学位請求論文審査報告書
題名:国連による経済制裁と人道上の諸問題:「スマート・サンクション」の模索
UN Sanctions and Their Humanitarian Issues: Searching for “Smart Sanctions”
提出者:早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程 本多美樹
1 本論文の趣旨
本論文は、国連が創設以来担っている集団的安全保障機能のうち、非軍事的な制裁措置、とり わけ経済的制裁措置に関して、それが国際社会の脅威に対処するうえで果たしてきた意義と問 題点を論じた後、湾岸戦争期以降における対イラク経済制裁の経験が大きな転機となって本格 的に導入され始めた対象限定的な経済制裁(いわゆるスマート・サンクション)の考え方とその実 践的適用を整理、分析し、今後の可能性と課題を展望したものである。
2 本論文の構成
本論文の構成は以下の通りである(本文221頁、それ以外に参考資料添付)。
緒論
第1節 問題の所在 第2節 本論の目的と意義 第3節 従来の研究 第4節 本論の構成
第1部 国連による経済制裁と人道上の問題 はじめに
第1章 経済制裁の重要性と期待される役割 第1節 国連経済制裁の成り立ちと特徴
第2節 制裁措置として選ばれる積極的理由:軍事的措置との対比において 第3節 制裁措置として選ばれる積極的理由:他の非軍事的措置と比較して 第4節 経済制裁に含まれる多様な手段
第5節 制裁の効果を左右する要因と「実効性」
小括
第2章 国連経済制裁が抱える諸問題 第1節 決定・発動に際しての諸問題
第2節 履行に際しての諸問題:制裁委員会の機能を中心に 第3節 制裁の副次的影響:一般市民の権利を中心に 小括
おわりに
第2部 経済制裁と「人道的例外措置」:対イラク経済制裁(1990年8月6日~2003年5月22 日)
はじめに
第3章 「人道的例外措置」の実施過程とメカニズム 第1節 対イラク制裁決議採択から解除まで
第2節 人道的例外措置の具体化:「石油と食糧交換プログラム」
第3節 人道的例外措置の見直し:英米による制裁改訂案 小括
第4章 「人道的例外措置」への評価
第1節 措置導入後の経済状況と人道状況 第2節 人道的例外措置への評価
小括 おわりに
第3部 国連経済制裁の再考:「スマート・サンクション」の模索 はじめに
第5章 人道上の問題へのアプローチ:倫理的視点からの分析 第1節 制裁研究への新しい視点:倫理分析の必要性 第2節 「正戦論」の限界と新たな流れ
小括
第6章 「スマート・サンクション」の模索:政策提言へ
第1節 「効果のある」制裁措置を目指して:1990年代の事例から 第2節 「スマート・サンクション」を意識して発動された制裁 第3節 「スマート・サンクション」具体化への議論
第4節 「スマート・サンクション」が導入された事例 小括
おわりに
結論 国連経済制裁の道義性と実効性
【参考文献】
【添付資料】
あとがき
3 本論文の概要
緒論は問題点の所在と本論文の目的、意義、そして先行研究の整理を行った部分である。国 連の集団的安全保障機能のうち、軍事的制裁措置が政治的、手続き的に実施困難な現状に鑑 みて、非軍事的措置、とりわけ経済的制裁措置が重要な意義と役割を有していること、特に冷戦 体制崩壊以降、国連による経済制裁が頻繁に実施されるようになっていること、また実際の適用 を通じて様々な問題点が浮き彫りとなり、最近になって経済制裁の運用に関する新たな模索が 本格化していることなどを指摘し、本論文の意義を説得的に提示している。
第 1 部では、国連による経済的制裁措置の重要性と期待される役割について、軍事的制裁措 置や他の非軍事的制裁措置と対比してその特徴を概観し、経済制裁において適用される様々な 手段を紹介した後、同措置が抱える問題点を、その実効性や効率性に関わる側面と人道性に関 わる側面から詳しく分析している。論者がとりわけ着目するのは、後者の人道的側面に関わる問 題点であり、包括的な経済的制裁措置が国際平和・秩序を破壊する当事者のみではなく、無辜 の市民をも巻き添えにすること、しかも往々にして市民、それも社会的弱者に過重な苦難が皺寄 せされがちなことである。
第 2 部では、従来の包括型の国連経済制裁を見直す大きな転機となった対イラク経済制裁に 関して、1990年から2003年までの13年間にわたる制裁の全期間を通じて発された膨大な国連
安保理決議文書などを丹念に読み込みつつ、そこで浮き彫りにされた問題点と、経済制裁に包 含される矛盾に対処するための試みとして導入された「人道的例外措置」の経緯を詳述している。
対イラク経済制裁は、冷戦体制崩壊以降になされた最初の本格的な経済制裁であったという事 実に加えて、13 年間にわたる長期性、通商禁止項目における徹底性などにおいて国連史上最 初のものであり、また「人道的例外措置」としての意義を持つ「石油と食糧交換プログラム」を実施 したという意味でも、それ以後の国際社会における、より人道的な経済制裁の模索に、大きな影 響を及ぼした。
第 3 部においては、国連経済制裁のあり方を再検討し模索する最近の国際社会における動 向を整理している。理論面では、国際法学者などによって展開されてきた従来からの「正戦論」
の系譜との対比をも含めて、倫理的な側面からのアプローチの重要性を指摘しつつ、実態的な 側面としては、国連の内外で展開されている経済的制裁措置に関する新たな論議の動向、そし て最近の国連経済制裁の実施における新たな模索(スマート・サンクション的制裁)の適用例な どを詳細に検討している。
結論として論者が指摘しているのは、国連による集団的安全保障機能における経済的制裁措 置の有効性と意義を評価しつつも、それが抱える矛盾点を克服し、道義的、人道的な側面に最 大限配慮すべきであり、その前提の上に真に有効な措置とするための不断の努力が今後も必要 であり、そのような課題は、現在論議されている国連全体の改革問題とも無縁ではないということ である。
4 本論文の評価
本論文は、国連経済制裁に関わる諸事象と現時点での問題点を、多角的、包括的に論じたも のとして、高く評価できる。国際法学、国際政治学、国際政治・経済学など様々な観点からなされ てきた欧米や日本における既存の研究や論評を踏まえつつ、関連する膨大な一次資料を丹念 に読み込み、体系的な議論を展開することに成功している。
また、諸文献から抽出された多彩、多様な経済制裁の諸事例を図表化するなど、独自の工夫も 随所になされており、問題点の整理として貴重である。
本論文の最大の意義は、国連による経済的制裁措置が往々にして国際政治におけるパワーゲ ームの視点で論じられたり、実施過程における費用対効果といった視点で論じられたりしがちな
傾向があるのに対して、道義的、人道的な側面からのアプローチを重視する立場に立つ既存の 研究を継承しつつ、それをさらに発展、深化させることを試みている点にある。
とりわけ第 3 部第 5 章では、軍事使用の目的や手段の正当性に関して展開されてきた「正戦 論」的な分析視角を、経済制裁の倫理的側面に関わる検証に適用することを試み、既存の研究 を継承しつつ発展させることを試みている。
本論文の今ひとつの意義は、1990 年代初頭から発動された対イラク経済制裁に関する包括的 な考察を、第2部第3章、第4章で展開していることである。対イラク制裁の発動から終了に至る 13 年間に出された国連安保理決議文書や関連報告書など膨大な資料から、同制裁の経緯、倫 理的側面から見ての影響などを考察し、人道的例外措置として導入された「石油と食糧交換プロ グラム」の経緯や問題点に関して分析している。上述の通り、対イラク経済制裁は、冷戦終結直 後に国連が関与した最も大がかりな制裁の一つであり、その実施期間も長期に及び、また人道 的見地に配慮する措置が工夫され、実施された事例としても重要である。その意味で、国連経済 制裁に関する国内社会の潮流や議論を考察する際に、対イラク経済制裁は単なる 1 事例という 意義を越えて、きわめて重要な転換点を画すものであったといえる。そのことに論者が注目し、
詳細な分析を加えていることは高く評価できる。
本論文の第3の意義は、第3 部において、国連によって発動された最近の制裁の諸事例をス マート・サンクションの視点から整理、分析したこと、またスマート・サンクションをめぐって国際社 会で展開されている新たな動きを、金融制裁措置について議論した「インターラーケン・プロセ ス」、武器禁輸および渡航に関する措置について議論した「ボン⁃ベルリン・プロセス」、制裁の履 行と監視について議論した「ストックホルム・プロセス」を中心に体系的に跡付けた点である。これ らも、従来本格的に研究されることの少なかった諸分野であり、論者の努力は特筆に価する。
結論として、制裁を効果的に実施したいが、またそれに付随して不可避的に発生する悪影響を 極力軽減、回避したいという、経済制裁が抱えている本質的なジレンマ問題に、本論文は果敢に 立ち向かい、種々の視点や立場からなされた議論を踏まえつつ、また一次資料に基づく事例分 析を加えることによって、国連による経済制裁に関する多角的で立体的な分析を行うことに成功 していると評価できる。
関係者へのインタビューがなされていないこと、またとりわけイラク経済制裁に関しては、マスコ ミ報道など「生きた情報」をもっと取り込むべきであったこと、論文の中で同じ文章表現や議論が しばしば繰り返されていること、議論の展開に荒削りなところがあり、更なる工夫が必要なことなど、
幾つかの問題点はあるものの、それらは本論文の本質的な価値を否定するものではない。
以上により、本論文を博士号に値する論文と判断する。
2006年6月5日
論文審査委員会
主査 早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授・博士(学術) 白石昌也 副査 早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授・博士(国際関係学) 西川潤 同 早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授 川村亨夫 同 敬愛大学国際学部教授 庄司真理子