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補章 石材の再々利用

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Academic year: 2022

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(1)補章 石材の再々利用 第 1 節 はじめに 本論文はカエムワセトの石造建造物を、建築様式、設計技術、施工技術の 3 点から考察 したものであり、言い換えれば建造物が企画され、建設作業が終了するまでの一連の建築 活動を描いたものである。それに対し、建築作業が終了し、この建造物がどのように使わ れ、そしていつ活動が停止し、廃棄された「遺跡」へと変貌するのか、という点もまた、 興味深いテーマであるが、本論文では取り扱わなかった。 一つにはこの遺構の性格がはっきりせず、使われ方や機能を推し量るためには、壁面レ リーフや出土遺物などの総合的な分析が必要であり、筆者の力量を大きく越えていること が挙げられる。また、未完成の状態で作業が終了していたことも、この分析を妨げる要因 の一つとして挙げることができる。 発掘調査で出土した石材は、この建造物のために当初用意された石材よりも明らかに明 らかに数が少なく、大部分は持ち去られたことを示していた。建材の再利用は古代エジプ トにおいて広く行われ、当石造建造物でも周囲の古建築から石材のほぼ全てを調達したこ とを先に示した(第 3 編第 4 章) 。つまり、同様の石材採取が、今度はこの遺跡を舞台とし て繰り広げられたことが理解できる。 発掘調査の過程では、 石材を採取する際、 その搬送路と考えられる石敷列が発見された。 また、当石造建造物のポルティコから搬送されたと考えられる石材が、サッカーラの南に 作られた修道院址から発見された。 これらは石造建造物が放棄された後の活動であり、建造作業までを範囲とした本論文か らは外れるが、石造建造物を包括的に評価するうえで重要な痕跡と考え、補章として記す ことにした。. 第 2 節 配石遺構 石造建造物の北方、丘陵頂部の北に走る涸れ谷から石灰岩ブロックを一列に敷き詰めた 遺構が出土した。石列は、石造建造物の北壁中央から、北に約 8m 離れた場所から、外壁に 直交する方向に延びていた。配石遺構と名付けられたこの遺構は、石材が失われている箇 所が途中に見られたが、約 25mの長さを確認することができた。 配石遺構が位置する涸れ谷の西側には地山をマウンド状に削った日乾煉瓦遺構が位置し、. 167.

(2) この涸れ谷には、黄色の細かい砂が厚く堆積していた。 、石列の上面はほぼ水平に推移して いたが、それが載る層は、石列の南側と北側で異なり、南側が、涸れ谷に堆積した黄色砂 層の上に直接敷かれていたのに対し、北側では地山に一部載る形で据えられていた。 用いられた石材は、石造建造物を構成していた石灰岩ブロックと考えられ、主として矩 形の棒状をした石材が、長手を横にして並べられていた。また、小型の石材も多用され、 隙間を小片で詰めながら、連続した石材面を作りだそうとしていた。 これらの石材が据えられた時期を直接示す遺物は認められなかったため、詳しい時期は 不明である。しかし、石造建造物の造営時には、谷に砂の堆積はほとんどなかったと考え られ、その後、砂が風に運ばれて厚く堆積する時間が経過した後の活動であることは確実 である。その意味で、石造建造物が放棄された後に敷かれた遺構と見なしてよい。. 図 4‑1‑1:配石遺構平面図. 配石遺構を観察すると、上面には石列の方向に沿って、擦った痕が幾筋もの線となって 残されていた。また石材の南北両上角を見ると、南側は角が削れて丸くなり、そこに線状 の擦痕が付いていたのに対し、北側では石材の角はそのまま残されていた。こうした痕跡 は一つの石材ではなく、複数の石材で同じように認められたことから、石材が据えられた 後に付いた痕跡と判断された。線状の擦痕は石列の上を何かが引きずった結果生じた痕と 考えられ、また石材の上を南側から北側に向かって移動した結果、それが石材の角にぶつ かり、南角だけが欠け落ちて、摩耗したような痕になったと推測される。. 168.

(3) 図 4‑1‑2:石材上面の擦痕. 石材の上を繰り返し引きずられた「何か」としてもっとも有力な候補が、石造建造物の 石材であろう。すなわち石材の搬出を目的として並べられた遺構の可能性が挙げられる。 配石遺構に用いられた石材を改めて見ると、形状の整った石材や大型の石材が少なく、 小型の石材や複雑な加工が施された棒状の石材などが多く使われていた。配石遺構の周囲 からは、ブロック状の石材が散乱しており、こうした石材が入手できなかったわけではな い。つまり、意識的にこうした石材が選ばれたと考えられ、その基準は再利用に不向きな 形状であったと推察される。すなわち、この遺構が石材の再利用に関連した施設であった という解釈に、矛盾しない説明といえよう。 このように配石遺構は、石造建造物の石材を搬出しようと試みた際、北側の涸れ谷に砂 が厚く堆積し、移動が困難であったため、不要な石材を敷き並べて作った搬送路であった と考えられる。 この仮説に従えば、石材は丘陵の北側に搬送されたことになる。この方角にはアブ・シ ールのピラミッド群が位置し、 近くには末期王朝時代の大型縦穴墓が複数造営されている。 現在、当該丘陵の石材が使われたことを示す報告はないが、今後、こうした地域から当石 造建造物の石材が発見されることが期待され、それによって、石材搬出の時期が特定され ることが望まれる。. 169.

(4) 第 3 節 エレミア修道院址東地区 ウニス王のピラミッド複合体の河岸神殿は、当丘陵の南東に位置する。この河岸神殿か らピラミッドに延びる参道の南側から、当石造建造物のポルティコから運ばれたと考えら れる石材が見つかった。参道は谷に作られており、両側は高台となっている。参道のうち、 河岸神殿近くの部分は、十分な調査がなされておらず、現在、参道の両側は崖状の斜面と なり、大量の土砂が斜面を覆っている。. 図 4‑1‑3:ウニス王参道南側から発見されたカエムワセトの石材. 南側の高台にはコプト時代にエレミア修道院が作られ、この修道院には付近の遺跡の石 材が多数再利用されたことが分かっている1。石材が見つかったのは、河岸神殿から参道を 150m ほど登った南側の斜面で、斜面の上はエレミア修道院の東側にあたる。 石材は、斜面に沿って狭い範囲で散乱し、明らかに斜面の上から崩落した状況を示して いた。斜面の上には花崗岩の柱礎石が原位置で残され、その下には基礎の石灰岩ブロック が何段も積まれていた。おそらくこの場所は斜面に一部迫り出していたと推測され、その ため石材を積んで高さ調整を行ったと考えられる。 斜面に沿って崩落していた石灰岩ブロックのなかに、柱材が 11 点含まれていた。原位置 で残された花崗岩柱礎石は上面の直径が約 79cm で、 一方これらの柱材も直径はほぼ同じ程 度の大きさに見積もられた。そのため、これらの柱材は、この柱礎石の上に据えられてい 1. Quibell, J. E., Excavation at Saqqara (1908‑9, 1909‑10) The Monastery of Apa Jeremias, 1912, Le Caire.. 170.

(5) た柱とは考え難く、 むしろ基礎として詰められていた石材であった可能性が高い。 柱材は、 六弁形断面の柱の半分を構成し、その形状から積み上げ式のロータス柱の断片であったと 判断された。また各段を構成する二つを柱材を連結するためのクランプ溝も確認され、接 着面には傾斜した風食面が使われていた。 第 1 編第 4 章で触れたように、ロータス柱の実例は極めて少なく、積み上げ式を採るロ ータス柱は当該ポルティコ以外に知られていないこと、その規模やクランプの大きさがポ ルティコの柱と一致していること、さらに接着面に風化傾斜面が使われていることから考 え、ポルティコから搬送された石材と結論付けられた。 この他、レリーフの刻まれた石材も複数確認された。このうち 1 点は花崗岩柱礎石の基 礎石として積み重ねられ、人物像の一部が陽刻で表現されていた。類似した風合いのレリ ーフブロックが他にも 1 点認められ、同様に人物像の一部であった。銘文がないため、断 定することはできないが、これらを観察した考古班によれば、ポルティコ側壁のレリーフ と類似した様式、技法であるとのことであった。また、ポルティコの背壁に備えられてい た細かなニッチ装飾と同じ装飾が施された石材が斜面の下から 2 点見つかった。凹凸の幅 や深さも一致し、その横に刻まれた沈め浮き彫りの銘文も、大きさや技法の点で酷似して いた。この装飾は類を見ないものであり、柱材の傾向を勘案すれば、ポルティコから共に 搬送された可能性が極めて高い。 このように発見された石材はポルティコに使われていた石材の可能性が高く、斜面の上 に作られていた建物に再利用されたと考えられる。柱材ではその高さが半分ほどの割られ ている場合が見られたものの、搬送先で大きな改変を受けていないことは、これらの石材 が基礎や壁の詰め石に用いられたことを示しているといえよう。 丘陵からこの地点までは直線距離でも 2.5 キロを越える。その間にはジョセル王の階段 ピラミッドやマスタバ墓など石造建造物が数多く立地している。そのため基礎や壁の詰め 石のために、丘陵から搬送してきたとは考えがたく、これら以外にも多数の石材がポルテ ィコから持ち去られ、使用されたと見なすのが自然であろう。むしろ、柱材や凹凸のレリ ーフブロックは、その特異な形状のために、再利用には適さず、基礎や詰め物に使われた 結果、当初の形状を保って発見された、と考えるべきであろう。 カエムワセトの石材が搬入された理由として、この石材に特別な意味、すなわちカエム ワセトの石材であることを意識して運び込まれた可能性が挙げられようが、現時点では積 極的にこれを示す資料は得られていない。. 171.

(6) 確かに周囲にはピラミッドやマスタバなど数多くの石造遺跡が存在し、わざわざ遠くの 遺跡から搬入する必要はないように感じられる。しかし、例えば新王国時代の墳墓は古王 国時代のマスタバの上に造営されており、その当時、古王国時代の建造物はかなりの部分 が砂に埋もれていた可能性も低くない。石材の収奪がなされたのは更に時代下っているこ とを考えると、利用できたマスタバの数は限られてこよう。またピラミッドは確かに石の 塊であり、露出していたはずであるが、表装の良質な石材はすでに失われ、残存していた のは在地の石灰岩で作られた内部の核の石積みであったと推測される。必要とされていた のは、表装を覆っていた良質の石灰岩であり、カエムワセトの建造物でも、こうした表装 石を採取し再利用していた。すなわち、手近な遺跡で使われた良質の石材はすでに採取済 みであり、更に不足分をカエムワセトの遺跡まで取りに行った可能性が考えられよう。つ まり、あくまでも石材に注がれる視線は物質としての石であり、カエムワセトが使ってい た石といった象徴的な意味は込められていなかったと解釈するのが蓋然性が高いと考える。 エレミア修道院を発掘したキベルの調査にはこの部分は含まれておらず、花崗岩礎石が どの年代に属するのかは現時点では不明である。ポルティコが崩壊した後の状態を示す資 料であり、また石材から見れば三カ所目にあたる再々利用の実例として興味深く、詳しい 調査が望まれる。. 第 4 節 小結 本章では、石造建造物が廃棄された後、その石材が再び利用されたことを述べた。石造 建造物の北方から出土した配石遺構は石材搬送用に準備された施設であり、アブ・シール ピラミッド地区付近に搬送されたと考えられた。また、ウニス王の参道南では、ポルティ コの石材が多数発見され、この場所の建造物に再利用されたことを示した。 カエムワセトもまた、周囲の古建造物から石材を再利用しており、いわば石材が再々利 用された事例として興味深い資料といえよう。. 172.

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