B口′をⅣセ2gゼュ′,οσο′′
N醍
。長野県看護大学紀要 16: ユー12,2014 退任記念特別寄稿身体 に関す る論 考
――看護学における身体像の広がりと深みへ分け入るために一―
阿保順子
⊃
【要 旨】 本稿は,看
護学 における身体概念の明確化 に向け,
日常生活や精神病,認
知症や看護技術 におけ る人間の身体経験を通 して, これまでの解剖生理学的な身体像か らの捕 らわれか ら抜け出し,身
体性 について考 察 した論考である。 日常生活では残像な どの視覚体験,聴
覚や触覚の リアル性か ら入 り,既
視感 という総体的感覚 をとりあげる. 精神病では統合失調症急性期で彼 らが体験する身体経験,つ
ま り, 自分 と周囲を分ける境界線が破綻寸前の状態 に陥ることを,著
者が提唱 している保護膜モデルを使つて考察す る。看護技術 という身体経験は,患
者 さん と看 護師の間か ら押 し出され,相
互嵌入するということ,そ
こには言葉が及ばない身体領域が存在することについて 言及す る。最後は,2人
の重度認知症の人の出会いの場面分析か ら,原
初的身体 の存在 を想定せ ざるを得ないこ とを述べる。 これ らか ら,身
体は多層的なものであることを考察 した。【
キーワー ド】看護学
,身
体
,統
合失調症
,認
知症高齢者
,看
護技術
は じめ に でかき出していた。Mさ
んが亡 くなったあ としば らくして,私
の頭 にはMさ
んの表情が 自ず と浮かぶようになった。その時に は意識 していなかった彼の表情が,な
ぜ後で私の頭の 中に思 い起 こされたのだろうか。彼のあの時の表情は, その直後に起 こる事態の予感 とか予兆ではなかったの か。では,そ
の予感 とか予兆というのは,認
識できる のか,い
やできない,な
ぜな らばそれ らは認識の外に あることだか ら.だ
か ら,感
じ取るしかない。だ とす れば, どこで,
どうやって感 じ取ることができるのだ ろうか。問いは,言
語や意識か ら「身体」へ と網状組 織のように広がっていつた。 その後,臨
床経験 と教育経験 を通 して私は精神看護 にのめ り込んでいくのだが,身
体 という問題はその間 もずっと私の心 を惹きつけて離さなかった。看護技術, 統合失調症急性期看護,認
知症の人々の生活世界など, 身体へ の関心 のは じめは,患
者 さんか ら滲み出て い た 「傍 さ」 を思 わせ る表 情 で あ った。 昭和45年,新
卒 の看 護婦 と して配 属 され た結核 病棟 で の 出来事 で ある。 中原 中也 に似 た文学青年ふ うの男性患者Mさ
ん は,血
淡が続 いて いたため,症
状安静で過 ごして いた。 ベ ッ ドの右わきには床頭台,左
わ きには吸 引器 が置か れた。 まさかの喀血 に備 えての ことで あった。新卒看 護婦 として の私 は,そ
の 日,先
輩看護婦か らMさ
んの 状態 が落 ち着 いて い るか ら吸 引器 を片 づ け るよ うに 指示 された。Mさ
んは,い
つ ものよ うに静かな物腰で, 「お願 いします」 と言 つた。夕方,時
間はは つき りと は覚 えて いな いが,ナ
ース コールが あ り,
トイ レに駆 け付 けた。血 まみれ にな ったMさ
んがそ こに倒れ てい た。私 は泣 きなが ら,日
の中で固まっている血液 を手 1)長 野県看護大学 2013年12月 20日 受付 2014年 3月18日 受理阿保 :身 体 に関す る論考 これ までの研究 テーマ にお いて も
,基
底 には身体 問題 が横 たわ つて いる。 そ して,そ
れ らの 中で の身体 の 考察 は,総
説 (阿保,2006)と
して ま とめては きた しか し,そ
れは,ま
だ狭 い. 看護学 は まだ 日が浅 い学問で ある。 な によ りも基礎 学が弱 い学 問で もある。 「身体」 は,看
護学 の基礎 と して問われ続 けて いかな くてはな らない.本
稿では, 私 が これ まで の研 究 にお いて抱 いた疑 間 と思考過程, そ してそ の時点で得 た結論 をま とめた。 ある意 味,果
てのない課題で ある 「身体」 を考 える糸 日な い しは手 がか りになれ ば と思 う.な
お,記
述 の一部 は, これ ま で雑誌等 に書 き散 らして きた稿 (一覧 は稿末)を
改変 しつつ入れ込 んである ことをお断 りしてお く。1.日
々の暮 ら しの 中での身体経験 最初 に,一
人の生活者 としての身近 な身体経験 か ら 記述 しよ う。1)感
覚 の謎 「もう寝よ う」 と思 って蛍光灯 を消す。 目をつむる。 な にかが眼の中に残 って いる。蛍光灯 の残像 で ある。 日を閉 じて も網膜 に残像 は映 って いる。で も不思議 に は感 じな い。実際 目の前 にない ものが見 えて いて も, そ れ は残 像 と して科 学 的 に明 らか に され て い るか ら という理 由だけで納得 して いるので ある。そ の一方で, 幻覚,い
わば 目の前 にな いものが見 えて いるのは幻 で あ り,そ
の理 由は科学的には説明されていない。だか ら幻覚 は異常 な事態 として認識 され る ことにな る。 ア ル コール依存症 の患者 さんが,実
際 には存在 しな い虫 が体 を這 い上が って くる とおびえる。 レビ‐小体型認 知症 の患者 さんが,あ
そ こに子 どもが いるか らと手 ま ね きす る。それ らは病気 の症状 として私 たち看護職 は 捉 えているはず である。そ して脳 内の異常 として説明 されて いるが,な
ぜ実際 には存在 しな いものが見 える のかは科学 的 に説明 されていな い。 同 じことは,聴
覚 につ いて もいえる.気
にな る こと があ り,携
帯電話で の知 らせ を今か今 か と待 って いる。 実際には鳴 って いな い着信音が聞 こえた よ うな気 が し て何度 も携帯電話 を開いてみ る。都会 の喧騒 か ら離れ て,静
かな 田舎 のバス停 に降 り立つ。一瞬,音
が消 え B〔ゴゴ′θ虜汚ッ陀 餌 ο Cο′′cge O√ ^し ぉ正B3フ観 ヱaワ θ =を たよ うな感覚 に襲われ る。 しば らく,そ
の静寂 の中に たたずむ と,や
は り頭 の中で車が通 り過 ぎる音が鳴 り 響 いて いるよ うに感 じる。 田舎生活 に慣 れ親 しみ,車
の音か ら解放 されて くる。 しば らくす ると今度は眠る 前の し∼ん とした暗 闇の中で,何
か し ら,宇
宙 の音か と空想 して しまうよ うな音が聞 こえて くる。それは, 静寂音 とで も命名で きそ うな不思議 と静 かな音である さ らに言 えば,誰
とも会話す る ことな く日がな一 日を 一人で過 ごして しまつたそ の夜 に,「
で もね・・・」 と独 り言 をつぶや いて いる 自分 には っ とす る ことがあ る。頭 の中で誰か と会話 して いるので ある。そ の時, 相手の声は頭 の中にあ り,そ
れ に対 して 自分 は声 を出 して答 えて いるので ある。 こういった状態 は精神医学 用語で 「対話性幻聴」 と呼ばれ る。 もち ろん,精
神医 学的 には,あ
る文脈 の中に置かれた際 に こう呼ばれ る のではあるが。 こういった体験 は決 して私 だけの もの ではない。 日常的す ぎて,当
た り前す ぎて, ことさ ら に取 り上 げ られな いだけで ある.2)総
体 としての感覚 こうした体験 は ときにミステ リアスな感覚 として私 たちは経験 的 に知 って いる。 人がな にか を思 い出す と き,そ
れは記憶 にあるか らだ とい う.そ
して,記
憶は 記銘,保
持,想
起か らな る と科学 的 には説明 されて い る。 しか し,何
か をきっか けに しなけれ ば,思
い起 こ されな い,つ
ま り想起で きな い。それでは,そ
の何か の き っか け とは な にか。 そ れ は,具
体 的な 出来事 で あった り,人
間の五感,特
に,聞
いた ことがある音や 声,見
た ことがある風 景な どで ある.時
には五感が総 合的 に合体 され,タ
イムス リップ したよ うな懐か しさ で彩 られるデジャ・ ヴ,い
わゆる既視感 として体験さ れる。デジャ・ ヴは,風
景を構成 している一つ一つの パーツを過去 と照合 しても,ま
た,一
つのパーツにま つわる過去の具体的な出来事の記憶 を動員 してみても, それだけでは起 こり得ない。意識的に想起できること ではなく,そ
の下にある情動的な記憶に張 り付いてい る当時の気分の総体であると言えるだろう。 ノスタル ジックな懐か しい記憶,セ
ピア色の甘やかな記憶,そ
して忘れていたかったおぞましいほどの記憶だつた り す るのは,そ
のせいだ。 ここでも,身
体は意識の上だBとど/′fれッ蜘 ο働 ′′θge οF^む面 ど彊冷Va Fa 2θ =を けで語 る ことができないのがわか る。五感 も記憶 も切 り離す ことのできない 「身体」 なのである。 視覚 の記憶 の多 くは
,時
間がたつ ほ ど鮮 明 さは薄れ て い く。そ して, リアルだった人間 の表情や しぐさは, 次第 に写真 の中でほほ笑んで いる顔 に取 って代わ って い く.写
真 の中の顔 こそが亡 くな った人の顔 にな って い く.し
か し,今
はいな いそ の人の,手
の柔 らか さや 滑 らか さ といった一言では表せ ない,え
も言 われぬそ の肌 ざわ りは,な
ぜか残 って いる。視覚の記憶よ りは, 触覚 のそれ の方 に リア リテ ィが あるよ うに思 う。語 ら れ る ことが少 ないのが触覚 の記憶 である。 しか し,触
覚 の記憶 は,い
ま記 したよ うに,え
も言われ ぬ とい う 表現 しかで きな い,肌
ざわ りの総体 である。 しいて言 葉 を当て る とすれば,た
とえば フンワ リとかスベスベ, 反対 ではザ ラザ ラ,ゴ
ツゴツで ある。亡 くなった私 の 母 の手 に関す る記憶 を言 い当て る とすれば,サ
ラサ ラ とヒンヤ リとプニ ョプニ ョを合体 させ たよ うな感触で ある。 こういった擬態語 または擬声語,オ
ノマ トペは, 言葉 の一歩手前 にある表現で ある.さ
らにそ の感触 の 奥 を探 つて いけば,そ
こにはそ の人が もつ体温や手が 放づ表情,そ
してそ の人 自身の来 し方 まで を感 じとれ るよ うに思 う. こういった身近な ことにおいて も,身
体 に起 こって いる現象 には,・科学では説明で きな い多 くの不思議が 実際 にはある。そ して,多
かれ少なかれ また意識 して いるいな いにかかわ らず,指
摘 されれ ばそれぞれ に体 験 されて いる場合が多 いはずで ある。 当た り前の こと が 当た り前 にで きな くな る,身
体 の どこかが変だ, ど こそ こが痛 い,苦
しい,な
どいつ もと違 うことを訴え か け られた時,私
たち看護職 は,そ
の患者 さんの当た り前 の ことを知 らない ことに気 づ く。 とい うよ りは, 看護職 は, どれだけ当た り前 を形成 している身体 の現 象 というものに通 じて いるのだろ うか.2.統
合失調症 の人 々の身体 統合失調症 に罹患 した初期,つ
ま り急性期 の人々は, 絶対 的な恐怖や 身体感覚 の喪失 とで も言 い得 るよ うな 状態 に置かれ る.自
分 の周 囲が全 くの漠 とした宇宙空 間だ つた り,あ
るいは他者 は 自分へ差 し向け られた殺 人者 だった りす る。 また,熱
湯で平気で手 を洗 った り, 阿保 :身体 に関す る論考 尿意 を全 く感 じなか った りす るので ある。彼 らは,何
ゆえ にそんな状態 に置かれ るのか とい う問題 は,精
神 医学 の領域 で議論 されて きた。 しか し,そ
の恐怖体験 や身体感覚 の喪失は どれ ほ ど彼 らを苦 しめて いるのか, どうした らそれ らの苦痛 を軽 くして いけるのか につ い て,多
くは語 られて こなか った。語 られて も観念 的す ぎて理解 で きない代物であ った。そ んな動機 か ら編み 出された理解 のための一つの方法が,精
神構造 を元 に した保護膜モデルである.1)自
分 と周 囲を分 ける境界線 統 合 失調 産 に罹患 した 人 々 の場 合,解
剖 生理 学 的 な表 層 的 身体 だ け に注 目 した ので は到 底 理解 しえな い.こ
の こ とにつ いて,私
は人 間 の精 神構 造 を想 定 しなが ら述べて きた (詳しくは成書 を参照.阿
保 ら, 2009)。 私 は長年,統
合失調症 の急性期 に生 じて く るさまざまな 身体現象 をみて きた。そ の過程で,彼
ら は こころだけでな く, こころを■ みなが ら存在す る身 体 そ の ものが,通
常 に生活 して い る我 々の 身体 の あ りよ うと大 き く異なって体験 して いる ことに気 づ いた そ の異な った身体 のあ りよ うを説明す る際 に,模
式 図 に した精神構造 とい う概念 を用 いた.詳
細は前述 の書 物 に譲 る として概略は以下である。 通常 の人間の精神構造 を太 い厚 みのある実線 の円 と した。 この実線 の円は,他
者 と自分 を分 ける境界線 を 示 して いる。私 たちは通常,
自分 と他者 とを別 々の精 神構造 をもつ人間と して捉 えて いる し,確
か に皮膚 を 外側面 として身体 的 にも両者 は くっき りと区別 されて いる。私か ら見れば他者は他者であ り,他
者力Υら見れ ばそ の他者 は 自分で あ り,私
は他者で ある。 これ が, 人間一般 を捉 える大前提で ある。 つ ま り自分 あるいは 自己 とい うのは他者 とは明 らか に一線 を画す存在で あ り,明
確 な境界線 を もって いる (図1).そ
して,両
者 を区別す る境界線 はゆ るざな い ものであ り,い
わ ば 判別可能な厚み をもって,そ
れぞれが個 として存在 し て いる。阿保 :身 体 に関す る論考 自他の境界線 は しつか りと した 厚みを もつ 図
1
人間の精神構造2)統
合失 調症急性期 の人々の精神構造 につ いて しか し,統
合失調症 とい う病 に罹患 しやす い人々は, そ の太 さ,つ
ま り厚 みがない境界線 しか もって いない。 理由は,生
得的なものもあるだろうし,育
つたプロセ ス,い
わゆる生育環境にもある.し
たがつて,線
が細 いゆえ,さ
まざまなス トレスに対 して脆弱であ り,簡
単に破れやすい境界線である。そ して,罹
患 した初期 には,そ
の細 い境界線 に亀裂が生 じ,破
線 状態 にな る。いわば 自分 と他者の境界が曖昧なものになってい く,模
式図的には,細
い破線の円の状態になるという ものである。つま り,破
線 と破線の隙間か ら「自」が 出ていき,「
他」が入つて くることになる。そ ういう 意味をもつ現象が,幻
聴や妄想,思
考漏洩や思考奪取 な どである (図 2)。 自分 と他者が入 り交 じり,確
た る自分という存在を実感できなくなる。ひどい場合に は,自
分 という存在がすつか り境界線の隙間か ら抜け 出て しまい,自
分の内部 には他者が侵入 し,他
者に支 配 されるようになる。 自分は空っぽの状態 となる。身 体的には,熱
い冷たいという感覚や尿意 も感 じ取れな くなる。 さ らに空腹だ とか,眠
いという生物 としての 基本的なニーズも消えて しまう。 B口′′θODttWAganο (テ0′ゴθge οFハhガЪ的費勇Vそ江 =a2θ=を 外部l束1激)の進入 (幻聴・妄想・思考吹聴な ど) ●E日
●●◆ ◆ ◆ 内部の漏 出 ◆ ●...ぃ
ぃ● 思考漏洩・思考奪取な ど 図2
急性状態の患者の精神構造 解剖生理学的身体は,ホ
メオスターシス という概念 でもって これ らを説明す る。 しか し,統
合失調症急性 期では, このホメオスターシスが完全に壊れる。また 表層的身体では, こういった 自他 の境界は明瞭なもの であ り,一
人の人間の身体はその個人に属 している。 だか らその境界が曖味になるというな どという現象は 起 こりえない。 しか し,そ
ういった理解では,統
合失 調症 に罹患 した人がイ本験する身体現象は説明できない のである。3)ど
んな看護が導かれて くるか 急性期 は,外
の見知 らぬ世界が 自分 の中に侵入 して くる事態で ある と先 に述べた。自分が失われて い くと いうことは,実
線の円が破れて破線にな り,線
と線の 間か ら内部が漏れ出ていくということである。すなわ ち, 自と他の境界が曖昧になって しまうことを意味す る.破
線状態になることによつて, 自分の内部は漏出 していき,外
部の世界の侵入が始 まる。内部 と外部が ないまぜ になっていく,混
乱は必至である。 こういった状態が起 こつて いると理論的 に想定す ると,そ
の場合の看護 として考え られるのは3つであ る。1つは,破
線状態 にある円の外側 に保護膜 を張る ことである。2つめは,当
の本人が 自ず と張つている 保護膜 をはぎ取 らないこと,3つ
めは 円の内側か ら何 らかの保護膜が張 られていくことを妨げない ことであ い ぃ ■ ● ● ● い ぃ →◆
◆
BとrF′(〕誼/Nagと2,aO G功晩進でοF^化 “す
D3V研
=aフθ fィ る。 人間 には 自然治癒力が備わ っている。精神病 とい え ども回復 してい く,自
然治癒 力が働 くのである。そ れ を内側か ら張 られて くる保護膜 として捉 えて いる. 1つめの外側 に保護膜 を張 る とい う看 護 の具体 的な 方法 は,人
による保護膜 と物理的な保護膜 を張 る こと に大別で きる。人による保護膜 は,か
かわ る看護師 を で きるだけ限定す る ことによって,患
者 にとっての味 方 が存在 し, しっか りと護 られて いる ことが実感 され るよ うにす る ことである。物理 的保護膜 も必要である. 外部 の音は,殺
人者 の足音 として捉 え られ るか もしれ な い。 だか ら,外
部音が可能な限 り遮 られ る部屋 に入 室 して も らうの も外側 に保護膜 を張 る一 つの方法 とな る. 2番目の患者本人が張 って いる保護膜 をはぎ取 らな い看護 は,衣
服やかぶ り物 は無理 にはぎ取 らない,更
衣や入浴 は無理強 い しない という ことにな る。 しか し, いずれは入浴 して も らわな くてはな らな い。そ のため には,看
護師が保護膜 の代わ りになるよ うな信頼 関係 を築 き,彼
ら自身が無意識的 に保護膜 を張 らず にす む よ うに しな くてはな らない.物
理 的保護膜 を看護師 と い う人的保護膜で代替 してや るという意味である。看 護 師は 日々,患
者 さん との信頼 関係 の上 にたった看護 を展 開 して いる。 だか ら,少
し時間はかか るが, この ことは可能で ある。最後 の内側か ら保護膜が張 られて い くことを妨 げない方法である.そ
れは, 自分が失わ れて いって どこにも存在 しない とい う感覚 を何 とか補 完 してや る ことである。換言すれ ば, 自分が 自分で あ る ことの実感 を得 られ るよ うな工夫 をす る ことにな る。 た とえば,彼
らの手 を看護者 の手 に重ね合わせ,看
護 者 の手 を通 して 自分 の手 の冷 た さや暖か さを実感 して も らうな ど,身
体接触 を通 じて の 自己確 認な どもいい だ ろ う。 もちろんマ ッサー ジもいいだろ う。彼 らが 自 分 の感覚や 自分 の存在 を見 出せ るよ うな方法 を工夫す る ことが要請 されて いる。そ のため にも患者 と接す る 時間 を増や し,支
持的 にかかわ る とい う原則 をきちん と実践す る ことが必要なのである。 以上 のよ うに,起
こって いる ことがわか るよ うにな る と,看
護 の方法 も自ず と導 き出 されて くる。 もちろ ん,モ
デルは万能ではない。患者 に添 う 日々の看護実 践 の中にさ らな る理解 を生む ヒン トが隠 されて いる こ 阿保 :身 体 に関す る論考 とを肝 に銘 じたい3.看
護技術 の諸 相 看護 は,患
者 さん と看護師の間で押 し出されて くる 現象で ある。そ こに介在す る看護技術 もまた,看
護 師 の側か らの一方的な働 きかけではない。 ここでは,看
護師が ある状況下で用 いて いる看護技術 を取 り上 げる。 そ して,そ
の看護技術 の もつ性質か ら身体 につ いて考 えてい く。1)相
互嵌入す る看護技術 俗称 「日赤サ ウナ」 とい う清拭 の仕方が ある。熱布 で,背
部全体 を覆 うよ うに蒸す ので ある。私 は新 人時 代,ベ
テ ラン看護 師 による 日の醒 めるよ うなバ ックケ ア を 目撃 した。 明 け方 の寝 ぽけ眼 を さ ます 夜 明 け の コー ヒー に勝 る光 景 で あつた。腹 部手術後,一
夜 明 けた患者 さんのバ ックケ アは,深
夜勤務 のK看
護 師 に よって行われ た。時 に力を入れて いるよ うだが,ゆ
っ くりとしたス トロー クを描 いてバ ックケアは何事 もな く終 了 した。か に見 えた。 しか し,患
者 さんは 「あ∼ 気持 ち良か った」 と大 き く息 を吐 き,春
のお 日様 を浴 びたよ うな表情 を した。K看
護師 とは,そ
の後何 回か 夜勤 を ともに した ことが あ り,か
の夜 明けのバ ックケ アにつ いて尋ね た ことが ある。彼女 は言 つた。 「患者 さんはね,手
術 した夜 の苦 しみ を背 中で知 らせて くれ るのよ」 と,さ
らに 「患者 さんの背 中に手 を当て る と ね “痛 か つた ところをかば ったので,そ
こが凝 ってい るのよ"と
か “そ こが濡れて いる感 じが して気持 ち悪 か ったのよ"と
か,患
者 さんの声が 聞 こえて くるよ う な気がす るのよ」 と,ぼ
そ っ と続 けた。世 の中に対 し て斜 に構 えて いた 当時 の私であれば,そ
んなセ リフに は嘘 くささを感 じた に違 いない。 しか し, 日撃 した患 者 さんの表情 は嘘で はなか った し,K看
護師 の患者 を 聴 く力な しにあのよ うなケアは生 まれ得 な いはず だ と 思 った。 清拭 とい う行為 は,人
間の境界面で ある ところの皮 膚 を通 じて,拭
くとい う看護師 の能動性 と患者 の拭か れ る とい う受動性 が,一
瞬 の うち に反転す る とい う相 互性 を内包 して いる.つ
ま り,看
護師 の拭 くという能 動 的な行為は,患
者 の皮膚 の内面 にある筋 肉の凝 りを阿保 :身 体 に関す る論考 感知す るのだが
,そ
れは患者 の拭かれ る身体が看護 師 の手 に能動的 に働 きかけて いる とい うことで もある。 したが って, この瞬間,看
護師 の拭 く行為は,受
動 を 卑む行為 に反転 して いるので ある.元
来,個
人 として 相対 しているにもかかわ らず,つ
ま りお互 いが外部 と して 区切 られて いなが らなおお互 いの内部がふれ あい, 交わ つてい くところに対他 的技術 としての看護技術 は 成立 して くる。 この時,看
護 師の手は,患
者 の内部 に な り,患
者 の内部 は看護師の手 によって いったん外部 に連れ去 られ,再
度心地 良い もの として患者 の内部 に 返 され るので ある (阿保,2004)。
相互嵌入す るの が看護技術で ある. 看護技術 は,患
者 さん に安楽 と安心 をもた らし,痛
みや苦痛 を軽減 させ得 る,人
間 自身 を媒体 とす る行為 で ある。そ してそれは,上
記 のよ うな相互性 あるいは 相互作用か ら生み出されて くる。 相互作用 を取 り上 げた学位論文 (伊藤,2008)で
は,患
者 との相互作用 にお いて,看
護師は,患
者 さん の科学的な言葉で指 し示 され る症状や体 内指標 といつ た意識 に登 って くる事柄 を 「わか る」 と同時 に,見
え ない,う
ま くいかな い,気
にな る という感覚 が もた ら す 「わか らな さ」 に伴 う不確 か さを身体 に宿 しなが ら それ らと向き合 い続 けて いる ことがわか って いる。 つ ま り,そ
のよ うな相互作用 によって看護師の看護行為 は押 し出され,先
に述べたバ ックケアのよ うな 自他が 融合す る看護技術が成立 して い く。相互作用 は, こう いった言葉 にな らない前意識 にある身体や,意
識 の基 底 にある原 初的身体 が稼働 しては じめて成立す る。押 し出されて くる看護技術 は,適
用 とい う言葉 の背後 に 隠れて いる。看護技術 はそ の意味で,患
者 自身の身体 と看護師 自身の身体が相互嵌入す る場 なので あ り,看
護 とい う営みが身体 的で ある ことの証左で もある.2)言
葉が及ばない領域 と身体 の階層性 これ まで も看 護 にお いて提 え られ て きた 身体 は, もっぱ らに解剖 生理学的な,実
証的で科学 的な言葉で 捉 え られて きた身体で ある.し
か し,そ
れは一つ の捉 え方 にす ぎない。 身体 はよ り多層的で ある。 身体 に関 して は西村 の輝 か しい記 述 が あ る。 西村(2001)が
述べ る身体論 の要点 は3つで ある。一つはBy′′て,磁n/N軽孤0(テ0′′θge OFへむぉFrag,V研 」a2θ
=を 「見 る一見 られ る」 「触れ る一触れ られ る」が区別で きないよ うな経験 とい うものは
,前
意識 的な層 に注 目 しなけれ ば押 し出す ことがで きな い ことで ある。二 つ 日は,「
タイ ミングが合 う」 「雰 囲気 をつかむ」 こと は,意
識 的な層 を取 り払 い,患
者 と看護 師 とい う二者 関係 を支 える対 の現象が生成 され る ことによって,患
者か ら表 出 され る ことの意味 をつかむ ことがで きるよ うにな るか らで ある ということ。三 つ 日は,そ
うした 始源的な次元 における交流 の成立 には,患
者 に 「馴 染 む」 「慣れ る」 ことが契機 として あ り,そ
れは看護者 である 「私」 ではな い他者,つ
ま り患者 さん との関わ りあいの中で押 し出されて くる 「私」 で ある ことに気 づ くことがで きるか らである とい うもので あった。表 層的な身体 のみ に注 目して きた看護 に反省 を促す もの であ り,同
時 に人間の身体 の意識 的な層 と前意識的な 層 という身体 の深 さについて言及 して いる。 看護技術 は,か
らだ とこころを分 けて考 える とい う 心 身三分法 によって組み立て られ て い るわ けではな い。 それ は,身
イ本と心 を一つの実体 と して,あ
るいは心は 身体 の内部 に存在す るもの として,さ
らに言 えば, こ ころは 目に見 えない分,か
らだ とい う実体 に浸透 して いる として捉 える ことによって成 立 して いる。看護技 術 は また,意
識的な身体 に直接侵 入 して い くとい う暴 力的な ものではな い。 身体 への直接 的な侵入 は人 を脅 かす。鷲 田(2011)は
服 を着 て い る ことの安心感 に つ いて 「服 を着た とき,わ
た しの表面 は服 の表面 に移 行す る。そ して服 と服 のあいだ,つ
ま りは肌着やそ こ に卒 まれ る空気が私 の内・外 の緩衝地帯 とな る。だか らそ こに他 人 の手が侵入す る とぞ っ とす る。そ こには, わた しの内部感覚 を じか に侵襲 され るよ うなおぞ まし さがある。」 と述べて いる。看護 技術 はそ ういった侵 入的,侵
襲的な ものであってはな らな い し,現
にそ う い うものではな い。 人 と人の間 にある境界 を溺漫的 に, 粒子 のよ うな形で溶 け込 んで い くよ うに して作用す る. そ の溺漫的な作用 を して い くため に看護技術 は手順 に 従 うとい う一つ の作 法あるいは型 で貫 かれて いる。手 順 に従 うとい う作法 あるいは型 は,流
れ として意味 を 持 つ もので ある。つ ま り,静
上 した一 瞬一瞬ではな く, そ の流れが作法 とか型 と言われ る もので ある。そ して, この流れが,知
らず知 らず の うち に患者 さんの身体 へBとr′′θよ
'D∽
οθヴrett oF′ヽ1ヱ r廷効taとみVtt Fa〃 θ′4と分 け入 って い くことになる。 だか ら
,看
護技術 は非 侵入的で あ り非侵襲的なのである。知 らず知 らず の う ち に とい うのは,表
層的で意識 の上 にある身体 だけを 想定 しただけでは起 こりえない ことである。意識 の下 にある西村 の言 う前意識的身体 を想定 しな くては看護 技術 自体が成立 しない。・ 一例 として
,患
者 さんがベ ッ ドに横たわ った ままで 行 うシー ツ交換 という看護技術 をあげてみ よ う。残念 な ことに,現
在 この方法は,そ
の手順ではな く順番 の みが教育 されている。順番は以下である。 まず,横
臥 して いる患者 さんの位置 をベ ッ ドの端の方 にず らす。 患者 さん を側臥位,つ
ま り横 になって も らう。次 に新 しいシー ツを半分敷 き,古
いシー ツを新 しいシーツに くるんで横 になって いる患者 さんの背中の下 に押 し込 む。今度 は患者 さんを仰向けにし,さ
らに反対側 の方 に横 になって も らう.そ
して古 いシーツを取 り除 き新 しいシーツの半分 を延ばす。 といった具合 に,看
護師 が患者 さん とシーツをどのよ うな順番で扱 うかが,あ
たか も手順 である と示 されて いる。 しか し,交
換 して いる際 に払 ってお くべき看護師の注意や関心 とは何か とか,患
者 さん との関係 とか,動
か して いる患者 さん の身体 内部 の変化な どは,シ
ー ッ交換 という技術 には 含 まれて いない。 シー ッ交換 とい う技術 とは切 り離 さ れた別仕立てで取 り上げ られ る ことにな る。そ して最 も気 にな るのは,人
間で あ る患者 さん と,物
で あ る シー ツに対 して とられて いる看護師の注意の向け方が, いわ ば看護師の視線 の距離感覚が等間隔である ことで ある。 比較 の意味で昔の方法 を取 り上 げてみよ う.大
関和 とい う明治 の派 出看護婦が著 した本『実地看護法』が, 1974年 に復刻版 として 出版 され た (大関,1974).
そ こに記載 されてある寝衣交換 の手順は,看
護技術 に 貫かれている身体 の捉 え という意 味で参考 になる。 自 宅 の寝室で仰臥 して いる患者 さんのもとに向か う。患 者 さんの寝室 を分 けて いる襖 の外 で声 をかけるのであ る。 身体 の距離,あ
るいは心 の距離の観点か ら解釈す る と,こ
の声か けは患者 さん という一人の人間にとっ ての寝室 というテ リ トリーヘ入 る ことへの断 りである. 襖 を開き,一
歩足 を踏み入れ る。次 に再度お じぎをす る。そ の後,患
者 さんの枕元 まで歩 を進める.枕
元で 阿保 :身体 に関す る論考 患者 さん と目を合わせ る。つ ま り,ア
イ コンタ ク トを とる。 同時 に掛 け布 国の上か ら患者 さんの足 をさす る 患者 さんの身体へ直接 さわ るのは,そ
れ まで の問接的 なかかわ りによって,身
体 と心 の距離が縮 まった と感 じられてか ら以後 の ことで ある.実
際の交換 の順番 は 現在 の方法 と変わって いない。 しか し, ここで は患者 さん に近づ くまでの手順 が流れや型 として詳述 されて いる ということがで きる。 アイ コンタク トや問接的な 接触 によって安楽 をはか り,同
時 に身体 内部 の声 を聞 き取 る ことができる。 アイ コンタク トと同時 に交 わ さ れ る患者 さん との言葉 でのや りと りは,患
者 さんの心 身の状況 の把握 に資す る ことにな る.痛
みや気 分 な ど に関す る患者 さんの言葉 による訴えや,そ
の言葉 の発 せ られ方や トー ンや音 の強弱な どは,患
者 さんの心 身 の状態 を如実 にあ らわす。 いわんや,シ
ーツ と患者 さ んに対す る看護者 の視線 は決 して等 間隔で はな い。 昔 の看護技術 は言葉 として記述はされていないが,人
と 人の距離が 自ず と測 られていた ことがわか る。3)身
体で覚 える技術 と頭 で覚 える技術 一般 に,看
護教育 をは じめ,多
くの学 問 を伝 えん とす る際 に用 い られ るのは言葉であ り,文
字 で ある. それ は人間の観念,い
わば頭で覚 えて も らお うとす る 方法である。 しか し, これ まで述べてきたように,看
護 は人間 と人間の間 に生 じる現象で あ り,両
者 によっ て繰 り広 げ られ る協働作業である。実践の学問である かざ り, こういった 「間」 に生 じるものである ことは 免れな い。 しか し,そ
れ を伝 えるのは非常 に難 しい。 以前 のよ うな見 よ う見 まね での教育が,西
欧の影響 の もと,観
念的 に教 え られ るよ うになった。そ こでは ど うして もこれ までの身体概念 同様 「か らだ」 と 「ここ ろ」 に分 ける しかない。 しか し,実
践 とか行為 とい う 事態 は,実
際 にそ の実践者 自身が 自分 の身 に付 ける し かそ の方法がない.看
護教育 にお いて実習が大事 にさ れ る理 由はそ こにあ る。 人 間 と人 間が 「か らだ」 も 「こころ」 も一体 となった ところで関わ り合 うことを, 文字通 り「身を もって知 る」 ので ある。頭で覚 えた知 識だ けでは追 いつかない。 身体で覚 える ことが必要 と され る。 だか ら,看
護技術 は くり返 しであ り,一
つ の慣習体阿保 :身 体 に関す る論考 系 として身 に付 いて いな くてはな らないのである。 さ らに言 えば
,言
葉 として伝 え られ る技術 は氷 山の一角 であ り,そ
の裾野 は広 いので ある。 人間が, ここまで 生 き延びてきた理 由の原点 は火 の発見 とそれ を人工的 に熾す ことで あつただ ろう。 まだ意識的 に何かを伝 え る言語 を持たない人間は,す
で に技術 として火熾 しを は じめ とす る生きるための技術 を身につ けて いたはず で ある。言葉 の前 に技術 はあつたのだか ら.看
護技術 もまた しか りで ある。 人間が他者 と生活 を ともに した は じめか ら,つ
ま り他者 との関係性が あつたは じめか ら看護技術はあつたはずで ある. 看護 の基礎教育 にお いて真 っ先 に教わ るのが,た
と えばベ ッ ドメーキ ング とか清拭や洗髪な ど療養生活 の お世話や,血
圧や脈拍 な どバイ タルサイ ンの取 り方な どである.技
術試験 の前 に学生たちは何度 もくり返 し て練習す る.体
で覚 える とい うのは,わ
ざの基本で あ り,そ
れは くり返 しで ある.く
り返 しによる技術 の習 得は人間の生活 の基本で もある。歯磨 きや洗面 といつ た習慣的行為 は,
くり返 しによって人々の慣習体系 と して生活す る人間 を形成 してい く。 く り返 しに関す る 本質 的な指摘 が ある。松本(2008)は
,人
間の生 に とって の反復 の意 味 を描写 して くれ る.く
り返 しに関 す る彼 の指摘 をま とめ る と次 のよ うになる。つま り, 人の生活 の 日常は くり返 しであ り,そ
れは食事や通勤 の くり返 しだけで はな く,育
てて くれたゆ りか ごの揺 れや ブランコ遊び の往復運動 もしか りで ある。学習 も また真似 る ことの く り返 しであ り, 日記 をつける こと も追憶 による一 日の くり返 しで ある。そ して この追憶 に含 まれ る く り返 しの作業は過去 と現在 の 自分 を結び つけなが ら自己 同一性 を形作 る機能 を持つ.反
復 とい う人間の生活 自体 に潜 む本質的な単純 さを言 い当てて いる。そ して,そ
うした くり返 しが慣習体 系 として人 間に定着す るのは,意
識 の上ではな く,意
識 の下 にで ある ことに注 目す べ きで ある。 身体 の記憶 として定着 す るのである。重度認知症 の患者 さんの一例 をあげれ ば,彼
らは歯 ブラシや歯磨 きのチ ュー ブを渡 して もそ れが何 にどのよ うに使用す る物 なのか,あ
るいはそ の モ ノ自体 を認知で きない。 さ らに歯 ブラシに練 り磨 き をつけて渡 して も,や
は りどうした らいいのか戸惑 う ばか りである。 しか し,そ
れ を 日の中に入れてあげる B口′′θとil,/Nagar,0∽ゴゴeg(,ο√Nv五豆R3Vそ江 =aクθ=を と,彼
らは手 を動か して歯磨 きを始 め る.慣
習体 系 と して身体が記憶 して いるのである.身
体記憶 は決 して 意識 の上 にあるわ けではない。意識 のす く`下,西
村 の 言 う前意識,あ
るいは意識 の最下層 を想定 しな くては 説明で きない。4.重
度認知症 の人 にみ る原初 的身体 最後は認知症の人々の生活世界か らである1)言
語 と身体 (ピュアな出会いとぬかる道 の同行人) 節子 さんは,79歳
の重度 認知症 の患 者 さんで あ る。 彼女 は精神病 院 の中の認知症専 門病棟 (2003年当時 は この名称で あつた)に
入 院 して いた。彼女 は,食
事 に問題な いが,排
泄,入
浴,洗
面な どの生活行動 にお いては全面的な介助 を要 し,時
間,場
所,人 ,す
べて の見 当識障害 も顕著である。語彙 は極端 に少ない, と い うよ りは聞き取れ る言葉は,「
困 つて 。・」 「あれ ∼・・」 「わを椅 ?」 程度で ある。彼女 の行動 の特徴 は,頻
繁 に他物,他
者, 自分 にさわ る ことで ある.特
に 日がな車 いす にさわ って いる。 この節子 さん と運命 的な 出会 い をす るのが庄三 さんで あ る。 彼 は82歳に なる元 小学校 の校長先生で ある。彼 もまた重度 の認知 症で ある。彼は,食
事,排
泄 をは じめ とす る生活行動 は多少 の介助は必要 とす るものの節子 さん ほ どではな い。 ただ言葉 は,「
あ∼・・・」 「ほ∼・ ・・」 レベ ル の感嘆詞や接続詞,接
尾語 な どのパ レー ドで,意
味 ある言語は消えている。庄三さんは,い
つ もデイルー ムを徘徊 し,疲
れるとデイルームの中央 に正座すると いう行動特性がある。 二人の出会いは こうであった。節子 さんはいつもの よ うに,松
太郎 さん とい う我慢強 い明治生 まれ の男 性が乗 つている車椅子 をさわ っている。スポークの 1本 1本を揺す りなが らさわる。徐 々に上 に触 ってい き,今
度は彼 の指 を1本 1本揺す りなが らさわ ってい く.顔
まで触 つてい くと松太郎 さんに 「コラー !」 と二喝される。節子 さんは,び
っくりしてその場を立 ち退き, 自分にさわ りなが らウロウロする。 自分の衣 服や顔な どに自分の手で触る,い
わゆる自己接触行動 をとる。一方庄三 さんは,そ
んなA子
さんを目で追い 続 けている。節子 さんはそんな庄三 さんの視線をどこB口′′ε防ッヘ後3餌οεο′′θgθοFN口4効奥多予宅工′aク θ′4 ひ かで と らえて いたのだろう
.節
子 さんは庄三 さんの前 に正座す る.2人
は対面 し目を合わせ,手
を と りあ う. 2人は,言
葉 にな らない言葉 を発す る.庄
三 さんは う なず く。そ して二人は手 を取 り合 い互 いに うなず きな が ら涙 を流す のである。 たった これだけの場面なのであるが,な
ぜか見 る側 に一種 の感動 を与 えるのである。 この涙 の意味は何 な のか,感
動は どこか らもた らされ るのか と問 うてみ る と,2人
は悲 しくもあ り嬉 しくもあるのだ とい う思 い に行 き着 く.節
子 さんは,「
自分 を探 して も見つか ら な い,そ
のつ らさを この人 (庄三 さん)は
わか って く れて いる」 と感覚 している。庄三 さんは,節
子 さんの 言葉 にな らない言葉 をひたす ら聞きなが らうなず き続 け る。 そ れ は 「この人は き っ と何 か に困 つて い る に 違 いない。それはあるいは 自分 と同 じなのではないの か」 と感覚 して いるか らに違 いな い。言葉がな くては このよ うに思考す る ことは不可能で ある。 しか し,思
考 で きな くて も,つ
ま り言 葉 が な くて も彼 らは通 じ 合 って いる と思わず にはい られな い。それでは どこで どのよ うに通 じ合 っているのだ ろうか。それ には まず 節子 さんの車 いす にさわ る行動 の意 味か ら明 らか に し ておかな くてはな らない。2)節
子 さんの さわ る行動 の意味 結論か ら言 えば,節
子 さんのさわ る行為 は,世
界 の 再分節化 として とらえる ことがで きる。分節化 とは, た とえば赤 ん坊が さまざまな身の回 りの物 を 日に して, これはス リッパ これはザル,そ
れ らを収納 して いる場 所 が台所 といつた具合 に,分
けなが ら全体 として ま と めて識別 してい くことである。赤 ん坊 は このよ うな分 節化 を行 いなが ら自分 の住 む世界 を認知 して いき,同
時 に,そ
れ らを認知 して い く 「自分 とい う存在」 をわ か ってい く。節子 さんは,言
葉 の意味が失 われ,周
囲 の物 を正 しく認知できな くなっている重度の認知症で ある。今 いる場所が どこなのか,
自分がいま何歳 にな るのか,あ
るいは この人は誰なのか,家
族 の顔 も自分 の顔 も認知で きな くなって いる。言葉 の意 味が失われ る という ことは,思
考が停滞す る,な
い しはあれ これ 思 いめ く゛らす ことがで きない ことで もある。私 たちは 言葉があるか ら考 えるのである。 自分 を立証す る言葉 阿保 :身体 に関す る論 考 や, 自分 とい う実体 を包み込 んで いる容器 として の周 囲環境が見知 らぬ ものになって い く。すべてが よそ よ そ しさの中で生起 している。何かが抜 け落 ちて いる。 自分 を保証 して いる何かが どん どん失われて い く感 じ が節子 さんにはある.喪
失感 である。そ の喪失 を埋 め るよ うに して節子 さんは何か を必死 で探 して いる。 世 界 の再分節化である.象
徴 的 に言 えば,そ
れ は,彼
女 の 自分探 しの旅 なので ある。他物 にさわ り,他
者 にさ わ り,自
分 自身 にさわ る行為 の意 味は,他
な らぬ 自分 を再発見 しよ うとす る試 み として受 け止 め る ことがで きる。 「 そのぬか る道 に庄三 さんが 同行 して くれて いる こと である。庄三 さんは,節
子 さんの全 く意味不 明の,あ
るいは言葉 にな らない言葉 に耳 を傾 けなが らうなず き 続 ける.端
か ら見れば了解不能で ある。 しか し,何
か に困つて いるに違 いな い とい う了解 が庄三 さん にはあ り,節
子 さん も, 自分 を探 して もみつか らない とい う この状態 を庄三 さんが理解 して くれて いる とい う実感 を得て いるので あろう。 さ らに言 えば,困
つて いる節 子 さんに同情 して いるだけでな く,彼
女 の言葉 にな ら な い訴 えは庄三 さん 自身の こころの琴線 に触れて いる。 そ うでなければ,あ
れほど悲 しそ うでいてつれ しそ う な涙にはな り得ない。節子さんのさわる行動の意味は, 失われていく世界 とのつなが り,矢
われていく自己を 取 り戻そ うとする自分を探す旅 と捉 えることができる。3)原
初的身体 の存在 (身体 の多層性) 節子 さんのさわ る行動 の意味 を上記 のよ うに解釈 し た うえで,今
度 は こころの琴線 に触れて いるとは いえ, いったい こころの琴線 は どこにあるのか と問 うて見 な くてはな らない。 ここに身体 の基底層 を想定す る こと ができる。 私 たちが通常使用 して いるか らだ とい う言葉は もっ ぱ らに解 剖生理学的な身体 を指 し示 して いる とい うこ とは前述 して きた。 しか し,身
体 に関す る これ まで の 考察か ら言 えば,身
体 は重層的な ものである。一番 の 表層 にあ り意識で捉 える ことがで きる身体 こそが, 日 常的 に使用す る ところの解剖生理学 的なか らだで ある. しか し,意
識 にはのぼって くるが,言
葉 の一歩手前 に ある 「身体」 とい うものが ある。西村 が い う前意識 的阿保 :身 体 に関す る論考 な身イ本の層で ある。川村
(2004)は
,あ
る終末期 の 患者 を通 して,「
関心 を向けて身体 に触れ る とい う行 為は,言
葉 を超 えて,身
体 を通 して,そ
の人の世界 に 「届 く」 のである」 と述べ る。 これ もまた意識 の一歩 手前 あるいは未分化な知覚 とい う次元での人間の経験 の仕方である と言 えるだろ う. そ して最 も深層 にあるのが,言
葉 としてのま とま り を持たな い身体であ り,予
兆や直観が営 まれている原 初的,あ
るいは基底層 にある身体領域である。 この原 初的な領域 の身体 を体現化 して いる最たる人が,た
と えば死者 の言葉 を ご託宣 として伝達す る民間信仰の教 祖で あつた り,俗
にい う霊感 の強 い女性であつた りす る。 もっ と身近では,何
か危 険が迫 って いる とか,嫌
な予感 がす るな どとい う第 六感 (Sixtt Sense)と呼 び習わ されている人間の感覚がそれ に婆たるだろ う。 冒頭 に述べた 「身体」 に関す る私 の原体験で もある. 私たちは,彼
女たち (民間信仰の教祖は女性が多 い) や,SiXth Senseの ことを論理的 には否定 して いる し, 現実的な こととして も考 えてはいない。それ は極端な 例であつた として も,確
か にそれ に類似 した身体 の存 在があるか もしれな い ことを,私
たち看護職 は実践的 に,あ
るいは存在 として知 つて いる。 どう表現 して い いのかわか らな い 自ず と出て しまう奇妙 な溜息で あつ た り,後
ろ髪 引かれ るよ うな甘つなさのような もので あった り,あ
るいは身体 の底 の底で何かが くすぶ うて いる感覚であつた りす る.言
葉 としてのま とま りをも たな い,さ
らに言 えば,現
象 としての姿 さえ とつて い な いよ うな感 覚 で あ る。 卑 近 な例 で いえば,私
た ち は多かれ 少 なかれ,「寂 しいわ けで もな い,わ
び しい わけで もな い,悲
しいわ けで もない,だ
け どなんだか 陽性 のものではな くて陰性 の感覚が 自分 の中に何かあ る」 とい う感覚 を経験す る。それは言葉 にす る ことが で きない。 あるいは,そ
の時点では言葉 としてのま と ま りがな い。そ の感覚 が段 々せ りあが って きて,発
火 した時 に 「あ―,あ
れ は怒 りだ った」 と思 う。われわ れが今持 つて いる言葉 とい うのは,ほ
ん と,う に自分が 感 じた り感覚 して いる ことを充分 に表せ るほ ど多 くは ない。だか ら人間の感覚 を言 い表す言葉 は,感
じて い るものよ りもはるか に少ない。 そ ういつた言葉が生 まれて くる前 の原初的な感覚が 】口F′(,江n/容彪唱盟コ0て '0′ ′θgθοFN口 IsFR5,花 江 ヱaフ0」を 身体 の基底層 にある。 もちろん,そ
れ は,意
識上 にあ る言葉 にも,言
葉 になる一歩手前 の現象 として前意識 にもあが って こない。そ う考 えれば,ま
とま りを持 つ 言葉で もな く言葉 の一歩手前 の言葉で もな く,い
まだ 現象 として も成立 して いないよ うな感覚で も人間はか かわ る ことがで きるので ある.身
体 は多層的で あ り, 重層的で ある 「手を取 り合 う」 ことは,手
とい う実体 が,そ
の人 とい う個体 か ら離れて他 の個体 に浸透 して い くことを 意 味す る し,「
見つめ合 う」 ことは,眼
差 しとい う視 線 の運動が互 いに浸透 してい くとい うことで ある。 こ の視線 を捉 える という感覚 もまた原初 的身体 の層でな されている.そ
して,「
頷 く」 ことは,頷
くとい う所 作がそ の眼差 しの浸透 を補完 して いる とい う ことで あ る。 だか ら,手
を取 る,見
つめ合 う,頷
くとい う関わ りが,原
初的身体 の作動 を促 し,そ
の原初的身体 は言 葉 を凌 いだ とい うことで あろ う。言葉が消 えかか らん として いる節子 さん と庄三 さんが手 を とりあって涙す る場面 には,言
葉 を凌駕す る原初的身体 で のかかわ り がそ こに在 った と考 える ことができる。 おわ りに 看護 は相互 的な もので ある。対患者 さん との間で繰 り広 げ られて い く,だ
か ら,言
葉 にはな らない,測
定 で きない多 くの ことが生起 して いる。相互 の,い
わば 「間」で生起す る看護 の営み において,生
物 医学 的身 体 の知識,科
学的 に説明 され る身体 の知識 はあま りに も不十分で ある。エ ビデ ンスがな い といわれ る事柄 は, エ ビデンスにするための方法がないだけのことである。 測定できないか らそれはエビデ ンスにはな らない,だ
か ら非科学的であるという論理は成 り立たない.非
科 学的 と言われる身体経験の排除イま,罪
悪です らある。 看護は,経
験 している,あ
るいは経験 してきた身体 を 物語 る必要がある。それは,
これまで諦めてきた多 く の事態に,新
たな可能性 を見出させて くれるか もしれ ない。そ して,人
と人の 「間」 に生起する看護の営み を,よ
り豊かにすると思 う,B∬′θttv鋼堕多nο a捌豊警 οr州駒燭ぬ
3M】
ra 2ο =を 文 献 阿保順子(2004):看
護 の中の身体 ―対他的技術 を 成立させるもの,Quality Nば 前昭,10(12),∈
12. 阿保順子(2006):看
護学 における身体論の位置, 北海道医療大学看護福祉学部学会誌,2(1),■
-17. 阿保順子,佐
久間え りか(2009):統
合失調症急性 期看護マニュアル (改訂版),す
ぴか書房,埼
玉. 伊藤祐紀子(2008):患
者 一看護師間の相互作用 に 見 出され る看護師の身体 のあ り様,平
成20年 度北 海道医療大学学位論文: 川村 三 希 子(2004):終
末 期 ケ ア の 中 の 身体, Qualiけ ふh」(辻ng, 10(12), 33-38. 、「 松本雅彦(2oo8)i言
葉と沈黙―精神科の臨床か ら, 日本評論社,東
京。 西村ニミ(2001):語
りかける身体ァ者護ヶァの現 象学;ゆ
みる出版,東
京′ 大関和
(1974):実
地看護法 (覆刻版),医
学書院, 東京. 薄田清―(2011):「
ぐず ぐず」の理由,45,角
川 学芸1出版,東
京. _
阿得:身体に関する論考 ザ阿保 :身 体 に関す る論考 B口′′て,よVNttanO fヵ′′θgθ OF NttGれgy。とヱa〃 θ
=を
【Special Contribution】
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ectた潤
s onk湘
dy to penetrate the胡
dh詞
depth of the body H理
雪
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ce
Junko AB01)
1)Nagano College of Nurshg
【Abstract】 This paper ains to claritt he cOncept of`body'in nursing science through examming bOdily experiences
in daily tiving夕 psychiattic disorders,dementia,and practice of nursing skilld. To acheve this ailn,the author considers the
boSy as a muMlayered stmcttre,escaping iom capivity ofhO任adidonal anatomical―physiological image ofthe bo蔓 府
First,we touch upon the reahty of pecuhar experiences such as aftteri14ageS inヤ ision,and similar phenomena in he劉Ⅲng
and touch,and comprehend he totalimage of he phenomenon`dtta vu'in dttly livh8,Second,we examhe血 o bodily experiences of patients witt schizophenia in its acute phases,i.e,,a bodily state on thc verge of conapse of boundav betteen tte self and tte suroundings by employ血 g hc`protective coat'Inodel proposed by he au血 o■ Thとd,we suggest
that the bodily experiences in practiOe of nursing sk』 ls are produced between patients and nurses,and penetrate and
intrude one into anoher(Ineinander),where here exists a bodily sphere hat is beyond expression by words.Last,we
suggest existence of`pmmit持 e body'based on analysis Of eRcounters of ⅢЮ persons witt severe demenia.These andhgS
corrёspond witt the mulilayered stmcture oftte body as states abOVe.
【
Keywords】 nursing sOience,hman bottt schiZOphrenia,eldedy persons wtt demer面Ъ
llursing sMlls 阿保 順 子 〒3994117
長 野 県 看 護 大 学 Tel:0265-81-5100 Faメュ0265-81-1256 」unko ABO
NaganoPrefectureNagano College of Ntirsing
1694Akaho,Komagane,Nagallo,399-4117JAPAN TEL:+81-265-81-5100 Fハ DC+81-265-81-1256