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フィリップ・ロスThe Counterlifeの一考察 : 幽霊 は二度死なない

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フィリップ・ロスThe Counterlifeの一考察 : 幽霊 は二度死なない

著者 坂野 明子

雑誌名 静岡大学教育学部研究報告. 人文・社会科学篇

巻 39

ページ 105‑117

発行年 1989‑03‑20

出版者 静岡大学教育学部

URL http://doi.org/10.14945/00008412

(2)

105

フィリップ・ ロス

 

η tt aフ

″グ雄

一幽霊は三度死なない‐

の一考察

A Stutt of Philip Roth's動

′の ″′ erl権

:A Ghost Never Dies

坂 野   明   子

Akiko SAKAN0

(昭 和 63年 10月 11日 受理

)

現代アメリカ作家の中で評価が定まらぬ作家の一人にフィリップ・ ロスがいる。殆 どの文芸 批評家に (一 部ユダヤ人社会を別として )好 意的に受け入れられた処女作『さよならコロンバ ス」 (1959)を 除いてロスの作品はいつ も賛否両論の渦の中に揉まれつづけてきた。最新作 劉物 Co んι

er現

ル (1986)も その例外ではない。一例を挙げれば

Lionel Abelは

ロスをフォー クナー以来のす ぐれた小説家として捉え ,そ の中で もこの最新作は最高の出来だと賞め讃え る

1。

そうかと思 うと動 θル ″

yott Rθ

υ ι eω では

Josh Rubinsが

同 じ作品を批評家にお も ねって書いているとしか思えないと言い切 り 2,作 家に対する最大級の侮辱の言葉を作者 ロス に呈 している。新作を評することは批評家にとって常に難事であることを考慮にいれても

,こ

こまで懸け離れた見解が一つの作品に向けられることはやはり異例のことと言 ってよい。例え ば我々はこういう受け入れられ方をするベロウの新作を想像 しにくい。ではどうしてロスの場 合こんなことが起 きるのだろうか。

衆知のようにロスは近年次第に

metarfiction的

傾向を強めてきている。初期の彼の作品は リアスティックであると同時にリリカル ,一 言で言えば極めて素直なスタイルであったように 思 う。やがて自身の文学優等生的限界を撃ち破るべ く ,ロ スは悪名高き『ポー トノイの不満』

を書 く。だが ,そ のとどまること無き饒舌 ,大 胆な性表現にも拘 らず ,作 品の手法としては 『ポー トノイの不満』は寧ろ素朴であったと言 ってよい。一方 ,近 年の彼の小説は計算された作品構 成 ,遊 び精神 ,虚 実の戯れ等 ,充 分にポス トモダニズムの特徴を備えている。ところで本来 こ

ういう傾向は玄人受け ,即 ち (一 般読者はともか く )文 学評論家の賞賛を獲得 し易いものであ る。 しか し残念ながらロスはジョン・バースが受けている賞賛とは無縁であり ,ポ ス トモダニ スム作家の一人と考え られた形跡 もない。私見によればその理由としてロスの「ポス ト・ モダ ニスム」は純粋に知的 ,文 学芸術的とは言えないことが考えられる。こう言い換えても良い。

ロスの

meta一fic■

onは まだまだ野暮った く真面目なのだと。少な くとも怜

lrlな

文学ファミコ ン少年の仲間に入るには。

ところがロスにとって不幸なことに最近の作品の分かりにくさはかつての一般読者をも遠ざ

ける結果となった。『ポー トノイの不満』辺 りまでは面白がってついてきた ,反 抗心に富み

,

深層心理学にも剛 1染 みの深い読者達 も彼の新 しい側面 ,「 遅れてきたポス トモダニス ト」の面

にはもうひとつついていけない。つまり,ロ スは今

,玄

人にも素人にも評判の芳しくない作品 を書いているということになる。何故ロスはそんなことをしているのか

,一

般読者や批評家が

(3)

106

望むものを充分承知 しているはずのロスが何故敢えてこの道を撰んだのか。無論答えははっき りしている。そこにこそロスの描きたいものがあったのだ。他の方法では伝達できないっ複雑 にして単純な何 ものか。知

1的

ゲームに昇華させるには重過ぎ ,既 製の リアリズムの枠に押 し込 むには些か厄介なもの ,即 ち ,自 分。

ところで一般論として ,我 々がロスを読むとき警戒 しなくてはならないのは ,作 品への知に 偏ったアプローチ ,及 び深層心理学に毒されたアプローチである。或いはこれに作家に対する ゴシップ的興味を付け加えてもよい。いずれにしてもこれらのアプローチでは最近のロス文学 の些か泥臭 く ,人 間 くさい迷路 (単 なる頭脳ゲームではない )を 通 り抜け ,作 品の 「核心」に 到達することは出来ない…。文芸理論で武装 し ,膨 れ上がった読者の身体は作者の仕掛けた除 路を通過できない。何よりも虚心に読むこと ,先 回りせず ,結 論を急がず ,作 者に導かれてみ

ること ,そ れがロスの近作を読むポイントと言えはしまいか。

Tλ e Co 溝θ 漸ル は矛盾に盈ち盈ちた ,読 者を混乱させる小説である。登場人物の二人の兄 弟のうち ,心 臓の手術で死んだのは本当はどちらなのか ,作 品のどの部分が真実でどの部分が 虚構なのかはっきりせず ,最 後に至ってもなお明確な解答は用意されていない。これでは確か に先に挙げたJosh Robinsな らずとも ,自 分の力量を誇示 しているだけではないかと言いた くもなるが ,こ こで我々はロスという作家が恐ろしく真面目な作家であること (真 面日でな く てどうして『ポー トノイの不満』が書けようか ),現 代に於いて

,と

りわけ現代の文学・芸術 環境に於いて真面目であるためには不真面日でなければならない ,誠 実であるためには幾つ も の仮面を

TOP・ 0に

応 じて被 り換え られる器用 さが必要であることを思い起 こさな くてはな らない。従 って今なすべきは作品の相互矛盾 ,混 沌のなかに見えか くれする一貫 したモチーフ を探 し出すことである。すると第一章から第五章に至るまで ,そ の表面上の目まぐるしい変化

(語 り手 も舞台設定 も変わって しまう )に も拘 らず ,二 つのテーマが作品の基調低音となって いることに気付 く。その二つのテーマとは一つはユダヤ人とは何かという問題, もう一つは作 家とは何か ,作 家にとって想像力とはいかなるものかという問題である。

言 うまで もな くこの二つの問題を引き受けているのは主人公 ,即 ちネイサン・ズ ッカマンで ある。 ロスの読者にはお馴染みのこの人物 ,ズ ッカマンニ部作

(Z cん

cれ αん Bο れ J)の 完了 とともに退場 したとばかり思っていたが ,相 当 しつこい ,出 好きの人間らしく ,亡 霊よろしく 再登場というわけだ。無論再登場であるから彼の職業 ,経 歴 ,家 族関係等は前作の延長線上に ある。ユダヤ系アメリカ人 ,ニ ュージャージー出身 ,職 業は作家 ,両 親は既になく ,弟 一人と は疎遠にな っており ,結 婚歴三回・・・ これ らの細目はすべて同じ ,更 に先に挙げた二つのモ チーフも過去の作品と連続するものである。主人公が同 じ ,主 題 も同 じとなればでは一体何が 違 うのかということになるが ,一 読 した印象 としてはこの新作では Jewish ldentityの 問題が 今までより邊かに大きなウェイ トを占めていると言ってよい。勿論 ,先 に述べたように ,作 品 のプロットは支離滅裂 ,そ の意味では旧世代のユダヤ系作家達が描いたセンチメンタルな「ユ ダヤ回帰」物語とは似て も似つかない。だが ,例 えば ,作 品の表面上のことに限ってみても

,

イスラエル問題 ,反 ユダヤ主義‐ 問題 ,異 民族結婚問題とユダヤに関わる大きな問題が主人公の 前に次々に立ち現れ ,ネ イサンはユダヤ人とは何かを否が応でも考えさせ らさる。また一章

,

二章 ,三 章で述べ られている出来事を通 してネイサンが彼なりの Jewish ldentityを 探 ってい

き ,最 後にこれから生まれて くる筈の自分の子供に ,そ の子が男の子であったら割礼を施 した

(4)

フィリップ・ ロス  The Counterlreの 一考察

107

いと決意 して終わるという作品構成は

この作品におけるユダヤ人問題の大きさを示唆 してい ると考えて間違いはあるまい。

作品の第二のモチニフ ,作 家 と想像力の問題は ,第 一のモチーフ ,ユ ダヤ人アイデンティ ティーほど表立 っているわけではない。 しか し ,作 品の手法 (ネ イサンの創作

日記等が随時 組み込まれて くる ),五 つの章の組み立て方などに作者の問題意識が色濃 く反映 していること は疑い得ない。つまり作家と想像力の問題はいわば影のように第下のモチーフに寄 り添い ,第

一のモチーフと第二のモチーフの双方が互いに絡み合うことによって作品に立体感を与えてい ると言えるだろう。 しかも後述するように二つのモチーフは最後には一つに収赦され ,一 見無 秩序 ,混 乱の極みと見えた作品に見事な統一感を与えることになる。そういう意味で も Fんe Co 滋θ 湖ル はズッカマンニ部作の「深化」であって ,単 なる「再演」ではない。

さて ,一 章 ,二 章 ,三 章はネイサンが弟ヘンリーとの関わりを通 して自分にふさわ しいユダ ヤ人アイデンティティーを模索 していく様子を描出している。心臓を病み ,そ の薬剤治療の副 作用として男性機能を喪失 した歯科医ヘ ンリー (ネ イサンの弟 )は ,愛 人ウェンディーとの奔 放な性愛が忘れがた く ,生 命の危険にも拘 らず外科手術を受けることを決意する。その手術の 結果死んで しまうのが第一章の

version,生

き残 ったものの「術後欝症」 を患い ,愛 人とのセック スどころか ,妻 と二人の子供達まで捨ててイスラエルに行 って しまうとい うのが第二章の

versionで ある。従 って ,第 一章ではネイサンはヘンリーの葬儀に参列 ,そ こで見聞きしたこ

と ,及 び既に自分が知っていることとの比較対照を通 して ,自 分と弟の過去の意味を探ること になる。一方 ,第 二章ではヘンリーの真意を確かめるため ,且 つ ,願 はくは家族の元に帰るよう 説得するため ,ネ イサ ンがイスラエルに赴 き ,ネ イサンは言わばロス版 響″ スmbα

ssα

Jors"

を演 じる羽目になる。

ところでヘ ンリーの葬儀を中心に展開する第一章を書いた作者の意図は ,実 を言 うとそれだ け読むとよく判 らない。二人の兄弟が幼かった頃を懐かしんでいるようでもあり ,ズ ッカマン ー家の歴史のおさらいをしているようで もある。 しかし第二章 ,第 二章と関連させてみると

,

第一章で描かれているのが 「完全に同化 し ,成 功 したユダヤ系アメリカ人」一家の肖像である ことは明 らかだ。彼 らはユダヤ系であることに何の注意 も払わない。イスラエルも関心の外

,

ユダヤ教など彼 らにとっては寧ろ唾棄すべき存在である。これは第二章で紹介されるエピソー

ドだが ,ネ イサンとの電話での対話で

,イ

スラエルに行って しまった夫がアメリカに戻 るとし て も ,元 のままのヘ ンリーであって欲 しい ,ユ ダヤ教の迷妄を少 しでも残 しているなら帰 うて こな くて結構と妻キャロルは言い切る。更に彼女は断言する。 「宗教なんて馬鹿馬鹿 しい。中 世のたわごとよ。教会やシナゴニグを全部取り壊してゴルフ場をもっと造ったら ,世 界はもっ

とま しになるわ。」 (p.153)3こ れ らの言葉 はアメ リカの富 に支え られた同化ユダヤ人の合 理主義を,またそ ういう合理主義の非情 さを証 していると考え られる。

イスラエル もユダヤ教 もユダヤ人意識 も否定 した 「完全 に同化 し

,成

功 したユダヤ系アメ リ カ人」が代わ りに求めた もの

,そ

れ は中産1階級的安定

,秩

序である。例えば成功 した歯科医ヘ ンリーは

,妻

との愛の冷えた暮 らしに耐え られず一度 は恋人 とスイスで新生活を始めたいと願 うハ 諸般の事情を思 って断念

,い

まはその寂 しさを愛人 との過激なセ ックスで紛 らわ してい る。 こういう状況の中では男 も妻 も愛人 も誰 もが真に幸福であるとは言えない。 しか し少な く とも表面では中産階級的幸福が見事 に演 じられている。それは仮に男が愛人 との性の快楽を失 いた くないあまりに

,死

を賭 した手術を受けた挙げ句

,死

んで しまったとして も変わ らない。

(5)

108

妻ば葬儀の席に集まった人々に ,ヘ ンリーが自分との充全な結婚の維持をのぞんで ,(即 ち夫 婦の性関係の復活を求めて )敢 えて危険な手術に挑んだと報告 ,彼 らの夫婦愛の深さを弔辞の 主題にした。つまリキャロルは夫の不名誉な死を巧みにカモフラージュして婚姻の美徳の祭壇 に献納 したのだ。

一方 ,ヘ ンリーの死の本当の理由を知 っているネイサンは ,キ ャロルの弔辞に反発を覚える。

人の心を抑圧 し ,代 りに表面的な秩序や ,安 定を優先する同化ユダヤ人の生き方を彼は受け入 れることができない。そのことは第一章の終わり方を見れば明らかである。あの貞淑で気丈な 未亡人を演 じたキャロルが淫 らな言葉で夫に迫る場面をネイサンは想像する・・ 。これ こそ キャロルが必死で守ろうとしたものを内側から崩そうとするネイサンの悪意 ,キ ャロル的なも のに対する批判でな くて何であろうか。つまリネイサンはここでは中産階級的偽善の小気味い い告発者 となっているのだ。だがそれは同時にネ ンサ ンがユダヤ人 としてのアイデ ンティ ティーを確立 したいと希 うなら ,彼 らとは別の場所にそれを求めなければならないということ でもある。第二章のヘンリーのイスラエル行き ,そ れを追ってのネイサンのイスラエル訪間は そういう文脈で理解されるべきだろう。

イスラエルでネイサンが見いだ したのは予想通 り全 くの別人となったヘ ンリーであった。彼 はもはや今までネイサンの知 っていた成功 した中産階級の歯科医 ,典 型的郊外居住者ではない。

ヘンリー自身 ,今 までの自分 ,ア メリカの豊かさにどっぷりつかって何の疑問も抱かなかった 自分を激 しい口調で否定する。つまリヘンリーは「同化 したユダヤ系アメリカ人」の価値観か ら「純粋ユダヤ人」の価値観へと劇的な帰還を遂げたのだ。だが ,ヘ ンリーの転身をネイサ ン はキャロルのように頭から否定はしたりはしない。おそらく彼 もまたヘ ンリーの娘ルース同様

,

ヘンリーが 「何かを見つけようともがいている」

(p.82)と

考え ,彼 の取 った行動の意味を 理解するよう努めてみる心づ もりであったに違いない。 しか し現実にヘンリーと話を してみる と些か事情が変わって くる。ヘンリーは予想以上に「信念の人」

もっと正確には「思想 ロボッ ト」に変身 していたのだ。兄弟に共通な思い出や子供達の話をして改心させようと試みるネイ サンにヘンリーは叫ぶように答える。

You stin don't get it.The hen with lne,forget lneo Me is somebody l have forgotten.Me no longer exists out here.There isn'ttime for me,there isn't need of

me一

here Judea counts,■ ot me!"(p.105)

ネイサ ンはそういうヘ ンリーを驚きの眼で眺め

,lN6t me一

we.That's where Henry's me

had gone"(p.106)と

考える。

│か

つてヘンリーは

me"を

守ることに汲汲としていた。彼の 人生の軌跡はそれを証明 している。演劇を諦め歯科医となったこと ,恋 人マリアを諦め ,愛 は なくとも安定 した妻キャロルとの暮 らしを撰んだ事十 そ ういう

Jゝ

さ翼々とした mё "を 否定 するのはいい。 しか しどうしてそれに代わって突然

wetが

現れるのか。 しか もこの

we"は

本来ヘ ンリーの生まれや育ちとは何の関係 もないのだ。この

we"は

彼が旧約聖書 という媒体 を通 して作 り上げた観念に過 ぎない。兄ネイサ ンと昼食をとりに出かけた町

HebrOnを

ヘ ン

リーはかつてアプラハムが生き :死 に ,ア イザックやヤコブやその妻達が生き ,死 んでいった

場所 ,つ まり「ユダヤ人が始まった」

(p.109)場

所であると定義 して ,自 分がイスラエルに

いる意義を強調する。だがネイサンは考えないわけにはゆかない。この

we"の

中にヘ ンリー

(6)

フィ リップ 。ロス  The Cou.nterlifeの 一考察

109

自身 は本当に含まれているのだろ うかと。

ネイサ ンにとってヘ ンリーの変貌で一番問題 となるのは

,ヘ

ンリーの考えているユダヤ性が イデオロギーに過 ぎないという点である。聖書 という「書物」に書いてあることの方を信 じ, 自分の眼で見

,耳

で聞 き

,肌

で感 じて きた ものすべてを捨てて しまうこと。直接の自己の歴史 を 「書物」という間接の知識で否定す ること

,そ

れがイデオロギ早の暴力でな くて何であろう か。 しか もいったん信 じて しまった ら

,他

者の言葉に耳を傾 けることもしない・・ 。そ ういう 意味ではヘ ンリーは彼が傾倒す る,イスラエルの ヨルダン河西岸地区の超 タカ派リップマ ン と同 じなのだ。そ こにあるのは理論のみ

,人

間がいない。 いたとして もそれは 「書物の中の人 間」。実際に生 きている人間が少 しも見えない

,自

分 自身を含めて。だが,イデオ ロギーは現 実 にはなんと多 くの人間を傷つけて しまうことだろう。テル・ アヴィプの町で再会 した旧友の ジャーナ リス トシュキとの会話の中でネイサ ンはシュキの弟がアラブ人によつて惨殺 された ことを知 った。エルサ レムか らヘ ンリーの住む西岸地区まで乗 ったタクシーの寡黙な運転手は 戦死 した息子の写真を大事 に持 っていた。そ うい う事実を しば しば見えな くす るもの

,そ

れが イデォロギ‐なのだ。だか らネイサ ンはイデオ ロギーとしてのユダヤ人

,ユ

ダヤ国家 に組す る ことは しない。いや

,で

きない。

イデオ ロギーと化 したユダヤに鰯

1染

む ことが出来ないネイサ ンはまたユダヤ教 とも距離感を 覚えざるを得ない。元々物心ついて以来彼がユダヤ教会やラビに親 しみを覚えた ことは一度 も なか った し

,作

家 とな つてか らは寧 ろ敵対関係にあると言 ってよい。だか ら一種の観光気分で 出かけた有名な 「嘆 きの壁」で祈 りに加わるよう促 されればきっば りと断わ った しリップマ ンやヘ ンリーと一緒の安息 日の正餐で もヘブライ語の濤 りに唱和す ることはなか った。

(但

彼 はユダヤ教をキ ャロルのように一方的に否定 してはいない。キ ャロルのような超合理主義者 が頑 くなな信者に簡単 に転 じて しまうことはいみ じくも弟ヘ ンリーの例が証明 しているで はな いか

L)だ

か ら彼 は宗教以外でユダヤ人 としてのアイデンティティーを確立 していかねばな ら ない。

ネイサ ンがヘ ンリーをイスラエルに訪ねることによってはっきりして きた もの

,そ

れ はユダ ヤ国家 ともユダヤ教 とも無縁に自らのアイデ ンティティーを確立 しなければな らない

,つ

まり あ くまで もユダヤ系アメ リカ人 としての 自己像を探究 しな くてはな らないという一点である。

おそ らく全てのユダヤ系アメリカ人が程度の差 こそあれ

,一

度 はこの問題に突 き当た る。 アメ リカの他のエスニ ック・ グループと違 って

,ユ

ダヤ系の場合ユダヤ人だとい う意識が強 く

,祖

(イスラエルの場合そう呼べ るかどうか怪 しいが

)に

対す る関心

,連

帯意識 は例えばイタ リ ア系ドイツ系などとは比べ ものにな らないと言われている。 しか し

,考

えてみればユダヤ系 であろうと彼 らはあ くまでアメ リカ人なのだ。アメリカ英語を話 し

,ア

メ リカ文化を吸収 して 育 ったかれ らの人格の根幹をアメ リカが貫いている。それは主義主張で容易 に否定で きるよう な もので はない。 イデオロギーという名の消 しゴムで簡単に消せ るような ものではない。第二 章 Aloft"に 登場す る気の触れたハ イジャック未遂犯 は作者 ロスのそのようなメ ッセー ジを運 ぶ道化役者である。

テル・ アヴィブ発 ロン ドン行 きの飛行機の中で

,ネ

イサ ンは臨席の若者に注意を向ける。彼 はキャンディーバーを回にはうば りなが ら

(正

にアメ リカ

!),ヘ

ブライ語の祈 りの本

(ユ

!)に

眼を通 している。やがて この若者 はひど く汗をか き始め

,心

配にな ったネイサ ンは彼 に声をかける。す ると籍 いたことにそれはネイサ ンが 「嘆きの壁」で出会い,イスラエルで一

(7)

110'

番寂 しく思 うのは野球のないことだと語 ったあの少年だった。ここでロスに取 って野球 とはア メリカの象徴 ,ア メリカそのものであったことを思い出 してみれば

この少年が示唆するのが ユダヤ系アメリカ人の中のアメリカ性であることは明らかである。 しかもこの少年は自分がそ のようにアメリカ的であることに気付いてさえいない。気付いていないから平気で Forget Remembering"(ア ウシュヴィッッのことは忘れよう ,そ うすればイスラエルは世界の人々

と仲良 くやっていける

もう戦争はない )な どというお目出たい ,ア メリカンヒュ

,マ

ニズム むき出しのメッセージを持 ってイスラエル航空機をハイジャックしようと考えられるのだ。と ころが困ったことにこの少年は作家ネイサン・ ズッカマンのファンでネイサンにハイジャック の応援を依頼 して くる 6無 論ネイサンは断わるが ,断 わっている最中にテロ対策の警備員に捕 まって しまう。そうなればネイサンがいくら弁明 しても ,警 備員達は信 じない。屈辱的な身体 検査 ,言 葉による威嚇に加え ,そ の少年の父親に違いないと決めつけて くる。 しかも間の悪い ことに ,シ ョックで気を失 っていた少年がその時一瞬意識を回復 し ,ネ イサ ンを

Poppa"と

呼ぶのである。かくして飛行機はユダヤ系アメリカ人の「親子ハイジャック未遂犯」を乗せて テルアヴィブヘと引き返すことになる。

さてこのエピソー ドは一体何を表 しているのだろうか。 45才 にしてまだ人の子の父となった ことがない ,(二 章 ,三 章 ,五 章によれば

もうす ぐ父親になるらしいが

)ネ

イサン・ズ ッカ マンが何故いま

,こ

の些か脳味嗜が足 りないとしか思えない若者の父親にならなくてはならな いのか。答えは明瞭である。ネイサンは (そ してロスもまた

)自

らの内なるアメリカを子供 と して認知 しようとしているのだ。Je宙 sh ldentityを 探索するにしても ,ヘ ンリーのようにア メリカを切 り捨ててはならない。実際ロス自身

Es9

ι

re1981年 9月

号のインタビュこの中で「ア メリカが自分の意識 ,言 語を形成 したのだ 。・・ 自分とアメリカとの関係は心臓と心臓外科医

,

炭坑 と炭坑夫 ,台 所の流 しと鉛菅工の関係と似ている

'」

と述べている。つまり職業的アイデ ンティティーに取って不可欠だというのだ。そういうアメリカに ,少 々気が狂っているからと いって ,多 少欺嚇的であるかといって ,ど うして簡単に背を向けられようか。

ロンドン行きの飛行機の中で (ハ イジャック事件に巻き込まれる前に )し たためたヘ ンリー ヘの手紙はネイサンが肯定するものと否定するものを明快に区別 している。

Tq te■ yOu the truth,had l run into yOu On a Tel A宙 v street with a girl on

your am, and you told me, ̀̀1 love the sun and smen and the falafel and the

Hebrew language tnd living as a dentist in the middle of a Hebrew world,"I

wouldn't have felt like cha■ enging you in any way.All that―

which coresponds to

my ideas of■ orlnalcy一 I could have understood far more easily than your trying to

lock yollrself into a plece of history that you're slmply not locked into,mto an

idea and a co■ llnitment that may have been cogent for the people who ca口 e up

with it,who built a country when they had■ o hope,■ o future,and everything was

only difficulty fOr them― an idea that was,withttt a doubt,bri■iant,ingenious,

coumgeous,and vlgorous in its historical time一 bit that doesn't rea■

ylook to me

to be so cogent to you。

(p.149)

(8)

フィリップ 。ロス  The Counterlreの 一考察

ヘンリーが仮 りにヘブライ語やイスラエルの風土 ,食 物 ,女 性を愛 してイスラエルを選択 した のだったら ,そ れはいい ,自 分は何 も言わない

こう弟に語りかけるネイサ ン・・・・ この時 彼は本当は次のように言いたかった筈だ 6頭 で作 `

り上げたイデオロギーとしてのユダヤの歴史 ではなく ,自 分の体と心が知っている自分の 「ユダヤ史」 ,つ まリアメリカ英語で ものを感 じ

,

考えなが ら育ってきた自分自身の「ユダヤ史」を大切にせよ

と。自分の過去で もあり ,現 在 でもある言語や風俗を君は捨て られるのか ,不 思議な活力に盈ちたアメリカ英語や野球やジャ ズや ドタバタ喜劇やハロウィンやラジオのクイズ番組

,そ

ういうものを君は否定できるのか

,

これ ら君の中の内なるアメリカを追放 していいのか ,そ れは自らを空洞化することになりはじ ないか, と。

こうして進むべ き方向はハ ッキ リした。即ちイスラエル国家やユダヤ教 とは無関係に

, American」ewish ldentty"を

確立すること。 しか し奇妙なことに方向性がハ ッキリしたと 思った途端 ,作 品は急旋回

(ま

るで第二章で 「親子ハイジャック未遂犯」を乗せてテルアヴィ ブに引き返 したジェット機のように・・・ ),読 者は突然今までのお話が Fお 話に過ぎなかっ た」と知 らされることになる。つまリー旦 Jewish ldentityの 問題は棚上げにされ ,新 たに第 二のモチーフ ,想 像力の問題が導入されるのである。

Gloucestershire"と

題された第四章ののっけから ,読 者は新事実に直面させ られる。心臓 を病み ,男 性機能を喪失 していたのは実は兄ネイサンの方であり ,愛 するマ リアと家庭を築き 子供を持ちたいと願った彼は生命の危険にも拘 らず外科手術を受け死亡 した一一だか ら今葬儀 に出席 しているのはヘンリーである。ヘ ンリーと

,ネ

イサンは父の死をめぐって対立 し ,長 いこ と疎遠なままだった。 もともと三度 も結婚と離婚を繰 り返 し ,同 時に複数の愛人を持つような ネイサンの生き方をヘ ンリーは苦々しく思っていたのだが ,父 親の死がネイサンのスキャンダ ラスな小説によって早められたと信 じたとき ,彼 は兄に厳 しい非難の言葉を投げつけ ,兄 と実 質的に訣別することになる。ヘ ンリーにとって何よりも許せなかったのは身内の人間を素材に し ,か つそれを著 しくデフォルメして作品に利用するネイサンの作家としての態度であった。

そういう彼がネイサンの葬儀の後 ,ネ イサンが書き残 したものの中から自分や自分の家庭に関 係する部分を抜き出して抹消 したいと考えたのはごく自然なことだと言 ってよい。

ネイサンとヘンリーのズッカマンニ兄弟の対立の根底にあるもの ,そ れは想像力と現実の対 立である。作者はその点を次のょうな文章で明らかにしている。

Unlike Nathan's,what Hel=y's■

fe had come to represent was living with the facts一 instead of trying to alter the facts,taking the facts and letting them inundate him。 (p.234) 

ヘ ンリーにとって作品中で自分の心臓病や男性機能喪失を弟ヘ ンリーに押 し付けて平然 として いるネイサ ンとは

,他

人の肉を食 らって生 きる cannibal"に 等 しい。原稿

(̀吻 c Co

れι

crZ権

の一章 と二章に相当す る

)は

是が非で も処分 しなければな らない。彼 は秘かに持 ち出 した原稿 をハ イウェイのパーキ ングエ リアの ごみ箱 に投 げ捨て る。だが奇妙な ことが起 こった。気が付 くと彼は吐いていたのだ。

(9)

112

The■ something putrid was stinging his■ ostrils and it was Hemげ

who wasleanmg

over and vlolently beginning to retCh,Hen■ r VOnuting asthough he had broken the pnmal taboo and eaten huttLln fleSh。 (p.238)      

奇妙な逆転。

cannibal"は

ネイサンではな く実はヘ ンリ‐の方であったという一一食べたも のはネイサンのイマジネーション。 しかもそれは消化され ,抹 消されることを拒否 した 6す る と <事 実>と <想 像力

>の

戦い一一ヘンリー vsネ イサンーーは想像力

(=ネ

イサン )の 勝利 に終わったのか。いや寧ろこう考えた方がよくはないか。っまリイマジネーションとは煮て も 焼いて も食えないもの。執拗で不気味で根絶不可能なもの。どこか幽霊

(ghost)に

似ていな くもないような。何故なら想像力同様幽霊 もまたあなたに付きまとい悩ます

しか したとえあ なたが殺意を抱いても既に死者である幽霊を死に至 らしめることは決 して出来ない。あなたが 自己の内なるイマジネーションを抹殺できないのと同じように。確かに存在は感 じられるのに

,

存在を特定 し消 し去ることが出来ないのが 「イマジネーション =幽 霊」というわけだ。

ところで 「イマジネーション =幽 霊」説はこの章の最後の部分で立証されることになる。上 記のヘンリーのエピソー ドに続 くこの部分で二人の人間の対話が唐突に始まる。その二人とは

,

一人はマリア

もう一人は匿名のィンタビュアー。インタビュアーはマリアにネイサンの死を 知ってどう感 じ ,ど う行動 したか

,こ

れからどう行動するつ もりか尋ねていく。そのゃり取 り の中から ,読 者はマ リアもまた作家であること ,従 ってマリアはヘンリーと違って ,自 分を素 材にし自分を変形させているネイサンの小説原稿を発見 して も ,(仮 にそれが公表され自分の 結婚生活が破綻する恐れがあっても )原 稿を処分 しようという気にはならなかつたことを知 る。

いやそれどころか彼女はネイサンが「彼女が与えた小さなヒントを現実に ,つ まり彼流の現実 に変えて しまう」

(p1247)手

際よさに魅せ られるのである。だから今マ リアは (ネ イサ ンが 死んでしまったにも拘 らず )愛 のない夫との生活を捨て ,新 たにやり直そうと考えている。即 ち

,イ

マジネーションに触発されて「現実」を変えようとしているのだ。こういうマ リアの姿 は直前に描かれている, 自分の「現実」を守るためにネイサンの原稿を抹消 しようとしたヘ ン リーの姿とはなんと違っていることだろう。

ところでマ リアからそのような「想像力」支持の演説を引き出したのは誰なのだろうか。イ ンタビュアーがヤ リアに言 う。 「私が誰か知 っているよね。」

(p.252)マ

リアが答える。 「知 っ ているわ。あなたは同じさまよえる魂よ。 (the same restless soul)。 」また

もっと話 し 続けるように促されたマ リアは次のように答える。

Iw皿.Iw皿

.I know what a〔

典 ost iS.It is the person you tak to.That'sa ghoste Someone who's still so alive that you talk to them and talk to them and never stop.A ghOst is the ghost of a ghost.It's my tum■ ow to invent you。

(p.254)

これ らの ことか らインタ ビュアーが死んだネイサ ンの幽霊であることは明 らかである。 しか も,

マ リアが 「同 じ」という言葉を使 っている点

,「

幽霊 とは幽霊の幽霊だ」 と言 っている点など か ら考えると

,マ

リア もまた幽霊だということになる。そ して この幽霊達 はお喋 りが好 きで,

「決 して話 し止むことな く」

,互

いに互いを 「創 り合 って」いる。だ とした らこういうことに

(10)

フィリップ 0ロ

 The Counterlifeの

一考察

な らないか。即ち

,幽

霊 はあなた自身の中に棲みつ き

,あ

なた と幽霊は互いに交信 し合い

,互

いを創造 し合 う。だか らマ リアとはネイサ ンの中に棲む幽霊

,想

像力という別の名を持つ幽霊 にほかな らない!

ネイサ ン・ ズ ッカマ ンは想像力という名の

,や

す らぐことを知 らぬ幽霊を内に抱え こんだ作 ´ 家である。同時に彼はユダヤ系アメ リカ人であ り

,ど

のように した ら自分な りのユダヤ人 アイ

デンティティーを確立できるかそめ方法を模索中である。さてネイサンの中でこの二つのアイ デンティティーはうまく結び付 くのだろうか

,ま

た結び付 くとしたらどのようにしてそれは可 能なのか 。 00こ れ らの問いに対す る答えの鍵 は最終章に隠されている。 どうい うわけか

Christendom"と

題された第五章は反ユダヤ主義をめぐって展開する。題名にふさわ しくい まネイサンはイギ リスにおり ,新 妻マ リア ,マ リアの連れ子フィ‐ビー ,そ して間もな く生ま れて くる筈のネイサン自身の子供とともに新生活をこの地でスター トさせようとしている。つ まリネイサンの心臓の手術は成功 し ,男 性機能が戻 り ,マ リアの夫は離婚を承知 したのである。

(と

はいえ ,例 によって第四章の記述が本当だとすれば五章は全部嘘 ,死 人の書いたものとい うことになる

しかし想像力とはそもそも幽霊のようなものだと判明した以上 ,四 章 と五章の 矛盾が何であろう。

)さ

,四 十五才にして初めて人並の家庭人になろうとしているネイサン は新生活への希望に燃えている。だがそういうネイサンの前に思いがけない障害が浮上 して く る。英国一般 ,及 びマ リアの母 と姉の反ユダヤ感情である

:

マ リアの姉から彼女達の母親が反ユグヤ感情を持っていることを知 らされたネイサ ンは ,そ の後更に ,マ リアと二人で出かけたレ不 トランで年配の女性に差別的発言をされたとき

もは や自分を抑えることが出来ず ,い やがる彼女に強制 してイギ リスに残る反ユダヤ感情の実例

,

その理由などを話させるもこのことは二人の間を気まず くさせ ,ネ イサンは夜の闇の中 ,一 人 テムズ河畔の二人の新居となるはずの家を訪れる。改装工事がまだ終わっていない家を窓の外 から覗き込むネイサンの姿は彼の周縁性を象徴 していると考えてよい。またネイサン自身テラ スに腰を下ろして対岸を眺めたとき ,「 異国を眺めているような

しかも一つの異国から別の 異国を眺めているような気がするのだった。」

(p.310)つ

まリマリアとの結婚が もたらすで あろう幸福の約束に酔いしれていたネイサンはこの時 ,自 分とマリアの間にある国の違い ,文

化の違い ,歴 史の違いから目を逸すことが出来な くなったのである。

マ リアの母は典型的イギ リス中産階級の女性で ,中 産階級的価値観か ら一歩 も出ようとしな い。例えば彼女はジェーン・オースティンを最高の作家と考え ,ア メリカ文学は暴力的過ぎる と断 じてはばからない。そ してマ リアはそういう母親に結局は忠実なのだ。そう考えるとネイ サンは逮巡する。この結婚は二人に幸せをもたらすのだろうか。ユダヤ人の父に自分はかつて bastttd"と 呼ばれた

5。

しか しそれで も自分が父の血を引く ,父 をなつか しく思い出す 「ユ ダヤ人の息子」であることには変わりはない。だとしたらあの母の娘のマリアとあの父の息子

であ る自分 はこれか ら事あるごとにぶつか りは しないか。ネイサ ンは思 う。 そ もそ もこれは 我々のいさかいではない。二人の争いは二人の争いで はな く

,旧

世界対新世界

,キ

リス ト教対 ユダヤ教の 「代理戦争」 (p.310)なのだ。ネイサ ンは迷 う。二人に未来はないのか

,二

人 は 別れた方がいいのか 。・ 。そんな ことはない

,そ

うであ って はな らない。 もう内面 に閉 じ籠 もった暮し

,聞

こえてくるのは自分の声ばかりというような今までの暮らしはうんざりだ

,彼

女の肉体

,「

言葉でない腰

,自

分の創作ではない柔らかな本物のお尻」

(p.311),現

実の空 気を吸っている彼女の胸

,そ

れらが自分には必要なのだ

,一

人の男としてまた人間として。そ

113

(11)

114

うネイサンは思い ,宿 にかえってベ ッドにマ リアを見いだすことを強 く祈念する。

しか し奇妙なことに

もう一人のネイサン ,作 家としてのネイサンは例の内なる幽霊に唆さ れたのか

,男

Jの 想像をする誘惑を抑えきれない。彼は彼との別れを決意 したマ リアが部屋に残

していくであろう置き手紙の中身を想像する。同時にその置き手紙に対する自分の返事 も。当 然のことなが ら二人の手紙は互いの相違点をめぐる議論になり ,作 家としての二人の質の違い と■ダヤ人問題を中心に展開 ,特 に生まれて くる子が男の子だった場合 ,割 礼をするか しない かという現実問題が論 じられる。マリアにとっては文学とは自分の少女時代の調和的世界を再 現するものだか ら

,Gloucestershireの

牧場や霧を美 しく叙情的に描き出すことに ,彼 女にとっ ての文学の営為のすべての意味がある。ところがネイサンにとっては文学とは「生まれだそう ともがいている自分 自身を描 くもの」

(p.315)で

あり ,そ ういうネイサンと論議するといつ も二人の間に「二十世紀の歴史が最 もおぞましいかたちで立ち現れて くる。」

(p.316)自

分 にはそれは強烈過ぎる L自 分はもっと静かな牧歌的なものが好きだし ,そ れで満足できる。無 垢を欲する自分と「無垢から無垢である」

(p.318)道

を撰んだネイサンとはしょせんうまく いかない。さよなら

,と

マリアの手紙は終わる。

続けて 「作家」ネイサンはネイサン自身の手紙を想像する。この手紙はマリアの訣別の決心 を翻意 させるためのものだが, この作品全体で提起されてきた問題に対するネイサンの ,そ し ておそらく作者 自身の最終態度表明ともなっている。ところでネイサンの手紙の趣旨は三点に 要約できる。第一点は自我などというものは存在 しない ,あ るのは自我を演 じる能力だけであ るということ。 「自分とは劇場であり ,そ れ以上のものではない。」

(p.321)だ

からネイサ ンは呼びかける。 「マリアよ。戻 っておいで ,そ うすれば一緒に芝居が出来る。ホモルーデン ス (遊 ぶ存在としての人間

)と

その妻 として楽 しい時が過 ごせるよ」。このアッピールは先に 述べた「マ リア =想 像力 =幽 霊」という定義に合致する。即ちネイサンにとってマ リアとは

,

自我の内部で絶えず異議を唱え ,想 像力を活性化する異星人 (エ ーリアン )=幽 霊である。そ ういう「異なるもの」を追い出していまえば ,或 いは生きやすいかも知れない。だがそれでは 自分という名の劇場はつまらないものになって しまう。想像力も枯渇する。だから帰 ってきて 欲 しい ,自 分の内なる他者として ,自 分を悩ます幽霊として。つまりある意味ではネイサンは ここで作家としての姿勢の再確認 ,呵 責ない自己探求をこれからも続けていくという趣旨の決 意表明をしているのである。

ネイサンの手紙の第二点 ,そ れはマ リアの牧歌的世界への執着を批判することである。ネイ サンによれば ,そ もそも牧歌的なものなど実在 しない ,幻 想に過ぎない。人間は生まれたとき から歴史の申に放 りこまれるのであって ,時 間が止まった楽園は人間とは無縁なのだ。ところ が人間の牧歌的世界に対する憧れは強 く ,歴 史の高波にあんなに揉まれてきたユダヤ人達でさ え

,カ

インとアベル以前の楽園を恋焦がれている。 (長 い年月の間にこびりついて しまった

,

歴史という汚れを払い落として ,汚 されぬままの原点 ,出 発点に戻りたいという願望がシオニ ズムの根底の一部を形成 していることは疑い得ないところであるまいか。 )そ して実を言えば この自分 もマ リアとの結婚

,イ

ギ リスでの新 しい生活を同 じような気持ちで考えていた。再生 のチャンス ,ゼ ロか らの出発というふ うに。生まれて くる子は自分の救世主 redeemer"(p.

322)で

あるというふ うに。だがいまはっきりわかった。人間は歴史の中に生まれて くるので あって ,楽 園に誕生するのではない。そのことを我々は忘れてはならない。

最後に ,手 紙の第二点として ,ネ イサンは人類の「牧歌幻想」を終わらせる手段として割礼

(12)

フィリップ

0ロ

ス The counterlifeの 一考察

       115

があるという彼の考え方を明 らかにす る。

Cむ cumcision iS startling,all right,particularly when perforlned by a garlicked old man upon the glory of a newbom body,but then maybe that's what the Jews had in mind and what makes the act seem quint… eSSentially Je宙 sh and the mark of thett reality.Circumcision makes it clear as can be that you are here and not there,that you are Out and■ ot in一 also that you're mne and not theirs.…

Cir‐

cuttcision is everything that the pastoral is■

ot and,to my mind,reinforces whOt

the worldお about,whbh isn't stttfeless unity.(p.323)

上の引用の最初の部分か らマ リアが割礼に否定的であること ,生 まれたばかりの子供の「無垢」

に手をつけることはユダヤ人の ,つ まリキ リス ト教以前の野蛮な習慣であると考えていること が推測出来よう。一方ネイサンは割礼の意義をユダヤ人に限定 して考えていない。無論儀式そ の ものは依然 としてユダヤ人のものである。 (だ か らこそ彼は生まれて くる子供が男の子で あったら割礼を施 したいと宣言 しているのだ。 )だ がネイサンは割礼をもっと広 く人類一般の 問題として捉える。先に述べたように人間は歴史の中に生まれて くる。だから自然の営みとし ての肉体の誕生とは別に ,人 間は歴史的時間の中へと第二の誕生を果たさなければならない。

割礼とはこの第二の誕生の儀式化に外ならない。世界は「争いのない統一体ではない」

しか しその世界に我々は住み続けるしかない一―そういう辛い現実が割礼によって乳児の無傷な肉 体に刻印される。こうして人間は F牧 歌幻想」か ら覚醒するのだ。

しかもネイサンにとって割礼の意味は「失楽園」の直視にとどまりはしない。集団的「牧歌 幻想」か ら開放された時 ,人 はどうするか。彼は自己を自己自身の手で創造 しなければならな

くなるのではないか。一方

,割

礼とは人間の生殖器に人間的な意味を附し「再創造」するため の儀式である。このことを今の文脈に合わせて換言するなら

,人

間は割礼を通して自分の存在 を自分で意味づけるのだということにな りは しまいか。つまり人は

,例

えば

,ユ

ダヤ人 に生ま れ るのではな くユダヤ人を自作 自演するのだ 。・・ 言 うまで もな くこれは先に説明 した 「自己

=劇

場」理論

,そ

の前提 としての 「想像力

=幽

霊」理論 と相通 じるものである。か くして の時点で

,「

割礼」を通 してネイサ ンの二つの追求

,ユ

ダヤ人及び作家 としての二つのアイデ

ンティティーの追求が一つに収敏す る。延々五章 にわたる意図的混乱

,戦

術的錯綜の中か ら, ついに作家のメッセージが届 く

̀ひ

そやかだが しっか りした声で。 「想像力を もってユダヤ人 としての自我を創造せよ

,国

家よりも思想 よ りも強靭な想像力を もって。何故な ら想像力 とは 肉体の内に棲む幽霊であ って

,だ

か ら決 して滅ぼされない

,幽

霊は三度死ぬ ことはない

0・

0」

ところで

,い

ま述べた作者のメッセージの申のユダヤの部分にとらわれ過 ぎると

,作

者の意 図を見誤 ることにな るよ うな気がす る。実際例えば

John Updikeは

̀醜

e」唸 ω

 yottgrに

掲載 された この作品の書評の申で 「多分それまで忠実 にユダヤ的感性に攻撃を仕掛けて きた作者 は この最後の章 に於いてキ リス ト教徒たちを辛辣に風束1しようと思い立 った らしい」6と述べてい る。だが先に明 らかに したようにネイサ ン=ロスにとってユダヤ人 とは「人間の現実」を表 し こそすれ

,狭

い民族主義的な意味合いは持 っていないはずである。事実ネイサ ンは次のように 述べている。

(13)

England's made a Jew of me in only eight weeks,which,on reflection,might

be the

ast painful method.A Jew without Jews,without JudaiSm,without Zionism,without Jenrishness,withOut a temple or an army or e"n a pistol,a Jew dearly without a home,just the otteCt itSelt 

Ш

ke a glass or m apple。

(p.324)

ユダヤ国家 も

,ユ

ダヤ教 も

,世

に言 うユダヤ人 らしさもないユダヤ人

,そ

うい うものにネイサ ンはなろうとしている。生まれて くる息子にも

(死

んだネイサ ンともともと幽霊のマ リアの間 に生まれるのだか ら

:生

まれなが らの亡霊だろうけれど

)そ

うな って欲 しいと思 って いる。 こ ういう考え方をす る彼に異教徒に対す る悪意が胚胎す る可能性は皆無だと言 らてよい。寧ろ間 題はそのように徹底的に外的要件を排除 して成 り立つユダヤ性をどのようにして次の世代に受

け継いでもらうかということにある

:こ

うして再び割礼の問題が浮上する。先に述がたように

「人はそれぞれ自分なりのやり方でユダヤ人にならねばならない」と肉体に刻印を記すのが割

礼であ った。一見 これは子供を冷た く突 き放 してい

るようである。だが一方で これはユダヤ人 としてのより深い レベルの連帯の意志伝達で もあ る。別の言い方をす るな ら

,割

礼 とは「切断」

であると同時に ■連続」で もあるのだ。

だがよ く考えてみればそれは何 もユダヤ人に限 ったことで はない。地球上の どこに生 まれよ うと

,ど

うい う文化を背景に育 とうと

,人

が充分に人であるためには「切断」 と「連続」を経 験すべ きではないか。所与の もの

(国

,民

,歴

,文

化等

)に

惑わされ

,支

配 されないた めには人はそれ らと一旦 「切断」 しなければな らない

,そ

して 自分な りの再構築を しなければ な らない。そうして初めて人 は所与の ものか ら自由であ りなが ら連続 している

,人

間と して望 ましいあ り方に到達で きるのだ。だか ら踊 り続 けな くてはな らない。歴史 という名の回 り舞台

,「

切断」「と「連続」の混合ステ ップをつか って

,休

む ことな く

,些

かぎこちないのは百 も 承知の上で。

こうしてユダヤ系アメリカ人作家のアイデンティティーの問題は最後に至って

,人

間論

,自

然論

,歴

史文化論へと姿を変えた。ここには我々が今まで見知っていた以上に哲学的なロスが

いる。とはいえ

,‐

それはあくまで深 く考察すればそうなるということであって ,作 品のテーマ は最後まで想像力とユダ ・

ヤ人ァイデンティティーの問題であり続けたと言ってよい。そ して実

,ロ

スがこのようにユダヤ人アイデンティティー問題に真正面か ら取 り組んだことは未だか

つて無いことだった。その意味で ,劉 LO Coこ れι θ 湯ル は作者の 「民族 とその過去との ,風 変わ

りではあるが真貧け な連帯宣言」

7で

ぁるという

Robert Alterの

見解は正 しい。事実

ここに描

かれているユダヤ人達はどんなエキセントリックなタイプで も不思議にその背後に作者の暖か

い視線を感 じる。それはまるでロス自身が過去の作品で「切断」を果たし ,い ま改めてユダヤ

なるものと「連続」しようとしているように見える。或いは少々大胆に

,こ

の作品でロス自身

の精神的割礼が遂行されたのだと言い切ってみようか。いずれにせよ ,そ ういう意味でこの作

品がロスの父親

(現

実の父親は健在なのだ

!)に

献げられていることは驚くようなことではな い。寧ろ驚 くべきはロスの作家として

,人

間としてのパィォニア精神である。日々自ら創造 し なくてはならないユダヤ性

,自

ら参加 して作り出す歴史

,絶

えず心をかき乱す神出鬼没の「幽

=想

像力」

,「

自己

=劇

場」理論: これらの考え方すべてが示唆しているのは, ロスの体む ことのない精神

,前

向きの姿勢

,一

言で言えば彼の若さであり

,旺

盛な倉

1造

のエネルギーであ

(14)

フィ リップ・ ロス

 The Counterlifeの

一考察

る。 この創造への情熱が失せな い限 り ,作 家 と しての彼 が徒 らな感傷癖 や教訓癖 に陥 る ことは 無 いだ ろ う。 そ してユ ダヤ系 ア メ リカ作家 と しての 自己の姿 を正 しく把握すべ く

これか らも 果敢 な実験 ,大 胆 な手法で読者 を惑乱 し続 け ることだ ろ う。それ は些か迷惑 なのだが ,同 時 に 大 い に楽 しみであ ることを一読者 と して ,一 フ ァンと して最後 に付 け加 えてお きたい。

<護 >

l Abel,Lionel. Roth's Best Novel,"Ibrι j

ι れRcυ

″ (vOl.54), p.320.

2 Rubitns,Josh.

The Wandering Jew,"τ

んθ]砲ω yorλ  Rcυ

jeω

(March 26,1987)

3 Roth,Philip.rんeC。 んιeriツ

(New York,Farrar Straus Giroux,1986)

以下引用はすべて同じ版による。

4・

The Ghosts of Roth:An lnterview by Alain Finkielkraut,"Esα

jrc(September 1981)p.97.

5 Roth,Philip.Z cん erJ∽

aん

IInbο

んご (New York,Farrar Straus Giroux,1985)p.373.

6 Updike,John. 

Wrestling to Be Born,"rLc Aた ω yorλ er(March 2,1987), p.109。

7 Alter,Robert.

Defence of the Fdth,"Coれ れ ●れれっだ

(July 1987), p.55.

参照

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 オーステナイト系ステンレス鋼が原子力用材料として広

202       嘘後この死亡低下の要因考療

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