身延の御覧蹟に就て
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身延賓識の御異蹟に就て調査したいと思ふが、か、、る乙とは宗教の貨際から見れば、或は無用の閑 事であるかも知れ向。併し宗門其のものは大事人の生きた六十年の歴史ご、その法身の合利たる御遺 文を外にしては、恐ら︿存在しないのでゐらう o 故に今日に於て大事人を知る唯一の資料は、御遺文 を除いて何物もないのである。依て御遺文の研究は聖人の宗教に於ける第一資料である。 今先づ御真蹟と御遺文との同異を定めて、本問題に入b
た い ご 思 ム 。 一体御異践といへば大聖人御 手づから執筆せられたる、所謂御異筆をも意味するのであるが、併し通例御真筆といへば本隼即ち曇 茶維を意味し、御異蹟といへば御遺文を意味する様である。若し厳密にいへば、御本命でも御遺文で も、大事人の御執筆に閲する限 b 共に御真筆であり御真蹟でゐる。故に党づそれを分類する心要があ る。これに就℃は肢に中山の常砧二師が、御異防御真筆の目録を﹁本骨骨聖敢緑﹂と呼べる如く、先づ 身 廷 の 御 回 目 一 一 蹴 に 就 て身 延 の 御 時 間 続 に 就 て 御異民 e伊 三 分 し て 御 本 命 と 御 主 一 敬 と に n T つのが趨官である。前者は伝仰の到象であ b 、後者はその説 明書である。且つ前者に就ても更に佐前佐後、民式略式、建治弘安、再治未再治等の分類はあるが、 就れにしても御本軍は御本館で、形式に多少の相違がゐつ℃も、行者の信念の封照・こしては、高下伎 劣を論ずべき限りでない。御本軍は且らく置いて A 1 御担一一致仁就℃、中山の二師の目録に見ても、所謂 御聖教の中に於て、御書、御消息、宗要、相博、章疏、大綱、要文等の砂類はあるが、御事品川に於℃ も大体それを御遺文と御書寓三に二分するが趨嘗である。印ち左記の分類の中御許と御消息とは前者 に 時 間 ・ 9 、宗要、相停、章疏、大綱、要文等は総て後者に属するものである。且つ前者は又これを御辿 作と御消息と仁亦も、後者は乙れを二亦して、宗要、相博、章疏等を御寝本ごいひ、犬綱、要文等を 総じて要文といムペ
3
であらう。而して今の研究は専ら前者の御遺文部も御書と御消息の御異民仁闘 し て で あ る 。 此の研究の封照之しては縮刷を始めとして、膏録内銭外、縞集、他受用等刊お諸本の原本たる、御 異蹟そのもの、研究であるが、併し乍ら門下に於て秘離せられた御異蹟も、肢に六百鈴年の歳月を粍 て、縮刷に就て見τ
も︿大正九年重版、四百九十四篇︶御鼻、踏の現存するものは、僅かに七八十箭で 杢御遺文の一割五分に満たぬのである。其他は都て散逸酬明滅に蹄したのでゐる。・城中その中の大なるるのが身延賓戒のそれである。 而して今の研究は貨に御遺文針御異政の研究であるが、これに就ては肢に近年に在ては、明治三十 五年縮刷刊行の時以来、稲田師等に依℃粗ぽ完成せられたのである。併し更に今体に亘つての編年の 営否、その他内容の種々の点に就℃研究を完成して、始めて御遺文研究の完成を期すぺ主であるが、 既に六百五十年後の今日、殆
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ど完段に近い縮刷そ見て、 一度此方面に手を染めた誰でも、各時代に 於付る先塾の努力の後を追想せぎるを科ねのである。以下身延賓臓の御異踏に就て、研究の一坊を述 ぺ ℃ 見 ゃ う 。 我等は前項に於℃御遺文なるちの、立味を強め限定したが、若し御遺文を以て前越の如︿、御脊又 は御連作三御消息とにするにもせよ、由米大事人の御遺文に於℃、御述作と御消息とを n T 別すること は極めて困難の事であり、恐らくは般密に券類し得ねのである。併し乍ら御泣文を以て御述作と御消 息とに限定した以上、此の標準を以℃現行の縮刷等を見るならば、御泣文としてはその中よb
克に削 除すぺきものは二三に留まらないのである。今その質例を血中ぐるならば、各積の﹁一代五時間﹂の類、 身延山御由民蹴に就て身廷の御由民政に就て 四 ﹁ 三 八 敬 ﹂ 一 三 七 、 ﹁ 三 種 数 相 ﹂ 一 四 閥 、 ﹁ 今 此 三 界 合 文 ー 一 三 九 九 、 ﹁ 後 五 百 歳 合 文 ﹂ 四 O 円﹁日本異言宗事﹂ 四 O 七、等の類は、強いて御連作吉見られぬではないが、恐らくは要文として御泣丈からは且らく除︿ べきであらう。以下大体如上の目安に随って、身延賓識にあった御真蹟について述べて見たいと岡山
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身延賀臓が珍曲減した御真蹟に就ては、御本軍並に御聖教に亘って、随分保山あったのであるが、明 治八年の大火に文字通b
煙滅に蹄したのである。その折りの届出に依れば﹁御本隼二十五幅、御消息 十 六 幅 、 巻 物 御 消 息 等 九 十 六 幅 、 綴 各 三 十 六 珊 、 御 軽 八 港 ’ 一 明 治 八 年 焼 失 川 で、御本命ご御経以外は全部 が御塾教で、五六十章もあったのである。 然らば今日何に依て之を知るか止いふに、第十一代の行息朝師以来乾二一代建二二代築二八代蓮二九代 亭三三代の各先師の﹁霊賓目録﹂が乙れを博へる外、文化五年撃滅五二六に居士深見要言に依て出版せら れ た る 所 謂 要 言 版 御 書 ︵ 杢 十 四 巻 。 安 一 閥 抗 刷 、 興 古 空 昔 、 安 凶 論 由 来 、 安 山 堅 調 − 奥 書 、 小 志 望 耐 庚 本 . 一 巻 。 開 目 紗 四 巻 、 撰 時 紗 四 巻 、 望 感 一 紗 、 会 主 仇 四 君 、 本 傘 妙 、 会 副 紋 一審︶の﹁関目録﹂の最後の在尾に ﹁ 身 延 山 秘 蔵 以 一 一 御直筆御書\ 一 宇 一 点 無 一 一 相 違 一 令 一 一 再 技 人 口 一 者 也 ﹂ と 身 延 賓 蔵 の 御 異 蹟 ご 校 合 五 三 舟 一 日 泰 代 の 事 を 遮 ぺ 、 更にその附録芭して﹁身延山蔵書目録﹂を掲げて居るが、これが烏有前の身延の御異蹟を惇ムる最後要言版身延山蔵書目録 乾削目録御員蹴紙数 の記録である。最古の朝師の目録は現存せぬ故に、今便宜上乾目縮舟を合はせて示せば、 開目紗 報恩紗 表表所々欠損 守護園家論 立正安岡論 百 円 治 本 撰時捗 上 容 新 橋 品 貯 法 華 取 要 秒 一 御 草 案 ︵ 党 本 ・ 甲 山 ︶ 中間欠損 佐 渡 御 勘 集 録 足 下 妙 、 御 一 仮 ・ 舞 抄 未 四 保 金 吾 殿 御 書 怨 一 嫉 大 陣 所 破 事 所々欠観 新膿妙奥前前一瞬一秒女人往生紗 遊日以来 種々御振舞書 崇峻天皇御書 初丁不足 身延の御良踏に就て 縮刷所在 六 五 七四七? 五 一 四 六 六 一 八 b T 二 二
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三 七 三 五 一 一 八 九 ? { 〉 八九四一
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五身延の御反政に就て 原誘法紗 同 御 草 案 荏目以来 法蓮紗 太 田 雄 門 御 幸 一 日 御 草 案 超円以来 光日房御書 額悌未来記 諌暁八幡紗 所々不足 阿捕陀堂法印析雨事 初 不 日 ι 四健全吾樫迦備供養事 名 側 一 切 以 全女房搾迎怖供養事 雨前二乗菩薩不作備事
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王合域事 法円以来 四保金吾殿御書 強仁妹御草案 方便品事量品長行 八九行並添欣一紙 波木井殿御書 法円以来 型密房御書 一紙不込 御消息 日本働法惇来次第事 初十紙表裏共 漢土日域侍法事 遺日以来 一 代 五 時 国 1 j ’ 到 J ず f r p
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御葬遺・次第記裏昭郎奥山狩四人御一例 池岡本副知守口位折紙 新尼御前御返事 泣日以来 以 一 察 万 紗 取 一 票 日 御 h 卒業中間? 天詩型地天瑞相御書 身延の御反防に就て?
一 一 四 五 九 一 六 九 五 一 六 九 八 一 三 三 四 無 ? 二 一O
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妙心尼御返事 四 字 一 七 六 七 光日房御返事 初了不足一
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大師講番帳 諸宗折伏御書 遠目以来 ? 事密房御書 四 績九九 以上四十八遁であるが、其の中﹁御葬遺失第記﹂は池田本畳寺閉山中老日位の筆であり、叉﹁大師 議番帳﹂は若し事筆としても、二書共に御泣文でないから部会四十六遁である。 その中﹁取要﹂﹁顕 誘法﹂﹁太田﹂﹁治病﹂﹁強仁﹂﹁以一察寓紗﹂の六筋は共に御草案である口 且つ﹁頴誘法紗﹂巳外の ﹁取要﹂﹁太田﹂﹁治病﹂の三篇は中山に御正本が整束して現存し、 ﹁強仁扶﹂も京都妙頴寺に正本が九 紙現存一三三六する故に、若し御正本を以てすれば、四十一過ごなるのである。更に此の中に於て現存 の御遺文に封照すれば、 ﹁方便蓄量長行﹂﹁日本働法次第﹂﹁御消息﹂﹁漢地 H 域惇法事﹂﹁諸宗折伏御書﹂後の﹁新尼御返事﹂の六遁は、 現存しない故に他の断片やら何やら不明である。故仁右四十八通 中現存遺文中明確なるは三十通内外である o これに依て身延に於ける最後の御真蹟の般態を知る乙と が 出 来 る 。 更に湖つ℃身延に於げる行皐朝師聖滅二一八以来遠泊亨師取古川四三 O に至る、二百年間に於げる六目 録に就て見るに、身延歴代中古来朝立停、重乾遠、脱省亨の各時代は、熟れも中興三師を以て呼ばる 、加︿、今の﹁霊賓目録﹂がまたその事買を明か仁裏書するものである。即も御真蹟の上に就ては、 三時代は次の如く初二は蒐集時代、最後は保存時代である。若し御泣文から見れば初は正しく蒐集時 代、第二は刊行時代、第三は流布時代三もいふ。へきであらう。 先づ行事朝師の﹁霊賓目録﹂に就
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は、既に正本を逸して居る故に、今は﹁身延山史﹂六八に依る外 はないが、身延に於ける目録も内容に就ては中山と同じく、先づ本寧・次が車教の順序になって居る。 故に今の朝師目録もその中御遺文としては、無名の五立と共に三十六市を列ねて居るが、惜い哉執筆 の年代を逸して居るのである。故に若しその年代を定めるならば、朝師入山究院二年と入滅明機九年’どの 身延の御良蹟に就て 九身廷の御覧践に就て 二 O 中問、印ち御在山四十年の中間、相ぽ二十年の文明十二年翠一減一九八頃のものとする外ない。此の目録 中 特 に 注 意 す ぺ 主 は 、 ﹁ 庵 室 修 復 書 ﹂ 一 六 五 七 で 、 こ れ は 第 四 箱 自 の ﹁ 御 消 息 四 祇 御 文 、 去 文 永 十 一 年 六 月 十 七 日 合廿一行﹂とあるもので、若し朝師の﹁元組化導記﹂に依れば 此御文章御消息、日朝不慮戚得、大坊奉二納之一畢、金書問 L ﹂ゐる如く、文明十年朝師五十七議片隈津行商学院、帥も今の賛林坊へ御隠棲の頃戚得して、身延の賓 戒へ納められたものである。 斯の如く朝師は一方異蹟を蒐集すると共に、他方泣文蒐集に殆んど杢力を注がれたのである。故に 現に身延文庫に珍戒するもの、録内五十四舟現二 O 冊百二通、録内柿闘十五冊現六冊三十六通。銭外三 十 四 珊 現 一
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日通、郎ち内外合して二百三十八通の御泣文を、手づから筆録蒐集せられて居る。加之 日疋等の中自ら註蒋したる﹁朝師見聞﹂は、賞に五大部外二十一章四十四巻ハ宗会見聞第一きに及んで居 る。印も後世所謂銭内外の殆んど全部が朝師に依て蒐集せられたのである。且つ後世録外の内に編入 ︵ 外 五 四 O ︶せられたる、朝師戚得の﹁庵室修復﹂は A 1 の銭外中に見嘗らぬが、これ御遺文編輯に闘す る一資料である。若し朝師の遺文蒐集に闘する問題は叉改めて越ぶることにする。 次で約百年後に嘗る乾遠二師の目録であるが、 乙れ身延の﹁霊賓目録﹂の第二期といふぺ主ものであ る o 先づ第廿一代寂照乾師の﹁霊賓目録﹂に就
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見る仁、現存する身延の霊・賀目録の正本としては 最古のものである。その内題じ﹁身延山久遠寺御霊賓記録、慶長八年突州十月十五日、1
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包甲一と 1 4 阜 斗 イ 主 ﹄ L ある如く、事減三百廿一年朝師の寂後二百年後のものでゐる。これも矢張本命と翠殺との順に記され ℃居るが、就中今はその御遺文のみに就て見るならば、敢に於ては五十三章、御異蹟の紙載に於℃約 六百八十四枚である。之を朝師の三十六章に劃すれば十七章の増加を見るが、紙数に於ては朝師の目 録は﹁報恩紗﹂ ﹁八幡捗﹂等の如きは全然記入がないため、四円十五枚を敷ふのみで何とも仕様がな ぃ。斯︿乾目が十七章を増したことは、勿論整理や蒐集の結果に依ったのであらう、が、それ等の中名 稽の剣然したものに突の六章がある。 議長日川長行並迭蹴現 火 妙心尼御返事 一 四 六 七 別営御坊御返事績九九 四保金吾殿御書 一 六 九 五 一 六 九 八 崇峻天皇御書 一 六 四 O 一 六 仰 五 全前得道有無事一 O 四 五 此の外車に御消息又は御書といふもの十六遁の中、 ﹁ 庵 室 修 覆 書 ﹂ の 外 は 恐 ら ︿ は 、 何れのか御消息 又は御書の断片であった様である。 今乾自に就てその重要なる一点に就て紹介したいのは、如何に乾師が御異蹟の保存に注意せられた かといふことである。郎も乾目は紙教は三十四枚で本隼塾教の次第は常の如︿であるが、御泣文の御 身延の御国民践に就て身延の御民践に就て 異蹟に就ては、御文の始終、並に紙敢行数を始め、欠損の個所は切取又は破損の形朕まで綿密丁寧に 記されて居る。今試みに七箱の始にある安岡報恩の二抄に就て示すならば、 七 箱 之 内 第 一、立正安国論 最初御迭肢一紙御文一五﹁雄未入見参 0 ・ : : : : 故 最 最 明 寺 入 道 後 進 寛 之 o ﹂巳上十行宇 御正文二十紙夕一題続 四百一行 奥 書 文 麿 元 年 庚 申 太 才 一 劫 之 一 、 報 思 抄 初 御 筆 = テ 四 港 報思抄
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蓮撰之 ﹁ 夫 老 狐 ハ 三 方 乃 空 此 日 ﹂ マ ヂ 九紙此内庭々鼠食慮有り︵一四五一 I t− − 四 五 五 の 一0
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﹁輸?巳下法花経の大怨敵の中ぞかし﹂ 7JT 不 足 ︵ 一 四 五 五 の 一 O 行 l 一 四 五 八 の 二 行 ︶ ヨ た ﹁況滅度後と申て未川市乃世にはヨリいよ/\真言盛 h なb
け り 但 ﹂ 7JT 十 四 紙 、 此 十 四 紙 ノ 内 ハ一 行 号 無 不 足 ハ 一 四 五 八 竺 二 行 1 1 一四六六の三宮 表 裏 共 − 一 御 筆 也 一 、 報 恩 抄 初云、三、﹁所謂弘決理鑑疏記これな
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代 々 − 座 主 相 承 英 ﹂ T一
T 巳 上 十 六 紙 ︵ 一 剛 ⋮ 良 川 均 一 間 ︶ ム ラ 三 ョ リ 四 ニ 移 ル 問 御 文 章 相 績 付b
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四 ﹁不品束縛在後輩ヨリ皆自語相遣さいゐぬぺし、他宗の人はよも用じと﹂ 此マダ一紙、此 次一一紙不足ハ一四七四 l 大 行 、 金 一 三 行 ︶ 御文云﹁義異の正文に相違せばある﹂ヨリ四末﹁若以段罵万杖打研﹄ T J T 十三紙巳上了 ︵ 一 四 七 五 l 六行、一四八二 l l 一 O 行 ︶ 巳 上 一 審 廿 九 丁 有 之 、 巳 上 表 之 亦 也 。 裏 三 氏 一 長 一 一 長 二 等 ノ 丁 付 有 之 。 ﹁ 及 奪 衣 鉢 種 々 資 具 ﹂ 巳下川御返品。縫目ノ底何毛先後ノ紙ニ御筆カ\レ 9 0 ︵ 原 本 七 紙 ヨ リ 十 祇 マ ご 斯の如︿細心の注意を以て記されてある故に、現に御正本な︿ともその賃肢を初練し得るのである。 故に御正本無き今H
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見れば、斯の如3
記録は御正本と同一偵値があるのである。特に近来或は世 問事者が偽作と疑ふ所の﹁種々御振舞御書﹄の如きは、 身延の御輿践に就て身延の御撰践に就て 二 四 アリ文字不見 一、﹁円いけ一去文永五年後正月十八日両戎大蒙古闘。まかせいでぬ﹂巳上十九紙整束セリ︵一一一一八 六 l 一 三 九 六 の 七 行 ︶ 何モ御筆前後ノ紙−一ヵ、レリ︵原十一紙︶ ご記せる如く、御異作なる乙とは勿論、現存のものも初に猶ほ文字の欠損があった様である。何故に斯 の如き記録が御異践の研究には重要なる資料であるかは明かである。 其他乾目に就て注意すべき乙とは、該目録中の第九の﹁怨嫉大陣低破等﹂
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レ ふ の は 、 ﹁ 瑞 相 御 書 ﹂ 一三三八の設であって、第十六の﹁四保金吾殿御書﹂一七八九がそれである。 又第廿一の﹁一代五時鶏 固 ﹂ 七 枚 は 遠 私 云 此 御 害 者 依 − 一 日 乾 営 山 相 績 一 、 従 三 惣 山 途 ニ 談 会 一 被 ν 遺 ご 遺 本 尚 寺 一 也 と遠師の註せし如く、本満寺に分興したのでゐる。故に鯛後の目録に依いて居るが、その内容は現存 の就れとも異る様である。叉断片十六通中最後の二通中、三行のものは加治左馬固悔院は信、二行舟 八字のものは西坊日近の寄閉した旨が記されて居る。此点から見て営時断片・なb
とも保存に努めた乙 とが明かである。 第三に廿二代心性遠師の目録に就て見るに、最初に﹁身延山久遠寺蓮組御異翰入画之衣第。慶長十 乙巳年卯月十一日、円建花押﹂と記し℃あるが、此時にはいよfk
蒐集に努力した結果、六十五を以て敷へるのである。英中名稀の剣然なるもの四十七章をの他十八章で、乾目に艶して断片類としはて 僅仁二・遁を増したのみである。攻に乾目にあって今侠くものは本満寺へ舟奥した﹁一代五時鶏園﹂の 外 ﹁ 強 仁 蹴 革 案 ﹂ ﹁ 爾 前 得 道 有 無 事 ﹂ 一 O 四五︵此のニ章は後にゐるを見れば恐ら︿脱落したのであら う︶の都人口三章ゐるが、遠目に増加したのは左の十二章である。 八 風 事 ハ 四 保 金 寄 殿 御 返 事 ご 四 五 五 波木井殿御書一二 O 七 佐 渡 御 勘 気 御 援 し 舞 一 秒 未 分 王合域事二四五 漢地日域構法寺? 諸宗折伏御消息? 身延並安州事? 治病抄草案 妙心尼御返事? 曾我大臣御前息? 新尼御前御返事一 O 八八 天 持 型 地 天 事 瑞 相 御 霊 断 片 欺 斯︿多数を蒐集するに就ては、勿論養珠夫人等の外護もあったらうが、就中今回一偽書と剣明した﹁波 木井殿御書﹂もあ
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。且つ﹁入風事﹂﹁佐渡御勘気﹂﹁治病抄案﹂の三章は共に本妙寺の事数目録にも 見ゆる所である。向ほ遼師の記録に依れば元和元年再住の時までに、 ﹁守護岡家論﹂十八枚中七枚の 不足を生じ、叉﹁興起の御書﹂は全年修補して第一一幽に加入したと記されて居る。 斯の如c
乾遼雨師は重師の命を奉じて、 一方には御本隼の蒐集に努めっ、、他方には五大部外﹁守 護 国 家 論 ﹂ ﹁ H 妙聖人御書﹂﹁四保金吾御者﹂﹁地引御曹﹂の四章を加へた、所謂慶長板百部摺ぞ枕訂刊 身延の御良践に就て 二 五身延の御撰践に就て 一 一 占 ハ 行 し た の で あ る 。 四 攻で第三期ともいふ J へき、第廿八代妙心築帥、廿九代隆源遊師、品川三代速約亨師の三日銀であるが、 先づ築師の目録に就て見るに、内題に﹁身延霊賓目録、高治二年巳亥霜月十五川、高拾三年十二月朔 日改別﹂とある如︿、二積の目録があるが、最初の寓泊二年のものは、高治二年十一月廿七代通心境 師入農の翌月目録作製に着手し、先づ軸物
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けを鞍理し殊に御本隼に就て、各その紙載を明細に記入 したのがその特長である。衣で翌三年に御塾教の整践に掛かったのであるが、目録の最初に 以 一 一 選 師 御 改 箱 入 日 記 帳 一 別 新 記 置 、 此 目 録 一 向 不 νA 口 候 問 、 不 ν可 レ 致 ν 正 者 也 。 高治三年十二月朔 目、日実花押 とあるに察するに、遠帥後瓶要深の三師を経て、富留那濯師の時に箱の入替があったため、従前の目 録とは舎はぬ故、御事敢に就いては別に一々突き合せて目録を作らずに、大体遺師の目録を踏襲した 様でゐる。故に整理した軸物になった御消息口げを奉︿れば、 興起之御消息 一 六 五 七 御消息金餅二十枚等一週整口此二紙十六行 佐 渡 房 御 書 此 御 番 新 載 目 録御 所 御 返 事 大 一 品 目 御 書 門 店 三 巴 十 九 行 西山殿御返事績九二 武蔵公御房績九三千六行 師 背 息 貧 困 介 の 巾 上 候 一 斉 云 i i s 御消息 一 妙 合 て : ・ 草 木 山 一 百 一 五 御 消 息 朗 制 御 寝 疏 中 布 一 冗 一 組 御 民 翰 御 消 息 此 親 等 云 一 宮 、 八 行 境 削 新 入 此 箱 也 の 十 軸 で あ る が 、 ﹁興起の御書﹂は本隼と共仁第一副に、他は総て第三曲にあったのである。且つ此 等の諸篇は、遠師再住の頃までの蒐集に拘はるもの、様に思はれる。何れ仁もせよ﹁興起の御書﹂以 外は実自民於て剣然したものである。 次で第五の廿九代隆源蓮師の目録であるが、此時代には目録は勿論、御異蹟の保存上一記元を劃し たもので、延山御型敢に闘しては特筆すぺき修覆整理が行はれたのである。先づ﹁霊賓目録﹂の奥書 R 奥京都住佐野氏喜太郎昌長、定文八年秋凌=於山海一、詣一−干此山二軍賓悉#寛之。 悲 ニ 痛 表 軸 之 儒 相 一 、 慎 二 憐 胤 紙 之 朽 損 一 。 雇 ニ 下 於 禁裏御表具削中日足七郎兵街雅克、同御枇一師潰凶衣左衛門貞直等 三 四 輩 一 。 従 t寛文十庚成年季秋一、雨面御筆者批 ν之 裏 一 一 打 之 一 。 或 各 紙 数 多 者 者 減 之 、 或 紙 戴 少 者 増 之、至=子寛文十二壬子孟春一、倉本九十六、械本三十六、都合一百三十二軸、修飾巳成就畢。依 ν悲 改 = 古 之 目 録 一 新 誌 ν 之 者 品 。 身 延 の 御 園 長 践 に 就 て 二 七
身延の御撰蹟に就て 二人 寛文十二壬子歳孟春吉鮮日 第二十九世隆源院日蓮花押 とある如く、寛文八年の秋京の佐野昌長なる人が参拝し℃、身延の御霊賀を拝観した所、御真蹟の表 装などが風間末の上且つ非常に朽損して居ったので、早速乙れが修捕を思ひ立ち、蓮師の諾を得て禁裏 の表具師中尾雅克.経師潰岡貞直等三四人を雇い来って、寛文十年の秋から、十二年の春まで約一ケ 年半の日子を費し、紙数などち悉く平均して、倉本九十六巻、繊本三十六畑、都合一百三十三軸とし て十舟の手入が施されたのである。 備はその内容に就いて見れば、その中御遺文部も御書並に御消息の教に於
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は、全部容軸ごして五 十四部六十五軸、御書官刊の御塾教はみ一部械舟芭して、五十六部六十七珊で大体半々位である。乙れを 十三曲に舟ち且つ録内目録に準じて、初に御遺文次仁御連敷の順に納めたのである。卸も 第 一 一 幽 ... ・ r、
巻 第二画_
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巻 第三画 八 巻 第四画 八 港 第五画 十四港 第六画 十四巻 第七画 十一巻 第八画 十一審 第九幽 八 巻 第十曲 十 究是 第十一曲 九 舟 第十二画 十五珊 第十三曲 十二舟 右画数合十三曲倉敷合一百三十二軸也、左記して之の目録を﹁御書並御事数日銀﹂と稀し、右の中第七耐の第七巻までが御書で、以下が御事 教である。唯第十三副の呆初に﹁雨析結事﹂ 一目加があるが、これは恐ら︿﹃三三蔵祈雨事﹄一二五四で あ ら う 。 斯の如く悲師の御代仁は、身延の御事一一教は内容外観共に十 1 7 の整理が行届いたのであるが、斯︿十 分の整理の出来たのは、朝師頃を中心とし℃御泣文の蒐集に努力した結果、此時には録内の御書四十 品 位 も 、 最初の元和板︵本国寺板︶に北で寛永の三板も既に世に行はれ、且つ銭外二十五巻も寛文二 年には刊行せられ、衣で寛文九年には録内外共に刊行せられた如
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、寛文時代の所謂偽書苅行の洪水 時代三もいふべ3
時期に遭遇したのである。従って佐野氏の費願も恐らく苅行に件ム、御真蹟保存の 重大意義を戚じたがためであらう。此の如き肢態であっセ故に、営時宗門諸山仁は録内外の御書も完 備し、研究は勿論御異院の整列仁も十分の捺慮が出来、終に身延の御品目散の根本的の整理をも結果し たのであら5
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斯くして整問せられた御書目録は、芹一の如くであるつ 立正安岡論首怠統一紙 倉 開 目 紗 三 三 丙 一 [ZLJ 各 撰時秒上 一 巻 巳 上 第 一 前 報思紗二三面 法華取要紗御草案 一 巻 守護闘家論 四倉 一 巻 巳 上 第 二 曲 身延の御員践に就て 二 九身 延 の 御 同 県 蹟
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就 て 照誇法紗上下 佐渡御勘気又披 u m − − 依 知 川 御 全 日 祈時紗 御祈時奥 光 H 房 御 者 相々御振舞御書 諌暁八幡録 四 保 金 五 口 捌 伴 迦 悌 供 養 事 治病鈴御草案 渡木井殿御井 王合域事 四 保 金 吾 殿 御 荒 川 地 引 御 品 川 H 以 一 切 寓 録 取 要 紗 御 卒 業 二 容 う 怪 巻 一容巳上第三両 二 容 ラ 怪 り 怪 巻5
怪 巻 港 一 審 容− 一巻己上第五両 同御草案 法蓮抄。
ろ怪 4怪 四 保 金 五 日 殿 御 4 4 H 怨 峡 心 へ 防 白 破 ・ さ や 一 巻 各 公 峻 天 皇 御 十 日 阿捕陀堂法印祈雨事 太田雄門許御書御草案 原悌末来記 同妻女稗迦像供養事 強仁服御草案 清慌寺大衆御中 雨前二乗菩薩不作備事 型 密 房 御 者 別 件 川 町 仰 防 御 一 返 事 方便品書丑品長行 首 怠 恥 肌 光日一肘御返事無同地獄事 一容 各 一容巳上第四両5
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怪 各 一 審 : { !さ 一 定 港新尼御前御返事 巻 御消息八瓜事 各 妙尼御前御返事 巻 一 代 五 時 固 究主 新尼御前御返事身延喪主州事 容 天 特 使 地 夫 御 書 ラ 怪 天整地天瑞相御者 ラ 怪 行敏妹御曾遁等 各 車密房御書 う 怪 諸宗折伏御存 各 御書室いふんぬべ ti − − − ﹄ 港 御 ま H 廿 ﹃ 今 年 中 将 始 : : : ﹄ 一巻己上第六耐 行敏朕御返答 巻 日 本 働 法 博 来 ・ 次 第 港 漢地日域博法事 各 集 開 汗 品 目 ﹃ 可 引 法 輩 出 酬 : : : ﹄
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42 港 集御力廿﹃透明 wi − − : : ﹄ 各 集 御 書 七 切 ラ怪 蘇我大臣御者 一巻己上第七耐分 雨析結事 一舟第十三両分 以上五十四章六十五軸が、悲師整束の身延御泣文の杢部である。此の外に﹁庵室修援者﹂等実師の下 に掲げた十軸と、他に﹁高橋入道御消息﹂ ﹁中務左衛門殿御消息﹂の二軸も目録の最後に加へられて 居るが、後の﹁中務左衛門殿御消息﹂は乾目第十四の十月廿九日のものであらう o 而して此等の十二 軸は右の十三陶百三十二軸とは別仁御本軍箱に納められてあったので、進師の折には御其肢は都合六 身延の御反政に就て身延の御員蹟に就て 十六章あったのである。これ寛仁事減三百九十年の乙とに属する。 その後四十年を経て最後のものが﹁正徳二庚辰年叉々改之、三十三世日亨花押﹂とある o 遼的亨師 の ﹁ 西 土 蔵 質 物 録 ﹂ と 内 題 ゐ る ﹁ 霊 貫 目 録 ﹂ で あ る 。 お 同 附 ﹃ 泣 文 封 服 部 山 ﹄ 九 四 主 戦 之 ︶ 此 の 目 録 に 就 い て 見 れば、悲目の十三曲三十二軸は勿論他の十二軸もあ
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、克に軸物ごして 法事題目紗十五行 生死一大事等五行 無華御消息 の三軸があb
、更に第六耐に﹁惇数等:::﹂の二行二十字の断片がみのった故に、先の遊日の六十六市 へ右の四を加へて、金部七十章が亨目に載せられたのである o 併し故後の﹁惇数等﹂の断片は 旦 ロ 了 代 寺 枇 司 本 多 蹄 正 少 弼 懇 望 故 、 無 一 − 除 儀 一 進 ν之故除 ν之 曹 と あ る 如 く 、 乙れは寺吐奉行であった本多氏に升輿した故に、亨自に依る身延賓臓の御真翰は、貨に 六十九軸であったのである。 日一つ此の頃に至つては御異蹟に劃する相官の見識も出来て来た故に、 ﹁波木井殿御井﹂の如主は偽 者ままでは剣じないが、蓮目へも亨目へも亨師は正しく﹁代筆也﹂ご記入して居る。叉亨目に依れば﹁庵 室修覆去には﹁賓蔵出有﹂と詰せる如く、今日の通 h J 貸蔵に懸けであった様である。五
以上が身延にあった御異践の全体であるが、最後に是等を現主の御泣文に針照し℃見るなら、亨日 六十九遁の中明か仁現在しないものは、耐入の五十四立の中 方便事量長行並迄朕 一代五時国 諸宗折伏御古 日本働法惇来次第事 漠地日域倖法事 蘇我大目御書 並仁﹁御書﹂三通、﹁集御書﹂三遁の都合十一市左、其の外十五軸の中 佐 渡 房 御 者 、 高 橋 入 道 御 消 息 、 中務左術門殿御返事 並に﹁題目録﹂﹁一大事﹂の二断片﹁御消息﹂六遁令計十一市で、 印も六十九章中廿二章は断片若く は 全 く 現 在 し な い も の で あ る 。 此 の 外 ﹁ 強 仁 状 ﹂ ﹁ 取 要 紗 ﹂ ﹁ 以 一 − 祭 ﹂ ﹁ 治 病 紗 ﹂ ﹁ 願 誘 法 ﹂ ﹁ 太 田 邸 時 ﹂ の 六章が御草案であり、 ﹁渡木井殿御書﹂は偽虫円である。且う﹁阿捕陀堂析雨﹂は﹁御振舞秒﹂並に﹁光 日房御書﹂の断片であり。 ﹁佐渡御勘気﹂は矢張﹁御振舞紗﹂の断片であり、 ﹁天接地天事﹂は﹁瑞 相御書﹂の断片であり、 ﹁新橋紗奥﹂は﹁新橋紗﹂の断片で合計四大断片で計十一章ありとすれば、 六十九章中三十三章は他の断片又は現在不明のものである。故に現に御泣文民存するものとしては、 衣の三十六章に外ならぬのであるが、今御翼民の枚数、完不、並に縮刷の所在を示せば 身延の御民蹟に就て身延の御国民蹟に就て 一、守護闘家論 一 八 枚 宇 三、頴誘法抄二五枚 ︵ 完 ︶ 五、大豆御書?︵完︶ 七、行敏訴肢御曾遁? 九、新稽秒三 O 枚 奥 ? ︵ 完 ︶ ・ ・ ・4・ 一 、 爾 前 得 道 有 無 御 書 五 日 夜 一三、王合域事? 一五、撰時秒上五三枚 一 七 、 瑞 相 御 書 七 枚 一 介 ? 一九、種今御振舞御書一九、五三枚 25 二一、四保金吾樟迦傭供養事一八枚 25 二三、四僚金吾殿御返事? 二五、庵室修覆書四枚 二七、四保金吾御書九枚︵完︶ 二 二 O 間三 O ハ 三 四 ノ、 i¥. 入 九 四
一
O 四 五 一 一 四 五 一 一 八 九 二二三八 一 三 八 六 一 四 四 四 一 五 四 四 一 六 五 七 一 六 九 四 四 二、立正安岡論二 O 枚 ︵ 完 ︶ 四、上行菩薩結要付属口侍九枚︵完︶ 六、行敏御返事? 八、開目紗六五枚 ︵ 完 ︶ 一O
、頴悌未来記二五枚 ︵ 完 ︶ 一二、新尼御前御返事? 一回、法違紗 一 八 枚 一 六 、 三 三 臓 一 肺 雨 事 二 四 枚 ︵ 宇 ∼ ﹀ 一 八 、 清 崎 町 寺 大 衆 中 ︵ 完 ︶ 一 三 枚 二O
、光日房御書 一 一 枚 ︵ 完 ︶ ニ 二 、 報 恩 紗 四 巻 五 二 枚 ︵ 完 ? ︶ 二四、崇峻天皇御書一
O 枚 二六、事密房御書 一 一 州 枚 二八、妙心尼御前御返事四枚牛 ︵ 完 ︶ 三 七 三 四 五 八 ノ、 八 七 四 七 九 七一
O 八 八 一 一 四 八 一 二 五 四 一 三 七 O 二 O 六 四 一 四 五 一 六 三 九 一 大 五 九 一 七 六 五二九、四保金吾殿御返事八日夜 一 七 八 九
一
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日限女蒋迦悌供養事一六枚︵完︶ 一 八 三 O 三一、諌暁入幡紗一二枚 二 O 二 一 二二、光目上人御返事ご枚 ︵ 完 ︶ 二 O 六 三 一 、 地 引 御 書 五 枚 ︵ 完 ︶ 二 O 八 O 二四、西山殿御返事? 績 九 一五、武蔵殿御消息? 績九三 ヱハパ別嘗御房御返事? 緩 九 九 斯くて右の御異蹟並に幾多の断片は、明治八年の大火に唯記録のみを残して悉︿焼失し、今は御真蹟 としては﹁九郎太郎殿御返事﹂二枚 一 八 一 九 の 外 、 一二の要文断片あるのみである。 以上焼失せる中﹁安岡論﹂は別舎が中山にあり、その他草案断片の現存するものは、 寸 撰 時 紗 ﹂ の 草 案 は 玉 津 、 コニ三識祈雨﹂並に﹁諌暁八幡紗﹂の断片は富士大石寺にある由である。 穴 由来是等の身延の御輿蹟は、宗旭の滅後次第に集められて、朝師の頃には三十六章となb
、且っそ の後次第に蒐集せられたことは、上越の目録が明確に示す所である。併し此島氏一つの疑問のあるの は、中山の常踊ニ師の目録に見ゆるものが、身延の目録にも見ゆる一事である。 乙れに就ては先づ中 山の目録を調査した上でないと剣然しない。 身延の御良債に就て 玉.身 延 の 御 国 民 践 に 就 て 中山に今“も術ほ数多の仰異院を蔵することは、宮木股が官時の総鯛顕であった乙と\、御山司教を 非常に重幌せられた乙と、就中後者に重きを山一回かれたからである。その事は常師の一法草寺の﹁定置保 ん Y事﹂の第一に 一、聖人御書並六十巻以下車数等不 ν 可 ν 出 一 二 寺 中 一 事 、 右 惜 一 塾 教 一 事 雄 ν似 ニ 法 樫 一 、 至 一 倍 失 一 者 向 甚 一 一 於 彼 二 伯 雄 レ 有 一 一 何 大 事 一 、 出 一 嘗 寺 岡 外 一 事 一 向 可 ν 停 二 止 之 一 、 但 至 ニ 要 時 一 於 ご 道 場 一 披 一 一 見 之 一 事 非 一 一 制 限 二 部 一 一 艇 目 録 別 紙 有 之 ︵ 内 一 小 金 上 抑 主 的 一 八 九 ︶ とあるので明かである。斯︿て営時の中山の御事殺は、法華寺の分は﹁常修院本年理教事﹂︵永仁レ川年事 減 一 五 o 宗 杢 上 田 宇 都 一 八 五 ︶ に 、 叉 本 妙 寺 の 分 は ﹁ 耐 師 本 軍 聖 教 録 ﹂ ︵ 目 安 三 年 型 九 州 大 二 。 企 上 回 O 八︶に明かで ある。名の如く爾鋭は本牲と塾教さの目録であって、 A ーその御塾教の中御泣文のみに就て見る仁、前 者は﹁本軍紗﹂より﹁撮受折伏事﹂に至るまで六十九章︵
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⋮ 名 の も の 八 牢 あ と 、 後 者 は ﹁ 安 同 論 ﹂ よ り ﹁ 種 々 災 難 根 源 ﹂ 仁 王 る ま で 八 十 章 ハ 外 無 名 の も の 三 事 わ り ︶ O 雨録を令すれば賃に一百川十九章である。 就中﹁安岡論﹂の如きは法華寺には、常目に依れば﹁具書三通有 ν 之 ﹂ と い 以 。 一 服 日 に も ﹁ 安 岡 論 並 に道正朕一紙﹂の外、大事三郎の筆のものも一章あったといへば、中山には一 i 安岡論﹂のみでも五部 もあったのである。然るに慶長の頃には現存の一部となり、 且っその一部も第二十紙を失ったので、慶長六年霜月六日に功徳遁師が、延山の御正本を以て寓柿した︵封一服詑二
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倖 へ る 。 斯の如く安園論の事賞から見ても明かであるが、常師以来随分巌重に取締った中山の御真蹟も、現 在は僅に五十章を存するのみである。 ︵縮刷は四十九章であるが、﹁弊尼御前御市﹂九八七と﹁真言諸宗 連日﹂六五二を遁し、且つ﹁木精二像開眼之事﹂五二五は他筆の故に之そ除けば、正に五十なである o 若し稲田師の﹁劃照記﹂は﹁其問備供養﹂六三一一一とゴ代五時間﹂縦一 O 七と﹁瀧泉寺之申状﹂哩二OOと を加へぬから四十七章である︶ 故に現在では雨銑に惇へるもの\ 二一分の一に過ぎねのである。それ にし℃も現存の杢御異蹟の約半数は中山にあるのである。 若しその散逸に就ては、現在各所に存する御異践と中山雨録とを劃照すれば直ちに知b
得るのであ る。今先づこれを身延の﹁霊賓目録﹂と封照するならば、次の如き結果が見られる。 開目紗 撰時紗 報恩紗 諌 暁 八 幡 紗 ︵ 口 上 法 一 帯 ・ 品 寸 分 ︶ 立正安国論 守護国家論 騒々御振舞紗 附官沙 −1
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崇峻天皇御書 阿捕陀堂法印加雨事 入 風 事 四 保 金 一 立 山 御 返 事 唱法華題目紗、断 法違紗 額悌未来記 働法渡年代 治病紗草案 本軍港立事四脇陣金主林迦供養太田鵡門御者草案 法華取要紗草案 期誘法紗 身延の御長岐に就て 七身延の御撰践に就て 八 佐渡御勘気書 昼 下 支 H 傭 御 供 養 日 限 女 将 迦 伶 供 養 ︵ 巳 上 十 八 永 本 妙 寺 分 ︶ 勿論﹁唱題紗﹂の如きは極断片ではあるが、法華寺 R 7 四章、本妙寺分十八立都合二十二一平は、中山賀 臓と身延寅蔵とが共通である。これ何時の時代にか中山から身延へ亦興したのかも知れぬ。近︿は遠 師の目録の新加十二立中にきて既に﹁八風事﹂ ﹁ 佐 渡 御 勘 気 ﹂ ﹁ 治 病 紗 ﹂ 草 案 の 三 立 が あ る 。 日 記 等 は且ら︿遠師頃ごしても他の大竿は、それ以前の事に屈する様である。 乙れに就ては雨山の記録に未だ右に関する記事は見官ら・ないが、 唯親師の ﹁ 惇 燈 紗 ﹂ に 依 る に 、 身延山の日進事人様と、日一桁聖人は御通用あ b げ る 故 に 、 骨 骨 師 の 御 代 ま で 通 用 ゐ b 3 ︵ 宗 金 史 宮 市 二 四 ︶ といって居るが、由来身延第二組の日向型人は房州男金の産でゐり、且つ上足の日進事人は、或は阿 部氏の背で、甲州中巨摩郡今諏訪の産︵統一一 三 五 五 ﹀ だ と い ふ が 、 川進事人が中山に親しい V 関係よ − 見 て 、 ﹁ 証 議 論 ﹂ ﹁ 門 葉 縁 起 ﹂ ﹁ 旭 市 川 略 詰 ﹂ ︵ 宗 全 史 侍 ヨ
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六 J 一 五 問 、 三 七 二 ︶ 等 の 如 く 、 日進聖人は 姓清原氏で、下総の園舎谷教信の弐男であb
、 且つ鷲巣の小納言日源の合兄といふ説に親しいのであ る o 随って﹁弊殿御消息﹂八六六 の宛名等に見ゆる、大港阿問梨は叔父であっτ
、建治二年大準阿間 梨 が 入 寂 し た 後 、 川準がその名を襲って大準阿閑梨と砕したのである。且つ日進は最初を日心といひ 実で日異と改め、最後身延入山の時に日蓮と稀したのでゐる。斯︿て弘安六年十一月藻原の膏藤乗綱が、妙光寺︵今の藻原寺︶を建立して日向山一一人を閉山に仰いだ。爾来日向車人が輪番登山の情居中は 弟子日準が寺務を勤めた c 正臆元年十月宗組七回忌の後、波木井殿の立に依て日向島一一人が第二組三し て、身延に住するに及んで、 日進事人は竹之房正法院に居られた様である。故に準師と中山吉は密接 不離の闘係にあったのであるが、斯様の闘係が﹁樽燈紗﹂に所謂中山之島明延ご通用するとレム内容で あ ら う 。 士 如上の記述は甚だ抽象的であるが、これを一袋井する資料としては、中山の第四世一服師の﹁善根記﹂ が最も明かである。鮎師は中山の大外護者たる千葉胤点の息であって、日高仁弐で法華本妙雨寺を纏 い だ の で あ る 。 ﹁善根記﹂は具に﹁一期所修善根記録﹂と稀して、結師一代の善根録で恐らく砧師七 十七歳の臆安七年四月頃の記録である。就中その中﹁身延山参詣事﹂には 白 一 一 生 年 十 七 歳 大 聖 三 十 三 回 一 正 和 三 年 始 之 。 大 略 毎 年 令 一 一 参 詣 一 。 但 有 一 一 不 参 年 一 、 時 叉 雨 皮 参 訴 之 年 有 レ 之、雄 ν然爾度参年稀有也。不表之年常有 ν之 、 記 録 紛 失 之 問 度 前 不 二 分 明 一 、 任 − 一 大 事 人 仰 照 覧 一 而 巳 。 母儀同道雨度参詣 0 ︵ 宗 杢 上 吾 首 四 ・ 九 ︶ 身延の御由民政に就て 九
身 延 の 御 由 民 践 に 就 て 問
。
L 乙筆を起し、最後謄安元年七十二歳までの身延奉詣の記録は左の如くである。 康永元壬牛卯月三日︵四十五歳︶ 全 年甲申四月一日︵四十七年︶ 貞和二丙成正月十八日。十月十四日︵四十九歳︶ 会 四 年 十 一 月 八 日 、 魚 品 胤 貞 十 三 回 忌 備 事 一 ・ 也 ︵ 五 十 一 歳 ︶ 全 六年庚寅正月十六日︵五十三歳︶ 延文元年丙申十一月十二日 ︵ 五 十 九 歳 ︶ 全 六年三月十日 ︵ 六 十 四 歳 ︶ 膿安二年巳酉二月九日 ︵ 七 十 二 歳 ︶ 右の記録から推するに少な︿ごも二十回以上参詣あったに相違ない。且つ﹁精合糊建造管結縁事﹂に 依れば、身延御影堂の板本隼の金箔を話替し、叉妙法尼︵母堂?︶造立の稗迦多賀二備の御身に、方 便蓄量の雨品を書寓して納めた︵宗金四四六四四七︶と記し、更に建武二年仁は本妙寺の本隼韓迦多賀等 を造立して、全年四月十五日身延に於て、日進聖人導師の下に供養金管み、二十五日には本妙寺へ殿 入したと記して居る o然 ら ば 営 時 準 師 ’ r−一服師とはその年齢の差は何歳であったかといふに、身延賓戒の準師書筆の﹁玄義 見聞記﹂に依れば、準師が京都に遊皐して玄義を始めたのが、生年二十五歳の永仁三年であるといふ から、文永八年の誕生である。叉﹁善根記﹂の記事から逆算して、砧師の誕生は永仁六年で時に進附 二十八歳である。故に二十七歳の差があったのである。而して準師の入寂に就
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は、西谷の墓石を始 め身延の記事は、就れも元徳二年十二月八日としてあるが、堀之内所蔵の﹁金剛集﹂奥井に 法門付蝿弟子け善授典之、建武三年丙子十一月υ
、日準判︵宗全 上 五 七 ︶ とある故に元徳二年後進帥は向ほ存命せられたのである。向ほ進師は遠師目録の向師御本隼の奥井に 延慶三年駄肘十二月二十二日、付属弟子 H 準法師授典之 とある如く、延慶三年四十歳にして向帥の弟子受茶維を賜り、正和二年四十三蔵にして延山第三世の 法 燈 を 継 ぎ 、 翌正和三年九月三日向師は七十六歳にして奮梓坂本村法華谷に寂したのであるが、 此 年十月宗姐三十三回忌で砧師十七歳最初の登山の年でゐった。斯くて症師は延山記録には貞和二年十 二月二十二日七十六蔵入寂したとゐる。此年砧師は四月と十月二阿盛山しτ
お る が 、 ・ 次 回 は 或 は 準 帥 病気御見舞とも思はれる。︵新骨 H 妙頴寺の過去帳は、吾を七十二蔵とし暦麿五年の入寂?とする。宗皐全 持 こ れ に 依 る ︶ 身延の御員蹴に就て 問身延の御民蹴に就て 四 以上は砧師と身延との闘係であるが、若し進師と中山との関係に就ては、失張﹁善根記﹂に依るに、 一柿師二十八歳の正中二年 H 高聖人の第十三岡忌に営って、年の十月本妙寺の遊符を始め、十一月上棟 し、翌年四月八日に入偽式を奉げ、十六日に身延の貫主
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準型人五十七歳を屈請して開堂式を替むと 記し。叉延文五年には持備堂を造符して、五月三日身延山別頭 H 肇聖人四十践を屈請して入働式彰奉 行したず﹂記してある。延文五年は砧師六十三歳の時で、点和二年には進師寂し、越えて四年九月二十 一一日善師七十歳にて入寂︵宗益上車部伸一七︶し、身延は五世華師の代であったのである。 此等の記事から察するに、営時身延と中山とは頻繁に往復があったのであるが、貞和五年三月七日 蔓師は四十六歳にして入寂し、第六世院師叉醸安六年六月廿五日六十二歳にして入寂し、その翌年五 月十九 H 柿師は七十七歳にして入寂した。時に中山五世掌師五十二歳であった。身延は七世叡師とな ったが明徳元年秋以来偶中山之法服問題が起b
、従来の雨山の往復は此時よ h ,絶えた様である。故に 果して中山の御聖教が身延に分たれたとすれば、少なくとも六世の院師頃までの問であらう。 若しその時期に於ては剣一然知・9得ぬが、結師の﹁雨寺柑脚本掌害救録﹂が﹁康永甲申二月八日記 ν 之 ﹂ ︵ 宗 会 会 上 岡 O 六︶とある如︿、甲申とは康永三年結師四十七歳の時で、若し准師の寂年を或設応如 ︿七十二歳ごすれば寂後二年の執筆であり。若し﹁別頭統記﹂等の如く七十六歳ごすれば、入寂二年前三なるのである。説れにもせよ結師の目録はその内容に於て、常師の目録よ b 綿密の点がある︵卸ち ﹁本隼紗訓蹴﹂﹁大師講事﹂等を常修錬以上に添加せる等︶が、斯く綿密の目録ぞ作った
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す れ ば 、 一 方御真蹟を R 7 興することもゐb
得ね事であらう。且つ一肺目の奥書には 此聖教彼幼稚小児成人之時す設興一之由申置上者、雄 ν経 ニ 年 月 一 不 ν忘 一 一 此 趣 二 無 一 一 無 沙 汰 之 義 一 可 ν 返 ν之 也 。 ︵ 宗 金 上 雲 市 凶 四 六 ︶ と充分の注意まで咋かれた点から見τ
、少なくとも踊目執筆の成永三年以後でなくてはならぬ。比年 第五世 H 隼は二十二歳であった。随って此の如主事・貨そ綜合して、準師在命中の之とではなかった様 に 悶 ω は れ る 。J
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併し此に一つの疑問ごなるのは、身延資臓にある進.仰の御得寓本並にその奥咋でゐる。却も準師寓 本の御存ごいふのは、 ﹁立正翻妙﹂﹁宮木殿﹂﹁快華行者値難事 L ﹁ 立 正 視 俳 誌 杖 ﹂ ﹁ 踊 働 未 来 記 ﹂ 持 : 々災難起御勘文事’一断﹁十挟界明因果紗﹂断﹁本年紗﹂断の八なであるが、 此の中本妙寺 n T の 御 土 け は 一 i 顕備未来記﹂のみで、他は﹁立正翻紗﹂並に﹁迭紋﹂、 ﹁十法界﹂は他にあったもので、その他のE
身廷の御民践に就て 11q身 延 の 御 民 ・ 山 闘 に 就 て 四 四 篇は軌れも法華寺分の御書である。而して奥書は﹁立正観紗﹂と﹁遺棋﹂ご﹁未来記﹂に丈りで、攻 の 如 く で あ る 。 正中二年乙丑三月於一]洛中三保束極二最運房之本御自筆有 ν入者 ν 之。今子時正中二乙丑十二月廿円書 寓 之 也 。 身 延 山 元 徳 二 皮 午 卯 月 中 旬 謹 寓 也 。 ︿ 立 一 比 叡 鈴 奥 ﹀ 正中二年乙丑十二月廿日。今元徳二年成年卯月十三日、於一一身延山久遠寺一諮寓之也
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紋 奥 ︶ 今 元 徳 二 年 一 野 六 月 十 一 日 、 於 コ 久 蓮 寺 御 影 堂 北 廊 一 寓 = 西 魁 一 。 翁 仰 未 来 起 き 此の三文に就℃、並立すぺきは三つの年披ご、内容に具略のある乙と、卸も初に詳し︿後に略されて 居ることである。併し後を略したのは始の券で‘後の記事は逆に次第に明確に記 3 れて居る。今年月 と場所とを楳準として之を見る仁、最後の一冗徳二年身延は三者一致し、月日に就ては具略はゐるが、 初のニつは粗ぽ一致し、 ﹁ 未 来 記 ﹂r
りは六月十一日正ゐる故に、約二ヶ月の隔があるのである。次 で一致する点を求むれば、先の二紗の﹁正中二年十二月廿日﹂は同一であるが、執筆せられたのは恐 らく身延以外であらうが、何慮とも剣然しないのである。第三には先の﹁立正観紗﹂の正中二年三月京 都で寓したといふ記事である。遺放には第三の記事はないが、御文の閥係上あるものご見て支障ない のである。今以上の三点を標準として身延並に中山の御書との闘係を見るに、 ﹁立正観紗﹂並に﹁迭吠﹂は雨山の目録にない故に、 ﹁頼仰未来記﹂に就てこれを見るに、同御者は本妙寺分の御事教録中 にあるのでゐるが、乙の奥書の元徳二年六月は恰も匙師六十歳であって、此年に身延で乙れを寓した 正すれば、嘗時乙の御異蹟が身延にゐったのではないかといふ疑問である。若し果してあっ党ごすれ ば、常時或は中山の御真蹟の一部が既に身延に分奥せられたことになる。分興せられないにしても ﹁立正観紗﹂の奥舎の轄寓年月の事貫から見
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、今の﹁未来記﹂はいづれにしても御異践の庇寓でな くてはならぬ。中山にも身延にもなかった﹁立疋観紗﹂は営然轄拐であるが、 ﹁未来記﹂は中山にあ る御者である故に直寝と見るのが営然である。故に今の﹁未椛記﹂の井潟は一肺日執筆以前十六年に嘗 る故に、恐らく分典せられたのではなく、借b
出して元徳二年六月身延に於て寓されたものと思惟せ らる\のである。 若 し 今 と は 一 肌 接 関 係 は な い が 、 つ 立 正 観 紗 ﹂ の正中二年の咋誌に就ては、 御泣文の蒐集史上の事質 としてこれを迷ぶるならば、矢張一肺附の﹁善根記 1 一 ヤ 見 れ ば 、 一 服 附 は 二 十 四 歳 文 智 光 年 二 十 七 歳 正 中 元 年 三 十 七 歳 建 武 一 去 十 四 十 三 蔵 岡 町 一 際 一 一 一 年 の 前 後 四 問 に 亘 つ ℃ 入 山 附 し て 居 る ︵ 宗 会 上 製 部 凶 凶 七 ︶ が も 最 初 は 佳 山 ︵ 宗 キ 一 は 佐 山 に 作 三 位 は 作 の 誕 織 と 卸 ち 見 物 で 、 後の二阿は法問訴訟で卸も諌暁のためであったが、第二回 日は元中元年甲子同月で正しく理教書寓のためと記してある。且つ前述の如く翌二年十月三 H には本 身延の御由民践に就て 四 五身延の御員践に就て 問 ノ、 妙寺の建立に着手し、十一月三日に上棟式を奉行した︵会上凶凶 O ︶ごあるから、元中元年四月以来少な くとも翌二年の五六月頃までは、京都万面に在て理教井寓に従事したのであらう。果してさうとすれ ば一ー立正視紗’一奥咋の最初の正中二年三月洛中東極に於ける井寓は、一服附洛中雲散咋寓中のものと見 ねばならぬ。斯くて突の二年十二月廿日の特寓は、定記の事情から見℃本妙寺上棟式後誰人かに依℃ せられたものである。斯くてその後六年元徳二年は正しく進附に依て鴨寝せられたものである。 如上の記事を綜合するに、元徳二年の﹁如悌未来記’一式逝帥の直寓としても、借用制作度以上仁は見 られ向。故に中山の御異院が身延に n T けられたのは‘一服目の康永三年後、文徳の法衣論争前三四十年 問の事ご児るのが妥蛍である。且っその御真院の大字が本妙寺分であった点、が、身延に分たれる可能 性を物語るものである。此の事買は身延或は中山の古文十一日で明瞭するかも知れぬ。併し中山から身延 へ分られたのは、必ずしも文徳以前のみとは限ら向。何となれば阪に一言した如く遠師の目録に新社 に 加 へ ら れ た 、 ﹁ 八 風 事 ﹂ ﹁王合城事﹂等も亦中山のものであったからである。此の点は民に研究を 要 す る 。 最後に身延の御異践に就て大観するならば、身延自体即も直接身延に蒐集せられたものより、中山系 統のものに重要のものが多かうた乙とは記惜しねばならね。且っその系統からいへば身延へ直接買集
せられたものは、房州闘係めも必凶健全一台闘係のものが巾心配なした様であるつ凶仁沿道民関係のも のに就