資本の生産力規定と 資本の物神性の展開
高倉泰夫
目 次 1.はじめに
2・23冊のノート(1861〜3年)における資本の生産力規定と物神性論 3・『直接的生産過程の諸結果』における物神性論
4・『資本論』第3巻における資本の生産力規定と物神性論 5・『資本論』第1巻への第3巻の影響
6.むすび
1.は じ め に
マルクスの資本の物神性論は1865年の順本論』第3巻の「第7荒亨 諸 収入とそれらの源泉」において一応の完結した叙述が与えられている。その 物神性論は資本制的生産株式の確立した社会における生産諸関係の物化とし てとらえられている0すなわち,それは「資本の実質的包軋とくに機械制 大工業の確立以降の資本制社会における立論である。それは労働の社会的生 産力の質的飛躍を背景としている○ここで生産力の水準を基準として考える1)
とき,「資本の形式的包摂」と「資本の実質的包摂」の区別が生じる。そし て資本の物神性は「資本の実刑勺包摂」において,とくに機械の登場によっ て自立したものとして現れる0すなわち資本制的生産株式の確立以前と以降2)
とでは資本の物神性把捉も相違するのである。
(1)マルクスは『要綱』では性成しつつある資本」において労働の生産力上昇の契機 を理論外のものとして処理していた0しかし「生成した資本」において口司定資本」
とくに機械と労働の生搾力との関連についてふれている諸姉的登場とともに性産過
程はすでに,労働が労働過程を支配する統ーとしてこの過程を包摂するという意味で の労働過程ではなくなっているJ
( G r . S . 5 8 5 )
。乙こでは労働者は機械に従属した ものとして現れる。そして「固定資本においては労働の社会的な生産力は,資本に固 有な属性として措定されているJ ( G r . S . 6 0 3 ) 0
1"このようにして労働の活力はす べて資本の活力に移調される。固定資本においては労働の生産力(それは労働の外部 で措定され,またそれとはかかわりなく(物的I r )
実存するものとして措定される) J
(G r . S . 5 8 8 ) 0
1"だから,資本が固定資本として発展した量的範囲と作用度(集約 度)は,一般に,資本が資本として,生きた労働を支配する力 (Macht) として発 展したところの,また生産過程一般を自己にしたがわせているところの,その程度を しめすものであるJ(G r . S . 5 8 7 )
。このような認識は1 8 6 1
年以降の「資本の実質的 包摂」とくに機械の登場以後のそれの認識と同じである。ただし,ここでは「生成し つつある資本」に個別資本視角を欠くために資本の生産過程に位置しえなかったので ある。なお,拙稿r T
資本一般」の展開過程(l8 5 7 " ‑ ' 6 2 ) J1"経済学研究J(九大)第4 4
迭2 ・ 3
号,1 9 7 9
年,を参照されたい。( 2 ) r
だから,相対的剰余価値の生産は,一つの独自な資本制的生産様式を前提とす るJ (K
1・S.4 9 8 )
として,相対的剰余価値論の展開はそのまま資本制的生産様式の 確立と同等であるという表現がみられる。まず協業についてみてみると,それは「し かし,資本制的生産椋式のある特別な発展期の固定的な特徴的な形態をなすものでは ないJ ( K .
l・S . 3 1 7 )
ととらえられている。機械制大工業にもとづく資本制的生産様 式の確立期すなわち産業草命以降は「協業は資本制的生産様式の基本形態なのであ るJ(K
1 •S.318)0 1"分業とマニュファクチュア」についても「マニュファクチュア
が資本制的生産椋式の支配的な形態である時代J(K・,S . 3 5 8 )
には「マニュファク チュアは,社会的生産をその全範悶にわたってとらえる乙とも,その根底から変革す ることもできなかったJ (K
1・S . 3 5 4 )
。すなわち「手工業的熟練はマニュファクチュ アでも相変らずその基礎であり,マニュファクチュアで機能する全体機械も労働者そ のものから独立した客観的な骨組みはもっていないのだから,資本は絶えず労働者の 不従I}買と戦っているのであるJ ( i b i d . )
。それゆえマニュファクチュア的分業も過渡 的なー形態にすぎない。したがって,資本制的生産様式概念は機械制大工業の成立以 降にもっともよく妥当する。そして分業も協業も産業革命以降の資本制的生産様式で の基礎形態としてとらえられることになる。2 . 2 3
冊のノート( 1 8 6 1' " ' " ' 6 3
年〉における資本の生産 力規定と物神性論1 8 5 8 年 6 月のノート Mにおける i7 冊のノートへの索引一一第一案」にお いて, i 貨幣の資本への移行」が r n ) 貨幣」の末尾の i6J と , r m ) 資本
一般」の冒頭の二箇所に存在する (G
r.S. 8 5 8 ) 。それは1 8 5 8 年 8 月以降のノ ート B グとBdでの rr 経済学批判』の原初稿の断片」においては,貨幣の 章の末尾での r6) 資本への移行」として,また「第 3 章 資本」の iA 資本の生産過程」の冒頭での
i1 )貨幣の資本への転イじ」として再現してい る ( G r .S . 9 1 9 ' " " 4 7 )
0ここでの二重の「貨幣の資本への移行」を見てみると,まず貨幣の章では 蓄蔵貨幣から出発して資本 (G‑W‑G') への移行を述べており, r 第 3 章 資本」ではそれをうけて G‑W‑G' としての資本の存在の根拠を「貨幣と生 きた労働力能との交換J (G
r.S . 9 4 6 ) に求め,同時に「生きた労働力能」
との対比において貨幣または商品は「対象化された労働」としてとらえられ ており,それらを資本家が所有するということと「労働者が彼の労働力能を 利用されるべき商品として売りに出すということJ( G r . S . 9 4 5 ) とは楯の 両面であることを指摘している。
以上のような1 8 5 8 年の「貨幣の資本への移行」の二重の構成は, 1 8 6 1 ( 5 9 ) 年のプラン草案では
i1 資本の生産過程」における r 1 )貨幣の資本へ
の転化」に一元化されている
Dそこには, r 資本論』では「絶対的剰余価 値」に合まれている労働過程と価値増殖過程が含まれている
Dこのプランに 則って吉かれた 1 8 6 1' " " 6 2 年のノート 1 ' " " 5 冊では若干の異動は見られるも のの,構成は基本的には同一である
Dこの「経済学批判」での「貨幣の資本への転化」では蓄蔵貨幣から資本へ の移行をとく論理は消失し, W‑G‑W との形態的な対比において G‑W‑
G をとらえ,それが G‑W‑G' として現れるには困難が生じることを述べて
い る ( r a G‑W‑G
o資本の最も一般的な形態」および rb 価値の本
性から生じる諸困難,等 J
0そして「 γ 労働との交換。労働過程。価値増 殖過程」ではそれを解決するものとしての「生きた労働力能 J( A r b e i t s v e r ‑ m
り肝心(K
r.S. 3 2 ) を導入する
Oそ こ で の G ‑ A の過程は貨幣または商 品(対象化された労働)と「労働力能」すなわち「生きた労働 J( K r . S . 3 0 ) との対立としてとらえられている。労働者は資本家が所有する「対象化され た労働」である生産手段および生活手段のうち,生活手段を買いとる。この 交換過程における「対象化された労働」と「生きた労働」という対立図式は 生産過程に持ち込まれる。
rd 労働能力の価値。賃金の最低限,あるいは平均的労賃 J を経て, G
‑W‑G' を G‑W … P … W'‑G' として考察する。まず r e 労働過程」で は「生きた労働そのもの」すなわち商品としての「労働力能」の消費過程が分 析されている
Dそして,それは「新しい使用価値 J(K
r.S . 5 2 ) すなわち生 産物を労働過程の終りに生み出す。そして r f 価値増殖過程」では「生き た労働」の対象化の結果が「新しい使用価値」の生産のみでなく, r 交換価 値」の再現と増加であることが述べられる。すなわち労働の二重性に対応し た生産過程の分析である。 r われわれは一所与としての商品から出発したの であったが,ここでは商品は,その生成の過程において考察される J( K r . S . 6 0 ) 。まず生産手段において,それに「対象化された労働」すなわち価値 の維持について r それらが価値として維持されるのは,それらが使用価値 として労働過程にはいり, したがって,現実的有用的労働に対して,労働子 段および労働材料という概念的に規定されたその役割を演じることによって である J (K
r.S . 6 7 ) ことすなわち,具体的有用労働によって生産手段の価 値が「生産物のなかに再現する J (K
r.S . 6 6 ) ことを述べる。これに対して
「材料および労働手段のなかに前提されている価値に,労働過程のなかで生 きた労働が価値を付加するのは,ただ,この生きた労働そのものがそれ自体 として ( f u r s i c h ) ある分量の新たな労働であるかぎりでのことであって,
それが現実的有用的労倒であるかぎりにおいてではなく,その素材的な規定
性から見てのことではない J( K r . S . 6 6 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ 7 ) 0 この場合,新たな価値が創造
されるのは「それが労働一般,抽象的な同等な社会的労働であるかぎりにお
いてである J(K r . S . 6 8 ) 0 このような生産過程における「現実的有用的労働」
と「抽象的な同等な社会的労働」との相違に注目しつつ,次に新たな商品の 生成が考察される
oig 労働過程と価値増殖過程の統一(資本制的生産過程 ) J では次のよう に言う。 rc ここでは〉生産物を生産することではなくて,商品一一販売に あてられるべき生産物ーーを生産することが問題である。しかも・・…・前提さ れた価値を維持し増加させるために諸商品を生産することが問題なのであ る J ( K r . S . 8 7 ) 。 この商品は貨幣に何らの困難なしに転化しうるものとさ れる
Dここでは「貨幣に転化された商品が資本運動の出発点および終点とし て現われ,商品は資本の変態として,単なる通過点として現れる
J(Kr . S . 9 1 ) 。ここでの商品または貨幣は「対象化された労働」であるから,出発点
と同じ「対象化された労働」へと還帰したのである。
i h 貨幣の資本への転化が分解する二つの構成部分 J
1)では,それ迄の 展開をうけて G‑W …P …W'
ーG' という過程での価値増殖の状態を労働時間 または価値表示で分析する。それは「対象化された労働」と「生きた労働」
との対立,つまり「労働そのものの対象的諸条件である生活手段および生産 手段 J( K r . S . 1 0 1 ) に「対象化された労働」と「生きた労働」の対立の再 生産であり, 資本関係の再生産でもあることが言われている。「つまり資本 制生産過程の結果は商品および剰余価値であるばかりでなく,この関係その ものの再生産でもある
O……終りに過程から出てくるものは,始めに中には いったものだけ,すなわち一方では資本としての対象化された労働,他方で は単なる〈なにももたない〉労働力能としての,対象を喪失している労倒 であって,その結果,同じ交換が絶えず新たに繰り返されることになる」
( K r . S . 1 0 2 )
0そして「追補」において生産手段または生活手段において資本という物化
された「一つの生産関係」を表現している
2)。すなわち,ここでは生産力一
定という条件のもとで資本と賃労働という「一つの生産関係」の物利
i性批判
がなされている。つまり労働力が貨幣でもって貝われる商品として現れるこ
とが,生産手段と生活手段という「労働の対象的諸条件 J ( K r . S . 1 4 0 ) を
資本とすが,すなわち「生産のこれらの対象的諸条件それ自体が資本なので はなく,特定の社会的生産関係の表現としてはじめてそれらは資本となる」
( K r . S . 1 2 4 ) ことを言う
Oここでの物干
111性把握は資本のもとへの労働の形態 的包摂の段階にあるために「生産物が資本になる J (K
r.S. 1 3 7 ) こ と に 重 点があり,のちの生産力の発展を前提とする資本の実質的包摂次元のそれと は相違している。
以上のように G‑W … P
…W'‑G' の過程と,貨幣または商品という「対象 化された労働」と「生きた労働」すなわち「労働力能」との対立図式の再生産お よび資本関係の再生産とが俊合的に展開され,それに物干
1!1性論が付加されて いる。このうち生産物価値の形成の問題は『資本論』の「絶対的剰余価値の 生産」に継承されるが r 彼〔労働者一一引用者〉の労働の対象的諸条件そ のものが,単に対象化された労働として,すなわち価値として,貨幣および 諸商品として,彼に対立していること
3)J (K
r.S . 1 1 6 ) お よ び 資 本 関 係 の
4)5)
再生産については引きつがれていない 。
この「貨幣の資本への移行」では「資本のもとへの労働過程のこの形態的 包摂 J (K. S . 8 4 ) が前提とされている
Oそれは資本のもとへの旧来の「特 定の生産様式」の包摂であって,資本の「自己に特有の生産様式 J (K
r.S . 8 3 ) の成立ではない。
( 1 ) なお,大村泉「マノレクス『経済学批判』ヰ稿(1 861‑63 年)の「貨幣の資本への 転化」について一一最終項 h) r 転化過程の二つの構成部分」を中心に一一 J r 経済 学 J (京北大)第 4 0
巻4 号 , 1 9 7 9 年,をも参照されたい。
(2) ~要綱』で「一つの生産関係」としての資本に多くふれているのは「貨幣にかんす
る章」から「資本にかんする平」への移行がはかられている地点および「生成しつつ ある資本」の冒頭と末尾である。それは生産物に即しての資本の物神性把握である。
前者の地点では「肝心な点は,資本はすべて,新たに生産に手段として役だっ対象化
された労働であるにしても,新たな生産に役だっ対象化された労働のすべてが資本で
はないということである。資本ば物としてとらえられて,関係としてとらえられてい
ない J(Gr. S . 1 6 9 ) 。マルクスはここで古典派を批判しながら,資本の物や M 生を生産
物との関連において把握すべきととをのべている。そして「生成しつつある資本」の目
頭では「社会的生産力」すなわち「労働それ自体の生産力」の増大が「資本の生産力 の増大J(Gr. S
. 2 1 5 )
として現れる乙とを述べながらも,資本については生産手段そ のものに即して物神性把握がなされているとはいえない。すなわち「資本をその特有の 形態規定性において,それ自身に反映された生産関係として容認するJ (G r . S . 2 1 6 )
べきであるが,古典派経済学の伝統に立つ考え方では「そのばあい資本は,純然たる 物と考えられているのであって,生産関係とは考えられていない。乙の生産関係、をそ れ自身に反映したものが,まさしく資本家の存在なのであるJ (G r . S . 2 1 1 )
。また「生成しつつある資本」の末尾でも「すべてこれらのよびかたで、は,資本はたんなる 物であるように見え,また資本を桔成している賃料とまったく合致しているように見 える
J ( G r . S . 4 1 3 ) 0 r
このようにして,資本とは明らかに関係であり,しかもひと つの生産関係でしかありえないJ ( i b i d . )
とのべている。( 3 ) r
対象化された労働」の再現において資本と賃労働の関係、をみていく視角は『諸 結・呆』に継承された。他方,J I
資本論』の資本苔積論における単純および拡大円生産 において生産手段と生活手段の再生産をみる視角があるが,それはすでに IJ~M:U に みられた視角でありG
…G'
視点を領有法見j
の転回の説明にt t
う際l
と必!足とされた方 法であって,出自を史.にする。iJi j
者の視月は『諸結果』以降はただ「泊対的刺余価値 の生産」において,価値旦の問題を言う坊合にわずかにみられる。(4)
1 8 6 1
年のこのノートでは「労働力能」自体を「これそのものがすでに対象化され た労働であるJ(Kr. S . 7 4 )
とのべており,また「労働力能に実現されている労働 時間J ( i b i d . )
という表現が多くみられる。たしかに「価値J
=r
対象化された労仰u
であるにしても労働力商品は擬制的な志味での商品であって,本来のj{
H
品とは性格を 呉 lとしており,労働力に直接に労働時間が対象化されたものとほとらえられない。そ れは「労働者の労賃のなかに対象化されている労働時間J (Kr. S . 8 0 )
という立l床
であろうと考えられる。しかし,同様の表現は『資本論』にも見られる。r
このl
平 均日に必要な商品呈に6
時1 1
日の社会的労働が合まれているとすれば,何日の労働力に はご I~. 日の社会的平均労働が対象化されていることになる J(K
1・S . 1 3 6 ) 0 r
労働力の 日{dli他は 3シリングだったが,それは,労働力そのものに半労働日が対象化されてい るからであるJ (K
1 •S . 1 5 9 )
。この二つの表現は沼2
)授を径て現行版にも引きつが れているの.1 8 7
,S .
207) が,フランス ~TI.J反では!日者は削除され役{'í-は次のよう に7 ! ?
き抑えられている。「労目力の日目li仰が 3シリンクーになるのは,労倒力を1 r J
日!U
じするために半ヴJ o J J r l
が必1 9
で あ る か ら で あ るJ (Le C a p i t a l
,l i v r e premier
t r a d u c t i o n de M. J . Roy. e n t i e r e m e n t r e v i s e e par l ' a u t e u r . 1 8 7 2 . ‑ . . . ‑ 7 5 . par Far E a s t e r n Book‑Sellers. 1 9 7 9 . p . 8 2 ,江夏美千穂・上杉 l 胞彦訳『フラ
ンス語版資本論~
(上・下)法政大学出版局, 1 9 7 9 年)。ただ「それが価値であるかぎ りは,労働力そのものは,ただそれに対象化されている一定量の社会的平均労働を表 わしているだけである J (K
l'S . 1 3 4 ) という筒所については「労働力は価値として は,労働力のうちに実現されている社会的労働量を表わす J (Le C a p i t a l , p . 7 3 ) と いうほぼ同じ表現が与えられている。全体としてはのちになればなるほど「労働力に 対象化された労働」という不正確な表現は少なくなっているといえる。
( 5 ) 1 8 6 1 年のノート 1 . ‑ . . . ‑ 5 冊において, r 対象化された労働」と「生きた労働」とが 直接に交換されるかのような表現がみられるが労働力商品の特殊性についての概念上 の混乱があるわけではない。なお,次の叙述も参照されたい。「乙のような矛盾は別 としても,もし貨幣すなわち対象化された労働と生きた労働とが直接に交換されると すれば,それは,まさに資本制的生産を基礎としてはじめて自由に発展する価値法則 を廃止するか,または,まさに賃労働によって立つ資本制的生産そのものを廃止する
乙とであろう J
(K1・S .5 2 1 ) 。
12 絶対的剰余価値」ではじめて不変資本と可変資本という範鴎が与え られる。それは剰余価値を可変資本との比率において考察するためである。
ここでも「貨幣の資本への転化」と同様に「労働の生産性のある一定の段 階 J( K r . S . 2 1 8 ) すなわち生産力水準一定の前提のもとで分析がすすめら れており,それは資本のもとへの労働の形態的包摂の次元でもある
Dつぎに
1 3 相対的剰余価値」では「労働の生産性の増大,労働の生産力のより高 度の発展 J( K r . S . 2 1 5 ) が問題となる
oそして労働の生産力の上昇の主要 な 方 法 と し て の 協 業 , 分 業 お よ び 機 械 を 考 察 す る
ol a 協業」において
「これは資本のもとへの労働の包摂がもはや単なる形態的包摂として現われ るのではなく,それが生産様式そのものを変化させることによって資本制的 生産様式が独自な生産様式となっている第一の段階である J (K r . S . 2 3 5 ) 。 ここには用語の確立はないが,資本の実質的包摂の指摘がある。 r b 分業」
においても労働を「その現実性において資本のもとへ包摂すること J( K r .
s . 2 4 6 ) という実質的包摂の指摘とともに, 1 社会的労働の生産力」が「資
本の生産力 J (K r . S . 2 3 7 ) として現れることを述べている。
次にマルクスは「 γ 機械。自然諸力と科学との応用」での分析に移る。
「単純協業や分業による生産力の増大は資本家にはなんの費用もかからな い
j( K r . S . 2 9 5 ) のに対して, ここでは「生産諸力の増大」のためには機 械が不変資本の一部として機能しなければならない。「つまり機械は, 単純 協業やマニュファクチュアにおける分業とは追って,生産された生産力であ り,それには費用がかかっている
j( i b i d . ) 。機械の導入による労働の生産力 の上昇がなされる場合,労働の生産力の増大を前提とする資本の実質的包摂 において質的断絶がここで生じていることを考える必要がある
5)。機械が導 入される場合,それは労働力との賀用比
I佼によってなされるのであるから,
機械の導入が資本家の街勤としてまた資本家への強制として現れる,労働力 人口が資本の苔積機構の中へ組み込まれた社会の成立をも意味する。マノレク スはここではじめて明確に展開した特別剰余価値概念を基礎としながら,機 械が導入されるための条件について述べる。「機械の効率が大きければ大き いほど j ( K r . S . 2 9 6 ) 労働の生産力が増大させられるのであるが, 機械が 導入されるためには「機械そのものに含まれている労働時間が,機械によっ て代わられる労働力能に含まれている労働時間より少ない
J( i b i d . ) という 条件が必要なのである
Oそれは個別的資本の視点からの分析であるが,この
ことを社会的資本の視点から見るとき機械の採用にもとづく資本制的人口法 則の確立として現れる
Dそれは労働力商品の存在をそれまでの生産様式と同 じく基礎としながらも, I 独自に変化した生産様式」にもとづく労働の生産 力の上昇を基礎とする「労働にたいする資本の支配 J ( R .S . 88 , 148 ページ) の完成である
D資本の生産力について,生産様式の変化にもとづく特別剰余 価値を起点とする労働の生産力上昇が資本の生産力として現れることから考 えられるべきであって,そのことと生産手段とくに機械が「労働を支配する 資本の力 CMach t )
j( K r . S . 3 1 2 ) として現れること,そして物化した「一つ の生産関係」としての資本が生産手段においてとらえられることは表哀をな している
Dしかし,分析はここでは機械の導入の際の労働力との費用比較ま でで中断している則的。
( 5 ) 乙の乙とばこのノート 1
~5/[1}では明院に表引されていないが. 1 8 6 3
年1 月から
苦トき始められたノート
1 9
m}の「機械。自主主諸力と科学との応用」の続稿では「生産様 式,生産諸関係を変革するー要素である機械J
(金光不二夫・吉田文和抄訳「経済J
第
1 4 9
号,1 9 7 6
年,1 1 0
ページ)の役割について次のように言っている。「まず指摘し ておかねばならぬのは,乙こでは,c
道具と機械との〕厳密な技術学的区別が問題で はなく,生産様式を,したがってそれによって生産関係を変革しうるような使用され る労働手段における革命が問題なのだというととである。したがって,ここで問題と なっているのは,まさに資本(則的生産様式に特徴的な,使用される労働手段における 革命であるJ
(向上〉。乙乙で「一度生じた生産力における革命は,技術学的革命とし て現れるが,乙の草命とともに生産関係においても草命が生じるJ
(向上,節目l
号,1 9 7 6
年J1 4 5
ページ)。ここでは機械の登場ーこそが生産力の草命を惹き起すのであり,資本制的生産様式・
資本制的生産諸関係の変革をもたらす乙とが指摘されている。すなわち単純協業また は分業にもとづくマニュファクチュアの時代とはちがって機械の採用が一つの強制と して現れる時代においてはじめて,資本制的社会は一つの画期として現れるのであ り,そこではすべての生産諸関係が物象化されたものとして現れるのである。「労働 が資本に形式的に従属する場合には,労働諸条件は,その後変化をうけない。……し かし新しい生産様式,資本制生産が実現する生産椋式の草命のもとでは,これらの労 働諸条件の形態が変化する。労働諸条件は,社会的に協力する労働者に条件として役 立つ結果,新しい定義をうけとる。単純協業と分業にもとづくマニュファクチュアの もとでは,上述の変化は,建物など,いっしょに利用される共通の労働条件にのみお よぶにすぎない。機械体系に立脚する機械制工場では,との変化は本来の労働用具を とらえる
J
(向上,1 5 1
ページ)。すなわち乙乙で資本による生産過程の完全な支配が 完成するのである。ことにおいて「一方自動工場は,機械体系に照応した,完成され た生産様式であるJ
(向上,1 5 2
ページ〉。( 6 )
マルクスは『要綱』において恐慌へ言及して次のように述べている。「乙の同じ法 則が,多くの諸資本相互の関連,すなわち競争でどのように追って表現されるかとい うことは,同様に他の篇に属している。それはまた諸資本の蓄積の法則としても述べ る乙とができる。……それには次の篇でふれる。この法則では単純に可能的な生産力 の発展が問題になるばかりでなく,同時にとの生産力が資本として機能し,とりわけ 一方では回定資本として,他方では人口として実現されている規校もまた問題となる ということは,注意することがm
要であるJ (G r . S . 6 3 7 )
。マルクスは恐慌論の完成のために「同定資本」とくに機械と相対的過剰人口とを重視していたのである。その 場合『要綱』での「資本一般」では排除されていた「諸資本」の視点が導入されるこ とが必要であり,また特別剰余価値または超過利潤論が恐慌論の重要な出発点におか れる乙とになる。
(7)
このように「資本の生産過程」の草稿は中断されており,その全体を貫く方法を 知ることはできない。 1 8 6 1 年のプランにおいても方法上の叙述を示すような『要綱』
のページ数ほ記されていない。ただ本稿では 1 8 6 1 年の「貨幣の資本への転化」におけ る叙述の方法が, 1 8 6 4 ' " ' ‑ ' 5 年の『諸結果Jl I とみられうる「資本の生産過程」全体の方 法に影響を与えたものととらえており,両者の対比と後者の発展をみている。
マルクスは 1 8 6 3 年 1 月に記した「第 1 篇「資本の生産過程 J J のプラン(ノ ート 1 8 冊)に従って, 1 8 6 3 年 1 月以降「資本の生産過程 J
(ノート 19~22冊)を書き継いでいる(ただしそのうち「生産過程の結果」は書かれていな い)
8)。 こ の 草 稿 の 殆 ん ど は 現 在 未 発 表 で あ る が , 既 発 表 部 分 で あ る 「 資 本の生産性。生産的労働と不生産的労働 J (ノート 2 1 冊 ) に つ い て み る と
「資本のもとへの労働の形態的包摂 J (Mw.
1.S . 3 6 6 ) 段階では「物的な労 働条件一一労働材料,労働手段(および生活手段)一一」において「物の人 格化および人間の物化 J ( i b i d . ) すなわち資本の物神性をとらえている。こ れに対して資本の実質的包摂では「労働の生産諸力」が「資本の生産諸力」
(Mw.
1.S . 3 6 6 ) として現れることを述べるとともに, I こ れ ら の 労 働 手 段そのものが材料,用具などとしてその簡単な自に見える姿態のままで,
資本の,したがって資本家の,諸機能として労働者に相対するのである」
(Mw. 1 . S . 3 6 7 ) として「労働手段」において資本の物神性をとらえてい る口それは機械の導入によって完成する。「まさにこの労働過程では, 資 本 は , l j i
~乙,労働がそれに従属し,労働が合体されたところの<原料>労働材料や労働手段であるにとどまらず,労働とともに,その社会的結合,およ び,この社会的結合に照応する労働手段の発展をも〔含んでいる) J (Mw.
1.
S . 3 6 8 ) 。
マルクスが再度「資本の生産過程」に着手した時には, I 資本の実質的包
投 i J における機械の怠設の明確化によって,機械 i l J iJ大工業成立以前と以降と
の物神性の違いを明らかにしていたのである
Oなお,ここでの物神性論はほ ぼそのままの形で『直接的生産過程の諸結果』の中に再現している (Mw.
1 . S . 3 6 5 ' " ' ‑ ' 8 および R .S . 7 7 ' " ' ‑ ' 8 2 , 1 3 1 ' " ' ‑ ' 8 ページ)。
( 8 )
時永淑「く解題>11
要綱』から『資本論』の成立まで一一経済学批判体系化の過 程一一J ( R .
ロスドノレスキー『資本論成立史』釘4
分冊,法政大学出版局,1 9 7 4
年,所収)8 8 6 ' " 7
ページ,および同r 1 1
資本論』の成立過程」仁)r
経済志林J
(法政大)第4 0
巻3
号,1 9 7 2
年,5 8 ' ‑ " ' ‑ 7 4
ページ,を参照されたい。ここで同じくノート 18 冊のプランと対応する形で書かれている「第 3 篇 資本と利潤J ( ノート 1 5 ' " ' ‑ ' 1 8 冊)中の既発表部分である「収入とその諸源泉。
俗流経済学」での物神性把握をみることにする。その前に労働の生産)]の増 大を「資本と利潤」でどう扱っているかを推考してみよう口この「資本と利潤」
執筆までに市場価格を論じた部分 (Mw.I I . S . 2 0 1 ' " ' ‑ ' 8 ) があるが,そこで は「超過利潤
J(Mw. II . S . 203) までが言及されているだけであり,超過 利潤を求める諸資本の競争が生産手段と労働力との代替関係を通じて「資本 の絶対的過剰生産」へと至る論理,すなわち競争をつうじて労働の生産力が 資本の生産力として現れることの社会的結果が恐慌となることは『学説史』
全体をみてもふれられていない。そして利潤論が展開されているノート 1 6 ' " ' ‑ '
17冊における分析も,内容の項目を見る限り労働の生産力の増大がそのまま 資本の有機的構成の高度化としてとらえられ,それが長期的な利潤率の傾向 的低下および過剰労働人口の増大として現れるという論理で展開されている ようである。それは『学説史』での「労働の生産性の増大は(それが機械に 関連したものであるかぎり) ,充用される機械の数と大きさとにたいして相 対的な労働者数の減少と同義である J (Mw. m . S . 357) という論理の延長 線上に存在する。ここでは市場価格をつうじる超過利潤論は重視されておら ず,また労働の生産力の発展が「資本と利潤」の次元で超過利潤の獲得を起 因としながら恐慌へと至りうるという論理は完全に捨象されている
Oつまり
『要綱』とは違って「諸資本」の視点は導入されたもののそれは生産価格の
論証までであり, [""資本制的生産の進行に伴う利潤率低下の一般的法則」
〈ノート 1 6 冊)という長期的分析にのみ労働の生産力の増大の論理は生かさ れていて,短期的な「諸資本」の次元の問題としてはとりあげられていな い
Dすなわち競争をつうじて労働の生産力が資本の生産力として現れること は論証されていない。
以上の事実と対比させてここでの資本の物神性をみてみると,この時点で は「資本と利潤」の次元で資本の物神性を労働の生産力の増大と関連させて 説く論理はなく, G … G' 視点を基礎とする価値の生産価格への転化までで資 本の物神性はとらえられている。それは「資本の形態的包摂」での物相
i性把 握と形の上で類似している。「実に, 価値の賀用価格への転化によって,基 礎そのもの一一商品に含まれている労働時間による商品の価値の規定一ーが 廃棄されたように見えるのである。/そして,利潤のこのようなまったく疎外 された形態において,また利潤の姿がその内奥の核を隠すのと同じ度合い で,資本はますます物的な姿を与えられ,関係からますます物になる
oとい っても,この物は社会的関係を体内にもち,自身のなかに含みこんでおり,
擬制的な生命と独立制とをもって自分自身に関係する物であり,感覚的一一 超感党的な存在である
J(Mw. m.S.474) 。ここでは生産手段に即して資 本を物化した「一つの生産関係」とみる視角の積極的な提示がなく,むしろ 生産物に即して資本がとらえられている
9) oI 資本が労働条件の疎外された 形態を,一つの独自に社会的な関係を,表わしている J(Mw. m. S . 4 8 4 ) 。
「ところが,そうであるのは,ただ,客体的な諸条件が, したがってく再生 産過程を見れば)労働自体の生産物が,独立な諸力 (Machte) として,労 働の非所有として,他メくの所有として, したがって形態から見て資本とし て , (労働に〕相対する場合だけである
10)J (Mw. m . S . 4 8 1 )
0( 9 )
乙の部分が「資本の生産過程」の続き(ノート 19~22 冊)に先立って吉かれたという事↑占もまた作用しているであろう。
(10)
乙乙で利子生み資本論が述べられている。「利子は一般に社会的関係としての社
会的関係を表示する J (Nw. i l l . S . 4 8 5 ) 0 r 信用」は「本質的な,発展した生産関
係 J ( G r . S . 4 3 4 ) なのであるが,それは
(1'i幣)資本一利子の形態においてその物
象化された表現をうけとる。「乙うして,利子それ自体は,まさに,社会的対立と変
態とにおける労働条件の資本としての定在を,労働に対立し労働を支配する人的な諸 力 (Machte) として表わしている。利子は,主体の Y ; 5D J ! とたいする関係、における労 働条件の政外された性格を要約している J (Mw. i l l . S . 4 8 5 ) 。資本を「生産物」
( i b i d .)においてとらえる視角と即応して利子生み資本論は述べられている。
「利子生み資本は,資本
itiiJ的生産に特有かつ相応な形態を,信用において受け取る」
(Mw. i l l . S . 5 0 7 ) 。しかし「その一般的本質から見た信用」が「再生産過程を促進 し,したがってまた剰余価値の生産を促進する J (Mw. i l l . S . 4 7 8 ) ものであるの に対して,ここでの利潤論では生産 j J 一定不変のもとでの考察がなされていること,
そして資本蓄積の問題は「利潤率の傾向的低下」としてのみ取り扱われていたため に,ここでは信用論としての展開がなされ得なかったと考えられる。
3 . r直接的生産過程の諸結果』における物料性論
1 8 6 1 ' " " 6 2 年の「貨幣の資本への転化」では貨幣または商品から始め商品ま たは貨幣で終るという方法がとられていた。 1 8 6 3 年プランと対応する形で苦 かれた 1 8 6 4 ‑ ‑ ‑ ‑ 6 5 年の『資本論」第 l 巻の第 1 稿の残存部分である『直接的生
1)2)
産過程の諸結果 J によれば「資本の生産過程」全体を商品で始め商品で 終るという方法で叙述している
O「ブ、ノレジョア的な宮の基本形態としての商品は,われわれの出発点だった し,資本の発生のための前提だった。他方では,商品は今では資本の生産物 として現れる J ( R . S . 9 1 , 1 5 2 ページ)。この「資本制的生産の生産物」と しての商品は, 1 8 6 1 ' " " 6 2 年のそれが単に労働過程と価値増殖過程での分析を うけた「資本の形態的包摂」次元での商品および資本関係の考察であったの に対して,ここでは絶対的および相対的剰余価値と長期的過程としての資本 蓄積の分析をうけた商品の考察である
Oそれゆえ「対象化された労働」と
「生きた労働 J ( R . S . 35 , 6 1 ページ)という対立図式がここでも見られる
がそれは「資本の形態的包摂」を考察している部分においてであり,そこで
は,生産物と「生きた労働
Jとの対立図式のうちに,
I対象化された労働」す
なわち価値の増殖と資本関係の再生産とを見ている口そのような展開とは別
箇に切りはなされて,商品 l こ始まり商品に終るという方法が述べられてお
り,それは資本の「諸形態転化」としてとらえられている
Dそれは第 2巻の 第 l稿で原初的な形での資本循環論が成立していることと接続しており,
「対象化された労働」の再現という叙述を必要とはしない。すなわち「対象 化された労働」という範曜と切り離されることで,商品にはじまり商品に終 るという方法のうちに G … G' 視点が顕在化しているといえる。「ただ形態的 な諸転換一一これらの商品の貨幣への転化とそれらの諸商品への再転化一ー だけに関するかぎりでは,この過程はわれわれが「単純な流通」と名づけた もの一一諸商品の商品としての流通一ーのなかですでに述べられている
Oし かし,これらの商品は今では資本の担い手である。それらは価値増殖され た,剰余価値をはらんだ資本そのものである
Oそして,この点において,今 では同時に資本の再生産過程でもある諸商品の流通は,商品流通の 1 1 1 1 象的な 考察にとっては無縁だったさらに進んだ諸規定を含んでいるのである。それ ゆえ,われわれは諸商品の流通を今度は資本の流通過程として考察しなけれ ばならないのである。これは次の * 2 部で行なわれる J( R . S . 1 1 5 , 1 9 2 ‑ ‑ ‑ ‑ 3 ページ)。このように,マルクスが 1 1 1 1 純流通」とは違った次元で商品の形 態転化を考察するものとしているこの「資本の流通過程」は,直接的生産過 程に対する補足的または実現;命的な流通過程ではなく,第 2巻の第 1
fi~D にみられる資本の循環過程としての「資本の流通過程」であると考えられる。
以上の方法に包摂されて資本の物神性論が述べられている。それは「資本 の形態的包摂」次元での物付
i性 J 包握を基礎とした上で, I 資本の実質的包摂」
次元での物相 1 1 性論となっている。 l YrJ者について「ただ賃労働にたいしての み,労働の対象的な諸条件である物,つまり生産手段も,労働者自身の f 創 J 』 のための対象的な諸条件である物,つまり生活手段も,資本になるのであ る
O……資本においては,
fí~!符と同様に人々の一定の社会的な生産諸関係、が人々にたいする物の諸関係として現れる J ( R . S . 3 2 , 5 7 ページ)と述べて いる
D後者については,特別刺余価値の生産が社会的な強制として現れると
きには独自に資本制的な生産段式および~tPEJf1関係が成立すること 3) を言う
( R . S . 4 9 " ' 5 , つ 8 6 ページ)とともに, r 労倒条件〔つまり「生産手段すな
わち物的な労働条件 J ( R . S . 7 9 , 1 3 4 ページ)一一引用者〉は労働者に対立す る社会的な力として高く積み重なっており,そしてこの形態において資本化 されているのである J ( R . S . 8 1 , 1 3 7 ページ)として生産手段の発展に基づ く労働の生産力の増大に即して資本の物干1¥
1性をとらえている。資本は生産手 または社会的な労働の生産力の,
それらの物化された姿として J ( R . S . 8 2 , 1 3 7 段に即して1"1"労働の社会的な生産力」の,
て る
し いと て 者 ・ れ 表 ・ ら 代 ・ え び ・ ら よ ・ と お
・ )
化・ジ
格 ・ 一 人 ・ ぺ
以上のように特別剰余価値を動因とする労働の生産力の上昇と資本の物神 性との関辿が述べられているが,社会的資本の視点から見るとき特別剰余価 値を求める諸資本の競争は生産手段と労働力との代替関係をつうじて景気侶・
「機械の発達につれて,
技術的にも労働の諸条件〈すなわち「生産手段 JCR.S.79 , 1 3 4 ページ〉一一 引用者〉が労働を支配するものとして現われ,また同時に労働にとって代 環過程での相対的過剰人口を生み出すことになる。
独立な諸形態における労働を不要にする J ( R . S . 8 0 , り,労働を抑圧し,
ここで『諸結果』から失われた資本の蓄積過程の 1 3 5 ページ)のであるが,
叙述をうかがう限り,長期的傾向的な資本蓄積にやl~ う過剰人口の生成のみが
扱われていると考えられる
Oす な わ ち 1 8 6 1 ' " ' ‑ '6 2 年の特別剰余価値論の成立
この 1864~65年時点の資本の蓄積過程において景気循環論としては結実は ,
していない。「蓄積辺程は,
な契機である。蓄積過程は,既存の資本の実現および増殖の手段としての 資 本 制 的 生 産 過 程 の 一 つ の 内 在 的 それ自身,
人口中の以前はまだ資本 その場‑合,
賃金労働者の新たな創出を合んでおり,
N i l J 的生産に捉えられていなかった諸部分, たとえば女や子供がその過程に包 人口の自然増加によって増大した労働者群がその過 摂されることもあれば,
程に包摂させられることもあるであろう。さらに詳しく見れば明らかになる このような,労働力そのものの生産を,資本によって搾取 白分の粍
iJ!X.欲望に応じて規制する。つまり,資本 ただ資本を生産するだけではなくて,駒大する労働者群を,すなわちた だそれによってのみ資本が追加資本として政能しうるような材料を,生産す される人間群の生産を,
ょう l こ,資本は,
は ,
自分に対立する労働条件を絶えず拡大される規校で
る
Cだから,労働が,
資本として生産するだけではなくて,資本も,絶えず拡大される規模で自分 に必要な生産的労働者を生産するのである J ( R . S . 85 , 143 ページ)。この ようにこの時点でマルクスがとらえようとしていた過剰人口論は景気循環と の関連をもたない,資本の増加に対応した労働人口の外延的拡大と内包的増 加としてとらえられている。「それゆえ,資本の増大とプロレタリアートの 増殖とは,同じ過程の対極的に分かれた所産だとはいえ,同じ過程の共同的 な所産として現れるのである J ( R . S . 86 , 144 ページ)。剰余価値論が長期 的分析につながる論理とともに景気循環へつながる論理をももっていたの に対して,蓄積論は長期的分析に一面化ーすることによって断絶が生じてい る口そのことはまた資本関係の再生産を論証し得ていないということでもあ る。また長期的分析に一面化することによって,たえざる資本 1
Rl球( G . . G') の反復を理論的前提として必要とはせず,商品にはじまり商
I日で終る 方法のうちに資本の苔 f l f 過程を包摂することができたのである
O( 1 )
1863年から 1865年にかけての「資本の生産過程」の H,~成については,佐保公三郎r W 資本論』第三部原稿について」仁) } r c L l
、想J 5 6 4 号 , 1 9 7 1 年,を参照されたい。
(2)
W 諸結果』については,内田弘「直接的生産過程の諸結果 J ( W マルクス・コメン ターノレ
V~ 現代の理論社, 1973年所収),同 rw 資本論』成立史における W !l'(j 釘I'Yl~産過程の諸結果~
J
(1専修経済学論集J 沼 10~2 号,四 1 9 7
花6 子 年 年 三 コ f ド λ ) : , 1 梢 t 内 1
凹j F
西 毘 1 1 J 過 @ f 程呈の諸結果』における「資本の生!産宝物としての諸向品 J !にごついて J ( σ r i : 何 望 済 干 と ド ; 戸 E り
」(名大
)t第
i有' ) 辺2 2 巻 4号 ,
1四97万5年)λ,向井公j敬攻「庁「資本の生産物としての諸諸il尚(~川\j品」について 一一『資木 7 論命』第 1 部「資本の生庄;過旦程」の
i給i 沿会括の方法をめぐつて一一一 J ( 1 1 司志社大 学向学部創立 3 0 周年記念論文集 J 1 9 8 0 午所収)を参照されたい。
GQ 記〕 なお,八相
]1良次郎「マノレクス了江杭『第
6辛 口出的生産過程の消結果』の
理論(!'~性格Jr 経済学 J
(京北大)第42~1 号 , 1 9 8 01 F も参照されたい。
(3)
1 第
3:1.三で詳しく述べたように,相対的刺余日
il他の生産〔ここでは特別利 1 d i l i i 位
のこと一一引用者〉一一(個々の資本家 l ととっては,彼が,
111日位ば生 i I 2 ' W ' . l に対象化さ
れている社会的必要労回時間に等しいということに京IW~ されて,つまり,彼の生怪物の l i i ; ] j } l j 的価伯がその社会的!日間よりも低いために彼の生産物がその間別 ( ( J 価値よりも
I', ;J く完'れれば彼にとっては京Ij1d!i fi仰がっくりだされるということ lL~~IJi:~~されて, ìミ存 l?eをとるかぎりにおいて)ーーとともにト:~í'i. f;l と資本市Jj的な生産様式が(技術的にも)発生し,それを基礎として,またそれと同時 に,はじめて,資本制的生産過程!と対応するいろいろな生産当事者たちのあいだの,
そして特l 己資本家と賃金労働者とのあいだの,生産諸関係が発展するのである J (R.
s . 4 9 ‑ ‑ " 5 0, 86
ページ〉。4 . r資本論』第3
巻における資本の生産力規定と物神性論
第 3 主主での基本的視角は IG‑W‑G' J ( K . m . S . 5 1 ) である。そして第 1 ‑ ‑ ‑ ‑ 2 篇をつうじて, G … G' 視点、にもとづき個別資本としての前貸総資本 または, I 社会的総資本 J ( K . m . S . 1 7 2 ) の可除部分としての「各特殊生
産部面」のそれぞれの前 1~ 資本に対する剰余価値の比率を考察しているのであって,そこではたえざる G … G ' の反復を前提とはしない。これに対して 第 3 篇とくに第 1 5 章は「資本の絶対的過剰生産」を対象としており,それゆ えに方法・を具にする
Oそこでは G … G' のたえざる反復が前提とされる。「資 本とその自己増殖とが生産の出発点と終点,動機と目的として現われるとい うことである J (K. m . S . 2 6 0 ) 。そのことは,第 1 5 立 で は じ め て 相 対 的 剰 余価値にふれていることからも分るが,他の祝点 (W' … W') をも必然的に 浮かび上がらせることにもなる
Gマルクスはまず第 3 巻第 l 泊での方法について次のように述べている。
「労働の生産性」について, I しかし, それはなお利潤率にも,少なくとも
個別資本の利潤率には,直接的な影響を及ぼすことがありうる。というの
は,……この倒別資本が社会的平均生産性よりも高い生産性で作業し,その
生産物を同じ商品の社会的平均価値よりも低い価値でつくり, したがって特
別利潤を尖到するという場合である。しかし,このような場合はここではま
だ考慮しなし,可でおく
Dというのは,われわれはこの篇でもまだ,諸商品が社
会的に正常な諸条件のもとで生産されてその価値どおりに売られるという前
提から出発するのだからである
Cつまり,どの個々の場合にも,われわれは
労働の生産性が不変だという仮定から出発するのである
1」 〉 (K.E.S .60
6 1)。このような前提のもとでは資本を生産手段に即して「一つの生産関
係」としてとらえる視角は明瞭には提示され得ない。「とはいえ,利潤率をつ うじての移行によって剰余価値が利潤という形態に転化させられる仕方は,
すでに生産過程におきている主体と客体との転倒がいっそう発展したもので あるにすぎない J (K. r n . S . 5 5 ) という物化の一般的な叙述が与えられう るのみである
Dまた第 9 章「平均利潤率と生産価格」でも「第 1 部と第 2 部 ではただ商品の価値だけを論じた。今では一方ではこの価値の l 部分として の費用価格が分離され,他方では価値の転化形態として商品の生産価格が展 開されているのである
J(K. r n . S . 1 7 3 ) として第 1 篇と同じ生産力一定の 前提が保持されている。
これに対して第 2 篇第1 0 章ではある部門内での個別資本が考察の範囲に含 まれる幻。ここでの,特別剰余価値に対応する超過利潤論の導入に対応し て,利潤率の傾向的低下の法則においてそれまでの過剰人口の形成を長期的 過程と見る把握のほかに,第1 5 章で「資本の絶対的過剰生産」に至る資本の 過剰蓄積と相対的過剰人口の形成との関連を展開している
Oマルクスが第 3 巻で明確な形で労働の生産力の上昇の問題を取り扱う場所は,第 3 篇しかな かったのであるが,そこでは超過利潤を契機として景気循環を取り扱うに至 っている
oそのことはまた生産価格の形成の背景を説明するものであった。
それは生産価格論と長期的・平均的な利潤率の低下の問題との次元の差をも 示すものであったといえる
O第 3 篇では「一般的手 J I 1 ,閏率の漸進的な低下の傾向は,ただ,労働の社会的 生産力の発展を表わす資本制的生産様式に特有な表現でしかないのである」
( K . r n . S . 2 2 3 ) ととらえるとともに,第1 5 J$:で超過利潤をめぐる「生産方
法そのものの不断の京命 J ( K . m . S . 2 5 4 ) にすなわち労働の社会的生産力
の増大に基づく「人為的過剰人口
J( K . m . S . 2 6 5 ) の形成と資本の過剰蓄積
から生じる周期的な恐慌をも考察している。この場合「だから,資本にとっ
ては,労働の生産力の増大の法則は無条件には妥当しないのである
D資本に
とっては,この生産力が高くされるのは,一般に生きている労働の節約のほ
うが過去の労働の追加よりも大きいという場合ではなく,ただ,生きている
労働の文払部分の節約のほうが過去の労働の追加よりも大きいという場合だ
けである J ( K . m . S . 2 7 2 ) 。乙のときに生じる超過利潤の存在こそが労働 の生産力が資本の生産力として現れていることを示しているめ心。このよう に市場価値・価格論にもとづく超過利潤把握を基礎として,すなわち第 3 部
「総過程の諸姿態」次元でとらえられた労働の生産力が資本の生産力として の現われを基礎として景気循環論が叙述されているのでありめ,そのことは
「資本の生産過程」と同様に生産手段において「一つの生産関係」としての資 本把握を可能としたと考えられる。「資本の力 (Mach t),すなわち社会的生 産条件が現実の生産者にたいしセ独立化され資本家において人格化されたも の J (K. m . S . 2 7 4 ) について次のように述べている
oi ますます資本は資 本家をその行使者とする社会的な力として現われ,乙の力は一個人の労働が っくりだせるものにたいしてはもはや考えられるかぎりのどんな関係ももた ないのであり,一一しかも, それは疎外され独立化された社会的な.力であ り,この力が物として,またこのような物による資本家の力として,社会に 対立するのである J ( i b i d . ) 。
第1 5 章でのこのような「労働の社会的生産力の無制限的発展 J ( K . m . S . 2 6 0 ) とその限界の考察は,第 2 巻第 1 稿での資本循環論の原初的な形での 成立を背景としながら, G … G' のたえざる反復をその展開の基礎視角と している。景気循環を考察する視角としての G … G' のたえざる反復という 視点は, [f資本論』第 l 巻の蓄積論でも採用されることになる。
以上の利潤論での理論的展開
6)に対応して
i第 7 篇 諸収入とそれらの
諸源泉」での資本の物神性把握にも,
i収入とその諸源泉。俗流経済学 J ( 1 8
6 2 年)に比べて深化がみられる
7) Oまず労働の生産力について「すでに相対
的剰余価値を考察したときにも,またさらに剰余価値の利潤への転化を考察
したときにも見たように,この点〔剰余価値の生産が生産の目的と動機であ
ること一一引用者〕にこそ,資本制時代に特有な生産様式はもとづいてい
るのである
D一一この生産様式,それは,労働の社会的生産力の,といっ七
も労働者にたいして独立した資本の力 ( K r a f t e ) になっておりしたがって
労働者自身の発展に直接に対立している生産力の,発展の一つの特殊な形
態 な の で あ る
D価 値 と 剰 余 価 値 と の た め の 生 産 は , さ ら に 進 ん だ 展 開 で 明 ら か に な っ た よ う に , 商 品 の 生 産 に 必 要 な 労 働 時 間 , す な わ ち そ の 商 品 の 価 値 を , そ の つ ど の 現 在 の 社 会 的 平 均 よ り も 低 く し よ う と す る と こ ろ の , 不 断 に 作 用 す る 傾 向 を 含 ん で い る 。 費 用 価 格 を そ の 最 低 限 ま で 減 ら そ う と す る 街 劫 は , 労 働 の 社 会 的 生 産 力 の 増 大 の 最 も 強 力 な 損 粁 で あ る
Dといっても,こ の i 首 大 は こ こ で は た だ 資 本 の 生 産 力 の 不 断 の 増 大 と し て 現 わ れ る だ け で あ る が J ( K . m . S . 8 8 8 ) 。 以 上 の 利 潤 論 で の 生 産 力 把 握 を う け て 資 本 の 物t l j l性 も 生 産 手 段 に 即 し て 明 確 に な さ れ る 。 「 資 本 は 物 で は な く , 一 定 の 社 会 的 な , 一 定 の 歴 史 的 な 社 会 構 成 体 に 属 す る 生 産 関 係 で あ っ て , こ の 生 産 関 係 が あ る 物 で 表 わ さ れ て こ の 物 に 一 つ の 独 自 な 社 会 的 性 格 を 与 え る の で あ る 。 資 本 は , 物 質 的 な 生 産 さ れ た 生 産 手 段 の 合 計 で は な い 。 資 本 と い う の は , 資 本 に 転 化 し た 生 産 手 段 の こ と で あ っ て , 生 産 手 段 そ れ 自 体 が 資 本 で な い こ と は , 金 銀 そ れ 自 体 が 貨 幣 で な い の と 同 様 で あ る J ( K . m . S . 8 2 2 " ' 3 ) 。 商 品 ま た は 「 一 つ の 生 産 関 係 」 と し て ω 貨 幣 と 比 較 す れ ば 「 資 本 制 的 生 産 様 式 で は , そ し て そ の 支 配 的 結 時 で あ り 規 定 的 生 産 関 係 で あ る 資 本 の も と で は , こ の 魔 法 に か け ら れ た 転 倒 さ れ た 世 界 は さ ら に い っ そ う 発 展 す る
J(K . m . S . 8 3 5 ) 0
( 1 ) マルクスは実際にはおr; 3
~~Sl' " 2 矯で労仰の生産力のと升を扱っている場合が ある。 しかし,
それは j非!ド:;常;;:にド限只定された巧考-察である。i:l第'~3J
翠?吉1:r 利 手
lリ
l日 i
担潤日問1率 と 刺 余 ( 佃 仙 目 町
1i位 直 率 率 . と の 閃 { 係 系 J ,に乙おける労 f
伽f 劫 カ の f
川l:.弁芹庖i
土汁1'1''↑f 性
l{ 係 系 の み l に乙限られていて,相対的剰余
il1 l i 位と利利率との関係としてほ論じられていな い。また「特別手Jj i m J については「しかし,このような場合はここでは考察しないで おく J (K. m . S . 6 0 ) としている
O日 S5 i J i ' ! : ['不変資本充用上の即約」における労似の生産性の上引が利 i l 1 1 率に与える効 果の分析は,個別資本の超過一利 i s i としてでもなくまた相対的刺余価位の生産としてな されているわけでもない。すなわちある仙別資本内部でのたとえば大規校生産の場合 のような「不変資本の充用そのものの節約」と . 1 外部の労倒部門すなわちこの資本家 に生産手段を供給する部門での労仰の生産力の発展 J (K. m . S . 9 2 ) とがゴ
5‑&きされて
いる O すなわち後者について ['EìZ~~ の前進的発反から生ずるこの部の不変資本節約に