ヘーゲル『刑法学』の世界 : 刑法学における『全』・『個』の理論
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(2) 序. ︵四 ︶ 違 法 論. ︵三︶ 帰責・責任論. ︵一一︶ 刑罰理論. ︵五 ︶ 自 由 意 思 論. 五 へーゲル﹃刑法哲学﹄とその現代的意義 六 斉藤刑法学における﹃全﹄・﹃個﹄の理論. 七 結 語. 一14一. −刑法理論と﹃無﹄の弁証法との連関ー. もとより、へーゲル刑法哲学の究明には、その哲学の理解が基礎になる。﹃法の哲学﹄一書のみにてよくなしうるとこ ︵2︶ ろではない。何よりも、﹃法の哲学﹄の完全なる解明のためには、へーゲルの全作品の理解を前提としなければならない。. 関心を抱き、ささやかではあるが、一連の考察を加えてきた。ここにものする小論はその最終稿である。. る動態的な犯罪・刑罰理論および動中に静を求める法と自由の問題すなわち﹃全﹄と﹃個﹄との論理についてかねてより. やかに示しているとの評価を、わたくしはもっている。筆者は、弁証法的な展開をみせ、自在に語られ、奔放に論ぜられ. の中で、断片的ではあるがーヘーゲルのいわゆる体系断片砕ω房巨匿管o旨−凝縮された形で、独自の刑法理論を鮮. 。ω一︶をおいて他に存在しないといってよい。もっとも、へーゲルは、その刑法学体系なるものを正面か 国①αQ9嵩81一〇 ︵1︶ ら取り上げてこれを論じているわけではない。その哲学全体系とりわけ﹃法哲学綱要﹄ ︵以下では﹃法の哲学﹄という︶. 刑法学説史上、刑法哲学に対して、直接的にしかも色合い濃く、観念哲学の影響を与えた者は、ヘーゲル︵P≦国. 説. 説 論.
(3) へ一ゲル鰍法学蕩の糧罫. このことは充分承知している。けれども、これは、︸珊法学徒にとって至難に近い業であるといわねばならない。ただ、 ︵3︶ ︵4︶. ヘーゲルは、その哲学の基礎をこつの作品に託し、通観しうる全体像を余すところなく明らかならしめている。﹃精神現. 象学﹄と﹃小論理学鞠の二著作がこれである。﹃精神現象藷においては、直接的な意識から絶対知へ、また、常識から. 思弁的な恩考へと到達するために精神が遍歴するあらゆる段階を論述しつつ、自己の立場を要約して、真理は、実体. ハ5︸. ︵6︶ 窃昏韓懲腕︶としてだけでなくして、主体ハ留黛象亀としても把えられなければならない、とする。﹃法の哲学﹄を把握す. るためには、主観的精神論、とりわけ第三章﹃心理学﹂の理解は、必要不可欠である。また、﹃小論理挙勘においては、. 発展し、その発展の中で、外的世界に現実在︵≦犀聾o蒔⑦導を与える精神6Φ翼Vが考察されているのである。﹃法の哲. ︵7V. 一15一. 学﹄は、その序言で、﹃エンチクロペディミ駄の中にふくまれているものと同︶の根本概念をより∼層体系的に論述した へ臭亀 ものであると言明している︵電‘き犠8900る︶から、藺聾、墓本的思想においては同岬であるとみてよい。. 的意義を論証する。しかるのち、いま憲でほとんど論ぜりれることのなかった﹃法の哲学﹄における﹃全﹄と﹃個﹄. 本稿においては、まず、予備的考察を経たるのち、へ︸デル﹃剃法学篇の大要を明らかならしめる。さらに、その現代. 念法﹄と、自由﹄︶との関係を究明しつつ、その過程で珊洩学と弁証法との関連構造を射程におさめてみたいとおもうの. である。おわりに、いまはなき恩緬斉藤金作博士の刑事法学の基底に底礎される碗全﹄﹄個臨の理論を解明し、これと. ﹃有﹄㍉無﹄の弁証法との連関を検証して、稿を閉じ、牛歩のそれに似た研究に終りを告げることにしたい。. 学綱要隔Ωシ・C臼く昭二ξ、高峯一愚訳﹃法の哲学ー自然法と国家学ー﹄上・下︵臨二八、新版昭五さ、藤野渉.赤沢正敏. ︷玉︶鼠紹鼻の歪“量象︾崔88竃Φα霧寄魯駐&魯歎昌謬け賃①。置彰篇ω鼠飴薮ω器誘魯聾、蓉の霧敷。ρβ も 毅出ゆ遷疹卿暫魯ζ穣8つ罵一y鱒 伽猛q以下、引馬はく鳶4︶による。訳書として、速水敬二・岡田隆乎共訳吻へ玉ゲル法の哲学綱要﹄︷昭六︶、田村塞訳﹃法律哲. 注.
(4) ︵4︶. ︵5︶. ︵6︶. 共訳﹃法の哲学﹄︵昭四二︶。本稿は、高峯博士訳︵新版︶に負うところが大きい。しかし、訳文にいささか工夫をしたところも. の8巨ρ一〇8。. ある。R国Φひq①一、ω︸匡oωε身9困αq拝↓黙臣醇o畠註島8貯霧冨↓言容o〆お合嚇寓菖a困巴旦ωa象窪目国ΦαQ昏幻g耳眉匡o−. い霞①目’頴詔Φ一ωωΦ罠αR℃匡oω8匡o巨α儀R勾g耳8匡oωo℃巨o︵︼Wぎ8き国凄日αq5鵠oひQΦ一の幻Φ9房O巨oωo℃匡Φ︶一〇ω一矯ω。象. ル精神現象学﹄、同﹃精神哲学﹄︵世界思想教養全集︵四︶所収、金子武蔵訳﹃精神の現象学﹄、真下信一訳﹃精神現象学︵序言. =①αq9℃喜o目90一〇四①8のO①馨$国R四島斡︿8器器o戸ド>島。久ごN一︶。以下では、穿ぎで引用する。樫山欽四郎訳﹃へーゲ. および序説︶﹄、山本信一訳﹃精神現象学︵序説︶﹄参照。なお、矢崎美盛﹃へーゲル精神現象論﹄。. =囲9両目鴫匹o冨色①ユR℃匡oの8匡の魯窪翰δ器霧9興①昌冒OPB邑。。ωφ=Φ冨島堕︿8冨ωωo舅鱒>島こ︵一Q8︶●以下では、閏目ざで. <αqr蜜8巨国誉霞β9Φ勺匡oωo音①α。ωα①誘畠①b一ユ①﹄ω馨ρP↓①戸一旨Pψ鐸図巨。諄39浮ひQΦ一ω需び①p名①鱒巨q. 引用する。船山信一訳﹃精神哲学﹄上・下。<騨国ヨの一匹8Fω量o辟lO幕閃貯i国忌暮o毒αq9蟄国藷色i﹂O醤ψ嵩R. 富ぼρ一8ドωρ一ψN8”ψN逡強なお、ベルネェル・マルクスはいう。﹃著作全体を観るならば、われわれは、﹁知﹂はそこ. 達する点までを被覆する﹄と︵ミoヨR寓貰”=認o一の嘗ぎoBΦ8δ笹08のO駐8ω由詔Φ一.ω嘗象oB窪oδ題99警 一けωぎ巨目α. において知−絶対的知1として、主体と客体の同一性の考察、したがって、知と対象性︵o薯9ぎ9︶との対立の止揚に到. ﹃法の哲学﹄との関係については、一罫器ρ匡詔霧評90B窪o一〇吼08のO①醇霧巨αα段ω冨盤這曽ある9ψお監. 勺目もoωoー︾Oo自昌9§8島①ギ98Φ磐α冒Ro2&o乏↓H目ω醇9冴勺9R=8葺一S9,憂““マ8亨ωρなお、ヘーゲル. 巨ユ良Φ閃o巴島巴魯穿●日匹警R律∪①旨の畠o℃匡oω8匡ρ嘗ωρごωρぼのびoω。ψ↑. ω8冨巨壁博=詔Φ一ωZ9鶏5α号ぼΦ1ぼダロ器房︾ぴ簿5色6目㎎窪8ω喜こωΦ昌BωP﹂目国魯↑ψ鴇嚇夷け=昌霞5国詔色. ﹃現実在﹄の概念については、穿oB霧宰o員uR犀Φ野α一ω冨罠ぎ国認駐ぎ讐﹂8曾ψNO宍. 国壁出Φ言目鼠αQ鴇嘗①ω日旨霞αR霞禮①一ω9s男8算名匡oのo音Φ︵三壁ユ毘自釜︸︷Φαq①一ω寄9菖匡oωo音Φ葛阜︸Ny一〇蚕ω●認舜. く磯一.切自oヨ=①αQo一ωωoN巨℃臣oωo音①りω●嶺N●. 987. 一16一. 32 ハパパ. 説 論.
(5) ヘーゲル『刑法学£の世界. ニ ヘーゲル哲学の基礎 ︵ ︸ ︶ 序 説 ︸ へーゲル哲学によれば、世界は、発展的な理念の自己実現の過程として現われる。. 理念の発展段階は常に三者に限るのである。論理は世界のあらゆるものを理念の形讐において自らのうちに含んでいる. のではあるが、まず、理念の最初の活動面を純粋思惟の世界にみる︵﹃理念即自かつ対自島①観$器琶α欝ω凶9︶。つい. 一17一. ρ酔霞﹀を﹃他在における理念﹄︵良①ざ8獣岸弩ぎ紆窃ωo冒︶として現実化し、さらにまた、その両者の統︶、 で、自然︵2禽. すなわち﹃それの他在から自己内へ還帰せる理念﹄︵島o嵐8幕薯ω費①簿雪α段ω器ぼぼ。。卿3N邑⇔葵o算︶を精神︵OΦ翼︶ ︵−︶ ︵2︶ として考察する。かくして、へ!ゲルにおいては、知とその対象、有と概念、主観と客観は同∼である。この同∼性は、 パヨレ 自意識の中で止揚された区別の統一として、思弁的に理解されるべきものである。これは、次の広く人口に膳表する命題. に表現されている。すなわち、﹃理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である﹄︵電ご<o学 話②ρω。謀︶というのである。. 理念は、最初、感性的材料に関係することなく、それ自体の発展的場面において、その活動形式をもつ。理念のこの純 ︵4︶ 粋な活動形式そのものについての理論が、﹃論理学﹄である。これは、純粋理念の学、思惟の抽象的要素における理念の. 学である︵国養f蟹O︶。理念即対自として把握されるのである。また、その他在における理念が、﹃自然哲学客讐な巨マ. 書Φである。﹃自然は、その実在に於いては何等の自由を示しておらず、むしろ自然必然性及び偶然性を現わしてゐる. ℃霞oω099である︵閣自yゆ置︶。かつて、田村博士は、﹃自然を根底からゆり動かす精神は、自己を意識的個別体とし. ︵6︾. にすぎなど。さらに、それの他在から自己内に還帰せる理念が、精神であって、この対象が、﹃精神哲学O①鰐畠. ︵5︶. 8.
(6) て、即ち自我として把握する。自由なる理性的自己となって初めて、精神は完全に自然からの自己解放を完成する﹄と説. ︵7︶ かれたのであった。. もとより、ここでいうところの﹃精神﹄は、物質に対するものではない。具体的に現実化された理念すなわちその純粋 ︵8V 活動形式である思惟とそれの材料である自然との統一において自己そのものに還帰せる理念である。かような発展は、概. 念の自己区分にしたがって、必然的に、即自︵≧の一魯8営︶、対自︵男骨旨房Φ営︶、即自かつ対自︵ぎ巨α穿ω一3器営︶の連. 続的三段階を進み、これが弁証法の一般形式をなしているこというまでもない。 ︵9︶ 精神も自然と同様、その概念的発展にしたがって、三つの発展段階を通らなければならない。. 第一は、精神の概念が完成し、精神の存在それ自体が、他に依存することなく自由に存在することである。このような、. それ自体の概念における精神、すなわち自己への関係の形態におけるものが﹃主観的精神αRω呂言ざおO①算﹄である。. 第二。精神が実在するためには、その世界を自己の内から産み出さねばならない。自己を客観化することによって産み. 出した現存の世界の内に存在する精神である。この世界においては、自由は現存の必然性として存在する。これが、現実 ︵10V 在の形態における﹃客観的精神αRo豆①盛く①O①幹﹄である。. 第三が、﹃絶対的精神8轟富o葺①Oo聾﹄である。これは、自己の客観性から、自己に還帰し、自己との絶対的同一性. もしくはそれの概念との絶対的統一性のうちにあること、すなわち主観と客観との統一である。. ︵11︶. 主観的精神としての精神は、それが絶対的精神へと自らを高めるためには、まず、右の客観的精神の世界において、外. 部的実在性の世界を自己のものとし、そして、自己を客観化することによって、自己に現実在を与えなければならない。. 精神のこの発展段階が、客観的精神の世界をなしている。したがって、客観的精神は、主観的精神の成果として現われて. くるのである。そこで、客観的精神の概念を明らかにするためには、主観的精神の最も発展した形態である﹃自由なる意 志﹄︵自由意思︶についての考察が必要になる。. ︵ 1 2 ︶. 一18一. 説 論.
(7) へ一ゲル『刑法学』の世界. なお、﹃理念﹄と﹃概念﹄の意義については後段で触れるのが便宜であろう。. ニ ヘーゲルの世界観は、﹃絶対的﹄または﹃客観的﹄概念として特徴づけられる。ここから、いわゆる同一性説をうか ︵13︶ ︵14︶. ︵16︶. 5︶. がうことができるのである。この基本的思考は、﹃絶対的なものが精神である﹄または﹃あらゆる存在は現実化された思 ︵1 惟であり、またあらゆる生成は思惟の展開である﹄というところに表現される。かくして、思惟と存在、理念と現実在の. ︵18︶ ︵19︶. 同一性が結果する。一方、精神の組織は同時に現実世界のそれであり、他方、世界は絶対的精神の展開の歴史となる。絶. 対性それ自体は、﹃それ自体展開する精神のほかの何ものでもない﹄。すなわち、人間精神の理想化である。. このことから、われわれは、次の二命題を抽出することができるであろう。. 第一に、現実的なるものは絶対的理性の顕現であるから、あらゆる現実的なるものは、理性的であるということである。. 先に触れたように、﹃法の哲学﹄で公式化されているこの簡潔な命題が、他の体系的な主要作品の前文を飾らなかったの. は、それなりの意味をもつ。これは、同時期の思弁的法哲学学説、とりわけ対立するものを全く非理性的なるもの、空虚. なるものとして顧慮し、将来を実現される理想として考究することのない固有の自然法学説に対するものとして把握され. ているからである。へーゲルは現実在をとりわけ強調した。また、右の命題に、単に文言上、形式的なる意昧をもたしめ. ︵20︶ ︵21︶. たのではなかった。現在と過去の仮象の中で、事物を内在的なものとして、また、永遠なるものを現在するものとして認. 識する。永遠なるものすなわち理性は、偶然的なるものの多彩な外皮の中で、多様な形態現象として潜んでいるところの. 存在の中核である。第二、哲学は、そのため、多彩な外皮の中から、この中核を摘出することおよび理念を唯一の現実的. 2×23﹀. なるもの︵理性的なるもの︶として扶り出すことに帰する。 ︵2 へーゲルは、周知のようにこの作業を、独自の弁証法という手法を駆使して完成したのである。もっとも、へーゲル自. 身は、弁証法とは何であるかについて、一般的・抽象的説示を全くといってよいほどしていない。. 一19一.
(8) パパパハ ︵8︶. ︵7︶. 20 19 18 17 16 1514 13 12 11. 田村 実﹃へーゲルの法律哲学﹄︵昭九︶六二頁、六三頁。. 切巨g9ωoD鴇什ΦヨαR幻①9けω℃塵oωo音①浮αQo一ω︵田島酵畦αq﹃国o覧ω男o舞眉匡oのo音oy一8一あ●㎝刈.. いRΦ長国畠①一ω切Φ暮αR℃巨。ω。旨①巨α寄。募ら匡。ωo音o︸︵国暴据営浮αQΦ一ω寄。げ曾匡。ω。音。︶一。ω一’ω﹂9. 田村・前掲六三頁参照。なお、論理学については、武市健人﹃へーゲル論理学の世界 その資本論への連関 ﹄上・中 下. 田村・前掲七〇頁。. 巻︵昭二二︶を参照した。. 田村・前掲七三頁参照。. O①h. 客観的精神は、﹃客観的﹄精神と﹃客観化された﹄精神を意味する︵自壁目帥β∪器ギo幕ヨ8ωαq①δ凝9留昼ド>島。﹂虐ρψ. Rωo一〇日o具国o鴨一、の088宮oh.、Oo一ωけ、.︵︸︷①αQo押>Oo一〇980隔O邑8高ωω亀ω︶も﹂謡−置O●. 曽刈壱。Go一〇。. <αq一●国o訂ぎ属R旧名旨o拐即o瀞魯目巳ω嘗既o鴇ψ目。理念については、国霞o一国国畳即ぎ菅8Gお富畝80隔島①[〇四〇亀頃藷鼻這oo鯉︶●. 間の自由の第一段階は、自我を語ること︵一9ω譜窪︶の中に在る﹄とする︵ψ曽︶。. 田村・前掲七二頁。ロ魯巨o頁閑9ヌ家R﹄什鋤一琶qω一窪o鱒卑幕凶=詔色︵冨自。貯a﹄象釜自紹Φ一ω寄魯一聲匡88匡ρ臣砧︶は、﹃人. 山Φ頃紹。一︵⇒磐ω聾8ぎ目浮①寄①昌3びこ●国●2酵o一ω矯甘︶為げΦω巨。目Φ。︷毎①嘗Φ8幕8一。題o協ωR一も﹄①一−℃﹄①G。●. <管窪ω貫浮西o一の宰ぎoヨg。一〇鴨8ωO。一ω虜巨α儀①﹃ω§“一8どω。G 。陳Fお賠9≧震砦RΦ︸︽o香o︸営霞a8試8巴帥い①。葺。. 65 ) ). ω爵もる.Oこψ“’. 男O磯O同ORoo仁ユ矯︸審℃Φ昌のσΦαO国O鵬O一︸℃。OO・. o一げ目α﹄﹄●Oこω﹄OO●. ρ斜m。○こω﹄OO●. <鵬一・巧陣口α①一び曽口α噂U凶OOΦωO鼠OげけOαOH昌O仁①HO口℃匡OωO℃匡Φ︸㎞Wα‘ 一Hω。NO①。. 男巴畠gげR堕O①の&。耳①α①コ窪R8℃匡oωo旨ρ①●︾島←の●島9. 浮旨℃自畠Φ一導αωΦ営oNΦ芦ω。一〇〇。. ω巳N”=①αq①一超匡。ω8酵9①閃藷且且目ひq8ωω茸島g募巨ρ88昌≧筈磐ぎαRU①塞9窪oo霞島g募註器g鋒臨し緯。あφ. <ひQ一●盲O昌N”鵠O価四〇一ωN蔭OOげ口目嚥ω一〇ぼ①目qα①H一WO罠α①賊Oび噺O犀該く①づNd﹃①Oぎ琶魅四導ω。ωOR.. ) ) ) ) ) ) ) ) ) ). 20. 4321注 詣冒O. 109 パ パ パ パ ハ パ ハ ハ ハ パ. 説. 論.
(9) ヘーゲル『刑法学』の世界. ︵21︶. ︵22︶. ︵3 2︶. <ひqH↓ぎヨm国冨芦uR甲①庁⑦富訂慧日=紹色ωいo管し89ω﹄O舜なお、田辺元﹁へーゲルに於ける理性的と現実的との一致﹂ ﹃へーゲル哲 学 と 弁 証 法 ﹄ 所 収 一 二 二 頁 以 下 。 。ρ戸合伊 言身ohP毫●男国Φαqo一.ω℃げΦ8目窪o一〇尊o噛o D℃獣件i︸一〇〇. R霞9国色図。ω。置穿Φ男o一曇旨呂oロ9浮αqΦ一.ωU巨。&&r。四p掌No。刈ーマ鱒o 。8力。び象ρωo一。ヨopぽ跨。9巳件o︷=。αQ①一ー>. と構造﹄︵昭三八︶一五五頁以下、武市健人﹃へーゲル論理学の体系﹄︵昭四八︶一頁−四六頁。. 弁証法については、田辺元・前掲﹃へーゲル哲学と弁証法﹄九三頁以下、二〇六頁以下。へーゲル弁証法の本質については、船 山信一﹃新編へーゲル哲学の体系と方法﹄三〇五頁以下。へーゲル哲学の体系については、船山信一﹃へーゲル哲学体系の生成. ︵二︶弁証法. へーゲルによると、哲学は、対象を思惟によって考察することである︵国目ざ留︶。現実を理解すること、現実を、完. 全に、理解可能なものにすることが哲学の真の目標である。すべては、合理的なもの、観念的なもの、換言すれば、理性. によって合致的に認識可能なもの、理性のもつ諸概念と同性質のものと認められねばならない︵<胆国畠9三器9ω魯聾. αR一〇管︸↓①三嚇国R窪照<oロぎ30Pψ置伊︶。へーゲルの場合、カントの如き﹃物自体﹄というものは存在しない。思. 惟から独立している実在は存在しないからである。. 批判哲学 カントの認識論1においては、認識の形式と内容が区別されている。存在と当為は一ではなく、また、. 法と倫理は分離されている。これは、あらゆる区別を固定化・絶対化することになる。しかし、これらの分裂は、へーゲ. ︵1︶. ル弁証法の中では、止揚されて統一体︵南巨・魯︶に転ずるのである。なぜならば、知的世界と自然の世界は同一であるか. らである。へーゲルは、理性に﹃現実性﹄を与え、その現実の中で理性的なるものを認識した。すなわち、﹃認識そのも. ︵2︶. ︵3︶. のを、意識の内において能動的なものとして現象するものと、意識の内において受動的なものとして現象するものとの統. ζとみる。また、批判哲学は、認識された意識とその対象との間に区別を設け、さらに、道具および媒体としての知覚. の表象を前提とする︵写壁こ国巨あ。濫︶。しかし、認識にとりかかる以前に認識能力そのものを吟味するということは. 一21一. oD.
(10) 不合理であるといわねばならない。認識作用の吟味は、認識作用によってしか行われないからである︵国目ざω﹂O︶。. 思弁的に理解されるべきものである。ここで思弁的というのは、所与の事実は、形而上学により引出され、また、経験は、. 右の統一体は、へーゲルによると自意識︵ω①一げω3①慧ω房Φ営︶の中に止揚された差異︵q旨霞ω&90︶のそれであって、 ︵4︶. 理念から創造的・構造的に把握されることを意味する。. 弁証法は、﹃正︵措定︶﹄、﹃反︵措定︶﹄、﹃合﹄の定立により明らかになる。この場合、正︵定立↓ぼ駐︶、反︵反定立. 器︶は、密接に対立する二つの程度ではない。精神の運動において、相互に対立する契機であって、この精神は、. 合︵綜合ω旨臣①跨︶において統一体として止揚される。分析的に見出された矛盾︵定立と反定立︶を上位のある定立の. 中へ止揚することが弁証法の目標である。これは、﹃矛眉の統一であるから、物の変化又は運動とは弁証的に矛盾が統一. されることに外ならない。実在はすべて矛盾を含み、而も其の矛盾は必然的に統一されるから、必ずそこに運動と変化と ︵5︶ が起こってくる。運動は事物の必然的又論理的特徴であるのである﹄。. 弁証法は、﹃われわれがものを考察する場合に必ず用いるところの質と量、原因と結果といったもっとも一般的な概念 ︵6︶ と、判断、推理という思惟形式、研究方法をとりあつかっている﹄。へーゲルは、一貫して、これらの概念、思惟形式は、. すなわち、﹃考察される思惟対象が、まずはじめに、その最も直接的な相のもとに考察され、ついで突然の顛倒によって. 対立物ではない、また、各別に孤立するものではないとして、両者が相関的に用いられてはじめて有用であると主張する。. 最初の相と矛盾する別の相のもとに現われる。最後に、その思惟対象は、これら二つの対立する相の具体的同一性である ︵7︶. 横たわる緊張︵9践5巨αq︶と運動の現出︵酸93舅o巳8︶、すなわち概念の内在的自己運動である﹄ことになる。. ものとして把握される﹄のである。したがって、﹃弁証法は、外部から、事物をとり出す構想ではなくして、事物自体に ︵8V. クローネルは説く。いわく﹃自我は、自らを定立し、また、それは非自我︵蜜9ヱ3︶をも定立する。しかし、その衝. 突︵N5馨B①巷邑︶から結果する両者の合一が、第三の命題として理解されるのは、ただ、同時にあらゆる三命題の運動、. 一22一. ぎ砿浮①. 説. 論.
(11) へ一ゲル晦鐘法学譲の盤界. それらの体系が、そのうちで思考される場合である。けだし、第三命題は、第一命題としてのそのもの自体と第二命題と. しての反対命題との全体であるが、しかも、それがかような全体であるのは、第一命題の定立、第二命題の反定立、第三. 命題のうちへの二者の綜合定立を通じて完成せられるところの運動としてあるから﹄である。また、﹃存在は、自己が自. ︵£. 己自身を定立し、自己を自己自身に対して定立し、また、自己を自己と綜合定立するところにおいてのみ、それ自体︵霧. α募¢である。ヘーゲルは、この運動をば、それ自身のうちへの反省と命名している。存在がそれ自身のうちに反省す. ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヘ ヤ ペ. るとき、自己は存在としてーー自己定立的なるものに対立して定立されるものとしてー自己のうちにおいて、それ自身. 広松渉﹃へ!ゲル駈三九頁以下。. o﹄弾 ゆ轡磐滲冨鐸やな ︿ひ貸野閑8ぎぎ蟹脚瓢紹ゆ済壌o博o. 六﹀二〇六頁以下参解。. 甘粕窟介﹃ヘーゲル哲学への道﹄︵昭二三︶三六頁以下。なお、田辺元﹁弁証法の論理﹂貿ーゲル哲学と弁証法﹄勝収︵昭一. のうちに反省するもと説いている。. ︵鐙底蓑﹀. ハ3V. ︵5︶. ︵4︶. o畠⑦欝婁勲騨O‘ψ駆o⑫ 金子馬治﹁ヘーゲル哲学序説﹂﹃へーゲル哲学﹄所収三一頁。なお、将積 茂﹃ヘーゲル論理学と弁証法臨五囲頁以下、酬五五 頁以下参照. 濁①幕留癖魯詳頃農色露い麟傷ひ隣鶴壁o・筥やサお・. 松村∴甘粕﹁ヘミゲルし一四頁。. ︵7︶. 鋤費鵠畠⇔訂9鼠やお8齢なゆ’器噂. ︵8︶. ︵9︶. 捧o爵震噴騨鉾O‘ω費噺o一〇〇“. 壽二のζ馨αq毬②壽馨獄Oo滋良簿ゆ憲8暑簿鼠餌轟鼻やゆざ竃⇔噌餌鑛銭堕ω宮島霧ぎ訟の轡貸Φ薯O謹8鑓や費ア鷺o. o,. 捧o冨鍵困9黛群く象騨欝貯鐵むD簿護諄ふo適 曝鼻ー<8富憎累斡毒匹霧唇鐵o麟義噂儀窃8霞Φ驚ののΦ算窃ー堕お濾︾ω面oo鰹O斡ρg伊. 甑. o⑦感鐵鉱3− 鵜6鍾ぎ質鵠島8糞O欝牌馨畿6躍馨αq廣窃勾ワ碕鉢①魯鶴魯き蜜島暴登qも。幕艮窃ぐ象男窪R欝魯ぴ欝い勘器梓蓉梓震び霧o蝕Φ器塊o. ︵6︶. ζ響. ︵2︶. ハ 1漣 ) ︵o L︶. 讐αq. 一23∼. 匂。.
(12) り●嵩匡 ︵n︶<αqγ国馨蕊一8ダω量①醇−O薯算−国忌幕§αq窪釜国①αq①一﹂一。§o. 三 へーゲル哲学体系における﹃法の哲学﹄の地位とその体系. ︵ 一 ︶ 序 言. へーゲル法哲学の領域は、その哲学体系のうちで客観的精神にあたる︵電こ漁o。o。︶。﹃ヘーゲル自身からみて、客観的 ︵1︶. 精神の概念は全く中心的概念、あるいは、あらゆるものがそこに帰着する﹁唯一﹂の中心的概念であるということができ. 一24一. よう﹄。. へーゲルによると、客観的精神は﹃自由なる意志﹄の定在︵U器晋﹀として﹃法﹄の形態で表現される。換言すると、 ︵2︶ ﹃法はむしろ定在における自由そのもの、客観的精神の実存形態である。なぜならば、精神は自由であるからである﹄。. 自由は、法の実体を構成し、法の使命をなしている。法の体系は実現せられた自由の王国である。精神が自己自身で産. 出した第二の自然である︵国汐峯。第一の自然はいうまでもなく自然法則の支配する自然界である︵国目ざ鷲怠︶。法. は、思惟された純粋概念である︵<αqピ菊即諭o。N︶。﹃思惟を対象から発展せしめる﹄のではなくして、﹃対象をば,⋮:論理. ︵3︶ の抽象的象面において⋮⋮思惟にしたがって発展せしめる﹄のである。へーゲルは、法の出発点を自由なる意志に求め、 ︵4︶ 社会的存在にその基点を置かなかった。. 労①受の−勺臣oのo音ρ国巨ゴ目5磯ぼ浮oqΦ一の寄9曾巨oωo旨ΦレOG。どω●Nρ. ︵1︶器8巨=§欝5望①勺匡oωε霞Φ8ω亀窪富99包Φ﹄ωヨ仁ω﹂ド↓o算一8Pω●ω一仰くαqrピ霞o自”国①αq①一巴Wo罠αR℃匡oの8霞Φ毒山. 注. 説 論.
(13) ヘーゲル『刑法学』の世界. ︵3﹀寓賢︸ぎω匿時α9国ΦαqΦ一ω。﹃9閃①畠房o匡。ω。音Φ︸ψ“窃. ︵2︶閏葺B馨魯騨9①び①巳騨. 一ω一’. 。。90Rこ89旨臣①鼠。Fり①℃匡。の。9網。︷U睾壁穿8ユ&勺Φお℃Φ鼠<。︸P①昏︸一8G。”戸 ︵4︶Rω。冨。言田ひq色。昌ギ。Φα。βPも. ︵二︶ へーゲル﹃法の哲学﹄における精神の展開とその過程 ︵一︶ 序. ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ. 一25一. へーゲル哲学にとって、自由﹃概念﹄ほど主要な概念は他に存在しない。﹃法の哲学﹄は、自由についての論証であり、 ︵1︶ また、先に触れたように﹃法﹄の体系は、実現された自由の王国である。さらに、自由は、精神の本質である。へーゲル. はいう。﹃法の地盤は、一般に精神的なものであって、そのより正確な場所および出発点は、意志である。これは自由な ︵2︶ る意志である。したがって、自由が法の実体と規定をなす﹄︵圃コ総︶と。. れは、精神の﹃概念﹄自体から結果する。そして、﹃精神は、思惟自体の運動であり、この運動において、多様に規定さ. 一 主観的精神は、単独かつ孤立的に想定された個人的精神の謂である。絶対的精神の基本となるべき概念である。こ. ︵二︶ 主観的精神1﹃自由意思﹄ー. ︵2︶なお、本稿では、哲学体系においては﹃意志﹄を用い、刑法学領域の用語には﹃意思﹄を充てることにする。. ロ●一紹−戸一お。. N旨ω嵐︶国。豊.ω宕匿&℃匡。ω09矯︶戸。一−マ一。合ρ宙押℃貰醇ω。昌鴇閑ひq①一.ω088官。鵠§山。ヨ︵、.田豊.、葛島g身審一暑。。傷︶. ︵1︶<αqピ閏一⑦。導Φ冨=ΦαqΦ一ω留葺。。募箒。量ω。①。廿界甲目薮αQ︸りΦω5。目①。岳①ひQ①一.の.℃匡。の。9矯。一匹ひq算︵窪甕ξN︾霊。−. 注.
(14) ︵1︶ ︵2︶. れた思想が取り出され、遍歴し、体系として、そのもののうちに取り入れられる。故に、理性自体は活動であり、また、. 主体でもある﹄。また、精神は、有︵ω①ぎ︶の世界で自己を認識し、意志として、世界を意識内容として取り出すのである。. 要するに、精神は、まず、即対自的に規定せられた知識としての理論的精神として、外的現実在の中に見い出される理性 を追究し、同時に、現実在の形態が、精神の規定であるということを認識するのである。. ︵3︶. 理論的精神が、実践的精神に至るには、直観・表象・思惟の諸段階を通過しなければならない。理論的精神は知性であ ︵4︶. る。客体に没入した知性が直観であり、﹃直観︵ぎω9飴琶§ひq︶が、まずもって認識︵醇ぎき窪︶に至る端初および意志で. ある﹄。﹃認識は、ただ、概念的理性の純粋思惟によってのみなされる。故に理論的精神の発展行程においては、表象. ︵5︶ ︵<o巨①冒色が直観と理性との中間を形成する﹄。理論的精神が表象を経由して思惟にまで発展して、﹃純粋思惟の発展. ︵6︶. において、理論的知性︵988冴9Φ罧①臣鴨口N︶は、完成する。すなわち、それ自体を、見通しそして認識する﹄のであ. る。かように、理論的精神が、直観、表象を経由して思惟に達すると、理知は﹃思惟されたものは存在し﹄、﹃そして存在. するものはそれがただ思惟されたものである限り存在する﹄ということを知っている。このように理知が﹃内容の規定者 ︵7V として自己を知れば﹄、それは意志である。実践的精神は、まずもって、形式的または直接的意志として存在する。 ︵8︶ 実践的精神は、規定を与えると同時に、﹃第二の自然﹄としての世界を作り出す。故に、精神は、﹃定在の中に引きなお ︵9︶ されたものとして﹄思惟である︵弓●総︶。すなわち意志である。そして、意識せられた理性は、終局の基盤においては、. それ自体、実践的なものなのである。精神の﹃作用は肉体も意識も自己自身の具現であることを自覚するにあり、一方に. ︵10︶. ︵11︶ おいて肉体を、他方において意識を現象しつつ、これを自己自身の生産と自覚するにある﹄。ために、へ:ゲルによると、. 理論的または実践的行態︵く①浮聾窪︶は、﹃二つの能力ではなくして、二つの思惟の特別の方法﹄である︵菊ド蜜NF 話暦 国 自 y 留 器 ︶ こ と に な る 。. 一26一. 説. 論.
(15) ヘーゲル『刑法学』の世界. ︵1︶窪ωωρ∪器↓冨§α段幻9鐸眉匡oωo旨Φ浮αq①ぴω。Goω。. ︵2︶ω巨9評ωω遺窪8円殉o舞眉匡oωo旨①=ΦひQ①一の︸ψ①qるoαqRO壁鼠ざ審弓S絵Φα。浮αQΦ二。刈凶掌ω㌣掌①P. ︵3︶上妻精・小林靖昌・高柳良治﹃ヘーゲル法の哲学﹄六一頁。. ︵4︶評9R﹄①ΦqΦ一昌①ぴ①P白。詩Φ巨自冨ぼρ一。岸目↓串N>島こψ①お旧9ω薯ρ醤①層匡。ω8ξ。岳Φαq①二8G。もω。。。・. 。ω●R霞。冨①夷oωoP国畠①一.ω∪巨o&。>且一房O疑。凶ωβ一〇〇。斜も。密1℃。刈ρ ︵6︶霊の昌①斜勲勲O‘ω。①o. ︵5︶国ω99騨騨Oこψ雪↑意志のないところに表象はない︵=魯歪。貫幻9亘竃o轟臨憂門邑盟窪。冥魯σ虫=詑9ψミ︶。. ︵乳︶田村 実﹃へーゲルの法律哲学﹄八四頁参照。R≦聾R密含霞β頃詔色−鋤︻Φ巨oも話富賦81︵一零o。︶戸謹ピ 一。ω。音①︵一≦。 。侍a&窪N仁=。㊤Q。一ω寄受ω℃匡。ω。音①扇磐急︶し。窃ω●一。逞. 。φ一㎝ωひ竃践旨a困8Φ一ン曽葺琶α犀警Φ詳日浮αQ①一の寄&の℃堅 ︵8︶<管ミ塁鼠αq﹄①。び善匡。の。音。巴のZ自。一巨①ぼΦ8ω力①葺ωし。。ωPo. ︵10︶切βαR℃騨騨○こω●①麟. ︵9︶ω8幕巨銭β国①αq①一ω乞o什ω弩量Φ辟ρω。ω一。. ︵11︶和田小次郎﹃法哲学︵上︶﹄一三三頁。. ︵1︶ ︵2︶. ニ ヘーゲルは、﹃思惟﹄と﹃意志﹄とを区別する思想をとらないで、両者は、精神が有するところの態度の相違にほ. かならないとする。すなわち、思惟は、精神の理論的態度、また、意志は、その実践的態度であるとする。. ところで、﹃普遍性﹄︵≧碍①日①酵9︶、﹃特殊性﹄︵︼W80民R幕ε、および﹃個別性﹄︵国言o庁簿︶は、概念の有する三契. 機である。へーゲルは、﹃小論理学﹄概念論の冒頭部分で、﹃普遍性とは、規定されていながら自己自身との自由な同一性. を感じていること﹄、そして、特殊性とは、﹃普遍的なものがくもりなく自己同一のままをなしている規定性﹄、さらに、. ﹃個別性とは、普遍性と特殊性という二つの規定性が自己のうちへ反省したもの﹄、したがって、それは、﹃自己との否定. 的統ζともいわれ、﹃自己同一者﹄、その意味では、また、﹃普遍者﹄ともいわれるのである。. ︵3︶. 意志も、また、この三契機から考察することになる。. 一27一. 注.
(16) ︵4︶ 第一は、普遍性の契機において、意志は、純粋な自意識としての思惟の契機をふくむ︵電こ留︶。第二の特殊性の契機. ︵5︶ ︵6︶. において、自我は、定在一般となってあらわれ、何ものかを意志する︵電‘留︶。第三の契機、個別性において、意志は、. 具体的なものになる︵国汐欝︶。そうして、この自我の自己規定のうちに、意志の自由が顕現するのである。へーゲルに. おいては、後段で論ずる客観的精神における法、道徳、人倫の区分さらにその細目が、単に形式的なものではなくして、 ︵7︶ 意志の規定そのものにもとづいた体系的なものであることに注目しておかなければならない。. この客観的精神の世界に立入る前に、﹃概念﹄および﹃精神の本質﹄を追究しておかねばならないであろう。. へーゲル哲学でいうところの﹃概念﹄は、形式論理学、経験科学におけるそれとは異なる。これは、﹃存在と思惟との. ︵8︶ ︵9︶. 統一、換言すれば客体と主体との統一、もしくは即自的にあるものとそれの自己反省との統一﹄である︵<騨国欝ざ. 暫謹︶。把握するという形式において把握される内容と同一であって、主体における客体の把握である。. ついで、へ!ゲルは、﹃精神の本質をば﹁観念性﹂一8﹄舜という言葉で示している。しかし、この言葉は、決して実. 在性響﹄聾または物質性冒魯亀﹄鼻に対立するものではなくして、むしろこれらの拡充および克服を表わしている。. へーゲルが精神を特徴づけようとして、それが観念性であるというときには、このことは同じく﹁精神は理念a8であ. る﹂ということができる﹄。また、観念性の実体︵国覇●諭おω︶は、﹃精神が、その自然性、肉体性、世界性を①巨。鱒舞. ︵ 1 0 ︶. のなかにおいて、すなわちその他在ぎ脅あ器ぎのなかにおいて拠自的にとどまること、むしろ、かようなその他在から. ヤ ヤ 自己へ復帰することであって、まさに、このことのうちに精神の自由がある。しかしながら、この自由と言うものは決し 、 、 、 、 、 ︵11︶. て必然性の反対ではない。それは、あたかも観念性が実在性もしくは物質性の反対ではなかったと同じである。まさに、. この意味において、観念性と精神の自由とは同一であるようにおもわれる﹄。自由は、しかし、精神さらには事物に具備 ︵12︶ している性質ではない。自由は発展の過程であり、同じように、観念性もまた、発展の過程である。. 要するに、実在を外面的にこれを把握したるときは、物質・精神の両面から成立するのであるが、これを内面的に把持. 一28一. 説 論.
(17) ヘーゲル『刑法学』の世界. するならば、抽象的本体から精神にまで高められ完全なる実現をすること、 すなわち﹃概念﹄より出発して、﹃理念﹄. に. 男Φo誉8匡oω8置Φ国oひq色塑ω。9い. 。ρ戸N一る鐸く箪国巨gU器ω器貯ΦヨαR ω。鼠。算田αqo一8寄①aoβ一〇蚕戸ooO9舞︸oのΦ嘗冒ωN①N畢国oひq①一g鼠ロび①忌︸一〇〇. 終結する弁証法的発展であるということができる。. ︵1︶. 高峯一愚﹃法・道徳・倫理ーヘーゲルの法哲学についてー﹄四四頁参照。9襯旨§”↓ぎ国慧琶↓冨o受9=畠色”マさド. 武市健人﹃歴史存在論の研究﹄四八三頁参照。. い震Φ欝︸ド鋭Oこω●ω象. 穿ωのp評の臣o目山ユR寄。び曾匡oωo旨o浮αqΦ一ω鴇ω●藤o。h. <αQ一ゼ震①自℃=囲o一ωNξ9ぎ目αq号ぼρψ群ρなお、意志の一般的構造については、金子武蔵﹃へーゲルの国家観﹄四三頁以下。. 高峯・前掲四九頁。. 98765432. 困ω畠g田αqo一ω冨冨p名①昆Φ目山いo罠ρ肖↓oF曽>島こω●9ω●. U器三ωの曾営=ΦαqΦ一ω︾蓋のの①口ω9聾ORピo婆︽一〇〇。。 o ︸ψ一q①拝9名毘Φ田ω喜︶醤①田ω什oQo弓匡oω09ざメ≦マ一零. における存在・本質・概念については、船山信一﹃へーゲルにおける歴史と論理﹄︵昭二三︶三五頁以下。<αq一属磐ωも9R男爵︸. する﹄とされる。理念よりみれば、概念は從属的契機とみられるが、これは理念の原理である︵国目ざ留る︶。なお、へーゲル. 上妻・小林・高柳共著、前掲六三頁、田村・前掲二六頁参照。牧野英一﹃法理学﹄第一巻二五三頁は、﹃概念の中核は理念に存. 田村・前掲三八頁。. ))). 悶凶ωOびΦぴ騨 鋭 ○ こ 0 つ。置●. 恒藤恭博士は説かれる。﹃﹁精神﹂と﹁概念﹂とは全く同一のものであって、精神の存在論的活動様相はとりも直さず概念の論理 的発展様相である﹄と︵﹁へーゲルによる自然法学批判について﹂﹃法の基本問題﹄所収三三三頁︶。. ︵三︶ 客観的精神ー﹃法﹄概念ー. ヘーゲルの考えによると、﹃自由は、 意志が有したり有しなかったりし得るような性質ではなくして、意志に最も固. 一29一. 注. パ パ パ パ ハ パ ハ パ ) ) ) ) ). ハ ハ パ. 121110 ) ) ).
(18) ︵1︶ 有な本質であって、決して意志から分離し得ないものである﹄。そうして、﹃概念が定在に関係し、また、霊魂が肉体に関 ︵2︶ 係するように、自由は法に関係するのである﹄。 ︵3︶ 自己を自由なる意志として規定することによって、主観的精神は客観的精神となる。客観的精神の特質は、﹃それの現 ︵4︶ 実的の合理性が本来外面的現象の側面を保有している﹄ことにある。しかし、意志の自己規定としての目的活動は、自己 ︵5︶. 概念である意志を外部的に客観的な側面において実現し、この側面を意志の概念によって規定せられた世界とすることで. 意志は、それ自体、一つの理念である﹄。この理念は、もとより、概念と客観性との統一体であるが故に、絶対的ではあ. ある。﹃かくして、意志は、かかる側面においても拠自的︵げΦ冨一3ω色びεにあたり、自己自体を繋合している。されば、 ︵ 6 ︶. るが、ただ、即自的にこのようにいいうるのである︵国目ざ漁o。ω︶。しかし、外部的材料を得た意志は、その定在. ︵∪器①営︶の側面を有するに至る。これは、自由が自己を現実化する領域であって、自由は、ここにおいて、現実在とし. ての自己の世界を有することになる。かくして、﹃自由なる意志﹄すなわち即自かつ対自的なる意志は、客観的現実在の. ︵7︶. 中にその定在を有することになる。そうして、﹃自由意志の定在﹄が﹃法﹄︵U器閑9εであるということになる︵浮Nざ. 。9園汐鷲O︶。もっとも、ここでいう﹃法という表現は、単に、力の概念、客観的精神の当該事象の統一体および秩序 漁o. ︵8︶. と同義語にすぎない﹄のである。. ︵9︶. ︵10︶. 自由意志の発展すなわち法の発展は、内実的具体性の程度に応じて展開する。この弁証法的展開は次の三段階を示すの. である。第一は、﹃個別的意志﹄︵﹃人﹄︶である。この﹃人﹄︵℃段ω8︶が、自己の自由に与える現実在︵定在︶が﹃所有﹄. ︵n︶ であり、法そのものは抽象的法︵U器ぎω欝醇幻9εもしくは、形式的法である。へーゲルの抽象法の根底を貫くものは. 所有である。また、物である。第二は、主観的意志︵O器霊豆魯牙o奢匡①︶の法︵﹃道徳性﹄駐匡自&聾︶である。自由. 意志は、自己の現実在を自己自身の内部に有し特殊的意志として規定される。抽象的法から道徳性への移行は犯罪と刑罰. の考察を通してである。第三は、両者が先行する合︵ω旨仔8①︶すなわち﹃人倫﹄︵ω鐸日算卑︶である。これは、概念に. ︵12︶. 一30一. 説 ヨム 酪日.
(19) ヘーゲル『刑法学』の世界. 適応した主体内の現実性または必然性の全体としての実体的意志︵8屡暮雪目鼠密名幕︶である︵浮Nざ鰹o。刈︶。﹃人倫﹄. はΦ筐&謹oでもω置Φでもない。人間生活を充足する法および道徳的・政治的・法的制度である。先にも若干触れると. ︵13︶. ころがあったが、この分類は、﹃外部から都合よく便宜的に分割せられたものとしてではなく、意志概念の自己発展の過 ︵MV 程に於ける弁証法的区別として、即ち客観的精神の論理的構成として理解せられねばならない﹄のである。. 発点を、自由なる意志から取り出すのである。法は、自由なる意志の実存であるところの定在である﹄。したがって、客. かくして、客観的精神の定在規定に関して、﹃﹁法に根づいている地盤﹂は、﹁精神的なもの﹂である。法は、特殊な出 ︵15V. 二 自由は、概念の現実在として、この概念の中の弁証法的発展の法の基礎に横たわるのである。﹃自由が、現実化する. 観的精神の理論は、法を哲学的に研究する学問、すなわち﹃法の哲学﹄ということになる。 ︵16︶. 一31一. ところでは、常に、ヘーゲルによると、法が支配する。自由の王国は法の支配するところのものである。そうして、各発. 展段階は、その法を有する﹄。故に、自由意志の各形態は、同等の実在性を有することはない。したがって、また同等の. ︵π︶ へB﹀. ︵19︶. 法をも有しないのである。この点は、へーゲル刑法理論における違法論を論ずる場合に実益をもつ。. 右の各段階は、異なった価値に関係をする。自由規定の全体は、異なった法の体系でもある。また、法の価値は、その. 内的に理性的なるもの︵ぎむ魯艮戯ξ¢の尺度にしたがって規定される。そうして、より高度の﹃精神の領域と段階﹄は、. 精神が、抽象的・形式的法にしたがって制限された法に比較して、その理念の中により広くふくまれた契機を、自己のう. ちに規定し現実化せしめるから、具体的なものとして、自己のうちにより豊かなそして真実に近い普遍的段階として、ま. 沸亭o目窃国ごΦ欝UR男遷瀞Φ騨冨罠訂=Φαq色ωいo嗅︶這$︾ψ8陣. 出§§、90勺琶88慰①αoo。8ロ冨昌g♂Φ毘のヨ5鳩戸↓①鵠地ωσω一㎝“男爵①昌o窃ゴOΦ一ωけ琶α犀o騨ゆ騨冒ω惨8旨出譜〇一ρ一〇ω↑ψ. た、より高度の法を有する︵電諭8︶という結論を得ることができる。. 1注. ). oo oo.
(20) ︵10︶. 固ω畠①Hる,鋭Oこω。OOρ. 下参照。. 望器ρ勲騨ρ鴇ψ罫男畠RORo。且ざ額︸9雅Φ8国詑9戸①OーやSなお、務台理作﹃ヘーゲル研究﹄︵昭一〇︶二一五頁以. 田村実﹃へー ゲ ル の 法 律 哲 学 ﹄ 八 九 頁 。. いコ①9浮Φ昼国①箆ωω霞齢φ隻経①9ρψ。R. 田村・前掲八九頁。. 田村・前掲九〇頁。. 斎一閃8ざ巨R5=詔Φ一ωZoけ馨目琶①ぼρψω999巨ω導ピ詔包℃匡809矯ぎ目国曽08=畠鼻マ目Pなお、田村.前掲一三頁、 九二頁参照。. コΦ9窪φ旨”鉾騨9”ψ8勤轟ド閃営号鮮臣Φ寄聾卑器幻o。窪︵日<Rげ窪色琶αqg号ωR曾g自畠①騨8噸8器ω﹂器ドψ窃ρ和田. ︵上︶﹄ =一二頁︶Q. 小次郎博士は、﹃道徳や慣習等の規範と区別されるものとしての法ではなく、それらを包括した客観的普遍的社会規範であり、 この意味における理性法を意味する﹄ものであり、﹃人間の制定を侯たずして先天的に客観的存在を有する﹄とされる︵﹃法哲学. ωぼαR層評ωω量昏αR閃Φ。辟ω唱琶。の。音①閑αq。一ω︸ω。①9切R。醇Φ冒gω選。日αR男o受ωと包毛ぼω島聾呂巨。ωo℃幕”切“目ωD. へーゲルのいわゆる法自体︵寄9け磐の酵︶である。この﹁抽象法﹂﹁形式法﹂の区別については、竃霞。Fω5曾欝−琶α写艮−. NωO旧切昌50口Φび旨畠ρ閃ooげ“冒o門呂鼠一琶山ω一辞島o算Φ津σΦ一=ΦαQo㌍這謡矯ω﹂巽. ぎ拐冨罠営αR寄。窪8匡oω8置ρ一8μψ目錬なお、モラリテート竃象&聾については、小倉志祥﹁へーゲル哲学における 道徳の位置﹂思想︵一九七〇・九︶一二二頁以下、また、ジットリッヒカイト︵望良o鼻簿の理念について、加藤尚武﹃へーゲ. ω感。ρ冒o勺巨oのo嘗冤o脇=①ひQo一も●o。Oω。. ル哲学の形成 と 原 理 ﹄ ︵ 昭 五 三 ︶ 一 七 〇 頁 。. 箒田鶴oq亀℃匡809ざ↓ぎ2営曾Φ魯浮O窪言q“℃&&9砕ω盆日ω︵一〇。8ー一〇。8︶”<9β戸一〇。ドまた、ティラーは﹃社会の. 。h 。。 ゆ巨①円逼騨O‘ψ①。。旧国。黛似葺田αq①一巨α鼠ω閃①9計一〇貫ω・qG。あ。①。。旧ω。o. 固8げ昏Φ一β騨鐸○こω。①黛ρい男幕鼠。げ℃ぎ①勺霞oω8菖o脇い署営田雪9琶℃R8Φ。馨⑦も﹂o。ρ. 田村・前掲九三頁。. 公的生活の規範︵8毒ω︶が人倫の内容である﹄という︵9壁3↓畳8国詔α目α累08旨oo8一〇多ごβ層o。璽︶。. →. ︵n︶. αQ. 。㎝Oy︵岸磐ω冨貯oqξ名匿①田ω浮︶ 9国巨Φ㌍α匡9霊℃匡oの8匡①ヨo号旨ρ目”い①図園①ω笛o一ρ℃盆oα①8ω亀ω串目①ω︵一〇。OOー一〇. ) ). ︵9︶. 87654 ハ パ パ パ パ. 一32一. 32 ハハパハパ ))))) <. 1312. 161514. 説 論.
(21) ヘーゲル『刑法学』の世界. ︵17︶コ①魯島Φ冒矯鉾勲O‘ω●OS. ︵19︶ゆ8ざ一目銭5勲勲OこψωS. ︵18︶切8ぎ冒触β費鋭OこωるP. ︵20︶<Φqド国03岳Φ営”騨鉾ρ︸ψ浮匡RoF勲鉾○‘ψ一一〇〇い. 四 ヘーゲル﹃刑法学﹄の理論 ︵一︶ 犯罪理論. ︵一︶ 犯罪と不法概念. 犯罪は、明白に、外的な現存在をもつ。しかし、絶対的精神の理念と矛盾するが故に無︵三9凝幕εである。それは. 一 へーゲルは、犯罪を自由と法の概念を基礎とする法哲学における一命題として、明らかにしているにすぎない。 ︵1︶. 何故であろうか。犯罪によって﹃とにかく何かが変化せしめられ、事物はかように変化せしめられて存在するが、しかし、. このように変化せしめられた存在は、実は、自己の本来性を喪失した自己ならざるものであり、その限度で無である﹄. ︵因型﹄零︶からである。無であることを明らかにするのが、法の現実の現われである。なぜかならば、これは、﹃法が自. 己を侵害するものを否定することによって自己を回復し、再び、自己に還帰するという、法のもつ必然性の展開である﹄. ︵国閏﹄零︶からである。かくして、へーゲルの犯罪概念は、ズルツがいみじくも説くように、﹃純粋な外的な侵害ではな ︵2V ︵3︶. くして、法自体︵勾9耳きω一9︶の内部的否定である﹄ということができる。. 以下、不法の意義をふくめて犯罪概念について若干の考察を加えることにする。. 二 意志は、それ自体、個別的なものであったとしても、主体性に関係づけられ、また、抽象的な同一性の意識を獲得し. 一33一.
(22) ︵4﹀ ながら、﹃人﹄︵評お9︶になる︵く騨菊F瀦トNF︶。人が自己の自由を実現しようとして外界に働きかけることから抽象 ︵5︶. 的法ははじまる。抽象的なる自由意志が人である。法においては、ただ、形式的に自由なる人として認識される。しかし、 ︵6︶. 理念として存在するために、その概念に現実在を与えなければならないから、人は、自由の象面を外部に顕出しなければ ならないのである。. ものを通してのみ、それ自体に直接的定在を与えるのであるが、主体は異なる。これは、それ自体への関係において、自. ︵7︶ 道徳性において、主体︵ω呂霊琶すなわち個人的・意欲的・行動的人問として認められることになる。人は、ある他の. 己同一的定在を有するが故に、意志はここにその定在的側面をもつにいたるのである。人は単なる主観ではない。﹃主観. は単に人たること︵震議o昌。莫簿︶の可能性にすぎない。人とはこの主観性が意識されている主観である︵弓。諭呂NF︶。. 人とは法律の主体的根源としての理性的意味である。かくして抽象的法の世界は、理性的なる人と人との関係する世界. でなければならない。そうであるから、法の根本命令について、ヘーゲルは、﹃一個の人格たれ、そして他をも人格とし. ︵8︶. て敬せよ﹄というのである︵電●諭8︶。そうして、人の物および他の人に対する関係から、自然法の諸々の根本規定を ︵9︶. 導きだしているのである。. 人の自由は人ならざる外的事物の支配の中に実現せられる︵占有劇oωぎ︶。これが広義では所有田αqΦ暮毒である。し ︵10︶ ︵11︶. たがって、抽象的法の世界は経済社会に立脚するということができるであろう。﹃人が住む実在的世界は事物︵留3Φ︶か. ら成り立ち﹄、﹃精神的存在は本来的に非精神的存在の支配者である﹄からである。人は所有において自由である。所有は. 人が自己の自由を実現すべき外的領域にほかならない。ために、所有は、人が自己の自由に与える定在であるが、内に対 しては、自己に関係しているにすぎないのである。. ︵12︶. 契約において、はじめて人は他の人との関係を有する。そこには、事物を介在して、人と人との間に成立する意志の合. 致がある。契約の対象は物のみである︵因F鷲α︶。したがって、契約をば財産処分の一つとしているのである。また、. 一34一. 説. 論.
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