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真宗研究29号 004川添泰信「法然浄土教における生死の問題」

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Academic year: 2021

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法然浄土教における生死の問題

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︵ 龍 谷 大 学 ︶ は じ め に 仏教の根本的目的が転迷開悟にあることは言を侯たないであろう。そして仏教の歴史的展開の中においてその﹁悟﹂ また同時にその﹁迷﹂の根源に対する深い洞察がなされてきたのである。人 聞が﹁迷﹂であるということは、それは人聞が不確かな存在であるからだと思われる。不確かな存在であるからこそ、 のために種々の超脱の方法が思考され、 そこに確かなものを求めようとするのであろう。しかし我々の現実生活の中においていかに、不確かなものを確かな ものとして求めることの多いことであろうか。我々にとってもっとも身近であり、直接的である生と死にしても同様 であろう。生あるところには必ず死があるにもかかわらず、現代の人々の生と死についての考えは、 現代は死を忘れている時代であるといわれる。たしかに近代合理主義者は、人聞をさまざまな死の現象から遠ざ けることに成功した。現代人はもはや死を通して生を考えたり、生の一部分として死を見たりする習慣を失った。 ① 現代は生だけが満ちあふれでいる時代であるといえよう。 法 然 浄 土 教 に お け る 生 死 の 問 題 二 九

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法 然 浄 土 教 に お け る 生 死 の 問 題

といわれるように、現代人は死を生と切り離し死を忘却のかなたへとおしゃり、人間存在を生を中心として捉えてい るのである。それ故、端的に︿現代は生だけが満ちあふれでいる時代﹀であるといわれるのである。 し か し な が ら 、 現代は生のみが澗歩する世界ではあるといわれながらも、 最近、世界的に生と死の問題、あるいは死の観点から捉える生の問題が大きくクローズア γ プされるにいたった のは、今日における文明の成熟、時代の変化と深く関わっていよう。明日に対する無邪気な確信は消え、その代 わりに明日の死を見つめつつ今日を真剣に生きようとする気持、 そのために今日の生活の質と幅を能うる限り高 に め な 拡 り げ っ た

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求 そしていかにしたらよりよく充実した生を送り得るかという問いかけは猛然と切実なもの と述べられるように、文明の発展に伴なった問題として、人の未来に対する漠然とした生の確信も持てなくなり、 そ れ故、人間にはつねに、生のみがあるのではなく、 そこに明確な明日の死というものが考えられるようになったので ある。そしてそのために、現実の生の充実が真剣に問われるようになってきたのも事実である。しかしながら、仏教の 立場から更にいうならば、山口恵照氏は仏教の﹁出離生死﹂の伝統を考考し、そして最後に次のように述べられている。 出離生死の問題を仏教の原点にすえていささか考察したのであるが、この問題の背景はまことに大きく且つ深い、 ということがここに明らかとなったであろう。 ただし﹁出離生死﹂といっても、これは一般に現代の課題として 受け容れられるかどうか?﹁生死﹂にしても、 一般にすんなり受けとめられるかどうか?﹁生と死﹂が現代の常 識 か ら 、 また学識から一般に受け容れやすい点から見ると、これは問題であろう。 しかし現代の常識・学識はこ のようなところに留まっていてよいであろうか?﹁生と死﹂でなくて﹁生死﹂をこそ問題にすべきではなかろう か?﹁生死﹂の問題は総じて真実の﹁生きがい﹂や﹁福祉﹂の観点からも、避けることはできないと考えられる。

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そして﹁生死﹂をとり上げるとき﹁出離生死﹂が必然的にとり上げられなければならない。 ﹁ 生 死 ﹂ は ﹁ 出 離 生 死﹂においてはじめて明かされるからである。:::総じて﹁出離生死﹂において﹁生死﹂の解明を課題とすると ③ われわれは現代における人間の課題を宗教的一大事として自覚的にとりあげることになるであろう。 発 \ こ こ に 、 である。ここにも指摘されるように、 なお一般的には﹁生死﹂は﹁生と死﹂という形において、問題とされる傾向が 強 い の で あ る が 、 しかし仏教においては、生と死は﹁生死﹂として説かれ、 そ し て 、 今 日 、 それを﹁出離生死﹂とし て取りあげることが﹁生死﹂を解明することであり、 また現代の人間の課題を明確に自覚的に取りあげることになる と い わ れ る の で あ る 。 翻って浄土教をみると、ことに浄土教を確立したといわれる法然においてもこの生死の問題はきわめて顕著であっ たといわなければならない。 ではこの﹁生死﹂の問題を法然上人はどのように捉えていたのであろうか。生を、死を、 そしてその生死の超克について、 いかに捉えていたのであろうか。更には、どのような点に問題があったのであろう か。以下これらの点について論究をすすめたい。

浄土教は往生浄土を究極的目的とするものであるが、このことをもっとも明確に主張したのは法然である。先に生 死の問題は法然においても、ことに顕著であるといったが、法然の主著﹃選択集﹄の第一章﹁二門章﹂では、道縛の ﹃ 安 楽 集 ﹄ を 引 文 し て 、 安楽集の上に云く問て云く:::何に因てか今に至るまで、 なお自ら生死に輪廻して、火宅を出でざるや、答て日 く、大乗の聖教に依るに、良に二種の勝法を得て以て生死を排はざるに由る。是を以て火宅を出でざるなり︵真聖 法 然 浄 土 教 に お け る 生 死 の 問 題

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法 然 浄 土 教 に お け る 生 死 の 問 題 全 一 巻 九 二 九 貰 ﹀ と明かされている。その意味は、衆生が今現在に至つでもなお生死界に流転し、火宅にとどまっているのは、大乗の 聖教である二種の勝法によって生死を超脱しないからである。ということであるが、ここでいわれる二種の勝法とは、 る 、 と い う こ と と 、 一つは聖道円であり、他は浄土円である。そして、聖道門は釈尊が入滅されて、すでにはるかに時代が遠ざかってい また教の理が深くなったのに対し、それを鰐ゲいうことが極めて少なくなった。というこつの理 由において得道の者は一人もないと主張するものであり、それ故現今の末法の時においては浄土門のみが唯一の得道 であると述べるのである。そして又、第八、 コ 一 一 心 章 ﹂ の 私 釈 に お い て は 、 当に知るべし、生死之家には疑を以て所止と為し、浬撰之棋には信を以て能入と為す︵真聖全一巻九六七頁︶ と い わ れ 、 更 に 、 ﹃選択集﹄の結語ともみられる﹁三選之文﹂においては、 夫 れ 速 に 生 死 を 離 れ ん と 欲 は ば 、 二 種 の 勝 法 の 中 に : : : ︵ 真 聖 全 一 巻 九 九

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頁 ﹀ と明かしているのである。それは、閣聖道門・抽雑行・傍助業とし末法五濁のわれらは入浄土門・帰正行・専正定と し て 仏 願 に 順 守 す る 称 名 行 を な さ ね ば な ら な い と す る も の で あ る 。 かくてこれらの主張の根抵にいかに生死が問題にな っ て い た か を 知 る こ と が で き 、 また、法然浄土教の中において、生死はもっとも基本的な課題であったということを 知 る こ と が で き る の で あ る 。 そ れ で は 更 に 、 その生死はどのようなかたちにおいて問題となされるのであろうか。 ﹃浄土宗大意﹄において、法然は次のように述べている。 聖道門といふは、裟婆の得道なり、自力断惑出離生死の教なるかゆえに::・浄土教といふは、極楽の得道なり、 他力断惑往生浄土門なるかゆえに:::聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴に @ か へ り て 極 楽 に む ま る と 云 云 ︵ 昭 和 新 修 法 然 上 人 全 集 四 七 二 頁 ︶

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で あ る 。 そ し て 更 に 、 ﹃ 十 二 箇 条 の 問 答 ﹄ に お い て は 、 たとへはおもき石をふねにのせつれは、 しつむ事なく万里のうみをわたるかことし。罪業のおもき事は石のこと くなれとも、本願のふねにのりぬれは生死のうみにしむつ事なく、 かならす往生する也。ゆめノ\わか身の罪業 によりて、本願の不思議をうたかはせ給ふへからす。これを他力の往生とは申す也。自力にて生死をいてんとす るには、煩悩悪業を断しつくして、浄土にもまいり菩提にもいたると習ふ。これはかちハ歩と註あり H 筆者︶よ り け は し き み ち を ゆ く か こ と し ︵ 昭 新 法 全 六 七 三 頁 ︶ と明かしている。即ち、聖道門と浄土門とを対比して、 聖道門|||自力断惑出離生死・断煩悩悪業・智慧をきわめて生死をはなる。 浄土門||他力断惑往生浄土・乗本願||愚痴にかえりて極楽にむまる。 と区別しているのである。このことからも推測することができるのであるが、聖道門も静土門も共に生死を断惑する という点においては同一であるが、 しかし、聖道門においては、それは、智慧を究めるということにおいてなされる こ と で あ り 、 その智慧によって生死を生死として見究め、 そして人間の煩悩悪業性を断じっくすのである。それに対 して、浄土門は、生死そのものが一体いかなるものであるのかと見究める必要はないのであり、それは既にある重き 罪 業 と し て 、 そ の ま ま 願 力 に 乗 托 し て 、 そして、行者は還悪愚痴の自覚に立ち帰って極楽に往生するのである、とい われるのである。ここでは、聖道門、浄土門共に生死を問題としながらも、その立場はそれぞれ異なる方向の解決法 としてあるということができるのである。 法 然 浄 土 教 に お け る 生 死 の 問 題

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法 然 浄 土 教 に お け る 生 死 の 問 題 四

法然において、浄土門の立場は還愚痴乗願力往生極楽であるという主張をみたのであるが、 で は 更 に 、 そのような 理解の下において、現実の人間の生の世界はどのようにみられていたのであろうか。 ﹂の点について法然は﹃西方 指南抄﹄所収の﹁要義問答﹂の中において次のように述べている。即ち、 まことにこの身には、道心のなき事と、やまひとはかりや、 な け き に て 候 ら む ・ ・ ・ : ・ 無 常 の か な し み は 、 め の ま え に み て り 、 い つ れ の 月 日 お か 、 おはりのときと期せむ。さかへあるものもひさしからす、 いのちあるものもまた うれえあり。すへてといふへきは六道生死のさかひ、 ねかふへきは浄土菩提なり。天上にむまれてたのしみにほ こ る と い え と も 、 五衰退没のくるしみあり、人聞にむまれて国王の身をうけて、 一四天下おはしたかふといえと も、生老病死愛別離苦怨憎会苦の一事もまぬかる L 事 な し ︵ 昭 新 法 全 六 一 一 一 一 頁 ︶ である。現実の人間世界は夢幻の無常なる世界なのである。そこには、末法思想によって、今まさに末法の時代には ⑤ いったという自覚も同時に考えられなければならないのであるが、いづれにしても、現実の世界、および人聞はうっ ⑥ それは、きわめて﹁人間﹂的実感に基づくものとみることができ ろいゆく無常なる存在として捉えているのであり、 る。法然にとって現実の世界は強烈な意味において無常なのであるが、 とすればその世界に住む人間もまた苦しみ多 い 存 在 な の で あ り 、 先 に も 人 聞 は 、 たとえ国王として生まれたとしても四苦八苦のどの一つもまぬがれることはでき な い と い わ れ 、 更 に 、 そのことを仏教的に﹁六道生死﹂ ﹁ 此 の 裟 婆 世 界 の 身 八 苦 五 苦 三 悪 道 の 苦 ﹂ ﹁ 六 道 四 生 に め く り しー ﹁ 無 始 以 来 の 生 死 輪 廻 ﹂ ﹁三有輪廻﹂という表現で随所に明かしているのである。即ち、この現実の人間の生は、 仏教の説く無始以来輪廻する生であり、 いかに苦しみ多い裟婆世界であるかということを力説強調しているのである。

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⑦ そしてまた、人聞の生は、同時に罪業なる存在なのである。それは勿論、昔卓三泊寸の﹁散善義﹂や﹃法事讃﹄の文を受け る も の で あ ろ う が 、 ﹃ 三 部 経 大 意 ﹄ に お い て は 、 次に深心は深信の心なり:::初に先つ罪悪生死の凡夫、噴劫より己来、出離の縁あることなしと信せよと云える、 是 即 ち 断 主 口 の 闇 提 の 如 き も の な り 。 ︵ 昭 新 法 全 三 六 頁 ︶ と明かされ、更には枚挙にいとまのないほど、 ﹁ 五 十 億 劫 の 生 死 の 罪 ﹂ ﹁ 八 十 億 劫 の 生 罪 の 罪 ﹂ ﹁ 無 量 阿 僧 祇 劫 の 生 死の罪﹂と述べられるように、生は罪悪としても捉えられるのであり、それは仏教一般においては成仏の望みのない 断善根の闇提として、人間存在のあり方をきわめて深く捉えているのである。 かくて法然における現実世界は極めて 実感的に把握される無常なる世界であり、 またそこにある人間の生は苦界を輪廻する存在であると共に、 ま た 同 時 に 、 罪業深き存在でもあると捉えられていたのである。 四 死 に つ い て 現実に対する無常感が強ければ強いほど捨てさらねばならない生に対する関心よりも、 いつ現身に起こるともわか らない死に対して関心が集中するのは必然的なことといわなければならない。 ではその必然としてある死を法然はど のように捉えていたのであろうか。この点、法然においては極めて具体的に説示されるのである。即ち、 ﹃ 往 生 浄 土 用心﹄において死の瞬間の様相を次のように明かしている。 かろきやまひをせんといのり候はん事も、心かしこくは候へとも、やまひもせてしに候人も、うるわしくおはる 時には、断末魔のくるしみとて、 八万の塵労門より、無量のやまひ身をせめ候事、百千のほこつるきにて、身を きりさくかことくして、見んとおもふ物をもみす、舌のねすくみて、 いはんとおもふ事もいはれす候也。これは 法 然 浄 土 教 に お け る 生 死 の 問 題 一 五

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法 然 浄 土 教 に お け る 生 死 の 問 題 ム ノ、 人 間 の 八 苦 の う ち の 死 苦 に て 候 ︵ 昭 新 法 全 五 六 三 頁 ﹀ である。即ち、人間の死の断末魔の苦の相を、身体は剣によって切り裂れ、目は自由にものをみることができず、又、 口は自由にものが言えなくなるというように、極めて具体的なかたちにおいて述べているのである。そして更に﹁法 然聖人御説法事﹂においては、 お も は く 、 病 苦 を せ め て 、 まさしく死せむとするときには、 かならず境界自体当生の三種の愛心をおこすなり。 ︵ 昭 新 法 全 一 六 八 頁 ︶ ③ と明かしているのである。それは、源信の﹃往生要集﹄の中の﹁臨終行儀﹂に述べられているところのものであるが、 人聞が死を向かえるときには、自分の身の回りのものに対する愛着、更には、自分自身に対する愛着、そしてこれか ら生まれるであろうところの世界に対する愛着、という三種の執着による愛心が生ずるとも明かしているのである。 このように人間の死態はきわめて苦しみ多いものであり、この死の苦しみはいかにしてか解決しなければならないの である。そして、この死苦からの解放として浄土教においては臨終来迎が説かれるのであるが、法然は、念仏者が臨 @ 終に際する場合には、第十八願の念仏の得益として第十九願の臨終来迎があると明かすのである。即ち、 ﹃ 選 択 集 ﹄ の 随 所 に も み る こ と が で き る が 、 ﹃ 一 ニ 部 経 大 意 ﹄ に お い て は 、 如 此 種 々 の 硬 を 除 か 為 に 、 しかし臨終の時にみつから菩薩聖衆囲漉して、其人の前に現せむと云ふ願を建て給え り。第十九の願是也。是によりて臨終の時にいたれは、仏来迎し給ふ。行者是を見て、心に歓喜をなして、禅定 に入か如くにして、忽に観音の蓮台に乗りて、安養の宝利に至るなり。此等の益あるか故に、念仏衆生摂取不捨 と 云 え り 。 ︵ 昭 新 法 全 三 二 頁 ︶ と念仏者の臨終について明かしているのである。そこでは、念仏者は仏の来迎があるが故に心に歓喜を生じ、又、禅

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定に入るような心の平安をもって臨終を向かえることができるというのである。それは、先にみた現実の人間の死に 際する様相がいかに惨状を呈するものであるかを踏まえた上で念仏者の得益として語られるのであろう。 しかしなが ら、法然においては同時に死態を問題としていないような見解もみられるのである。即ち、 ︵ も と ︸ ︵ あ ︶ 円

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より念仏を信せん人は、臨終の沙汰をは口なかちにすへき様もなき事なり。仏の来迎一定ならは、臨終の正 ﹃ 浄 土 宗 略 抄 ﹄ に は 、 念 は 、 また一定とこそはおもふへきことはりなれ。 ︵ 昭 新 法 全 五 九 七 頁 ︶ と 明 か さ れ て い る 。 そ れ は 、 臨終の場において正念でなければならないというような沙汰をする必要はないのであり、 念仏を信ずる人は仏の来迎があるがゆえに、臨終には正念であるというのである。そして更にまた、 ﹃ 百 四 十 五 箇 条 問 答 ﹄ に お い て も 、 臨終に、善知識にあひ候はすとも、 日ころの念仏にて往生はし候へきか。 答。善知識にあはすとも、臨終おもふ様ならずとも、念仏申さは往生すへし。 ︵ 昭 新 法 全 六 五 七 頁 ︶ と述べている。すなわち、臨終において善知識に会うことがなくても、 またその場においてたとえ正念でなくても、 ことさらそのことを問題とする必要はないという理解もみることができる。それは、平生の念仏の業成就においてい われることであり、平生の念仏の業が成就しているならば、必然的に臨終において仏の来迎があるのであるから臨終 をことさら問題とする必要はないのである。したがってそれは、 いかに称名念仏が重要であるかを主張しているもの と も 考 え ら れ る の で あ る 。 では更に、この生死の超克はいかにして可能なのであろうか。またその超克の中に問題は ないのであろうか。次に考察を進めたい。 法 然 浄 土 教 に お け る 生 死 の 問 題 七

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法 然 浄 土 教 に お け る 生 死 の 問 題 J¥

法然の宗教観を貫くもっとも根底にあるものは、それは、現実に対する強い認識であったと考えられる。それ故、 上述のような、現実世界に対する無常の理解も、 また人間の煩悩性、罪悪性もみられるのであり、この立場に立つが ゆえに、臨終の来迎も説示されなければならなかったのであろう。しかしながら、けっして生死についても大乗仏教 ⑮ の理念である一切皆空の原理を排除しているのではないのである。即ち、 ﹃ 法 然 聖 人 御 説 法 事 ﹄ の 中 に お い て 、 観 経 ﹄ の ﹁ 上 品 中 生 : : : 善 解 ユ 善 趣 一 於 コ 第 一 義 一 心 不 一 一 驚 動 一 深 信 − 一 因 果 一 不 レ 詩 − 一 大 乗 こ ︵ 真 聖 全 一 巻 六 一 頁 ︶ の 文 を め ぐ って、この文は理観の往生を明かしているのであり、 それは、諸宗においてそれぞれ異なっているといい、天台・真 一 士 一 口 ・ 法 相 ・ 三 論 の 理 解 に つ い て 述 べ て い る の で あ る 。 そ し て 吏 に 、 浄 土 教 の 先 達 者 で あ る 善 導 の 意 に 依 る な ら ば と し て 、 今暫く善導の御意に依らは、只善解と云て、 未 論 其 行 と 一 五 え り 。 必 し も 可 レ 修 レ 観 不 レ 見 、 只大乗空寂の義を能く 心得たる許なり。即其尺云。能大乗の空義解、或は諸法は一切皆空なり、生死無為も文空なり、凡聖明闇も又空 なり、世間の六道、出世間の三賢、十聖等も、其体性に望れは畢寛不二也と︵昭新法全一八

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頁 ︶ と明かしているのである。このように、凡聖明闇六道三賢等もその性においてみるならば不二であり、生死を含む一 切はすべて空であるとおさえてみても、法然においては、現実にある人間の生死の苦しみをみのがすことはできなか ったのであり、それ故、念仏の得益として臨終来迎が説示されたのであろうと思われる。 その臨終来迎はどのような意味においてあるのであろうか。同じく﹃法然聖人御説法事﹄ y − マ サ γ ﹃ 阿 弥 陀 経 ﹄ の ﹁ 其 人 臨 − 一 命 終 時 ﹁ 阿 弥 陀 仏 、 輿 ニ 諸 聖 衆 一 現 在 ニ 其 ﹄

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− − − ﹂ ︵ 真 聖 全 一 巻 六 九 頁 ︶ の 文 を 理 解 す る 中 に で は 、 において法然は

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おいて次のように述べている。即ち、 しかれは臨終正念なるかゆへに来迎したまふにはあらず、来迎したまふかゆへに臨終正念なりといふ義あきらか なり。在生のあひた往生の行成就せむひとは、臨終にかならず聖衆来迎をうへし。来迎をうるとき、たちまちに正 念に住すへしといふこころなり。 し か る に い ま の と き の 行 者 、 おほくこのむねをわきまえすして、 ひとへに尋常 の行においては、怯弱生して、はるかに臨終のときを期して正念をいのる、もとも僻韻なり︵昭新法全一六九頁︶ である。臨終において、正念であるがゆえに仏の来迎があるのではなく、仏の来迎があるがゆえに臨終に正念に住す る と い う の で あ る 。 しかしながら、近時はこのことを理解することなく、臨終の時ばかりを念じて、平生の念仏がお ろそかになるようであるが、このことはもっての外であると強く誠めているのである。そして、現実の世界において は、ともあれ念仏の申されるようにすぐべきであると明かしているのである。即ち、 ﹃ 禅 勝 房 伝 説 の 詞 ﹄ に は 、 又いはく、法爾道理といふ事あり。ほのをはそらにのぼり、 みづはくだりさまにながる。菓子の中にすき物あり、 あまき物あり、これらはみな法爾道理也。阿弥陀ほとけの本願は、名号をもて罪悪の衆生をみちびかんとちかひ 給 た れ ば 、 た

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一向に念仏だにも申せば、仏の来迎は、法爾道理にてそなはるべきなり。同集 又いはく、現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐベし。念仏のさまたげになりぬベくば、 なになりとも よろづをいとひすて L 、 こ れ を と ど む べ し 。 ︿ 昭 新 法 全 四 六 二 頁 ︶ で あ る 。 かくして、称名念仏をすることによって仏の来迎があり、それゆえ正念に住し、往生できるわけであるが、 往生するならば成仏まで、もう二度と苦としての生死に住することはないのである。そのことを﹃選択集﹄には﹃往 生 礼 讃 ﹄ の 文 を 引 い て 、 前念に命終して後念に即ち彼の国に生まれて長時永劫に常に無為の諸楽を受く、乃至成仏まで生死を運ず、畳快 法 然 浄 土 教 に お け る 生 死 の 問 題 九

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法 然 浄 土 教 に お け る 生 死 の 問 題 四 0 きに非や︵真聖全一巻九四

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頁 ﹀ と い わ れ 、 又 、 ﹃ 逆 修 説 法 ﹄ に は 、 次に宝樹とは:::亦老死の者なく、亦小生の者なく、亦初生漸長の者なし。起れは即ち同時に頓に起て、量数等 斉なり。是れ彼の界は無漏無生にして生死漸長の義あることなきを以てなり。 ︵ 昭 新 法 全 三

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二 一 良 ︶ と明かしているのである。往生したならば、 その浄土一は無漏無生の世界であるから必然的に生死もないのであり、そ れゆえ、六道回生の輪廻界に廻るということもないのである。それでは、生死の問題は往生浄土するという意味にお いて全面的に解決したのであろうか。自己が念仏し往生し成仏するということで生死の問題は解決したとすることが できるのであろうか。確かに間違いなく自己の生死の問題は解決されたのであろうが、 し か し 、 それでは、大乗菩薩 道の原理である上求菩提下化衆生の理念にそぐはないものとなってしまうのではないであろうか。法然においても自 己 の 往 生 、 そして修行の後の成仏のみで生死の問題が解決したとはいわれないのであり、それは、善導の﹃観経疏﹄ ﹁散善義﹂において明かされる至誠心・深心・廻向発願心の三心の中、廻向発願心の廻向を解釈する文の中において みることができる。即ち﹃選択集﹄では﹃観経疏﹄の文を引いて、 又 廻 向 と 言 は 、 彼 の 固 に 生 じ 己 て 、 還 て 大 悲 を 起 し て 、 生死に廻入して衆生を教化するを、 亦廻向と名くる也 ︵ 真 聖 全 一 巻 九 六 五 頁 ︶ と述べられている。すなわち、廻向とは、往生の後、大悲心を起して再び生死界に還るものとして示されるのである。 そ し て こ の 点 に つ い て 、 ﹁ 鎌 倉 の 二 位 の 禅 尼 へ 進 ず る 御 返 事 ﹂ に お い て は 、 かかる不信の衆生をおもへは、過去の父母兄弟親類也とおもひ候にも、慈悲をおこして、念仏かかて申て、極楽 の 上 品 上 生 に ま い り て 、 さとりをひらき、生死にかへりて、誹諒不信の人おもむかへむと、主同根を修しては、 お

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ほ し め ず へ き 事 に て 候 也 。 ︵ 昭 新 法 全 五 二 九 頁 ︶ と明かされている。それは、念仏の往生者は再度生死にかえって誹誘不信の人といえども極楽に迎えんとするべきで あるといわれるのである。そして更に、このことは﹃百四十五箇条問答﹄においてもみることができる。即ち、 ながく生死をはなれ、三界にむまれしとおもひ候に、極楽の衆生となりても、又その縁っきぬれは、この世にむ ま る と 申 候 は 、 ま 事 に て 候 か 、 たとひ国王ともなり、天上にもむまれよ、 た t A 三 界 を わ か れ ん と お も ひ 候 に 、 し かにつとめおこなひてか、返し候はさるへき。 う

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と これもろノ\のひか事にて候。極楽へひとたひむまれ候ぬれは、 な か く こ の 世 に 返 る 事 候 は す 、 みなほとけ に な る 事 に て 候 や 。 た L し人をみちひかんためには、ことさらに返る事も候。されとも生死にめくる人にては候 は す 。 ︵ 昭 新 法 全 六 五 二 頁 ︶ と述べているのである。確かに自己の往生成仏だけが問題なのではなく、同時に、 一切衆生を生死界から救済しなけ ればならないのであり、法然においても、 ﹁廻向﹂の理解としてそのことをみることができるのであるが、 しかしな がら、廻向は念仏往生者として必ずなさなければならないことがらであるというのではなく、 ﹁ こ と さ ら に 返 る 事 も 候﹂といわれる点において十分積極的な意味において廻向が語られていたかということになると、 いささか疑問が残 るのではないであろうか。ともあれ、法然の主眼は、現に無常界にあり、生死の世界に流浪する衆生にあったのであ り、その人々を念仏に導くことこそがもっとも重要な問題点であったと考えられ、 それ故、往生後の廻向の思想は全 般的にはあまり十分に語られなかったのであろうと思われるのである。 以上論述の稚拙さのために不十分なところが多いかと思われるが大方の御叱正が願えれば幸甚である。 法 然 浄 土 教 に お け る 生 死 の 問 題 四

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法然浄土教における生死の問題 ② ① 註 ﹃ 宗 教 学 辞 典 ﹄ ︵ 四 八 六 頁 ︶ 前 田 恵 学 氏 ﹁ イ ン ド の 死 生 観 ﹂ ﹃ 生 と 死 ﹄ I ︵ 東 京 大 学 教養講座 9 ︶﹁講義概要﹂︵八

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頁 ︶ 山 口 恵 照 氏 ﹁ ﹁ 出 離 生 死 ﹂ 註 の 9 ﹃ 日 本 仏 教 学 会 年 報 ﹄ 第 四 十 六 号 ︵ 三 七 J 一 二 八 頁 ︶ ﹃ 昭 和 新 修 法 然 上 人 全 集 ﹄ 以 下 は 昭 新 法 全 と 略 称 す 。 拙稿﹁西方指南抄の一考察﹂二末法と人間﹃宗学院論 集 ﹄ 五 一 号 ︵ 四 頁 以 下 参 照 ︶ 。 西川知雄氏は﹃法然浄土教の哲学的解明﹄において﹁法 然の論理は未救済の論理であり、従って世間的論理であ り、それ故まさに人間的論理である﹂といわれ、更に ﹁法然は人間の次元に於て人聞を見﹂たといわれてい る 。 ︵ 八 、 九 頁 ︶ ﹁ 一 三 者 決 定 深 島 町 ニ 自 あ 乱 是 罪 悪 生 死 凡 夫 畷 払 , 己 来 、 住 没常流転無 v ︼ 一 出 離 之 縁 乙 ︵ 真 聖 全 一 巻 五 三 四 頁 ︶ ③ ⑤ ④ ⑥ ⑦ 四 ⑨ ③ − a p ピ ノ 品 テ ノ ﹁汝等衆生、噴劫己来及以今生身旦曇末、於二切凡聖 ノ Z 9 テ 身 上 ﹁ 具 造 − 一 十 悪 ・ 五 逆 ・ 四 重 ・ 誇 法 ・ 間 提 ・ 破 戒 ・ 破 ノ ヲ 〆 ︽ ス ル ー キ ノ ノ 見 等 罪 一 未 レ 能 − 一 除 尽 こ ︵ 真 聖 全 一 巻 五 三 八 頁 ︶ 、 ﹁ 如 レ 此 M V テ ヲ グ ス ヲ グ 生 盲 闇 提 輩 、 致 − 一 滅 頓 教 一 永 沈 治 。 超 一 一 過 大 地 微 塵 劫 二 木 レ 可レ離ニ三塗身こ︵真聖全一巻六

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五 ︶ ﹃ 真 聖 全 ﹄ 一 巻 ︵ 八 五 九 頁 ︶ 。 信楽峻麿氏﹃浄土教における信の研究﹄第第六章、第二 節﹁法然における行道思想﹂では、法然において、臨終 来迎が第十八願の念仏行者の得益として捉えられている 点について、それは道綿、善導らを超える領解であるこ と が 指 摘 さ れ て い る 。 ︵ 三 九 三 頁 ︶ 石田充之氏﹃親驚教学の基礎的研究﹄凸所収三二、法 然教学の基本的意義﹂の﹁五浄土一宗念仏一行専修の主 張の大乗仏教的な基本的意義について﹂においては、い かに法然において大乗仏教的理念が介在していたかにつ い て 明 か さ れ て い る 。 ︵ 二 五 七 頁 ︶ ⑬

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信号を時々無視するとしている。宗教別では,仏教徒がたいてい信号を守 ると答える傾向にあった

レーネンは続ける。オランダにおける沢山の反対論はその宗教的確信に

EC における電気通信規制の法と政策(‑!‑...