2 − 1 − 1. 「保存令」制定以前の修理工事(1913 〜 1933 年)
2 − 1 − 2. 「保存令」の制定と修理工事(1933 〜 1945 年)
2 − 2. 歴史的建造物の調査及び保存修理工事の記録 2 − 2 − 1. 記録の種類とその形態
2 − 2 − 2. 修理工事報告書について 2 −3. 小結
第 2 章 植民地朝鮮における歴史的建造物の保存修理工事とその記録
2 − 1. 修理工事の事例
植民地時代の修理工事に関する全貌を把握することは非常に難しい。その最大の理由は、修理 工事関連資料が各研究機関に分散して所蔵されているからである。まず、韓国国立中央博物館と 韓国国家記録院(旧、政府記録保存所)に所蔵されている総督府文書や図面資料の内容がある。
現在国立中央博物館資料は目録集
1
が刊行されている。その他に、東京大学所蔵の『関野貞資料』がある。また京都大学と佐賀県立名護屋城博物館所蔵の『小川敬吉資料』がある。本章では、こ れらの資料のうち、修理工事記録資料を最も多く所収している『小川敬吉資料』を主に利用し、
まとめた。
表 2 − 1 は日韓両国における歴史的建造物の保存修理工事の事例をまとめたものである。これ によると 1916 年の「古蹟及遺物保存規則」制定以前にすでに修理工事が始まっていることがわ かる。最初の修理工事は 1913 年に始まるが、前章で言及したように 1907 年に度支部建築所に よって行われたソウル南大門修理工事があったことをここに記しておく。前章で述べたように、
1933 年の「朝鮮宝物古蹟名勝天然記念物保存令」(以下「保存令」と略す)の制定は歴史的建造 物の保存を保存法令上に規定していたことから歴史的建造物の修理工事における重要な転換点と なったと考えられる。そのため、本章では 1933 年以前と以降に分けて、修理工事の事例を紹介 するとともに修理工事とその記録の特性について分析する。
2 − 1 − 1. 「保存令」制定以前の修理工事(1913 〜 1933 年)
表 2 − 2 は京都大学所蔵の『小川敬吉資料』に所収されている「遺跡別・年度別の修理補助費」
である。これをグラフでまとめたのが図 2 − 1 である。これによると、大正 2 年から昭和 4 年 まで毎年 1,000 万円〜 1,500 万円が策定されていたことがわかる。大正 2 年から大正 7 年までは、
石窟庵と浮石寺の修理工事に予算の配分が多く、昭和 2 年から昭和 4 年までは長安寺大雄殿修理 工事が大規模工事であったことがわかる。一方、大正 7 年から大正 10 年までは最も補助費の支 給が高かった時期で、遺跡別には石窟庵、仏国寺、金山寺に多くの予算が配分されている。その 理由として初期にすでに修理された石窟庵修理工事に問題があり、再修理されたことを挙げるこ とができる。また、仏国寺と金山寺の修理工事は表 2 − 2 でわかるように、建物だけの修理では なく、伽藍全域に及ぶ修理工事であったためであると考えられる。
1 国立中央博物館『光復以前博物館資料目録集』、韓国:国立中央博物館、1997
表 2 − 1 日韓両国における歴史的建造物の保存修理工事(20 世紀前半)
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表 2 − 2 朝鮮古蹟保存修理事業の補助金(左:遺跡別、右:年度別)
(左:京都大学所蔵『小川敬吉資料』12001 冊子 4、右:京都大学所蔵『小川敬吉資料』12001 冊子 3)
1)平壌普通門修理工事
表 2 − 1 でわかるように、平壌普通門修理工事は慶州石窟庵工事と同様に植民地時代の最初の 本格的な修理工事である。平壌普通門修理工事は朝鮮総督府の技術指導の下に平壌古蹟保存回に よって行われた。工事は 1913 年 7 月 11 日に着手し、12 月 7 日に竣工した。修理工事に関して は修理監督であった木子智隆によって整理された『大正二年平壌普通門修理紀要』(以下『修理 紀要』と略す)が京都大学所蔵の『小川敬吉資料』の中に所収されており、この時期の工事につ いて窺うことができる。
『修理紀要』には簡略ではあるが、修理内容について記載しているため、その一部の内容を紹 介すると、以下の通りである。
朝鮮総督府ハ大正二年癸丑度ニ於テ之ニ修繕ヲ加フル事トナリ建物全部ヲ一旦解体シ石垣ノ弛ミタル モノハ之ヲ堅緻ニシ礎石ノ傾ケルハ之ヲ正し従来使用セル用材中腐朽用ニ耐ヘサルモノノ外ハ総テ在来 ノ物ヲ使用シ新規補充ノ個所モ亦旧観ヲ損セサランコトニ注意ヲ払ヒ
これにより全解体工事であることと在来の部材をそのまま使っていることがわかる。また、「現 状変更」に関する記録もある。前章で述べたように保存法令上では 1916 年の「保存規則」で初
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法住寺大釡保存屋 帰真寺木板
春川清平寺古碑保存容器 釋王寺護持門及大雄殿前石垣 楡岾寺五十三仏保存施設 海印寺大蔵経閣 芬皇寺九層塔 永明寺浮碧楼 伝燈寺大雄殿 長安寺大雄殿 金山寺 仏国寺大雄殿 浮石寺 石窟庵
図 2 − 1 年度別修理補助費
めて「現状変更」に関して規定しており、それが具体化されたのは 1933 年の「保存令」以降の ことであることを考えると、「現状変更」に関する記録は大変貴重な資料である。しかし、1930 年代以後の修理工事の内容と比べ、その記述内容は少なく、保存法令上の制約もなかったことか ら、あまり重要視されてはなかったと思われる。
この工事の後、普通門は、横に繫がった城壁が撤去され、翼部の整備が行われた。
2)浮石寺無量寿殿及び祖師堂の修理工事
植民地朝鮮における歴史的建造物の修理工事の代表例の一つである浮石寺無量寿殿及び祖師堂 の修理工事は、1916 年の「保存規則」の制定以後、最初に実施された。工事は 1916 年 9 月 21 日に始まり、1919 年 4 月 20 日に壁画模写を除いた全工事が完了した。当時、修理工事の現場 監督は土木国営繕課の木子智隆技手であり、技師は岩井長三郎であった。また、内務部第 1 課の 渡邊彰が参加した。渡邊彰は社寺係の主任であり、初期の修理工事記録に良く名前が見られる人 物であるが、文献考証などの役目を果たしていたようである。
浮石寺無量寿殿及び祖師堂は韓国の木造建築の中でも非常に早い時期に修理された例である。
修理の対象となった理由としては、関野貞によって浮石寺無量寿殿が当時知られた建物の中では 最古の木造建築となり、早くから注目されたためであると考えられる。
当時の修理工事については、1918 年に刊行された『朝鮮古蹟図譜』第 6 冊に修理工事の際に
図 2 − 2 浮石寺無量寿殿の断面図(修理後)
図 2 − 3 金山寺大蔵殿(修理後)
作成されたと思われる図面と写真が一部収録されており、その外にも京都大学所蔵の『小川敬吉 資料』所収の「浮石寺保存工事施業功程」という簡略な報告と多数の写真がある。これに関して は後に杉山信三が出版物として刊行している
2
。図 2 − 2 は修理後の無量寿殿の断面図で、基壇 部にコンクリートが使用されたことがわかる。3)金山寺修理工事
金山寺修理工事は 1919 年に最初の補修が実施された以来、植民時期を通して継続的な修理が 行われた事例である。植民地時代の金山寺修理工事は何回にわけて施行された。最初は 1919 年 から 1922 年までの 4 年間にわたって施行された工事で、弥勒殿及び大蔵殿の修理工事である。
第 2 期の修理工事は、1926 年から 1927 年に施行された大寂光殿工事である。その後、1935 年 3 月 9 日、失火で主仏像が消失されたが、弥勒仏を造成するための復旧工事が実施され、 1938 年 9 月 3 日に点眼法会を実施したことがある。1939 年に金山寺大寂光殿のための応急修繕、
1940 年に大寂光殿及び金剛門の修理があった。
1919 年から 1922 年までの弥勒殿及び大蔵殿の修理工事は朝鮮総督府の木子智隆技手が現場 監督を担当し、1926 年から 27 年までの大寂光殿の修理工事は総督府の松井精二郎技手と道の 土木技手の植杉が担当した。施行設計は弥勒殿及び大蔵殿の場合は木子智隆が、大蔵殿に関して
2 杉山信三編『韓国古建築の保存−浮石寺・成仏寺修理工事報告−』、韓国古建築の保存刊行会、1996
は竹内保治が担当した。
初期の工事に関する修理記録としては『金山寺観蹟図譜』
3
という写真集が残っており、工事の 概要とともに工事後の殿閣の写真が収録されている。図 2 − 3 は金山寺大蔵殿の修後の写真であ る。大蔵殿は当時の位置が元の位置ではないことからみて、弥勒殿全面の庭の向こうに大蔵殿を 移した。当時の判断の根拠はわからないが、『金山寺観蹟図譜』の記録によれば、その移築の事 実を語っている。また、移築前と移築後においても立面の変化が窺える。2 − 1 − 2. 「保存令」の制定と修理工事(1933 〜 1945 年)
1933 年における「保存令」の制定は保存制度の一大転換だという側面で意義を持つが、歴史 的建造物保存においても大きな意義を持っている。それは 1910 年代に始まった修理工事の方法 が大きな枠組みとなり、特別な変化なしに 1920 年代まで続いたのに比べ、1930 年代に入ると、
歴史的建造物保存に関する批判的な認識が芽生え始めたため、その影響を受けた方法論的な側面 での大きな変化が起こる。1910 年代に行われた修理工事の体系は 1920 年代初期に朝鮮総督府 の財政緊縮政策によって危機を迎え、それに対する批判が提起されるなど、新しい転機が必要な 状況であったため、この時期の日本での修理工事経験蓄積と「国宝保存法」の制定などの外的な 要件の変化による新しい体制への変換が起きたとみることができる。
1)成仏寺極楽殿及び応真殿の修理工事
成仏寺極楽殿及び応真殿の修理工事は「保存令」の制定以後、最初に行われた工事として意義 ある工事である。1933 年から 1937 年にかけて修理が進められた。まず、1933 年に極楽殿の修 理が始められ、1934 年末にはほぼ終了した。1935 年から応真殿の修理に着手し、1937 年に工 事を完了した。
極楽殿工事の現場担当者は奥埜忠雄で、池田宗亀が助手を務めたが、二人とも阪谷良之進の推 薦によるものであった。また、応真殿の担当者は帰国した奥埜を継ぎ、池田が監督を引き受けた。
助手は米田美代治が務めた。その他に、終戦後の韓国歴史的建造物の保存に大きな役割を果たし た林泉
4
が最初に参加した工事でもある。この工事へは、日本の文部技師阪谷良之進が工事の全般的な方針樹立と指導のため渡鮮してい
3 渡邊彰『金山寺観蹟図譜』、1928
4 応真殿修理工事の時、交替部材の古色塗りを担当する人で、当時、開豊観音寺大雄殿修理を担当していた李 漢哲の推薦による参加であった。
る。これは当時日本の修理技術者らとの交流が活発に行われた証拠として考えることができる。
この工事における「現状変更」の内容をまとめると、以下のようになる。
まず、応真殿の修理工事については、破損がひどくて完全解体修理としたが、基礎の一部も規 模を縮小させた。すべての建物の形式手法は従来のものを厳格に踏襲して施行するが、構造上不 完全だと考えられる部分は見掛けに差し支えを与えない範囲内でこれを直し、また不十分である と判断された部分には補強金物を使って構造補強した。また、旧材として再使用が可能である場 合は再使用し、仕方なく差し替える場合は同質の材料を利用して在来のものを模倣製作し、これ らの新規交換材には烙印を押し、補修したことを記録として残したことがわかる。このような修 理方法は現在の修理方法と比べても遜色ないほどに先進的な修理方法が定着していたことがわか る。
極楽殿の場合は 3 間 2 間に母屋全面に 1 間の庇があったが、これを後世の追加として捉え、
撤去した。そしてこの建物の建立年代を初めは朝鮮時代初期と推定したが、後に高麗末期のもの に修正した。この工事の内容はあまり知られていないが、『朝鮮古蹟図譜』に修理前後の写真と 図面が一部収録されている。その他に、佐賀県立名護屋城博物館所蔵の『小川敬吉資料』に「成 仏寺極楽殿修理工事工程表」があったため、ここに初めて紹介する(図 2 − 4)。
2)修徳寺大雄殿修理工事
修徳寺大雄殿は 1935 年に宝物に指定され、1937 年から 1940 年まで解体修理が実施された。
修徳寺大雄殿修理工事の監督は小川敬吉で、現場主任は池田宗亀が務めた。そして画工として林 泉が参加して大雄殿壁画の摸写を担当した。
修理工事の内容については杉山信三と林泉の記録により一部内容が知られていた。近年に入っ て公開された京都大学と佐賀県立名護屋城博物館所蔵の『小川敬吉資料』に修徳寺大雄殿工事関 連の記録が大量にあり、その詳細内容を把握することも可能となってきた。その詳細内容につい ては本論第 4 章で考察するため、ここでは修理の簡単な紹介に留めておく。
修理方針としては破損のひどい部材は差し替え、また後世に変更された部分を調査し、最大限 に最初の姿に復原する方向をとった。その主な変更箇所としては、建具の変更、 破風板の撤去、
柱の根継の取り替えなどを挙げることができる。図 2 − 5 は、修理前と修理後の写真である。
3)清平寺極楽殿及び廻転門修理工事
清平寺極楽殿及び廻転門の修理工事は 1936 年に着手した。工事監督は杉山信三で、現場主任
図2−4 成仏寺極楽殿修理工事工程表
図 2 − 5 修徳寺大雄殿の修理前(上)と修理後(下)
は板谷定一であった。
清平寺修理工事の際の現状変更内容は、当時黒板勝美古蹟諮問委員に諮問を頼むために送った
「現状変更理由書」が残っており、その内容を把握することができる
5
。それによると、以下のよ うな現状変更が行われた。① 垂木の長さの変更で、軒の深さを深くした。
5 杉山信三『韓国の中世建築』、相模書房、1984
② 建具の復元
③ 地覆の復元
④ 須弥壇の復元
⑤ 虹梁下の補強のための部材の撤去
2 − 2. 歴史的建造物の調査及び保存修理工事の記録 2 − 2 − 1. 記録の種類とその形態
歴史的建造物の保存修理に伴って収集・作成され資料には、行政文書として作成される申請書 や報告書などのほか、報告書や保存図を作成する元となった一次資料や、修理の方針や施行内容 等の検討に要したものなど様々な資料がある。以下に、その資料を紹介する。
1)調査野帳
実測調査、破損調査、各種技法調査、痕跡調査、類例調査、文書調査、民俗調査、発掘調査な ど保存修理工事に際して行った各種調査の野帳である。図 2 − 6 は、華厳寺調査の際の野帳と思 われ、B4 版ケント紙に鉛筆で描いたものである。図 2 − 7 の配置図は、おそらく図 2 − 6 の右 側の野帳を元に作成されたと思われる。図 2 − 8 は、長安寺四聖殿の実測野帳である。台輪を基 準とし、線の色や種類を変え、部材の位置や寸法の基準について明示しているのが特徴である。
2)写真
修理前現状写真、竣工写真のほか、建物の変遷や復原根拠を示す各種痕跡写真、解体時でなけ れば確認できない継手・仕口などの技術情報を示す写真などがある。図 2 − 9 は、華厳寺覚皇殿 修理工事の竣工写真である。写真の左上には「華厳寺覚皇殿修理落成式記念 / 寺紀 2968. 4.1 日 と記載がある。図 2 − 10 は、修徳寺大雄殿修理工事の際に、現状変更の資料として撮影したと 思われ、解体した柱を写した左側には鉛筆で柱の位置などのメモ書きをしている。
3)図面
各種詳細図や施工図などがある。なお、古代・中世建築を主に修理の際に明らかとなった継手・
仕口の技法を示す図面が保存修理工事の際の標準業務とし作成され、残っている。図 2 − 11 は 修徳寺大雄殿修理工事の際に作成されたと思われる詳細断面図である。平面と併せて作成し、柱 には番付をしており、各部材にも番付をしていることが特徴的で、本論第 4 章で紹介する「修徳 寺大雄殿修理報告」の部材記述にはこの番付を利用していることが判明した。
4)拓本類
木製部材に対しては美濃紙を密着して当てた上から釣鐘墨のような軟質の蝋墨やカーボン紙な
図 2 − 6 華厳寺調査野帳
図 2 − 7 華厳寺配置図
図 2 − 8 長安寺四聖殿
図 2 − 9 華厳寺覚皇殿竣工写真
図 2 − 11 修徳寺大雄殿断面詳細図
図 2 − 10 修徳寺大雄殿修理の現状変更に関する写真
図 2 − 13 修徳寺大雄殿の詳細文様摸写図 図 2 − 12 長安寺四聖殿の瓦の拓本
どで摺る乾拓をおこなっており、修徳寺大雄殿の各部材の拓本が佐賀県立名護屋城博物館所蔵の
『小川敬吉資料』に所収されている。また、拓本類として最も多いのは、瓦の破片から文様把握 のために採ったと思われる拓本である。図 2 − 12 は、長安寺四聖殿の瓦の拓本である。
5)その他
修理の際に収集された古写真・古記録等の資料について所在を明確にする原稿資料が多数残っ ている。また、摸写図が作成されたり、スケッチが行われた。図 2 − 13 は修徳寺大雄殿修理工 事の画工であった林泉が作成した各部材詳細文様の摸写図である。また、図 2 − 14 は小川敬吉 のスケッチで、双獅子燈を描いたものである。非常に精密なスケッチであることがわかる。
2 − 2 − 2. 修理工事報告書について
ここに紹介する工事報告は京都大学所蔵の『小川敬吉資料』に所収されているもので、佐賀県 立名護屋城博物館にも「修徳寺大雄殿修理報告」があったが、それについては本論第 4 章で考察
図 2 − 14 小川敬吉の双獅子石燈スケッチ
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表 2 − 4 「浮石寺保存工事施業功程」の目次及びその内容 することとする。
修理工事報告書の最も早い事例は、1913 年の平壌普通門修理工事に関する報告の『大正二年 度平壌普通門修理紀要』であり、1916 年〜 1919 年の浮石寺無量寿殿及び祖師堂の修理工事に 関する記録が「浮石寺保存工事施業功程」として残っている。この二つの資料は工事監督の木子 智隆によって作成されたものである。表 2 − 3 と表 2 − 4 は、各々の報告書の目次構成である。
『大正二年度平壌普通門修理紀要』の内容は、表 2 − 3 のように大きく文書、実測野帳、図面 及び写真の 4 つの部分で構成され、体系的な構成を整っている。この報告書には詳細な実測野帳 と図面が入っており、実測野帳の内容をみると、現代の実測と比べてもほとんど劣らず、正確に 建物の現況が記録されている。特に、野帳は解体前と解体時の両方とも作成されており、それを 元に詳細な図面が作成されていたことから、当時の実測技術が非常に発達していたことがわかる。
「浮石寺保存工事施業功程」(表 2 − 4)は『大正二年度平壌普通門修理紀要』とその構成内容 においてはあまり差がないが、後者より考証資料が占める比重が高くなっている。
1919 年の金提金山寺修理工事の記録としては『金山寺観跡図譜』という出版物があるが、工 事の概要に関する概略と工事後の写真が主で、工事報告書というより、写真集に近い。
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表 2 − 3 『大正二年度平壌普通門修理紀要』の目次及びその内容
一方、1933 年以降になると、修理工事の概要だけでなく、調査事項などの詳細項目が増える ことがわかる。この時期の修理工事報告として知られているのは「宝物成仏寺応真殿工事調書」
である。図 2 − 15 はその目次構成である。これは『大正二年度平壌普通門修理紀要』や「浮石 寺保存工事施業功程」よりも建物の実測調査の結果を図面だけでなく、その寸法値を忠実に報告 しており、修理工事報告にも学術的な面がかなり重視されたことを意味する。
以上のことをふまえた上で結論づけると、1913 年から 1945 年の修理に至るまで植民地朝鮮 では修理工事報告はその体裁が整っておらず、建物の概要や写真・図面を中心に作成されたもの もあるが、浮石寺や成仏寺応真殿の工事報告は他の報告よりその内容が充実していると言える。
図 2 − 15 宝物成仏寺応真殿工事調書
2 − 3. 小結
植民地朝鮮の修理工事について考察した結果、修理事例から以下のような結論を導いた。
(1) 植民地時代の修理工事は比較的に早い時期から施行され、保存法令の制定とは関係なく着 手されたことがわかる。しかし、1933 年以降になると保存法令の整備も着実に行われ、保存法 令に則った修理工事が実行された。
(2)歴史的建造物の保存のための「現状変更」に関する規定が保存法令上に定められるのは 1933 年の「保存令」制定を待たなければならないが、現状変更は実際の修理では避けることが できないため、制定以前にも「現状変更」が行われていた.、その変更箇所について修理記録な どに触れられている。
(3)修理工事は寺院建築が多く、学術的な調査を伴った修理によって建物の年代判定などが明 らかとなった。
(4)木造建築における基壇部の補強にコンクリートが使われており、新しい材料に対する批判 や検討なく使われていた傾向がある。
また、ここに紹介した工事関連記録の多くは『小川敬吉資料』に所収されているもので、その 中には修理工事報告に当たるものが幾つかあり、その構成内容についても考察を行った。修理工 事報告書の最も早い事例は、1913 年の平壌普通門修理工事に関する報告の『大正 2 年度平壌普 通門修理紀要』であり、1916 年〜 1919 年の浮石寺無量寿殿及び祖師堂の修理工事に関する記 録が「浮石寺保存工事施業功程」として残っていることが判明した。この二つの資料は工事監督 の木子智隆によって作成されたものである。1919 年の金提金山寺修理工事の記録としては『金 山寺観跡図譜』という出版物があるが、工事の概要に関する概略と工事後の写真が主で、工事報 告書というより、写真集に近い。一方、1933 年以降になると、修理工事の概要だけでなく、調 査事項などの詳細項目が増えることがわかる。この時期の修理工事報告として知られているのは
「宝物成仏寺応真殿工事調書」である。以上のことをふまえた上で結論づけると、1913 年から 1945 年の修理に至るまで植民地朝鮮では修理工事報告はその体裁が整っておらず、建物の概要 や写真・図面を中心に作成されたものもあるが、浮石寺や成仏寺応真殿の工事報告は他の報告よ りその内容が充実していることがわかる。