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真宗研究52号 012赤松徹真「総戦力下の神仏問題と本願寺派「宗制」」

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総戦力下の神仏問題と本願寺派

龍谷大学

は じ め に ﹁国防国家体制﹂﹁総力戦体制﹂の確立という政治課題は、一九三七年七月の日中戦争の全面的展開を転機とし て急浮上した。満州事変以後の膝着化した戦況は、中国側の抗日戦線の拡大を物語るものであるが、戦局の新展開 を日本にせまるものとなり、軍事の一元的統率という軍事分野にとどまらず、国民の精神的喚起による人心の二克 的掌握による国民動員の強化を目指すことになった。それは、国家の政治的機能の強化であり、国家の宗教性の顕 在化に関わる諸問題を惹起することになった。明治以降の政府の基本方針としては、神社神道非宗教説による実質 的な国家神道体制を形成し、諸宗教に﹁超越﹂して国民道徳として神社神道への崇敬を国民に求めるものであった が、国家的危機感の高揚は、政府の方針見直しを含め、神社神道の宗教性の顕在化による﹁祭政一致﹂的国家への 一元化を促す主張・集団などの台頭をもたらした。 仏教界にとっては、明治以降の神社神道非宗教説にもとづく政教分離・信仰の自由という﹁疑似﹂近代国家の理 念を受容して、そのもとで仏教界のいわゆる近代化に取り組んできた。しかしながら、政治状況の緊迫化に伴、つ国

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家の宗教性の顕在化は、神仏間の緊迫化、すなわち神道家による仏教批判、﹁公葬問題﹂、仏教界にあって神祇祭記 に関して﹁不拝﹂﹁外道﹂と位置づけてきた真宗教団にたいする批難の高揚となり、それへの仏教及び真宗教団の 対応が迫られることになった。さらに、 ファシズム化の進展と一体となった宗教界に対する一元的な国家統制法で ある宗教団体法の公布・施行は、各教団に対して宗教団体法に準ずる法規作成による監督官庁の文部省への認可手 ︵ I ︶ 続 き を 求 め る も の で あ っ た 。 本稿は、先に一九三九︵昭和四︶年の神社制度調査会開設の動向とそれへの真宗教団の対応を検討した後に、総 力戦下の神仏問題に関わる本願寺教団の対応の検討、さらに宗教団体法の公布・施行への対応として本願寺教団の ︵2 ︶ ﹁宗制﹂とその性格について若干の検討を加えることを目的とするものである。 周 知 の よ う に 、 一九二九︵昭和四︶年十二月九日に神社制度調査会官制が発布された。その日的は、第一条に ﹁神社制度調査会は内務大臣の監督に属し其の諮問に応じて神社制度に関する重要事項を調査審議す 神社制度調 査会は神社制度に関する重要事項に付関係各大臣に建議すること得﹂と述べるように、内務大臣の諮問に応じるた めに神社制度に関する調査・審議を目的とするものであった。第二条には、﹁神社制度調査会は会長一人委員三十 人以内を以て之を組織す特別の事項を調査審議する為必要あるときは臨時委員を置くことを得﹂、第三条には、﹁会 長は内務大臣の奏請により之を勅任とす 委員及び臨時委員は内務大臣の奏請に依り内閣に於て之を命ず﹂と記さ れ た 。 第 一 回 委 員 会 総 会 は 、 一九二九︵昭和四︶年十二月十七日に東京市麹町区外桜田町内務大臣官邸で聞かれ、山川 総 戦 力 下 の 神 仏 問 題 と 本 願 寺 派 ﹁ 宗 制 ﹂

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総戦力下の神仏問題と本願寺派﹁宗制﹂ 二 O 六 健次郎会長の挨拶に続き、安達謙蔵内相は、 内務省に於ては神社制度に関して大正十五年度より臨時職員を置き種々調査を行ひつつあるが神社制度は団体 及び国民の精神生活にも関係を有する大問題であり又地方民族習慣とも離る可らざる因縁がある、之を整備統 一するに就ては種々複雑なる問題もあり軽々に決定することは出来ないと思ふ、今回、権威ある方々に御願ひ して慎重に調査を遂げ神社制度の整備の統一の上に遺憾なきを期したい、宜しく各位の御尽力を願ふ云々 と述べ、安達は神社制度が﹁国体及び国民精神生活﹂に関係する大問題で、﹁地方民族習慣とも離る可らざる因縁 がある﹂と、神社制度の整備に向けの調査・審議について挨拶した。第二回委員総会は、 一 九 三

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︵ 昭 和 五 ︶ 年 二 月二十八日に内務省社会局会議室で聞き、﹁︵呂田弊杜以下神社の維持経営を確実にする方策如何﹂について審議し た。その際、貴族院議員の水野錬太郎委員は、 神社と宗教法との関係如何、宗教法の制定に先だちて神社法を制定する考へなりや如何、神社制度調査会に於 ては神社の根本問題を審議するや如何、政府は従来神社を宗教に非ずといってゐたようだが其方針を以て神社 法を制定する考へなりや如何、神社法といふ統一的の法を制定する考へなりや或は個々の条文を設けて内務省 令又は勅命となす考へなりや知何、神社法は宗教法と相並んだものとして制定するか、又は単に神社法のみ制 ︵ 4 ︶ 定する考へなりや如何。 と、審議の論点をあげて政府の方針を質した。第三回委員総会は、六月二十八日に内務省大臣官邸で開会し、水野 委員の質問に答えて、安達内相は、 従来政府は神社を以て全然宗教と区別して取扱っている、神社が学問上広い意義に於て所調宗教の範類に這入 るかどうかは別問題としまして、日本の国家と神社との特別の関係を思ひますれば、神社はどうしても所調国 家の宗祖として永遠に之を尊崇しなければならぬものでありまして、従来制度上、神社を全然宗教と区別して

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取扱ひ来ったことは至当のことと存ぜられますから将来とも此の方針でまゐりたいと考へて居ります、また神 社に於ける祈祷や神札授与などの行為が問題となって居りますが、此等の行為は古来の民族的習慣に基く神社 尊崇の現はれとして神社そのものと共に、従来一般の宗教行為とは区別せられて居ります。要するに、神社は 我国独特の制度といたしまして特殊の地位を有するのでありますから、政府と致しましでも唯今までの所では 従来の取扱方針を変更しゃうといふ考へは致して居りませぬ、併しながら時勢の進展に伴ひまして神社の制度 を明確にしゃうとする場合の制度を明確にしゃうとする場合に於きましては、諸般の制度との調和、権衡考慮 しなければならず、神社に於ける個々の現象に関しても相当の説明が加へらるる必要があるかも知れぬと存ぜ られますから、此の辺に就きましては追々各位の御腹蔵なき意見を承りまして善処したいと考へて居ります。 ︵ 5 ︶ ︵ 以 下 略 ︶ と述べて、﹁従来制度上、神社を全然宗教と区別して取扱ひ来った﹂政府方針・見解を踏襲しながらも﹁時勢の進 展﹂に対応する必要を答弁した。七月二日には山川会長の指名による十五人が神社制度調査会特別委員に任命され た。第一回特別委員会は、七月十二日に内務省社会局会議室で開会し、特別委員長には互選により江木千之が選ば れて、諮問案﹁官国弊社以下神社の維持経営を確実にする方策如何﹂について審議し、その後、第二回特別委員会 は十月二日内務大臣官邸で、第三回は十月二十七日内務大臣官邸で、第四回は十一月十九日内務大臣官邸で開会し た。これらの委員会での意見としては、 一、信仰上神社は宗教と見なすべきであるか又は宗教の圏外に置くべきものであるかは従来と難も屡々問題と なったが之は本諮問に対する答申決定上大いに研究の余地がある。 一、神社と附属議社との関係即ち講社の中には宗教的色彩を多分に含んでゐるものもあるが其等の点を判然と して置くことが必要である。 総戦力下の神仏問題と本願寺派﹁宗制﹂

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総戦力下の神仏問題と本願寺派﹁宗制﹂ 0 J¥ 一、祭記を以て国家の宗聞とする制度は如何なる根拠を以て成り立ち来ったか其沿革知何。 ︵ 6 ︶ 一、日本国民は現在に於て必ず神社の氏子となることの建前になってゐるが其根拠如何。 などが出されたのである。さらに﹁神社奉斎の神と宗派神道の主神とが同一なるものあるに一は非宗教、 一 は 宗 教 となれる理由如何﹂などが出された。 仏教界は、この神社制度調査会の動向に対して注視していた。真宗十派からなる真宗各派協和会は、 九 九 ︵昭和四︶年四月十四日に真宗各派協和会神社制度調査会規程を作成し、調査会を設置した。調査委員長には真宗 木漫派管長木建孝慈が就任し、調査委員、調査嘱託を置き、理事には花田凌雲、下間空教、奥博愛らが、幹事には 先三人と市田勝道を選出した。そして、神社問題について、﹁神社の本質上、宗義上、法制上から、また神社を公 法人、私法人﹂としての調査研究を行うことになった。また、神道十=一教派当局者から組織していた神道各教派連 合会では、神社制度調査会の設置以来、臨時会合をかさねて神社問題に関する調査を行っていた。日本基督教連盟 でも一九二九︵昭和四︶年十一月に神社問題調査委員をおいて神社問題に関する調査を行った。 先の真宗各派協和会は、﹁卑見﹂と題する声明書を浜口雄幸首相、安達内相、田中隆三文相、及び神社制度調査 会委員に提出した。この声明書は、明治以降の神仏関係に関わる真宗教団の立場を改めて明確に表明するもので、 また政府に神社神道非宗教説にもとづく、神社崇敬国民道徳説という従来の方針堅持を求めるものであった。長く なるが、真宗各派協和会の声明をあげておく。 神社非宗教は明治中葉以来政府の固持し来れる伝統政策なりとせらるる事は最も正当なる見解なるべし。若し 国家が宗教を直営すとせば、自ら他宗教に対する圧迫となり、宗教圧迫は憲法の採摘となるものなれば、神社 は断じて宗教との交渉を有せざる国民道徳の中心たらざるべからず。然るに、現在の神社には種々の宗教的意 義の附随を許すもの少からず祭事の如きも報本反始の感謝観念よりも寧ろ功利的祈願を主とし、且つ宗教信念

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に投合する神符護札を授与する如き祖先の霊の威力万能を認め幽明相通ずる宗教信仰の内容を帯ぶ事ありて神 社本来の性質が祖先崇敬大義に存するものなることを没却し、各自の宗教信念を有する多数国民の崇敬をして 不可能ならしむるものなきに非ず。且つ之が一般国民に及ほす影響に至りでは自ら純粋なる国民道徳的意義を 忘失せしめ単に吉凶禍福を祈願する功利的迷信によって神社を崇拝するもの多数ならしむるに至るべし。之れ 実に国家の為に憂ふべき傾向なりと云はざるべからず。きれば、神社をして健全なる一般国民の崇敬対象とし て何等の障碍・なからしむるためには、政府年来の伝統政策を徹底せしめて全国神社の現状を調査し其設備行事 より其在来の慣習によって附随せる宗教味を除却し、祭記に当たりても祭神の功業遺徳を讃頃し祈念する純正 国民道徳の宣揚に誠意を凝らすものたらしめんことを必要とす。殊に府県社以下祭神の如き固より既に整理せ られて邪神淫嗣を雑へずと称せらるるも、之を崇拝する世俗一般の信念よりすれば殆ど動植物崇拝の低級なる 原始宗教に近きものありて、往々にして驚くべき迷信によって神徳の汚されつつあるものなしとぜず。これが 浅薄なる功利的祈轄の念と相待ちて弊害百出、其事例は枚挙に逗あらざるものなしとせず。国家の直営と認む べき神社にして、其内容に斯かる悪影響を社会に及ぼすべき性質の附随せりとせば、いかでか之に依りて以て 国民の思想を善導し統一し得べしとせん。これ吾人が今回制定せらるべき神社法によりて一般神社の尊厳を恢 復し其国家的崇敬の意思を明確ならしめんことを期待する所以なり。 若し夫れ過去の歴史に拘泥し神社を宗教圏内に立たしむるに至らば、教義信仰上多数の真宗信徒がこれに参持 する能はざるのみならず、各宗教信徒もまた同様なるべく、殊に科学的唯物論の学徒に居たりでは全然神社崇 敬の念慮を絶つべし吾人が斯の知き要請を為す所以のものは、 一般国民として健全なる道徳的理念の上に立つ のみならず、吾人の奉ずる真宗の教義上より、或る宗教的信仰を加味せる意義に於ては神社崇拝の許されざる ものあるに由る。何となれば真宗の教徒として、その教義及び宗制の上より、宗教的信仰の意味に於ては他の 総戦力下の神仏問題と本願寺派﹁宗制﹂

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総戦力下の神仏問題と本願寺派﹁宗制﹂

諸神諸仏諸菩薩を礼敬することを許されず。きれば神社にありてもまた祖先崇拝の意味にあっては歓んで是を 礼拝し得るものなりと難も、有も宗教的意義に亘るものありとせば、これが参拝礼拝は忽ち其宗義と抵触を来 すものあり。況や其祭神に於て淫嗣に擬似するものあるが如き、或は其神社に参拝する多数が吉凶禍福を祈る 迷信者を占むるが如き、或は宗教的意義を含める神札護札を頒布せらるるが如き、真宗教徒としてこれある為 めに快く崇拝し能はざらしむるものなしとせず。凡そ真宗教義の立場としては 一、正神には参拝し邪神には参拝せず 二、国民道徳的意義に於て崇拝し宗教的意義に於ては崇拝する能はず 三、神社に向って吉凶禍福に祈念せず 四、此の意義を含める神札護札を拝受する能はず それ今回制定せらるべき神社制度の上に神社非宗教の精神を徹底的に表現せられ以て真宗教徒として国民とし て神社崇拝に何等の疑義なきを得るに至らしめられんことを熱望して止まざる所以なり。これ蓋し真宗教徒に 止まらず各宗教徒の等しく熱望する所なるべく、またこれ国民としての正しき理念の上に立てる要請なるべし と 信 ず 。 要するに神社の尊厳と崇持とは国民に普遍ならざるべからず、神社にして宗教意義の附随を存せば彼此の宗教 信念と衝突するは止むを得ざる所なり。従って神社崇拝の普遍性を失ふものなり。希くは此の点に就て十分の ︵ 7 ︶ 考察を加へられんことを。 このように真宗各派協和会は、﹁真宗教義の立場﹂を明らかにしながら、神社に宗教的意義を附随せず、非宗教の 立場を前提に、国民道徳として神社崇敬することに異論がないことを述べ、もし、神社に宗教的意義を附随すれば 宗教的信念と衝突し、神社崇敬の普遍性が失われると主張したのである。もちろんここでの﹁真宗教義の立場﹂は、

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歴史的拘束性をもっそれであることは言うまでもない。 このように一九二九︵昭和四︶年十二月の神社制度調査会設置以降の神社制度や神社法制定にむけての動向の中 で、真宗教団の神仏関係をめぐる見解は、従来の政府見解の枠の中で神社神道に宗教的意義を見出さず、神社神道 非宗教説を受容して、神社崇敬を国民道徳的意義において受容するものであった。しかしながら、神社制度や神社 法の整備をめぐる動向には、神社の宗教的意義の顕在化を求める勢力の台頭とも結びつき、政治の一層の国家主義 化と国家の宗教性の顕在化とは符号して展開したのである。 第二次近衛文麿内閣は、一九四

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︵昭和十五︶年七月二十六日に日中戦争の長期化にともない、国民の画一的な 組織化と戦争体制への動員が課題となり、﹁基本国策要綱﹂を閣議決定し、﹁国防国家体制﹂樹立の方針を確定した。 唱える﹁新体制運動﹂で、全政党を解散し、十月十三日には大政翼賛会を結成した。﹁大政翼賛の臣道実践﹂をス ロ

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ガンに、会の運営は﹁衆議統裁﹂方式によって行われ、連動して興亜運動を発足し、大政翼賛会第一回中央協 力 会 で は 、 ﹁ 神 仏 問 題 ﹂ が 取 り あ げ ら れ た 。 この大政翼賛会に対応して、本願寺教団では、 一 九 四

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︵昭和十五︶年より﹁堅信報国興亜生活運動﹂を提唱し て、大政翼賛運動と連動して展開することとなり、五か年計画の第二年度として、大政翼賛会本部や隣組、常会と 結びついて教団内運動を展開したのである。講座目標として、護国正法、貯蓄報園、軍事援護、物質活用、職域奉 公などを掲げ、本部の下で研究部、指導部、実践部の三部門を設け、実践部は寺院、門信徒、社会の三系統に分け、 寺院系では教区講習会、組講習会、末寺隣組常会の三段階をとり、門信徒系では婦人の活動を重視して婦人部を設 総戦力下の神仏問題と本願寺派﹁宗制﹂

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総戦力下の神仏問題と本願寺派﹁宗制﹂

け、男女を通じて少年組、青年組、壮年組に区別し、社会系統では、鉄道同友会、会社工場、学校や刑務教誠、司 法保護、融和運動、興亜道場などに関する組織を含め、教化活動が網羅される体制を確立することになった。 この堅信報国興亜生活運動のテキストとなる﹁興亜生活運動教本﹄のなかで﹁敬神崇祖﹂と題して龍谷大学教授 杉紫朗は、神社神道への﹁崇敬の意義﹂について次のように述べた。 杉は教団において﹁中興の祖﹂と位置づけられる蓮如の﹁王法を本とし仁義を先とし神明をうやまひ人倫を守る べきよし、かねてきだめおかるる所なり﹂との﹁御文章﹄の一節を引用した応如法主の﹁遺訓﹂、また明如法主が ﹁敬神尊皇の誠意を貫﹂いたと言い、﹁王法為本を宗風とする真宗においては、敬神崇祖は皇国臣民の常道として、 ︵ 8 ︶ 門徒に常に教諭せられたところである﹂とした。そして、杉は、 神祇を崇敬し、祖先を崇拝することは惟神の大道であって、有も国民たるもの、必ず守らねばならぬところで いろ/\に分類せられるが、大体においては皇祖皇宗及びその系統に属せら ある。その神祇は愚者によって、 れる神、国家に功績あって記られし神、地方郷土を開拓せし神、民族の祖先たる神などであって、皇祖天照大 神を中心として、その肇国の大御心を具現あらせられ、修理固成の天業を御継承あらせられた御歴代及びそれ を翼賛し奉った臣民の祖先が記られたものであって、所謂全知全能の神とか、絶対神とかいふ如き宗教上の神 とは異なるものである。それで国民が宗家と仰ぐ皇室の御先祖、それに仕へ奉った臣民の祖先が神と杷られた ものであるから、その神祇を崇敬することは、即ち祖先を崇拝することである。それで祖先崇拝の観念を以て ︵ 9 ︶ 敬神の道を実践するのであって、この両者は別々の意味に分つべきものではない。 と、﹁神祇を崇敬し、祖先を崇拝することは惟神の大道であって、有も国民たるもの、必ず守らねばならぬところ である﹂とし、﹁祖先崇拝の観念を以て敬神の道を実践する﹂と述べる。そのことは、国家観に連動して、﹁大日本 は神国である、神の聞きまし/\、神の護りたまふ御国である o ﹂との認識に立つものであった。この神田観に関

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して杉は、存覚の﹁諸神本懐集﹄から﹁この大日本国はもとより神田として、霊験いまにあらたなり、天照大神の 御子孫はかたしけなくくにのあるしとなり﹂と引用し、﹁神、守護したまふ御国へ、因縁あって生を受け、その思 徳を蒙ってゐる国民が、その神を崇敬するのは自然であって、神国に生を受けた吾人のなさねばならぬ大道であ る 。 ﹂ と 述 べ 、 さ ら に また祖先あって子孫があり、子孫は祖先の遺業を継承し、その恩恵の中に生きるものであるから、子孫として その祖先を崇拝するのは人情の自然であり、その恩恵に報ずるは人間の履践すべき最高の道徳である。それで 世界の諸民族において、この風を存せざるものはなかったであろうが、今にしてはその多くはこれを失ひ、我 いよ/\発展して、皇祖の大御心を中心とし天業を 翼賛し奉ることを基本として、祖先の崇拝が行はれである。吾人は我が国特有の観念美風として、いよ/\堅 ︵ 叩 ︶ 実に保持すべきであると思ふ。 が固においてのみ、これを存し、それをいよ/\純化し、 と述べ、祖先崇拝の基本に﹁皇祖の大御心﹂をおいた。続いて、杉は、 敬神山宗祖は国家勢倫の標準とか国民道徳の基礎とか、聖教の基本とか申されて、我国家における道徳も政治も、 これを基礎とし、これに依拠して建設せられないものはない。天照大神肇国の御心、それを継承あらせられた 御歴代の御心、それを大御心として天業を経論あらせられる せば現御神として、絶対随順の赤誠を捧げるのが、我等臣民の道であり、また神の経営あらせられ、天皇の統 治あらせられる国土なれば、その大御心を服膚してこれが繁栄隆昌に生命をなげうっのが、我等国民の任務で ある。こ、に忠君愛国の誠がある。これは畢克報恩反始の道義であって、この心を以て親に対し、祖先に対す 天皇は神の御子孫であり、神の現はれでましま れば孝道となり、家の祖先を祭りて家の平和があり氏の祖先を杷りて一族の融相があり、万民斉しく皇祖皇宗 を 仰 ぐ と こ ろ 、 一億一心の大和の世界が出現するのである。国民の守るべき諸の道徳の実践またこれによって、 総 戦 力 下 の 神 仏 問 題 と 本 願 寺 派 ﹁ 宗 制 ﹂

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総戦力下の神仏問題と本願寺派﹁宗制﹂ 四 おのづから全うすることができるのであろう。かくのごとく敬神崇祖の観念の上に国民道徳がきづきあげられ であるところ実に我が臣民道の特色の存するところであって、国民等しく実践せしめられる所以のものである。 と、﹁敬神崇祖の観念の上に国民道徳がきづきあげられであるところ実に我が臣民道の特色の存するところ﹂であ ると述べた。また、杉は﹁敬神崇祖には更に仏教徒として思念せねばならぬものがある。それは神国日本は道義の 国であり、真理愛好の国であって、世界の如何なる国に発生したものであろうとも真理ならば取って捨てない寛容 な御国であることである o ﹂と、﹁神田日本﹂論を表明した。さらに、杉は親鷲の﹃教行信証﹄総序﹁弘誓の強縁は 多生にも値ひがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし、たま/\行信を獲は遠く宿縁を慶べ﹂を引用して、﹁五口々 が仏法にまうあい、信仰を喜ぶ身の上となったことは、思へば不可思議千万なことであって、永い/ 1\聞に仏の光 明のお育てを蒙り、宿縁を結んでいたずいた結果であろう。﹂﹁子孫として先祖の御恩を蒙ることの広大なことは御 法の有無にか、はらないのであるが、御法を恵んでいたずいたことは、更にその御恩の広大きを加へたものとして、 ︵円以︶ こ、に一しほ尊崇の誠を致し祖先と倶に一処に会する身とならねばならぬこと冶思ふのである。﹂と述べ、宗教的 ﹁値遇﹂を﹁先祖の御恩﹂と重ね合わせ﹁敬神崇祖﹂の意義を明らかにしたのである。杉の﹃本願寺新報﹂紙上の ﹁敬神崇祖﹂の論説は、教団内において広く僧侶・門信徒によって読まれ、また講習・研修の教材とされ、 門徒を標携する教団内に﹁敬神山宗祖﹂の理解、定着がはかられたのである。 一 千 万 ︵ 日 ︶ 本願寺教団は、神仏関係に関する見解として一九四一︵昭和十六︶年八月に﹁本地垂遮説の取扱文書部声明﹂ を発表した。それは、政治状況の緊迫化にともない、神道の宗教性を顕在化し、祭政一致を主張する国体論者から の仏教界への排仏論調、とりわけ真宗教団に対する批判・非難が加えられるなかで、それらへの反論として見解を 明らかにするものであった。すなわち本願寺教団の文書部は、﹁今日尚も本地垂遮説を論拠として、本宗々義に対 し是非の論を為す者のあることは遺憾至極であり、非常時下の今日銃後国民思想に与ふる影響の重大なるを思ひ、

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一応該説に就いて当局の見解を公示する必要を感ずるのである。﹂として、本地垂遮説に関して、﹁柳も、本地垂遮 説は我国の神社に対する神仏習合時代に於る神社観で、或は神本仏遮といひ又は仏本神遮と言ふも何れも神仏を習 合したる思想であり、其の二者の内、当時常識的に取扱ひはれたものは、神社其れ自身に於いても亦、 一 般 民 俗 に 於いても仏本神遮の本遮観であった著名の神社に神宮寺を有し、本地仏を安置し、社僧を置いたのはすべて此の考 へ方に依ったものである。この本誠一観は明治以前の神社に対する一般的常識であって、何等特に真宗がその功罪に 任ずべきものではなく、真宗古典中にも幾多採用せられであるが勿論一般常識を準用したるに過ぎないのである o ﹂ ︵ U ︶ といい、﹁この本誠一観は明治以前の神社に対する一般的常識﹂であるとした。そして、明治以降に関する本地垂誠一 説についての認識として、 然るに明治初年に神社判然令の発令により、神社より仏教を排除し神仏習合の考へ方は総て取り除かれたので、 本遊説当否を論ずるまでもなく斯かる考へ方は断然採用されぬことになり又明治以後の神社に適用せられるべ きではなくなったのである。この為めに明治の初期にあって直に真宗各派は協議して﹁御伝紗﹄に本地垂遁に 亘る記載はこれを朗読することを差控ふることにしたのである。是れ古典成立当時の思想を是非するのではな く引き続き明治以後の神社にも本迩観を用ふるものなるかの誤解を避けんが為めの用意である。斯く本遮観が ︵ 店 ︶ 取扱ひ方は宗門としては明治初期に既に決定した所であって、その後異論のない所である。 といい、﹁然るを尚も外聞の論者にして真実の古典を引用して真宗宗義を非難するもの有るが故に我が派に在りて はその他の用語上の注意すべきもの等を合して十数件に関し﹃御聖教拝読の心得﹂を発表した中にも本遊説に就い 一九三九︵昭和十四︶年に﹃御聖教拝読の心得﹄を発表して神社 て充分の注意を促して置いたものである o ﹂ と 、 神道に﹁配慮﹂したと述べた。かくして、﹁真宗古典の本誠一説はその当時の一般通念に準じて神仏対立の抗争を避 ︵ 日 ︶ くる教化の一教材としたものであって、真宗教団の根本に就いて何等要素たるものではない。﹂との見解を明らか 総 戦 力 下 の 神 仏 問 題 と 本 願 寺 派 ﹁ 宗 制 ﹂ 五

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総 戦 力 下 の 神 仏 問 題 と 本 願 寺 派 ﹁ 宗 制 ﹂ ム ノ 、 に し た 。 しかしながら、政治状況の緊迫化は、政治の宗教化、政治の神祇祭記化との連関で国体論者・神道家の発言を誘 導して、排仏的潮流を醸成し、その潮流の一つとして公葬における神葬祭の執行論が含まれていた。 幕末明治初期における廃仏致釈における打撃を受けながらも、仏教界は、檀家制度を基本的に継承し、また、広 く匝民においても寺院と檀家との関係における仏式葬祭の執行は、明治維新期の政治的転換を経過しても広く国民 ︵昭和十六︶年八月五日の午後五時半から東京・日比谷松 本楼で、大日本仏教会の木遣会長・古川雅悟・祥雲晩成・武内紫明・梅原真隆らは、全仏教教団を代表して、排仏 的潮流に対応するため、神祇院の坂本考証課長、伊藤指導課長、嘱託溝口駒造らと会談し、﹁大麻﹂頒布について 聞における仏教意識のもとで継承されていた。 九 四 配慮を要望したのであるが、﹁公葬問題﹂に関連して、大日本仏教会は次のような声明を発表した。はじめに、 今や我国は非常時局に直面し一億一心の体制下に各界挙って至誠奉公に遇進しつ冶あるの時一部の無理解より 神仏関係に於て意外の相魁摩擦を惹起しっ、あるやの感を呈するは甚だ憂慮すべき現象なり 特に近来戦没者の公葬に関しこれを神式に一定すべしとの意見台頭せるため地方によりでは迷惑を感じをられ るものある由なるがこの公葬問題は国民大多数の信仰に関する重大問題なるを以て慎重に考慮すべき必要あり と信じ取敢へず本会の所信を披露して参考に資せんとす 戦没者の公葬について神式にすべしとの意見が台頭しはじめて、神仏関係の摩擦が生じつつある状況下で、﹁公葬 問題は国民大多数の信仰に関する重大問題﹂であると述べ、葬儀についての見解として、 ︵第こ凡そ葬儀は ィ、宗教学的に観るもの ロ、社会通念伝統感情より観るもの

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ハ、法規の指示せる所によるもの 宗教的儀式なり明治七年一月二十九日太政官布告第十三号には﹁自今教導職輩は信仰により葬儀相頼候儀不苦 候僚此旨布告候事とあり、また明治十七年内務卿口達︵府県長官へ︶には﹁自今以後葬祭を依頼するは一一喪 主の信仰する所に任せ不可なかるべし﹂即ち明治以来政府に於ても葬儀に就いては信仰を重んじ又は喪主の信 仰を重視せる事は宗教に関する法令に徴して明確に認めらる冶所なり国民の大多数は各々其の信奉する宗教に 基き即ち神道式又は基督教式に依りて之を執行しつつ、あり ︵第二︶従て問題の焦点となれる戦没者の葬儀に就いてもその公葬たると私葬たるとを聞はず故人の信仰喪主 又は遺族の信仰或ひは意思を尊重して其等が満足し得る様執行すべきが当然にして其の儀式の如きは決して他 より強制すべきものにあらず ︵ 第 一 二 ︶ 現 時 一 般 に 公 葬 と 称 せ ら る よ 儀 式 も 子 細 に 之 を 分 別 す れ ば 次 の 如 し ィ、故人に対する感恩及び其の功績に対する感謝の誠を国民として若しくは団体市区町村として表徴する儀式 ロ、故人の遺骸遺骨を国民として又は団体︵市区町村︶として葬る儀式 ︵イ︶の如きは之を追弔会又は慰霊祭と称するが妥当にして ︵ロ︶の如きは之を葬儀と云ふが適当なるべし ︵第四︶更に進んで戦没者の公葬を神式に一定すべしといふ主張を検討するに ︵イ︶戦没者は靖国神社に祭記せらる冶が故に ︵ロ︶皇室喪儀令に定め給ふ処に倣ひ云々 ︵ ハ ︶ 日 本 的 な る が 故 に 云 々 等を論拠となすが如くなるも 総 戦 力 下 の 神 仏 問 題 と 本 願 寺 派 ﹁ 宗 制 ﹂ 七

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総戦力下の神仏問題と本願寺派﹁宗制﹂ J¥ ︵イ︶は靖国神社に祭記せらること、遺骸遺骨を葬ることとは全然区別すべきものにして戦没者は神として記 らる、も、其の遺骸遺骨を葬らるるものにはあらず ︵ロ︶皇室喪儀令に定め給ふ処は特別の御葬式にして所謂神葬と拝察すべきものにあらず ︵ハ︶吾が国民の多数は仏教式に依りて葬儀を執行しっ、あれば仏教式こそ日本的なりと謂ふべし 所謂公葬問題なるものの条理かくのごとしこの問題の解決は正しく条理をもって行ふべきなり随って吾等仏教 徒は斯る僻論に惑はされることなく和衷協力、御奉公に専念せざるべからず、これ実に惟神の大道を開顕し大 ︵刊日︶ 乗の風格を発揮する所以なり と述べて、公葬問題については、国民の大多数の信仰問題であり、また、﹁国民の大多数は仏教式に依りて葬儀を 執行﹂しているのであれば、﹁仏教式こそ日本的﹂であるとし、大日本仏教会は神式による公葬の主張を退ける論 調を張ったのである。 国家の宗教性、即ち神道の宗教性の顕現化の高まりに対して繰り返し本願寺教団は、神道の非宗教性、換言すれ ば神道非宗教説による神道の道徳性と真宗の宗教性の関係およびその根拠を開示して、社会的に説明する必要性に 迫 ら れ て い た 。 龍谷大学教授大友抱撲は、 一 九 四 ︵昭和十六︶年八月十五日の﹃本願寺新報﹄誌上で、 ﹁神道の道徳性と真宗の宗教性﹂と題して次のように論じた。大友は、 神道を国体神道、神社神道、教派神道に分けるならば、教派神道が宗教的存在であることは云ふまでもなく明 白である。これに対して国体神道、神社神道は非宗教的存在であり、たず国民道徳の規範であると考へること は、従来の行政上の取扱ひとも一致してゐるため、極めて一般に普及した常識的な考へである。少なくとも今 ︵ 川 町 ︶ まではそうであった。

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と、﹁国体神道、神社神道は非宗教的存在であ﹂るという。しかしながら、神道界にあっては、 然るに最近、神道内部に於て、又は神道を支持しようとする一部指導者階級の人々の中に今まで国民道徳的存 在であった神道を、従って神社を、全般的に宗教的存在へ転向せしめようとする運動が現はれて来た。﹁神社 は宗教に非ず﹂といふのが今までの行政上の立場であったものを、﹁神社は宗教なり﹂と、百八十度の転換を ︵ 却 ︶ 行ひ、然も、これに国教の優位を与へょうとする運動が起って来た。 と述べて、﹁神道を日本国民の国民生活の指導原理としょとするならば、神道を国民道徳として宗教の閤外に置く か、若し宗教とするならば、国教として全国民に強制するか、この二つのうち一つを択らばなければならない。今 ゃ、前者より後者への転換が計画され実行されようとしてゐるのである o ﹂という差し迫った状況に直面しつつあ ると現状認識を明らかにした。そして、大友は、政府はこれまで﹁明治十五年以来日本政府は神社は宗教に非らず といふ立場から政策を行ってゐる。明治十五年一月二十四日、内務省から発せられた乙第七号達には﹃自今、神社 ニ教導職ノ兼補ヲ廃シ葬儀ニ関係セザルモノトス﹄と宣言されてゐる。久しく宗教活動の圏外にあった神道に、 度、宗教性を与へた明治政府はこ、に再び、自らの手によって神道を宗教圏外に追放してしまったのである。明治 ︵ 幻 ︶ 三十三年神社局と宗教局とが分離されてから、政策は更に明になった。もとより、これは政策上のことである。﹂ と述べ、政府は、行政上、政策として神社神道非宗教説を採用してきたという。そして、大友は、神道を国教とす ることの文化政策上の意味を問い、次のように述べた。 今吾々は、神道を国教とすることが文化政策上如何なる意味をもってゐるか。如何なる結果が考へられるか、 其は日本のためにも、また神道自身のためにも、望ましい事であるかどうかに就いて、少しく考へて見たい。 神道が国民道徳の理念であるならば、如何なる宗教を信ずる人々も、日本国民たる以上、これを奉ずべき当然 の義務がある。仏教徒もキリスト教徒も、日本国民たる限り皇国の理念に遭進することは、理論的にも気持ち 総 戦 力 下 の 神 仏 問 題 と 本 願 寺 派 ﹁ 宗 制 ﹂ 九

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の上からも何等の無理も矛盾も起り得ないであろう。だが然し、神道が一つの宗教として、然も国教として国 民の精神生活に君臨する時、問題は決して簡単ではない。 神道を国教とし、他の宗教を民教として許すといふ意見も出てゐるようであるが、かく簡単に問題は処理でき ない。何となれば、二種の宗教を同時に信仰することは困難である。真剣になればなるだけ不可能に到達する。 然るに神道は、国教として国民全部の義務である。表面的儀礼に止まるならいざ知らず、国教としての真実宗 教性を発揮すればするだけ、事実上他の宗教的存在の余地が許きれない。従ってこの政策は国教以外の宗教の 否定であり、信仰弾圧政策に他ならなくなる。民教としてでも他の宗教の存在を許せば、事実、神道の国教性 が保てない。余他の一切の宗教は勢の向ふ処、邪教として一切禁止しなけらば不徹底である。これ実に容易な ことではない。憲法の改革もさることながら、事実問題として一億一心国家協力の秋、かくの如き態度は、果 ︵ 忽 ︶ たして当を得たる文化政策であろうか。 大友は、神道を国教とすることが他宗教の存在を否定することとなり、文化政策上﹁当を得﹂ていないという。し たがって、﹁道徳は道徳であることによって、宗教は宗教であることによってこそ各々優れた地位は保ち得る。神 道は国民道徳として他の宗教に対して超越的な地位を保ち続けて来たのである o ﹂として、神道の道徳性の確認と その理解の継承を主張するのである。さらに大友は、 道徳は政治、経済と共に現実に立脚する人間価値肯定を立場とする。よりよく、より正しく、より豊かに生き ゃうとする人間本来の精神的要求は道徳的、政治的、経済的努力となって自然生活を規定する現実的努力によ って一歩一歩価値建設の過程を辿る。人間である限り、必ずこの努力を怠ってはならない。 特に社会関係において運命共同体の一員としての自覚は、全体の共同運命開拓のために努力することでなけれ ばならない。その努力は必ず報ひられて、全体価値建設に貢献することが可能であると信じられてこそ道徳、

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政治、経済は人間価値である。今日の加く運命共同体的自覚が深刻になって来た時、特に個人道徳よりも、全 体に立つ国民道徳が優位を持つ、私を捨て冶公に尽し、個人の欲望を捨て、国家に捧げる態度が道徳である、 努力、勤勉、克己、奉公は道徳の姿である。個人は努力勤勉によって国家、社会に貢献し得る。努力すればす るだけ、勤勉であればあるだけ国家に貢献し得るといふ信念に立つ。意識するとしないとに拘らず、人間価値 肯定が道徳、政治の立場である。人間価値を否定すれば懐疑論に陥ち入って、道徳的努力も政治的努力も、そ の原動力を失ってしまふであろう。 宗教も亦宗教的価値の実現である。故に道徳と共通した文化形態を一不す。併し終局的人間価値の実現は現実的 人間価値否定によって到達される処に宗教の持つ一つの特徴がある。︵中略︶否定による価値の実現、無の直 観による絶対価値の把握、否定的真実の体験が仏教真宗の宗教的生活である。この点皮相なる傍観者によっ て屡々真宗が誤解され、非難されるのは無理からんことではあるが同時に残念なことでもある。︵中略︶ 無の自覚による全て肯定が宗教である。この宗教に対する何等の深い自覚も反省もなくたず単純に、道徳的価 値肯定の立場から宗教なるが故に当然持つ立場である否定的態度を攻撃し、宗教が宗教の本質を捨て冶道徳的 たるべきを要求することすら黙し得ざるべきことであるに、然も、自らの道徳的立場を宗教と称するに至って ︵ お ︶ は、何をか云はんやである。 道徳と宗教の立場の違いを明確にした上で、大友は、﹁道徳の具体的な形態は国民道徳である。︵中略︶国家にお ける忠節なる偉人は、国家運命の開拓者である。日本を生み給ふた皇国の神祇を初め、歴代の神々はもとよりのこ と、少くとも何等かの意味で日本の運命を開拓した人々に対しては、日本閏民たる以上、感謝崇敬の念を捧げなけ ればならない。これは国民の義務であり道徳である。この感謝崇敬の念が具体化されて神社が建設されるのである。 故に、日本国民たる以上、国民道徳の純粋な動機によって建設されたる神社に対しては、世界観人生観の如何を問 総 戦 力 下 の 神 仏 問 題 と 本 願 寺 派 ﹁ 宗 制 ﹂

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はず、宗教的信仰の如何を聞はず、感謝山申不敬の念を捧げなければならない義務がある。国家運命の開拓者である国 家の勲功者は、神社に祭られながら、同時に一般国民を同じく共同運命の開拓に向はしむる教育的目標でもある。 ︵ M ︶ 神社が国民道徳の規範として厳然たる存在である理由が此所にある o ﹂として、神社が国民道徳の規範として存在 していることの理由を明らかにした。 つまり、﹁国民道徳は、国家の運命を開拓し、国家の理念を実現して行くこ とである。単に、国家のためを表傍することではなく、事変に於て共同運命の開拓、理想実現に努力することであ る。国家のためと称しながら国家を食物にする者もある。国家を語らず、唯黙々として自己を忘れて国家存在の底 力となってゐる人もある。﹃国家のため﹂と宣言しないといふだけで、直に非国民と云ふことは出来ない。道徳は 看板の問題でなく実践の問題である。﹂であると主張したのである。 他方、大友は、真宗の﹁神社に対して拒絶的潔癖性﹂﹁真宗の反国家性﹂を主張する人もいるが、それは﹁神社 日本精神文化に重要な文化的領域を持 って来た。真宗も亦宗教として日本精神文化における領域を持って来た。この後も国民道徳としての神道と、宗教 ︵ お ︶ としての真宗とは、各々領域を護り提携して行かなければならない﹂という。かくして、大友は、 我等は断じて、真宗教徒であるか、日本国民であるかの分岐点に置かれてゐるのではない。我等は日本国民で ある。真宗信徒たる前に日本国民である。日本国民である以外に、真宗信徒と、して護るべき何等の領域を持 の低級な迷信的宗教性を拒否するため﹂であり、﹁神道は国民道徳として、 ってゐる理ではない。日本国民であることによって、より真実なる日本国民たるべく真宗信徒たらんとするも のである。神道の国教化運動も、此一元化を目標としてのこと﹀思はれる。然し、これは飽くまでも精神に於 ての一一冗である。文化の具体的現象面に於ても一元化しようとすることは、精神の統一ではなく、形式の単純 化である。文化における形式的単純化は時に文化の退歩を意味する。種々の芸術があって国民の精神生活を高 め豊かにする如く、宗教は宗教として国民道徳と本質的に自己同一の関係において自らの領域を護る所に、国

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家の複雑なる文化理念はよりよく実現されるであろう。真宗がこの国家的文化使命を達するためには、真宗教 学は、世界史の流れに参与しなければならない。固植な因習の殻に立て龍って、自己を迷信化することから自 ︵ 幻 ︶ 己を救はなければならない。真宗においても亦現代は根本的転換期でなければならない。 と、﹁我等は日本国民である。真宗信徒たる前に日本国民である﹂と述べるのである。このような大友の論説は、 国体論・日本論の絶対性の枠組みの中で真宗及び﹁真宗教徒﹂のありょうを論ずるものであった。ファシズム化の 進展と同時に戦局の深刻化のなかで仏教への﹁排仏論調﹂、あるいは真宗への非難論調への対応として、大日本仏 教会あるいは各派真宗協和会、また本願寺教団が展開した神仏関係の見直し・確認をめぐる論議は、国体へのさら なる合体性をめぐる議論へと移行し始めていたのである。 さて、政府は、法律第七七号として宗教団体法や二九四

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文部省は、九月にコ一教代表者を集めて、各宗派の合同を強硬に求め、各宗の翼賛体制への参加を強力に行政指導し ︵昭和十五︶年四月一日に施行し、宗教界を管轄する 9 ・ 、 a ’ − o てしズ 九 四 ︵昭和十六︶年三月に仏教連合会は﹁大日本仏教会﹂に改組し、七月には文部省と大政翼賛会の 後援で各宗首脳五百人が東京小石川伝通院に集まり、第一回の大日本宗教報国会を開催した。それは明らかに政府 の意向に応えるものであった。翌年二月には、三教の﹁大詔奉戴宗教報国大会﹂が代表二千名の参加のもとで開催 され、四月には神仏基イスラムが﹁興亜宗教同盟﹂を結成し、総裁に林銑十郎、副総裁に大谷光瑞、理事長に、水井 柳太郎、遠藤柳作らが就任した。十月には、物資不足が懸念される中で寺院の仏具、党鐘などの軍需品生産の資材 として供出する方針を決定した。一九四三︵昭和十八︶年九月には、コ一教連合の﹁財団法人大日本戦時宗教報国 会﹂が作られ、事務局を文部省内において﹁文部省と表裏一体となって宗教報国に逼進することを﹂明らかにした 一九四四︵昭和十九︶年一月には、文部大臣の下に﹁宗教教化方策委員会﹂を設置し、五月には三教の 参加で﹁宗教教化活動促進に関する答申﹂を出し、八月には政府は﹁戦時宗教教化活動強化方策要綱﹂を決定し、 の で あ る 。 総 戦 力 下 の 神 仏 問 題 と 本 願 寺 派 ﹁ 宗 制 ﹂

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総 戦 力 下 の 神 仏 問 題 と 本 願 寺 派 ﹁ 宗 制 ﹂ 四 九月にはその決定にもとづき三教の各連合会を解消して﹁大日本戦時宗教報国会﹂を結成したのである。このように、 文部省管轄下のある宗教界は、総力戦体制を翼賛する組織、国民動員の装置として機能していたのである。 政府は一九三九︵昭和十四︶年四月八日に宗教団体法を法律第七七号して公布し、翌年四月一日に施行した。関 係法令として一九三一九年十二月二十三日には宗教団体法施行令を、 一 九 四

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年一月十日には宗教団体法施行規則な ︵ お ︶ どを制定した。この宗教団体法は、宗教団体と宗教結社に適用されたのである。宗教団体法の第一条には﹁本法ニ 於テ宗教団体トハ神道教派、仏教宗派及基督教其ノ他ノ宗教ノ教団︵以下︶単ニ教派、宗派、教団ト称ス︶並ニ寺 院及教会ヲ謂フ︶﹂と規定し、第二条には﹁教派、宗派及教団並ニ教会ハ之ヲ法人ト為スコトヲ得 法人トス﹂とした。そして、第三条で﹁教派、宗派又ハ教団ヲ設立セントスルトキハ設立者ニ於テ教規、宗制又ハ

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寺院ハ之ヲ 教団規則ヲ具シ法人タラントスルモノニ在リテハ其ノ旨ヲ明ニシ主務大臣ノ認可ヲ受クルコトヲ要ス﹂と、宗教団 体は﹁主務大臣ノ認可﹂を必要とするとされた。そして、第四条では﹁教派及宗派ニハ管長ヲ、教団ニハ教団統理 ︵ 却 ︶ 者ヲ置クベシ﹂として、管長および教団統理者の配置を規定した。また、第十六条では、 宗教団体又ハ教師ノ行フ宗教、教義ノ宣布若ハ儀式ノ執行又ハ宗教上ノ行事ガ安寧秩序ヲ妨ゲ又ハ臣民タルノ 義務ニ背クトキハ主務大臣ハ之ヲ制限シ若ハ禁止シ、教師ノ業務ヲ停止シ又ハ宗教団体ノ設立ノ認可ヲ取消ス ︵ 初 ︶ コ ト ヲ 得 と、宗教団体および﹁教師﹂が﹁安寧秩序ヲ妨ゲ又ハ臣民タルノ義務ニ背クトキハ﹂主務大臣による制限又は禁止、 さらに設立認可の取り消しを規定した。第十七条では、

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宗教団体又ハ其ノ機関ノ職ニ在ル者法令又ハ教規、宗制、教団規則、寺院規則若ハ教会規則ニ違反シ其ノ他公 益ヲ害スベキ行為ヲ為シタルトキハ主務大臣ハ之ヲ取消シ、停止シ若ハ禁止シ又ハ機関ノ職ニ在ル者ノ改任ヲ 命ズルコトヲ得 2 ︵ 引 ︶ 教師法令ニ違反シ其ノ他公益ヲ害スベキ行為ヲ為シタルトキハ主務大臣ハ其ノ業務ヲ停止スルコトヲ得 とし、第十八条﹁主務大臣ハ宗教団体ニ対シ監督上必要アル場合ニ於テハ報告ヲ徴シ又ハ実況ヲ調査スルコトヲ 得﹂、第十九条﹁主務大臣ハ命令ノ定ムル所ニ依リ本法ニ規定スル其ノ権限ノ一部ヲ地方長官ニ委任スルコトヲ得﹂、 第二十三条﹁宗教団体ニ非ズシテ宗教ノ教義ノ宣布及儀式ノ執行ヲ為ス結社︵以下宗教結社ト称ス︶ヲ組織シタル ︵ 幻 ︶ トキハ代表者ニ於テ規則ヲ定メ十四日内ニ地方長官ニ届出ヅルコトヲ要ス届出事項ニ変更ヲ生ジタルトキ亦同ジ﹂ などと、主務大臣・地方長官による宗教団体への監督・調査を規定したのである。 このように宗教団体法は、主務官庁である文部省による認可制度を採用し、政府の宗教団体への統制に強力な機 能を発揮することになった。認可は、事実上、主務官庁の自由裁量であった。この宗教団体法の施行に際して、神 道教派十三派、仏教宗派十三宗五十六派のなかで、 一九四一年三月以降、仏教界では文部大臣の設立認可を受けた のは十三宗二十八派で、派の統合が行政指導を伴って行われた。 ところで、本願寺教団では、 一八八六︵明治十九︶年に﹁宗制﹂を制定した。それは、明治中期以降の教団内 ﹁憲法﹂として機能してきたのである。第一章では、﹁宗祖見農大師大無量寿経ニ依テ一宗ヲ開キ之ヲ浄土真宗ト ︵ お ︶ 名ク其ノ要義載セテ教行信証文類ニアリ﹂と規定し、第三章では、﹁一宗ノ教旨ハ仏号ヲ聞信シ大悲ヲ念報スル之 ヲ真諦ト云ヒ人道ヲ履行シ王法ヲ遵守スル之ヲ俗諦ト云フ是即チ他力ノ安心ニ住シ報恩ノ経営ヲナスモノナレハ之 ︵ 初 ︶ ヲ二諦相資ノ妙旨トス﹂と述べて、﹁二諦相資﹂を明記した。そして、第三章では、﹁一宗ノ本尊ハ阿弥陀如来一仏 トスコレ一向専念ノ宗義ニ依拠ル故ニ自余ノ諸仏菩薩及ヒ神明ヲ奉安セス然レトモ之ヲ尊敬シテ軽蔑スヘカラサル 総 戦 力 下 の 神 仏 問 題 と 本 願 寺 派 ﹁ 宗 制 ﹂ 五

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総 戦 力 下 の 神 仏 問 題 と 本 願 寺 派 ﹁ 宗 制 ﹂ ム ノ、 コトハ宗祖以来ノ垂誠ニアリ但聖徳太子七高僧宗祖大師及歴代宗主ノ影像ヲ安置スルモノハ一宗弘通ノ思ヲ謝セン ︵ お ︶ カ為メノミ﹂と、本尊などについて規定したのである。 宗制は、教団内﹁憲法﹂という性格をもつが、同時に一言、つまでもなく歴史的性格をもっており、教団が当該の歴 史社会にどのような関係性および存在性をもっているかを一不すものでもあった。国家主義化した政府のもとでの宗 教団体法の施行に対応して、本願寺教団は、新たな宗制案の作成に関しては、主管庁である文部省に出向いて﹁内 閲﹂を受けた。大谷派では、二月二十七日に上京して、二十八日に﹁内閲﹂を受け、文部省から﹁第一教師養成機 関、第二兼末寺教会廃止、第三兼務住職﹂などについて東西本願寺において協議するよう求められた。東西本願寺 教団では、一九四一︵昭和十六︶年三月三十一日付け﹁申請宗制制定ノ件認可ス﹂と文部大臣橋田邦彦から通知された。 本願寺教団では四月一一十八日午前九時から本願寺内の鴻の間で大谷光照法主および、正准連枝、顧問、宗務所役 ︵ 釘 ︶ 職員、教務所長らが参加して新宗制制定の記念式を挙行した。大谷光照法主は﹁教辞﹂の中で、 宗制ハ一派ノ根本法規タリ濫リニ改変アルベカラズ 明如上人裏ニ宗制寺法ヲ定メ給ヒシヨリ五十有余年一派ノ成規一ツトシテコレニ則ラザルハナカリキ然ルニ今 ヤ宗教団体法ノ施行ニ遇ヒ草ニ新宗制ノ制定ヲ見ル ︵中略︶予偶々新宗制ノ発足ニアタリ再ビ親シク宗務ヲ執 ルノ機ヲ得タリ謹ンデ 皇恩ヲ感戴シ宗祖親驚聖人ノ遺風ヲ奉ジ一派ヲ統理シテ奉公ノ大道ニ遇進セントス翼 クハ諸氏ヨク阪ノ意ヲ体シ協力裁力以テ宗派存立ノ意義ヲ顕彰セラレンコトヲ と、﹁新宗制﹂のもとで﹁皇恩ヲ感戴シ宗祖親驚聖人ノ遺風ヲ奉ジ一派ヲ統理シテ奉公ノ大道ニ遇進﹂するよう ︵ お ︶ ﹁教辞﹂した。法主の﹁教辞﹂に応えて本多恵隆執行長は﹁答辞﹂で、 葱ニ現下一年有半ノ軍務ヲ終ヘサセラレテ宗務ノ統括ニ当ラセ給フマコトニ仏祖不思議ノ冥慮ト謂ヒツベシ今 ヤ 御稜威ノ下 皇運愈々隆昌東亜共栄圏ノ確立当ニ成ラントス世局ノ重大真ニ古今ニ絶セリ硯下此ノ秋ニ当

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リテ一宗ヲ率ヒ以テ報国ノ大道ニ逼進アラセラレントス王法為本ハ是レ実ニ一宗ノ宗是タリ皇道ノ翼賛又宗風 ノ顕彰ニ他ナシ弟子等罵ゾ遅疑スベケンヤ乃チ身命ヲ地榔シ縞ニ況下ノ英明ニ膿尾シ奉ランコトヲ誓フ と述べ、東亜共栄圏の確立に向けて﹁一宗ヲ率ヒ以テ報国ノ大道ニ遭進﹂することが﹁一宗ノ宗是﹂であると表明 したのである。新宗制の第二章の﹁総則﹂では、 第一条本派ハ真宗本願寺派ト称スル 本派ノ事務所ハ之ヲ京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル本願寺門前町ニ置ク と規定し、第二章の﹁教義﹂では、 第 条 第

宗祖見真大師仏説無量寿経ニ依リ七高僧ノ釈義ヲ承ケ元仁元年教行信証文類ヲ造リ浄土ノ真仮ヲ判ジ テ浄土真宗ヲ開キ信心正因称名報恩ノ教義ヲ大成、ン王法為本ノ宗風ヲ顕揚ス是レ立教開宗ノ本源ナリ と規定した。条文解釈の﹃宗制釈義﹄では、 ﹁王法為本﹂トハ真宗宗風ノ中核ニシテ臣道実践ノ規範ヲ一不セルモノナリ。 コノ王法為本ハ王法仏法並ビ指示 セラレ古来依用セル所ニシテ特ニ蓮加上人ノ常ニ指示セラレタル所ナレパ旧宗制ニ所調真俗二諦ノ旨趣ニ替ヘ テ之ヲ用ヒタリ と、旧宗制の真俗二諦の旨趣を﹁王法為本ノ宗風﹂に替えたことを述べている。また、第四条では、﹁宗祖親驚聖 人没後季女覚信孫如信ト共ニ偽閤ヲ東山大谷祖墳ノ側ニ創シ亀山天皇ノ御宇久遠実成阿弥陀本願寺ノ号ヲ賜ヒ勅願 所トナリ一派ノ基藷ニナル﹂といい、第五条では、﹁本派ノ教義ハ教行信証ノ四法ヲ立テ専ラ仏号ヲ聞信シ念仏相 続シテ大悲ヲ念報シ獲得ノ一念ニ摂取不捨ノ光益ヲ蒙リ現生ニハ正定緊不退ノ位ニ住シテ国法ヲ遵守シ臣道ヲ履践 シ以テ人生ノ要務ヲ完ウシ当来ニハ必ズ浄土ニ往生シテ滅度ヲ証シ往還ノ二利ヲ満足スルニ在リ﹂と規定した。 ﹃ 宗 制 釈 義 ﹄ で は 、 総 戦 力 下 の 神 仏 問 題 と 本 願 寺 派 ﹁ 宗 制 ﹂ 七

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総 戦 力 下 の 神 仏 問 題 と 本 願 寺 派 ﹁ 宗 制 ﹂ J¥ 獲信ノ行者ハ往生決定シタレバ之ヲ正定来不退ノ位ニ住スト言ヒ、往生ノ正因己ニ満足シタルヲ以テ畢生ノ行 業ハ人生要務ノ実践ニ専ラナルベキヲ一不ス。人生ノ要務トハ之ヲ的示、ンテ国法ノ道守臣道ノ履践ト言ヘリ。蓋 シ弘願ノ行者人世ニ処スルノ要道多岐ニ亘ルト難モ、畢寛ズルニ国家覆護ノ洪思ヲ感戴シ、只管皇国臣民タル ︵ 必 ︶ ノ本分ヲ完ウスルヲ以テソノ帰結トナスモノナリ と解釈して、﹁皇国臣民タルノ本分ヲ完ウスル﹂ことを示した。第六条では、﹁本派ノ宗風ノ要旨左ノ如、ン﹂として、 特ニ皇恩ノ辱キヲ感戴シ皇諜翼賛ノ重任ヲ荷負シ敬神崇祖報本反始ノ誠意ヲ抽ヅベキコト 深ク因果ノ理ヲ信ジ現世ノ福利ヲ禁厭祈呪等ノ方術ニ求ムベカラザルコト ︵ 必 ︶ 常ニ報恩ノ念ヨリ職務ニ精励シ担行実践以テ国家社会ニ奉仕スベキコト な ど を 掲 げ た 。 ﹃ 宗 制 釈 義 ﹄ で は 、 本状ハ本派宗風ノ要旨ヲ述ベタルモノナリ。是レ即チ王法為本ノ宗風ニ本義ヲ顕シ国家社会ニ対スル奉公ノ方 途ヲ示セルモノナリ。﹁特ニ・・・コト﹂トハ、是即チ日本仏教ノ精華タル王法為本ノ宗風ヲ顕示セルモノニ シテ、皇恩を感戴シ皇諜ヲ翼賛シ奉ル臣道ヲ鮮明ニ規定セルモノナリ。仏教徒ハ報恩ノ行者ナリ、皇恩感戴皇 諜翼賛ハ真宗古今ノ風格ナリ、故ニ最初ニ之ヲ出シテソノ重要性ヲ明一不セルコトハ、国家葬倫ノ大本ニ則リ信 仏コソ敬神ノ念ヲ昂ムル根底ナルベキヲ一不ス。而モ正シキ敬神ノ念ハ土俗的迷信ニ堕セズ、報本反始ノ懇念ニ 存スルコトヲ鮮明セリ ﹁常ニ報思・・・コト﹂トハ、自我ノ観念ヲ中心トセル権利義務ノ関係ニ簡別シテ、無我ノ大道ニ順応セル知 恩報徳ノ行持ヲ表ハシタルモノナリ。念仏ノ行者ハ常ニ生活理念トシテ広ク報恩ノ懇念ヲ昂揚スベキコトヲ一不 ス。コノ報恩ノ懇念ハ職域奉公ノ臣道ヲ開顕スル所以ニシテ、念仏ノ国家性是ニ存スルコトヲ閤明セルモノナ ︵ 必 ︶

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などと解釈を示した。第七条では、﹁本派ノ本尊ハ阿弥陀如来一仏トス 本派ハ正法興隆ノ鴻恩ヲ感侃シ其ノ遺訓 ヲ仰ギ化風ヲ慕ヒテ聖徳太子ノ影像ヲ安置ス 置ス﹂と規定して、﹃宗制釈義﹄では 本派ハ教法弘通ノ恩徳ヲ謝シテ七高僧、宗祖及相承法主ノ影像ヲ安 ﹁本派ハ・・・安置ス﹂トハ、太子崇敬ヲ一不シタルモノニシテ、特ニ新宗制ニ於テハ太子ノ安置ト七高僧等ノ安 置トヲ一連ニ取扱ハザルコトニ就テ意ヲ用ヒラレタリ。蓋シ聖徳太子ハ摂政ノ位ニ立タセラレタル皇太子ナレ パ、皇室ニ対スル尊敬ノ絶対性ヲ明示センガ為ニ別項ニ奉安ノ理由ヲ揚ゲ、和国ノ教主トシテ崇敬セラレタル 宗祖聖人ノ素志ヲ明カニシテ正法興隆ノ鴻思ヲ感侃シ、殊ニ日本仏教ノ本旨ヲ開問シ在家一不道ノ化風ヲ垂レ給 ︵ 訂 ︶ ヘル太子ノ芳蹟ヲ贈仰セルモノナリ と述べ、聖徳太子影像の安置の意義を明らかにした。法要においても、﹁亀山天皇聖忌法要﹂﹁先帝陛下型忌法要﹂ ﹁ 報 国 法 要 ﹂ な ど が あ げ ら れ た 。 このように本願寺教団の﹁新宗制﹂は、宗教団体統制法という性格をもっ宗教団体法に対応して新たに制定され たものであるが、長期化する日中戦争とともに新たな対米英戦争の展開に伴う高度国防体制への組織化のなかで、 この教団内﹁憲法﹂は、翼賛教団化に向かって教団が組織していた僧侶・門信徒を国家への﹁奉公﹂に動員する機 能を果たすこととなったのである。それらの﹁奉公﹂は、一言、つまでもなく教団内組織や﹁念仏ノ国家性﹂を説く教 学を介在しながら、国家に二克化されてアジア・太平洋諸地域への戦争を担うこととなった。 お わ り に 一 九 四 五 ︵昭和二十︶年八月の敗戦は、端的に言えば近代の日本の骨格となってきた﹁大日本帝国憲法﹂や﹁教 総戦力下の神仏問題と本願寺派﹁宗制﹂ 九

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育勅語﹂の、そして、国家の宗教性を隠蔽した神社神道非宗教説にもとづく国家神道の破綻でもあった。敗戦は、 近代の歴史過程の総体を検証する現実を突きつけるものであったといえよう。そのことは仏教教団・本願寺教団に おいても同様のはずであったといえよう。しかしながら、教団の存続を伴う歴史の進行過程は、現実を凝視する暇 を与えることなく、新たな政治社会状況への対応に終始する。とりわけ、仏教教団の多くが敗戦によるアジア・太 平洋地域からの撤退と同時進行であったことは、国策への奉公としであった教団の存在のありように深く規定され た も の で あ っ た 。 総戦力下の神仏関係がいわゆる神道指令により国家神道が解体して、 ひとまず神社神道が宗教法人として独立し たことにより、仏教界、とりわけ真宗教団にとっては国民道徳として神道を位置づけてきたことの見直しゃ新たな 宗制制定、教団の政府および国家との関係における独立性などについて、明確な歴史的検証を伴いながら取り組む ことが課題として求められていた。敗戦直後の九月二十八日に発布された﹁御消息﹂には、 ソレ惟レパ偏ニワレラ国民ヲ哀感シタマヒ、永ク世界ノ平和ヲ希ヒタマフ深遠無涯ノ 聖慮ニヨリ戦ハ遂ニ終 ヲ告ゲタリ。過ギシ戦ノ日ヲ顧ミ、敗戦ノ悲運ニ遭フ今ヲ思フトキ、転断腸ノ思ヒニタヘズ、 タダ/ t\断塊ノ 念禁ズル能ハザルナリ。サレド、 ワレラ徒ニ悲歎ニ沈ムベキニアラズ、荊糠苦難ノ道ハハルカナリト難モ、相 共ニ心ヲ協セ力ヲ尽サパ、何ゾ光明ノ彼岸ニ到ラザルニコトアランヤ。 既ニシテワガ国挙ゲテ平和日本ノ建設ニ着々歩ミヲ進メッ、ァリ、道義ノ振作ト文化ノ昂揚ハ現下最大ノ急務 ニシテ、宗教教化ノ任極メテ重キヲ覚ユルナリ。サレパ、王法ヲ本トシ仁義ヲ先トシスベキヨシ、懇ニ教ヲウ ケシ一宗ノ門葉、承詔必謹ノ下、国体ヲ護持、ン奉リ、信義ヲ篤夕、ン、敬愛ヲ旨トシ、挙国二本ノ喜ヲ共ニシテ、 万邦講和ノ実ヲ挙ゲ、苦シキヲ忍ヒ乏シキニ耐へ、イヨ/\己ガ本分ヲ全ウスルヤウツトメザルベカラズ。

レ国運ヲ万世ニ開ク要請ニシテ、 マタ真宗念仏行者ノ面白ト謂フベシ。

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希クハ一流ノ道俗、他力金剛ノ真信ニ住シテ真実無碍ノ大道ヲ歩ミ、深ク身ノ宿縁ヲ喜ブトトモニサキニ述ル トコロヲ堅ク相守リ、新シキ日本ノ建設ニ報恩謝徳ノ懇念ヲ運パル、ャウ心得ラレ候ハ f 、余ガヨロコピコノ ︵ 必 ︶ 上 ハ ア ル マ ジ ク 候 ナ リ 。 と 述 べ て い る 。 敗 戦 は 、 一転して﹁平和日本ノ建設﹂への﹁国運﹂となり、それらへの﹁本分﹂を尽くすことが﹁真 宗念仏者ノ面目﹂と位置つけられた。このような位置づけは、基本的には敗戦前からの教団のありょうの継承であ っ た 。 し た が っ て 、 一 九 四 七 ︵ 昭 和 二 十 二 ︶ 年 四 月 に は 、 新 た な 宗 制 を 施 行 し た ︵ 公 布 は 、 一 九 四 六 年 九 月 十 一 日 ︶ が、その﹁宗制﹂作成にあたっては、﹁一九四一年宗制﹂の条文の文言加筆・修正を伴うものであったが、教団内 議論は広く行われないまま、教団指導層によって作成された。はじめに、 宗祖見真親鷲聖人は、顕浄土真実教行証文類を著し、竜樹、天親、曇驚、道梓、善導、源信、源空の七高僧の 釈義を承け、仏説無量寿経の本義を開顕して、真実の宗旨は、信心正因、称名報恩であることを明らかにされ た。これが浄土真宗の立教開宗である。 聖人の滅後、文永九年に聖人の季女覚信は、孫如信と共に、諸方に散在する聖人の遺弟と相図り、東山大谷に ︵ 特 ︶ ある聖人の墳墓の側に仏閣を建て、聖人の影像を安置した。これが本願寺の起源である。 といい、ほぼ﹁一九四一年宗制﹂を踏襲した。第一章の﹁教義﹂においても、 浄土真宗の教義の大綱は、顕浄土真実教行証文類に顕示された教、行、信、証の四法である。その教とは仏説 無量寿経、行とは南阿弥陀仏、信とは信心、証とは滅度であって、真実の教である仏説無量寿経に説き示され ︵ 日 ︶ た南無阿弥陀仏の名号を聞く信心によって、浄土に往生して減度の仏果を証することである。 と述べた。そして、第四章の﹁宗風﹂では、 本 宗 門 は 、 一味の信心に住する人びとの同朋教団である。この宗門を組織している人びとは、僧侶と、門徒と、 総戦力下の神仏問題と本願寺派﹁宗制﹂

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各々その務を異にするけれども、ともにこれ法味愛楽の同信であり、仏恩報謝の同行である。 寺院は、白行化他の道場である。それ故、僧侶は、専らその機能の発揮と向上とにつとめ、門徒は、愈々その 護持と発展とをこころがけ、相携えて正法弘通に精進しなければならない。 本宗門の人びとは、常に報恩謝徳の懇念に基いて、人道を履践し、世法を遵守し、世のため人のためにまこと の生活を営まなければならない。 既に正法に遇い仏願を信ずる本宗門の人びとは、深く因果の理を弁え、禁厭祈冗等によって現世の福利を求め ︵ 日 ︶ て は な ら な い 。 と述べた。ここには、教学として﹁真俗二諦の旨趣﹂や教団のありょうを継承しており、戦後の政治や教育の骨格 が日本国憲法や教育基本法へと転換したようには、検証を伴った質的転換をなしえなかった。したがって、この ﹁一九四七年宗制﹂にもとワく教団においては、新たな政治社会状況への即応、﹁平和日本ノ建設﹂に対応しつつ も、戦時下において明確化された神仏関係の課題の見直しゃ敗戦による政治社会の転換においての教団の新たなあ ︵ 臼 ︶ りょうをめぐる議論、さらに教団の戦争責任を検証した上で制定するものではなかったのである。 註 ︵ 1 ︶ 岡 田 弘 隆 ﹁ 戦 時 宗 教 動 員 体 制 ﹂ ︵ 中 濃 教 篤 編 ﹃ 戦 時 下 の 仏 教 ﹄ 所 収 、 昭 和 五 十 三 年 ︶ 、 亦 淳 史 朗 ﹃ 近 代 日 本 の 思 想 統 制 と 宗 教 統 制 ﹄ ︵ 校 倉 書 一 房 、 一 九 八 五 年 ︶ な ど 参 照 。 ︵2 ︶ 拙 稿 ﹁ 天 皇 制 フ ァ シ ズ ム 期 の 真 宗 ﹂ ︵ 日 野 昭 博 士 還 暦 記 念 ﹁ 歴 史 と 伝 尿 ﹄ 所 収 、 一 九 八 八 年 四 月 ︶ 、 ﹁ 戦 時 下 の 西 本 願 寺 教 団 ﹂ ︵ ﹁ 解 説 ﹂ ﹃ 戦 時 教 学 と 真 宗 ﹄ 第 一 巻 所 収 、 一 九 八 八 年 七 月 ︶ 、 ﹁ 日 本 フ ァ シ ズ ム 成 立 期 の 真 宗 ﹂ ︵ ﹁ 仏 教 史 学 研 究 ﹄ 第 コ 二 巻 第 二 号 、 一 九 八 八 年 一 一 月 ︶ 、 ﹁ 戦 時 下 の 教 学 と 融 和 運 動 ﹂ ︵ 仲 尾 俊 博 先 生 古 稀 記 念 ﹁ 歴 史 と 社 会 ﹄ 所 収 、 一 九 九 O 年 一 O 月 ︶ 、 ﹁ 総 力 戦 下 の 戦 時 教 団 体 制 の 形 成 ﹂ ︵ 福 間 光 超 先 生 還 暦 記 念 ﹃ 真 宗 論 叢 ﹄ 所 収 、 一 九 九 三 年 一 二 月 ︶ 、 ﹁ 西 本 願 寺 教 団 に お け る 所 謂 ﹁ 報 国 信 仰 運 動 ﹄ の 展 開 ﹂ ︵ ﹁ 仏 教 史 研 究 ﹄ 第 三 二 号 、 一 九 九 五 年 ︶ 、

参照

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