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資本主義経済における競争論の再構成 : 「当事者 」の導入方法をめぐって

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資本主義経済における競争論の再構成 : 「当事者

」の導入方法をめぐって

著者 瀬尾 崇

雑誌名 金沢大学経済論集 = Kanazawa University Economic Review

巻 31

号 2

ページ 175‑191

発行年 2011‑03‑01

URL http://hdl.handle.net/2297/27754

(2)

Ⅰ はじめに

資本制経済の内的諸法則の解明のために『資本論』を執筆したマルクスに とって,経済学研究の開始当初からの問題意識のひとつが,資本制経済にお ける「諸資本の競争」である1)。従来のマルクス経済学では,特に「プラン問題」

論争において,マルクスが『資本論』に到る随所で書き残した研究プランのう ち「諸資本の競争」以降が,いかに『資本論』に結実しているか議論されてきた。

この論争はいまだ唯一の結論には到っておらず,近年の草稿研究で引き続き 考察されているところであるが,これまでの議論を踏まえて,もっとも無理 のない見解だと思われるのは,『資本論』では「資本一般」に相当する部分が論 じられ,「諸資本の競争」以降については,「資本一般」の枠組みにおいて論じ うる限りで,部分的に導入されたとするものである2)。これにしたがうなら,

マルクスの競争論は,抽象的・一般的なレベルで考察された「すでに論じられ

−175−

   「当事者」の導入方法をめぐって   

瀬  尾      崇

目  次

Ⅰ はじめに

Ⅱ マルクスによって「すでに論じられた競争論」

1.文献にもとづいた整理 2.「残された未完の競争論」の探求

Ⅲ 当事者視点の導入による「残された未完の競争論」の再構成 1.「関係の中の当事者」概念

2.当事者視点の導入方法をめぐって

Ⅳ 小括と展望

(3)

−176−

た競争論」と特殊・具体的なレベルで論じられた「残された未完の競争論」とに 区別することができるだろう。われわれは,このように区別された二つの競 争論から考察を始めることにする。

本稿は,この二つの競争論の内容を明らかにし,特に後者の再構成にあたっ て,その理論的課題と分析枠組みを提示することを目的とする。次節では,

「すでに論じられた競争論」を先行研究に拠って整理し,マルクスの競争観の 独自性を明らかにする。第三節では,「残された未完の競争論」について,従 来のマルクス経済学におけるさまざまな試みのうち,特に競争を通じた動態 プロセスを創り出す「当事者の役割」に注目した理論的考察について検討しな がら,われわれ独自の競争論再構成の分析枠組みを提示する。最後に全体を 総括し,今後の課題と展望を述べる。

Ⅱ マルクスによって「すでに論じられた競争論」

「プラン問題」論争で議論されてきたように,マルクスは「諸資本の競争」の すべてを論じきったわけではない。したがって,「すでに論じられた競争論」

と「残された未完の競争論」とを明らかにすることによって,マルクスの競争 観の全体像と未完の競争論の課題が明らかになるように思われる。本節では,

競争論に関する膨大な先行研究のうち,主に久留間[

1 9 6 8

]と高須賀[

1 9 8 5

]に 依拠して,「すでに論じられた競争論」を整理し,検討する。

1.文献にもとづいた整理

久留間[

1 9 6 8

]の冒頭では,「すでに論じられた競争論」の内容が,マルクス の記述に拠りながら二つに整理されている3)。その第一は「資本主義的生産の 内的諸法則と競争.競争の強制法則」である。

「競争は,それぞれの資本が自分の大きさに比例して同等な利潤をあげるよ うな商品価格を出現させた。しかし,この利潤の大きさそのものは,競争に はかかわりがない。競争はただすべての偏差を絶えず繰り返しこの大きさに 帰着させるだけである。ある人が他の人々と競争する。そして,競争は彼に,

自分の商品を他の人々と同じ価格で売ることを強制する。」(

2 5 , 1 1 0 6

−7)

(4)

−177−

「内的な法則は,ただ彼らの競争,彼らが互いに加え合う圧力を媒介として のみ貫かれるのであって,この競争や圧力によってもろもろの偏差は相殺さ れるのである。ここでは価値の法則は,ただ内的な法則として,個々の当事 者にたいしては盲目的な自然法則として,作用するだけであって,生産の社 会的均衡を生産の偶然的な諸波動のただなかをつうじて維持するのである。」

2 5 , 1 1 2 5

第二は,「競争はすべてをさかさまに現象させる」ことである。

「つまり,競争ではすべてがさかさまになって現われるのである。表面に現 われているとおりの,経済的諸関係の完成した姿は,その現実の存在にあっ ては,したがってまたこの諸関係の担い手や代理人たちがこの諸関係を明ら かにしようとして抱く観念のなかでも,この諸関係の内的な,本質的な,し かしおおい隠されている核心の姿およびそれに対応する概念とは非常に違っ ており,またそのような姿や概念にたいして実際にさかさまになっており反 対になっているのである。」(

2 5 , 2 6 2

このような久留間の整理に拠ると,抽象的・一般的な競争論とは,社会的 レベルで形成される価値法則が,競争を通じて各個別資本に対して盲目的に 強制されており,現実の諸現象は,個別資本の行動を通じて価値法則が貫徹 されるというように転倒していることを明らかにしたものだといえる。

さらに久留間は,同一局面における競争を,「作用からみた競争」と「当事者 からみた競争」との二側面から捉えている。例えば,市場価値の成立について は,一方で「市場価値を成立させる競争の作用。さまざまな個別的価値を一つ の市場価値に均等化する競争の作用」として捉えながら,他方で「同一種類の 商品の生産者のあいだの競争」と捉えるのである4)。『資本論』の叙述では,「作 用からみた競争」の方に力点が置かれていることは明らかであるが,久留間は それを当事者の側面から捉え直したところに,われわれは「残された未完の競 争論」再構成のヒントをみるのである。なぜなら,マルクス自身も『資本論』で は扱っていない競争論の内容について,次のように明言しているからである。

「生産関係の物化の叙述や,生産当事者たちにたいする生産関係の独立化の 叙述では,われわれは,もろもろの関連が世界市場,その景気変動,市場価 格の運動,信用の期間,産業や商業の循環,繁栄と恐慌との交替をつうじて

(5)

−178−

生産当事者たちにたいして,圧倒的な,彼らを無意志的に支配する自然法則 として現われ,彼らに対立して盲目的な必然性として力をふるう仕方には立 ち入らない。なぜ立ち入らないかと言えば,競争の現実の運動はわれわれの 計画外にあるものであって,われわれはただ資本主義的生産様式の内的編成 を,いわばその理想的平均において,しめしさえすればよいのだからである。」

2 5 , 1 0 6 4

ここでマルクスは,「競争の現実の運動」は,景気循環や市場価格の変動と いった資本制経済の動態的側面と生産当事者との関係を競争的側面から解明 することであると捉えているようである。このように考えるならば,資本制 経済の動態的側面が当事者にたいして作用する側面の考察はもちろんのこと,

その社会的な動態的側面を現実に生み出す要因である当事者の側の事情の検 討も必要となるだろう。すなわち,資本制経済の動態的な社会的側面と当事 者視点からみた個別的側面との双方向的な規定関係を,両者を媒介する競争 メカニズムの観点から解明することこそが,「残された未完の競争論」の課題 であると考えられる。

2.「残された未完の競争論」の探求

「残された未完の競争論」の課題を明らかにするうえで本稿が拠りどころと するのは,「プラン問題」論争にも大きくかかわった論者の一人である高須賀 義博の考察である。高須賀[

1 9 8 5

]では,マルクスの競争観に関する詳細な文 献学的検討を通じて次のような結論に到っている5)

 「 1 8 6 1

6 3

年草稿」で確立された「資本一般」の立場は,その後の「資本−

経済学批判」体系における資本制経済の「理念的平均」における叙述と方 法的に変化はない。

 「資本一般」と「競争」とは,基本的な点にだけかぎっていえば,前者が

資本制経済の長期構造論・ ・ ・ ・ ・であるのに対して,後者の最重要テーマは産であるといえる。

 産業循環は,一方では資本制経済の長期構造を叙述する平均概念の理 論的抽象を可能ならしめる資本の現実的機構であり,他方では資本制経 済の長期構造を再生産せしめる「経済的運動法則」の貫徹の形式である。

(6)

−179−

 以上のように考えるならば,

「競争」論=産業循環論が完成しないかぎ

り,「資本一般」あるいは「理念的平均」分析は,自己の立脚点の認識論的 根拠を欠く。

 資本制経済の「理念的平均」分析と産業循環分析は,理論的次元を異に

している。前者は本質分析であって,それを記述するためのカテゴリー は価値およびその転化形態である生産価格であり,後者は現象分析で あって,それを記述するためのカテゴリーは市場価格である。このよう なことから,経済的運動法則とそれを実現せしめる現実的機構とを一体 化して把握するためには,現実的機構の解明が必要である。

この最後の「現実的機構の解明」に関連して,高須賀は「二つの競争」を区別 すべきことを提案する。その第一は,平均化作用をつうじて長期的に構成さ れる資本主義経済の構造を抽象化して示すことを競争論の課題とし,そこで の競争の役割は「構造を構成する」ことである。第二は,再生産機構をつうじ た現実の産業循環のなかで形成される構造の移り変わりを示すことが競争論 の課題であり,そこでの競争の役割は「構造を形成する」ことである6)。この ように区別された「構造を構成する」競争と「構造を形成する」競争との違いを さらに明確にするために,われわれの解釈を図式的に示すなら,【図1】のよ うになるだろう。

【図1】の上段に示した「構造を構成する」競争とは,現実からの抽象によっ て純粋資本主義社会をあらかじめ構成したうえで,その構成要素を論理的に

【図1】「二つの競争」の図式化と比較

(7)

−180−

導出するための競争メカニズムのことである。資本主義経済の純化が進んで いくと,多数の個別資本の行動は単一のものに収斂する傾向をもつことから,

結果として代表的一資本の行動と同一視することができる。

1 9

世紀の英国社 会を純粋資本主義社会に向かいつつあるモデルと想定した『資本論』では,こ のような社会が長期において成立したときに,その構成要素となっているも のは何かという競争の結果・ ・ ・ ・ ・に関心が向けられているのである。そして,それ を論理的に説明する「構造を構成する」競争,これが『資本論』ですでに語られ た競争論である。マルクスは,『経済学批判要綱』で,「競争は資本の内的諸法 則を執行する。競争はこれを個々の資本に対置して強制法則・ ・ ・ ・たらしめるが,

しかしそれをつくりだすのではない。競争はそれを実現するのである」(

6 3 8,

強調は筆者による)と述べている。これは資本主義経済の内的諸法則をあらか じめ明らかにしたうえで,個別資本に対してその諸法則を遂行するように行 動させるという,当事者にとっていわば受動的に・ ・ ・ ・作用する競争メカニズムに 言及したものであると思われる。あるいは,このような競争の作用は,競争 の結果を前提としてそれを説明するために帰納的に論じられるという意味で

「論理説」と呼ぶこともできるだろう。

これに対して【図1】の下段に示した「構造を形成する」競争とは,時間の流 れのなかで変化していく資本主義経済の過渡的な構造を形成していく競争メ カニズムのことである。純化の途上にある資本主義経済では,一資本に代表 させうるような個別資本の同質性は観察できない。そこにあるのは,個別的 な差異を契機として競い合う個別諸資本の異質性である。この個別諸資本間 の異質性は,製品,生産技術,市場シェア,資金力という基本的なものだけ でなく,社会的評価,内的構成員の資質,経営者の能力といったものも含め,

さまざまな要素に基づいている。しかし,このような競争上の諸条件は,単 純化して捉えることが困難である。そこでマルクスと同様に商品の取引関係 にしぼって,売手/買手間の取引条件をめぐる競争関係に注目するならば,

最も重要な条件は価格であると考えられる。しかし,この価格をめぐる競争 関係だけをみても,競争関係は多層的で非常に複雑なものである。すなわち 原材料や製品の購入,販売における需要者/供給者間での取引条件をめぐる 競争,さらに供給者どうしあるいは需要者どうしの排他的な競争,これら二

(8)

−181−

つの競争関係が互いを前提としあって個別諸資本間の取引の場面で展開され る。このような個別諸資本の多様性とそのもとでの多層的な競争は,競争の 結果から遡って論理的に説明されるものではなく,当事者どうしの主体的な 競争を通じて,その時々の社会構造を形成していくという意味で,「歴史説」

と呼ぶことができるだろう。

このように資本主義経済における競争の作用を二つに分けたうえで,『資本 論』における断片的な競争に関する叙述を再読すると,代表的一資本を想定し て構成される純粋資本主義社会というマクロ・モデルを考察した部分−相対 的剰余価値論や生産価格論−と,競争する当事者としての個別諸資本を想定 して論じなければならない部分−特別剰余価値論や市場価値論−が混在して いるように思われる7)。「資本一般」という方法論的枠組みにおいては,価値 法則が貫徹する純粋資本主義社会を想定したうえで資本主義経済の諸法則を 解明するために,個別資本の行動を代表的一資本の行動とみなして説明する ことが可能である。しかし,純化の過程で観察される諸法則や結果としての 純粋資本主義社会を創りだすのは,異質な個別諸資本の競争関係なのであり,

それは能動的な行動に即してのみ把握できる法則や社会であるはずである。

したがって,二つの競争を個別に理解したうえで,両者を統合することによっ て資本制経済の競争メカニズムを捉えることが必要であるように思われる8)

Ⅲ 当事者視点の導入による「残された未完の競争論」の再構成

前節の考察を通じて,われわれは「残された未完の競争論」の課題が,高須 賀の概念でいうところの「構造を形成する競争」の解明にあることを確認した。

図式的に示した【図1】からも明らかなように,それは時間を通じた競争の動 態プロセスを解明することなのである。さらにわれわれは,その動態プロセ スの創出を個別諸資本=当事者という主体的要因に求めることを提案した。

本節では,この当事者視点およびその分析枠組みについて,さらに具体的に 考察する。

(9)

−182− 1.「関係の中の当事者」概念

マルクスの叙述を踏まえて9)

,われわれの当事者を定義するならば,それ

は社会的諸関係の中で意思決定をする立場を占める実在者,すなわち行為主 体としての実在者ということになるだろう。ここで社会的諸関係とは,生産 手段の所有者たる資本家,二重の意味で自由な労働者

,貨幣所有者といっ

た当事者間の関係のことである。したがって,われわれの当事者は,「関係の 中の当事者」1)と手短に表わすこともできるだろう。このような社会的関係の 中の当事者という位置づけは,社会的関係を基礎とする関係性概念として捉 えられるマルクスの「資本」概念にも通じるものであり

,原子論的な合理的

な意思決定主体を基礎とする純粋な新古典派経済学との相違はもちろんのこ と,マルクス独自の当事者概念であるといえるだろう。

このような「関係の中の当事者」概念について,先行研究の一つである見田

1 9 7 7

]に拠りながら,さらに具体化していくことにする。見田は『資本論』の 弁証法的方法に依拠しながら,『資本論』第三部冒頭の利潤論の展開について,

次のように述べている。

「個別としての一般から個別的なもののからみあいへ,その全体へ,とすす むのが,『資本論』の弁証法的移行の一つの形式である。」3)

「利潤一般の概念は,全産業部門を一つの有機的構成をもつ一つの個別的産 業部門とみたもの,あるいは個別的な産業部門を孤立的にとって部門間の競 争を捨象して考えたもの,あるいはちょうど一般的なものとしての価値が中 位の生産条件をもつ経営の生産する商品の個別的価値として実在するように,

各個別的産業部門のうち中位の有機的構成をもつ個別的部門についてみた抽 象的な利潤の理論であるから,その一般性は個別的なものとしての一般性で ある。これに対して平均利潤は,有機的構成のちがいというたんに量的なち がいをもった多くの個別的産業部門を考慮し,それら部門間の資本の競争と 移動を考慮した利潤の理論であり,個別的なもののつながりをみたものであ る。したがってこれは個別的なものそのものからそのつながりへとすすむ弁 証法的移行であるのは明らかである。」

見田の叙述にもあるように,「関係の中の当事者」を具体的に表現するため には,当事者どうしのつながりを示す必要があり,この当事者間の関係から

(10)

−183−

始めて,社会的な総体について検討していく必要があるように思われる。な お,上記第二の引用文に関連して,『資本論』第三部冒頭の利潤論における当 該マルクスの市場価値の議論を,マーシャルの長期正常供給価格の理論との 理論展開における類似性という観点から,十分な長期において成立する市場 価値の規定を,産業における全商品の個別的価値の平均として定義するとい う議論がある。産業部門内の市場価値それ自体は,十分な長期をとったと きに成立するであろう結果として想定されたものであり,また,産業部門間 の平均利潤も部門間の資本移動の結果である。しかし,見田の力点は,平均 利潤や市場価値の成立という結果にあるのではなく,異質な個別諸資本の技 術的条件をめぐる競争や,利潤獲得動機にもとづいた部門移動の意思決定と いう結果に到る競争プロセスに置かれているのである。

近年の研究動向においては,「関係の中の当事者」を制度論的な視点の中で 議論するものがある。例えば次の二つの議論をみてみよう。

「身体的活動のうち自律神経系統の反射に基づくようなものではなく,習慣・ ・ 化された人間行為・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

がとくに社会システムをつくりだす身体的活動として重要 である。−(中略)−合理的な個人の人間行為だけではなく, 非合理的 な習 慣化された人間行為・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

としての身体的活動が形成・維持しているような自生的 な社会システム・規範・秩序をも考察することなしには,結局は特定の合理 的人間行為についての解明も行われないのである。」

「アポリオリな合理的経済人にかわる<社会の中の人間・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

(ゾーン・ポリティ コン)>としての経済行動主体を認識することである。−(中略)−従来のマル クス経済学の行動主体把握における問題点は,資本関係の発展に従属した資 本家という『範疇の人格化』的主体と,社会変革の潜在力を蓄える労働者とい う終末論的主体への二分法によって,日々の経済活動のなかにおいて,不断 に変化を生み出す行動主体としての姿が没却されることである。」

第一の引用文では,社会システムの中に埋め込まれた人間の行為は,すべ て個人の合理的な判断にしたがって生み出されるのではなく,特定のシステ ム内での行為を通じて習慣化された,特定の慣習にしたがったものであると されている。また,第二の引用文では,特定の社会の中における日々の経済 活動を通じて変化を生み出す能動的な当事者としての認識が必要であるとさ

(11)

−184−

れている。この両者を統合すると,「関係の中の当事者」とは,当事者どうし が経済的諸関係によって結びつけられた状況のもとで,一方で,時間を通じ た行動の中から慣習的な行動が形成されながら,他方では,その変化を自ら 創出する能動的行動によって関係性の変化やシステムそのものの構造変化を 生み出し,その変化に対応して以前の慣習的行動も変化させる行為主体であ る,と再定義することができるだろう。

2.当事者視点の導入方法をめぐって

前項で定義した「関係の中の当事者」の結びつきを,さらに具体化していく ことにする。ここで当事者視点の導入による理論構築の試みは,われわれ独 自のまったく新しいものではなく,従来のマルクス経済学でも議論されてき たことである。したがって,これまでの議論にも言及しながら,われわれ独 自の分析枠組みを提示することにする。

これまでの諸議論の中で,特に一般的・理論的研究において,本稿の目的 に大きく関連するものを整理して挙げるならば,

山口重克ら宇野派の原理 論研究における最近までの諸議論8)

予想利潤率という当事者の意思決定 を定式化することを通じたモデル分析

, と関連して,

当事者どうしの 競争関係をゲーム論的状況と捉えて現代経済学の手法を用いて表現を試みる ものがある。これらは従来の議論を遡って,時間を追った議論の進展の順 に並べたものであり,われわれは上記から出発すべきことが必要であると 考えている。しかし,およびから得られた教訓もあり,まずはそれを示 しておきたい。

および

は,不確実性下で意思決定を行う流通主体の性格を,明示的・

全面的に原理論で展開するという宇野原理論という特定領域における議論,

また,マルクスも含めた古典派経済学の競争理論を数学的に定式化するうえ で,期待あるいは予想の要素を取り入れようという議論であり,議論されて きた土俵の相違はあるが,両者とも当事者が不確実性な関係性において,い かに意思決定を行うのかを論点としている点で共通している。例えば

では,

当事者が資本投下する産業部門を選択あるいは産業部門を移動する場合,十 分な長期をとったときに結果として社会全体として成立する一般的利潤率で

(12)

−185−

は,短期の意思決定には用いえない。そこで山口は,当事者にとって現実に 把握可能な要素によって計算可能な基準,すなわち「基準利潤率(予想期待利 潤率)」にしたがって意思決定を行うと論じた。また

では,例えば資本家 の意思決定を反映する投資関数において,実現利潤率と予想利潤率の乖離,

またそれに対する反応係数の導入という形で,期待あるいは予想という当事 者の意思決定が表現されてきた

われわれは,従来の当事者視点導入の試みに対して,「関係の中の当事者」

という観点から評価する必要がある。そうすると,先の従来の当事者視点導 入の試みはいずれも,価格や利潤をはじめとする量的指標に他の当事者の行 動が反映されていると捉え,そのうえで,考察対象としている当事者が,入 手可能な範囲でそれらの指標を自分自身の予想形成にと取り入れるという形 で,当事者どうしの関係を処理している。すなわち,間接的あるいは暗黙的 な形で,さらには非常に弱い形で当事者どうしが結びつけられているように 思われるのである。

そこでわれわれは,「関係の中の当事者」どうしのつながりをもっと明示的 に表現する方法として,上述という最近の新たな試みに注目する3)。これ らの試みは,手短にまとめると,他の当事者の行動を直接的に参照しながら 独自の信念を形成し,それに基づいて慣行的(

)行動が創発するこ とを,ゲーム理論の枠組みを用いて理論化するというものである。ゲーム理 論をツールとして用いてマルクスの概念を精緻化するという議論は以前から 存在するが,それを当事者間の競争関係からその動態的プロセスを提示した り,当事者を取り巻く外部環境の変化が逆に当事者の意思決定にフィード バックされたりする状況の理論化に対しても,ゲーム理論的な枠組みを適用 しようというわけである。

マルクスが資本制経済における競争を問題視した時代と比べて,現代資本 制経済の競争関係は,当事者の置かれている状況−自由主義的競争か,寡占・

独占的競争か−,何をめぐって競争しているのか−価格競争か,新技術導入 競争か−,多様化した需要側面との関係などにおいて複雑化している。その ような競争関係において,「関係の中の当事者」は,利害関係が絡む近隣の当 事者集団内での競争関係において意思決定を行い,行動している。したがっ

(13)

−186−

て,関係する当事者集団の範囲や競争手段の特定化を,現代資本制経済の特 徴に応じて行うことが,最近の新たな試みに要請される点であるように思わ れる。

Ⅳ 小括と展望

本稿では,従来の諸議論に依拠しながら,マルクスの競争論を「すでに論じ られた競争論」と「残された未完の競争論」とに分けて,それぞれ内容と課題を 検討し,後者に関して,「関係の中の当事者」というマルクス独自の視点を活 かした最近の競争論再構成の試みについて議論した。

従来のマルクス経済学では,現代資本制経済においてマルクスの競争論を 具体的に展開する際に,特にマルクス以降の資本制経済の競争形態の特徴で ある寡占・独占的競争の理論化が進められてきた。それらを踏まえたうえで,

われわれは「関係の中の当事者」による競争関係の分析方法として,ゲーム論 的手法あるいは進化経済学的接近方法4)が有効であることを確認した。次稿 では,それを具体的な理論モデルとして提示する予定である。

脚  注

1)マルクスが経済学研究を開始する,あるいは資本制経済における競争に関心をもつ きっかけとなったのは,盟友エンゲルスによる小冊子「国民経済学批判大綱」で あったとされている。これに関する詳細は,例えば大石[1987]を参照のこと。

2)本稿は「プラン問題」論争そのものの再検討を目的とするものではない。しかし,マ ルクスによって「残された未完の競争論」の再構成にあたって,次節以降で従来の議 論からの教訓も活かすことを考慮して,ここで「プラン問題」について手短に触れて おくことにする。

  「プラン問題」が議論の対象としてきたのは,いわゆる「経済学批判六部プラン」(Ⅰ.

資本一般:人)資本一般,仁)諸資本の競争,刃)信用,塵)株式資本,Ⅱ.土地所有,

Ⅲ.賃労働,Ⅳ.国家,Ⅴ.外国資本,Ⅵ.世界市場)である。論争の詳細な経緯に ついては,井村[1964],長島[1977],高須賀編[1989],佐藤[1992]などにゆずるが,『資 本論』の内容との関連で諸説を分類するならば,「資本一般」部分が完成されたものが

『資本論』であると考える「不変説」,資本・土地所有・賃労働の三部門について解明 されたものが『資本論』であると考える「変更説」,そして「資本一般」を母体としなが

(14)

−187−

らも競争や信用等にかんする諸テーマについても,範囲を拡大して取り入れられた のが『資本論』であると考える「両極分解説」の三つがある。この論争の経緯を踏まえ て,われわれは「両極分解説」の立場をとっている。したがって,われわれの「すでに 論じられた競争論」とは,競争の抽象的・一般的分析であり,「残された未完の競争 論」とは,競争の現実的運動に関する特殊研究のことを指している。他の二説の検討 も含めた「両極分解説」の詳細については佐藤[1992]を参照のこと。さらに佐藤

[1992]では,競争論が両極分解する転換点として,1863年プランが指摘されている が,このプランに関する最近の草稿研究の成果の一つとして,尾崎[2007]がある。

3)この文献は,「競争」というタームに注目して,マルクスの諸著作を丹念に調べあげ,

言及箇所を抜き出し,設定した項目ごとに整理した労作である。したがって,本項 ではこれに全面的に依拠して,『資本論』に結実したマルクスの競争観として理解す ることにする。

4)久留間[1968]の付録「マルクス経済学レキシコン栞1」を参照のこと。

5)高須賀[1985],269−274。

6)同上書,45。また,高須賀はこの二つの競争の役割にかんして,高須賀編[1989] でも再度言及しており,この区別が「残された未完の競争論」の課題を明らかにする ためのカギを握っていることを示唆しているように思われる。

7)高須賀は,『資本論』における資本制経済の構造の叙述は,『経済学批判要綱』当時の

「資本一般」で想定された「一資本=マクロ・モデル」を踏襲しながら,その具体化と して部門分割したなかでの「代表的資本」を念頭において考察されたものであり,そ れゆえ,競争する当事者としての個別諸資本が登場せざるをえない特別剰余価値論 および市場価値論は,あいまいな部分が残っており未完成であると述べている(高須 賀[1989],205)。

8)ここでは「完全競争」概念の批判を通じて競争の意味を論じた[19491997]の議 論が想起されるかもしれない。ハイエクは,「競争は本来的に意見形成の過程である。

競争は情報を普及させることによって,ある経済体制を我々が単一の市場と考える 時に前提としている,その統一性と整合性とを創り出す。競争は何が最も良くて,

何が最も安いかについての人々の見解を創り出す。人々が様々な可能性や機会につ いて,事実彼らが知っているだけのことを知るようになるのは,競争のおかげであ る」(邦訳書,144)と述べているが,ハイエクの競争概念は,高須賀の分類でいう ところの「構造を形成する」競争に関して言及したものであって,これでは競争の一 側面しか捉えていないように思われる。われわれは,ハイエクのような個人主義的 観点からだけではなく,マクロ的側面としての資本制経済の構造とミクロ的側面と しての個別諸資本の行動との双方向的な作用から競争を捉えているところに,マル クスの競争観の優位性を認めるのである。

9)例えば,マルクスは資本家という人間主体を,「人格化され,意志と意識を与えられ た資本」(23,772)と位置づけている。

(15)

−188−

10)言うまでもなく,「二重の意味で自由」とは,生産諸手段を所有せず自分自身の労働 力以外に売るものを持っていないという意味での自由と,封建的な身分的拘束から 解放されているという意味での自由のことを指す。

11)この用語そのものは,[19771986]のものである。らはこの概念に「他 の関係当事者や法律によって,そうした目的のための当事者として認められている」

という意味を与えている。さらに,当事者自身が属する構造内において,その地位 に適した意識形態を与えられるのは,彼が主体的な経験能力を与えられた存在だか らであると述べている。さらに,同書の「役者あとがき」では,すべての当事者が人 間主体である必要がないことにも言及されている。例えば,株式会社は,生産手段 が非人間的・経済的行為主体によって所有されている資本主義の可能性を示したも のであり,法人格を与えられた法的行為主体として位置づけることができるのであ る。

12)例えば『賃労働と資本』で,マルクスは次のように述べている。「こうした社会的な関 係やつながりの内部ではじめて,彼らと自然との関係がおこなわれ,生産がおこな われるのである。−(中略)−資本もまた,ひとつの社会的生産関係である。それは ひとつのブルジョア的生産関係であり,ブルジョア社会の一生産関係である。」(6,

403)

13)見田[1977],221。 14)同上書,232。

15)根岸[1985],第6章を参照のこと。なお,この根岸の議論は,市場価値規定をめぐ る従来のマルクス経済学の諸説に対して,「市場価値より個別的価値の低い資本の増 大ないし拡大と,市場価値より個別的価値の高い資本の減少ないし縮小とがバラン スして,産業にたいする所与の需要にたいして産業の供給を維持しつづけるための 条件として導出された結果・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

なのである」(99,強調は筆者による)と,市場価値の意 義をある意味で説得的に述べたものである。

16)新田[1994],187−188。なお,強調は筆者によるものである。

17)八木[1993],204。なお,強調は筆者によるものである。

18)例えば,一口に宇野派の原理論といっても,その学派内部でも諸見解に分かれるよ うであるが,ここで当事者視点の明示的に導入する試みについては,特に山口[1985], 同[1987],高橋[1981],植村[1997],松尾[1987],同[1999],新田[1994]などを参 照のこと。さらに,当事者視点を導入するにあたって,原理論とそれを基準とした 段階論を構成するための類型論をめぐって,改めて原理論の内容を問う最近の議論 については,山口[2006]と小幡[1999],同[2001]の議論を参照のこと。また,塩沢

[1999]は,特に植村[1997]の当事者視点導入に対する検討を加えている。

19)例えば,投資に関する意思決定の定式化について,資本家による予想という要素を 重視して定式化したものとして,置塩[2004],海野[2008]などを参照のこと。また,い わゆる欧米マルクス・ルネサンス以降の,マルクスを含めた広く古典派経済学の競

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争に関する議論についても,多くの成果があるが,ここでは特に,[1977], [1987],同[1999],[1984],[1984]を参照した。

20)例えば,[2010]を参照のこと。らは,マルクスの『賃 労働と資本』の叙述に拠りながら,そこに自分以外の当事者の価格を所与として自分 の製品の価格選択を行なうベルトラン・モデルの利用可能性を議論している。しか しながら,具体的なモデルの展開に関しては,今後の課題とされている。

21)「基準利潤率」は,「一定の最適な組合わせによる生産諸要素の単位量にその時点での それぞれの価格水準(あるいは将来の予想価格水準)を乗じて単位生産資本量を計算 し,それによって生産される期間生産物量にその時点でのその商品の価格水準(ある いは予想価格水準)を乗じて,単位生産資本によって生産される期間商品資本量を計 算し,それとそれを生産するのに要した流動的生産費用の差額と生産資本との比率 を計算する」(山口[1985],188)ことによって求められる。また,この概念をめぐっ ては,成果予想の確定的な部分だけに限定しているため,先の流通主体の性格が活 かされていないとする,松尾[1987]および同[1999]の詳細な検討・批判がある。

22)マルクスあるいは広く古典派経済学の競争論のモデル化に関しては,多くのヴァリ エーションが存在する。また,それが「関係の中の当事者」という視点を表現してい ることの妥当性は,モデルの全体系を検討する必要もある。既存の数学的モデルの 検討と我々独自のモデル構築は別稿で論じるとして,ここでは従来のモデル構築の 一例として海野[2008]を参照のこと。そこでは,とりわけ当事者による予想の要素 を重視した独自の景気循環モデルの基本的体系が示されている(101−138)。

23)例えば,近年の研究動向として,企業や個人の慣行的行動に関する「コンヴァンシオ ン 理 論」が あ る。そ の 紹 介 文 献 と し て は, ()[20012006]や [20042006]を参照のこと。また,信念の形成に関して,これをバブル発生 の説明に適用している宇仁ほか[2010]の第12章も参照のこと。

24)マルクスおよび従来のマルクス経済学に対する現代の進化的経済学の成果の導入に 関しては,瀬尾[2011]で議論している。

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編集の ( )の邦訳書,大内兵衛・

細川嘉六監訳『マルクス=エンゲルス全集』(大月書店)を使用した。なお,引用箇所には 巻数と邦訳書のページのみ記した。また,『経済学批判要綱』からの引用文に関しては,

高木幸二郎訳『経済学批判要綱(草案)』(全5分冊,大月書店)を使用した。

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