カフカの<掟>、フロイトの<欲望>、そして両者のあいだを取り持つラカンの不安
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(2) この不条理な「紙芝居」のいったいどこが娯楽なのか。ただの苦痛ではないか。それとも、苦痛を起 点に精神分析に誘導しようと目論んでいるのか。筆者の狙いはそうではない。むしろ逆で、どんなに 観るのが辛くても、それでも苦痛を楽しめることはおおいにありうる。それよりも教師として筆者が 懸念するのは、単につまらないという理由で居眠りされてしまうことだ。 「掟の門」に関していえば、 三分程度と短いこともあり、居眠りする学生はさすがにいないが、二時間尺のものになってくると、 最後まで飽きさせないための入念な作品選択が必要で、努力の甲斐もあってかいまのところ寝落ち した学生はほとんどいない。 もちろん“寝落ちしない”イコール“楽しい”というわけではない。そこには“喜怒哀楽”の残り 三つもとうぜん含まれるだろうし、感情の組み合わせは無限にある(「掟の門」だと「不安を楽しむ」 とか)。精神分析的に重要となるのもそこで、相反する感情がないまぜになることで“葛藤”2 が嵩じ た結果、娯楽では済まされなく事態にまで発展することもよくある。それこそ「掟の門」をたまたま 観たせいで鬱病に罹ることも決してないとは言えない。さらに、そこに変に余計な精神分析的「解説」 が加わることでますます症状が悪化したら、それこそ何のための「映画と精神分析」なのか分からな くなってしまう。 「いやそうは言っても、あなたが授業でなさっていることは医療行為ではなく、ただの座学授業な のでは?」、 「現にクラスのなかに患者はいないじゃないですか?」、 「それ以前に、医療従事者の資格 をあなたは持っているのですか?」。色々ごもっともな意見であり、精神分析の核心に迫る問題でも ある。ただ、筆者が有資格者でないことは、当座は不問にしておいてほしい。なぜかというと、初め の段階でこの点に拘ると議論が先に進めないからである(ただし後で必ず戻ってくる)。 それでも少しだけ触れておくと、これまで臨床としての精神分析が一度も社会に根付いたことの ない日本において、精神科医が精神分析家であるとは限らないし(「三分間診療」で時間と手間暇の かかる分析ができるのかという疑問は於いといて)、流派によってはフロイトを否定する臨床心理士 のすべてが精神分析に知悉しているとも限らないし(国家資格ではないことは於いといて)、逆に正 真正銘の精神分析家であっても臨床心理の資格者とは限らないし、さらに分析家を育てる「分析訓練 家」がいかなる来歴で訓練家になれたかも定かではない。そしてさらに芋づる式にもとを辿れば、精 神分析の始祖フロイトにしてからが、資格上は一介の医師、それもザリガニの神経細胞やウナギの生 殖器が研究対象という、精神医学とはおよそかけ離れた研究者にすぎなかったのである 3。 2 ――と、資格云々の話を続けてもきりがないし、面白くもないので、切り口を変えまったく別の提 案をしたい。それとは、フロイト亡きあと、「フロイトに還れ」のスローガンのもと、ラカンが教育 活動(セミネール)を通じ、生涯にわたり実践してきたこと、すなわち、“師”が残したテクストを 唯一無比の座標とし、その中に身を投じることを、それ自体“臨床”と捉えた方法の意義についてで ある。もっとも、そう言われても、どこをどう読めばテクスト空間が臨床空間に変わるのか見当もつ かないし、テクストを読むだけなら誰でもできる。問題は、フロイトを誰の指導のもと、どう読み込 んでいくかであり、筆者が推奨するのがラカン経由のフロイト読解である。数あるフロイト注釈者の なかでもラカンが独特なのは、彼の読解が学びの経験であると同時に、それじたいが臨床体験でもあ ることだ。しかもそのとき読者は分析家(の卵)として関与しているのか、 「被分析者」 (患者)とし 2.
(3) て関与しているのか定かではない。 こうした曖昧さは、英語 subject のフランス語の sujet にも見てとれる。sujet には、通常の意味 (「主体」 「主語」 「主題」)とは別に、 「患者」という意味合いもある。英語同様、フランス語の patient も医療現場で用いられるが、語源が「受苦」 (pathos)の patient に比べ、sujet のほうがより能動的で、 治療されるがままの受け身の患者というより、みずからを積極的(主体的)に治す“治癒者”の意味合 いが強い。いっぽう分析家のほうはというと、他の診療医師とは違って、もっぱら受け身に徹し、患 者の話を聞くことが診療の主な中身となる(場合によっては一言も話さないこともある)。 このように精神分析における「聞く」行為はかぎりなく「読む」行為に近いが、ならば「聞く」⇔ 「読む」、 「話す」⇔「書く」をそれぞれパラレルに捉えてよいかというと――筆者としてはむろんそ の方向で議論を進めていきたいのだが――その前にクリアしなければならない問題が出てくる。と いうのも、このパラレルをそのまま推し進めると、読者は“分析家”、フロイトは患者(被分析者) で、前者が後者の話を聞くことになり、立場が逆転するというおかしな事態になってしまうからだ。 ちなみにここで思い出されるのが、映画『危険なメソッド』(2011、デヴィッド・クローネンバーグ 監督)のモチーフともなった、フロイトと愛弟子ユングの訣別に至ったある有名なエピソードである ――。 後年、ユングは憎しみをこめて過去を振り返り、フロイトとの訣別はある出来事に端を発した、 と述べている。<中略>ユングによると、彼はフロイトの夢を、フロイトの私生活の細部を知ら ずにできる範囲で、できるかぎり解釈した。フロイトは自分の私生活について詳しく話すことを 拒絶し、猜疑心にみちた目でユングを見て、言った――私自身を他人に分析させることはできな い。私の権威が危うくなるからと。ユングの回想によると、この拒絶は、フロイトが彼に及ぼし ていた影響力の死を告げる弔鐘みたいに聞こえた。(ゲイ, 1997:266) ユングの証言に嘘偽りがないとして、このにわかには信じがたいフロイトの発言をわれわれはどう 受け止めるべきだろうか。精神分析の創始者としてのプライドや当時のユダヤ人が置かれた過酷な 社会的状況、さらには持病の神経症などに要因をみいだすことはおそらく可能だろうが、この種のも っともらしい教科書的説明をされても正直あまり興味は持てない。たとえそこに幾ばくかの真実が 含まれていたとしても、いちど手垢にまみれた知識は(手垢にまみれていない教科書などあろうか!)、 先入観や思い込みとなって思考のさらなる硬直化を招くだけだ(その成果がウィキペディアのよう な“ファスト知識”だ)。 たとえば、上の発言がフロイトの心の病によるものだとしよう。それを聞いて読者は「なるほど」 と得心したとする。ところが「なるほど」の中身はというと、「神経症が原因でユングに懐疑心にみ ちた態度をとってしまった」と、「神経症」と「態度」のあいだに因果関係があるように見えて、じ つは二つは同じものだ。その証拠に、この種の偽りの因果関係においては、おしなべて原因と結果が 置き換え可能だ(「猜疑心にみちた状態のフロイトは、神経症である」=「神経症を患うフロイトは、 猜疑心にみちた行動をとる」)。 ならば、厳密な論証手続きを踏むことで正当な因果関係を導き出せるのかというと、そもそもそれ 以前に因果関係がはたしてあるのか?という疑問が出てくる。というのも、ラカンによれば――これ はすべての因果関係に当てはまる命題でもあるのだが――原因と結果のあいだには「つねに、うまく 3.
(4) いかなさ」があり(2000:27)、関係を突き詰めれば突き詰めるほど、両者のあいだに横たわる亀裂が 逆に浮き彫りになってくる。 ついでにいうと、ラカンが参照するピカソの言葉「私は探し求めたりしない、私は見つけるのだ」 (2000:9)の「見つける」対象がまさにこの亀裂の中に潜む何かである。 「探し求め」ることが修養、 研鑽、探求の謂だとしたら、「見つける」は出会い、望外、意表の謂である。いっけん因果関係があ るように見えて、しょせんは偶然の産物にすぎないものに運命の出会いを感じたりしてしまうのも そのためである(英語の“fall in love”はまさに亀裂の中に落ちることを上手く表現している。逆に 下降ではなく上昇の喩えだと(「天にも昇る心地」とか)しっくりこない)。 3 話を戻そう。「私自身を他人に分析させることはできない」を文字通りに捉え、あらゆる人間が分 析対象となるなか、フロイトだけが例外的に免除されうると仮定しよう。そしてこれをピカソの言葉 とつなげてみよう。ピカソの言葉には二つのタイプの人物が出てくる。ひとつは「探し求め」るタイ プ、もうひとつは「見つける」タイプ。前者は物事を因果関係で捉える人、後者は捉えない人である。 時系列的には前者が先で後者が後となる。たとえば、何かについて「なるほど」と納得したあとしば らく経って、どうも「うまくいかな」いことに気づく場合だ。逆に、最初は「うまくいかな」かった が何かの拍子に解決し、「なるほど」とうなずく場合もあるだろう。だが、後者のことを考慮に入れ ても、それでも「なるほど」が順序として先に来るのは、臨床空間の物理的性格上、最初に診察室の 敷居をまたぐのがつねに話す側の患者の方で、聞く側の分析家は、被分析者の話しに応答する形でし か動けないからだ。 臨床の出発点でありながら、のちに覆される運命にある「なるほど」を表明できるのは、厳密には 分析家だけである。もちろん被分析者も権利上、口にできるが、患者の「なるほど」を分析家は信用 しない。なぜかというと、往々にして本音(無意識)とは裏腹のカムフラージュとしての相槌にすぎ ないからだ。ではなぜ患者は分析家に罠を仕掛けるのか。それは、単純に心の病を治したくないから だ。そして、この「〜したくない」という否定文を、否定の意味を保ちつつ肯定文「〜したくなくし たい」に転倒させる“文法の病”こそ、患者の大半を占める神経症者、すなわちヒステリー者特有の 病であり、欲望である――。 ヒステリー者の欲望は、自身の欲望を満たされない欲望として我われの目に示すことです。 (ラカ ン、2000:16) 入れ子のように入り組んだいかにもラカン的な文章だが、このままだだと分かりづらいので、文を主 語(「ヒステリー者の欲望」)と述語(「〜我われの目に示すことです」)の二つに分け、そのあいだを とりもつ複合助詞(「〜欲望として」)を使い組み立て直すと、おおむね次のようになる――。 ヒステリー者は、自身の欲望が満たされない状態を、我われに見せることを欲する。 「見せる」 (「目に示す」)とあるのは、ヒステリーの名付け親、シャルコーの「ヒステリー劇場」4 の 含みを持たせたからだが、そもそも「見せる」病とはいったいどういう病気なのだろう。「見てくれ 4.
(5) る」=「愛してくれる」という疾病利得なのか。それとも「見せつける」=「面目を潰す」という“疾 病危害”なのか。ちなみに後者において、面目を潰すのは当人ではなく、見せつけられる分析家のほ うだ。ここで先のユングへの威嚇ともとれる「私の権威が危うくなるから」発言とも話はつながる。 とはいえこれを以て、「だからフロイトはユングによる分析の申し出を退けたのだ」と理解してしま うと、しっぺ返しを喰う。というのも、ユングとのやり取りは別にして、フロイトは臨床室でのヒス テリー者たちの挑発に怯むことなく積極的に応じることで、その後、独自の精神分析理論を展開して いくことになるからだ。 それにしても、同じ挑発でありながら対応が両極端になった“原因”とは何だろう。筆者の見立て だと、ユングとヒステリー者の違いは次の点にある。ヒステリー者はフロイトの診断(分析、解釈) を疑ったり、難癖をつけたり、聞く耳を持たなかったりと、それこそあらゆる手を尽くして「満たさ れない」状態を維持しようと努める。いっぽうのユングには、上記の逸話からも窺えるように、症状 としての反抗的態度への配慮はあまり感じとれない。反抗的なのはむしろ「猜疑心にみちた目でユン グを見」るフロイトのほうで、ヒステリーを起こすことで、不覚にもユングの“患者”になってしま ったわけである。でもこれはフロイトの落ち度なのだろうか。ユングの目にはそう映ったかもしれな いが、ラカンは別の見方をする。そうでなければ、「幸いなことに、フロイトは神経症者でした」 (2017:77)などとは言わなかっただろう。 ラカンはさらに続ける――。 そして彼は賢く、また勇気をもっていたので、彼自身の欲望の前で自身の不安を利用する術を知 っていました。(上同)。 神経症とヒステリーを同義に捉えるなら、ヒステリー者としてのフロイト自身の「欲望」とは、欲望 が「満たされない」ことへの欲望となるが、では、具体的にどのような欲望が満たされないことへの 欲望なのか。ラカンがここで引き合いに出すのが、フロイトが独自のヒステリー理論を打ち立てた際 の最大の功労者のひとり、患者アンナ・Oである 5。彼女のどこが特別かというと、その持ち前の「術 策」としての「‹他者›を引きつける餌」 (上同:76)、つまり人に罠を仕掛ける術に長けていたことで ある。ちなみにここで他者が「‹…›」に括られているのは、同じ他者でも似て非なる「小文字の他者」 (a)と区別するためだが、患者としての彼女の目にフロイトが「大文字の他者」 (A)のお先棒に見 えたであろうことは想像に難くない。医師という公的、社会的権威を備えた立場から彼女に接する以 上、それは致し方ないことだ。とはいえ、フロイト自身しばしば嘆いていたように、当時の医療ヒエ ラルキーのなかで精神分析家の地位はせいぜい下から二番目で(ちなみに最下位は呪術師)、他から 見放された患者が最後に行き着く場所であった。が、それでもいったん敷居をまたいだ以上は、‹他 者›の代理としての分析家に全幅の信頼を置くしかない。 ところで、医師、裁判官、警察官、軍人などを見ても分かる通り、‹他者›の代理は通常、権威が刻 印された制服を身に纏うものだが、精神分析家にはそれがない。これには明白な理由があって、患者 をソファに寝そべらせることで互いの視線が合わないよう配置されているため、衣服に気を遣う必 要がないからだ。視線の転移を通じて分析家と患者のあいだに生じる様々なハラスメント・リスクへ の配慮は、とくにヒステリー患者の場合、ことのほか重要である。というのも、厄介なことに、ヒス テリー患者は視線の暴力を逆手に取って、分析家の権威を失墜させる“疾病危害”をときに企むこと 5.
(6) があるからだ(もちろん無意識のレベルでだが)。 もっとも、では目を合わさなければ安心かというと、そうは限らず、アンナ・Oのような相手の裏 の裏までかいてくる手強い相手は、分析家の目の前に餌を蒔くような分かりやすい素振りなどして くれない。撒くとしても囮でなければ、目の届かないところに撒くはずで、そうなると分析家はお手 上げで、手探りで探すしかなくなる。そんな「小さな無」 (上同:77)をラカンは「対象 a」と名付け たわけだが、それは「小文字の他者」(a)とどう違うのか。 ラカンの数々のシェーマのなかでも最も有名なものの一つ、「シェーマ L」6 の対角線上に出てく る「a」と「a’」には、それぞれ「自我」と「他我(他者)」が添えられている。「a」は、ラカンがし ばしば参照するランボーの言葉「私は一個の他者である」の他者と同じものだが、小文字であること で、 「自我」と「他我」は等価な存在となり、 「自我」と「他我」を合わせ鏡のように向き合わせる「理 想自我」(i(a))として関係付けられる。 ちなみにこれを分析家と被分析者の望ましい関係として応用したのが、自我心理学や対象関係論 だ。これらにおいて「私とは何か?」という実存的問いへの答えというか処方性は、同一化すべき「対 象」としての自我である。しかも、a は同時に a’でもあり、人の数だけ(あるいは a’、a’’とアポス トロフィーの数だけ)多くの他我が存在することになる。自我がしばしばタマネギの皮に喩えられる のはそのためで、合わせ鏡の喩え(「鏡の中の『鏡の中の「鏡の中の」…』…」)が、自我=他我への 過度な同一化の副作用でもある「不気味さ」をビビッドに表現している。逆算的に見れば、不気味さ に付随するあらゆる意味を削ぎ落とした純粋概念が対象 a であり、不安はその情動的等価物である。 そこでラカンのセミネール『不安』を手がかりに、不安について対象とセットでもう少し掘り下げて みよう。 4 「(フロイトは)彼自身の欲望の前で自身の不安を利用する術を知っていました」とラカンは言う。 「不安」の対象は、「恐怖」の対象(殺人、津波、あおり運転、等)と違い、明確に知覚認識できる ものではない。だからといって「対象がないわけではない」。フロイトの目にアンナ・Oが「小さな 無」に“見える”ときの「無」がまさにそうで、 「幻想の中で自身をそれとしているところの対象 a」 (上同:76)として、自身の姿を現す。この「ないわけではない対象」としてのアンナ・Oに対してフロ イトは思わず不安を感じてしまったわけだが、問題はそれをどのように臨床的に「利用する」のかで あり、ラカンによれば、フロイトは彼自身の夫婦関係からこれを学ぶことができたのだという――。 [フロイトの]不安は、あのありえないほどの良い妻、しかしフロイトを埋もれさせた女性、つまり フロイト夫人に対する、フロイト自身の滑稽な愛着の根源にあります。フロイトは、不安を用い て[アンナ・Oの]症例をフロイト夫人という幻想的対象への彼の忠実さというエックス線スク リーンに投射する術を知っていました。そして彼は、一瞬の瞬きをすることもなく、これらのこ とすべてが何のために役立っているかを認識し、アンナ・Oが完全にフロイト自身を狙っていた ことを十分に肯うことができたのです。(上同:77) ヒントは「スクリーン」にあり、ここでは二つの意味がスクリーンに込められている 7。一つは、映 画やテレビなどに使われる、光源が投射される幕としてのスクリーン。もう一つは、背後を遮断する 6.
(7) 目隠しとしてのスクリーン。ひとは映画を観るとき、スクリーンの後ろなど意識しない。意識してし まうと映像に集中できなくなるからだが、それこそまさにアンナ・Oが仕掛けた罠で、スクリーンに “魅力”のイメージ(「(フロイトの)欲望の対象」 )を投射することで、スクリーンの背後から「(フ ロイトの)欲望の原因」を操る対象 a(「小さな無」)を覆い隠すのが、彼女の密かな目論見である。 それゆえ、患者の罠をかいくぐるには、あえて彼女の魅力から目をそむけ、魅力を「無」から産み 出す原因であるところの対象 a とセットで複眼的に対応していく必要があり、ラカンの「不安を利 用する術」もまさにそのことを指している。この「術」がなければ、目の前に見える「欲望の対象」 と、背後の見えない「欲望の原因」の推定上の“因果関係”を――後ろと前から――同時に見ること はできない。 上の引用によれば、フロイトは妻のおかげで技法を身につけたことになるが、それだけなら、フロ イト以外の人間にもできたはずである。フロイトしかできなかったこと、それは、因果関係という概 念を根本から疑うことで、それまでの常識を全面的に覆したことにある。症状の原因を安易に「探す」 のではなく、原因をみつけたのに、それでも治療が「うまくいかない」ことに、再度治療の鉱脈をみ つけだしたところに、フロイトの真の独自性がある。 なので、(後に判明した事実によると)実際にはアンナ・Oのケースがたまたま「うまくいった」 だけで 8、以後も順調に進んでいったわけではないことを理由に、フロイトの評価を下げるのは筋違 いだ。フロイトのどの症例研究を見ても分かる通り、彼が取り上げた症例はことごとく失敗に終わっ たケースばかりであり、経験を重ねることで治療効果が目に見えて上がったようには思えない。 この事実を踏まえ、改めて「彼は賢く、また勇気をもっていた」という文言を読み返すと、逆に違 った様相を帯びてくる。フロイトは同僚のブロイアーと違い、アンナ・Oの誘いには乗らなかったが、 だからといって、そのおかげで彼女が完治にいたったわけではない。ラカンが汲みとるフロイトの前 進(「うまくいった」)はいたって控えめで、いま触れたブロイアーとの違い一点のみである。だが、 この“治療を放棄しなかった”ことが、これまで舞台と観客席のあいだを隔てていた「ヒステリー劇 場」の段差を一気になくすことにつながったのだから、ささやかながら歴史的第一歩である。 ヒステリー劇場の創始者シャルコーとフロイトの違いを一言でいうと、演技者(患者)と観客(精 神分析家)の立場の逆転である。シャルコーにとって、患者はもっぱら観察の対象であり、患者の見 つめ返しは想定されていない。いっぽう“フロイト劇場”では、観客席と舞台がバリアフリーになっ ており、それまでの転移(分析家→患者)に加え、 「逆転移」 (患者→分析家)も新たに導入され、患 者と分析家の関係は双方向的になっている。 ただ、そのぶん労力も二倍となり、患者の分析と並行して、分析家に対する患者の“分析の分析” も行わなければならなくなった。それまでなら、それこそ逆転移の仕組みに無知なブロイアーが、患 者からの性的挑発に不安を感じ、治療から手を引いたとしても問題なかったのが(「私には手の施し ようがなかった」、 「女性の分析家の手に委ねるべき」)、逆転移の導入以降、言い訳は患者への責任転 嫁とみなされ、無能の烙印を押されることになる。 5 ここまで論じてきたことを図式的に整理してみる。転移と逆転移をひとつのセットとみなすこと で、転移(患者の治ることへの不安)と、逆転移(その不安から逃れるための抵抗手段としての挑戦 や誘惑に対する分析家の不安)とが、ひとつの場所――不安の等価物である対象 a――で重なり合う 7.
(8) 姿を図式化したものが、以下の合併集合(ベン図)である――。. 合併集合(Quinet 版)9. フロイトとアンナ・Oの関係に即して説明していくと、まずは左側の「主体」。先に記したように、 主体は「患者」でもあり、アンナ・Oもここに属す。右側の「他者」は「大文字の他者」(‹他者›) であり、医療行為の名のもと、患者との関係をとり結ぶフロイトが属すのはここである。バリアフリ ーとはいえ、両者の関係は対等(対称的)ではない。それは何より主体が話し、他者が聞くという非 相互的コミュニケーションに示される。 両者が対等でないとすると、どちらが上でどちらが下か。話すことを「攻め」、聞くことを「受け」 と単純に捉えれば前者が上だが、現実はそう甘くない。どんなに偉そうに話そうと、相手が理解を拒 めば会話は成立しない。それどころか、聞く側が上から目線になるほうがよくあるパターンだ。聞く 側が審査する面接試験やオーディションなどがよい例で、 「M-1グランプリ」で最後の審判を待つ芸 人たちの恐怖におののく姿は、見ていて気の毒なほどだ。 審査する側の絶対的権威と比べたら、分析家の権威など微々たるもののように見えるが、これはじ つは大きな間違いである。上の図式には示されていないが、ベン図の右側の円に補足として「意味」 が添えられている。すなわち、 「意味」の所有者は、 (意味を伝達する媒体としての)言葉を受け取る 他者であり、その限りにおいて、(言葉を発する)主体に対し絶対的権威をもつ。たんに言葉を話す だけで、言葉の意味を所有できるわけではないのだ。 では、代わりに主体は何を所有するかというと、純粋に哲学的な意味での「存在」(Being、Étre、 Sein)、すなわち、生き物としては確実に存在するが、自分の「意味」についていざ問うてみると―― 「何者」や「何様」に侮蔑的ニュアンスが込められているように――意外と何も答えられない、とい う“意味”では空虚な存在である。図式中、「私とは何か?」の答えを解く鍵は、「意味」と「存在」 の二つの円が交叉する部分にあるが、‹他者›の代理として遣わされた分析家は、同時に主体を守る (治す)立場にもある。この主体でもなければ‹他者›でもなく、存在からも意味からも部分的に切り 離された分析家がせいぜい出せる答えといえば、「無」という名の「意味」――すなわち「無意味」 である。 これに加えて、患者からの切り崩し工作も待っている。患者は、たとえ分析家が意味深げな言葉を 8.
(9) 発したとしても、素直にそれを“意味のある”(=治療につながる)言葉として受け取ろうとはしな い。分析家に向けた媚態や誘惑や挑戦的なポーズは、あくまで病の真相解明を先送りするための手段 であり、 「知っているとされる」10 分析家の諸々の助言は、それが治癒につながる限り、拒絶されな ければならない。 では、打開の糸口はないのかというと、そんなことはなく、患者が少なくとも診察室を定期的に訪 れ、分析家が差し出す言葉の命綱を無下にあしらわないという事実の中に――図式で言えば、二つの 円の交叉部分に――希望を見出すことができる。二つの円の交叉とは、二つの転移――転移と逆転移 ――の交叉でもあり、分析家(無意味)を仲介として「存在」 (主体)と「意味」 (‹他者›)の交流(転 移)がなされる。 そして転移を通じ、それまでの空虚な「存在」としての自己を捨て、‹他者›との接点のなかに新た な“話す”存在としての自己を見出そうと決心するならば――もっともそれ以外に患者に選択の余地 はないのだが――そこで不可避的に起こるのが、それまで別個に分かれていた主体と‹他者›がひと つにまとまり、そのひとまとまりの中で存在と意味に内部分裂した(斜線“/”を引かれた」)主体($) の誕生であり、これをラカンは「疎外」と呼ぶ. 11。ここでいう疎外とは、一般的な「〜からの疎外」. とは逆の、 「〜への疎外」であり、図式でいうと、右側の円の「意味」や「‹他者›」の世界(象徴界) への主体の疎外である(それでも従来の「〜からの疎外」に固執するなら、 「私(存在)からの疎外」 と言い換えてもよい)。 ただ、‹他者›への疎外といっても、あくまで活動範囲は二つの円が交叉する部分のみであり、しか もそこで得られるのは意味ではなく、「無意味」である。とはいえ、それでも「無」という「意味」 であることに変わりはなく、主体($)はそれ以後、あてどなく「無」の意味を探り続けることにな る 12。これが他ならぬ“欲望” (want-to-be)であり、主体は自身の無を有で満たそうとするも、満た す行為じたいが「無」の「意味」化、つまり無意味でしかないので、無は永遠に“欠けた”(want) ままの状態にある。欲望のこれら二つの要素――「欲する」という肯定的要素と「欠けている」とい う否定的要素――の後者に力点を置いたのが疎外だとすれば、前者に力点を置いたのがこれから述 べる「分離」である 13。 「疎外」と「分離」は二つで一組のペア概念であり、同じく主体と他者がペア概念であることに対 応している。そこでは、それぞれが互いに依存しており、「喉が乾いたから水を飲む」といったよう な、一個人内部の自己完結した行為として扱うことはできない。いま一度ラカンの欲望の定義―― 「人の欲望とは、他者の欲望」(“Le désir de l’homme, c’est le désir de l’Autre.”)――を思い起こそう。 人間の欲望が、 “私”に固有の欲望のように見えて、じつは他者の欲望に由来するとしたら、 「何かが 足りない」のは、他者の「何かが足りない」からであり、とうぜん私はそれを欲することになるが、 それが‹他者›の中にみつからなければ、‹他者›が唯一接することのできる相手、つまり“私” (主体) の中にそれを求めることになる。こうして――。 一つの欠如がもう一つの欠如と重なります。これ以後、主体の欲望と‹他者›の欲望――それらが 同じものであると申し上げたのはもう昔のことになりましたが――の接合点を成している欲望の 弁証法は、そこには直接の答えがない、ということを通じて進みます。(2000:287) 二つの欠如が「同じもの」だからといって、主体と‹他者›が知識(「答え」)として共有できることに 9.
(10) はならないが、互いがそれを必要とし、自分の中になければ相手のなかにあると信じている限りは、 血の繋がった親子と同じくらい堅い結束を保ち続けることができる。そしてここで本題に戻ると、同 じことは患者と分析家の関係についても言える。とはいえ、よくよく考えてみると、これはいささか 変である。心の病を抱える患者が分析家に助けを求めるというのは分かるが、治す側、「知っている とされる」側が自身の欠如への答えを患者に求めるというのは、おかしくないか。それとも、精神分 析じたいに構造的欠陥があるのだろうか。 もう一度、二つの円が交叉する部分を見てみよう。そこにあるのは、 「意味」の領域としての‹他者 ›に重なりつつも、肝心の意味内容が剥奪された「無意味」であるが、では、意味としての無とは何 か。欠如(want)としての欲望(want)だとしても、欲望には必ず対象があるはずだ。それとも、対象 が欠如した、他動詞ではなく自動詞としての欲望(「私は欲しい!」)なのか 14。もしそうだとしたら、 それを“身を以て”ならぬ“耳を以て”体現する精神分析家は、きわめて特殊な能力(?)を兼ね備 えた医療従事者ということになるが、もちろんこれは技法上の訓練の賜物である。 技法としての欲望は以下の要請に基づくものである。すなわち、分析家は患者が話したいから聞く のではなく、患者は分析家が聞きたいから話すのであり、能動(話す)・受動(聞く)の立場がここ では逆になっている。患者が積極的に話したい場合でもこの点は同じで、ヒステリー患者の挑発や誘 惑といった「攻め」に素直に「受け」で応じるのではなく、“無言”のポーズで積極的に聞き耳を立 て、しかも顔は隠れて見えない。そうなると、患者としても相手の出方を見て対策を練るのが難しく なる。ただ、それでも分析家が純粋な関心を寄せてくれることは確かだし、素直に嬉しくもあるので、 ついつい相手のペースに乗せられ、話したくないことや、思い出したくないことまで言わされてしま うこともときにはあるだろう。 では、分析家の“聞き上手”は、一般の聞き上手とどこが違うのか。この問いは、 “欲望” (desire) と“関心” (curiosity)の違いとして説明できる。分析家には欲望の対象はないが、患者の話には関心 を持っている。関心の場合、まず対象ありきで、対象があってはじめて、対象への関心が芽生える。 かたや欲望の場合――ここがやっかいな点だが――「欲望の対象」が“目の前”に現れるよりも先に、 「欲望の原因」としての対象が主体の“背後”に現れる。「分離」を一言でいえば、この“背後”か ら“目の前”への対象移動を指す。このプロセスを先のベン図に沿って、以下、説明していく。 主体と‹他者›がベン図の交叉部分に一つにまとまることで、主体に斜線が引かれ、 「S」から「$」 に変容することが「疎外」であることは先に述べた。 「分離」ではさらに、この一つのまとまり「$」 の斜線部分が、主体と‹他者›の二重の重みに耐えかね、ベン図の下に抜け落ちてしまう状況を指す。 図の下に向いた矢印がまさにそれで、その落下物が、主体でも‹他者›でもない謎の「対象 a」 とな る。 ラカンの後継者ジャック=アラン・ミレールによれば、落下の理由は、対象 a が合併部分の「一 部」ではあっても、 「要素」 (Quinet, 1995:143)ではないことによる。どういうことか。要素とは「無 意識」の構成要素としてのシニフィアンであり、シニフィエ(意味内容)を持たない「無意味」とな る。いっぽうの対象 a は、“a” の部分だけ捉えると「autre」(他者)の意味内容をもつシニフィア ンのように見えるが、力点はあくまで対象としての a であり、対象としての機能とシニフィアンとし ての機能(「シニフィアン性」)は両立できない。シニフィアン性の消失とは、シニフィアンの連鎖 (a→b→c……)が止まることであり、他の一連の語群から孤立した語(a)はセンテンスを紡ぐ機 能を持たなくなるが、そんな属性を体現した人物が、精神分析家だとしたらどうだろうか。 10.
(11) 分析家の欲望が対象をもたないのは、分析家自身が対象 a だからである。そしてこの対象として の欲望の原因が、患者の欲望を背後から強く押し、思いもよらぬことまで語らせるきっかけとなる。 分析家が“聞き上手”である所以はまさにここにあるが、対象 a の役割はなにもそれだけに留まらな い。「主体の欲望と‹他者›の欲望」が「同じもの」がなにより示唆するのは、二つの円が交叉し、そ こから落下する対象 a が、‹他者›の代理を務める分析家だけの占有物ではなく、主体である患者も また同様に占めることができることだ。もちろん、その目的は分析家のそれとは異なる。ラカンの「幻 想」の定式$◇a に示されるように、 「存在」と「無意味」 (無意識)に分裂した主体(=広義の神経 症者)は、対象 a に同一化することで、不安から自身の身を守るのである(「神経症者がその幻想の 中で自身をそれとしているところの対象 a……」(2017:76))。 では、何にたいする不安から患者は自身の身を守るのか――心の病の回復への不安からである。そ してその際、強力な防具、いやむしろ武器となるのが、「攻撃は最大の防御」としての分析家への誘 惑や挑発であり、ここで患者が同一化する対象 a は「性的対象」と同義である。しばしば指摘され るように、ヒステリー者に魅力的な女性が多いのは、性的魅力がそれこそ本人に自覚がないという意 味で“天性”の症状にほかならないからであり、性的対象として見られることへの苛立ちや怒りに嘘 偽りはないにせよ、それならそれで、なおさらたちの悪い症状として対応しなければならない。みず から持て余す彼女の性的魅力がじつは自身によって入念に仕掛けられたものであり、舞台上で疎ま しく思う彼女と、舞台裏(無意識)で罠を仕掛ける彼女とが、自身のなかで解離しつつも仲良く共存 することが「ヒステリー劇場」の内幕で、しかも演目が分析家ただ一人のために上演されるのだとし たら、観客としての分析家の任務と責任は果てしなく重要である。 診察室が同時に「ヒステリー劇場」ともなるパラレルワールド――そこでは二つの対象 a がそれ ぞれ異なる次元から互いを見つめあっている。ラカンはこれを、誰もが愛する対象(「あなた」)に対 して持つ視覚上の満たされなさとして、次のように表現する――。 あなたは決して私があなたを見るところに私を視ない。(2000:135) これは「あなた」に問題があるからではなく、 「私」のほうにむしろ問題がある。というのも、 「私が 視ているものは、決して私が視ようとしているものではない」からだ(同)。愛する二人の間に横た わる亀裂が、ここでは同音異義語「視る」と「見る」の違いによって表されている。「視る」側の視 界が狭く盲目になりがちなのに対し――「私は一点だけから見ている」 (2000:95)――「見る」側は “すべてお見通し”であり、そのとき私は「あらゆる点から見られている」 (同)。この「眼差しの目 に対する勝利」 (2000:135)は、だからといって、 “私に対するあなたの勝利”とはならない。なぜな ら、片思いの場合はさておき、相思相愛においては、「私」(「目」)と「あなた」(「眼差し」)は、立 場によって随時入れ替わる性質のものであり、固定した役割分担関係にはならないからだ(そうなっ たら、愛は醒めてしまう)。 同様の観点から患者と分析家の“視覚闘争”をみていくと、診察室のパラレルワールド化(対象 a の二重化)による、“治す側”と“治される側”の立場の逆転が問題となる。もっとも、立場が逆転 したところで患者が分析家を治すというわけではなく、相手の粗をみつけては、「先生に私を治すこ とは不可能です」と見下すことで溜飲を下げるのがせいぜいだ。とはいえ、分析家からすれば、患者 の思惑がそうであっても、自分に向けられた批判を無下に斥けるわけにもいかず、それどころかむし 11.
(12) ろ積極的に「アクティング・アウト」15 つまり、医師への責任転嫁という名の症状として対処しなけ ればならず、しかもそこに治療の打開の糸口を見つけようとしたのが、フロイトのコペルニクス的転 回であることは上に見たとおりだ。 6 分析家への抵抗手段として使うアクティング・アウトは、いってみれば‹他者›への告げ口である。 告げ口の中身はもちろん、ほんらい主体と‹他者›が共生するはずのベン図の合併部分を、分析家が勝 手に横取りし、 「主体でもあり、‹他者›でもある」とは真逆の、 「主体でもなく、‹他者›でもない」空 虚な場所に変え、患者を押しのけ、そこに不法に居座ることで、患者に主体の「意味」を伝えるとい う‹他者›の代理として責務を果たそうとしない分析家への憤りである。 とはいえ、‹他者›に告げ口しようにも、分析家が通路を塞いでいるため、肝心の‹他者›の居所が掴 めない。いったいどうすれば‹他者›に会えるのか?――と書いたところで、あれっ、これって冒頭の 寓話「掟の門」とどこか通じるところがないか?――と予期せぬ偶然の一致に驚いた。ただ、冷静に 考えてみると、カフカのテクスト自体、辻褄の合わなさが作風でもあり、あらかじめ意図された偶然 ではないか――と、そのあたりについて、以下、まだまだ憶測の域を出ないながらも、多少の無理を 承知の上で、両者の類似性の有無を探っていきたい。まずは登場人物たちの比較から――。 ヒステリー者=田舎から来た男 精神分析家=門番 ‹他者›=掟の門 ヒステリー者と田舎から来た男が、どちらも“主人公”という大役を担えるのは、彼らが登場人物中、 唯一の“欲望する” 「主体」だからである。ヒステリー者の欲望とは、 「欲望が満たされないこと」を 「満たされないことへの欲望」に「転換」させるロジックにあり(現代の精神医療では、差別的ニュ アンスを持つ「ヒステリー」に代わって「転換性障害」と呼ばれている)、誰もが求めてやまない‹他 者›からの承認でさえ、彼女にとっては満たされない欲望の承認(=病が治らないことの承認)とい う、治療者からすれば言語道断なロジックに転換される。しかも承認を拒絶したらしたで、ヒステリ ー者はさらなる圧力をかけてくる。それが精神分析概念としての「要求」である。分析家ロベルト・ ハラリの言葉を借りると――。 被分析者が断固として要求するもの、それは、要求が“満たされる”べきではないということだ。 もし要求が満たされでもしたらどうなるか? 束の間でも誤って満たされてしまうと、欲望の循環 が途切れてしまうことになる。そのとき何が起こるか? 別の新たな要求に取って代わり、それも また満たされれば、別の新たな不満が募るだけだろう。(2001:91-92、訳は筆者) では、田舎から来た男のほうはどうか。冒頭の書き出し部分―― 「掟の前に一人の門番が立っていた。 この門番のところへ田舎から一人の男がやってきて、掟のなかへ入れてくれと頼んだ。」(1996:152) ――だけを読むと、純粋に「掟」への欲求があるように見える。その後、一向に答えをもらえぬまま 最期を迎えるわけだが、それでも男は「みんな掟を求めているというのに」と訴えをやめない。この 12.
(13) 強烈な執着心はいったいどこからくるのだろうか。そのヒントとなるのが、男がしゃべる言葉の主語 の人称代名詞――「わたし」と「みんな」――の奇妙な使い分けである。 たとえば、いま挙げた「みんな掟を求めているというのに」に続けて男は言う――「この長年のあ いだわたしのほかにはだれひとりとして、入れてくれといってこなかったのは、いったいどうしたわ けなのでしょうか?」。これに対する門番の答えが、あの有名な「この門はただおまえだけのものと きめられていたのだ」となるわけだが、主語の部分に注意しながら読んでいくと、ある不可解なもの が浮上してくる。 そもそも、生涯かけて追い求めるほど「掟」に執着心のある男が、自分のことを「みんな」と呼ぶ だろうか。断っておくと、この男は“Yes We Can!”のオバマ元大統領のような民衆を導く立場にいる 人間ではない。彼は単にお上から出頭を命じられ(はっきりとは書かれていないが、読者は自然とそ う推測する)、仕方なくやってきたに過ぎない。なのに、何故そこにいない「みんな」を巻き込んで まで門の中に入りたがるのか。 おそらくここに告げ口の告げ口たる所以がある。誰もが知るように、告げ口が成立するには、する 側とされる側が、善悪や是非にかんして暗黙の価値観を共有する必要があるが(「あいつは俺がそれ を嫌がるのを承知でわざとやっている」等)、本当に同じ価値観なのかどうか確認しようがない以上、 極端な話、互いが間違った思い込みをしていても共有は成り立つ。大事なのは、共有の中身(同じ価 値観)ではなく、共有それ自体の「行為遂行性」(ジュディス・バトラー)だ。告げ口を“遂行的” に行うことで、かりそめに暗黙の前提を作り上げ、虚構なりに“リアル”に映れば、事実上の価値観 の共有となる。そして、それにより仕組む側と仕組まれる側とのあいだに転移上の共犯関係が生まれ る。自分の勝手な妄想を相手に無理やり押し付け、相手もその勢いに押され信じ込まされるという点 では「まやかし」といってよい。それでは――。 神経症者の幻想における対象のまやかし的使用の背後には、いったいどのような現実があるので しょうか。それは、神経症者が a の機能を‹他者›の中へと移送することができたという事実によ って、十分に理解することができます。この事実は極めて単純な名前をもっています。つまり要 求です。(2017:78) このくだりは失敗した臨床例として挙げられているのだが、他の医療活動と違い、精神分析での失敗 には、敗者に加え勝者もいる。ここでの患者は勝者であり、先の「(分析家の)眼差しの(患者の) 目に対する勝利」とは逆の、 「(患者の)目の(分析家の)眼差しに対する勝利」である。その裏付け となるのが「移送することができた」という完了形である。これをわれわれの文脈に置き換えると、 「移送」は「告げ口」にあたり、いずれも‹他者›に向けられている。その際、問題となるのが「a」 の機能である。ヒステリー者が自身を対象 a として‹他者›に差し出す傾向については先に触れたが、 田舎から来た男にとって対象 a とは何か。それは、自身が一員であるところの「みんな」であり、 彼が門の中に入ることを堂々と「求める」ことができたのも、彼が「みんな」の一員と信じるかぎり においてである。 門番からの返し――「この門はただおまえだけのものときめられていたのだ」――が寓話的のみな らず、臨床的に絶大な効果をもつのは、次の点にある。男が同じ人間として潜在的に「みんな」の中 のひとりではありえても、現実には「みんな」の中のひとりではないことを――「わたしのほかには 13.
(14) だれひとりとして、入れてくれといってこなかった」のは、そもそも「みんな」などいなかったから という事実を容赦なく示すことで、それまで「みんな」を盾に入構許可を要求してきた男の「まやか し」を根底から覆すのである。 ここに対象 a の臨床的意義がある。素朴な寓話的解釈だと、勝手な独り相撲といった道徳訓の域を 出ないが、臨床的には、それまでの‹他者›を人質にとった膠着状態を打開するための強力な武器とな る。神経症の幻想は、対象 a を「‹他者›の中へと移送する」ことで強化される。ならば、その対象 a を分析家のもとに“逆移送”すればよいのだ。 7 ここまで手短だが「ヒステリー者=田舎から来た男」、「精神分析家=門番」について論じてきた。 最後に、三人目の‹他者›=「掟の門」についてだが、ここが寓話的にも、臨床的にも最も重要となる。 「掟のなかへ入れてくれ」と門番に許可を求めてきたとき、男はその理由については語らない(「み んな掟を求めている」と語ったのは、死を覚悟した後だ)。なぜ語らないのか。あまりに自明すぎて 語る必要がないからか。それとも状況が呑み込めなさすぎて、語ろうにも語れないのか。どちらにし ても、語れるように仕向けるのが精神分析の仕事である。では、どのように仕向けるのか。これにつ いてはケースバイケースなので、ここでは触れず、どこに仕向けるのかについてだけ述べる。それは、 ラカンがフロイトに倣い、終始一貫して強調してきたことである。すなわち――。 欲望と法は同じものである。(2017:125) ここまではっきり言われると、かえって頭が混乱するが、それを見越してか、すぐさま注釈が加わる ――「欲望と法は、実は同じ一つの障壁」である(同)。 「障壁」とは、欲望充足を阻止する壁であり、 掟を塞ぐ門のことだが、逆に言えば、障壁を築くことで欲望が生じ、事後的に掟が作られるとも言え る。満たされない状態が欲望の前提条件であるように、法は背く欲望を産むための前提条件である (もっとも実際に背くわけではない。背く自分の度胸に酔いしれるだけである)。ところが不運にも、 田舎から来た男は門番のせいで法に近づけず、背こうにも背きようがない。 こうして‹他者›への告げ口は不首尾に終わるが、じつはそれこそヒステリー者が密かに望んでい たことで、首尾よく終わるより、不首尾に終わる――そして“終わり続ける”――ほうが、彼(女) のヒステリー的自我を維持するうえで、より好都合なのだ。しかし、今回は相手が一枚上手だった。 門番からの止めの一撃――「この門はただおまえだけのものときめられていたのだ」――が男にとっ てかくも致命的だったのは、男が我慢の限界に達したのを見据えていたかのように、ほんらい無口で あったはずの門番が(なぜなら「欲望の原因」 (=対象 a)は口を持たないからだ)、とつじょ口を開 いたからだ。 門番が話す側に立った以上、男は聞く側に回るしかない。そして聞く側に回ることは対象 a にな ることに他ならず……と書いてて、おやっ、話が逆になってやしないか。もともと男が不当に保持し ていた対象 a を門番が取り返したという議論ではなかったか――と、なんだか話があべこべでやや こしくなってきたが、いったいこれはどういうことか。 この件については、実ははすでに回答済みである。なぜそうなるのかというと、対象 a が同時、か つ双方向的(“男→門番”、 “門番→男” )に「移送」されることで、パラレルワールドを創るからであ 14.
(15) る。二つの世界を便宜上、 「第一世界」 (男→門番)と「第二世界」 (門番→男)としよう。 「第一世界」 で担保として賭けられているのは「みんな」である。ところが、「この門はただおまえだけのものと きめられていたのだ」と暴露されることで、門に入るためのただの口実に過ぎないことが明かされる わけだが、対象 a の移送が起きるのは実はそこではなく、それに先立つ男からの問い――「わたし のほかにはだれひとりとして、入れてくれといってこなかったのは、いったいどうしたわけなのでし ょうか?」――が発せられた瞬間である。 この永年鬱積してきた疑問が口に出た瞬間こそ、まさにアクティング・アウトである。これが‹他 者›への告げ口であることはすでに述べた。ここで強調したいのは、告げ口するにはなにより“話す” ことが必要であり、話すという能動的行為に出ることで、「攻撃は最大の防御」どころか、かえって 弱み、もとい、臨床材料の宝の山を逆に与えてしまうことである。先の「眼差しの目に対する勝利」 をもじるなら、それこそ分析家の「耳の口に対する勝利」に向けた第一歩であり、かたや患者にとっ ては「口の耳に対する敗北」の始まりとなる。 このように「第一世界」の優劣が“聞く < 話す”だとしたら、いっぽうの「第二世界」は“聞く > 話す”となる。そこで賭けられている担保は何か。上記の「致命的」をより正確に記すと“致死的”、 つまり“死の目前” である。事実、 「わたしのほかにはだれひとりとして、入れてくれといってこな かったのは、いったいどうしたわけなのでしょうか?」に続く語り部の言葉は、「すでに臨終が迫っ ているのを見てとった門番は…」である。永六輔の名言「人間は二度死にます」16 において一つ目の 死は生物学的死、二度目の死は社会的死(「人々に忘れ去られた時」)だが、死の目前(自覚)も一種 の死とみなせるならば、人間は三度死ぬことになる。「掟の門」と精神分析臨床で問題となるのは、 最初の二つであり、三つ目は後日譚にすぎない。 「耳の口に対する勝利」の指標は、臨終の際、口の機能(発声)が耳の機能(聴覚)よりも先に衰 えることで示されるが、この短いタイムラグの中で、奇しくも「第一世界」と「第二世界」(一つ目 の死)が交叉し、それまで中身=意味が欠けていたシニフィアン(「みんな」)がシニフィエ(死)に よって満たされる。これにより、「みんな」の空想上の一員にすぎなかった男は、事実上の一員(死 者)となる。厳密には、真相を告げられた時点で男はまだ生きているが、死の床における多少の時差 は取るに足らない。 臨終の席に立ち会った者なら誰しも見覚えがあるように、意識不明の昏睡状態であっても家族や 友人たちが、あらゆる思いの丈を死にゆく病人の耳元にぶつけるのは、たとえ話せなくなっても耳だ けはまだ生きていると信じているからであり、 「瞳孔散大」確定(死亡宣告)後も対話は続けられる。 このいわば生と死の間隙を突いたパラレルワールドの同期によって、男は“死ぬ”のと同時に“生き る”。遺された“話す”者のなかで“聞く”ことの「意味」が生き続けることで、男はやっと死ねる のだ。ただ、同期はそう長くは続かず、ベン図の矢印が下に落ちる瞬間ほど、ほんのあっという間の 出来事だ。滅多に姿を現さぬ対象 a が束の間、垣間見えるのも、そんな瞬間である。. 註 1.. 半期 15 回の授業だと 7 作ほど鑑賞することになるが、参考までに近年、教材として使用した. 作品をランダムに列挙すると: 『シャッターアイランド』 (2009)、 『贖罪』 (2012)、 『リリーのすべて』 15.
(16) (2015)、『チェンジリング』(2008)、『ディス/コネクト』(2012)、『オペラ座の怪人』(2004)、『カ ラー・オブ・ハート』 (1998)、 『マルホランド・ドライブ』 (2001)、 『アメリカン・ビューティー』 (1999) などを観た。 2.. これに「両価性」を加えると、 「葛藤」の力動性が増す。たとえば「不安を楽しむ」だけでは主体. に揺らぎは生じないが、「楽しむことに不安を感じる」と、動詞と目的語が逆転すると、途端に主体 に揺らぎが生じ、安定した主体と不安定な主体に分裂する。 3.. ゲイによれば、研究者の卵だった二十代(1870 年代)のフロイトが友人に宛てた手紙に、 「自分. は天職として『人間を拷問にかける』ことよりも『動物を虐待する』ことのほうを選ぶつもりだと書 いている」(1997:42)。 4.. ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『ヒステリーの発明――シャルコーとサルベとリエール写真. 図像集(上下)』参照。 5.. 「ヒステリー研究」、『フロイト著作集7』、人文書院。. 6. 「シェーマ L」は、ラカンの様々なセミネールで論じられているが、最も分かりやすい説明とし て以下を参照。『精神病(上)』(1987:21)。 7.. これを図で表したのが以下である(2000:140)。なお、原典内の図表がネットに見当たらなかった. ため、以下のネット論文を参照した。榊山裕子「『眼』と『眼差し』 (1)」、 『図解. 基礎からの精神分. 析理論』。また、図の理解にあたって、以下から多くの示唆を得た。Roberto Harari Lacan’s Four Fundamental Concepts of Psychoanalysis: An Introduction. (2004:128-131).. 8.. 実はアンナ・Oの「成功例」も、実はフロイトの勝手な思い込みに過ぎなかったのではないか?. との問いを探求した研究として以下の著作がある。リチャード・A・スクーズ『フロイトとアンナ・ O――最初の精神分析は失敗したのか』、岡元彩子他訳、みすず書房。なお、アンナ・Oの本名ベル タ・パッペンハイムの主にユダヤ女性解放運動家としての生涯を辿った研究に、田村雲供『フロイト のアンナ・O嬢とナチズム――フェミニスト・パッペンハイムの軌跡』がある。 9. 『不安(下)』209-211 頁。なおベン図には、いくつものバージョンがあり、本論では最も簡易な Quinet 版を採用した(1995:143)。 10.. Dylan Evans の説明によれば――。 「知っているとされる主体」とは、分析家自身を指すものではなく、治療の際に分析家が体現し うる一つの機能を示す。この機能を分析家が体現していると被分析者が知覚することにより初め て転移が成立したものとみなされる。転移が起きたとき、どういう知識を分析家は保持している とみなされるのか?……. 分析家は、被分析者が発する言葉の隠された意味、つまり彼が発した言 16.
(17) 葉の彼自身さえ気づかぬ意味作用について知っていると(被分析者に)みなされるのである。 (1996:197、筆者訳) 11.. 『四基本概念』16 章「主体と‹他者›――疎外」参照。. 12.. この「探り続ける」行為をフロイトの論考「本能とその運命」 (1970:63-64)に倣い、 「対象」 (目. 的)と「目標」という二つの混同しがちな概念に分けて例示すると、前者の場合、具体的な対象の獲 得(誰それとの結婚、マイホーム購入)や目的の達成(何々大学に合格、ダイエットに成功) とな るが、後者の場合、こうした獲得や達成によって得られる快や幸のほうに重きが置かれる。 フロイトがなぜこれら二つを分けて考察したかというと、対象の獲得が必ずしも後者の充足感を 伴うとは限らず(その極端な例が「マタニティーブルー」や「昇進うつ」である)、また逆に、何も 獲得していないにもかかわらず、快や幸の状態を維持し続けられるひともいるからである。いわゆる 「自分探し」や「自己啓発」などがそうで、「自分探し」の末に「本当の自分」を見つけたと豪語す る人間が揶揄されがちなのは、その種の「本当の自分」が大抵レディメイドの消費物で、すぐに飽き られる運命にあるからだ。ならば「目標」の方を選択すればよいかというと、これまた問題含みで、 物欲や煩悩を捨て、ひたすら“無”の境地に居続ける「スピリチャル」な生き方も、しょせんは現実 逃避の一種にすぎず、麻薬やアルコールといったいどこが違うのか、といった疑念は拭えない。 13.. 同 17 章「主体と‹他者›(II)――アファニシス」参照。. 14.. 自動詞としての欲望が症状化したのがフロイトのいう「制止」であり、欲望を「対象」と「目. 標」の二つに峻別した意義もそこにある。ハラリの言葉を借りると、「フロイトが教えるように、制 止した欲動は、充足に到達しない目標である」。(2004:15) 15. 『不安(上)』9 章「行為への移行と『アクティング・アウト』――身を投げること、そして舞 台に登ること」参照。ちなみにアクティング・アウトは「症状」とまったく同義ではない――。 皆さんは私にこうおっしゃるでしょう。「この「アクティング・アウト」、知られていない欲望の この実演のどこが独自なのか。同じじゃないか。症状だって同じじゃないか。症状だって違うも のとして現れるのだから、 「アクティング・アウト」は結局、症状なのだ。それが証拠に「アクテ ィング・アウト」もまた、解釈されなければならないものである」。ええ、いいでしょう。でも、 細部をはっきりさせましょう。ご存知のように症状は直接に解釈されることはありません。それ が解釈されるためには転移、つまり‹他者›の導入が必要です。<中略>一方、確かに、 「アクティ ング・アウト」は解釈を呼び出します。(2017:191) いっけん違いがあってないように見えるが、本論の文脈に沿って読めば、違いはおのずと明らかだろ う。両者の違いは、 「見せる」かどうか、つまり演劇性、劇場性の有無にあり、 「‹他者›の導入」とは 観客の動員に置き換えられる。神経症とヒステリーは同義と本論で述べたが、この観点から見ると違 いが生じる。ヒステリーは、失神にしろ、摂食障害にしろ、「ヒスる」にしろ、「仮面うつ」にしろ、 どれもたちどころに“それ”と分かるものばかりなのに対し、神経症は、うつ病や希死念慮、早期覚 醒や引きこもりと、どれも“上演困難”とはいえないまでも、“絵にならない”ものばかりである。 16.. 『きいちゃんのブログ』参照。https://ameblo.jp/kiyo-fu18/entry-12222932434.html. 17.
(18) 参考文献一覧 榊山裕子(2019)「『眼』と『眼差し』(1)」、『図解 基礎からの精神分析理論』 http://euroclinique-dc.com/psychanalyse10.html(閲覧日:2019 年 9 月 25 日) ジークムント・フロイト(1970) 「本能とその運命」、 『フロイト著作集6』、小此木啓吾訳、人文書院。 ………………(1974)「ヒステリー研究」、『フロイト著作集7』、懸田克躬訳、人文書院。 ジャック・ラカン(1987)『精神病(上)』、ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之他訳、岩波書店。 …………………(2000)『精神分析の四基本概念』、ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之訳、岩波 書店。 …………………(2017)『不安(上)』、ジャック=アラン・ミレール編、小出浩之他訳、岩波書店。 シュン(2019) 「カフカの短編「掟の門前」に学ぶ生き方。行動しなきゃ死ぬ時後悔する」https://jisekikoumuin.com/kafka/(閲覧日:2019 年 09 月 10 日) ジョルジュ・ディディ=ユベルマン(2014)『ヒステリーの発明――シャルコーとサルベとリエール 写真図像集(上下)』、谷川多佳子他訳、みすず書房。 田村雲供(2004)『フロイトのアンナ・O嬢とナチズム――フェミニスト・パッペンハイムの軌跡』、 ミネルヴァ書房。 ピーター・ゲイ(1997)『フロイト(1)』、鈴木晶訳、みすず書房。 フランツ・カフカ(1966)『審判』、辻瑆訳、岩波文庫。 リチャード・A・スクーズ( 2015 ) 『フロイトとアンナ・O――最初の精神分析は失敗したのか』、 岡元彩子他訳、みすず書房。 Evans, Dylan(1996)An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis. London: Routledge. Harari, Roberto (2001). Lacan’s Seminar on “Anxiety”: An Introdction. New York: Other Press.. ……………………(2004)Lacan’s Four Fundamental Concepts of Psychoanalysis: An Introduction. New York: Other Press. Quinet,Antonio (1995). The Gaze as an Object. In: Richard Feldstein, Bruce Fink and Maire Jaanus (eds.) Reading Seminar XI: Lacan’s Four Fundamental Concepts of Psychoanalysis, 139-148. New York: State University of New York Press.. 18.
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