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国語科教育におけるPCA(person-centered approach)の可能性

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(1)国語科教育におけるPCA (person−centered approach)の可能性 教科・領域教育専攻 言語(国語)コース. 熊 代 一 紀 1.研究の目的・. 2.論文の構成. 筆者は,高等学校で国語を教えながら,教育. ・,1章 PCAによる生徒中心授業. 刑談室を担当してきた。カウンセリングの精神. 第1節セラピィから授業へ. や技術を学ぶなかで,日頃から,カウンセリン. ○クライエント中心療法の概略,OPCA. グを国語科授業に生かしたいという強い思いに. におけるパーソナリティ変化と学習. 駆り立てられていた。. しかしながら,その方法を探し求めて読んだ 文献から得られたのは,「応答訓練」などの安 易な技術の援用や,「カウンセリング・マイン. 第2節 生徒中心授業の様相 ○生徒中心授業の学習観,○生徒中心授業の 教師の聾度,○学習共同体. 第3節 教科教育におけるPCAの可能性. ド」という実体のないスローガンであった。. OPCAと教科教育の二つの問題,○純粋な. 教師の信念のような,授業を貫く思想のよう. 対話の保証,○学習者中心授業の教師の信念. な,もっと強く深い,国語科教育とカウンセリ. 第4節 国語科教育におけるPCAの可能性. ングを基盤のところでつなぐようなものを求め』. ○詩の授業における「受容」と「共感的理解」,. ていた筆者は,クライエント中心療法の創始者. ○生徒の表現に関わるPCAの可能性,○国. である米国の臨床心理学者カール・ロジャーズ. 語科における過程尺度の試案,○国語科の教. の教育に関する論文に出会う。. 師教育としてのエンカウンター・グループ. ロジャーズは,それらの論文や著書のなか「で,. 人間め自己実現傾向を強く信頼するPCA (person.cen2cred approach)に基づき,生徒と. 第2章 生徒中心授業の構想 第1節 生徒中心授業の実践分析と考察 ○授業開始時における声明,○小グループま. 教師を人間として平等に教室の中心においた自. たはクラスのミーティング,○学習資源の準. 由の授業を提唱する。. 備,○学習適性別グループ,○自由または責. 本研究は,このロジャーズが提唱するPCA の教育理論を,変化する現代にふさわしい創造 的な高等学校国語科の授業として実践するため のものである。. 任の制限,○自己評価,○学習契約,○予測 される危険,○制度上あ圧力 1第2節 高等学校国語科における授業構想. ○プロジェクト・アプローチの具体的な内 容,○プロジェクト・アプローチの過程仮説.

(2) 3.論文の概要. ・アプローチ,特に導入時期における『山月記』. 第1章では,まずロジャーズがクライエント. によるプロジェクト・アプローチの構想を,授. 中心療法の理論をPCAに基づく教育理論へと. 業開始時の「提案」と授業の「過程仮説」によ. 発展させる経緯を概観し(第1節),続いて生. って示した。(第2節). 徒中心授業の諸様相を明らかにした(第2節)。. それは生徒の可能性を信頼し,「受容」「共. 4.今後の課題. 感的理解」「自己一致」の態度を持つ教師が作. なによりも生徒中心授業の実践によって,「国. る環境のなかで,生徒の「自己主導的な学習能. 語科教育におヴるPCAの可能性」は実証され. 力」が促進されて創造的な学習がなされていく. なければならない。. 授業であった。また,生徒同士や教師との人間. 論考の必要を感じながらも残された課題は次. 関係が促進され,授業が平等な学習者による学. の4点である。. 習共同体へと成長することを理想としていた。. ○ 教師は自分が作ろうとしている「自己主導. 次に,生徒中心授業における「基礎・基本」. 的な学習」を促進するような環境が,うまく. の考え方や,生徒中心授業が,学校教育が期待. 機能しているかどうかを自分にフィードバッ. されている個人差を生かし育て,授業における. クしなければならない。. 「自己」「他者」「学習材’」との純粋な対話を. 質問紙などのヅールを使って,生徒中心授. 保証することを考察した。これらは,生徒中心. 業のすすみ具合を計測するシステム(質問紙. 授業が,教科教育全体に大きな可能性を持つも. を含む)を確立する必要がある。. のであることを示したものである(第3節)。. ○ 第1章第4節3で示した「国語科における. 教科教育のなかでも,国語科教育はPCAを. 過程尺度」が試案のレベルを出なかった。段. 適用するのに向いている。それを考察するため. 階化し,標準化することが必要である。. に,PCAの立場から二つの国語科授業の実践. O 生徒中心授業を現場の教師に提案し,互い. 分析をおこない,つづいて「国語科における過. の授業を研究することで共に高めあっていく. 程尺度試案」を示した。また媛後に,生徒中心. ような授業研究の方法が必要である。互いの. 授業の国語科の教師教育としてエンカウンター. 授業をVTRで撮影し,それを再生しながら. ・グループの提案をしている。(第4節). 授業研究を進めるという方法を考えてはいた. 第2章では,ロジャーズが報告している生徒. が,明確には考案できなかった。. 中心授業の実践を詳細に分析し,生徒中心授業. ○ 生徒中心授業実践のための具体的な教師教. の実践が成功するために必要な要素や条件を,. 育の方法が考案されなかった。エンカウンタ. 岸明,ミーティング,学習資源,.適性別グルー. 一・グループに参加するというような漠然と. プ,自己評価,学習契約,予測される危険,制. した方法ではなく,もっと具体的な提案が必. 度上の圧力について考察している(第1節)。. 要である。. 続いて,.これらの要素や条件を用いて,生徒中. 主任指導教官 中洌正尭. 心授業の具体的な実践形態となるプロジェクト. 指導教官中興正尭.

(3) 平成 1 1 年度 兵庫教育大学大学院 学校教育研究科学位論文. 国語科教育におけるPCA (pelson−centered apPr。acl)の可能性. 教科・領域教育専攻 言語系(国語)コース. M98406K 熊代一紀.

(4) 目 次 はじめに一……一…一一…一…一…一一一一…………一一……………一1. 第1章 PCAによる生徒中心授業一一一…一一…一…一2 第1節セラピィから授業ヘー…………一…一一一一一一………一一…一2. 1 クライエント中心療法の概略. 2. 2 PCAにおけるパーソナリティ変化と学習. 3. 第2節生徒中心授業の様相一一…一…一………一一一一…一………一一一4. 1 生徒中心授業の学習観. 4. 1.1 従来の教育に潜在する学習観. 4. 1.2 生徒中心授業の学習観 6 2 生徒中心授業の教師の態度 7 2.1 教師の促進的な三つの態度 2.2 共感的理解. 7. 7. 2.3 受容と尊重 8 2.4 自己一致 8 3 学習共同体 10 3.1 学習共同体へと成長する授業. 3.2 学習者相互の関係. 10. 10. 3.3 クラスと小グループ 11 第3節 教科教育におけるPCAの可能性一………一一…一一一一一一一12 13 1 PCAと教科教育の二つの問題 1.1 生徒中心授業における基礎と基本. 13. 1.2 個人差への対応 15 2 純粋な対話の保証 17 3 学習者中心授業の教師の信念. 3.1 教師の信念. 3.2. 18. 18. 学習者中心授業を支える信念としてのPCA. 20.

(5) 第4節 国語科教育におけるPCAの可能性一一…一……一……23 1 詩の授業における「受容・尊重」と「共感的理解」 23. 2 生徒の表現に関わるPCAの可能性. 26. 3 国語科における過程尺度の試案 29 4 国語科の教師教育としてのエンカウンター・グループ 33. 第2章 生徒中心授業の構想一一一…一一………一一一一一…・39 第1節 生徒中心授業の実践分析と考察一……一一一一一一一一一一一一一39 1. 授業開始時における声明. 39. 2. 小グループまたはクラスのミーティング. 3. 学習資源の準備 45 学習適性別グループ 47 自由または責任の制限 48. 4 5 6. 7. 8 9. 42. 自己評価 50 学習契約 53 予測される危険 56 制度上の圧力 59. 第2節 高等学校国語科における授業構想一…一……一一一一一…・62. 1 プロジェクト・アプローチの具体的な内容. 62. 1.1 プロジェクト・アプローチの提案 62 1.2 プロジェクト導入のためのひとつのアイディア 2 プロジェクト・アプローチの過程仮説 73. 72. おわりに…一一一…一……一…一……一一…………一…………77. 付記. 参考文献 ○ 引用の傍線は筆者のものである。.

(6) エ. ‘よじめσこ 筆者は,高等学校で国語を教えながら,教育相談室を担当してきた。. カウンセリングの技術や精神を身につけた国語科教師の筆者は,日頃か らある強い思いに駆り立てられていた。もっとはっきりとした授業の傾 向として,カウンセリングを応用できないか。相談室で生徒と結ぶよう. な親密さを,クラス全員と感じあえるようになれないか。カウンセラー としての自分の資質を,国語科教師としても有効に利用できないか。 しかし,その方法と拠り所を求めて読んだ文献から得られたのは,「応. 答訓練」や「対人関係訓練」といった安易な技術の援用や,「カウンセ リング・マインド」というまるで木偶人形のようなスローガンだけであ. った。カウンセリングをこのように授業に持ち込むことは,役に立たな いどころか有害にさえ思われた。 教師の信念のような,授業を貫く思想のような,もっと深く強いもの,. 国語科教育とカウンセリングを基盤のところでつなぐようなものが何か ないか。それを探し求めていた筆者は,ロージァズ全集のなかに『カウ ンセリングと教育』(1967畠瀬稔編訳 岩崎学術出版社)という巻を見 つけた。筆者がカウンセリング理論の基本にしていた米国の臨床心理学 者カール・ロジャーズが,実は教育に関する膨大な論文を残していたの である。ロジャーズはそれらの論文のなかで,人間の自己実現傾向を強 く信頼するPCA(person−centered approach)に基づく,生徒と教師を平. 等な学習者として教室の中心においた自由の教育を提唱していた。. これらの論文を読み始めた頃は,これほどの自由を生徒に与えて,そ れで授業が成り立つとはとても信じられなかった。しかし熟読し考察を 進めるに従って,ロジャーズが主張することは実現可能であり,また自 分の手で是非実現したいと感じるようになったのである。. 本論文は,このロジャーズが提唱するPCAの教育理論を,変化する 現代にふさわしい創造的な高等学校の国語科授業として実践するために. 論考するものである。第1章では,PCAによる生徒中心授業の諸様相 を明らかにした後,まず教科教育,ついで国語科教育についてその可能. 性を考察する。第2章ではロジャーズがその著書で報告する生徒中心授 業の実践を分析し,分析と考察で明らかになった諸要素から,高等学校 国語科における生徒中心授業の授業構想をおこなう。.

(7) 2. 第1章 PCAによる生徒中心授業 米国の臨床心理学者でクライエント中心療法(client−centered therapy). の創始者であるカール・ロジャーズ(Carl R. Rogers)は,教育に関して. も多くの論文を執筆している。そこに読みとれるのは,人間の自己実現. 傾向への強い信頼に裏付けられたPCAの理念である。. 第1章では,PCAの理念に基づく教育の具現である,生徒中心授業 とはどのようなものなのかを概観する。. まず第1節では,クライエント中心療法から生徒中心授業への発展の 過程を概観し,生徒中心授業の基盤となる理念を明らかにする。第2節 では,生徒中心授業の諸様相を分析し考察する。第3節では,教科教育. にPCAがどのような可能性を持つのか,第4節では,国語科教育にP CAがどのような可能性を持つのかを考察する。、. 第1節 セラピィから授業へ. 第1節では「1 クライエント中心療法の概略」「2 PCAにおけ るパ』ソナリティ変化と学習」によって,ロジャーズがクライエント中 心療法をどのように教育思想へ発展させていったのかを明らかにする。. 1 クライエント中心療法の概略. 生徒中心授業を理解するためには,ロジャーズのクライエント中心療 法を理解することが必要である。しかし,それに関する文献は膨大な数 にのぼり,また理論は発展的に変化している。ここではこれからの論考 のために必要な核心的な部分のみを解説する。. クライエント中心療法の基盤となる思想は,人間には主体的な自己実 現傾向があるという確信である。. ロジャースは,1957年に発表された「パーソナリティ変化の必要 にして十分な条件(The necessary and suff三cient conditions of therapeut量c. personality change*1)」という論文のなかで,その確信に基づいて,セラピ. ィにおいて建設的なパーソナリティ変化が起こるためには,セラピスト とクライエントの関係に次のような六つの条件が存在し,それがかなり. の期間継続することが必要であると述べる。さらにそれだけで充分であ って他にはいかなる条件も必要ではないと主張する。. ここで言う「セラピスト」とはセラピィ,すなわち心理療法をおこな.

(8) 3 う者,「クライエント」とはセラピィを受けるために,セラピストの もとに来談した者のことである。 ①二人の人間が,心理的な接触をもっていること。 ② 第一の人(この人をクライエントと名づける)は不一致の状態にあり,傷つきやすい, あるいは不安の状態にあること。. ③第二の人(この人をセラピストと呼ぶ)は,この関係のなかで,一致(c・ngruent)して おり,統合(integraIed)されていること。 ④セラピストはクライエントに対して,無条件の肯定的な配慮(uncondi重ional positive regard). を経験していること。 ⑤ セラピストはクライエントの内部的照合枠(internal frame of reference)に共感的な理解. (empathic understanding)を経験しており,この経験をクライエントに伝達するように努 めていること。. ⑥セラピストの共感的理解と無条件の肯定的配慮をクライエントに伝達することが マ. マ. 最低限に達成されていること。. この六つの条件*2のうち,「②クライエントの状態」は生徒中心授業. では生徒と学習の関係に適用される。また,セラピストの態度的条件で ある「③自己一致(純粋性.)」「④無条件の肯定的配慮(受容)」「⑤共. 感的理解」の三つは,セラピィ関係の核心的な条件と言われているが,. これは生徒中心授業における教師の促進的態度へと応用され,生徒に伝 えられていること(⑥)が重要であるとされている震3。. 2 PCAにおけるパーソナリティ変化と学習 ロジャーズは,クライエント中心療法におけるセラピストとクライエ ントの入間関係零4を,教師・生徒,夫婦,企業体,国際紛争などの他の. 人間関係にも適用する試みをする。ロジャーズが最後に活動の拠点とし ていた人間研究センター(Center for Studies of the Person)では,1975. 年からこのアプローチを「パーソン・セン単一ド・アプローチ (person−centered approach)」と呼び始める。このアプローチは,宗教対立,. 人種差別,国際紛争の問題解決に大きな業績をあげた。. このPCAを,学校教育,特に授業における生徒と教師の人間関係に 適用したものが,「人間中心の教育(person−cen重ered education)」「生徒中 心の授業(student−centered teaching)*5」である。.

(9) 4. 人間に建設的なパーソナリティの変化をもたらす意味のある学習 (meaningful learning)は,サイコセラピィのような人間関係のなかで現. れるとロジャーズは確信的に述べる。この建設的なパーソナリティ変化 とは,自分に自信を持ち自己主導的な生き方ができるようになる,自分 が理想とする人になるよう努力するようになる,自分と他の人を受容し その可能性を信頼するようになるなどを言う。このようなパーソナリテ ィの変化が,セラピィ以外の人間関係においても大きく貢献することは. 容易に理解される。それがPCAが目指し実現してきたところである。 また,ロジャーズが言う意味ある学習とは,事実を積み重ね,知識を 増大するような学習だけでなく,個性を育て現実化し,全人格に浸透す るような学習のことである。このような学習が授業において起こり,生 徒と教師が前述したような建設的なパーソナリティの変化をしていくこ. とが,PCAによる生徒中心授業に期待される可能性である。 第2節 生徒中心授業の様相. 第2節では,「1 生徒中心授業の学習観」「2 生徒中心授業の教 師の態度」「3 学習共同体」よって,生徒申心授業の特徴的な様相に ついて考察する。. 1 生徒中心授業の学習観. 1.1 従来の教育に潜在する学習観 ロジャーズは,生徒中心授業が持つ学習観を際立たせるために,従来 の教育制度や教育者の行動から,そのよりどころとしている学習観を指. 摘した。これは1960年代後半の米国の教育に関して言及されたもの であり,また,顕在するものではなくて潜在するものであるとロジャー スはつけ加えている。しかし,この学習観は従来からのわが国の教育に も潜在しており,小学校から高等学校へと,児童生徒の年齢が上がるほ どその存在は強固なものとなっている。「潜在する」とは行動などから 類推されるということであり,明言されないということである。 ロジャーズが指摘するところ*6を参考にしながら,わが国の高等学校. の標準的な状況を視野に入れて6点にまとめ考察する。. ①生徒が自分の学習をみずから遂行していくかどうか信用できない。 「潜在する」どころかしばしば明言されることさえある,この「生徒.

(10) 5 の自己主導的な学習能力への不信」には二つの型がある。一つは「飴と 鞭で追い立てなければ,生徒は学習し続けることはできない」というも のであり,その不信は多くの試験や宿題という形で現れる。もう一つは 「生徒が自分で立てた目的や願いは不適切である」というものであり, 教師は「従わなければならない道を生徒に歩ませる」ことに懸命である。. こうして,生徒は自己主導的な学習能力を育てることができず,また 自分の意思決定に自信を失うのである。. ②教育は評価されることであり,評価されることが教育である。 試験の合格を含め,よい評価を受けるように動機づけることが,教育 の目的となっている。また試験によい点を取る能力が,将来性を示す最 良の基準となると考えられている。. 生徒は他律的な評価を自分の行動の基準にするようになる。. ③教師が提示した問題は学習されるべきものである。 教師が提示したものが学習されるべきものであるかどうかは,生徒の 興味関心によって決まるのではなく,よい評価を受けるかどうか(試験 に出るか出ないかなど)によって決まる。また,生徒が自分の興味・関 心を,教師が提示した問題よりも優先することは,授業の秩序や教師の 権威を脅かす好ましくない行為として,大変な圧力を受ける。. ④真理はすでにわかっている。 この考えは,科学を発達させることや創造的な学習を促進することと は逆方向であることは明白である。「既知の真理」は授業においては正 解となり,その正解を握っている教師に権威を与えることとなる。生徒 はこの正解を当てることに精力を使うことが要求される。生徒は自分が 不正解である不安に怯え,正解を与えられることを求めるようになる。. ⑤学習とは,既存の事実や方法を積み重ねることである。 ④の既知の真理を理解するために,一定の順序で事実や方法を積み重 ねることが要求される。そして,より多くの事実や方法を蓄積したこと がよく教育されたということであると考えられている。. 生徒は自分の経験から知識を得たり,問題解決の方法を創造できるよ うにはならない。また,より多くの事実や方法を蓄積するために,膨大 な時間を費やし,自分の興味・関心を探求する余裕がない。. ⑥将来性は,受動的な学習から生まれる。.

(11) 6 ①∼⑤によって生徒は「おとなしく」「地道に」「与えられたものを」 学習することを求められるが,それは「とっぴな(ある面で創造的な)」. アイディアを無視し,好奇心を抑制し,自分で問題解決をする機会を奪 ってしまう。よい評価を得るためにはこのような受動的な学習が求めら れ,これが②で考察したように生徒の将来性を保証していることになる。. 1。2 生徒中心授業の学習観 従来の教育に潜在する学習観に対して,ロジャーズは次のような学習 観,生徒観に支えられた生徒中心授業を提案する。. 生徒中心授業では,人間は生まれつき学習に短して,潜在的な可能性 を持ち,その可能性(世界への好奇心や成長への意欲)は,適切な環境 の下で発揮されると確信されていることが重要である。適切な環境が用 意されるならば,生徒は自己主導的に学習を進めていく存在なのである。. 人間の自己実現傾向に対する強い信頼はPCAの基盤であり,生徒中心 授業を実践する教師に不可欠な信念である。. 生徒中心授業の中で生徒は,「経験に対して心が開かれること」「変 化の過程を自分の中に統合していくこと」「学習の過程を学習すること」 の三つを学習する。. ①経験に対して心が開かれる。 自分が経験していること,論理と直観,知性と感情を,歪曲せず経験 しているままに,平等に有効に利用できる。この学習は単なる知識の土 だけではない全人格的な学習である。従来の教育では論理にくらべて軽 視されがちな(時にはほとんど無視される)直観を,また,ある分野で はほとんど有効に使われることない感情を学習全体で重視する。. ②変化の過程を自分の中に統合していく。 既成概念にとらわれず,常に変化を恐れず受け入れる。いかに自分の 内外の変化に適応しその変化を役立てるかを学ぶことは,今日は科学的 な真理であったものが明日には否定されるような現代では重要である。. ③学習の過程を学習する。 「方法知」として,最近学習の目的としてあげられるようになったが,. これは知識として方法を知っているということではない。意味のある学 習を進めるために,どのように経験を生かし,適応し変化すればよいか を体験的に知っているということである。.

(12) 7 この三つの学習は,激しく変化する現代社会において,もっとも有用 な学習であり,建設的に,創造的に生きていくために大切なことである。. また,意味のある学習は,各個人が,自分にとって重要な意味を持つ 問題や,解決を望む問題に直面するときに,もっとも効果的におこなわ れる。そのために,生徒が自分の生活のなかで関係している問題に現実 的に関わり,解決したいと思っている問題に気づくことが,生徒中心授 業では必要となってくる。. 2 生徒中心授業の教師の態度. 2.1 教師の促進的な三つの態度 生徒中心授業の特徴の一つは,教師の態度が,自己主導的な学習を促 進するための重要な要素として述べられることである。従来の教師中心 の授業においては,授業技術や授業プログラムについては詳細にふれら れても,教師の態度については補足的にしか言及されなかった。しかし, 生徒に対する教師の態度は,授業の成否を大きく左右してきたのである。. ロジャーズは,自己主導的な学習を促進するために,教師は「自己一 致している」「生徒を受容し尊重している」「生徒を共感的に理解して いる」という三つの基本的な性質を持ち,それはいつも生徒に伝えられ ていることが重要であると述べる。. これら生徒の自己主導的な学習を促進する,教師の三つの態度につい てロジャーズが述べるところを,まず「共感的理解」「受容と尊重」そ してこれらの態度のなかで最も重要な「自己一致」について考察する。. またロジャーズは「学習資源の準備」は生徒中心授業を実践する教師 の重要な役割の一つであると述べるが,これは第2章第1節で考察する。. 2.2 共感的理解 教師が生徒を「共感的に理解」しているとは,教師が,生徒の反応を 生徒の内側(感情や価値観など)から理解する能力を持ち,学習の過程 がその生徒にどのような見え方をしているかに敏感に気づいているとい うことである。. ここで大切なのは,ただ理解し,理解したままを伝えるのであって,. けっして評価や判断,分析をするのではない。つまり,「この問題を自 分の手に負えないように感じているのですね」または「この筆者の主張.

(13) 8 は根拠がないような気がして,不愉快な感じがするのですね」と理解し 伝えるのであって,「この問題はあなたには難しすぎるのですね」とい う判断を示したり,「この筆者の主張の曖昧さによく気がつきましたね」 と評価するのではないということである。. この共感的理解によって,生徒に起こることは次の二つであろうと考 えられる。一つは,自分の自己主導的な学習能力が信頼されていると感 じること,もう一つは,自分の経験していることを教師からフィードバ ヅクされることで,それがより明確に理解され,学習に役立てることが できるということである。. 2.3 受容と尊重 ロジャーズは「受容」を「無条件の肯定的配慮(unconditional positive. regard)」とも表現する。生徒の感情や意見をすべて,意義のある学習に つながる可能性のあるものとして,無条件に尊重するということである。. 目標を達成するための努力と同じように,学生たちに時折みられる無 関心や,横道にそれる移り気な好奇心も受容する。また,授業に貢献し ようという感情も,権威への反発や自分の能力への不安からくる授業を 妨害するような感情も,同じように受容する。肯定的な感情と同じ程度 に,否定的な感情も受容するのである。. 教師が,生徒の可能性を信頼するから,無条件に生徒の感情を受容す ることができる。逆に言えば,この「受容と尊重」は生徒の可能性に対 する信頼を表現する技法なのである。. ここで教師が生徒を「無条件に肯定」することは,難しく危険なよう に感じるかもしれない。学級崩壊をそのまま放置するのか,という批判 を受ける恐れもある。ロジャーズは「感情を受容」するといっているこ とに注意しなければならない。「学級を崩壊させる」行為を受容するこ. とはできない。だがその解決には生徒の「学級を崩壊させたい」感情が 受容されることが必要なのではないかという示唆を感じるのである。. 2.4 自己一致 これは教師が,生徒との人間関係において「純粋(飾り気やみせかけ のない)」であるために,そして直接的な心のふれあいを持つために「自 己一致」しているということである。ロジャーズはこの「自己一致」が,. 教師の促進的な態度の基盤であると述べ,その重要さを「共感的理解を.

(14) 9. 感じず,受容できないときにはどうずればよいか」という問いに答える 形で次のように述べる*7。 もしも学生の内面の世界をほとんど理解せず,学生達や学生達の行動が嫌いであるなら ば,偽りの感情移入的であったり,あるいは,心を配っているという仮面をつけたりする ことよりも,ありのままであることの方がたしかによほど建設的なのです。. 「純粋」であるために「自己一致」するとはどういうことか,「自己 一致」は教師の促進的態度の中では,理解しにくい概念である。ロジャ ーズの言葉を借りながら,教師と生徒の関係について説明を試みる。. 教師は生徒にとって真実であることはできない。なぜなら生徒が何を 真実と感じるかはわからないからである。教師が真実でありたいと思う ならば,それは自分に対してのみ真実でいられるということなのである。. 自分に対して「真実」であるとは,自分の経験している気持ちを自分 の気持ちとして気づき受容しているということであり,これが「自己一 致」しているということである。「自己一致」していれば,自分の気持 ちを生徒に押しつけたり,生徒を判断したりすることはない。. 生徒中心授業の授業中に,学習に取り組んでいるようには見えない生 徒がいる6この生徒を含めすぐに学習適性別グループを編成し始めたり, 恐れによって学習を始めさせる操作的な不機嫌さを伝えたりするのは,. 実は生徒の可能性を信用できないことによる教師の不安を,生徒に押し つけているのかもしれない。その不信や不安を自分が感じていることに 気づき,必要なら生徒に伝えることができるのが「自己一致」した生徒 中心授業の教師の理想であろう。. もう一点「自己一致」について忘れてはならない点がある。教師は,. 自分が生徒を受容し共感的に理解できる程度において受容し共感的に理 解するということである。あまりに考え方が違いすぎるために理解でき ない生徒がいるだろう。生徒の行動や学習態度が受容できず腹を立てる こともあるだろう。その教師としての自分の限界を受容することも「自. 己一致」には重要である。また,これらのことは自分の内側のことであ って,生徒を判定したり,操作するようには用いられないということも. 大切である。ただ「私は,君の行動が理解できないから不安」なのであ って,「君の行動は,私に不安を与えているから悪い」のでも「すぐに 止めなければならない」のでもないのである.

(15) 10 3 学習共同体. 3.1 学習共同体へと成長する授業 教師の「共感的理解」「受容と尊敬」「自己一致」の態度によって,. 生徒の自己主導的な学習が促進されるとともに,教師の態度は生徒によ って学ばれ,生徒相互に対する態度となってくる。教師と生徒,または 生徒同士の人間関係も促進され,授業が従来のものとは違った様相を見. せ始める。ロジャーズはこれを「学習者たちの共同体(community of leaners)」と呼ぶ。以下,筆者はこれを学習を目的とした共同体「学習 共同体(learning community)」と呼ぶことにする。. この学習共同体とはどのような様相を持つのか,日本におけるPCA 研究の先駆者であり,ロジャーズ派の臨床心理学者である村山正治のチ ェンジズの報告*8を手がかりに考察する。. 村山の解説によると,チェンジズは米国のシカゴ大学に所属する臨床 心理学専攻の大学院生たちによって,新しい臨床形態をめざし,創設さ. れたコミュニティであるが,村山がシカゴに滞在した1973年当時, 70人近いメンバーの半数以上はシカゴ大学に関係ない,大学近くのハ. イドパーク地区の住民で構成されていた。PCAの理念に基づいた,地 域の人的ネットワークによる,相互援助的コミュニティ*’なのである。. 3.2 学習者相互の関係 チェンジズのコミュニティ観の特徴は,コミュニティとは互いに一緒 に成長していけるような人々の集まりであると見なしているところであ る。従来の授業においても,教師は「学習者が互いに成長する」ことを 目標にしていた。しかし,それが生徒たちの自覚された目標となってい たであろうか。生徒たちが,学習内容や学習材の向こうに「互いの成長」. を目標として参加しているような授業は希少である。授業の責任を配分 する上で,生徒のこのような自覚は大切である。. 生徒たちが成長するとは,生徒たちが自分が直面する問題を解決し,. 自分の可能性を現実化することであると筆者は考える。その成長を(教 師を含めた)互いの関係と交流の中で実現しようとする関係が学習共同 体における学習者獅の関係である。. また,チェンジズでは,援助者と被援助者を区別しない。同様に学習 共同体では教師と生徒は平等な学習者となる。生徒中心授業を実践する.

(16) 刀. 教師は専門性に優れ,自己主導的な学習を促進することに熟達している。. その意味では,教師は学習共同体のリーダーである。しかし次のような 授業の責任を分担することについては,生徒と平等な学習者なのである。. ①授業を意味のあるもの(楽しい,興味深い)にする。 ②自分の興味・関心に基づいて学習を進める。. ③互いの「共感的理解「受容と尊重」」そして「自己一致」に努める。 ④自己主導的な学習を促進する授業の雰囲気を作る。. 教師が,自分が生徒と平等な学習者であることを楽しむことが,自己 主導的な学習を促進する雰囲気を作ることにどれほど影響するかが次の 二人の教師の姿に対照的に表現されている。 ○ わたし(スウェンソン:筆者注)にとって非常に重要であったのは,わたしたちが一 緒に学習者になったという事実でした。明らかにわたしは,生徒たちがしばしば没頭す るようになったいろいろな分野のすべてに通じていたわけではありませんでしたので, わたしは生徒たちとともに発見し研究しておりました。(中略)わたしは決して恐れるこ となく,“わかりません”と言いましたし,生徒たちはますます気楽になってこの真実を 喜んだのでした。(高等学校のフランス語教師スウェンソンの報告『’). ○ この指導者(バーカム:筆者注)がグループから孤立してしたことが,指導者も学生 たちもともに,重要な共同学習をできないようにしてしまったし,その結果当然,(中略). ほとんど確実に起こったはずの多くの創造的な洞察を全員から奪ってしまったのでした。. (中略) この指導者がこのグループの重要な一人の学習者であると自分自身を見なすことがで きていたならば,この講座は指導者や学生たちにとってもっと多大な価値のあるものに なり得たことでしょう。(大学のバーカムの講義に対するロジャーズのコメント『2). 3.3 クラスと小グループ チェンジズは,日曜に開かれる大集会といくつかのグループでできて いる。大集会という大グループは人的資源や活動の可能性の豊富さがあ るが,人間関係の親密さや暖かさは小グループの方が優れる。小グルー プによって生み出される親密さが大グループに影響を与えている。. 授業においても,必要に応じてクラスという大きなグループの中に小 グループが形成されるであろう。小グループは親密さを増しやすい反面,. 排他性や不自由さを持ちやすく,授業全体が学習共同体へと成長する妨 げとなる危険も生じる。チェンジズはこのような小グループの持つ危険.

(17) 12 性を解決するために次のような原則に従っている。 ①関心ある人が企画し,興味ある人が参加する。興味がない人は参加しなくてもいい。 ②チェンジズは考えや立場の違いを認める忍耐力を必要とする。 ③グループの要求よりも個人の要求が優先する。. ①は学習共同体に成長した授業おいて,学習者が取り組むであろうプ ロジェクト(興味・関心に基づく学習活動)の原則に適応できる。ここ までの成長には,いくらかの段階が教師によって準備されなければなら. ないであろうが,それは,生徒が自分の学習内容について自分で責任が 持てる(発見や継続や評価)ようになるための準備である。. また,プロジェクトの途中で,自分の関心の変化に基づいてプロジェ クトの内容を変更する自由,または自分の責任においてプロジェクトか ら身を引く自由も保証される必要があるだろう。. 親密さは②のような考えや立場の違いを無視して生じるのではない。. それらを互いに認めることによって生じるのである。チェンジズは次の ような方法で人間関係の軋礫を解決する。 論争している人に対して,しばらくの間,耳を傾ける。それから,彼がまたしばらく聞 き,といったように,お互いに他を完全に理解するまで続ける。これだけで多くは解決す るし,また少なくとも進展する。もしお互いに話を聞けない状態にあるなら第三者を呼ん できて,一人ひとりのことを聞いてもらう。. このような学習者の感情を扱うミーティングが授業申に必要である。. ③を授業について考えるなら,プロジェクトの進行や成果よりも学習 者の感情や関心を優先するということである。. 例えば,授業における問題を扱うミーティングで,プロジェクトは授 業中に限って欲しいという提案がA君から出たとする。普通のクラスの ミーティングならこの提案について賛否が討論されるが,ここではA君 の気持ちが参加者によって丁寧に聞かれるのである。そのなかで,A君 が自分の参加しているプロジェクトに窮屈さを感じており,それはA君 が頼まれたら「ノー」と言えないことから生じていることが明らかにな るかもしれない。ここからA君は「ノー」と言うことを学べるように, クラスメイトから支援されるようになるのである。. 第3節 教科教育におけるPCAの可能性.

(18) 13. 第3節では,PCAが,教科教育の発展に寄与するどのような可能性 を持つのかを考察する。「1 PCAと教科教育の二つの問題」では, PCAによる生徒中心授業が学習における基礎・基本をどのようにとら えているのか,また生徒の個人差にどのように対応するのかを考察する。. 「2 純粋な対話の保証」では,前述した教師の促進的な態度(共感的 理解,受容と尊重,自己一致)が,なぜ自己主導的な学習を促進するの かを「授業における対話」について考察する。「3 学習者中心授業の 信念」では,最近さかんに提唱される学習者中心授業について,その実. 践に取り組む教師の信念としてPCAを考察し提案する。. 1 PCAと教科教育の二つの問題 1.1 生徒中心授業における基礎と基本 ロジャーズは,自分が「教えることについて否定的である」理由を示 すために,現代人なら数日中に死んでしまうような荒れ果てた環境の申 で生き続けるオーストラリアのアボリジニーを正反対の例としてあげ る。*13アボリジニーは「教える」ことを生きるために重視するのである。 アボリジニーの生き延びる秘訣は,教えることでした。彼らは,水の見つけ方,獲物の 足跡のたどり方,(中略)細々とした知識をすべて若者に伝えてきたのです。このような知. 識は若者たちにゴ生き延びるための唯一の行動の仕方として伝えられ,どのように改める ことも許されなかったのです。明らかに,教えるということは,逆境の中で,しかも比較 的変化のない環境で生き延びる方法を与えているのです。. 教えるということは,変化のない環境においては意味があるが,絶え 間なく変化する現代においては,教えられた知識はすぐに時代遅れにな ってしまう。そのため,現代の教育として意味があるのは,固定した知 識を教えることではなく,過程を学ぶこと,つまり生徒中心授業の教育 目標「経験に対して心が開かれる」こと,「変化の過程を自分の申に統 合する」こと,「学習の過程を学習する」ことであるとロジャーズは述 べる。ロジャーズは,次のような二つの教育の目標があると考え,「生 き延びるための固定した知識を教える」ことは変化する現代においては 意味がないと主張しているのである。 (変化) 無変化. (生き方). (教育の目標). 逆境を生き延びる → 周諭した知識を教える. 常に変化 創造的に生きる. →. 過程の学習を促進する.

(19) 14 ロジャーズが言うように「生き延びるための知識を教える」ことは現 代では必要ないのであろうか。ここで筆者に想起されるのは,「教育内 容の精選」の主張とともに起こってきた「基礎・基本」の問題である。. あるレベルの「読み」「書き」「四則計算」は,自分の人権を守る上 で重要な学力である。このような学力は「創造的に生きる」以前に「人 間らしく生きる」ために不可欠な学力,つまり「創造的に生きるための 基礎学力」ではないだろうか。これらの基礎学力は現代においては,ア ボリジニーたちの生死に関わる知識に匹敵すると考えるとき,ロジャー ズは「基礎学力を教える」ことを否定していることになる。. ほかにも,ロジャーズが学習の促進について述べた次の部分に,「基 礎学力を教える」ことについてのロジャーズの考えを知ることができる。 シルビア・アシュトン・ウォーナー(SyMa Ashton−Warner)q4は反抗的でなかなか勉強. が進まないと思われているマリオ族の小学生を取り上げ,子どもたちの読める言葉の数を 増やしました。(中略)すぐに子どもたちは文章を組み立て始めて,その文章を覚えること もできるようになりました。(虐刑)しかし,彼女の方法をお話しするのはわたしの目的で はありません。. (中略). 彼女の率直な真実さこそ,彼女を感動的な学習の促進者にしている諸要素のひとつであ った,とわたしは確信しているのです。. 次の例*15は,そのまま引用するには長すぎるので要約して示す。 ハーバード・ウイリアムズ(Herbert Williams)は,その市の中で最悪といわれる少年たち. を担任した。この子どもたちは学業成績はもちろん知能も遅れていた(平均LQ.は82だっ た)。教室にあったのは机と黒板と,読む力のすべてのレベルに適合する絵本や読み物,い. ろいろの教科書などを載せた大きなテーブルと二つの規則(何かを忙しくやってなければ ならない,他の子どもの迷惑になってはならない)であった。子どもたちは成績を批評さ れず,励ましや助言は,自発的に活動が始められた後にだけ与えられた。. ウイリアムズの受容や,共感的配慮によって,読み,計算,およびその他の教科におい て,子どもたちは通常期待される4倍以上の学力の進歩を示した。. 二つの例の教師はどちらも,担当した子どもたちに基礎学力をつけた いと願っている。ただこの二人の教師が他の教師と違ったのは「(教師 が)教えること」よりも,適切な環境を用意すれば「(子どもたちが). 自分たちで学び始める」ことを信じたことである。そして,その自己主.

(20) 15 導的な学習能力が促進されるような教室を作ったのである。それは教師 による「自己一致」と,「受容と尊重」と「共感的理解」である。. ロジャーズは「基礎学力」の重要性を否定しているのではない。その 獲得は,「教える」よりも「学ぶ」ことを促進する環境を作る方がより 効果的になされると主張するのである。 ここで,「基本」についても触れる。教育における「基礎・基本」は,. 子どもの可能性を現実化するための「基礎・基本」である。子どもが自 分の可能性を現実化するには,「人間らしく生きる」ための基礎学力は 欠かすことができない。「自己が脅かされるような環境」では意味のあ る学習はひどく遅れるのである。. それでは可能性を現実化するための「基本」とは何か。教育における 「基本」とは,教育を通して「基礎」の上に身につくその子どもの原則. である・「基本」という言葉には肯定的なニュアンスがあるので「建設 的な原則」としよう。「子どもが自分の可能性を現実化するために持っ ている建設的な原則」は,子どもの学び方や行動のパターンにいろいろ な様相を帯びて表現される。. ロジャーズがあげる生徒中心授業の教育目標,「経験に対して心が開 かれる」「変化の過程を自分の中に統合する」「学習の過程を学習する」 は,この「基本」にあたる。. 1.2 個人差への対応 加藤幸次i‘は,「個に応じる」という教育現場に流行するスローガン. が不明確であることを指摘し,「個」を学習指導と「教材の特性」から 「①学力(到達度),②学習時間,③学習適性,④興味関心,⑤生活経. 験」の五つの個人差に分析している。この「五つの個人差」という観点 は「個に応じる」教育を考えるために重要であると筆者は考えている。 ①学力(到達度). この学力は狭い意味での,ペーパーテストなどで測定されるような学力のことで,一般 に言われる,できる生徒とできない生徒の違いである。 ②学習時間. すぐに問題の解ける生徒と,時間をかければ解ける生徒がいる。生徒たちが学習に必要 とする時閻の差である。. ③学習適性.

(21) 16 一人の方が勉強が進むかグループ学習が得意か,またはこつこつと取り組むか集中的に 取り組むかという「学習スタイル」や,演繹的思考をするか帰納的思考をするか,または 論理的か直観的かという「思考スタイル」の違いである。 ④興味・関心. よく知られた個人差であり,授業における処遇も工夫されているが,興味・関心を共通 項で縛るという処遇に終わりがちである。 ⑤生活経験. 興味関心の一部として扱われるが,加藤はこれを学校以外の生活の中での体験や身につ いた技能として切り離した方が生かしやすいと述べる。. 以上の加藤の五つの個人差に,筆者は生活経験とともに,⑥学習経験 という個人差をあげたい。⑥学習経験とは,「その生徒が今までの学習 において身につけた学習方法や学習に対する印象の差」である。 この五つの個人差について,「指導を個別化」または「学習を個性化」 する“亘7ために加藤は10種類の学習プログラムを提案している。しかし,. 10種類のプログラムを適切に駆使することが現在の学校で実際に可能 であろうか。. 生徒中心授業では,生徒の学習は完全に個別化されている。生徒は自 分のゴールを自分で設定し,自己評価によって各自の学習を進めていく。. そのために,一斉授業で問題になるような「①学力」や「②学習時間」. という個人差は問題にならない。また,学力に対する他律的な評価に生 徒たちの自己評価が大きく左右され,「可能性の現実化」が妨げられる ことが多いが,生徒中心授業では,授業の申で,「制度上の圧力」*18に. 対して自分の内的な自由を優位におくことを学んでいく。. 従来の授業では「③学習適性」や「④興味関心」は「教師が適切と判 断するものを生かす」という条件付きであった。また「思考スタイル」. も論理的であることが過剰に求められ,直観的に優れることはそれほど 価値を与えられなかった。生徒中心授業では「③学習適性」「④興味関 心」「⑤生活経験」「⑥学習経験」は教師に共感的に理解され,フィー ドバヅクされることによって明確になり,同時に意味のある学習につな がる可能性として無条件に受容される。. やがて学習共同体が成長すると,これらの個人差は互いのために役立 てられるようになる。「理解が速い生徒は遅い生徒に教えることで自分.

(22) 17 の理解をよりしっかりとしたものにしようとする」「自分が過去に学ん だ研究方法をクラスに提案する」などの活動がおこってくるだろう。. 個に応じるために,多くの複雑なプログラムを用意し,教師の数が足 りないと嘆いているのは,教師が授業の責任をすべて持とうする点で, じつは権威と秩序で生徒を一律に教えようとするのと同じではないか。. それよりは,自分の個人差を生かし個性を育てる責任を,生徒自身が 持てるように「自己主導的な学習能力」を育てることのほうがよほど現 実的である。. 2 純粋な対話の保証 教師の「共感的理解」「受容と尊重」「自己一致」が,なぜ「自己主 導的な学習」を促進するのかを授業における「対話」について考察する。 従来の授業実践においても,生徒の「教材(対象)」「自己」「他者」. との対話は,たびたび学習のねらいとされていた。しかし,生徒はそれ らとの純粋な対話ができていたかどうかが反省されなければならない。 教師が「教材(対象)」を示すと,「教材(対象)」は生徒の興味・関. 心より価値があるという暗黙の位置づけがなされる。生徒が,教材より も自分の興味・関心を優先することは,大変な脅威を伴うのである。こ. こで生徒が対話するのは,「教材(対象)」ではなく,その「教材(対 象)」を示した教師の意図や感情,学校規範,後の評価になってしまう。. 対象との対話が,純粋におこなわれるためには,生徒が自分の目的にふ さわしいと感じる材料を,教室に持ち込む必要がある。教師も材料を持 ち込むが,それは有効性,必要性と共に提案され,役立てるか拒否する かは生徒の選択に任されるべきである。. 「教材(対象)」を持ち込んだ教師は次に「教材(対象)」の力を利 用し,「自己」との対話をさせようと試みる。しかし生徒には,ここで 自分の内側からいろいろな声が聞こえている。社会規範,自己承認欲求,. 超自我,固着した概念など,どの声が聞こえるのか聞き分けることは難 しい。生徒中心授業の教師が作った促進的な環境の中では,生徒は防衛 的にならず,固着した価値観にとらわれることもなく,それらを聞き分 けることができる。それらの自分の中の声を,聞き分けて対話するのも,. 純粋な対話といえる。そのなかから自分の目的が明確になるのである。.

(23) 18 生徒が自分の目的を持ち,その目的にふさわしい材料を,教室に持ち 込むようになるためには,自分にとって重要な意味を持ち,自分の生活 の中で現実的に関係している問題に気づき直面していることが必要であ る。この問題に気づくために「自己一致」した教師が,生徒の感情や意 見を無条件に「受容尊重」し,生徒の学習を内側から「共感的に理解」 し,その過程を明確にしてみせることが必要なのである。. 「他者」との対話は,生徒中心授業でも,有効な学習過程として提案 される。他者との相互的交流は,豊富な全人格的な(論理的であり直感 的な,知性的であり感情的な)経験をもたらす。また,自分の既成概念 を揺るがし,変化を要求する。しかし,従来の学習場面においては,直 感的,感情的な経験は否定的に扱われたり,既成概念が揺れることは, 他者や時には自分からの抵抗にあったりした。促進的な環境の中では, 安心して,全人格的な経験をし,既成概念を崩すことができる。. 教師の促進的な態度をモデルとして,やがて生徒達が,教師と同じよ うな態度を持つようになると,「他者」との対話はより脅威の少ないも のとなり,全人格的な経験と概念の変化を促進する。 以上のような純粋な対話を保証するとき,問題となるのは評価である。. 他律的な評価は,この純粋な対話を妨げる。生徒中心授業における評価 は自己評価である。他からの評価が二次的な意味しか持たず,自分の評 価基準が自分の成長であるとき,自己主導的な学習は促進される。. 3 学習者中心授業の教師の信念. 3.1 教師の信念 教師は,生徒や教師の経験のなかで形成されたもの,または授業とい う空間のなかでの「今ここで(now and here)」の過程(多くは感情面の). が,学習を大きく左右することを熟知している。授業における生徒認知 や意思決定において教師はそれらを暗黙に重視してきたが,それは表現 する共通の言葉と研究の方法を持たないがゆえの暗黙であった。. 国語教育におけるパラダイムの変換,新しい授業研究のパラダイム追 究によって,学校現場の教師たちが持つ,このような「現場の知」とも いうべきものが,研究対象としての価値と言葉を手に入ればじめた。. そして,それらの研究対象のなかで「教師の信念」と名づけられたも.

(24) エ9. のは,PCAを適用する非常に大きな可能性を持っているのである。 次は.ヒ越教育大学大学院における,現職教員の研究カンファレンスの 一部*りである。このカンファレンスでは,田中の読書指導の授業(単元. 「郷土の民話を読もう」)について,加藤が,「子どもが自立し,物事. の判断基準となる自分自身を確立するためには,『指導』は最小の関わ り,最小の影響,最小の指導であるほうがよい」と,授業者の田中の読 書指導に対する懐疑的なコメントをし,田中が「人格者(独立した個人 としての子どもの意味:筆者注)に学校教育で教えることはないという ことか」と反論している。. 指導は積極的であるべきか,消極的であるべきかという討論はかみ台 わず,話題は加藤の教師としての経験へと移る。 田中. 加藤さんに尋ねますが,加藤さんは子どもを指導して,こういうふうに変わって よかったなという経験がありますか。「教えることが善でない」ということと,最 小限でいいということは,何か逆に積極的に指導されてからの結論なのか,それと も結果に裏切られたという経験からのことなのか,聞かせてください。. 加藤 指導して,子どもに裏切られてしまったという経験ですか。 田中 教えることがマイナスとなったとか。. 加藤 指導した結果裏切られてしまったとか。 田中. そういうこともありますか。. 加藤. あります。. 研究カンファレンスのこの部分では,田中は,加藤の懐疑的な指導観 は,指導して失敗したという経験から形成された,つまり,自分と加藤 の指導観の違いは,今までの教師としての経験の違いが原因であると考 えている。. このような言及は,教師の,パーソナリティやライフコースを論じる こととなり,今までの授業研究では否定的な扱いをされた。公式の場で は取り上げるべきではないと考えられているのである。. しかし,現場の教師は,このような非公式な(たびたび教員室の片隅 でおこなわれるような)授業研究によって扱われる内容が,授業の成否 や生徒の学習態度,なによりも教師の成長に大きな意味を持っているこ とを,現場の実感として知っている。 新パラダイムによる授業研究では,この研究カンファレンスのように,.

(25) 20 「経験を通してひとりの教師の中に形成されたもの」も研究対象となる。 これを,佐藤学ら枷や秋田喜代美磁は,教師の「信念*22」という言葉で 表現する。. 教師の信念について,「教師研究」に成果をあげている佐藤らや秋田 は次のように述べる。 第三は,教師の熟達は,その根底において,授業観や学習観として総括される信念に支 えられていることである。(中略). この研究の限りで言えば,ある種の情動的な態度や倫理的な態度に具体化されている信 念の形成が,教師の熟達と無関係ではありえないことだけは確かである。 (佐藤ら). 各教師の思考には,それらを深部で総括する主題のようなものが存在し,それが,その 教師の授業観や学習観としての信念を形づくっていると言えるだろう。. (佐藤ら). 授業のあり方は個人や社会の考え方に規定されている。そこで教師の持つ授業観,教科 一等の捉え方,信念の個人差を明らかにしょうとする研究が行われている。 (中略)信念は授業行動において暗黙に機能しており,教師自身も自分の信念を自覚化し ていない場合が多い. (秋田). 以上によれば,教師の信念は,「教師の深部に存在する主題のような ものに基づいて,統一的な授業観や学習観などとして,教師の熟達と共 に形成され,授業行動において暗黙に機能するもの」である。たしかに,. 学校現場においては,このようなものが暗黙に機能しているという実感 が筆者にはある。このような教師の信念は,授業での生徒に対する認知 と,その認知をもとにおこなわれる教師の意思決定*23に,大きな影響を 与える。. 3.2 学習者中心授業を支える信念としてのPCA 浜本純逸*24は,21世紀を目指すこれからの国語科教育の学習指導に ついて,「教師・教材中心の『授業』から学習者中心の『学習指導』へ とパラダイムを一八○度転換するほど大きく変換すべき」と主張する。 また,佐藤*25は,「授業におけるパラダイム転換は『技術的実践』か. ら『反省的実践*㌔への転換という概念で実現されてきた」として次の ように述べる。 授業を所定のプログラムの遂行とみなす「技術的実践」として認識するか,それとも,.

(26) 21 教室の「今ここで」生起する意味と関わりを編み直す「反省的実践」として認識するかの 分岐点は 教室に刻々と生起する数々の「出来事」に対して,教師がどのような態度での そむかにあると言ってよいだろう。予測や計画の枠内で起こる現象は「出来事」ではない。 「出来事」は,いつも教師の思惑や計画を裏切って起こるのであり,この「出来事」への 対処の仕方が,授業と学びの過程を機械的で形式的なシステムに閉じ込めることもあるし,. あるいは,そのシステムの枠を壊してダイナミックで創造的な過程へと再構成するものと もなる。. 浜本,佐藤の言葉をあわせ読むと,新しい授業パラダイムによる学習 者中心の「学習指導」が,期待される創造的な成果を上げるかどうかは,. 「今ここで」生起する「出来事」に対して,教師がどのような信念を持 って,生徒を認知し意思決定をするかに,大きく左右されるということ. になる。つまり,最近の学習者中心に関する討論は,教師の生徒認知と 意思決定を支えている信念についても論じられる必要がある。. 同じく学習者中心授業を標榜しながら,そのあり方が相容れない論争 を生むのは,「学習者の自己主導的な学習能力」への信頼の程度差によ るところがある。. 学習者の「自己主導的な学習能力」を徹底して信頼する生徒中心授業 は・,学習者中心授業を実践する教師の信念として,また,学習者中心授 業を検討する観点として,大きな可能性を持つ。 佐藤*ηはまた「出来事」について次のように述べ,「教室の『出来事譲. へと開かれた授業のイメージ」として,小さな「出来事」から,「有意 義な脱線」のために「積極的に逸脱」する教師の事例をあげて,次のよ うに述べる。 ○ 教室の出来事は たえず中心ではなく周辺で生起しており,そこに子どもと教師が育 ち合う豊穣な契機を準備している。. ○ 教室にはいくつもの「出来事」が水面下では生起しているにもかかわらず,それらの 「出来事」のほとんどは語られないまま見失われ,「出来事」として表舞台に出現するこ とはまれである。その要因はいろいろ考えられるが,一つには,教師の意識が「意図」 や「計画」や「予測 として語られる「中心」に呪縛されていて,「周縁」で生起する事 柄に無頓着であることが指摘できるだろう。. たしかに,佐藤があげる「教室の『出来事』へと開かれた授業」をお.

(27) 22 こなう教師は,「出来事」を柔軟に利用する。しかし,逆にいえば教室 での「出来事」は,「意図」や「計画」を用意することで達成しようと した教師の「目標」に対して,「周縁」または「逸脱」という地位しか 与えられていない。つまり,教師の教育目標に向かって,学習者のなか から生起したものをうまく利用する授業である。佐藤が主張するこの反 省的実践の授業は,ゆるやかではあるが教師主導による授業であり,教 師・教材中心授業から学習者中心授業への「一八○度転換するほどのパ ラダイム変換」とは言えないのである。. PCAによる生徒中心授業においては,「出来事」は「逸脱」でも「周 縁」でもない。出来事が持つ感情や過程という「意味」は,学習の目標 を獲得するための重要な素材である。教師は,出来事を生起させた過程 やそこに含まれる教師・生徒の感情を,「共感的理解」「受容と尊重」「自. 己一致」によって,生徒の自己主導的な学習を促進する環境を作るため に役立てる。この教師の生徒認知と意思決定は,生徒の持つ可能性を信 頼するという学習者主導の信念である。. ロジャーズの生徒中心授業の様相を,佐々木秀穂の「授業のあり方・ 捉え方の新旧比較」の表*28に重ねてみる。生徒中心授業が,従来から討. 論されてきた学習者中心の新しい授業パラダイムを,より進めた自己主 導的な授業であることが理解できる。たとえば,授業における「主な活 動」は,自分の目的にどちらが有効であるかによって,生徒が反復練習 をするか,表現をするか,選択するべきであり,「評価」についても,. 自分の何を評価したいかは,生徒が自分で決定し,その責任(積極性を 含め)を自分でとるのがよい。 旧パラダイム. 新パラダイム. 生徒中心授業のパラダイム. 授業の中心. 教師. 学習者. 教師・生徒を含めた学習者. 教師の活動. 指導. 支援. 促進的態度,資源の準備. 主な学ぶ内容. 知識・技能. 学び方. 学び方,経験の活用,変化の統合. 形態. 一斉授業. 個別・グループ. 生徒の選択,共同体利用. 主な活動. 反復練習・理解. 調査・表現. 生徒の選択,全人格的経験. 態度. 理解・受容. 発見・創造. 自己主導,自己責任. 評価. 結果. 過程. 自己評価.

(28) 23 第4節 国語科教育におけるPCAの可能性 第4節では,PCAが国語科教育にどのように適用されるのかを具体 的な例をあげながら考察する。. 「1 詩の授業における『受容・尊重』と『共感的理解』」では,牛 山栄世の詩の授業を例にあげて,国語の授業における教師の「受容・尊 重」と「共感的理解」の具体的な姿を考察する。「2 生徒の表現に関. わるPCAの可能性」では,加藤宏文の「主題単元」実践における「私 のひと言」の分析を通して,PCAの立場からは生徒の作文にどのよう なコメントをするのかという試案を示す。「3 国語科における過程尺 度の試案」では,ロジャーズが考案した過程尺度から筆者が作成した「国. 語科教育における過程尺度」の試案を示し,その適用の可能性を探る。. 「4 国語科の教師教育としてのエンカウンター・グループ」では,P. CAの理念である生徒の「自己主導的な学習能力」への信頼を,教師の 信念として獲得し,「共感的理解」「受容と尊重」「自己一致」という態. 度を身につけるために,PCAによるエンカウンター・グループを利用 することの有効性を提案する。. 1 詩の授業における「受容・尊重」と「共感的理解」. 実際に,授業中の「受容・尊重」と「共感的理解」が,どのような様 相を持つものなのか,具体的な例を挙げて考察する。ここで取り上げる. のは,1985年に長野市立下永鉋小学校4年の牛山学級でおこなわれ た三好達治の詩「土ゴ29の授業の記録3{’である。. 牛山栄世のこの授業は,教材が教師によって持ち込まれていること,. 授業開始時には,教師が明確な授業の目標を持っていたこと,授業中の 活動が提案ではなく指示されていることなど,筆者が理想とする生徒中 心授業と異なる部分がある。しかし,授業における牛山の,子どもに対 する「受容・尊重」や「共感的理解」は,生徒中心授業における教師の 促進的態度を考察するにふさわしいものである。また,なによりも「子 どもの自己主導的な学習能力」を強く信頼している牛山の教師としての. 信念は,非常にPCAの理念に近いものである。 この授業において,牛山の発言時間は非常に少なく(教師発言21%, 子ども発言79%),発言内容はほとんど「受容」的な発言である*3【。. 岩川が「受容」に分類する牛山の発言は,ロジャーズの生徒中心授業.

(29) 24 における,「受容*32・尊重」と「共感的理解」を両方含んでいる。. 授業の冒頭,牛山によって詩が板書され,「自分の読み方でいいから 少し読んでみて」という指示がある。朗読は4回忌こなわれるが,子ど. もの1回目,2回目の朗読は明らかに不揃いであった。2回目の朗読に 対して,牛山は次のようにコメントする。 う一ん,「ありが」「ちょうのはねをひいて行く」,ここでね,少し休んだ感じの人がいる。. それから,「ああ」と入る人がいる。わりと,「ひいて行く」「ああ」と,すぐ入っている人 もいるように聴こえます。もう少し読んでみて。. この後の3回目の朗読も不揃い(岩川はこの語を肯定的に使っている). であったことから,この牛山の発言は,どちらの読み方がいいという教 師の適否の判断を伝えたものではないことがわかる。それよりは,この 読み方の違いに,この詩を味わうための可能性があることを伝えている。 「子どもの不揃いな朗読」という「出来事」の意味を「受容*33・尊重」 しているのである。. この朗読は4回目で切り上げられ,この授業における牛山の,唯一の 子どもに対する「はい,どうですか」という発問がなされる。この発問 は,まったく方向性を持たない。この発問について,岩川は次のように に述べる。 授業後のコメントによると,牛山先生のこの発問は授業前に用意されていたものではな く,子供達の朗読を聞いた時に,自分がはじめに用意していた問題を子供達がすでに越え ていると判断し,それを捨てた後に子供達に向けられたものである。声の聞き分けという 子供知覚がここでは場面間行為の基盤となり,間接的に子供達の経験に作用していく。. 牛山は,授業の前には発問を用意していた。しかし,子どもたちの朗 読を聞き分けた後,自分の用意していた学習内容よりも優れた可能性を,. 子どもたちが持っていると判断し,それを放棄している。そして,それ は「はい,どうですか」という,子どもの可能性に対する無制限の信頼 を感じさせる発問へと続くのである。. この発問に対して,子どもが発言し,牛山が受容的なコメントをする という時間が続く。その多くは子どもの発言の部分的な繰り返しである。. これを岩川は「すでに子供の発言を聞いている中で,牛山先生のからだ. に動き出すものがあるが,その動きは牛山先生が能動的に子供の発語行 為を模倣したときに一層輪郭のしっかりしたものになる。これは言わば.

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