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フィリピンの政治的正当性の一考察 : 変革への試練 [A Study of Political Legitimacy in Transition : A Case of the Philippines]

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(1)

東南 ア ジア研究 14巻2号 1976年9月

資料 ・研究 ノー ト

フ ィ リ ピ ン の 政 治 的 正 当 性 の 一 考 察

-

変 革 の 試 練

-吉 川

子*

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-Yoko YosHIKAW A

ThispaperattemptstoclarifythepatternofPhilippinePOliticallegitimacybefore andaftermartiallaw. ThephilipplnepoliticalhistorysincetheRevolutionoHndepe n-dencecanbelargelycharacterisedbytherestrictionofcharismaticruleandmoverncnt towardmoreconservative,rationaトlegalrulewith coexistenttraditionalvalues. All thoughtraditionalvaluesoftenunderminededdclnOCraticidealsandthelegalcode,Other factorscontributedtotheirmaintenance・ Untilmartiallaw71egltlmaCyWasf unda-mentally constitutional・ However,ine侃cienciesin thepoliticalsystem particularly inthedistributioncapacity enlargedthegapbetweenthepeople'sbeliefsandexpect a-tions,and the realities. Ambivalence about constitutionallegitimacy called for changesininstitutions)inthequalityofleadershipand evenfらrchangeoftheentire system,

Itisstillpremature to conclude whetherlegltlmaCy has changed ornotsince September21,1972. However,itismostlikelythatconstitutionallegitimacylSnotat presentfunctioning;instead thereisall10reauthoritarian legltlmaCy colored bythe creation ofcharismaticimages. The ma)orlty Seem tO acceptauthoritarian rul(I, passivelyoractively,butprobablyonatemporarybasiswhilelookingforInOVement towardstheequaldistribution ofwealth. Theurban eliteseemssplit.・thosewl"

advocateuniversal,constituionaldemocracy;thosewho claim theneed foraut hor-itarianruletobring changesand efhciency,・andtheextremists・ Theiirstgroup is growingWhileMarcosisbuildinghisownsystem ofgovernment.

LackingConstitutionallegltlmaCy,theMarcosreglmemustProveitselfmoreil一)1(,I tomeettheexpectationsofpeoplethantheformerdemocraticsystem,ifitistosurvive, theshortterm;inthelongterm,constitutiona一legltlmaCymaywell1)C(二omeVitalbe(、EluSC ofthegrowing(lemocraticpotential.

(2)

吉川 :フ ィリピンの政治的正 当性の一考察 は じ め に フィ リピン政治にお ける支配 の正 当性原理 は

1

9

7

2

9

2

1

日を境 と して著 しく変容 したよ う にみえる。 それまでまが りな りに も維持 された民主的形態 は失われ,代 わ って政治権 力が集中 し,政策 決定過程 は非民主化 された。連邦共和国時代 を含めて36年間維持 されて きた正 当性原 理 は崩壊 したのであろ うか。 フィ リピン政治の歴史 的,実証 的研究 は数多いが,正 当性1)に関す る理論的考察 はほ とん ど み られない。 そ こで本

稿

1

8

9

8

年 の民族独立運 動期か ら戒厳令以前 までの フィ リピン政治の正 当性原理をマ ックス ・ウェーバ ーの正 当性 に関す る類型,ダ ンカル ト・ロス トウの政治的安定 と正 当性 の関連説,セ イモア ・リブセ ッ トの有効性 の概念 をてがか りに解 明 し, その後現在 の 戒厳令体制下 の正 当性 と比較検討 したい。 また本稿 は広 く発展途上 国の政治的正 当性原理 に関す る一般化 の作業仮設 づ くりの一助 とな るよ う願 って い る もので, フィ リピンの政治的正 当性 の特異性 を強調す る ものではない。 なお,理論 的考察をすす めるにあた りで きるだ け実証的裏付けを試 みたが,詳細 な史実や因 果 関係 の解 明 自体 は本稿 の 日的で はない ことを断わ っておきたい。2) Ⅰ 正 当性の概念 と理論的枠組 支配 関係 の存続 には正 当性 が必要で ある。

M.

ウェーバー

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の定義 に従 い, 支 配 とは 「挙示 しうる 一群 の人 々を特定 の (すべて の)命令 に服従 させ るチ ャンス」3)だ とす る と,服従 の動機 だ けで は支配 の安定 は望 めないか らである。 正 当性 の概念 は,次 の よ うない くつかの要素 によ って規定で きる。 正 当性 は第- に統治者 と被統治者 の間の多分 に心理 的調和, または一体感 にかかわ っている 一種 の信念で ある。 第二 に調和の程度 は具体的な法律 や社会経済制度,統 治者 の行為 や業績, 選 ばれ る政策 や

段 の種類 などを媒介 に して,被 治者の期待 の充足度や信 頼感の程度 に表 われ る。従 って も し宣伝 ・説得 が 十分 に うまければ正 当性 の根拠 が非合理的で あ って も調 和を もた らす ことがで きる。 第三 に正当性 の窮極 の承認 はあ くまで被治者 の側 にあ る。第四に正 当性 の 問題 は政治的安定 と密接 に関連 してい る。制度や イデオ ロギ ー,将来 のヴ ィジ ョン,期待値 と 現 実 との差 な どをめ ぐって諸価値 の総合的均衡が崩 れ,諸価値の大 きな対立が生 まれ る と, そ れまでの正 当性原理 は有効性 を失 い,代わ って新 たな正 当性原理が求 め られ る場合 が ある。第 五 に同 じ正 当性原理 の枠 内で はその根拠 は 目的合理的な限 り可変的であるO政治体系 が変化 に 1)lF.当性と正統性の二通りの書き方があるが本稿では基本的にTT:_当性を用い,君主.制や世襲制の系統の正 しさといった文脈では正統性を用いる。 2)資料は間接資料であり,資料の読みかえ,つきあわせに頼った。 3)マックス ・ウェーバ-,渚島訳,1974.『権力と支配政治社会学入門』有斐閣. 231

(3)

東南 アジア研究 14巻2号 政治的安定-制度的正当性

統治の

座に

ある個 人 お よび集団の正当性

▲▼

政治的正当性-伝統的正当性+合法的正当性+カ リスマ的正当性 図1 政裾 内正当性 と政治的安定の関連 (I).A・ロス トウの修正.)* * ロス トウの図では日は 卜で表わされ, r統治の塵に#)る偶人 の

当性」となっているtl 対 して硬 直 しないた め,根拠 は刷 新 され代 替 され創造 され るo Lか しこれ は正 当性 原理 の変化 とは区別され るo

M.

ウ ェーバ の三 つ の類型一 合 法 的, 伝統 的, カ リスマ的 正 当性- は正 当性 を性 質 に よ って 分 けた もので あ るが, い うまで もな くこれ は正 当性 の理念 型 で あ って,現 実 の個 々の支配 形態 で は三つ の性 質 が絡 み合 い複合 化 して い る と考 えて よいO したが って, あ る支配 形 態 の正 当性 は複合 の仕 方 や ,類型 の比 重 の大小 に よ って こそ特徴づ け られ る といえ る。 ウェーバ ー の類型 は静 止 モデル で あ るが, 動 的分析 のた め には政治 的 正 当性 と政 治的安定 と の 関連 を考 慮 しな ければ な らない。大 き く分 けて制 度 または体制 と,集 団 また は個 人 の政治指 導 の二 つ に関 して正 当性 が認 め られ るな ら, 政 治 的安定 が生 まれ る。例 えば,体制 に正 当性 が 認 め られて も,指導 者 の重 な る交替 とい う不 安 定 は適切 な指導者 が得 られ ない場合 で あ り,王 制 か ら共和制 へ,文民統 治か ら軍 事 政権 へ とい った変化 は体 制 に関す る正 当性 の変 化 で あ る。 この よ うに ウェーバ ー の類型 と政 治 的安定 の関係 を図式 化 したのが

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ロス トウ

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で あ る4)が, それ を さ らに修 正 した のが図

1

で あ るO制度 的正 当性 は政体 ・行政 ・ 法制度 の ほか経済制度 な どに,個 人 また は集 用 の正 当性 は政 治指導 の資質 や ス タイル, 政策 形 成 ・実施 能 力 な どに関係 して い る。 この よ うに正 当性 の対 象 を分化す る ことに よ って, ウェーバ ーの類型 は よ り有 意 に適用す る ことがで き よ う。 次 に

S.

M.

リブセ ッ ト

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は社会 体 系 の安定 を政治制度 の 「正統性」 と有 効性 の二変 数 マ トリックスで説 明 して い る(図2)05) 彼 は正 当性 を価値 の評価 に と らえ, あ る 「政 治体制 の価値 とそ こにい る集団 の調 和方法 」 に よ って正 当か非正 当かが決 ま る とい う。 こ の場合 , リブセ ッ トは正 当性 を政治体制 の理念 とい う 狭 義 に と らえ, 別 に有効性 , す なわ ち 「政 治体 制 の実績達成 度,住 民 ・主 要 内部集 団 の期待 を充足 す る能 力」 をたてて い る。 有効性

4)LeonardBinder,etaZ.1971. Cri∫e∫andSeguence∫inPoliticalDevcZopmcnt.Princeton:PrincetonU.P.,

p・149.

(4)

吉川 :フィリピンの政治的正当性のI-一考察 在 勤 性

」ー

* 正 続 佃

-1

+ A アメ リカ,スイス,スウェー デ ン,イギ リス,1930年代 フ ランス C 1920年代後期 ドイツ

共和国,

オ-ス トリア共和国,スペ

ン.Jt

謙1

Ⅰ) 1930年代 ドイツ,1930年オ-ス トリア,1930年代スペイン,覗 代ハ ンガ リー,現代東 ドイツ 図2 リブセ ッ トの社会の安定のマ トリックス 政治的デモクラシー:A>13>C>D *訳本に従い正統性 とした。なお分類の国名は, リブセ ットの本文中の説明 に従 って筆者が記入 したものである。 出典 :

S

・リブセ ット, 内山訳, 1972.「政治の中の人間」, 東京 :創元社, p.78・ の代 表 例 は経 済発 展 で あ る。 この有 効 性 は ロス トウの図 で は統 治者 の正 当性 には い ろ う。 しか し リブセ ッ トのマ トリックス は正 当性 お よび有 効 性 の有 無 だ け を問題 に して いて, 実 際 の政 治 体 制 の理 念 に よ る分 顛 で は な い。 そ d)た め何 を尺 度 に して調 和 の有 無 を決 め るか とい う点 で若 干 の問題 が あ るが,6)有効 性 の概 念 は分 析 の道 具 と して極 めて有 用 に思 わ れ る。 近 代 化 の よ り進 ん だ社 会 で は有 効 性 の蓄積 それ 自体 が正 当性 の根拠 に な る こ とが あ る。 この 方 法 は漸 進 的 で長 期 間 を要 す るた め, この間民族 統 合 の象徴 が必 要 で あ ろ う。例 え ば君 主 や 新 大 陸 の理 念7)で あ る。 しか し, 正統 な伝 統 的権 威 が な く,新 しい変革集 団 や個 人 の理 念 につ い て権 威 が確 立 され な い うちは政 治 的不 安 定 に悩 ま され る ことにな る。8) 以 上, ウ ェーバ ー, ロス トウ, リブ セ ッ トの正 当性 の概 念 を検討 した。 次 に これ らの理 論 的 枠 組 に従 って , 1972年9月21日以 前 の フ ィ リピ ン政 治 の 正 当性原 理 の あ り方 を 明 らか に した

い。

ロ フ ィ リ ピン政 治 の正 当性 原 理 (1) 合 法性 の 借 潰 性 フ ィ リピン政 治 体 系 は, 立 憲共 和 制 国 と して まが りな りに も政 治 的民 主 制 の一 般 的 要件 を溝 6)例えばタイについて,有効性は低いが立憲君主制,独立国を理由に

1

E

統性が高いので安定」 と判定 し ているのは単純すぎるし,1930年代の西欧共和国諸国について正統性の高さと民主,自由の維持とを相 関関係でとらえているのは,ほとんど同義反復に等 し

。S・リブセッ ト,ユ972,p・78・ 7)アレックス ・トクヴィル,1972.『アメ リカの民主政治』(上巻)講談社,第二章.pp.59-89. 8)ラテン ・アメ リカ諸国はスペイン,ポル トガルか ら受け継いだ経済社会構造とアメ リカの指導が合わず, 正当性の シンボル も雰囲気 も発展させなかったという。S.リブセ ット,1972,7-・79・ 233

(5)

東 南 アジア研究 」4巻 2号 た して きた。1907年以 来全 国直接 選 挙制 は存続 し,戦後 は4年 ごとの総 選 挙,2年 ご との中間 選 挙で, 国民 が直接 国政 の指導 者 を選 んで きた。 1935年 憲法 は憲政議会 で賛 成 177反対1で

決 され た後, 国民投 票で批 准 され た。以 後 の憲法修 正 は議会 と国民投 票 の手順 を必 ず踏 んで き た 。 フ ィ リピン国民 は

2

0

世紀 初 めか ら政 治 に参 加 して きたの で あ る0 独立後二 大 政党制 が確立 され, 政策 ・イデ オ ロギー上 の相違 はないが,政権 担 当者 は国民党

(Nacionalista)か 自由党 (Liberal)の いず れかか ら遠 山 され た。9J二期連続 の再 選 を な し遂 げた 大統 能 は M .ケ ソ ン(M anuelQuezon)とF.マル コス(Ferdinand M arcos)を除 いて はいな い(表 1参 照 )。戦後 の フ ィ リピン議会 は,連邦 共 和 国時代 (1935-46)に比 べ ,次第 に議 員が 多 様化 した し,特 に E.キ リノ(Elpidio Quirino)大統領以 後 , 議会 の力 は強 ま り, 大統 領 の提 出 した 国家 目標 にかかわ る重要 法 案 で さえ,議 会 で 阻止 され るほ どで あ った。 ことに上 院議 員 は大統 領 と同様全 国区選 出で あ るた め,各 々大 きな勢 力で あ った。 地 方選挙 も通常,激戦 の競 争状態 で行 なわれ る。10)第一 位 の得 票率 は51- 55% の 内に とどま り,圧 倒的支持 や再 選 の繰 り返 しは例外 的で あ る。 全 国 の村 落 自治会 の選挙 さえ,村 落 憲章 に 従 いおおむ ね順調 に行 なわれ村 落民 に義務 と責 任 を果 たす十 分 の用 意 が あ る といわれ る。11)逮 表1 政 党 別 フ ィ リ ピ ン大 統 鶴 選 挙 年 度 1935.9 1941.ll (1943.9) (1944.8) 1946.4 1949.ll 1953.ll 1957.ll 1961.ll 1965.ll 1969.ll 大 紋

マヌエル ケソン マヌエル ケソン ホ セ ラ ウ レル セルヒオ オスメニア マヌエノレ ロノ\ス エルビディオ キ リノ ラー モ ン マ グサ イサ イ カルロス ガルシア

N・P・-NacionalistaParty L P.-LiberalParty l F l l l 連 邦 共 和 国 r N.P. [ 〟 N.P. ; 共 掴 連 任 は 刺会 読 氏 選 t出 iiii)EiiiZI 国 別. ノ JL上7 和 任 ぐ 七 、 の 継 」 / ン き 邦 ソ 引 固 和 〃 I .' 」」ノ 〃 夕 ディオスダ ド マカバガル 〟 フェルデ ィナンド マルコス 〃 フェルディナンド マルコス 〃 ㍗ p P P p P P L L N N L N N P p P N N L ・「しリノ 元 LP. 9)自由党は,1946年 M・ロ-スが,S.オスメエアの立候補に対抗 して国民党か ら分派 して結成 したもの。

10)CarlH.Land6,1973・ SouthernTagalog Voting,1946-63,・PoliticalBeham'orinaPhi/紗 ineRegz'on.

CenterforSoutheastAsianStudies,specialreportno.7,NorthernIllinoisU.P.

ll)JoseP.Abletez,"TheE1cctionofBarrioCaptain,"inFoundation andDy71amic∫I?FFiZljbz'noGover7t -〝tCnZa7ZdP o/it7-(∫editeL11JyJoLleAl)ucvaandRauldcGuzm Ln.1969.Mと1nila:liooknュart,I)p.142145.

(6)

吉川 :フ ィリピンの政治 的正 当性 の -一考察 挙 に代表 され る合法的支配 はた とえ不 完全 で あ って も,一種 の政治的伝統 と化 し, フ ィ リピン 人 の政治生活 の大 きな部分 を しめて きた。 行政制度 につ いては色 々問題 がないわ けで はなか ったO例 えば, 1946年17,T.栄 ,毎年議会 に は 大統領制 を準議 院 内閣制 -改正 しよ うとす る動 きが あ った。12)こうした試 みの大半 は大統領権 の弱体化 をね らうもので, 大統髄 の人身保護令停止 の権 限 の制 限や大統領任 期 を4年 か ら 6年 に変 え る ことが主 な焦点 で あ った()そ して 患法改 正要求 は民主的手続 きを経て,1967年 に改憲 議 会召集 が正式 に決 ま り, 1971年 6月1日か ら改 憲議会 が開催 された。13) 次 に基本 的人権 の 一つ と して フ ィ リピンは世界 に誇 り得 る言 論 ・結社 ・思想 の 自由を享受 し て きた。 ことに植民地時代 の統制 か ら解放 された報道 ・言論界 は活発 に時 の政権 を批 判 し,腐 敗 ,展 九 職権 濫用 につ いて も書 きたてた。14)しか し,政治経 済 的に系列化 した新聞界15)の一 郎 には無責任 な報遺 や攻撃 に終始す る傾 向がみ られ, これ に対 しジ ャーナ リス トの内か ら自主 規 制 の方 向が/i まれた。16)またマス ・メデ ィアの充実 は大 マニ ラ地域 に集 中 してお り地方 で は ラジオを除 けば ほ とん ど皆無=こ等 しい17) こと も指摘 されねば な らない。 このよ うな種 々の欠 点 が あ りなが らも共産党活 動 を除 いて,18)言論統制 や結社集会 の禁止 はな く,総 じて 自由主義 が受 け容れ られて きた。 文民統治 は政 治的民主性 の一 つの強 いバ ロメー ターで ある。 フ ィ リピンの軍部 と政府 との関 係 は 「民主 的かつ競争軋 」で あ り,軍部 の政治的役 割 は主権 の表徴 に とどま って いる。19)軍部 の起源 が植民地 時代 で あ った こと,米 国か らの独立運動 の主導権 は軍人 になか った とい う歴史 的要因,傑 出 した文民指導者 の存在 と補充な どか らフ ィ リピン軍部 の非政治的存在 が理解 で き るO 司法府 が健全 に立法 ・行 政府 か ら独立 して いた こともフ ィ リピン民主制 の程 度 を示 す重要 な 12)1956年5月J・ラウレル,C・レク ト,E・ロ ドリゲスら国民党議員は準内閣制-の改正案を議会に出した が,結局R・マグサイサイ大統寵の工作で,上院で3/4の票を確保できなかった。JoseV.Abueva,1971.

Ramo71Mag∫ay∫ay:A politicalBiograP々γ・Manila:SolidaridadPublishingHouse,p.408.

13)1967年3月17日,上下両院合同会議は両院で3/4の票を得て,1971年6月の改憲議会開催を決議,1969

年6月17日,代議員数を人口比例制による320人に修正,1970年11月代議員選挙施行。

14)MaximoSoliven,1971・ "Philippines:AnOverview,"inTrendl'nthePhl'/妙 inc∫editedbyLim Yoon Lin. Singapore:InstituteofSoutheastAsianStudies,pp.983-90.

15)ManilaTimes(社主JaquineRocess),DailyMirror,Taliboの三紙のみがジャーナ リス トの発刊。Manila Chronicleはロペス財閥系,PhilippineIIeraldはソリアノ財閥系,ManilaEveningNewsはエ リサルデ 財閥系,DailyExpressはロムアルデス家系でこれは戒厳令の数カ月前に発行され始めたもの。

16)1964年5月,政府のマスメディア管理への動きにPhilippinePressInstitute(フィリピン新聞研究所, フィリピン国立大学)が反対運動を行ない,1965年7月,PhilippinePressCouncil(フィリピン新聞審 議会)を設置,倫理基準を設けて自主規制に踏みきった。

JohnJ・Carroll,1970・ Phi/妙 incZn∫tizuzion∫・Manila:SolidaridadPulJlishingHouse,pp.11ト112. 17)JohnJ.Carroll,1970,p・107・

18)フィリピン共産党は1932年,1948年,1957年の三度にわたって非合法化されている。

19)モ- リス ・ジャノヴィッツ,張明雄訳,1969.『新興国の軍部』世界思想社 p.35,表Ⅰ参照。

(7)

東南 ア ジア研 究 14巻2号 証拠 で あ る。 あ る観察 に よる と1963年頃 の フ ィ リピン政治 体 系 は1896年 に比べ,権 力 の正 当性 が大部分 の人 々に格 段 に広範 に受 け入 れ られ, 政 治秩序 維持 のた めの基 本 的制度 が 内在化 して い る とい う。 即 ち憲法 過程 とその守 り手 の最高 裁判 所 は正 当 に機能 して い る とい う020) 以 上 の よ うに フ ィ リピンは大 きな枠 組 での 政 治 的民主制 を 維持 して きた。 民主制度 の 導 入 や, ア メ リカ的民主理 念 の発 育 は植 民地 国 フ ィ リピンの歴 史 に負 うと ころが大 きい。 その他 に もバ ランガ イの共 同体 的民主制 の影 響21)や相互交渉 の民主 的慣 行 の影 響22)もあげ られ る。 し か し見逃 して な らない の はフ ィ リピ ン人 の民主 制理念 - の発芽 はす で にスペ イ ンか らの独立運 動期 に根 ざ した こと,23)そ こ- ア メ リカ統 治が法治主義, 自由民主 制度, 政党政 治 を もち込 み, フ ィ リピン人 は ほ とん ど選択 の余地 な く受 け容 れ ねばな らな か った ことで あ る。 独立後 も主要集団 や政治 エ リー ト,大衆 のか な りの部 分 が 前述 した よ うな一般 的民主制度 の 充足 を根拠 に, フ ィ リピン政治体 系 は民主体 系 で あ る と信 じ,合 法性 と民主主 義 に慣 れ親 しん で きたo この事 は1956年 に フ ィ リピ ン農 民100人 を対象 に した調査結果24)に も表 われて い るO 表2 フィリピン人の考える良い統治の判定基準 憲法上の基準 26% 政府過程が民主的か,規則的,自由で正直な選挙があるか 15% 人権が守 られているか その他の憲法上の基準 行政的基準 役人は有能 ・正直かどうか 行政が能率的かどうか 治安 の維持 政策が法に合っているかどうか 政策の実質内容による基準 政府が庶民の福祉に関心を もつかどうか 17

%

23% 8% 3% 8% 3% 3% 3% 13% 政府が福祉以外に実質性のある目標をもっかどうか 10% その他の基準 人々が幸福かどうか その他 わからない 5%

20)JohnJ.Carroll,1968・ChangingPatternq/SocialStructurein zjicPhz●/如 t,Le∫.Quezon‥Ateneode ManilaU.P.,p.184・

21)DapengLjang,1971. Ph

'

h

ipineParzie∫andPolitic∫‥AHi∫toricalSludie∫of Natio72aZExpm 'e7ZCe z'nDemocracy.SamFrancisco:GladstoncCop.

22)JeanGrossholtz,1964・PoZitic∫in thePhi/妙ine∫・ LittleBrownandCompany.

23)マロロス憲法 (1899)以前にもい くつかの暫定憲法が試み られていた。マロロス憲法の精神は基本的に

1935年憲法と同じである0

(8)

rt川 (:ソ ィリLoンの政 治 的IE当性 の 一 考察 良 い統治制度 の判定基準 を聞かれた時,意法上 の基準 と答 えた者が

2

6

%

,政策 の実質 内容が

2

3

港 ,行政上 の基準が

1

7

% で (表

2

),患法基準が上 まわ ってお り評価水準の高さを示 している。 同報告 はさ らに r最 も良 く統治 されて いる国」 と して農民があ げ た の は, 節-.位 ア メ リカ

(

7

5

%)

,第二位 フ ィ リピン

(

2

6

%)

,以下,英 国

(

1

5

% ), スイス

し2

% ),豪州 (

1%)

, 中 華民国(

1%)

,無 回答

(

1

7

%)で ある と している。教育や知識 の水準 ・調査方法上の問題を考 慮 して も,彼 らが主観的 に 自国の統治 を高 く位置づ けていた ことは明 らかであるO さ らに 「一 般的にみて フ ィリピンの よ うな新興国で民主制が現在 および将 来に わ た って 機能す る と思 う か」 とい う質問 に,

6

%

が 「そ う思 う

と答え, 「そ う思 わない

9

%, 「どち らと も言えな い」が

5%

,

「わか らない」が

2

5

%

とな っている。 この撒査は農民が対象であるが, 都 市部の エ リー トや知識層 の多 くも通常,共和制の諸価値を重ん じ, フ ィ リピン政治の相対的民主性の 高 さを認 めてい るo Lか し, 同時 に この調査25)は失業 問題, イ ンフレと物価問題, 社会開発 な どの経済問題が フィ リピンに とって第- の緊急課題だ と考え られていた点 も明 らか に してい る。 このよ うに, ち ょうど独立後

1

0

年 目を経て農民が比較的 iM:_観的にフ ィ リピンの政治的民主 性 を信 じなが ら_も経済加 古の上で不満 があ った ことがわか るO これは また

5

3

カ国を対 象に した

1

95

5

-6

1

年の政治的安定 と民衆 の満足度 の国際比較で も抽 斗

された,,フィ リピンは他 の 5カ国 と共 に 「不満だが安定 した

」 に分類 されてお り,他 の

5

カ国が

1

9

6

0

年代 に軍 事政権 にな った り社会主義国であ った りす る ことを考 えるとフィ リピンも何 らかの岐路 に五つであろ うことが 想定 で きる。2¢) 民土 性や合法性 に対す る比較的商い志 向 と目標水準 と,現実 の履行 の毘 度 との差が明 らかに な るにつれ フ ィリピン人は

にア ンヴ ィバ レン トな気侍 を抱 き, 次第 に合

法性

の信悪性 は低 ド して きたO ことに治安の維持,合法性 の尊重の面でかな りの限界がみ られ る。 政治的腐 敗 は警 察の腐敗 につ なが り,選挙 時 には員収,違 反,暴 力が横行 し

,1

9

6

7

年 4月 の国家警察調査委員 会 の発表では全 国の警察官 の

7

0

%以 上が腐敗 し,無能 だ とい う。 こう した遵法精神の欠如 は政 府高官,地方政治家や小役人,財界 のみな らず一般人 に も広 ま っている.27)どの大統髄 も治安 回復 ・汚職撲 滅 を公約 したが, な し遂 げた者 はいない。武装反政府集団 も中部ル ソ ンをL巨L、に した フク団 と

1

9

6

8

年以 降の 新人民軍, 新 たに本格 化 した 南部回教徒 の反乱 など根 強 く存在す る。社会経済改 革の伴わない軍 事鎮圧 だ けでは頁の解決 とはな らず, これ らの反乱集団 を体制 内へ ひ き入れ るまでには至 って いない。 政策決定過程 に効果的 に しか も規則的 に 参加で きる 利益集団 や 階層 はきわめて 限 られてき

2

5

)

CarlH.Lande

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他の5カ国はギ リシャ, エJレ・サルバ ド-ル,パナマ,エクワドル,ユ-ゴ。MaximoSoliven

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治安当局の犯罪統計によれば財産犯罪が巌も多 く,例えば

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件となって いる。

(9)

東南アジ ア研 究 1,1迭 2E3 た 。 多 くは土地 地 主 , 輸 出農 産物 業 者 , 財 閥 の 利 益 で あ って , 農 民 ,労 働組 合 の それ で はな い 。 思 想 的 に もそ れ が 代 表 す る利 益 の種 軸 につ いて も単一 性 を 免 れ な いO こ う した一 元性 は 第 --・に 政 治 的 価 値 の選 択 に あ らわ れ て い る。 フ ィ リピ ン国民 が イデ オ ロギ ー の異 な る体 制 , 政 党 , 政 治 指導 者 の 中 か ら選 択 す る ことは極 めて稀 で あ る。 ま た保 守 二 大 政 党 の組 織 の確 立 が, 第 三 政 党 の フ ィ リピ ン労 働 党 , フ ィ リピ ン進歩 党 な どの持 続 的 な発 展 を阻 ん で きた。28)二 大 政 党 の間 に は イデ オ ロギ ー や政 策 上の相 違 は な い の で い わ ば派 閥集 団 に近 い。29)フ ィ リピ ン人 の選 挙 -の深 い 関心 の大 平 は- 塵 の伝 統 行 事, また は勝 敗 を 争 うゲ ー ム に対 して で あ り, 政策 を 争 う も の では なか った. 第 二に 政 治 指 導 に 重 要 なパ ー ソナ リテ ィ要 素 も

I

Lト ー・タ イプを 選 ぶ傾 向 が あ る。 複 数 の候 補 者 とい って もいず れ も同 じ社 会 経 済 階 層 に属 し, 選 挙 民 も互 い に きわ めて 同質 的階 層 に属 す 。 大 統 髄 や上 下 両 院 議 員 の 社 会 的 背 景 は 表 3お よび 表4か らわ か る よ うに専 門 衣 , 特 に法 律 家 出身 が 多 く,地 方 政 治 家 を登 龍 門 に 国政 指 導 者 に達 し, 出身 大 学 も限 られ て い 大 統 領 マヌエル ケソン セル ヒオ オスメニア ホセ ラウ レル マヌエノレ ロノヽス エル ビデ ィオ キ リノ ラーモン マグサイサイ カルロス ガル シア 表3 歴 代 人 統 領 の 経 聴

U.P.-Universlty ofthePhilippines.

U.S.T. U.S.T. U.P.YとIleU. U.P. LJ.P. U.I). Jo占eRizfll(中退) 弁 護 t: 弁 護 士-弁 護 上 (法 科 宰) 升 護

J

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A

実 業 家 知事,国民議会議員および議長 知事,国民議会議員 知■払 下院議艮 卜院議員,上二院議邑 軍属知事, ド院議

LT.Ⅰ'・ 弁護上,入学教授 知事, 卜協 議員

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議員 デ ィオスダ ド マカバガ ル U・S.T. 弁護上(経潰学) 下院議員 フェルデ ィナン ド マル コス U・P・ 弁 護 十 卜院議員,上に,1t.法艮 1 6 3 4 8 9 2 表 層 32 42 24 EiiZ 呑 悌 台 台 他 年 才

の 40 訓 そ 1963年の上院 (24名)下院(104名)議 員の経歴 出 身 大 学 職 業 (%) (%) LJ・Ⅰ'・ 39.06 弁 護 士 71.87 U・S・T・ 22.65 入 学 教 授 22.65 そ の 他 38.29 実 業 家 2ユ.09

出典 :RcmigioAgpalo

,

HThePoliticalEliteandP()st-TraditionalSociety-theCaseofthePhilippines

,

"

inEliteandDevelopment・ Friedrieh-Et,erトStiftung,(workshopseriesreportI-016),1).55.

28)1935年以前は多党制であったが,1914年, デモ クラーク-ナショナル党, 1917-31 年の連合デモクラ-タ党 (Federalista-Progresista-I)cm()crata)やサクダ リスタ (Sakdalista)党なども結局は吸収または消滅

して しまった。

29)自由党員,国民党員 は個人間の権力闘争や公認候補の指名の獲得のため,個人または集団で反対党に移 籍するのか常習 とな っている。

(10)

吉川:フ ィリピンの政 治 的 Lf:.当性 の 一 考察 る。30)このよ うに経済社会 的未分化 に起 園す る政 治的 甲--一性 が 二大政党 独 占に よる保 守政権 の J安定 を支 えて きた。3】) ところで, フ ィ リピン人が底面す る価値 の対 立 とは社会的価値で あ るO フ ィ リピン社会 の上 部構造 をおお う再欧 文化 の諸価値 と,下 部構造 に根 ず く上着 の諸価値 の対立 こそが合 法性 の信 頼度 を脅 やかす もので あ るO例 えば第 一次集団- の忠誠心,個 人的で伝統 的倫 理 に基 づいた社 会 行動 の優 先が公 の私有 化 ・脱税 ・収 賄 とい った遵 法が 「悪 い」 ことで あ る とい う観 念を欠 如 させ る(〕そ こで, `.っ の価値 基準体系 の下で,二重ルール に従 い

,r

合 法的民 Tr'.ゲーム」 をす る とい う儀式 lL (建 前化) が広 く行 なわれ るJ これ はいわば法 に 基づ く普遍性 と伝統 に基 づ く特 殊性 の間を うま く埋 めるための心理 的補償作用 で あ り,同時 に社会 的 コス トの安 い和解方法 で あ るO ここで は合法性 ルールを

ドす るので はな く, 「---Aつ以 上 の基 準体系」32)にの っとって 行 動す るので ある。 以 上みて きた よ うに政治 的民 主性 の理念 や合法的手続 きに対 す る正 当性 は高か った に もかか わ らず,履行 の現状 は理想 にほ ど遠 い 面が あ った(,この矛盾 か らフ ィ リピン国民 の不信 と綴 り が生 じて くる。 こう して権 力分立 の制度 が特権階 級 の利益擁護 の道 具 にす ぎない とす るマキ ャ ベ リア ン的考 えが広 く受 け入 れ られ, ウェーバ ーの合 議制 自体 は必ず しも民 主制特有 の現象 で はな く,特権階級 が特権 な き階級 か ら保身 をはか るための特権 者 の閲の 「平等 」 にす ぎない と い う説33)を裏付 ける ことにな った。す なわ ち,制度上 は特権 議会 で な くと も,実際 に社会 的動 負,経 済構 造 の民]:北 がお きて いない段階 で議会 制民主主義を導入 すれば実質的 に特権 議会 と か わ らぬ状 態 を生 じるので ある。34)こ う して統治 の座 にあ る集団 と伝統的支 配 の残 樺 に強い批 判 と不信 が投 げか け られた。 (2) 伝 統的支配の発達 と分散 スペイ ン統 治以 前の フ ィ リピンには全 国的規 模 の政治的権威 は存在 しなか った。バ ランガ イ 制 35)は一 種 の統 治形 態 を 傭 えた部族共 同体 で, 各バ ランガ イの複数 の 首 長 はスペ イ ン人 の記

30)RemigioE.Agpalo,1975・ "ThePoliticalEliteandPostTraditionalSo(・iety1--the(.as°ofthePhili p-pines

,

"

inEliteand DcvelopmeJZZ・Ba叩 kok:Friedrich-Ebcrt-Stiftung Foundation(Workshop Series Report6),pp・4870・

31)伝統的な反共思想が異なるイデオロギーの拒否に影響 している.共産党の非 合法化,フク団の武力蜂起 は 「共産主義の脅威」の側面のみで人 々にとらえられ勝ちであった。

32)RichardIJ・Stone,1973・ TAGPoZilic∫ofPubZicandPrivateProperty in GrcaterノLZa7lila・ Centerfor SoutheastAsianStudies,Northern IllinoisU.P.(SpecialReportNo.6),p.1.

33)M.ウェーバー,渡島訳.1974・p・88・

34)同様にマレーシアにおける官僚の政治不イ詔盛を報告 したものにJamesS(・ott,1968・ PoliticalJdeo7,,gy inMa/ay∫ia:Red/iz)′a〝dz/lCBe/

i

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sI,/anEh'zc・ New Haven:YaleU・P.がある(〕

35)マライ人はフィリピン諸島- binidayという舟にのって渡来 したが,これが移住部族集団の居住地城を さすようになり,スペイン人渡来の頃に balangay,スペイン時代にbarangayに変わったというo

FJufronioM.Alip,1975. TheBarangaythroughtheAge∫・Manila:Alip 良 SonsPub・In(一・,p・8・ 239

(11)

衆繭J'i/ア研 究 1,ま容 2号 録 で は 「王」36)と記 され て い る が, それ は 絶 対権 力 を もた ない 大部族 の 首長 にす ぎなか っ た037)部族 間の 関係 は tiL、に対等 で あ るが,パ ナ イ島や中 部ル ソ ン島で は畠単位 でバ ラ ンガ イ の準 連合体 (Confederation)もみ られた とい う038)首 長 は 世襲 制 によ りその地 位 につ いたが 実 力 も考 慮 され,主 な機能 は首 長 に集 中 して いた。 この よ うにバ ラ ンガ イ制 の支 配 関係 は長老制 また は家 父長制 の段階 に あた る。39)スペ イ ンの征服 が なか った な ら,少 な くと も島 単位 の統一 が進 み,家 産 的統 治形態 が 出現 して いたで あ ろ うと想 定で きる。 スペ イ ン統 治 の結果, フ ィ リピン人 に よる 民族 統一 は阻 まれ, か わ りに彼 らは 地 方 的権 威 を形成 したO バ ラ ンガ イ制 は, 統 治の 円滑 化 のた め行政 の 末 端組織 と して温存 され, 従 って フ ィ リピン人 の政治経済 的 な 有 力者 の 出現 を もた らした。40)即 ち, 彼 らは人頭税 の 納税役 人

(CabezasdeBarangay)や夫役 調達 の仕 事, 小 さな役 所 の良 の任 務 につ き, フ ィ リピン社会

の上層階 級 を形成 した。 彼 らは 階 級 の世 襲制, 役 所 のポ ス ト- の選挙 , スペ イ ン人 との婚姻 な どを 通 じて スペ イ ンの又化 ・慣 習 を受 け入 れ, 遂 に は地 方 にお ける 親 方制 度 (カ シキズム Caciquism)を確立 した。 このカ シキズ ムの伝 統 が地 方 の人 々が中央 の政治権 威 よ りも各地 方 の政治権威 に忠誠 心 を抱 くとい う権 威 の分 散に寄与 し, 今 もなお フ ィ リピンの正常 な民主制 の 確 立に大 きな弊 害 とな って い る といわ れ る。41) この よ うに, かつて の 仲間 の リーダ ー と して の 政治指導 者 は, 植 民 行政機構 の中 に地 位 を 渇, 同時 に寡頭 化 し リーダ ー の権 威 を失 った,, これ ら有 力 者 はスペ イ ン支配 とい う非 iE銃 に正 統 な民族 的伝統 的権威 と して対 決 したのではな くフ ィ リピ ン人 同胞 に対 す る経済 的支 配者 と し て権 威主義 的支配 の伝統 を深 めた 。彼 らの スペ イ ン化 は非 正統 的文 化 で あ るに もかか わ らず, 排 撃 され る こと もな くフ ィ リピン人 に受 け入 れ られ たので あ る。 この伝統 的文配 は,現 在 もな お地 方 の村 落 レベルで 強 く機能 して い る正 当性 の主 要 な もの で あ る。地 方 的権 威 は多 くの場合地 方 の政 治指導 者 で もあ る。,地 主 と小 作人, 雇主 と被雇用 者, 親戚 関係 な ど非政 治的 関係 の中-縦 横 に政治 的支配 が重 な って い るO独 立以 後,過 度 にllj央集

36)通 常 Datuと呼ばれるが,地方によって lakan,h;ldye,riljah,糾 tStllt。llとも呼ばれJた。Jl:.M.Alil). 1975,p.9・

37)JohnLeddyPhclan,1959・T/ielJispa7Zii-,afio71(1/i/lCP/lihj少,lL,・r:上声a〃i∫hAl◆m∫a7ZdFih少i710Hespon∫e∫, 1965-770(). University()fWlk(,OnsinPress,㍗.16. 38)F..M.Alip,1975,p・111 39)長老制の純粋型における支配は首良の伝統的私権三ではあるが実質的にす ぐれて同輩の権利なのであり, 同輩の利益のために行使されねはならず首長が勝手に専有するものではないという観念である。マック ス・ウェ-バー,1974.p.25. Ilo)1937年のホマン ・フランミスコ ・デ ・サンアン トニオ師父の手紙に l絶対権力を有する王」がいないの で

君主制治」ではない し,少数の者が州や村落の統治にあたっていたので民主政治ともよべず,r貴族

政治」というところで,r多くの有力者(Maginos,Datu)がいて 政治のことは全てこれ らの者だけによ って解決されていた」とある。 C・ベニテス・ 1945.「比律賓-史政治経済社会史的研究」 (下 巻)東亜

研究所,p・171.

(12)

吉川:フ ィリピンの政治 的正 当性の一考察 権 的 な統 治機構 が うま く機能 す るた め, 中 央 と地 方 との議会外 のバ イパ ス的つ なが りの役 割 を 果 た したの は これ らの地方 有 力者 で あ るo フ ィ リピンの 大統 領 制 は制 度上 は中 央集権 的で あ る が,実 際 の政 治 過程 にお ける地 力一的権 威 の動 向 は無 視 し難 い ものが あ る〔1 (3) カ リスマ的 支配 の限界 (1) ボニ フ ァシ ョとアギ ナル ド カ リスマ的 人物 とは

,

非 日常 的 な能 力や特性 を もった超 人問 的資質 の人格 に よ って絶 対的 に 価 値 づ け られ神格 化 され た 人物 だ とす れ ば,42)近 代 国家 といえ ど もカ リスマ性 の要素 の ま った くな い政 治指 導 はない。 人民投 票的民 冒別は,小 樽 の カ リスマ 支配 で あ る。民族 独 立 の指導 者 や指導集 団 は カ リスマ視 され,/少な くと もその後 の あ る期 間支 配 の

M

l

F_当性 を認 め られ る ことが 多 いo いか な る指導集 団 や偶 人が いか に して民族 独立-導 いたか ば, その後 の 正 当性 原理 に大 きな影響 を 与え る(,例 えば, イン ドネ シア独 立闘 争 にお け る民族 主義 者 と軍 部,特 に陸軍 は代 表 的な 例で あ ろ う。. フ ィ リピン′の 独 立.革 命 の 場 合, カ リスマ 的 指導者 と して まず ア ン ドレス ・ボニ フ ァシ ョ

(AndresBonifacio)とエ ミリオ ・アギ ナル ド(EmilioAguinaldo)が あげ られ るo Lか し両 者 と も安 定 した統 治の座

占め る ことは なか った,.,ホ七 ・リサ ール が 英雄 視 され

,

後 の マ スエル ・ケ ソンが 「建 国 の父

視 され るの に比 べ, この急進 的 カ リスマは 限 られた 役割 に 終 って い る。以 下, 両 名を中 心 に フ ィ リピンにお けるカ リス マ的支配 の限 界を考察 す る。

A.

ボニ 7 7・シ ョは, 米 酉対 立 の谷 間 にい る フ ィ リピン′の独 立を獲得 す るた め, 改革 主義者 の ホセ ・リサ ール (JoseRizal)ら43)と別 に結社 カ テ ィプ ナ ン(Katipunan)を 組織 した急 進 的

武 力革命 の中心 人物 で あ った。44)彼 は個 人的 カ リスマ的指導 力 を もってユ897年 8月 「バ リンク ワクの叫 び

で蜂 起 し, 革 命の象徴 , 姫雄 的存 在 とな ったし、初 期 の革 命 闘 争 の主導権 はボニ フ ァシ ョの手 にあ り,従 って カ テ ィプ ナ ン党 中心 の政権樹 117.と革 命精 神の継 続, そ して何 よ りも 革 命の遂行 を 主張 して アギ ナ ル ド一 派 と対立 した。 ボニ フ ァシ ョの蜂 起 に カヴ ィテ (CLLVitc)州 か ら自己の軍隊 を 率 いて 挙 兵 した アギ ナル ドは 軍 事 的勝利 で 名 を あげ る と急速 に 革命 矧 部 内の指導 的地 相 を占めた(,彼 は カテ ィプナ ン覚中心 42)マ ックス ・ウェ-バ-,1974,p・39・

43)J.リサ-ル (J・Riz・al),G・L・- エナ(GraCianoI・opezJacna),M・II・デルピラー(MarceloH,delPilar)

らはスペイン留学牲グル-プで雑誌 IJaSolidaridadを中心に漸進的平和的手段による独 在を唱えるプ ロパガンダ運動 (1880--1895)を展開 したC, 44)1894年頃か ら過激運動を展開 したoルロイによれば創立当初は改革運動を志向していたが,ボニファシ ョはフランス革命を理想とし,武力革命を意図 しはじめたという。J・リサールが彼 らに r革命は準備未 熟」で 「時期尚甲・」, r知識階級や富豪は革命を欲せず」という 内容の忠普文を送ったことは有名であ る

I

.C

.ベニテス,1945, P.219. 241

(13)

東南 アジア研究 14巻2号 で は な く新 しい基 盤 の政 府 機構 樹 立 を主 張 , ボ ニ フ ァ シ ョとの分 裂 は深 ま った。45)この対 立 は ボ ニ フ ァシ ョ らが 「法 律 家 で は な い」 労 働 者 階 級 出身 の 急 進 民 族 派 で あ り アギ ナル ドらが 知 識階 級 と職 業軍 人中 心 の穏 健 民 族 派 で あ る こ とに起 因 したO ボ ニ フ ァシ ョが アギ ナル ド一 派 の手 で死 刑 に処 せ られ た後 , リー ダ ー を失 った ボ ニ フ ァシ ョ 派 の 革命熱 は急速 に冷 却 した 。 ス ペ イ ンか らの 民族 独 立 の主 導 権 は穏 健 派 が握 り,正統 な位 置 を しめ た。 ボニ フ ァシ ョは今 札 過 激 政 治集 団 の守 護 神46)で は あ って も フ ィ リピ ン政 治 の 中で 主流 祝 され る こ とは少 な いo と ころが アギ ナル ドもま た対 米 独 立闘 争の 過程 で よ り漸 進 的

,合

法 主義者 集団に 主導 権 を譲 る ことに な るo 米

は アギ ナル ドの革 命政権 の権 威 を 無 視 し,47)マ ッキ ン レー 米 国 大統

価 (

W.M

L・kinley)は 「i酎 Jに よ って も 米 国 の 仁椎 を 惨 透 させ る よ う

在 比 米軍 首脳 に指 令 した 。 これ に対 し革 命 政 府 の中 には米 国 との和 平 を 主張 す る者 もい たが,48)アギ ナル ドは これ を

否 して 1899年 2月以 後 1901年3月 の逮 捕 まで 武 力闘 争 を行 った。 そ して アギ ナル ドはす で に結 成 され て い た親 米 保 守 的 な連 邦 党49)の 説得 に応 じ, 各地 で 戦 って い た 軍 隊 に 自 ら革 命 の終 結 と戦 闘 の停 止 , 和 平 , 米 国主権 の受 託 を 呼 びか け, 革 命 に終lL符 を打 った 。)アギ ナル ドとし て は, か つ て 米 国 政府 の よ うな

「自

由, 平等 , 博愛 の三 原 則」 に基 づ く共 和 国 を 望 ん で い た50) の で, 米 同 の圧 倒 的軍 事 力 と シ ュル マ ン委 員会 の フ ィ リピ ン自治 案 , 米 軍 政 の 諸 政 策 な どを 考 慮 して不 本 意 なが ら も妥 協せ ざ るを得 な か った もの とい え よ う。 アギ ナル ド以 後 の政 治 指導 集 団 は一 般 に合 法 的漸 進 的 独 立 を 支持 す る保 守 派 で あ った. 1907 年 10月 の フ ィ リピ ン議 会 開 設 を契 機 に フ ィ リピ ン政 界 は 議 会 制 民 主主 義 と 独 式摘障護 に動 き,51) 45)1897年 3月,ボニファショはアギナル ドの革命政府樹 \封こ同意 したが,閣僚の l二転ポス トはアギナル ド -一派が占め,ボニファショには内務長日が与え られた。,しか し,アギナル ド派か らボニファショは法律 に無知であるとの異議がでて決裂 し,別に恥命政権を樹 立した直後,アギナル ド派に捕え られ,軍事法 廷で死刑を罵哲 されアギナル ドの減刑の努力に もかかわ らず銑組に処せ られた。

46)フクバ ラ- ップ (Hukbalahap)の 1950年の ドレス ・リ--サルと 称 した 暴動 は 8月26日の iバ リンタ ワクの叫び_川 )Ⅲ こあわせて起 こされた。 また, 急進的学生組織の愛I鞘青年 (KatJataangMakal'ayan) は1960年結成賓言にボニファショをプロレタ リア革命の守護神 として言及 した,,

47)1898年 8月のパ リの米西交渉 は・tf,:命政権の存fl二を無視 し,米国の統治が決め られた。これに抵抗するた めアギナル ドは12月マ ロロス憲法究 砧 翌年 ]月/t用 日射 信 を して人統領に就任 したが, 米剛 まこの独

;1-.を認めず, 2

)

封こ議会でパ リ条約を批准 したO

48)武力闘争 と平行 して米側 と和平交渉が行なわれたo アギナル ドに代わったマ どこ (Al,01inarioMat,ini) 大統領やパテルノ (PedroA・Paterno)は交渉が行 き詰まったため1899年11月にゲ リラ戦に転換 したO 49)1900年12月,西欧系富裕層が中心に 125名の適用先を結成,党綱領は米国の フィリピンにおける主権を

認めた L,民主的自治制度を要求す るという内容であった。,i:.な党員は欧州で教育を受けたフィリピン 人やスペイン人,アメ リカ人であったC,1)apengLiang,19711)・52・

50)1896

年1

0月31日,カヴ fテ州にて 革命政府準備を発表 した中で述べた もの,J

51)運用先は親米的で人々に支持 されず,1907年には綱髄を自主独立-,名称を進歩党へと改めた。 トップ のナショナ リスタ党は旧連邦党に対抗するための連合政党である。選挙の結果,ナショナ リスタ覚32, 独 tJJ.党20,進歩党 (旧連 邦党)16,即時独立党 7,独立人民党 4,カ トリック党 1の計80人が当選 した

(14)

吉川 :フィリピンの政治的正当性の一一一考察 か つ て の革 命政 権 の メ ンバ - や軍 人の一 部 も議員 に選 出 され た052)マ ヌエル ・ケ ソ ン(Manuel Quezon)もその一 人 で あ る(, アギ ナル ドは政覚 政 治 が 始 ま って か らは政 治 指 導 の実権 を握 る こ とはな く,53)革 命 退 役 軍 人 を 率 いて独 立革 命 の シ ンボル の役 割 を果 た して きた。54)こ う して , ボニ フ ァシ ョや アギ ナル ド の今 日的役 割 は 主 と して 民 族 独 立革 命 の記 念物 に限 定 され て い る。 以 上 みて きた よ うに フ ィ リピ ン政 治 指導 の歴 史 は カ リスマ性 の限定 と急 進 派 か ら保 守 派 - の 交 替 で特徴 づ け られ る。 これ は カ リスマ的要素 の あ る指導 者 が 皆 無 で あ る ことを意 味 す るの で は な く,他 の -Lf.当性 原 理 が相 対的 に強 く作 用 す る こ とに よ って カ リスマ ・ ドミナ ン トの指導 者 の 出現 を制 約 して い る と考え られ るO これ に は合法 的 支配 の尊 毒 とい う伝 統 や現 実 主 義 の政 治 指 導 , さ らに 世硲 の 人格 を無 条件 に承 認 す る こ との ない宗 教 の 影響 な どが 制 約 要 因 と して 働 い て い る と考 え られ るO (2) カ トリックの教理 の 影響 カ リスマ 的 支配 に関連 して ふ れ な けれ ば な らな い の はカ トリックの教理 が カ リス マ的 正当性 の制 約 に及 ぼ した影 響 で あ るo もち ろん神学 的 国家 説55)と適 って 近 代 国家 論 が TF_当性 の根拠 に神 の摂 理 を 求 め るの は明 らか に 矛盾 で あ る。 しか しどの フ ィ リピン共 和 国憲 法

(

1

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9

年 ,

1

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,1

9

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2年 ) もその 前文 に 「神 の御 加護 を願 いつ つ」 とい う文 を含 んで い る。 その 由来 が 何 で あ るにせ よ前 文 は フ ィ リピ ン国民 の熱 望 と政 治 感覚 を表 わ した もので あ るか ら, 神 へ の信 仰 は, あ る程 度 政 治 の儀式 に と り入 れ られ, 実 際 に も機 能 して い る。 アギ ナル ドが大 統 領 就任 で宣誓 して以 来 , TF.別人統 蘭 お よび各 長官 の就任 宣誓 は最 高判 事 に 向か って行 な うに もか か わ らず, 宣誓 又 は神 - の信 仰 を表 わす こ とが で きる内容 で あ る。 憲政議会 ,連 邦 共 和 国,共 和 国 の 開始 はす べ て カ トリック 司祭 の神 - の 祈願 で 始 ま った。 す べ て の歴 代 大統 領 の就任 演 説 は必 ず 神 の御 加護 と祝 福 にふ れ, また公式 に神 に感 謝 を捧 げ る こと も詐 されて い る,,大統 値 に信 仰

の行 為 で行 きす ぎが あ った と して もそれ が攻 撃 の的 に な る ことは少 な い。56)

52)例えば PCdroAlejandroPaterno(アギナル ド政権の元首相)や FeliPelirencamin(,,Sr・(パテルノ内閣 の元外務大臣)C;lrlos(i)uirino,1971・Oue4-On‥ABiography.Manila:TheCommunityPul・.Ine.,

p.79・ 53)1926年,時の権力君M・ケソンはアギナル ドが最高国民審議会への参加を断わる と,アギナル ドを激 し く非難 したO また1935年の連邦共和国人統領選挙に啓蒙的出梅を したが, もう-・∴人のG.ァ//リッパイ 司教((i,reg。rieAglipy)と共にケソンに大敗 した。 得票は,ケソン 695,332票,アギナル ド179,349票, アグ リッパイ148,010票であったoC・Quirino,1971lP・280・ 54)例えば,1944年, E1本軍政末期 「愛国連 盟結成」にあた り,村1日駐比大使は 「もしアギナル ド将軍を顧 問に迎えれば挙国一致の大勢を樹-;/-.するものと思 うJ と述べているr,村日雀三遺稿,1969.「比島日記」 原書房.p・280・ 55)神学的国家説は文配を人間の権威に基礎づける原動 ま神意に反するものだとする.G・イエ リネク,1974. 「一般国家学」学陽書房IP・152・ 56)1956年,マグサイサイ大統蝕は聖心派- フィリピン共和国を聖授 しようとした。他宗派やジャーナ リス トか らは抗議が出たが,国家

員の多 くは,沈黙を守 った。)これは,信仰心の厚い剛 毛の票を気に した ためだといわれる。

LeoA.Cullum,S.

J

,.1957. "PresidentMagsaysay'S(、onse(、rationofthtlPhilippinestotheSとL(、red Ileart,"Phihj,pineStu,/Z】,J∫V・1(March,1957)・

(15)

東南アジア研究 14巻2号 こ う した信 仰 と政 治 の結合 は 大 部分 の フ ィ リピン人 の神 の 摂 理へ の 深 い信 頼57)に支 え られ て い るO 一 般人 のみ な らず, 知識 人 に もフ イ 1)ピン共和 国憲法 の正 当性 は神- の信 仰 とい う精 神基盤 に あ り, 教会 と国家 の分離 は神 と国家 の分離 を 意味 しない58)と信 じ られて い る,,つ ま り神の支配 は 「遠

」 で あ り, 「近 国」 は他 の正 当性原理 , 法 の支配 に あ る といえ る。59)カ ト リック信仰 は フ ィ リピ ン政治体 系 の環境 要 因 の中で最 も重要 な文化要 因 の一一つで あ り, フ ィ リ ピン政 治体 系 に影 響 を及 ぼ さず に はおか ない。従 って選挙 にまつ わ る教会 の動 きは注 目に値す る し,勝敗 に 重要で は あ るが60)しか し 決定要 因で はない。 全 体 と して は カ トリック教会 が宗 教 カ リスマを利用 して政治 カ リスマ に転化 した こ とは認 め られ ない。 反 共思想 と選挙 にお け る その都 度 の 政 治行動 を除 けば,信徒 の政治統 制 や政党結 成 へ の動 きは認 め られず, 政 治の実権 掌 握 の 主体 とはな って いな い。他 の回教 国家 や小 乗仏教 囲 ほ どには国教 化 されノて お らず,宗教 ナ シ ョナ リズ ムの発展 とは軌跡 を異 に して い るし, 信 仰 上 の カ リスマ的要素 に もかか わ らず政治 カ リスマ性 を制約 す る要 関 は, 主 と して カ トリ ックの教 理 の木質 に あ る と考 え られ るoす なわ ち, ロー マ ・カ トリックは俗 世界 の政権 ,体制 を にな う一 定 の集 団や 人物 さえ も神 の裁 可の下 にあ る と

え るか らで あ るrj興 味深 い ことに, あ る政治 史家 は

1

8

世紀 の米 国 につ いて民 主共 和制 の維持 され る 主因 は神 の摂理 が米 国 に 与えた 特殊 な地 相 にあ る61)と して い る 、 と りわけ, カ トリックの教理 が もつ 平等 観 念の働 きに 言及 して い る。ti2) 米 国 の歴史 や 自然環境,国家形成 過程 は フ ィ リピ ンのそれ らと全 く異 な って い るに もかかわ らず, フ ィ リピンの宗 教,政 治理 念,政治制度 が それぞ れ欧米 か ら移植 され た ことを考 え る と, 宗教 教理 と政 治理 念 は 本来同質 文化 の産物 で互 い に各 々の働 きを強化 し合 うことがで きる。実 際,節- --段 階 はキ リス ト教化 に よ る神 の 前の 平等 観 の導入 が行 われ, これ には 世硲 的平等 が伴 われ なか った。 キ リス ト教 化 はスペ イ ン統 治 の政策 日的 で あ る と同時 に

段 で あ った。第 二 の 段階 は宗 教 的土台 が しか れた所-米 国 の政治 ・社会 的諸価値 の布教が行 なわれ, 世俗 的平等 観 が導 入 され たo この時 フ ィ リピン人 が カ トリック教理 の平等 観 と現 実 の不平等 の 矛盾 に気 づい た後 だ けに,こ うした政 治理 念 と制 度 は比 較的 易 く受 け容 れ られ た。この よ うに カ トリック教理 が先行 した ことに よ って後発 の近代 的酉 欧価 値 に対 す る土着 の固有 の諸価値 か ら

o

)政治的携 わ't 57)I)apenIJiilng,1971.p.10.

58)SalvadoreAraneta,1969・ ‥Oul.Constit-utionilH leritagt・,I'inI,1,,u7ZdazioTl∫a77d功 ノna7m●√∫,P.52.

59)(i.イエ リネク,1974.p・153.

6O)。-マ教会以外 では フィリピン系 の イブレシア ・二 ・クリス ト(iglesia nikrist)や アグ リッパイ派

(Aglipaynism)などが政界との癒着を指摘される傾向がある。 ローマ教会は各宗派や各1」j教の自由意

思に任かせるので統制された活動はないOマグサイサイの大統領選挙の際の各宗派の動きについては,

Jose V.At,ueva,1971.p,263.榔注参 照 0

61)アレックス ・トクヴィル,1972.下巻,p.239. 62)アレックス ・卜'/ヴ (ル,1972. 卜巷,Pl).24()241.

(16)

吉川 :フ ィリピンの政治 的正 当性の一考察 を 減 ず るのに有 用 な働 きを な した とい え る。63) 以 上述 べ た ことか ら, フ ィ リピン政 治 の正 当性 原理 は基 本 的 に合 法性 で あ るが,伝 統 的支配 が それを浸蝕 す る もの といえ よ う。歴 史的 にみて カ リスマ的 TF_当性 は限定 され る傾 向 が あ り. カ トリック信 仰 が この限 定 に役 立 って い る。 そ こで, 次 に上述 の よ うな'ift-_当性 の併存 を統 治能 力 の

際 を通 して さ らに確 か め るた め,令 法性 と政 治操 作 の結合, 経済 的有効性 , 政 治指導 の資質 につ いて検 討 して みた いo ln 統 治 の 実 際 (1) 合法性 と政 治操作 1946年 の独 立前後数 年 は フ ィ リピン政 治の基礎 が形成 され る重要 な時で あ った。 この時期 の 憲法 改 lEを め ぐる三つ の事例 と対 日協 力者処 理 の問題 は, 合法性 と政 治操 作 の結合 の し方 を示 して い るr、と りあげた 4例 の うち第 1例 と第 2例 は連邦共和 国大統 領 M.ケ ソン(1935- 1944) の,第 3例 と第 4例 は初代 共和 国大統 領

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(1946- 1949)の政権 下 の 事柄 で あ る,,

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ケ ソ ンは フ ィ リピンの誇 る優 れ た民族主 義者 で, 現実主 義 的指導者 で あ った。政 治家 と して のケ ソ ンは人情 の機微 をつか み政 治 的策略 に才能 が あ り,合 法 と非合 法 の境界線 で行動 す る こ と も多か った。M)しか し, 同時 に支配 の根 拠 が 自 らの政 治指導 力 とパ - ソナ リテ ィー, な らび に 手続 きの有効性 にあ る こと も熟 知 して いたO 自己の 延命 の た めに顎 を弄す る こ とははば か らなか ったが,合 法性 の形式 を整 え る こと も怠 らなか った。 ケ ソン こそが, その後 の フ ィ リ ピ ン政界 の実利 主義 と政 治操 作 の伝統 の基 礎 を敷 いた といわれ る。 〔第 1例〕1939年任 期 の 4年 目にケ ソ ンは臨時議会 を召集 して J.ユ ー ロー

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議 長 らケ ソ ン派の議会 工作 を通 じて憲法 の産 め る大統 領再 選禁 止を 三選禁 ILに,任 期6年 を4年 に 修 正 したo(i5)この結果 ケ ソ ンは1941年 に再 選 を とげた. また 同 じ1939年 , 議会 に対 して 強力 な 大統領 の地位 66)を望 んだ ケ ソ ンは一 院制 か ら 二院制 -寛法 改 正に成功 , 国民投 票で 3/4の承

63)例えば自由農民連盟(Federati()nofFreeFarmers)のモンテマヨ-∼)レ会長 (J.M()ntemayor)は農地改革 の近代的意義を農民に説明 しても理解 されにくいがカ トリックの教義を

いると容易に伝達できると述 べている′, Jeremi aLq U.Montemayor, 1969,Phi/紗 ine SoE7-〃・Economz'C j'roblem∫.Manila: Rex lio()kstore. 64)クラロ ・レクト(Claro Re(、to)は ケソンの人格についての 「誠実で率蔭な人物Jという 「神話」の打破 を唱えたが,ケソンは合た‖内枠内で行動 しようとしたとも述べている(,C.Quirino.1971.p.394. 65)延命の表向き理由は独立問題 と日米関係悪化の時期に民族的指導者 としての責任と自負心か ら出たとさ れているが,内情は,ケソンが病気療養のため次期選挙にオスメニア副大統領をたて,その後に再びケ ソンがなるというタライ廻 しを考えていたところ,M.ロ-スの L立候補の決意が聞 くケソンの説得に応 じなかったため強引に任期改正にふみ切ったという。金ヶ江清太郎,1968.

出・\て来た道- ヒリッピ ン物語」国政社.pp・446-・447・ 66)ケソンの連合ナショナ リスク党は議会を完全に支配 していた。議会議長はケソンの任命であり政府提出 法案の95%が可決される一日-・)チ,1938年の通常会期に可決 した法案申,44法華 (全体の42%)が大統領の 折ffにあ・〕たLl:いう., 245

(17)

東南 ア ジア研究 14番 2弓一

認67)を得 た 。

〔第2例 〕 日米 間 の 戦 争 で , 1942年 5月以 来 米 国 亡 命 を余儀 な くされ た ケ ソ ンは三選 禁 止の憲 法 条 項 を免 が れ, 延命 を はか るた め,68)米 国側 に 憲法 改 正 を願 い 出 た。 しか し,他 の 亡命政権

閣僚 や米 国側 は三選 禁

L

L条 項 の改 正.は違 憲 で あ る との立 場 か ら強 く反 対 し,'i9)ケ ソ ンの市 訴 に もルー ズベ ル ト (Franklin Roosevelt)米 大 統 領 は非介 入 の 立 場 を と った 。1 そ こで S,オ ス メ ニ ア(SergioOsmeaa)副 大統 領 の奔 走 の結 果 , 米 同議 会 は フ ィ リピ ン連 邦共和 国 憲法 の 一時 的 機 能 停 止を決 め た緊 急 法 案 を可 決 し, ケ ソ ンの任 期 を延 長 した。70)オ スメニ ア は憲 法 規 定 と政 治 的 立場 の間 で 妥協 策71)に苦 慮 した が , 最 後 に はケ ソ ンの延 命の願 い を受 け入 れ た の で あ る「, 〔第3例 〕 1946年 4月 に独 立 国 フ ィ リピ ン初 の総 選 挙 で 当選 した「民 こ‡:_同 盟」の 6名 お よび 国民 党4名 の議 員72)は一 カ月 後 ,与党 自由党 の議 会 工作 に よ り議 席 を剥奪 され た 。追 放 の表 向 きの 理 由 は 「投 票 時 の不 正 とテ ロ行 為 」 と され た が, 実情 はベル 通 商 協 定 (tllelieHTradeAgr e-ement)のパ リテ ィ一条 境 と米 比 軍 基 地 協定 に反 対の彼 らを排除 す る こ とに よ って,パ リテ ィー 条 項 成 立 に必 要 な 憲法 修 正 の た め定 足 数 を確 保 す る こ とが 目的で あ った 。73)ロ- ス政 権 は戦 争 損 害 補 償 法 お よび復 興法 に 基 づ く巨額 の 援 助 を取 引 き材 料 に74)パ リテ ィー条 項 の 成 立 につ い て米 国 か ら拝 力 を うけて い た。 ベル 法 案 は賛 面 両論 に 国論 を 二分 して9月 に議会 を 通 過 し, 憲 法 修 正 は翌 年

3

月 の国 民 投 票 で承 認 され た O 〔第4例 二)対 口協 力 者 の処 理 には フ ィ リピ ン人 の非 対 決 的 で 軟 性 な 問題 解 決 の 態 度 が み ら れ る。 オ ス メニ ア政権 の時 , フ ィ リピ ン側 が対 日協 力者 問題 に 政治 的解 決 を も って寛 容 で あ ろ う 67)アギナル ド将軍やスムロング議員は L.院が金持階級の独占物になると反対 し, ケソンは一院制のままで 68)亡命中の1943年11月15日で任期が切れると独立国の初代大統領になれないため, ケソンは初め J.ラウ レル政権の共和国誕生を根拠に現行憲法はもはや機能 していないと解釈 しようとしたが,それでは亡命 政権 自体の翻 封こなるためそれ も出来なかったt, 69)米国の H.L イッキ-ズ (IiaroldL・ltIhes)内務長官や C・-ル (eor(lcIHull)国務長官は,明 らかに違 憲行為であり今後のフ ィリピンの民主原理の建設に弊害となるとして強 く反対 した(, 70)オスメエアは11月3日米国議会 とF・ルーズヴェル ト大統蘭に憲法機能停 ILの要請状を送 り,米下院で フィリピン仝亡命閣僚の名で共同要請を行ない, 冒;I;Eではタイデ ィン'/ス (Tydings)とベル

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C.

Bell) 両議員の協力を得て決議案を・甘決,ルーズヴェル トはケソンのイ用 ヨ切れ3日前に署名 した,昌 夫議案は憲 法機能が再び必要となるまでの期間のみ有効 とい う条件付 きであった。, 71)オスメニアは廿分が大統俄になってケソンを行政 Lの責任者に任命すると説得 したがケソンは容れなか 1た。オスメニアはルーズヴェル ト大統領の指示に届服 した形でな ら請願 苦に署名するがそ うでなけれ ば憲法に従 うまでだと主張 した。C・Quirino,1971,p・373・

72)I)emocraticAllianceはフク団が合法戦術に切 りかえ国民党 と同盟 した ものC, 6名の名前と出馬 した州 は,LuisTaruc,AmadoYu7JOnが Pampanga州,JesusLavaが Bulacan州,JoseCando,Constancio Padillaが NuevaEcija州, Al C桓ndroSimpaucoが Tarla(、州である。 国民党 闘 ま Ram')n Diokno, JoseVera,JoseA.Romel・

0(Ⅰ

二院),AleijoSantos(下院)の 4名である0

73)AlfrcdoB,Saulo,1969・ Communij.Z∫i/athePhi/妙 ine∫:anInzrodurtion.Quezon:AtcneodeManila U.p.p.48.

74)戦争被害者に 4億 ドル,政府関係物資に 1億 ドル,公共施設復興に 1億 2千 ドル。

(18)

割 ":フィリピンの政治的fE当性の-考察 と した の に対 し, 米 国側 は法 の厳 正 な制 裁 とス ピー デ ィー な判 決 を要 求 して フ ィ リピ ン政 府 に 強 い圧 力 を か けて きた。75) オ ス メ ニ ア は米 国 に屈 服 した が,76) か つ て 嫌 疑 を か け られ た M. ㍗- ス77)が 中 心 とな って 議 会 の 対 日 協力 者 達 は オ ス メエ ア に 抵 抗 し,78) 人 民 法 廷 案 を 骨 抜 き に した079)裁 判 が 長 び くう ち, 1946年4月 , 独 立 国 フ ィ リピ ンの 初 代 大 統 髄 選 挙 で ロ- ス は オ ス メ エ ア に 圧 勝 した 080)大 統 億 に な った ロ- ス は, 1948年 1月 , 完全 恩 赦 法 案 を 議 会 で 可 決 さ せ , 政 治 犯 で 起 訴 され た54名 は全 員 釈 放 され,81)フ ィ リピ ン流 の や り方 で 問 題 は 決 着 を み た 。 そ もそ も 日米 戦 争中 に フ ィ リピ ンに残 留 し, フ ィ リピ ン人 の 保 護 に あ た る よ う指 示 した の は ケ ソ ン大 統 領 で あ る,,ケ ソ ン 白身 も米 国 は処 罰 す る 立場 に な く, フ ィ リ ピ ン 人に まか せ る よ う 述 べ て い た し, 帰 還 した オ ス メニ ア も11月 23日の ラジ オ 演 説 で 対 日 協力 は や む を得 な か った も の と して 認 め て い た . 実 際 フ ィ リピ ン立 法 院 の 半 数 近 い 議員 82)が何 らか の 形 で ラ ウ レル 政 権 に 協 力 した の で あ る∩ オ ス メエ ア は フ ィ リピ ン側 の 立場 を 明 らか にす るた め, 対 日 協 力 者 の何 人 か を 要 職 に任 命 す る こ と も した 。8:u 裁 判 を 担 当 した Ⅰ.・・タニ エ ダ

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判 事 ら も 自分 達 の 立 場 を疑 問 に思 った084)マ ニ ラ側 首 脳 に は厳 罰 の 意 図 は な か った の で あ る0 75)1944年 6月,ル-ズヴェル ト米国大紋甑はフィ リピンの対 日協力の嫌疑 者の公職追放を決定,続 く トル ーマ ン大統領 は先の 方針を踏襲 して1945年 5月オ スメニア大統蘭 に徹底的法の制裁を指示 したLJレイテ の 米軍惰 種機関は対日協力の容疑で約1(),000人を逮捕 した とい う。)V・A・Paeis,1971lPP・283. 76)イ ッキーズ米内務長竹は 9月初め手紙 で フィ リピン人の統治能力の 自信を示す よういい, さらに電報で 疑わ しい判事による裁判 は認め難 く,厳罰に失敗すれば復興費 と現政権支持 は 与え られないか も知れな い と示唆 した。V・A・Pacis,1971,pp・285-287・オスメニアほ1945年 9月に人民法廷案を議会にかけ, 人民法廷法 (RA 682) に 9月25日に 署名 したが10月に トルーマ ンは次期 フ ィリピン人統領選 までに裁 判を終えるよう賓ねて指示 してきた。 77)M.ロハ スは1944年 4月経済企画庁総裁をひきうけ国有米穀公社 (13igsasarlg I3ayan)の運営にあた った が,同時に米I軍及びゲ リラと通 じていた ことはアメ リカ及び フ ィリピン側の資料だけでな く日本側資料 にもあ らわれている。村 田省三遺稿・1969・pp・379-381・

78)ロハスは戦後マ ッカーサ-司令官 (Ⅰ)ouglasMacArthur)によ-,てい ち早く釈放 された01945年 6月マ ッカ-サーの強い要請で フ ィリピン議会が開かれ るとltハ スは口5',lt:議長に選出され,細 l 協力晋グル-プの中心 とな った,, 79)オスメニア原案の Ff潤 格の判事 ・検察乱 」の うち 「有資格」を削除, ド;:・国行 為及び 犯罪行為を犯 し た者 1か ら 「売鞘 TIl.一為」を削除,口939年 9月 1日以降 Jの時期を 「1941年 8月 8日以降」 に短柿, 普 訴期間を !2年以内_‖小ら 「6カ

月J

に短縮 したt、ロ- スは陸軍 と対 「げ リラ軍の

f嘲 FLl】を判事に送 り込んだとい う(〕 た といわれ るOオスメこアは1907年以来,政界にいて68才の長老であ り静的人物 であったO ロハ スは有 能で弁論 の得意な54才の動的人物で,いずれ大統領 になる人物 と目されていた。

81)この中には巣鴨拘置所か ら送還 された

J

・ラウレル,ベニグノ,S・アキノ

,

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・バルガス(JorjeB・Vargas), C,オ シアス ((1amilo()sias)の他 に C.レク トや S.オスメニアの息 子も含 まれていたO 審議 は個 々にす

すめ られたが, 3年近 くかか って高官では一件のみが終身刑の判決が出ただけであった〕 Armar-do

J

.

Malay,1967.0ccupicdPhi/妙 inc∫.FilipinianaI3(〕ok(l・uild,p・144・

82)DavidBersteinの調査では98%の下院議員申20名が下院議 員と して.11名が閣僚 と して,また24名の上 院議 員中14子ほ でが協力 した とい うonapenLiang・1971,p・280・

83)Ⅴ.A.Pa(:is,1971,pp・283-285・

84)D叩州 Liang,1971,I,・329の脚注12,E・・330の脚Fl=18・

参照

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