サー・ジョン・ダルリンプルの封建
社会論と限嗣封土権論争
田 中 秀 夫 工 1773年に『サー・ジョン・ダルリンプル準男爵によって,かれの大ブリテン の回顧録のなかで,ウィリアム・ラッセル卿とアルジャーノン・シドニーに対 1)してなされた非難の本質と証拠の検討』と題するパンフレットが出た。著者は ウイッグの伝記作家で一British BiograPhyの最初の7巻(1766−1772)の編者 として知られるJ・タワーズ(Joseph Towers,1737−1799)であった。やがて 1788年以降ニューウィントン・グリーンでR・プライスの説教を補佐するに至 2) るその経歴から推測しうるように,タワーズにとっては,ラッセル,とりわけ シドニーはイギリスの自由を守った真の愛国者なのであって,ダルリソプルが 暴露したようなフランス国王ルイXW世から年金を受取るなどということはあ りえないことなのであった。 「イギリス史は自由の歴史であり,いくつもの時代の長期に渡る交替を生き 抜いて,国制,宗教,富,権力,そしてとりわけイギリス人の国民性の品位にそ きう の自由の精神が及ぼした影響の歴史である。」という文章で始まるダルリソプ 1) Joseph Towers, An Examinati;on into the Nature and Evidence of t12e Charges brozeght against Lord William Russel, and Algernon Sydney, by Sir John Dalr− ymψJe, Bart. in his Mef)zoirsげGreat Britain, London,1773.47p. 2) DNBによる。 3) Sir John Dalrymple, Memoirs of Great Britain and lreJand, from the Dissolution of the last Parliament of Charles 1. unttl the Sea−bante off La Hogue, 2nd ed. London, Vo1.1,1771, p.(1)(使用テキストは第2版。2版のVol. Eは1773年刊。 以下Memoirsと略記する。)100 松尾博教授退官記念論文集(第234・235号) ルのr大ブリテンとアイルランドの回顧録』は,第1巻が同時代史としての本 来の歴史叙述,第2巻が偶々ダルリンプルの入手した王政復古以後の外交文書 から編まれた資料集であって,この後者がセンセーションを惹起したというわ の けであった。 この文書がどういういきさつでかれの手に入ったかを「知る権利のある」公 衆に語った第2巻序文末尾で,「私は,フランスからの急送公文書のなかに, ラッセル卿がヴェルサイユ宮廷と密謀していること,またアルジャーノソ・シ かねドニーが宮廷から貨幣をもらっていることを発見したとき,戦場で息子が背を ら 向けるのを見たかのような衝撃に全く近いものを感じた」と告白したからとい って,ダルリンプルを共和主義者と速断するのは正しくないけれども,そして また「私は両側に敵をつくるだろうと信じる。しかしこれは私たちが私たちの 6) 自由のために払わなければならない犠牲なのだ」という発言にもかかわらず, ダルリンプルはウイッグ派であると確認できるであろうし,ダルリソプルとタ ワーズの対立のイデオロギー的文脈は,コート対カソトリの文脈とみなければ ならない。 ダルリンプルは本書を,1770年に大法官に昇任してわずか3日で自害したチ ャールズ・ヨーク(Charles Yorke,1722−1770)のアドヴァイスで企図し,か のれに献じたのであるが,しかし本書の執筆に際してはD・ヒュ・’一ムの協力をえ たもようである。すなわちダルリソプルによれば,「革命直後にウイッグがサ ン・ジェルマソと密謀しているという証拠の存在することを私に話した最初の 人物はヒューム氏であった」し,「ヒューム氏は私の犯したいくつかの見解の 誤まりを正してくれたのであって,私自身以上に私の文筆上の評判を心配して のくれていると思える。」 4)Sylvester O’HalloranやRachel Russellの反論パンフなど5点がBMのGeneral Catalogueに出ている。 5) Memoirs, Vol. 1, p. ix. 6) Memoirs, Vo1.工,p. vii. 7) Memoirs, Vol. 1, p. (v). 8) Memoirs, VQ1.工、P. vii.
にもかかわらず,このダルリンプルのr回顧録』に対するヒュームの評価は 必ずしも芳しくはなかった。「サー・ジョン・ダルリンプルの新しい歴史につい ては何というべきだろうか……あの作品の大げさに騒ぎ立てた文体はたぶん大 衆うけはするだろう。しかし私の確信するところでは,あの作品の冒頭から結 9) 末まで最小の重要性のものでさえ新しい事柄は一つとしてない。」 さらにまた 言う。「私はサー・ジョン・ダルリンプルの新刊全体を2度通読した。それは 多くの興味深い文書を含んでいる。しかしそれが私に修正する理由を与えるよ うな誤謬が大小とわず私の歴史に一つとしてないことを知って,その本は私に 大いに満足を与えてくれている。ただできることなら,あたかもフランスの密 謀がイギリス議会の決定に相当の影響を与えたかのように,サー・ジョンがや っきになって読者を導こうとしている誤謬を正すために,一つの注記を追加す 10)る機会をえたいものだと思う。」 ここからわかるようにヒュームはダルリンプ ルほどはコート寄りでない。さらにヒュームはスミスに宛てても書いている。 「サー・ジョン・ダルリンプルをみましたか。かれの人生で最も称賛すべき行 為のために,奇妙にもかれに対して何という激しい憤怒がまき起っていること か。かれの資料集は興味深いが,当時の伝記的,逸話的歴史にどんな新しい光 ユエ をあてたとしても,政治史には何ら新しい光を導くものではない。」 こうして,ヒュームは,みずからの『イギリス史』の続編の執筆者候補とし て名のあがったことのあるダルリンプルの『回顧録』を評価しなかった。しか しヒュームはダルリンプルの処女作r封建的財産権の一般史』についてはもう 少し評価した。 皿 1726年にスコットランドの名門クランストンのダルリソプル家に,高名な初 9)1771年3月!!日付ストラーソへの手紙。The Letters of David Hume, ed. by Greig, Oxford,1932. VoL 9, p.238。(以下Hしと略記)。 10)/773年3月20日付ストラーソへの手紙HL,■, p.278. 11)1773年4月10日付。HL,互, p.280. The Cerrespondence{Of∠Adane Smith, Oxford, 1977, p. 167.
102 松尾博教授退官記念論女集(第234・235号) 代ステア子爵(Lord Sta{r)の次男ジェイムズの子として生れたジョシは,ス 12) ミスより3歳,ヒ…一ムより15歳年下であった。エディンバラとケンブリッジ のトリニティ・ホールで学び,1748年にスコヅトラソドの弁護士資格をえて弁 護士会に所属する。父の存命中,消費税部の事務弁護士の地位にあった。父の 死により,1771年から品品爵位を嗣ぐ。1776年にスコットランド財i務裁判所判 事の一人に任命され,1807年まで務めた。1810年に死す。 その間,ダルリンプルは,1756年にエディンバラの劇場で上演されたジョ ン・ヒュームの悲劇『ダグラス』が教会の非難を招いたとき,スコットランド 教会の最高宗教会議(General Assembty)の俗人会員として,ジョン・ヒュー ムを弁護したことが知られているし,ケイムズ,ヒューム,スミスらの知巳で あり,グラズゴウ文学会,選良;会(Select Society)の会員であり,またスコッ 18) トランド啓蒙の一大推進母体となったポーカー・クラブの会員でもあり,その 著作活動もスコットランド啓蒙の一角に位置づけることができよう。 ユの ダルリンプルは数多くのパンフレットを書いたが,主著は前記のr封建的財 15) 産権の一般史』(以下『封建財産史』と略記)であり,1757年目出版され,1759 年には4版を数えた。「ダルリンプル氏の本が出会っている是認を私はうれし 16) く思っている。それは真に是認に値すると思う」とヒュームは述べた。 エアラ リ 本書はつとにフレッチャーが論じたように,ブリテンの国舗の起源を研究し 12) 以下の記述はDNBとAnderson, The Scottisni Nationとに主として依拠している。 13) John Robertson, The Scottish Enlightenment and the Militia Jsszte, Edinburgh, 1985,PP.188−192に会員リストがある。本書でPバートスソはポーカー・クラブの 全容を明らかにした。 14)紙数の制約の関係でリストは掲げないが少くとも20数点に達する。 15) John Dalrymple, An Essay towards a GeneraZ Elistory of Feudal Property in Great Britain, London,1757.(使用テキストは1759年の増訂版(第4版)。以下Essay と略記。) 16)1757年7月3日付アンドリュー・ミラー宛,HL,工,p.266。 17) F. T. H. Fletcher, Montesguieti and English Politics (1750−1800), 1939 (London, 1960),pp.84−85.フレッチャーに示唆されて書かれた唯一のダルリンプルについて の邦語交献として,大野精三郎「モンテスキューとスコットランド歴史学派」の皿 「DalrympleによるMontesquieuの封建法理論のイギリスへの適用の試み」(経済 研究15一一3,July 1964)がある。(但し,これは短文である。)
た最初の作品一一スコットランド啓蒙の社会の起源研究の先駆一であり,ミ 18) 一クが指摘したように,公刊書としては,最も早く生活様式としての社会発展 の四段階説を説いた作品であった。 r封建財産史』の目的は,「イングランドとスコットランドの土地所有に関 する法の大要を,それらが封建的起源に由来する限りで,封建時代の初期から あとづけ,異なる時代におけるそれらの変動を印づけ,そうした変動の原因を コの 見究めること」である。ではなぜ「一般史」なのか。「こうした法の進歩は… 両国において整一かつ規則的であり,同一の歩調で進み,殆んど同一の方向を 辿るのであって,法が相互に分離するぼあいも,当の分離に一定の類似性が存 ラ 在するのである」から。 ヨ しかしながら,ロスとシュタインが指摘したように,本書には学問的動機と ともに政治的動機が存在した。すなわち「そうした進歩は最もよく注意されな けれぽならない。というのはイングランドとスコットランドの臣民が相互の法 について知識をもつまでは,両王国の完全な統合はないだろうからである。」 しかしその統合に強権はいらない。 「イングランドの法との統合へと進むため に,スコットランドのわが古来の法は,ことあるごとに打破されなけれぽなら ないとは,私は全然思っていない。本書の各論は,スコットランドの法はイン グランドの法に,ひとりでに接近するということ,また立法は古来の法を一挙に 破壊するのではな:く,それらが次第に衰退するのを容認しさえずればよいこと お を示すであろう。」 しかしダルリンプルによれぽ,それ以上に学問的意図の方が大ぎい。「フラ ls) Ronald L. Meek, Social Science and the fgnoble Savage, Cambridge U. P., 1976, pp. 99−102. 19) E∬αニソ,P,(vii). 20) lbid. 21) lan Simpson Ross, Lord Kames and the Scotland of His Day, Oxford, 1972, p. 205. Peter Stein, Legag Ewol“tion, Cambridge U. P., 1980, p. 24. 22) Essay, p. viii. 23) Jbid., p. ix.
104 松尾博教授退官記念論文集(第234・235号) ンスでは法の精神が,イングランドでは没収についての考察が,はじめて哲学 と歴史を法学と結合し,さ嚇こは学者であるとともに紳士のように法の主題に ヨの ついて書くことの可能なのを示唆した。」つまりモンテスキューの『法の精神』 (1748)とチャールズ・ヨークの『没収法についての考察』(Considerations Olz the Lαw of Forfeiture,1745)を手本として,研究の現在の特定の効用を離れ て「文人共和国における一研究」として,封建法の制度一「かつてはきわめ て普遍的であり,今なお大いに尊重されている一つの法制度,その進歩の下で, 人びとは最も粗野な社会状態から,最も洗練された社会状態へと到達した。政 治と軍事の双方の最大の革命となった一制度,近代ヨーロッパの生活様式と統 ヨの 治にひとしく関係している一制度」一を考察することがそれである。 ここまでみてくればダルリンプルの『封建財産史』がこの時代のスコットラ ンドの封建法学→封建社会論の,さらには社会の発展論, 「市民社会史」の一 つの代表的・象徴的な作品であることが理解できるであろう。 ダルリンプルは本書をケイムズ卿に献呈した。ケイムズは「本書に含まれた 一般的な一連の研究へと私を導いてくれただけではなく,この研究の細目の取 り扱いに何らかのメリットが見出せるとすれば,それはまさにその人のもので 26) ある。」さらにダルリンプルによれば「多くの部分は私達の時代の最大の天才 27) によって検討された。」それが事実とすればモンテスキューの友人チャールズ・ ヨークを通して行われたのかもしれない。 こうして『封建財産史』は,少くとも,モンテスキュー,ケイムズとチャー ルズ・ヨークという三人の法学者・古事学者の影響下に成立した作品であるこ とは明らかであるが,その概要は次の通りである。 〔1〕 「封建法の起源の由来は古ゲルマン人にあることは今日では一般的に 28) 意見の一致するところだ」というモンテスキュー的=ゲルマニスト的立場の宣
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明で始まる第1章は,「封建制の導入史」を扱う。そしてイギリス封建法学の 一大争点「封建制がはじめてイングランドに導入されたのはいつか」につい て,ダルリンプルはサクスン説とノルマン・コソクエスト説を折衷ないし総合 ヨの する立場に立ち,サクスソに「封建制のアウトラインはみられよう」が複雑な 権利関係はみられず,従ってウィリアム征服王が多くの法をノルマンから導入 したのだとする。 スコットランドへの導入史の一封建法はマルコムIII世期に成立していたか どうかという 争点についても,ダルリンプルの解釈は折心的であって, 「封建制は……イングランドで一挙に樹立されたのでなく,次第に成立した。 ラ ヨーロッパのすべての他国でもその進み具合は同じであった」と述べ,ケイム ヨ ラ ズと同じく,マルコム皿世期以前に封建制の萌芽をみ,同皿世心に完成された とする。 〔2〕第2章は,前世紀来の封建法学の学問的蓄積を最大限利用したと思わ れる「土地所有(Tenure)の歴史」,第3章は「土地財産の譲渡(Alienation) の歴史」を扱う。「土地の譲渡史を跡づけるためには,社会の進歩を跡づけな お ければならない」と述べ,ダルリンプルは,第3章ではじめて生活様式として の社会発展の四段階説(但しここでは明確には三段階)を推論の基礎として導 入する。狩猟・漁労→遊牧→農耕と社会が発展するにつれて,所有観念なき状 態から,所有観念が発生し,それがさらには不動産の所有の観念にまで拡張を みる。その経過をたどりながら自発的な譲渡の史的展開を跡づけるのが第1 29) Jbid., P.7. 30) 観4.,pp.15−16.この問題の思想史的文脈については,とりわけ」. G, A. Pocock, The Ancient Constitution and the Feudα1■αω, Cambridge,!957を参照のこと。 拙稿「ジョン・ミラー研究序説(2)」,甲南経済学論集23一 3.1983年1月,123一 6ペ ージでも簡単ながらふれている。 31) Essay, P.20. 32) 〔Lord Kames〕, E∬a:ys zψoπSeveral Szabj’ects concerning British Antiguities, Edinbungh,1747. Essay L Of the Introduction of the Feudal Law into Scotland. 折衷説としてはケイムズが早いが,その根底には社会の漸次的進歩の観念がある。 33) E∬ay, p.75.
!06 松尾博教授退官記念論文集(第234・235号) 節,商業の発展とともに増大する(債務による)非自発的譲渡を第2節で,そ して遺言による譲渡を第3節で扱う。 〔3〕第4章は「丁丁封土権(Entails)の歴史」であり,ここでは「権力は 財産に従うということほど普遍的に真なる政治上の格率はない」というハリン トンに由来する基本的認識一それはスコットランドの思想家の共有財であっ た一に立って,第3章のテーマと逆に作用する,あるいは奢{多,社会の商業 化に歯止をかける制度として限嗣封土権(限嗣相続制)を理解し,その歴史的 展開が跡づけられる。 ヘンリW世時代を回顧してダルリンプルは述べる。r商業的性向は際限なき 土地取引を許容する必要を導入した。土地所有者,貨幣所有者は共に限嗣封土 権によってかれらの思惑が傷つけられる経験をした。法律家は著作で山回封土 権に反対してずっと非難し続けてきたし,裁判官は,判決によってずっと限嗣 きら 封土権をくじいてきた。」 しかし,ダルリンプルは続ける。「限嗣封土権の解体とその帰結たる財産の 移転から直ちに生じる重要な結果を,たぶん,こうしたさまざまな階級の人び う とは予知しなかった。」それがイングランドの国払に生じた大変革の唯一の原 因とまではいえないとしても,ヘソバ当世による修道院解散,エリザベス女王 による王領地の譲渡に重なって,「限嗣封土権の解体は,貴族から庶民への財 産の移転をもたらした」のであって,以来,庶民は,貴族にとっても国王にと っても強力になりすぎ,傲慢となったのだ。 しかしまた「事物の自然のなりゆき」をことあるごとに強調するダルリンプ ルは,もとより,商業の発展に全く反対するのではないだろうし,逆に限嗣封 土権を無条件に擁護しようというわけでもないだろう。では限嗣封土権が必要 でない条件とは何か。「一国の大部分の土地の半分以上が譲渡不能な限り,土 34) lbid., p. 134. 35) lbid., p. 137. 36) lbid. 37) lbid. p. 138.
地財産の相当の変動を惹き起こすに十分な商業がない限り,そして土地がもっ と多く流通に入っても,偉大な家門が,法律に挑戦するほど,また,かれらの所 領に対してなされる資産評価の強制執行を嘲っておれるほど有力である限り, おう 限嗣封土権は必要ない。」この問題については士魂以降でさらに詳しく論じる であろう。 〔4〕第5章は「相続法(Laws of Succession or Descent)の歴史」,第6 章は「不動産譲渡形式(Forms of Conveyance)の歴史」,第7章が「司法権 (Jurisdiction)と裁判手続形式の歴史」を扱う。 ラ 第7章についてだけみよう。ここではまず「司法権の自然の進歩」が跡づけ られる。いはば家内法廷とでもいうべき段階から,地域的・領導的司法制度を 経て,国制としての司法(official jurisdiction)への進歩をイングランドに即し て跡づけ,ほぼ併行した進歩をスコットランドに確認してダルリンプルは述べ る。「世襲司法権は国王権力に対する障壁であるということが……言いたてら れてきたし,このために高等法院長モンテスキューの権威が引用されてきた。 ……竭ホ君主政における世襲裁判権は国王に対する障壁であるけれども……し ニユの かし君主政では,それらの廃止が法と自由を確立し普及する傾向をもつ。」 〔5〕第8章=最終章は「議会制度の歴史」をテーマとする。ここでダルリ ソプルは「私の意図する目的は,封建制は,その状態において多様であり,そ の作用のすべてにおいて広範であるが,それが土地所有の性質,譲渡の力, 志野封土権の実勢,相続の規則,不動産譲渡の形式,及び司法権の属性に働き かけて,あらゆるその変種を伴って変化させたのと同じ仕方で,議会の構造 むラ (constitution of padia皿ent)を漸次的に変化せしめたということなのである。」 と語り,この基本視点からイングランドとスコヅトランドの比較議会史を跡づ けるのであるが,その論述は相当に興味深いにしてもいまは次の二点を指摘す 38) lbid. 39) Jbid., p. 223. 40) lbid,, p. 247. 41) Jbid,, p. 257.
!08 松尾博教授退官記念論文集(第234・235号) るだけにしなければならない。 (1)変動の要因として,既に推測しうるように,商業発展の結果としての土 地所有の移転が重視されていること。イングランドのばあい「庶民を議会に登 場せしめた同じ土地所有の浪費が,議会に席をもつ資格のある貴族の性質を変 42) えた」のであって「権力は財産に従う。元来貴族を有力にした同じ原因が,後 う に庶民を有力ならしめた。」逆に,かつてのスコットランドのように,商業の 発展が遅く,土地が貴族の手に独占されているところでは,イングランドのよ うな二院制は成立しない。このようなダルリンプルの議論の奥に透視されるの 44) はハリントニアンのパラダイムである。すなわち,もし現状が望ましいとすれ ば,土地所有のバランスを固定すること,否であれば固定しないで放任するこ と一農地法にとって代る最後の切札としての限嗣相続。 (2)合邦はスコットランドの議会に大変革をもたらしたが,現状は満足すべ きでないこと。すなわち,「イングランドの国制と合体されるまで,スコット ランドの国制は事実上,君主政と寡頭政の混合であった。国民はみずからの代 表を選出する特権なき庶民と,事実としては選挙によって代表権をえる資格は あれども国民に役立つことのできなかったジェントリと,そして一方を抑圧 う し,両者を軽蔑していた貴族とから成っていた。」したがってダルリンプルに とってこれは憂うべき状態であった。しかし「革命がはじめて他の格率をわが 政府にもたらした。そして合邦が我々の側の立法部に他の権利を与えた。それ ゆえ,今やわが貴族と庶民はイギリスのそれらと合体され,スコットランドの 国制は,イングランドの国制を人類の驚異ならしめた,君主政と貴族政と民主 ラ 政のかの全き均衡の上に安定している。」名誉革命と合邦と現国制の支持。 しかし,スコットランドの選挙権者が少なく,イングランドのそれが多い 42) Jbid., p.269. 43) Ibid., p.272. 44)J.G. A. Pocock, Politics, Language, and Time, New York,1973, ch.4.を参照 のこと。拙稿「ポーコック思想史学とスコットランド啓蒙(上)」,甲南経済学論集25 −2,1984年10月も参照されたい。 45) Essαy, p.275. 46) Ibid., pp.275−6。
(3,000人対30,000人)のは最上かどうか疑わしい。前者が大臣の操作対象に なりやすいとすれば,後者は激しい党争に陥りやすい。ただ「所有の最大の分 前をもつ人びとが立法でも同じく最大の分前をもつ」のは正しい。封建制度の 全部分でイングランドはつねにスコットランドに先行してきた。とすれば「封 建制のなかなか消え去らない黄昏」にあるスコットランドは,将来,現在イン グランドで実現しているような「もっと拡大した自由選挙権(allodial right of election)をもつ可能性もなくはないであろう。」一わずかな選挙制度改革へ なの の展望。 皿 以上の概観は,多分に,偏った政治的紹介であって, 『封建財産史』はずっ と客観的なたぶん第一級の学問的労作であった。哲学と歴史と法学の統合はこ の著作で見事に達成されているであろう。しかしながら,propertyからpower を把握するハリントソのパラダイムが,社会発展論の枠組と組み合わされて, 封建制の変動を跡づけるダルリンプルの導きの星として駆使されていることも 確かであって,この原理的認識は直ちに政治的判断を喚起するはずのものであ った。 そしてこのr封建財産史』の第4章のテーマであった限嗣封土権→限嗣相続 法は,やがて,1760年代中葉にホットな時代の争点となる。ダルリンプルは論 争の中心人物の一人として,少数派ながら,限嗣封土権の「非常にすぐれた擁 護論」を展開する。そして以後ダルリンプルは学問的労作としてはr回顧録』 を残すのみで,時論的政論家に終始することとなる。 なぜ1760年代に三二封土権論争が生じたのか。スコットランドでは完全な三 二封土権(限嗣相続制)は17世紀まで導入されず,1685年の法令でやっと確立 う された。しかし,同法は,フィリップスンによれば,正しく認識されなかっ 47)以上Ibid., p.276. 48) Palgrave“s Dictionary of Political Economy, Vol. 1. p. 478. 49) Encyclopaedia of the Social Sciences, Vol. V, p. 555. 50)以下の制度史,論争史の記述はJ大部分次のものに負っている。N. T. Phillipson,
110 松尾博教授退官記念論文集(第234。235号) た。マケンジー(Sir George Mackenzie)に従えば,同法の目的は,密に土地 を限嗣相続にしてありながら借財する不実な三三封土権者に対して,債権者を 保護するために,限嗣封土権の登録制度を設立することにあった。けれども当 初から,窮迫した地主階級の所領を,没収,負債あるいは放将な相続人から守 るための立法とみなされた。こうして1765年までに全国の土地評価額の%に達 する500件の土地が登録された。しかし既に1740年には同法の欠陥は明白とな っていた。限嗣封土権者が,十分なリースを認めることも,改良投資を行うこ とも,家族に役立てることも困難だということである。同法は多くの法律業務 を創出したにもかかわらず,法律家の非難を招いた。マンスフィールド首席裁 判官,大法宮ハードウィック(チャールズ・ヨークの父),アーガイル公は限嗣 封土権は商業の要求と対立すると考えた。ステアやバンクトンも同意見であっ た。ケイムズ卿と後のスウィソトン卿は限嗣封土権の改革の熱心な主唱者であ う つた。ケイムズ卿は,既に1759年8月29日付手紙を添えて,「スコットランド の二二封土権の現状の考察」という文書を,大法官ハードウィックに提出する うお など,限嗣封土権廃止運動のため精力的に活動した。 1762年には選良会と文学協会(Belles Lettres Society)カミ論争テーマに取り 上げたし,『スコッツ・マガジン』が強い関心をもって追求した。弁護士会々 長ロック・・一ト(Alexander Lockhart)が述べたように,問題は純粋の法的関 心を越えた「連合王国のこの地域の全臣民にとって最大の重要性のある全般的 な関心事」なのであった。 1764年6月30日に,弁護士会々長は,永久拘束(perpetuity)を廃止する法案 “Lawyers, Landowners, and the civic leadership of Post−Union Scotland: An essay en the Social Role of the Faculty of Advocates 1661−1830 in 18 th Century Scottish Society,” JTuridical Rewew, Vol. 21, August 1976, esp. pp. !!3−118. 51) 以上Phillipson, op. cit., pp。113−4. 52) この文書はWilliam C. Lehmann, HenrrV Home, Lord Kames, and the Scottish Enlightenment, The Hague,1971, pp.327−332に収録されている。 53) さしあたり,Ibid., pp.126−128・LS・Ross, oP. cit., pp.206−7,211−212を参照の こと。 54) Phillipson, oP. ctt,, p. 114.
の起草を提起した。弁護士会で承認をえれば,スコットランド控訴院(Court of Session)などの司法機関に意見を求め,カントリ・フリーホールダーの承認 を求めるべくロイヤル・バラーの市長とシェリフに回状が送られ,そして最終 的には議会に上程される手筈であった。弁護士会は7人の起草委員一全員が 旧家の地主で半数:がかなりの領地をもち,全員が選良会の会員一を選んだ。 らら わがサー・ジョγもその一人であった。 こうして論争が始まる。先の「永久拘束」について,その制度を正当化する らの 真面目な論拠を提出した唯一の入物であるサー・ジョンの主張は後に詳しく顧 ることにして,弁護士会の大多数の思惑を,フィリップスンの研究を通して, みてみよう。 フィリップスンによれば,論争のイデオロギー的文脈のルーツは,旧スコッ トランド議会とその後継老たる超議会的諸制度のイデオロギー的世界にあっ た。所有者が死亡し,その時点で存命であった限嗣封土の相続権者が死去する のをまって,永久拘束を廃止する一つまり譲渡禁止を解く一という提案に よって,弁護士会はスコットランドの社会的・経済的発展に,根底的な変化を もたらそうと画策していたのである。しかも,現に限嗣封土権の制度を利用し て,富者は忙しく±地を購い漁ってはそれを限嗣封土化し,市場から永久に引 上げていた。こうして新種の土豪が育ちつつあった。この新種の土豪は新しい 擬似封建的暴政を行って.中流土地所有階級の財産と自由を破滅させるのでは ないか。旧き家門を経済的滅亡から守るべく,合邦前に,設立された限嗣封土 権の制度が,まさにかれらを破滅させる道具となるというパラドックスをかれ らは恐れたのであった。スコットランドの旧き名門の自由と利益が保存される のは,ただ,土地=地主社会のインタレストが,商業世界のインタレストと同 じく,市場の力で規制されるぼあいだけである。つまり,市場のカだけが所領 の改良を促進し,旧き家の富と権力と国家の力を最大にし,新しい大資本家階 級を生みだしうるというのであった。そして,フィリップスンによれぽ,この 55) lbid., p. 115. 56) Jbid., p, 114.
112 松尾博教授退官言己念論文集 (第234●235号) 『 r 議論は,後のスウィントソ卿の小冊子『スコットランドにおける限嗣封土権法 57) の考究』(1765)に集約的に現われているように,経済発展と文明国での有徳の エリートの役割を深く信じるものであった。そしてスコットランドの地主階級 の自由は商人と無節操な貴族との謀略によって蝕まれるのではないかという, 地主階級の伝統的な恐怖をもそれは示している。地主の自由を守るためには急 激な政策変更はさけられない。こうして,合邦の立案者たちが,かれらの指導 のもと,新しいエルサレムの建設を可能ならしめるために,古来のスコットラ ンド議会を破壊する心づもりがあったのと同じく,永久拘束の廃止を支持した 人びとは,商業時代に適合した,新しい基礎に立つ土地=地主社会の組織を据 58) える立法を樹立しようと考えたのであった。 IV では永久拘束廃止に反対し,限嗣封土権を守ろうとしたサー・ジョン・ダル リソプルは何を狙い,どのように主張したのか。ここでフィリップスソの立論 さの から離れて,ダルリンプルの『限嗣封土権政策考』(1764)一「非常にすぐれ た擁護論」一を覗いてみよう。 これまたチャールズ・ヨーークに献呈されたこの小冊子は,第1章で執筆理 由,第2−6章で限嗣封土権(Entail)廃止の5つの帰結を順に説き,第7章 で限嗣封土権に対する反対論の考察と論駁,第8章でイングランドの限嗣封土 権,そして最終第9章でスコットランドの現行限嗣封土権の改善すべき条件を 論じる。 s7) (John Swinton), A Free Disquisition Concerning t’he Law of Entails in Scotland, Edinburgh.1765.このパンフレットのつもりでフィリップスンは本文(p.116)でダ ルリンプルの小冊子のタイトルを掲げている一ケアレス・ミスによる誤記。 58) Phillipson, oP. cit., pp. 1!5−6. 59) John Dalrymple, Considerations upon the Poltcy of Entails in Great Britain, ……Edinburgh,1764,118p.第2版(増訂版)でタイトルがConsiderations on the policy of Entails inαNation,(Edinburgh,1765,115p.)と変更された。使用テキ ストは第2版。以下,COnsiderationsと略記。
ダルリソプルはまずEntail(限嗣封土権,限嗣封土,限嗣相続制,限嗣相続 地など種々に訳し分けが可能だが,以下では簡単化のためにしばしばEntailと 原語表記する)とそれによって相続者に課される規制とを区別すべきだと説く ことから始める。「Entai1の多くに不正かつ政治の理に適っていない規制があ るからといって,それを破壊するのは,2,3本の指が痛むからといって腕を 切り落すようなものである。」不適切な規制を法で禁止しさえずれば「ブリテ ンの現状ではentailは政治的な善となるだろう。」しかし現在提案されている スコットランド法律家団体の「法案の一般的プランは,現行のentailsは現在 の所有者と相続入の生涯と共に終焉するべきこと,また将来,そうしたentail を設立した日付に存命していた人以外の誰も拘束しないものにentailをするこ と」を内容としており,これが成立すれば,entailは20年で半減し,50∼60年 で9割方消滅するであろう。 Entail廃止の第1の帰結は,地価の低落であり,第2の帰結はその反動とし ての利子率の上昇であって,これは「商業上の最:大の不幸の一つ」である。逆 に大ブリテンの土地の大半がentai1となれば,土地購入と浪費に向う貨幣需要 が減少し,利子率は下がる。こうなれぽ「商売にも国家もより安価に借入れが り でき,前者は商業の利益,後者は国民の政治的利益になる。」事実は正しい原 理に常に一致する。エリザベス女王の治世の利子率は以前のどの時代にもまし て高かった。「事物の通常のなりゆき」では逆でなければならないが,その理 由は「ヘンリW世の法令によって与えられた自由の結果,旧き家門の限嗣封土 が日毎に商業の中へ転落していった」こと,ヘンリ珊世による修道院解散,エ リザベス女王による王領地の譲渡によって「流通に投じられた土地」が増大し たこと,その結果,法外な貨幣需要が生じ,これが異常な高利子率を招いたの である。 60) Considerations, pp. 2−5. 61) Jbid., p. ll. 62) lbid., p. 14. 63) lbid., pp・ 15−6.
114 松尾博教授退官記念論文集(第234・235号) さらに貨幣市場に登場するのは商人だけでない。土地を手放す浪費家は,ど んな犠牲を払ってもほしいものを獲ようとするから,さらに利子率は押上げら 64) れる。 商業は安売り競争である。低利子率は幾千人もの人を商売に入るよう刺激す るばかりか,逆のぼあいに利子生活者となる人をも商売人にさせるから,この 点でも利益である。 の 「商業の声はentailsに反対して大声で叫んでいる」けれども,商業階級と 貨幣階級は区別すべきものであって,後者の声は常に土地を安く,貨幣を高く なのだから,どちらのインタレストに国民は配慮すべきか明らかであろう。 もう一つ考慮すべきなのは債務問題である。r公信用はブリテンにとってそ の の商業のインタレストと殆んど同じほど重要となっている」のだが,利子率が 高ければ国民は負担に耐えられない。 「たとえ他の時代にentailsを好意的に 考えるのは誤まりだとしても,現在ではたぶん必ずしもそれは許されなくはな 67) いだろう。」 第3の帰結は,貨幣が商業からひき上げられて土地購入に投じられる結果と して,商業が損われることである。土地に投じられた貨幣は失われるわけでは ないが,土地を売って商人となる人は殆んどいないから,貨幣が商業に戻るの はきわめて緩慢である。「土地が商業階級に属すること最も少ないところで商 業は盛える。フランスの商業は主にユグノーによって行われているし,アイル ランドではローマ・カトリック教徒によってである。その理由は,かれらは土 地財産を得ることができないからか,または少くとも有利に得ることができ ないからである。」そして「商業の拡大を願いもし,必要ともしている国民が 地上にあるとすれば……それはスコットランド人である。」オランダ人やイギ リス人とちがって「スコットランドのスコットランド人は,自分のための惨め 64) Jbid., pp. 17−8. 65) Jbid., p. 19. 66) lbid., p. 20. 67) Jbid., p. 22.
サー・ジョン・ダルリンプルの封建社会論と限嗣封土権論争 115 68)なほどのあてがい扶持をかせぐや否や,商売を去り国へ走って帰る。」だから 「古代エジプトの法のように,スコットランドの法が臣民の職業を決定できる とすれば,わが同郷人の商業階級は父から子へと商売を続けざるをえなくする のがよいであろう。かつてヴェネチア人やジェノア人がそうしたように。また 69) 今なおオランダ人がそうしているように。」 第4の帰結は輸出の減少,国内消費と輸入の増加である。ここでダルリンプ ルは問題を三点に分けて論じる。 (!)浪費の不幸な結果。大国には三大階級がある。総ての必需品と奢修品を 生産する勤労階級(the industrious),その生産物の一部を消費する奢修階級 (the luxurious),及び前二者の消費しなかった残余を輸出する商人階級(the merchants)である。勤労の生産物が輸出されるぼあい勤労階級を養うのは隣 国人であり,その結果貧民の勤労は国を富ませる。他:方生産物が国内で消費さ れるばあい勤労階級を養うのはその国民であって,このばあい,国民はまず奢 修的となり終に貧しくなる。 個人の散財が浪費を経て国民的貧困に辿りつくには三つの段階がある。国内 産奢修品は高価で,生産者の賃金も高い。他方輸出品は,原材料であれ製品であ れ,安価で生産者の賃金も低い。富国では上流階級の好みを捉えるために改良 もなされ,追加需要も生じ,競争が行われ,賃金が上昇する。そうなれば輸出財 生産に低賃金で働いていた手工業者も,奢修品生産に転入するようになり,労 働の価格と製品価格は天井まで上る。こうなると輸出は減少する。その理由は 高価及び国内消費が過度に進んだための輸出資金の不足である。しかし不幸は ここで止りはしない。輸入が増す。国内奢僧園の嗜好はすぐに外国産奢画品嗜 好へと拡大する。「最後の最も致命的な結果」が未だ続く。こうした状況下で, 一国が戦争を始めれば借入は必至であり,利子は税金で支払うしかない。しか しそれを調達できるのはトレードだけであり,入超時にはトレードの資金が減 少しているわけだから,結局「国内では重税による悲惨,対外的には資金の欠 68)以上Ibid., p。24. 69) lbid., pp. 24−5.
!16 松尾博教授退官記念論文集(第234・235号) 乏と債務負担による無能力」ということになるが,「大部分の商業国民はこの 70) 事物の自然の進行に対して十分な備えをしなかったことから活力を失う。」ス ペイγしかり。フランスしかり。「ある国民は奢修取締法を制定する。むなし い試みだ。この種の法で富者や有力老を拘束することなどできはしない。」他 方,「商業国民の諸個人の倹約の精神(spirit of oeconomy)は,暫時,輸入に 対する輸出の優越を維持できるであろう……しかしこの精神は偶然的であり, 政府がそれを命じるわけにはいかないし,その持続性は不確i実である。」こう して商業国民の二二階級に浪費を自己規制させる唯一の方法は,法律によって ア 「土地を限嗣封土化する」許可を与えることであり,「他に方法はない。」 (2)勤労貧民の利害からの反論。奢移階級の出費を押えれば,多くの勤労階 級の就業を奪うことになるとの「反論は重要」だが,ダルリンプルは楽天的で あって,「一国民が国内産業の製品を輸出する捌口をもっているぼあい,労働 72) を安価に提供できる限り,手工業者が就業にありつけない恐れはない。」しか もブリテンのぼあいはますます植民地が拡大しており,とりわけフランス領北 アメリカの獲得がある。「国内消費に対するあらゆるチェックは,この測り知 アさ れない海外の植民地の需要に供給する資金である。」 (3)Entailを解体する政治的な時期。ダルリンプルによれば「大社会をもつ 国家においては,個人の散財に対して完全な自由が与えられるべき,従って浪 費を防止するEntailが禁じられるべきただ一度の時期が存在する。それは, 一国民が製造業も商業ももたないが,それらのための条件が十分に備っている アの ぼあいである。」そうしてイングランドのばあい,ヘンリW世期がその時期だ った。しかし,それ以来イングランドが繁栄したからといって,すぐその実例 に従おうとするのは皮相であり,正しくない。現に土地財産の移転がイングラ フ0) lbid., p. 3s. 71) lbid., p. 41. 72) lbid., p. 43. 73) lbid., p. 47. 74) ・.Jbid., p. 48.
ンドほど容易でも自由でもない国はヨーロッパに殆んどないし,イングランド はスコットランド以上に大きな比率の土地を商業から引上げ固定している。 第5の帰結は,旧き家門が没落し,それとともに家門の尊重に随伴するすべ ての高貴なる思想が衰退することである。フィリップスンも強調するように, ダルリンプルがこの論点を重視していることは明白である。「旧き家門は,繁 栄せる時代には,国民にとって装飾品であるように,暴政の企てまたは侵略に 由来する苦難の時代にあっては,旧き家門は庶民が避難し自ずと体勢を固める 確実な防壁である。しかし家門なき国民は国民の自由に無感覚になるか濫用す う るかである。」ダルリンプルは古代と現代の歴史的事例を多く挙げて,貴族= 中間階級の存在がいかに自由にとって不可欠かを説く。上位階級の没落は常に 下位身分の自由の崩壊を結果した。イングランドの例外を可能にし,ブリテン の国制を守ってきたのはブリテンの家門であった。東洋の帝国がつねに簡単に アの 征服されたのは,「世襲的権威をもった中間階級」=敵に抵抗する主体を欠い たからであった。「スコットランド人を,かれらの歴史の最も遠い時代から, 尊敬すべき国民たらしめてきたのは家門の尊重というこの思想だけなのだ。大 古にかれらを戦にあっては勇敢ならしめ,平時にあっては礼儀正しく雄々しく したのはこの思想だった。……そして両王国の合邦以来,軍事において,国家 において,専門職において,文筆においてまたトレードにおいてさえ,スコッ 77) トランド人をつき動かしてきたのはこの思想なのだ。」 しかしながら,商業上の思惑が政治的考慮に過度に入りこむのが時代の流行 である。「もしブリテンのような国の名門の地主階級が全般的に商人に転化す るとすれぽ,利益はわずかで損害は大きいだろう。……両階級の思想と感情は 78)まったく正反対なので,一方を他方に接木することは殆んど不可能である。」 そして「家門を支援することが現在ブリテンでは必要である。」というのは「国 75) lbid., pp, 57−8. 76) Jbid,, p. 60. 77) lbid., p. 61. 78) lbid., p. 63.
118 松尾博教授退官記念論文集(第234・235号〉 制の君主のパートと貴族のパートが民衆のパートにかなり屈服してきた」から である。そしてまた「堅固で永続的な貴族とジェントリは,王権の侵入,特定 アの 人物の湯島的人望,及び下層民の横柄に対する最上の障壁である。」このよう に,おそらくモンテスキューの「イギリスの国制」論にインスパイアされて, 旧き家門を守るべきことを説くダルリンプルは殆んど雄弁といって過言でな い。しかしこの論点についてはもう十分目あろう。 こうして,止まるところを知らない商業社会化を推進するイデオロギーに対 抗して,地主階級の奢{目的消費は,土地の商品化を激化させることによって, 地主を没落させ,政体のバランスを変動させることによってブリテンの全国民 の自由を脅かし,伝統的なスコットランド社会の美質とアイデンティティを破 壊し,さらにはmoneyed interestを利しこそすれtradeとしての本来の商業 にさえ有害となることを,ダルリンプルはかなりの力量で論証したと言うこと ができよう。
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こうして1764−5年には限嗣封土権をめぐって改革派と保守派の二つの主張 の対立が顕在化した。反対論は既に1759年には知られていた。法律家でないす べてのスコットランド選出議員は法案に反対したし,カントリ・フリーホール ダーも反対が過半数を占めた。弁護士会のイニシァティヴをとる権能さえ疑問 とされた。弁護士会で勝利した改革論はウェストミンスターで敗北する。弁護 士会の草案は第一読会さえ通過しなかった。高島封土権に関する法律はやがて 1770年に成立するが,それは法案反対派が不平を述べた不都合の除去だけを意 図したものであって,永久拘束制度には手が触れられなかった。弁護士会はコ メソトさえ求められなかった。 ケイムズにとって限嗣封土権に象徴されるスコットランドの封建遺制は最大 79) lbid., p. 65. 80) 以上,再びPhillipson, op. cit., pp.117−8.81) の超克課題であったとすれば,ダルリソプルにとっては同じ典麗封土権は,健 全な商業を守り,地主を守り,ブリテンの国制を守り,スコットランドの文化 的社会的伝統を守る最後の手段ultima ratioであった。かつて『封建財産史』 をケイムズに献呈して寸恩を感謝したばかりでなく,スコットランド法とイン グランド法の統合を目指した点で『法史考』(H㍑碗6αZLaw Tracts,1758) のケイムズと共働したダルリンプルが,わずか数年で三宅封土権問題をめぐっ て全く対脈的立場に立ったのはどうしてなのか。両者は思想史上の共有財の多 くを共有し,社会をみる思考の枠組=パラダイムにおいても大差ないと推察さ れるのである。それはともかくこの論争において,ダルリンプルは勝利者であ り,ケイムズと弁護士会は敗北した。しかし1770年の法令はスコヅトランドの 限嗣椙続地の長期借地権を認めたのであって,以来土地改良が進む。ケイムズ は1776年にGentleman Farmerを公刊する。スコットランドに農業革命の時 代が来る。こうした展開の文脈からみれば,みずから改良地主として生産力的 に成果を上げもしたケイムズが,勝利者となって行くのであり,逆に一見勝利 したとみえるダルリンプルは商業社会の発展に前平的展望を必ずしももたなか った点で,十全の勝利者でありえた筈がない。さらにまたダルリンプルには, 旧き家門が没落しても,新しく上昇した階級の中から新しい政治的エリートが 生れるであろうという楽天的展望がみられない。ここに一つのダルリソプルの 限界があるといわなければならない。 しかし,ダルリンプルは,以後も,コート寄りの政論家として活躍を続ける。 お 1775年に『アメリカ住民への訴え』を書き,植民地アメリカは大ブリテン議会 に従順であるべきことを説いたダルリンプルは,フランス革命期には,アメリ カが植民地を離脱し,親フランス路線をとって来たという現実を踏まえて,ア メリカ貿易に十分代替しうるものとして,英・露貿易を推進するべきことを説 81)Lehmann, op. cit., p.126.このレーマンの主張は傾聴に値するが,レーマンのス コットランド法制史の理解は危いもようである。T, B。 Smith, Studies critical and comparattve, Edinburgh & New York, !962, p. 41. fn. 82) 〔Dalrymple〕, The Address of the peo少le of GreatrBritain to the Jnhabitantsげ America, London, 1775・ 60p.
120 松尾博教授退官記念論文集(第234・235号) いた。ロシア女帝への献辞をもつ『ヨーロヅパの現状における対外政治にお いてイングランドが追求するべき行動方針の考察』 (1789)がそれである。し かしまた『国富論』刊行後にもいくつも書かれたダルリンプルの経済時論は, 一見したところ,『国富論』の影響を感じさせないのであって,イスタブリッ シュメントの一員として活躍したダルリンプルの立場が,多分に守勢に立たさ れた半封建的地主のインタレストを反映しており,その意味で,没落しつつあ る法服貴族の利害を守ろうとしたフランスのモンテスキューの立場に一脈通じ るとともに,経済思想の面でも,次第に克服されつつあった重商主義思想とい うやや古いパラダイムを脱しきれないものであったとして大過ないであろう。 したがってダルリンプルがスコットランド啓蒙の新しいパラダイムの思想家で ありえたのはせいぜい半身においてであったといわなけれぽならない。換言す れば,基本的には社会の発展論一自然法思想の新機軸 をベースにもちな がらも,今述べた分だけハリントン的・シヴィック・トラディションと重商主 義のパラダイムがダルリンプルの社会をみる眼を制約していたということであ る。 (1985年10月6日) 83) Sir John Dalrymple, Queries concerning the Conduct zvhich England should folloxv in Fortign Politics in the Present State of EuroPe, 1789. 86p.