系譜
著者 坂野 明子
雑誌名 静岡大学教育学部研究報告. 人文・社会科学篇
巻 42
ページ 139‑150
発行年 1992‑03‑24
出版者 静岡大学教育学部
URL http://doi.org/10.14945/00008416
静岡大学教育学部研究報告 (人文 。社会科学篇)第42号
フ イリップ・ ロス、Portnoy―
(1992.3)139‑150 139
Kepesh― Zuckermanの系譜
A Lineage of Philip Roth's Heroes
-
Portnoy, Kepesh, and, Zuckerman-坂 野 明 子
Akiko SAKANO
(平成3年10月H日受理)
( Summary )
Roth's heroes, Alex Portnoy, David Allan Kepesh and Nathan Zuckerman, are notorious
for their aggressiveness, but, looking at them closely, we begin to see them as children at
a loss, bound by two conflicting sets of values, Jewish and American. The first hero, Portnoy, makes up a typical case of a young Jewish American boy born to a middle'class second-generation immigrant Jewish family. He has a difficulty in establishing his
identity. He can be neither a Jew nor an American in the true sense. His struggle to overcome this difficulty ends up with his horrible roar at a psychiatrist's office, since he
has been avoiding facing the true problem, the false unification of Jewish and American values. Kepesh, on the other hand, becomes aware of the true problem toward the end of The Professor of Desire. He feels detached from his girl friend, Clair, who is a typical
good American girl. She is too innocent and too good to understand Kepesh's complicate mentality.
However, he doesn't have the courage to leave her in pursuit of a new identity true to himself.
The third hero, Zuckerman, is a little different from Portnoy and Kepesh, in that he has succeeded
in liberating himself from the entangled relationship to his family and his Jewish background.
Being a successful writer, it was probably easier for him than the others. But, once cut off from the Jewish background, he feels empty and unable to write. So Zuckerman experiences another type of identity crisis. After a long period of trial and error, he eventually comes back to Jewishness, a new kind of Jewishness this time. It is the Jewishness which permeates every Jewish heart. More important, this Jewishness is not a goal, but a base on which Ztckerman has to construct his own identity as a Jewish American writer. He has to go on inventing his identity by writing his own story. Now the difficulty of being a Jewish American boy has developed into an issue of modern writing. Needless to say, this is an indication of Roth's maturity as a writer.
(1)
現代アメリカ作家 を分類 しようとすれば、 Philip Rothは ユ ダヤ系作家の仲 間の一人 とみ なされるのが普通である。だが、ロスのユ ダヤ人意識 とは どうい うものか と問 う時、我 々は Bernard Malamudと 同 じような1、 わか りやすいユ ダヤ人の定義をロスの作品群の中に見いだ すことは出来ない。Hana Wirth‐Nescherは 最初の作 品、物 οibye,3o■umわ〃sから Portnν む 物 力
̀までをアメリカ的現実にどっぷ りと浸か りなが ら一方で「 自分たちが理解 で きず、
といって捨て去ることも出来ない伝統に悩 まされる移民第二、第三世代」2の姿 を描 きだ した も の と捉 えている。確かにこれ らの作品の主人公たちの自虐、動揺、道化的身振 りの背後にはそ のような理由が考えられる。 しか しこの考え方だけでは2冽餞γ 以降、 ロスが陥った ように 見える、小説家 としての一種の迷走飛行状態、Zuckerman Triologyから最新作 乃 ″ までを簡単に説明することは出来ない。従って、いま必要なのはロスの作品群 を貫 くものを具 体的に探 りだすこと、そ してそれが年代を追ってどのように変質 したかを検証することである と思われる。ここではその一環 としてロスの三人の代表的主人公を取 り上げ、彼 らに見 られる ユ ダヤ系アメリカ人意識の共通項を考察するとともに、それが作者の成長とともに微妙に変化 してい く様子を追いたい。このようなライ トをあてることによって、作家ロスの全体像が垣間 見 えることを期待 しつつ000。
考察の最初の対象はAlex Portnoy、 ロスの主人公のなかでただ一人スターダムにのしあがっ た男、マスタベーションに取 りつかれて人々の関心 を集めたあの人物である。既に別の論文で 明 らかにしたように3、 ポ̲トノイの性的なオブセ ッションは彼が二つの価値、即ちアメリカ 的価値 とユ ダヤ的価値 とに引 き裂か れ て い る こ とで説 明で きる。 ユ ダヤ人 の両親 に a
nice Jewish boy"た れ と育て られたポー トノイは一方で紛れ もないアメ リカの子であって、
アメリカ的なものに強 く惹かれてしまう。或いはここには一種の代償作用があって、ユダヤ的 価値 に包囲され息苦 しくなった少年が、必死の思いでアメリカ的なものに救いを求めたと考え られな くもない。いずれにせ よ興味深いのは、(また彼の尋常ならざる性欲 を説明す るうえで も重要なのは)ポー トノイの「アメリカ」へのアプローチの方法が成長に伴い、少 しずつ変化 することである。それぞれオーヴァーラップするのだが、大雑把に言って、幼少年期 は野球、
思春期か ら青年期にかけて 訪″ (非ユ ダヤ教徒の女性)、 成人してからはAmerican Democracy とい うふ うに三段階に分けることが出来るだろう。実際幼少年期のアレックスにとっては野球 はアメリカの代名詞であった。たとえ遊び仲間は同 じユ ダヤ系の子供たちであった として も、
野球をしている限 り彼 らは身 も心 も真正のアメリカの子供であったのだ。そ して性的に目覚め たアレックスの 目に今度は 動」iJtsθ が「近 くて遠い国」アメリカの立ち歩 く姿 として映 ること になる。
O America! America! it may have been gold in the streets to my grandparents, it lnay have been a chicken in every pot to my father and mother, but to me, a child whOse earliest movie memories are of Ann Rutherford and Alice Faye.
America is s力 』ksθ nestling under your arm whispering love love love love love!4
ま た 大 人 に な っ た ア レ ッ ク ス が 選 択 した 職 業 も、 彼 の ア イ デ ンテ ィテ ィー を考 え る上 で 興 味 深 い 。 彼 は 現 在 the Assistant Commissioner for the City of New York on Human
フィリップ 。ロス、Portnoy‐Kepesh‐Zuckermanの系譜 141
Opportuntyであ り、アメリカ民主主義の真の実現のために日夜努力 している。 しか しこの選 択 に彼のユ ダヤ性の影を見て取 ることが出来る。 というの もアメリカ民主主義 という抽象の論 理はユ ダヤ系であるか らといってアレックスを排斥することはない、つまり民主主義 という理 性的 ヒューマニズムの道はアレックスにアメリカヘの接近を許すのだ。アメリカに対 し屈折 し た恋心 を抱 くアレックスがこの仕事 に飛び付かないはずはなかった。
このようにアレックスは常に何 らかの形でアメリカに接近 しよう、厳密な言い方をするなら、
己れのなかのアメリカを確かなものに しようと努めている。ところで上に述べた三つのアプロー チの うち、問題になるのは第三の方法、アメリカ民主主義を手段 としたアプローチである。ちょっ と考えると、他の二つに比べてこれは問題がなさそうに思える。第二の方法などと異な り、 こ れはユ ダヤ的価値 (異教徒 との結婚はご法度なのだ)と抵触 しないのだか ら。実際ポー トノイ の両親は息子の出世 を誇 りに思い、息子がテレビに出た りすれば親類縁者すべてに報せてしヽる。
その意味では、ユダヤ系アメリカ人の「ユ ダヤ系」の部分にとっても、「アメ リカ人」 の部分 にとって も問題がなぃ、つまり双方丸 く納 まる方法 と言っていいのかもしれない。 しか しここ で見逃 してならないのはポー トノイはこの時二重に自己抑圧 をしているという事実である。ア メリカ民主主義の完成を目指 して邁進するポー トノイは実は「模範的ユダヤ青年」及び「正義 に身を捧げるアメリカ青年」 という二つの仮面を被っているのだ。だか らポー トノイは苦 しく てならない。二重の枷 を己れの心にかけて しまった人間はどこかで人知れず 自己回復 を試みる ものだ。ポー トノイの場合はそれはMonkeyとの関係 という形で行なわれる。理想 に燃 える 品行方正の青年は、Monkeyとい う渾名の、言ってみれば人間以前の女性、欲望の固まりの よ うな女性 と奔放な性の世界に遊ぶことで、抑圧 した もう一人の 自分 を過激 に回復 しようとした のである。逆に言えばそのようにして初めてポー トノイは心穏やかに民主主義の美 しい旗 を掲 げることが出来たのである。
さて「ユ ダヤ」 と「アメリカ」の二つの価値 に引 き裂かれなが ら、辛 うじてバ ランスを取 っ て生 きてきたポー トノイは、 しか しなが ら33才の現在、綱渡 りの綱 を踏み外 し、精神の混乱 を きた し、恥辱にまみれた告白をする身の上になっている。言 うまで もな くこのことは直接的に は愛人の Monkeyが結婚 を迫 り、光 と影 を使いこなす今 までの彼の戦法が有効 でな くなった ことと関係 している。影にのこのこ日向に出てこられた りしたら、格調高い二重の仮面が子供 師 しの安物 に変わって しまう、ポー トノイはこうしてパニ ックに陥ったのだ。だが Portnげ む
04カ」iJ9′ の終わ り方をもう少 し丁寧に 眺めてみると、些か異なった見方 も出来そ うに思 わ れる。そ もそ もアテネのホテルに Monkeyを置 き去 りにしたポー トノイは何故 イス ラエ ルに 飛んだのだろうか。無論 ここには話 を滑稽 にしようという作者の意図が働いている。 イスラエ ルの女性兵士を襲いなが ら性的不能のゆえに果たせず、逆に pig"と 罵 られて しまうとい う のは5、 悪名高い女たらしの末路 としては実によく出来た話 となっている。 だが何故 イス ラエ ルなのか。パ リだって、ニューヨークだって、ひょっとして東京だってよかったではないか。00 そ うだ。問題はアメリカなのだ。ユ ダヤ系アメリカ人をイスラエルのユダヤ人の中に置いてみ る、すると必然的にこのユ ダヤ系アメリカ人は自分のなかの「アメリカ」 を殊更に意識するは ず、アメリカとは何かを改めて考えてみるはずではないか。
以上の文脈か ら判断するなら、ポー トノイを組み伏せたイスラエル女性兵士の次のようなア メリカ批判は、そのままポー トノイの、また作者ロスのアメリカ観に通 じていると考えてよい と思われる。
Your job is tO make such a system appear legitilnate and moral by acting as though human rights and human dignity could actually exist in that sOciety̲̲̲̲when obviously no such thing is possible.6
ポー トノイはもう知っているのだ。いや、正確に言 うなら、知っていることを認め始めている のだ。アメリカという国が嘘をついていること、 したがってァメリカ民主主義に身を捧げるこ とによって自身の複雑なアイデンティティーの問題を回避 しようとするのは根本的に間違って いること・ 0・ こうして彼は不能者の屈辱 とともに、苦い思いで己れの過ち、そ してアメリカ の過ちを噛み しめることになる。
ここで思い出すべ きは、この作品が1969年の出版だということ、即 ちヴェ トナム戦争が泥 沼化 し、反戦運動が盛 り上がっていた頃に執筆 されていたという事実である。 既 に American
Justiceの神話は完全に崩れ、無邪気に「 アメリカは正 しい」 と言える時代は過 ぎ去っている。
だ とした らポー トノイにはもはや「 アメリカ」を隠れ蓑にすることは許されない。「アメリカ」
はかつてのような夢 をポー トノイに見 させては くれない。 といってアメリカに生まれ、アメリ カで育ち、アメリカを愛 してきたポー トノイは今更純粋な「ユダヤ人」になることは望むべ く もない。「ユダヤ」 をイデオロギーとして受け入れることもかなわない。 こうしてポー トノイ は進路 も退路 も断たれた窮地に陥る。アメリカを讃えることもユダヤを恋い慕 うことも出来な い彼は言葉を奪われ、ただ吠える。獣のように吠える。それが彼を余計 pig"に 近付 けて し まお うとも。
一見純粋 に個人的な悲喜劇 と思われた Portnげ むのη力Ji」7′ が、実 はヴェ トナム戦争 を契 機 としたアメリカ神話の失墜 と深 くかかわっていることを上に見てきたわけだが、 しか し、こ の時点でのロスの「アメリカ」に対する懐疑はさほど深刻なものではなかった。たとえば、こ のあとポー トノイは精神分析医にかかるというきわめてアメリカ人的な行動を取 り、またその 分析医を全面的に信頼 している様子を示すことになるのだが、 このような無邪気 さはポー トノ イが充分に突 き放 してアメリカを見るに至っていないことの証左 と考えてよい。ロスは未だア メリカの大 きな力に縛 られている。だが次のヒーロー、ケペッシュになるとだいぶ事情が変わっ て くる。
(2)
デイヴィッ ド・ アラン・ケペ ッシュはニュー ヨーク州立大学の比較文学の教授であ り、二つ のロス作品、 物θル″s′ と 勤 θ PrOfessor〆 恥sireに主人公 として登場す る。 これ らの作 品は、前作同様、知性 と性欲の折 り合いの悪 さを描 きだ したものと解 されるのが普通である。7 確かに乳房に変身 して もなお愛撫 されることを求め、一方でシェークスピアを朗唱するケペッ シュの姿は人間の二面性 をグロテスクに描 きだしていると言える。ただケペ ッシュをそこまで 追いやった原因を考えるとき、彼がポー トノイ同様、 いやポー トノイ以上 に、「ユ ダヤ」 と
「アメリカ」の間で引 き裂かれた存在であることを忘れることは出来ない。 つ ま リケペ ッシュ の場合 もまた、アイデンティティーの不安が過剰な性欲の引 き金になっているのである。この ようにポー トノイとケペ ッシュは類似点が多いわけだが、作家ロスの全体像の把握のためには 両 ヒーローの相違点に着 目したい。それは「模範的ユダヤ系アメリカ青年」ケペ ッシュが抑圧
フイリップ 。ロス、Portnoy‐Kepesh‐Zuckermanの系譜 143
された性欲をぶつける相手が何故か非アメリカ人、さもなくば非アメリカ的女性だという点で ある。
実際、フルブライ トの奨学金を得てイギリスに学ぶ若き学究のケペッシュが過激な性的遊戯 に耽る相手はスウェーデン女性二人である。無論たまたま彼がイギリスにいる以上、アメリカ 女性以外がアヴァンチュールの相手になるのは不思議なことではないし、ここに「旅の恥は掻 き捨て」的感覚を見て取ることも自然なことであろう。しかし、それでもなお疑間が残る。何 故、アメリカ女性ではないのか、そして場所がイギリスなのは何故か 00・ ここで思い出した いのはケペッシユがこの時、大学にポス トを得ようと留学までして頑張っているという事実で ある。それというのもケペッシュの狙いはおそらく、大学教授 となって移民の子 という周縁的 存在から脱出し、アメリカという国の中核に入 りこむことにあった、即ち、この頃ケペッシユ はアメリカの本流tメイン0ス トリームに合流するべ く、日夜の勉学という自己抑圧をしてい たと考えられるのだ。だとすれば、彼の心の深い部分が無意識のうちにアメリカに反旗を翻 し てしまうのは少 しも不思議ではない。その結果奔放な性のお相手にスウェーデン女性が択ばれ たというわけだ。更に帰国してからのケペッシュの恋愛も同じ文脈で捉えるとわか りやすい。
彼は結婚相手として、学者の妻にふさわしい50年代的 a good American girlを 択ぶことが出 来なかった。彼が択んだのは当時の主流の道徳観からおよそ外れた、東南アジアで数々のアヴァ ンチュールを重ねてきた非アメリカ的美女ヘレンだった。つまりここでもケペッシュの抑圧さ れた反アメリカ意識が作動 していたのである。
とはいえ、他人に自分のアイデンテイテイーの問題を委託 しているようでは真の解決に至る 見込みはない。事実、ケペッシユとヘレンとの結婚はうまくいかず、破局をむかえて しまう。
だからケペッシュが今すべきは自分の中の虚偽や矛盾 と向きあうこと、自分が今まで築きあげ てきたアイデンテイテイーをもう一度真摯に検証することの筈である。この辺 りのプロセスは 勤θ Professor〆 Desireでは新 しい恋人クレアとの関係を通 して明らかにされていく。最初、
クレアはヘレンとの離婚に傷ついたケペッシユを癒す存在として登場する。実際ケペッシユは クレアの献身的な愛情に慰められ、失いかけていた男としての自信を徐々に回復 していく。 し かしやがて彼女のそのような優 しさ、善良さがかえってケペッシュを苛立たせることになる。
というのもクレアはケペッシユという複雑な存在、込みいったアイデンティテイーを理解する には、余 りにもイノセント、余 りにも一枚岩、一言で言えば「アメリカ的」なのだ。
クレアの性格描写を見てみるとき、作者ロスが「アメリカ」を意識していたことは明らかで ある。彼女は人に親切で、自然が好 きで、セックスには淡泊でといった具合に、善良なアメリ カ女性の典型として描きだされている。とはいえ、大方の予想 とは異なって、ここで問題にな るのは彼女のセックスに対するピューリタンの末裔的態度ではない。問題は自分の善良さを疑 わない善良さ、イノセンスを疑わないイノセンスである。そういう彼女に対するケペッシユの 違和感は次の場面にはっきり読み取ることが出来る。
How David Kepesh comes to be sitting in a wicker rocker on a screened‐ in porch in the Catskill Mountains,watching with contentment while a teetotaling twenty‐ five‐year‐
old sixth‐grade teacher from Schenectady,New York, creeps about her ■ower garden in what appear to be overalls handed down from Tom Sawyer himself.… …." 8
いまケペ ッシュは新学期の授業の準備のため、サマーハウスのポーチでヨーロッパの恋愛小説 を読んでいるが、そこか ら庭で一心に草む しりをするクレアの姿が見え、彼女が身につけてい る仕事着 をケペ ッシュは「 トム・ ソーヤか ら受け継いだもの」 と表現するのだ。これは明らか にケペ ッシュがクレアに対 し覚える距離感の反映 とみなしてよい。彼は考えないわけにはいか ない。何故「ユダヤ的価値」 と「アメリカ的価値」 との間で揺れ続ける自分が、このようにナ イーブな トム・ ソーヤ的イノセンスの継承者 と共にい られるのか。二人の間に真の理解、愛情 は可能なのか・ 。・ ケペ ッシュにはイノセ ンスを疑 うことを知 らない善良なアメリカ娘を生涯 の伴侶 とすることは出来そうにない。
このように作品の終わ りのほうになってようや く、ケペ ッシュは自分の中のアメリカに対す る違和感を認識 し始める。ただ し、これは彼にとって何 ら解決ではない。アメリカに違和感を 覚えたとしてもそれで もアメリカ人であることに変わ りがない とすれば、ケパ ッシュのアイデ ンティティーの問題は寧ろより複雑に、より困難になったと言えるのだ。彼は今、アイデンティ テイー再編成を迫 られ、途方に くれている。 物 θ Proおss″ 〆 ‐sをeの最終部分はケペッシュ のそういう不安 を如実に表 している。
But even while l suck in a desperate frenzy at the choicest l■ orsel of her flesh,even as l pit all lny accumulated happiness,and all lny hope,against iny fear of transformations to come,I wait to hear the most dreadful sound imaginable emerge from the room where Mr.Barbatnik and my father lie alone and insensate,eaCh in his freshly made bed.9
いまケペ ッシュは、クレアに対する愛情が冷めたことを自覚 しなが ら、 といって別れる決意 も で きないまま彼女の乳房を愛撫 している。隣の部屋では父 と、父の友人で強制収容所の生 き残
りのバーバ トニク氏が眠ってお り、ケペ ッシュは彼 らの気配に耳を澄 まさないでい られない。
そ して彼は待っている。二人が眠る部屋か ら the most dreadful sound imaginable"が 聞こ えて くるのを0・ ・言 うまでもな く、仮に隣の部屋に父だけが眠っていたなら、こういう表現 はなされなかったであろう。父 と共にヨーロッパ出身の、ホロコース トを現実にくぐり抜けて きたユ ダヤ人バーバ トニク氏が居たか らこそ、ケペ ッシュは耳を澄 ましたのだ。善を善 と信 じ 切 る「イノセ ン ト」 なアメリカに背 を向けかけたケペ ッシュは、今、善 と悪、生 と死が渾然 と 混 じりあった世界=ヨーロッパに目を向けようとしている。そしてそういう彼にとってヨーロッ パのユダヤ人の世界は格好の道標 となる筈である。バーバ トニク氏の作品への唐突な導入はこ のように理解 されるべ きではなかろうか。
(3)
アレックス・ ポー トノイがアメリカとの蜜月の終わ りを予感 し、デイヴィッド・アラン・ケ ペ ッシュがアメリカに背を向けなが ら未だ旅立たないとすれlよ 次のヒーロー、ネイサン・ズッ カマ ンはどうだろうか。結論か ら先に言うなら、ズッカマンの場合は試行錯誤のうちに自分 と アメリカ、 自分 とユ ダヤの関係 を探 り、やがて確立 してい くことになる。 ところでこのことは 主人公の職業 と深い関係があると思われる。衆知のように、1979年か ら書 き出され、1985年 に完結 した んckerma′ 助 だ の主人公は作家である。作家であるズ ッカマ ンが比較文学教 授ケペ ッシュ以上に、 自身のアイデンティティーの問題に真剣に取 り組むのは当然であろう。
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それは書 くことの根幹に係わっているのだか ら。 こうしてズ ッカマ ンは右 に左 に大 きく揺 れ、
言わば七転八倒の苦 しみを経て、 ようや く答 えを見出だ してい くのである。
シリーズ第一作の 動 θの α′Z清″ は駆け出し作家の若 きズ ッカマ ンを扱 っている。 或 る日彼は創作の秘訣 を伝授 して もらうべ く尊敬する先輩作家ロノフの家を訪ねる。同時にこの 訪間の裏には別の気持ち も働いていた。即 ち、先 に出版 されたズ ッカマ ンの短篇 をめ ぐって父 親 との確執が続 き、心許ない気持 ちになっていた彼 は精神的な代理父 としてロノフに自分の行 く道を承認 して もらいたかったのである。 しか し現実は思いがけない展開 となった。吹雪 に閉 じこめ られて一晩ロノフ家に泊 まることになったズ ッカマ ンの耳に、天丼越 しに昼間垣間見た 美少女エイ ミーが 自分を抱いて くれ とロノフに迫っているのが聞こえて きたのである。 これは 文学 という芸術 に身を捧げた祭司、生真面 目な作家 ロノフの私生活 としては実に意外なものだっ た。だが我 らが新進作家ネイサ ン ,ズ ッカマ ンは更に意表をついたことを考える。つ まり、エ イ ミーは実はアンネ・ フランクの生 き延びた姿であ り、彼女は自分が生 きていることを公にし て父親を当惑 させ、 日記の価値 を落 とす よりも、ひっそ り生 き延びようと決意 したのだと想像 するのである。いや、想像す るだけではない。 ロノフの書斎でロノフのタイプライターを借用 して急邊その場でひとつの短篇に仕立てあげるのだ。 このことは何 を意味するのだろうか。細 かい議論は既に別の ところで したので1°、重複は避けたいが、要約すると、ネイサ ン・ズ ッカ マ ンはこの夜、人真似でない、 自分だけの想像力を探 り当てたのである。そもそ も生 き延びた アンネ・フランクをヒロインとする作品をロノフのような作家が書 くだろうか。そうだ、ネイ サ ンはロノフを代理父にする必要などないのだ。肝心なのは自分の想像力 に忠実であること。
そ うすれば実の父親の非難にいちいち動揺することもない、真の意味での作家になれる・ 00 この ように 動θσ力οs′ 〃清″ はネイサ ン・ズ ッカマンの作家 としての 自己確立の物語 とし て読み解 くことが出来るのだ。
第二作 豹ckerm′′ 働bο″ど ではその後のズ ッカマ ンが描かれる。ユダヤ系青年の性意識 を驚 くほどあか らさまに描いた の″οrskyが11大当た りし、ズ ッカマ ンは今や押 しも押 され ぬ有名作家 となっている。つ まり 物 θε力οs′ Z清″ で探 り当てた想像力の方向は正 しかっ たのである。ただ しこれには予想だにしなかったさまざまな トラブルが付随 していた。第一は 有名人になることの面倒、即ち、町を歩いていれば指差 され、会ったこともない女優 と恋愛中 と騒がれ、財テクをしつ こく勧誘 され、 といったことである。第二は事実 と虚構の混同という 事態である。人々は作品に書かれたことを事実 と受け とめ、性の妄想に満ち満ちた主人公をズッ カマ ンその人 と受け取 り、主人公の家族を作家の家族 と重ね合わせるのだ。第三は第二の問題 と係わっているのだが、 このような作品を世に出 したらアメリカのなかの潜在的反ユダヤ主義 が顕在化することになると信 じるユダヤ系の人々か らのズ ッカマ ンに対する苛烈な非難である。
こうして彼は現代において有名作家になることの意味を初めて学習 しているわけだが、ただし、
これ らの面倒 も人々が思っているだけで直接ズ ッカマ ンの家族に影響が出ない限 り問題はなかっ た。彼が超然 としていればそれでいいのだか ら。だが現実にはマイア ミで老後生活を送る両親 の耳にも面白か らぬ噂が届 き、ズ ッカマ ンは父の死後、弟ヘ ンリ‐に非難 されることになる。
ズ ッカマ ンが父親の命 を縮めたのだ、 と。い くら作家 として自立 したといっても、弟のこの言 葉は人間としてズ ツカマ ンを動揺 させずにはおかない。そのせい もあるのだろう、彼 はマイア ミで葬儀 を済 ませた足で故郷のニューアークを訪ねる。かつてユ ダヤ系の人々が生 き生 きと暮 らしていた町は今は黒人の町 とな り、ズ ッカマ ンが彼の家族が住んでいたアパー トを見上げて
い る と窓 か ら一 人 の 黒 人 が 首 を 出 し、 尋 ね る。
Who you supposed to be?"he asked。
No one,"replied Zuckerman,and that was the end of that.You are no longer any IIlan's son,you are no 10nger some good woman's huSband,you are no longer your brother's brother,and you don't come froIIl anywhere anymore,either.12
引用が示すのは自分を異邦人のように感 じ、自分は「誰の息子でもなく」「 どこの出身でもな い」 と考えるズッカマンの姿である。つまり彼は過去との紐帯を自分から断ち切ったのだ。臨 終の苦 しみの中で父がズッカマンに言った言葉 bastard"は今彼 を苦 しめはしなぃ。いや寧 ろその方がいいのだ。ユダヤ人の「庶子」であって、「嫡子」ではないのだとすれば、逆に言 えば「嫡子」に伴う責任を免除されるのだから。ユダヤ系のコミュニティーからも家族の束縛 からも自由に、unbOundの身となれるのだから。このように、故郷への久しぶ りの帰還はズッ カマンに解放をもたらした。別の言い方をするなら、第二作で彼は息子としての自立も果たし たのである。
ところで、既製の「らしさ」を所与のものとして受け取ることなく、独自のアイデンティティー を自ら見出だしていくことこそ、作家の責務である筈だ。その意味ではユダヤ系のコミュニティー から廃嫡されたズッカマンは、作家として最高のポジションにあると言ってよい。だが作家お よび息子としての二重の自立は思っていたほど容易ではなく、また楽しいものでもなかった。
第一、過去を切 り捨て、内面を空洞化させてしまった人間に書 くべきことは残っているのだろ うか。第三作 勤θИ′′め盟y Zessonで原因不明の首の痛みに苦 しめられ、執筆も儘ならない ズッカマンの姿は彼の想像力が完全に袋小路に陥っていることを示している。だからズッカマ ンは作家という職業自体に疑間を覚え、もう一度人生をやり直すべきではないか、もっと人の 役に立つ職業につ くべきではないか、医学部に入 り直したらどうだろうかと痛みを耐えながら 考えるのだ。言わばこの時ズッカマンは American Goodnessの 思考回路にすっか りはまり込 んでいるわけだが、 しかし、これでは少しも問題の解決には至らないことは明白である。彼は 自分の真の問題、即ち「自分なりのユダヤ系アメリカ人としてのアイデンティティーの確立」
という課題から逃げだそうとしているだけなのだから。
ところで前作 多にkerman ttbο″ど の最後でズッカマンが「 自分は 誰の息子でもない!」
と咬呵を切ったことは既に述べた。 しかし 動θИ′′ゎ覆y ιessonを読む限 り、それが唆呵 に過ぎなかったことは明らかである。父親世代のユダヤ系文芸評論家、ミル トン・アッペルに 対する激 しい反発は、否定的評価を下 した批評家に対 し作家が抱 く恨みの範囲をはるかに超え ている。明らかにここには、父親およびユダヤ系コミュニティーを裏切ったのではないかとい う罪の意識の裏返しとしての、一種神経症的な過剰反応が認められる。また、見逃しやすいと ころだが、作品の最後の方で友人の医師の父親を亡き妻の墓参 りに連れていく場面で、ズッカ マンが自己制御の力を失い、暴れだすのは老人が血の繋がらぬ出来の悪い孫を bastard" と 呼んだ瞬間なのだ。言うまでもなくこれは実の父が今際の際にズッカマンを呼んだ言葉に他な らない。ズッカマンのこだわりは一目瞭然である。少しも彼は unbOund"ではなかったのだ。
だとすれば医者になるという、問題の本質を外 した博愛主義は更に深い間、混乱へと彼を導く だけの筈である。
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ではズッカマ ンはどうしたらこのアイデンティテイーの袋小路か ら抜け出せ るのだろ うか。
必要なのは反発のようなネガテイブな形態ではない、もっとポジテイブな形のアイデンテイテイー を確立することだろう。意識の表層で「誰の息子で もない!」 と叫ぶのではなく、 より深い部 分で現在の自分を作 ってきたもの との関係 を肯定的に確認すること。ユ ダヤであれ、アメリカ であれ、或いはもっと広 く人間の レベルであれ 。・・ ただ し、残念なが ら彼がそれを見出だす ところは作品中に描かれていない。我々が最後に見るのは、顎に大怪我 をして入院した病院で、
言葉 を奪われなが らも医師になる希望 は捨てず、素人インター ンとして立ち働 く彼の姿である。
これでは作家 として新境地を開いたなどとはお世辞にも言えないだろう。 とはいえ作者ロスは 死んだ母親のメッセージの形でズ ッカマ ンの進むべ き道を暗示 している。 もともとズッカマ ン の母は夫 と違い、声高にユダヤ人迫害問題を論 じることなど生涯に一度 もなかった。それなの に臨終の意識混濁の最中、彼女は紙に holocaust"と 書 き付 けたのであ る。 しか も母の死後 遺品の整理 をしていたズ ッカマ ンは誰 にも内緒でその紙を自分の ものにする000これは母の
心の一番深い部分にあったユダヤ性 をズッカマ ンが受容 したことを意味するのではなかろうか。
日頃意識 されることもな く、 まして言葉 にされることもない、 しか しそれ故に一層根強 く、一 層真実のユ ダヤ性。政治信条や宗教教義の形 を取 るユ ダヤ性が上か ら強制 されるのに対 し、 こ のユ ダヤ性は声なき声によった内側か らそっと一人一人の心に伝 えられる。ズ ッカマ ンは今無 意識のうちにそのようなユ ダヤ性 を受け継 ごうとしていると考えてよいのではあるまいか。
ところで作家 としてズ ッカマ ンが今 まで依拠 してきたユ ダヤ性 は polemicで 攻撃的、寧 ろ 動的なユ ダヤ性であった と言えるだろう。一方ズ ッカマ ンが今発見 し、受容 しようとしている ユ ダヤ性はまった く異質の、静的なものである。それは 0″ο/s1/ を生み出 した ようなダ イナ ミズムには欠けるか もしれない。 しか しそれは彼の想像力の樹の太い根 とな り、そこか ら 彼は今 まで とは違 う、 さまざまな滋養分 を吸収す ることになるのではないか。それはまた彼 に ユ ダヤ系アメリカ人 としての新 しい、包括的な、地に足のついた視点を提供するのではないか。
この ように考えて くると、ズッカマ ンは 動 θ′″′わ凛yι鰯 ″ で作家として漸 く出発点に立っ た と言ってもいいのか もしれない。少な くとも再スター トの体勢が出来たとは言えるのではな いか。次の引用は以上の文脈か ら考察すると興味深い。
During the weeks that followed the successful operation, .¨ ..full of the pleasure of learning for the second tilne in forty years to forln silnple monosynabic English with his lips and his palate and his tongue and his teeth, he wandered the hospital in his robe and slippers and the new white beardo Nothing he pronounced, in his weakened
voice,felt tilne‐worn――all the words seemed rapturously clean and the oral catastrophe behind him.13
怪我が治 りかけて久 しぶ りに言葉を口にした彼は、それらの言葉をまるで生まれたての赤ん坊 のようにcleanだ と感 じるわけだが、このことは作家としての彼の再出発 と深いつなが りが あると思われる。彼はこれから、汚れなきこれらの言葉を自分なりの色に染めていき、今まで とは違うユダヤ系アメリカ作家になっていくであろう。もっとも、病院の廊下をインターンの インターンとしてうろつ く本人は未だそのことに気付いてはいないのだが。
第三作で暗示された作家としての再出発は、しかしながら、エビローグの 動θ PTttθ )r騨
で確認 される。 というのも冒頭の部分にこれがズ ッカマ ンの創作ノー トの一部だと断 り書 きが あ り、ズ ッカマ ンが医者にはならず、作家の道を歩み続けていることがわかるのである。更に、
この作品のプロッ トも上に述べた 勤 θИ″′″」ヮ′ι鰯 ″ の分析の妥当性を裏付けている。ズッ カマ ンはチェコか ら亡命 した作家である友人に頼 まれて、彼の父親のイーディッシュ語作家が 残 した原稿 を取 り戻すべ くプラハに赴 く。彼がこのような行動 を起 こすのは、瀕死の母が教え て くれた、内発的なユダヤ性の重要性 を学んだか らに他ならない。ナチスの将校に射殺 された イーディッシュ語作家の原稿 を手に入れ、失われつつある民族の言語 を回復 し、その心を今を 生 きる人々に伝 える、これがズ ッカマ ンが考えていたことではないだろ うか。 しか もそれが holocaust"の犠牲者の 作品であるならそれだけ意味深 く、苦労 して伝 えるに値す る・・ 0 こうしてズ ッカマ ンは原稿に接近すべ く、慣れない国でさまざまな苦労を重ねるわけだが、 し か し現実は厳 しく、漸 く手に入れた原稿は最終的には官憲の手によって没収 され、おまけに即 時国外追放の憂 き目にあって しまうのだ。
ところで本来ならこれはズ ッカマ ンにとってかな リショックな出来事 と言ってよい。己れに 課 した使命を果たせなかったのだか ら。 しか し今のズ ッカマ ンは以前のズ ッカマ ンとは違って いる。彼は次のように考える。
No, one's story isn't a skin to be shed it's inescapable, one's body and blood.
You go on pumping it out till you die, the story veined with the themes of your life, the ever-recurring story that's at once your invention and the invention of you.tn
一言で言 うなら、他人の物語で内発的なユ ダヤ性 を獲得 しようとするのは間違っているし、ま た不可能なのだ。物語はその人自身であって物語 と人を切 り離すことは出来ないのだから。ナ テスに殺 されたイーディッシュ語作家の物語はどう逆立ちしてもズッカマ ンのものになる筈は ない。無理をすればまた「上か らの」ユダヤ性になって しまう。だか らズ ッカマ ンが今なすべ きは自分の物語 を自分の想像力 を用いて作 り出 してい くこと。そ うすればやがて物語の方で逆 にズ ッカマ ンという人間を作 り出 し(=invent)て くれるだろう。そ してそれに伴ってユ ダヤ系 アメリカ人 としての真に内発的なアイデンティティーがゆっ くりと立ち上が って くるだろう。
だとしたら精神のシオニス ト、ネイサ ン・ズ ッカマ ンは確かに、チェコの出入国管理官に命 じ られる迄 もな く、 自分の国に、アメリカに戻 るべ きなのだ。いや厳密に言えば彼が回帰すべ き は、アメリカとユ ダヤの双方を含み込む自身の心、想像力なのであって、作者ロスが作品をし め くくった言葉、 Now back to the little world around the corner"15はその辺 りを示唆 してい るとは考えられはしないだろうか。
(結び)
ロスの三人のヒーローに見 られるアメリカ性 とユダヤ性の間の緊張 した関係はこうして一応 の決着 を見る。ユ ダヤとアメリカの脆いバ ランスが崩れて精神分析医のオフィスで喚 きたてる ポー トノイ。アメリカに違和感を覚えなが ら、 まだどちらを向けばいいのか戸惑 うばか りのケ ペ ッシュ。ユダヤ系少年 として育った過去 と決別 し作家 として自立 したかに見えなが ら、想像
フイリップ 。ロス、Portnoy‐Kepesh―Zuckermanの系譜 149
力の危機を迎え、再びユダヤ性 を受け入れ ようとし、 しか しそのユ ダヤ性 も、更にアメリカ性 も自分の心 にあって 自分で紡 ぎあげてい くものだと知ったズッカマ ン。明らかなのは時代を追 うとともにアイデンティテイーの問題はより複雑に、 より困難になっている とい う点である。
実際いったん結末を見たかに思えたズ ッカマ ンの物語は、更に難解 さを増 しなが らロスによっ て書 き足 されているのであ り16、 このテーマが作家にとって終わ りのないものであること、現 代 という時代の中で よリス リリングにな り得 ることを私たちは痛感 しないわけにいかない。そ しておそらく私を含めた殆 どすべての読者は、ロスがこのテーマを生涯追求 し、次々と新 しい 切 り日の、興味深い作品を書 き続けて くれるのを望んでいることだろう。
〔なお、本稿 は日本英文学会第63会全国大会 (1991年 5月18日、明治大学)に於いて 口頭発表 した論旨に加筆 したものである。〕
<誼>
l Bernard Malamudは代表作 %θ И∬続
"′ の中で主人公 Morrisに「ユ ダヤ人 とは人の ために苦 しむもの」(Penguin Books,1967,p.113)と 独 自の、 しか し明確 な定義 を語 ら せている。
2 Wirth‐ Nesher, Hana. From Newark to Prague:Roth's Place in the American‐Jewish Literary Tradition,"hadingノ 効ilip Jb″,ed.Asher Zo Milbauer O Donald Go Watson
(New York:St Martin's Press, 1988),p.21.
3 拙 論 The True Meaning of Alex Portnoy's Desperate Struggle"(静岡大 学 教 育 学 部 研 究報 告<人文 0社会 科 学 篇>第40号)を参 照 され た い。
4 Roth,Philip.Portnρ/む 3omp■ain′ (Bantam Books, 1980),pp.164‐ 5.
5 敬 虔 なユ ダヤ教 徒 は豚 肉 を決 して 口 に しない こ とを考 えれ ば、 ポ ー トノイが ユ ダヤ女 性 に
pig"と 罵られたことには二重、三重の意味を読み取ることが出来るだろう。
6 Portnげ3(%″ルカ′,p.296.
7 Jones,Judith P.&Nance,Guinevera A.′榜i■ip′b̀" (New York:Frederick Ungar Publishing Co。, 1981), p.87.
8 Roth, Philipo rhc PrOたssοF οr Desire(Penguin BOoks, 1985), p.197.
9 ′り,υ.,p.263.
10 拙 論 「 想 像 力 の旅 立 ち 一一 フ イ リ ップ・ロス 動 θ ttοs′ Nr磯 の研 究一一 」 『ア メ リ
カ文学研究』第27号 (日本アメリカ文学会、1990)を 参照されたい。
1l Zuckermanシ リー ズ の大 方 の読 者 は これが ロス の悪 名 高 い 出世作 Portnνむ の η カ カ′
と対 応 す る こ とを難 な く理解 す る に違 い ない。
12 Roth,Philip.Zuckerm′ ″ 働bο JJ7こ 豹
̀オ
erma″ あ 〃″グ (New York:Farrar Straus Giroux, 1985),pp.404‐ 5。 ̲ 、
13 Roth, Philip. 7カθ4″′め璽y Zasson,2レ ckerma″ 』b″″グ, p.688.
14 Roth, Philip. 7カθ ttθ σL ん Zレ′力erman jb〃′グ, p.782.
15 ″♭」i1/.,p.784.
16カzkerm″ あ ″ ご 以 降、 ロス は 勤 θの ″ 黛斑e,2′″ め ″′勤 θ乃 あ と立 て続 け に 作 家 と主 人 公 の 互換 性 、 文 学作 品 の リア リテ ィーの疑 わ しさな ど、 ポス トモ ダ ンの 問題 を 扱った作品を発表 している。 これ らの作品では「アメリカ的価値」 と「ユダヤ的価値」の 相克は、文学や言葉の不確実性 と絡み合い、 ますますわか りにくく、 しか しそれだけ一層 興味深いもの となっている。 この点については今後の研究課題 としたい。