であったが、善良で無口な人であった。一七歳の春を迎え

ると、この町に幽閉されていた政治犯の流刑囚のもとに毎夜のように出入りするように

なる。やがて、マルケールは、四旬祭になっても宗教的精進を冷笑し、神の存在を口ぎ

たなくののしるようになる。だが、四旬祭の六週間目に、突然急性の肺病にかかり、医

者には春いっぱいはもたないと宣告される。心配した母は聖餐をすすめ、兄も母の心と

自分の病の重さを理解して、教会へ通うようになる。いつしか、彼の心中に霊妙な変化

が起こり、喜ばしげで晴れやかな顔の表情に変わるのである。悲嘆にくれる母に、マル

ケールはいう。「ぼくはまだまだ長く生きていられます。まだまだ長くみんなと楽しむ

ことができます。ねえ、人生というものは、ほんとうに人生というものは、楽しい、愉

快なものじゃありませんか?」(米川正夫訳、以下同じ)。さらに、彼はこうつけ加え

る――。

『お母さん』と兄は答えた。『泣くのはおやめなさい。人生は楽園です。ぼくたちは

(26)

25

みんな楽園にいるのです。ただぼくたちがそれを知ろうとしないだけなんです。もし

それを知る気にさえなったら、明日にもこの地上に楽園が現出するのです(

10) 』

マルケールは、部屋に入ってくる召使には、もし生きながらえることができたら、今

度は自分が召使になるといい、母には「ぼくたちはだれでもすべての人にたいして、す

べてのことについて罪があるのです。そのうちでもぼくが一ばん罪が深いのです」と告

げる。やがて、彼は庭の古木の枝に渡ってくる小鳥に向かってまでゆるしをこいはじめ

る。兄は、うれしさで泣きだしながらいう。「ああ、わたしの周囲には、こうした神の

栄光が満ちみちていたのだ。小鳥、木立ち、草場、青空、――それだのに、わたしひと

りだけは汚辱の中に住んで、すべてのものをけがしていた。そして、美にも栄光にもま

るで気がつかないでいたのだ」。マルケールは、復活祭の三週間後に意識を保ったまま

死に至るのである。この兄マルケールにとって、神の創造によるこの世界は、そのまま

「天国」であり、小鳥、木々、青空、草場などすべてに神の栄光が満ちみちているのだ。

ここには、「虚無」(ーMo )の影はみじんもなく、世界=天国であり、死はそのまま永

遠と接する。それは失われた楽園 パラ

回 復

リゲインであり、この世は「新しい楽園」へと変わる

のである。

『イワン・イリッチの死』は、死病にとりつかれた中央裁判所判事イワン・イリッチ

が、現実の虚偽と死の恐怖のなかで苦悩し、最後に死の「非在」へと至る、トルストイ

後期の作品である。イワン・イリッチは、安逸な生活のなかで、ある日突然不治の病に

罹る。すると、それまでの生活はことごとく虚偽に見えだし、生の無意味と神の不在に

涙を流す。彼は最後の最後まで、生死の謎と絶望の海を漂うのである。ところが、死の

二時間前、これまでの全人生を根底から転回させる一点の光明を認める。それは「第二

義のインマヌエル」の生起の瞬間である。イワン・イリッチは、自問する……。

『ところで死は?どこにいるのだ?』

古くから馴染みになっている死の恐怖をさがしたが、見つからなかった。いった

いどこにいるのだ?死とはなんだ? 恐怖はまるでなかった。なぜなら、死がなか

ったからである。

死の代わりに光があった。

「ああ、そうだったのか!」彼は声にたてて言った。「なんという喜びだろう!(

11)

臨終の苦悶は、これから二時間つづく。周囲のだれかが、「いよいよお終いだ!」と

参照

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