ロシア極東カムチャッカ半島のコリヤークとエヴェ ン : 1996年エッソ調査報告
著者 岸上 伸啓
雑誌名 人文論究
巻 64
ページ 47‑87
発行年 1997‑09‑30
URL http://hdl.handle.net/10502/5786
ロ シ ア 極 東 カ ム チ ャ ッ カ 半 島 の コ リヤ ー ク と エ ヴ エ ン
:1996年 エ ッ ソ 調 査 報 告
岸 上 伸 啓
(英 文 要 旨)
Ethnological research of the Koryak and Even was conducted by Nobuhiro Kishi gami in Esso and Anavugai on Kamuchatka Peninsula of Russia during a two wee k peiord from 27th of November to 10th of December in 1996, as a part of lar ger project "Research of Song and Dance of Koryak and Aluet in Kamchatka"(Mo nbusho Kokusai Kaken #08041002) directed by Professor M. Oshima of Otaru Uni versity of Commerce. This is a report of the research expedition. In this pa per, I decribe subsistence activities, hunting and fishing rituals, festival s, marriage, inheritance systems, childbirth, names and naming , funeral, be liefs and world views, shamans and shamanism and calenders of the Koryak and Even of this century, and then compare those cultural elements between the peoples.
1.は じめ に 1‑1.本 稿 の 目 的
私 は、1996年10月31日 か ら12月17日 まで の約1ヵ 月 半 の 期 間 、 ロ シ ア の カ ム チ ャ ッ カ半 島 の コ リヤ ー ク 民族 の 民族 芸 能 お よび 儀 礼 に 関 す る現 地 調 査 に参 加 す る機 会 を え た 。 こ の 調 査 は 、 北 海道 教 育 大 学 の 谷 本 一 之(元)学 長 に よ って 始 め られ、 現 在 で は 小 樽 商 科 大 学 の 大 島稔 教 授 を代 表 者 と して 継 続 さ れ て い る。 調 査 全 体 の 目的 は 、 グ リ ー ン ラ ン ド 、 北 米 極 北 地 域 、 ユ ー ラ シア の 極 東 地 域 の 先 住 民 族 の 歌 や 踊 りな ど民 族 芸 能 を録 音 、 ビデ オ に収 録 す る と とも に 、 そ の 分 布 や 特徴 に 関 して 比 較 を行 な う こ とで あ る。 そ して この 調 査 に付 随 す る も の と して 、 言 語 、 狩 猟 ・漁撈、 各 種 の儀 礼 、 シ ャ ー マ ニ ズ ム 、社 会 組 織 な ど に つ い て も 調 査 が 行 な わ れ た 。
今 回 の 主 な 調 査 地 は、 カ ム チ ャ ヅカ 半 島 の 根 元 の 西側 の 内 陸 に あ るス ラ ウ トノ ィエ
村 で あ っ た 。 この 村 に は、 トナ カ イ 牧 畜 を主 な 生 業 とす る コ リヤ ー ク や チ ュ ク チ らが
人 文 論 究 第64号
ロ シア 人 と とも に住 ん で い る。 こ の村 で の コ リヤ ー クの 民 族 芸 能 調査 の 後 、1996年11 月27日 よ り12月10日 まで の 約2週 間、 私 は ロ シ ア 人 通 訳 と とも に カ ム チ ャ ヅ カ半 島 の 中 部 内 陸 にあ る エッ ソ とい う町 を訪 れ 、 そ こ に住 む 先 住 民 コ リヤ ー ク とエ ヴ ェ ン の生 業 、 狩 猟 儀 礼 、 名 前 、 民族 暦 、 信 仰 な ど に つ い て 調 査 をお こ な っ た 。
本稿 の 目的 は 、 エ ッ ソで の 調 査 の 成 果 を整 理 し、 記 述 的 に提 示 す る こ とで あ る。 こ こ で は 、 調 査 か らえ た 結果 を で き う るか ぎ り忠 実 に 報 告 した い。 こ の た め、 既 存 の 文 献 か らの 引 用 な ど は最 小 限 に と どめ る こ と を ご 了承 願 い た い 。
1‑2.調 査 方 法 と 情 報 提 供 者
エッ ソ 調 査 で は 、 エ ヴ ェ ン や コ リ ヤ ー ク の 社 会 や 文 化 に つ い て お も に 聞 き 取 り に よ っ て 情 報 を 収 集 し た 。 調 査 に 協 力 し て く れ た イ ン フ ォ ー マ ン ト の 方 々 は 、 村 役 場 の 文 化 担 当 官 の 方 が 、 紹 介 し て く れ た 人 た ち で あ り 、 聞 き 取 り 調 査 は 村 役 場 の 担 当 官 の 部 屋 か イ ン フ ォ ー マ ン ト の 家 の い ず れ か で1回2時 間 程 度 の 時 間 で 行 な っ た 。 エ ッ ソ 滞 在 中 に 下 記 の 方 々 に 聞 き 取 り を 行 な っ た 。 本 文 中 で は 実 名 で は な く 、 文 字 と 番 号 で 話 者 を 示 す こ と に し た い 。Kは コ リ ヤ ー ク の 人 、Eは エ ヴ ェ ン の 人 を さ す 。
エッ ソ 村
(E‑1)Adukanova Maria Konstantinovna 女 性 1939年 生 ま れ (E‑2)Tatyana I lyinishna Tilkanova 女 性 1932年 生 ま れ (E‑3)Natalya Ionovna Grigoryeva:E‑2の 娘
(E‑4)Nadeshda Petrvna Adukanova 女 性 1914年 生 ま れ (E‑5)Adukanova Lubov I lyinishna:E‑5の 妻 1951年 生 ま れ
(E‑6)Adukanova Kiryak Petrovich:男 性 、 E‑4の 息 子 1953年 生 ま れ (E‑7)Maya Petrovna Lomovtseva‑Adukanov:E‑4の 娘 1948年 生 ま れ (E‑8)Tilkanova Vera Petrovna:女 性 、1916年 生 ま れ
(E‑9)Tilkanova Tatiyana Egorovna:女 性 、1917年 生 ま れ
(E‑10)Tilkanova Mariya Grigoyevna:女 性 、1939年 生 ま れ 、 E‑8の 娘 (E‑11>Elizaweta Ivanovna Ichanga:女 性 、1926年 生 ま れ
(E‑12)Panarina Valentina Mik'hailovna:エ ヴ ェ ン 語 教 師 30歳 代 (K‑1)Kauchan Minuevna:K‑2の 娘:女 性 、1940年 代 生 ま れ
(K‑2)Ama Kichinkavavna:女 性 、1918年 生 ま れ (K‑3)Pelat Anlyo:女 性 、1924年 生 ま れ ア ナ ヴ ガ イ 村
(K‑4)Yakov Amontovich Ukipa:男 性 、1944年 生 ま れ (K‑5)E'talpin Yadginovna Ukipa:女 性 、1918年 生 ま れ (K‑6)Ukipa Anastasia:女 性 、 E‑5の 娘
(K‑7)Evvach Vikiikovna Chachim:女 性 、1920年 頃 生 ま れ
この 調 査 に は、 つ ぎの よ うな 問題 点 が あ る こ と を明 記 して お きた い 。
第 一 に、 滞 在 期 間 が 短 い た め に住 み 込 み に よ る参 与 観 察 と い う調査 方 法 を と る こ と が で きな か っ た。 こ の た め 、 今 回 の 調 査 で は 聞 き取 り以 外 に は 、 表 面 的 な 観 察 しか で
きな か った 。
第 二 に 、 調 査 者 は 、 ロ シ ア 語 と現 地 語(コ リヤ ー ク語 お よ び エ ヴ ェ ン語)を 話 す こ とが で きな い の で 、 英 語 の わ か る ロ シア 人 通 訳 や 、 ロ シ ア語 の わ か る コ リヤ ー ク や エ ヴ ェ ンの 人 を介 して の 聞 き取 り調 査 で あ っ た。 本 来 な らば 、 調 査 者 とイ ンフ ォ ー マ ン トとが 直接 対 話 すべ き とこ ろに 、1人 な い し2人 の仲 介 者(通 訳)が 存 在 す る こ と と な っ た 。途 中 の 通 訳 の過 程 で 、 質 問 が 相 手 に正 確 に伝 わ らな か っ た り、 答 え が 正確 に こ ち らに伝 わ らな か っ た 可 能性 も大 で あ る。 今 回 の通 訳 を つ と め て くれ た2名 は 、 カ ムチ ャ ヅカ 教 育 大 学 で 英 語 を 学 ん で い る学 生 のArtyom PonomarevとPoliganov Zhenya で あ っ た 。 両者 と も英 語 は か な りで き るが 、 民 族 学(文 化 人 類 学)の トレー ニ ング は 受 けて い な か っ た 。
第 三 に、 イ ン フ ォー マ ン トに ジ ェ ンダ ー の 上 で 、 偏 りが み られ た こ とで あ る 。 イ ン フ ォー マ ン トは 男性2名 を除 く とす べ て 女性 で あ っ た 。 エ ッ ソの 町 には 、60歳 以 上 の 先 住 民 の 男 性 が ほ とん ど い な か っ た の で、 聞 き取 りは 女 性 を 中 心 に行 な わ れ た。
今 回 の 調 査 に は 、 以 上 の 問題 点 が あ る こ とを 明 記 して お きた い 。
2.カ ム チ ャ ッカ 半 島 の 先 住 民 の 歴 史 と現 状 2‑1.カ ム チ ャ ッカ 半 島 の 先 住 民 と民 族 の 問題
現 在 、 カ ムチ ャ ッカ 半 島 には 、 ロ シ ア人 を は じめ い ろ い ろ な 人 々 が 居 住 して い る 。 そ の 中 で 少 数 先 住 民 族 と して 位 置 付 け られ て い る 人 々 は 、 コ リヤ ー ク、 エ ヴ ェ ン、 イ テ リメ ン、 チ ュ ク チ、 ア リ ュー トらで あ る 。現 在 の 彼 らの 総 人 口は、 カ ム チ ャ ッ カ州 全 体 の 人 口の 中 で は、 あ わ せ て3%に も満 た な い 。 彼 らは 主 に コ リヤ ー ク 自治 管 区、
ブ ィス ト リンス キ ー 地 区、 ア レ ウ ツ キー 地 区 に住 ん で い る。
こ こ で 帝 制 ロ シ ア に よ る極 東 の 植 民 地 化 が 開始 さ れ て か ら、 現 在 ま で の カ ム チ ャ ッ カ の歴 史 を 国 家 との 関係 か ら概 述 して お き た い 。
ロ シ ア 帝 国 は 、 ク ロ テ ンな ど毛 皮 の 獲 得 と不 凍 港 の確 保 を求 め て、 シ ベ リア へ と進 出 を開 始 した 。 そ して1632年 に は 、 ヤ クー ツ ク が東 方 進 出 の 基 地 と して 開設 さ れ た 。 コ リヤ ー ク の 人 た ち は、1649年 こ ろか ら ロ シ ア と接 触 しは じめ て い る 。1650年 代 に は 、 コサ ック 兵 が カ ムチ ャ ヅカ 半 島 西 北 部 の ペ ン ジ ナ湾 の コ リヤ ー ク か ら毛 皮 税 を 取 り立 て た 。 さ らに コサッ ク 兵 は コ リヤ ー ク を軍 事 征 服 しな が ら、 同半 島 の 西側 を 南 下 し、1690年 代 に は 現 在 のパ ラ ナ や チ ギ ル まで 進 出 して い る。
1697年 か ら1699年 に か け て の ア トラー ソ フの カ ム チ ャ ッカ 遠 征 に よ って 、 コ リヤ ー
クの 居 住 区域 を ふ くむ カ ム チ ャ ヅカ 半 島 が ロ シ ア帝 国 の領 土 に加 え られ た。
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1760年 代 に は、多 くの コ リヤ ー ク が 抵 抗 を や め 、毛 皮 税(ヤ サ ー ク)を 納 め 始 め た。
ロ シ ア帝 国 は先 住 民 の ロ シア 正 教 化 を は か り、1897年 の 統 計 に よ る と、 当時 の コ リヤ ー クの 総 人 口7530人 の うち3387人(45%)が キ リス ト教 徒 に な って い た 。
19世 紀 の 末 に な る と、 カ ム チ ャ ッカ半 島 や チ ュ ク チ 半 島 の 近 くに は 、 ア メ リカ の 捕 鯨 船 が 出 現 した 。19世 紀 末 か ら20世 紀 の初 頭 に か け て 、 コ リヤ ー ク の 貧 困 、 生 活 環 境 の 悪 化 、 役 人 や 商 人 の搾 取 、 伝 染 病 の頻 発 に よ っ て、 人 口が 激 減 した 。 この 地 域 を旅 行 した 者 に よ る と、 コ リヤ ー ク をは じめ と す る先 住 民 は 消 滅 の 危 機 に 直 面 して い た と い う。 この 事 態 は 、1917年 に起 こ っ た ロ シ ア革 命 に よ る ロシ ア 帝 国 の崩 壊 に よ って 、 変化 が み られ た 。
1920年 代 以 降 、 シベ リア全 域 が ソ連 に よ って 新 体 制 の も とに 統 合 され る と、 そ れ以 前 と比 べ る と、 コ リヤ ー ク ら先住 民 は相 対 的 な 物 質 的 な 安定 と社 会 的 平 等 を え た。19 24年 に は、 北 方 の 諸 民 族 を助 け るた め の 「北 方 委 員 会 」 が設 立 され た 。 さ らに1930年 に は、 カ ム チ ャ ヅカ 民 族 区 が 創 設 さ れ た 。
1930年 代 の ス タ ー リンの 体 制 下 、 民族 区 の形 成 が 進 め られ、 北 方 の 経 済 体 制 の 再 編 が 行 な わ れ た 。 そ の 後 、 定 住 化 の奨 励 、 生 産 活 動 の 集 団 化 、 教 育 の 普 及 や 北 方 居 住 者 に対 す る教 育 、 医療 や 収 入 の 特 典 の付 与 な どが 実施 され た 。 こ の 政 策 は 、 表 向 きの う た い文 句 は何 で あ れ 、 先住 民 の ソ連 化 に他 な らな か った 。 多 くの ロシ ア 人 が シベ リア 地 域 に入 植 し1950年 代 末 に は 、 総 人 口 の60%以 上 を 占め る に い た った 。
行 政 上 、 カ ムチ ャ ッカ 民族 区 は1956年 に ソ連 の ロシ ア 共 和 国 の 直轄 に な った 。1980.
年 代 後 半 の ペ レス トロ イ カ に よ る ソ連 の 崩 壊 に よ っ て カ ム チ ャ ヅカ 半 島 も 大 き く変 っ た 。 これ まで 対 米 の軍 事 的 な 最 前 線 で あ っ た 同半 島 で は、 外 国 人 に は 閉 じ られ た 世 界 で あ った が 、 そ れ も1992年 に は 開 放 され た 。 経 済 の 自由化 や ロ シ ア新 政 府 の経 済 的 支 援 が 弱 い た め に、 先 住 民 を は じめ カ ムチ ャ ヅカ の 住 人 は、 経 済 的 な混 乱 の な か で 暗 中 模 索 の状 態 にあ る と 言 え る 。
2‑2.エ ヴ ェ ン民 族 に つ い て
エ ヴ ェ ン民族 は 、 ヤ クー ト共和 国 あ た りか ら以 東 にか け て の 広 大 な シベ リア、 極 東 地 域 に分 布 す る ツ ン グー ス 語 を 話 す 民族 で あ る。 エ ヴ ェ ン の 故 地 は 、 満 州 か モ ン ゴル の北 方 とす る説 が 有 力 で あ る 。彼 らの祖 先 の 一 部 は 、 ヤ クー ツ クや オ ホ ー ツ ク の方 に 移 動 して い った ら しい 。
カ ムチ ャ ヅカ 半 島 には も と も と エ ヴ ェ ンは住 ん で お ら ず、ロ シ ア 人 が 入 って きた 後 、 19世 紀 半 ば こ ろ ま で に や って き た ら しい 。 古 い探 検 家 の 記 録 に 、 カ ム チ ャ ッカ半 島 で エ ヴ ェ ン に 出会 っ た こ とが 残 っ て い な い 。 ドイ ヅ人 の 旅 行 者 カ ー ル ・デ ィ トマ ー の18 48年 の 日誌 に 同半 島 の エ ヴ ェ ン の こ とが初 め て 出 て くるの で あ る。 か れ らは も と も と
(漁撈 も行 な う)狩 猟 採 集 民 で あ った が 、移 動 の 途 上 で トナ カ イ 牧 畜 の 技 術 を習 得 し、
小 さな グル ー プ に分 散 して 、 各 地 に適 応 して き た 。 コ リヤ ー ク や チ ュ ク チ は 、 トナ カ
イ に ソ リを ひ か せ るが 、 エ ヴ ェ ンは 野 生 の トナ カ イ を捕 らえ 、 そ れ に乗 って い た とい う違 い がみ られ た 。
現 在 、 カ ム チ ャ ッカ 半 島 に は、 約2000名 の エ ヴ ェ ン が い る。 そ の 半 数 が、 エ ッソ や ア ナ ヴ ガ イ が あ る ビ ィス ト リ ンス キ ー 地 区 に住 み 、 残 りの 半 数 は ア ヤ ンカ な ど よ り北 方 の ペ ン ジ ン ス キ ー 地 区 に 住 ん で い る。彼 らは お も に トナ カ イ 牧 畜 の仕 事 に従 事 して い る。
2‑3.コ リヤ ー ク 民族 に つ いて
コ リヤ ー ク民 族 と は、 カ ム チ ャ ヅカ半 島 の つ け根 あ た りか ら半 島 中南 部 あ た りまで の 地 域 で 生 活 を営 ん で きた 先 住 民 族 で あ る。 コ リヤ ー クは 生 活 領 域 と生 業 の 違 い に よ って 、 内 陸 で 遊 牧 生 活 を お くる トナ カ イ牧 畜 民 で あ る トナ カ イ ・コ リヤ ー ク と海 岸 部 で 海 獣 狩 猟 や漁撈 を 主生 業 とす る海 岸 コ リヤ ー ク の2つ の グ ル ー プ に大 別 す る こ とが で き る。 両 者 の 間 に は定 住 度 や 生 活 様 式 の う え で か な りの 差 異 が み られ た が 、 交 易 関 係 や親 族 関 係 が 存 在 してお り、 トナ カ イ を失 っ た 人 が 海 岸 部 へ 出 て 海 獣 狩 猟 や漁撈 に 従 事 した こ と もあ れ ば 、 トナ カ イ の 数 が 増 え た た め に 海 岸 か ら内 陸 部 へ と移 動 した 人
が い た こ とを 指 摘 して お き た い 。
コ リヤ ー ク の 人 々 は 、 主 に コ リヤ ー ク 自治 管 区 の な か の 村 や 町 を 中 心 に す み 、 内 陸 部 の ス ラ ウ トノ ィエ 村 な ど で は トナ カ イ 牧 畜 を、 海 岸 部 の レ ス ナ ヤ村 な どで は漁撈 や 狩 猟 を 主 な 仕 事 と して い る 。現 在 、 カ ム チ ャ ッカ半 島 に は7000名 あ ま りの コ リヤ ー ク
が い る 。
3.調 査 地 エ ッ ソ地 区 の 歴 史 と現 状
こ こ で は、 調 査 地 とな っ た エ ッソ とア ナ ヴ ガ イ につ い て の 現 況 を のべ る と と も に、
2名 の エ ヴ ェ ン人 の 女 性 の ラ イ フ ヒス ト リー を紹 介 す る 。 この ラ イ フ ヒス トリー に よ って 、 い か に 旧体 制 下 で 、 先 住 民 が 抑圧 さ れ 、 文 化 や 言語 を 失 って き た か が 明 らか に な る だ ろ う 。私 が 、 調 査 を実 施 した1996年 末 に は 、 先 住 民 独 自の 文 化 は老 人 た ち の知 識 や 記 憶 と して存 在 した が 、そ の ほ とん どが 現 時 点 で は 、実 践 さ れ て い な い の で あ る 。 ま た、 旧 ソ連 の 民族 籍 制 度 で は、 個 人 が 満16歳 に な る と両親 の い ずれ か の民 族 籍 を
自分 の 民 族 籍 と す る こ とに な る。 統 計 に 出 て く る数 は 、 パ ス ポ ー トに記 載 され て い る
民族 名 の 人 数 で あ り、 特 定 の 民 族 の 文化 や 言語 の 保 持 者 の 数 とは 同 じで は な い。 こ こ
で は 論 じな い が、 ソ 連 時 代 の 政 策 や数 世代 に わ た る異 民 族 間通 婚 の 結 果 、 現 在 の ロ シ
ア にお いて は、 特 定 の 民族 と生 活 様 式 は 必 ず しも 対 応 して い な い こ と を指 摘 して お き
た い 。
人 文 論 究 第64号
(出 典)北 海 道 新 聞情 報 研 究 所 編 1996『 最 近 カ ム チ ャッ カ の 旅 全 ガ イ ド』
北 海 道 新 聞 よ り
3‑1.調 査地 エ ッ ソ と ア ナ ヴガ イ につ い て
調 査 地 の エ ッ ソ と ア ナ ヴ ガ イ は 、 カ ムチ ャ ッカ半 島 の 中 央 部 の 内 陸部 に あ る町 と村 で あ る 。 そ れ らは 行政 的 には 、 ビ ィス ト リンス キー 地 区 に属 し、 エッ ソ は 同 地 区 の 行 政 の 中 心地 で あ る。 エ ッ ソ は、 ペ トロパ ブ ロ フ ス ク カ ム チ ャ ヅ キー か ら北 西 方 向 に 約 600キ ロ メ ー トル 内 陸 に入 っ た と こ ろ に あ る。 火 山 に 囲 ま れ 、 温 泉 が あ り、 こ れ を 利 用 して 暖 房 が行 な わ れ て い る。 ア ナ ヴガ イ の 村 は エッ ソ か ら約20キ ロ メー トル 離 れ た 所 に あ る 。
エッ ソ が あ る所 に は 、 も と も と人 は 住 ん で い な か っ た 。1926年 に数 世 帯 の エ ヴェ ン が い たが 、 町 の 建 設 が は じ ま た の は1932年 の こ とで あ っ た 。 エ ッ ソの 産 業 の 中 心 は、
トナ カ イ牧 畜 や 狩 猟 で あ った 。 現 在 で は 、 金 鉱 の 開 発 が 期 待 さ れ て い る。1996年1月 1日 の 時 点 で 、エ ッ ソ の総 人 口 は2116名 で あ る 。そ の う ち 先住 民 人 口は540名 で あ る。
そ の 内 訳 は 、 エ ヴ ェ ン481名(男 性217名 、 女 性264名)、 コ リヤ ー ク34名(男20名 、 女 性14名)、 イ テ ル メ ン17名(男 性8名 、 女性9名)、 チ ュ クチ2名(男 性1名 、 女 i名)、
ア リュ ー ト6名(男 性3名 、 女 性3名)で あ る。 こ の村 の4分 の3弱 は ロシ ア 人 で あ る が 、 残 りは 、 エ ヴ ェ ン とコ リヤ ー ク で あ る 。 また 、 村 の 家 族 統 計 に よ る と、 同村 の20 6家 族 が先 住 民 家族 で あ る と い う。 エ ヴ ェ ンの 家 族 が119家 族 、 エ ヴ ェ ン と それ 以 外 の 家族 が48家 族 、 コ リヤ ー ク の 家族 が9家 族 、 コ リヤ ー ク と ロ シ ア 人 の 家族 が3家 族 、 コ リヤ ー ク とエ ヴ ェ ン の 家族 が2家 族 、 イ テ ル メ ン系 の 家 族 が12家 族 、 ア リュー ト系 の 家 族 が2家 族 、 チ ュ ク チ の 家族 が1家 族(た だ し一 人 家 族)、 チ ュ ク チ とエ ヴ ェ ン の 家族 が1家 族 、 カ ムチ ャ ダ ー ル の 家 族 が9家 族 、 そ の 他1家 族 で あ った 。 先 住 民 の 家族 の構 成 員 数 の 平 均 は4名 で 、両親 と 同居 して い る場 合 は6か ら9名 で あ る とい う。
ア ナ ヴガ イ の 産 業 は 、 トナ カ イ 牧 畜 で あ る 。1996年1月1日 の時 点 で 、村 の 総 人 口 は621名 で あ り、 そ の う ちの69.7%に あ た る433名 が 先住 民 で あ る 。 そ の 内 訳 は 、 エ ヴ ェ ン332名(男 性156名 、 女 性176名 〉 、 コ リヤ ー ク101名(男 性50名 、 女 性51名)で あ る 。こ の村 で は、60歳 以 上 の 先 住 民 の 男性 が ほ とん ど い な い 。コ リヤ ー ク で は0名 で 、 エ ヴ ェ ンで は2名 に 過 ぎな い 。 ツ ン ドラ上 で の トナ カ イ 牧 畜 の よ うな 重労 働 に 従 事 し て い る こ と、 事 故 死 が 多 い こ とや ア ル コー ル 中毒 な どが原 因 で 男 性 は全 体 的 に短 命 で
あ る よ うだ 。
エ ッソ で も ア ナ ヴガ イ で も行 政 や コル ホ ー ズ の仕 事 を して い る の は、 ロシ ア 人 が 多 く、 村 の外 で トナ カ イ 牧 畜 を行 な って い るの が先 住 民 で あ るコ リヤ ー クや エ ヴ ェ ンの 人 々 で あ る 。 ソ連 政 府 の 崩 壊 に と もな い 、 コル ホ ー ズ の 民 営 化 、 年 金 や 給 料 が物 価 の 上 昇 率 に 比 して は 伸 び て い な い こ とな どか ら、 先 住 民 の 人 々 は 生 活 に 困 っ て い る。
3‑2.エ ヴ ェ ンの ラ イフ ヒ ス トリ ー
こ こで は、2名 の 女 性 の ラ イ フ ヒス ト リー を紹 介 す る 。 この ラ イ フ ヒス トリー を提
示 す る理 由 は、 ソ 連政 府 の 体 制 下 で エ ヴ ェ ンの 文 化 や 言語 の 維 持 が い か に難 しか っ た
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か を 示 す た め で あ る 。
(1)1939年 生 ま れ の エ ヴ ェ ン の 女 性 の ラ イ フ ヒ ス ト リー
両 親 と も エ ヴ ェ ン で あ るAさ ん は 、 ビ ィ ス ト リ ン ス キ ー 地 区 の 西 海 岸 に あ っ た エ ヴ ェ ン の 村 ツ ヴ ァ ヤ ン(Tvayan)で 生 ま れ た 。 そ の 村 の 学 校 に4年 間 か よ っ た 後 に 、 馬 に 乗 せ ら れ て エ ッ ソ の 寄 宿 学 校 に 送 ら れ た 。 当 時 、 彼 女 は11、12歳 く ら い で あ っ た 。 エ ッ ソ の 学 校 に は7年 余 り か よ っ た 。 毎 年 、 春 休 み の 時 に 、 ヅ ヴ ァ ヤ ン の 両 親 の 所 に 帰 っ た 。
ヅ ヴ ァ ヤ ン に い た 父 は トナ カ イ に よ っ て ケ ガ を し、母 は ジ ャ ガ イ モ を 栽 培 し て い た 。 Aさ ん の 兄 は 、 両 親 をエッソ か ら350キ ロ メ ー トル ば か り離 れ た ロ ー チ ャ ン(Lauchan) に 連 れ て 行 っ た 。 彼 女 は 、 学 校 を 卒 業 し た 後 、 両 親 の い る ロ ー チ ャ ン へ 移 り住 ん だ 。 そ の ロ ー チ ャ ン で 彼 女 は 、1950年 に 村 議 会 の 書 記 に 選 出 さ れ た 。 当 時 の 村 で は 、 建 物 が 建 設 中 で 、 畑 を つ く り、馬 を 利 用 し、木 材 を 取 っ て い た 。 しか し 小 麦 粉 が 少 な く、
パ ン は 不 足 し て い た 。
1955年 頃 に 、3人 の ロ シ ア 人 が ロ ー チ ャ ン に 送 り込 ま れ て き た 。 集 団 農 場 の 合 併 、 集 約 化 が は じ ま り、1960年3月 に ロ ー チ ャ ン と ツ ヴ ァ ヤ ン が 合 併 す る こ と と な っ た 。 こ れ を 契 機 に ロ ー チ ャ ン の 人 口 は 減 少 し は じ め た 。 そ れ ま で 彼 女 は 、 休 日 な し に 働 き 通 して い た 。 こ の 合 併 の 時 に 、 彼 女 は4年 間 の 休 暇 を も ら っ た 。
1960年 に ロ ー チ ャ ン で 村 ソ ビ エ トの 長 で あ っ た エ ヴ ェ ン 人 の 男 性 と 結 婚 し た 。一 時 、 ヅ ヴ ァ ヤ ン に 移 り住 ん だ が 、 こ の 頃 に 彼 女 の 夫 は エ ッ ソ に 移 っ た 。
夫 の 父 親(エ ヴ ェ ン)は 、 ア リ ュ ー トル ス キ ー 地 区 の ハ イ リ ノ(Khailino)に 住 ん で い た の で 、 夫 婦 は1962年 ツ ヴ ァ ヤ ン を 離 れ 、 ハ イ リ ノ に 移 り住 ん だ 。 夫 の 父 は 、 夫 が ハ イ リ ノ を 離 れ る こ と を 嫌 が っ た の で 、 結 局 、 夫 婦 は そ こ で32年 間 を 過 ご す こ と と な っ た 。 彼 女 自 身 は 、 コ リ ヤ ー ク 語 や チ ュ ク チ 語 が わ ら ず 、 苦 労 し た 。
ハ イ リ ノ で も 人 々 はAさ ん が ロ ー チ ェ ン で 村 ソ ビ エ トの 書 記 を や っ て い た こ と を 知 っ て い た の で 、 そ こ で も 村 ソ ビ エ トの 書 記 に 選 ば れ た 。 彼 女 は1976年 ま で そ の 地 位 に あ っ た 。 彼 女 の 夫 は 、 文 化 部(cultural byrgade)の 職 員(ソ ビ エ ト共 産 党 の 宣 伝 を す る 仕 事)と し て 情 報 伝 達 や 教 育 の 仕 事 に 携 わ っ た 。
エ ッ ソ 地 域 は 、Aさ ん に と っ て は 故 郷 で あ っ た か ら、 ハ イ リ ノ に い る 間 、 彼 女 は い つ も 故 郷 を な つ か しみ 、 帰 りた い と 願 っ て い た 。1993年 に 、 夫 婦 でエッソ に 帰 っ て き た 。 彼 女 ら 夫 婦 の 娘2人 は い ま で も ハ イ リ ノ に お り、 毎 週 土 曜 日 に 電 話 を か け て 連 絡 を と りあ っ て い る 。
Aさ ん 夫 婦 は 、 年 金 に た よ り な が らエッソ の ア パ ー トで 暮 し て い る 。Aさ ん は 日 常 生 活 で は お も に ロ シ ア 語 を 話 し 、 エ ヴ ェ ン 語 を 長 い 間 使 っ て い な い 。 彼 女 ら 夫 婦 は 、 ソ ビ エ ト共 産 党 員 と し て い き て き て お り、 エ ヴ ェ ン の 宗 教 や 社 会 慣 習 を 実 践 し て こ な か っ た 。
(2)1932年 生 ま れ の エ ヴ ェ ン の 女 性 の ラ イ フ ヒ ス ト リ ー
Bさ ん は 、1932年 に ロー チ ャ ン の 近 くの ツ ン ドラ で生 ま れ た 。 彼 女 の両 親 は 、 西 海 岸 の近 くが 主 な 活 動 領 域 で 、 トナ カ イ の 大 き な群 を所 有 して い た 。 彼 女 の 父 親 は トナ カ イ の群 の 世 話 を よ く して い た 。親 族 と と も に 山脈 に沿 っ て特 定 の ル ー トを た ど って トナ カ イ牧 畜 を 行 な って い た 。 父 の 方 の 親 族 は漁撈 場 にお り、 母 の 兄 弟 は トナ カ イ牧 畜 を行 な って い た 。 この た め に、 両 親 の グル ー プ は時 々、 住 む所 を 替 えて い た 。
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