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ハ ノ ー フ ァ 王 国 一 八 三 七 年 憲 法 紛 争

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早稲田大学教育学部 学術研究︵地理学・歴史学・社会科学編︶第五十六号 二〇〇八年二月

ハノーファ王国一八三七年憲法紛争

一ウィーン体制の等族憲法と連邦秩序

フランス革命からナポレオンの大陸支配を経て約三〇年間にわたり

混乱したヨーロッパ秩序の現状復帰を図ったのが︑被占領国フランス

をも含めての︑一八一四年から一八一五年にかけてのウィーン会議で

ある︒ヨーロッパ列強の合意のもとに成立した︑一八一五年六月八日

の連邦議定書は︑一八〇六年八月六日のオーストリア皇帝フランツ二

世退位により解体した神聖ローマ帝国において帝国直属の自立権を持っ

ていた三〇〇余の領邦・教会諸侯領・独立都市と一〇〇〇余の帝国直

属騎士領を三八の国家・都市に集約し︑合議体として運営するドイツ

連邦を形成したが︑統一的中央政府機能を持たず︑痛成諸国家・都市

が国家主権を完全に維持したことから︑ドイツ同盟とも呼ばれる︒加

盟国数はその後増減があり︑一八一七年七月で四一カ国となる︒それ

故︑一八一五年のドイツ連邦の性格は︑国家同盟と連邦国家の中間形

ハノ

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憲法

紛争

︵大

西︶

大   西   健   夫

︵1︶態とも位置づけられている︒

一八一八年時点でのドイツ連邦の人口は︑オーストリアとプロイセ

ンの連邦域外地域を除き︑三︑〇一六万人で︑最大国はオーストリアの

九五〇万人とプロイセンの七九〇万人で︑これに続くのがバイエルン

の三五六万人︑ウユルテンプルクの一主九万人︑ハノーファの一三〇

︵ 2

万人であり︑五︑五四六人のリヒテンシュタインが人口最小国であった︒

ドイツ連邦は︑加盟国・都市の条約上の集合体であり︑連邦議定書

二条が﹁連邦の目的は︑ドイツの内外の安全およびドイツ諸国家の独

立と不可侵の維持である﹂とし︑二条で﹁すべての連邦国家は︑い

かなる侵害に対しても保護することをドイツ全体ならびにすべての連

邦国家に約束し︑連邦に含まれるすべての領有を相互に保障する﹂と

しているが︑ドイツ民族統一国家形成は視野になく︑君主主権の下で

の構成諸国家の独立と不可侵を保障する機構であり︑ウィーン体制と

呼ばれた︒フランクフルトに置かれた連邦議会は︑連邦の組織・機構

l

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に関わる連邦基本法の変更には人口比で配分された票数に基づき全加

盟国で審議し︑平常の連邦運営は連邦の大国および小国㍉都市をグルー

プ化した構成員による小議会で審議するとしているlが︑ことにはホル

シュタインを統治するデンマーク︑ルクセンブルクを統治するオラン

ダが一票を持ち︑さらに︑大国として独自に一票を持つ六ノーファ王

国はイギリスと同君連合にあったから︑ドイツ連邦はヨーロッパ列強

の監視下にあった︒

ロシアの発議で︑ヨーロッパ秩序を列強間で協議する場として神聖

同盟が結成されており︑ドイツ連邦内秩序への間接的介入が可能であっ

た︒V一八一五年九月二六日にロシア︑オーストリア︑プロイセンの皇

帝・国王が調印する神聖同盟には︑その後フランス︑スイスが加盟し︑

加盟こそしなかったがイギリスはオブザーバーとLlて参加している︒

ドイツ連邦全体としては加盟しなかったが︑連邦諸国は連携協定を結

んでいることから︑ここでもドイツ連邦全体がヨーロッパ列強の監視

下にあった︒神聖同盟会議は︑一八一八年のアーヘン︑二〇年のトロ

パオ︑二一年のライバッハ︑二二年のヴェローナと開催されるが︑ド

イツ連邦にとっては︑一八年のアtへン会議が決定的な意味を持つ︒

アーヘン会議は︑ロシア︑オーストリア︑プロイセン︑イギリスが

フランスを招待する形で開催され︑主要議題は対ナポレオン戦争を共

に戦った連合軍のフランス駐留期間を五年間から三年間へ短縮する止

めの合意形成であり︑一八一八年二月一五日に上記五カ国が調印し︑

ナポレオン.戦争後のヨーロッパ秩序への五覇権国体制が確立した︒正

式議題ではなかっ.たが︑ロシアはこの機会を捉えてドイツの大学制度

について問題提起をしており︑後のカールスバトド決議の伏線となる︒

即ち︑一八一九年にドイツ入学生ザンドによってロシア政府顧問であっ

たドイツ人文筆家コツェブーが暗殺されたことを受け︑オーストリア

とプロイセン主導のもとで連邦主要一〇カ国が参加して開催されたカー

ルスバード会議は︑ロシアがアーへン会議で提起した方向で連邦秩序

対策が打ち出され︑大学法︑出版法︑一調査委員会法︑執行法の四法が

決議され︑その後一八一九年九月二〇日に連邦法となり︑一八二〇年

五月一五日のウィーン最終議定書の付帯書とされている︒四法はいず

れも︑ドイツ連邦が独立した君主国家の連合体として分断的構造を前

提としているなかで︑祖国統一運動に見られるような連邦横断的運動

への対策であった︒大学法と出版法は︑学生運動禁止と大学管理強化︑

それに︑検閲制度の連邦共通指針を示し︑各国が国内法で対処するも

のであったが︑調査委員会法は政治運動を取締る連邦直属機関を設置

したし︑執行法は軍事行動を含めた連邦による加盟国内政への介入を

︵ 8

可能

にし

た︒

ウィーン体制下のヨーロッパと連邦の秩序は︑連邦加盟国の国内秩

序の安定にかかっていた︒ウィーン体制は君主主権の再確認と神聖ロー

マ帝国時代の直属領主・騎士団の自立支配権の保障を前提として構築

されていたので︑再編された連邦諸国にとって︑編入・統合された領

邦・騎士領・独立都市︑そして︑世俗化された教会領の聖職者および

国王特許状により自治権が与えられていた大学などを地域・団体単位

(3)

で等族として位置づけ︑統治一元化のため統合するごとが内政課題と

なった︒ドイツ連邦は︑加盟国ならびに連邦体制の秩序安定のため︑

同質的な政体構造を持つ加盟国の条約関係であることを目指したので︑

加盟国が身分制等族議会を持ち︑国王と等族議会が合意した等族憲法

制定を求めている︒それゆえ︑連邦議定書一三条は﹁すべての連邦国

家において等族憲法が持たれる﹂としているが︑しかし︑国王と等族

の合意としての憲法の内容については内政問題として立ち入っていな

︵ 4

︶ い︒即ち︑三月前期のドイツ諸国の憲法は︑一八四八年三月のドイツ

革命以後に見られるような国王と国民の一般契約としての憲法理解で

はなく︑一方で等族が享受してきた旧来の身分特権や領主支配権など

の特権を保障し︑他方で等族議会に立法権や課税権への一定の関与を

認めることで︑国王による国家統治一元化を明文化したものであった︒

即ち︑この時代の法理解においては︑憲法という用語はその時点での

国体を法令化したものであったから︑国体の再確認のために君主が発

︵ 5

令する立法︑即ち勅令であった︒それ故︑当時のドイツ語での用法で

は︑

憲法

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︑国

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国家

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など

が同

じ意

味で

用い

られ

てい

る︒

ウィーン体制は︑さらに︑等族憲法によって形成された国内秩序を

連邦としても保障することになる︒一八二〇年のり.イーン最終議定書

五六条は︑﹁有効が確認された状態にある等族憲法は︑憲法規定によっ

てのみ変更できる﹂と定めており︑革命などの暴力的な勢力や国内紛

争による憲法体制変更に対して︑先に触れた一八一九年の執行法を用

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︵6︶いて連邦として加盟国の内政に介入できる途を開いたのである︒

等族憲法は︑しかしながら︑すべての連邦国家において制定された

わけではない︒領土の一部を連邦域外としたドイツ連邦の長大の覇権

国であるオーストリアとプロイセンが等族憲法制定に踏み切らない一

方︑西南ドイツのバイエルン︑ウユルテンプルク︑バーデン︑そして︑

ハノーファなどが率先する形で等族憲法を制定していることは︑ウィー

ン会議での領有地再編で拡大した領土での等族を統合する必要に迫ら

れからである︒等族憲法制定の第二波は︑中部ドイツのザクセン︑クァ・

ヘッセンなどであるが︑これらは一八三〇年の七月革命の余波をうけ︑

挙国体制の必要に迫られたからである.︒

初期立憲主義期︑即ち︑一八四八年

国における等族憲法を概観すると次に

らの憲法ないし国家基本法を維持した

ルク︑ブレーメン︑リューベックの独 三月以前のドイツ連邦四一加盟ようになる︒一八一五年以前かのは︑フランクフルト︑バンプ

立都市を含めた一四国で︑七月

革命以前の一八二九年までに憲法制定したのが︑ナッサオ︑バイエル

ン︑バーデン︑ウユルテンプルク︑ハ

ダルムシュタックなど一五国︑一八三〇年以降に制定したのが︑クァ・

ヘッセン︑ザクセン︑ルクセンブルクなど八国で︑オーストリア︑プ

ロイセン︑オルデンブルク︑ヘッセン=ホンブククl四国は憲法を持

7 ︶

たな

かっ

た︒

ドイツ初期立憲主義期の等族憲法の性質を明らかにするため︑﹁近

年のおける領土の拡大と変遷がいかな竃︵ドイツの他の︑筆者注︶国

(4)

家よりも大きかった﹂バイエルンについてみると︑チロル地方とザル ズブルクをオーストリアに割譲する一方︑プロイセンからアンスバッ

ハとバイロイトを得︑世俗化された司教領バンベルク︑ウユルツブル

ク︑フライジンゲン︑アウグスブルク︑さらに︑ニュールンベルクな

8 ︶

どの神聖ローマ帝国時代の帝国直属都市を領有するにいたる︒ 一八一八年五月二六日のバイエルン王国憲法は︑先ず︑新・旧国土

を統合したバイエルン王国は︑この憲法に基づく国王主権国家である

と宣言し ︵I11︶︑この全王国のために二院からなる等族議会が存

︵ 9

在する ︵II2︶︑とする︒国王は︑画家元首であり︑国家権力のす

べてを統合し︑国王により与えられた憲法で規定された決定を施行す

表1848年までのドイツ連邦諸国における等族憲法 I.独立都市(制定と修正)

1)Ltibeck,1813年3月19日 2)Hamburg,1814年5月27日

3)Bremen,1816年3月20日−1818年12月11日 4)Frankfurt,1816年7月16日−1816年10月18日

Ⅱ.神聖ローマ帝国時代の憲法を再制定

5)、6)Mecklenburg−Schwerin,Mecklenburg−Strelitz,1755年 7)Hohenzollern−Hechingen,1796年

8)一10)Anhaltの3国、1625年 11)−14)Reu13の4国、1668年

Ⅲ.1819年までの憲法制定

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2

2

Nassau,1814年9月1日

Schwarzburg−RudoIstadt,1816年1月8日 Schaumburg−Lippe,1816年1月15日 Waldeck,1816年4月18日

SachsenMWeimar,1816年5月5日 Sachsen−Hildburghausen,1818年3月19日 Bayern,1818年5月26日

Baden,1818年8月22日 Lichtenstein,1818年11月9日 W屯rttemberg,1819年9月25日

Hannover,1819年12月7日、1833年9月26日、1840年8月5日 Braunschweig,1820年4月25日、1832年10月1日

Hessen−Darmstadt,1820年12月17日 Sachsen−Coburg,1821年8月8日 SachsenrMeiningen,1824年9月4日

Ⅳ.1830年から48年までの憲法制定 30)Kurhessen,1831年1月5日 31)Sachsen−Altenburg,1831年4月29日 32)HoIstein,1831年5月28日

33)Sachsen,1831年9月4日

34)Hohenzollern−Sigmaringen,1833年7月11日 35)Lippe,1836年7月6日

36)_Schwar写burg−Sondershau$en,1841年9月24日 37)Luxemburg,1841年12月11日

Ⅴ.1848年まで憲法制定せず 38)Osterreich,

39)Preussen 40)01denburg 41)Hessen−Homburg 出典 注7参照

ハノーファ王国一八三七年憲法紛争︵大西︶

(5)

る ︵Ⅱ−1︶︒市民の権利については︑すべてのバイエルン人は平等

にあらゆる民間・軍事・聖職に就くことことができるとするとともに

︵Ⅳ−5︶︑農奴解放を定めた一八〇八年八月三日の法律規定に基づき

王国においては隷農は存在しない ︵Ⅳ−6︶︑とする︒神聖ローマ帝

国以来の身分特権を保障しており︑帝国等族であった貴族︑帝国直属

騎士︑王国騎士には︑領主主権が維持され︑領主裁判権の行使を認め

ていることは ︵Ⅳ−2︑3︑4︶︑これらを公法上の存在と認定した

ことを意味するのであり︑等族議会構成員選出に反映している︒

第一院構成員の身分は︑成年に達した皇子︑王国政府官吏︑司教︑

旧帝国等族︑国王任命の聖職者および官吏であり︑等族身分による自

動選出ないし国王任命者であった︵Ⅵ−2︶︒即ち︑第一院が神聖ロー

マ帝国時代の支配層を構成員とするのに対して︑地域ないし団体から

選挙で構成員が選出されるのが第二院であった︒領主裁判権を持つ土

地を所有するが旧帝国で等族身分が与えられていなかった土地所有者︑

即ち︑領主裁判権を持つ土地を所有する自由農民︑大学︑新旧両教会

の聖職者︑自治都市および都市自治権が与えられてなかった市場都市︑

および︑その他の自由農民から一定の比率で選出されるのであり︵Ⅵ−

7︶︑第二院の構成員には議員という名称が与えられている︒ここで

みるように︑神聖ローマ帝国皇帝特許状と国王特許状に基づき設立さ

れた大学は︑大学裁判権を持つ公法上の存在だったのであり︑大学の

この位置づけはバイエルンのみならず他のドイツ諸国の憲法において

︵ 1

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も同様であった︒

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等族議会の権限は︑課税︑予算︑国家負債の承認であり︵Ⅶ13︑

4︑11︶︑各院は国王に対して議案提案訴願権を持つとしているよう

に︑審議案件提出権は国王のみが持っていた︒また︑各院の構成員は︑

所属する院に請願・提案権を持つが採択は多数決とし︑国民は憲法侵

害について等族議会に訴願できるが︑.両院が一致した場合のみ国王に

対して共同意見表明が可能であった︒.即ち︑等族議会は︑憲法が定め

た案件と国王提出案件以外は︑両院共同請願ないし意見表明のみが審

議請願可能であった︒同じく︑国王が任命する王国政府大臣および官

吏についても︑憲法侵害があった場合のみ両院共同訴願が可能であっ

たから ︵Ⅹ−5︶︑議会の行政への監視機能を持たなかった︒憲法改

正・修正は等族の承認を必要とする ︵Ⅹ−7︶ との規定もあるが︑当

然これも両院一致であった︒特筆すべl書は︑等族議会構成員に﹁特定

の身分や階級への考慮なく︑自身の内面的確信に基づき︑国全体の繁

栄と最善のために審議する﹂との宣誓を要求するとともに ︵Ⅶ−25︶︑

この憲法の公法上の位置づけに関わるのであるが︑国王はその戴冠に

あたり政府構成員ならびに等族代議員の前で﹁憲法と王国諸法に基づ

き統治する﹂と宣誓すること︑また︑全ての官吏は就任にあたり﹁国

王への忠誠︑法の遵守︑憲法への恭順﹂を宣誓︑即ち︑忠誠・職務・

憲法宣誓することとしている ︵Ⅹ−1︶︒

二 ブラウンシュワイク憲法紛争

ウィーン体制は︑等族議会という匝質的国家体制を持つ独立した加

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盟国の同盟関係として発足し︑カールスバード決議での四法を経てウ

ィーン最終議定書によって加盟国の国家主権に対lL超国家的な連邦直

接介入の権限を連邦法として法制化したことによhリ︑単なる同盟関係

から一歩踏み出した機構となったのであるが︑直接介入の目的は加盟

国・連邦の秩序維持であったのは既に見てきた通りである︒加盟国の

秩序維持を阻害するものとして想定されたのは︑一つは︑革命・暴動

のような下からの秩序破壊であり︑もう一つは︑等族憲法に基づき国

王と等族議会の間で築きあげられた加盟国の内政秩序の混乱である︒

後者が憲法紛争として現れてくるのであった︒

四八年三月革命以前においての執行法に基づく連邦直接介入として

は︑三〇年の七月革命が波及したルクセンブルクが暴動の手中に陥っ

たことを受け︑同君連合のオランダが三〇年一〇月一五Hに連邦の支

援を要請し︑連邦議会は三一年三月一七/一八日に連邦軍二万四千人

の派遣を決定した︒ハノーファ王国が指揮を取り︑症暴動を鎮圧してい

る︒また︑後に触れる一八三一年のゲッティンゲン蜂起を主導するラ

オシェンプラットが関与する一八三三年四月三日の暴動でフランクフ

ルトの衛舎が占拠されたことを受けて︑フランクフルト市の支援要請

なしであるにもかかわらず︑三三年四月一二日の連邦議会は︑フラン

クフルト市議会が統治不能に陥ったとして︑オーストリア・プロイセ

ン軍の派遣を決定し︑暴動を鎮圧している︒フランクフルト市議会は

その後抗議するが︑連邦議会での決定を覆すことはできなかった︒

これに対して︑加盟国内での憲法紛争が︑連邦の介入に到らなかっ

たものの︑連邦議会での審議対象となった事例として︑ホルシュタイ

ン︑ブラウンシュワイク︑ハノーファでの憲法紛争がある︒デンマー

ク国王の支配下にあったホルシュタインで︑教会と騎士団が︑後にゲッ

ティンゲンに移り七教授事件の主役となるキール大学教授句.Ch.グー

ルマンの意見書をに基づき︑一八二二年一二月四日︑連邦議定書五六

条に基づき︑等族議会の同意を得た旧憲法を連邦議会が保障するよう

に提訴する︒しかし︑ホルシュタインの教会と騎士団がともに等族議

会を一世紀以上にわたり開催していず︑旧憲法は﹁有効が確認された

状態﹂にない事実に照らし︑二三年一二月の連邦議会は内政問題であ

︵ 1

2 ︶

るとして審議の対象とすることを拒否している︒一八三七年ハノーファ

王国憲法紛争も︑ゲッティンゲン大学七教授事件との関連で全ドイツ

的関心の的となるとともに他の加盟国がこの憲法紛争を連邦問題とし

て提訴したが︑連邦議会はやはり内蔵問題として処理している︒これ

に対して︑等族議会が国王と対立し︑連邦議会が等族議会の主張を認

め︑実行にいたらなかったものの介入決議をしたのがブラウンシュワ

イクの例である︒後者二つの例から︑lドイツ連邦体制における︑等族

議会と等族憲法の位置づけ︑連邦直接介入の性格を明らかにできよう︒

一八〇六年のアウエルシュテットの戦いでブラウンシュワイク公国

王カール・フリードリヒ・ウイルヘルムは致命傷を負い没し︑後継者

フリードリヒ・ウイルヘルムはロン下ンに亡命する︒ナポレオンの大

陸支配体制において︑ブラウンシュワイクはジェロームのウエストファ

リア王国に編入され︑フランスの中央集権支配体制と法の一元化原則

(7)

の下で統治されたので︑騎士団や教会などの特権裁判権は廃され︑農

奴解放が進められた︒

解放戦争に参加すべく︑一八一三年一二月二二日に亡命先のイギリ

スから帰国した国王フリードリヒ・ウイルヘルムは︑直ちに政府業務

を掌握し︑ナポレオン支配以前の体制回復に着手する︒一四年三月一

日には︑暫定的司法・警察制度を定め︑政府の閣僚制度を整えるとと

もに︑国家統合に向けての憲法制定を表明したし︑一四年一一月一六

日のウィーン会議覚書においても加盟国の等族憲法導入の必要を唱え

l ‖︑

ている︒しかし︑ワーテルローの戦いで︑一五年六万一六日に倒れる︒

一八〇四年生まれの後継者カールが未成年であったので︑国王の遺

言により︑同じウエルフェン一族でハノーファと同君連合であるイギ

リス国王ジョージ三世の摂政であり︑一八二〇年にジョージ四世とな

るゲオルグがカールの後見人としてブラウンシュワイクの摂政に就い

た︒ゲオルグは︑イギリスにおいても摂政であったが︑これは︑一八

二〇年に没するジョージ三世が︑一八一〇年以来構神的疾患から国務

を執ることができなかったからである︒ウィーン会議で最終的に決定

されたブラウンシュワイク公国領は︑先王二人がナポレオン戦争で倒

れているにもかかわらず︑当主が未成年で影響力を発揮できなかった

故であろうか︑版図は戦前のそれを踏襲するものであり︑七一平方マ

1 4

イルで人口二五万人の小国であった︒

摂政ゲオルグは︑ハノーファ同様︑ブラウンシュケイクの統治もロ

ンドンでのドイツ局の責任者ミユンスターに実務を委ねていたので︑

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ハノーファと同じくブラウンシュワイクにおいても現地での政府は名

門貴族の合議体で運営されていた︒ブラウンシュワイクの騎士団は︑

当初︑現地政府に対し一七七〇年国法の再確認を請願するが進展なく︑

一八一七年に摂政ゲオルクに直接請願している︒ミュンスターは先ず

ハノーファ王国等族憲法作成に着手し︑等族議会の承認を経て一八一

九年一二月七日に制定される︒これを原型とし︑一七七〇年四月九日

国法修正案草案を審議すべくブラウンシュワイク等族議会が召集され

るのが一八一九年一〇月一二日である︒

草案での等族体制は︑騎士団七八人︑教会六人からなる第一院と﹂

都市代表一九人︑土地所有自由農民代表一九人︑教会関係七人からな

る第二院から構成されている︒等族議会の権限として︑租税の承認権

を認め︑王領地を含めた租税管理は政府と等族が共同で形成する合議

体によるものとしたが︑立法については︑国王は議会の意見を聴取す

るのみであった︒また︑一七七〇年国法では拡大委員会と呼ばれてい

た等族間協議機関を︑両院協議のための委員会に改めるとしている︒

また︑等族会議決定は︑両院それぞれでの絶対多数を経て︑かつ︑両

院一致を必要とするとしたから︑騎士団の優越性が明白な体制であっ

た︒審議は草案を原則的に了承するものであり︑大きな変更として拡

大委員会の存続を定めた後︑一八二〇年一月一七日功等族会議決定を

経て︑﹁修正国法﹂として一八二〇年四月二五日等族憲法が制定され︑

1 5

六月一九日に発効した︒

ウエルフェン家の家法は︑一八歳をヰって成年としていたが︑ハノー

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ファ=イギリス国王ジョージ四世は一方的に摂政期間を一年間延長し

ている︒一八二三年に戴冠したカールは︑一年間の延長に不満を持つ

とともに︑一八二〇年等族憲法作成に自分が排除されたことを不満と

して︑就任にあた.っての憲法宣誓を拒否している︒ノ戴冠から四年を経

た一八二七年五月一〇日のカールの勅令は︑未成年の摂政期に発せら

れた全ての法律と政府の決定は︑王家の権利が侵害されていない限り

において有効なものとし︑さらに︑不法に延長された摂政期間︵一八

二二年一〇月三〇日から二三年一〇月三〇日︶ における摂政によるす

べての決定の法的有効性は新王の再承認を必要とする︑と宣言するも

のであったので︑一八二〇年憲法不受容とハノーファ=イギリス国王

への挑戦であった︒これに加えて︑辞職請願したが受理されないまま

ハノーファ政府に就職したブラウンシュワイクの行政官の引渡しをカー

︵ 1

6 ︶

ルが強行に要求したことが両国の対立を激化させた︒五月一〇日勅令

は︑一八二〇年憲法を制定したハノーファ国王と等族会議の決定を無

視することでもあったから︑カールはこの両者とのl対立を引き起こし︑

連邦議会での争点へと発展する︒

ドイツの法理解では︑摂政は憲法を含めて国家主権の行使を認める

ものであったから︑ハノーファ=イギリス国王の態度を硬化させた︒

オーストリアとプロイセンが仲介に入るが︑成功せず︑ハノーファと

の対立は︑カールがミユンスターにピストルでの決闘挑発にまで発展

した︒ハノーファ政府は勅令撤回を求め︑一八二九年四月九日︑連邦

議会にブラウンシュワイグを提訴するにいたる︒これに対して︑ブラ l︑

ウンシュワイクも同日付けで︑摂政期間延長が違法であること︑本来

の王家の同意なしに憲法を制定し︑既存の一七七〇年国法を違法に廃

止したことを理由に︑ハノーファ政府を連邦議会に提訴する︒この間

題を審議する連邦委員会は︑オーストリア︑プロイセン︑バイエルン︑

ザクセン︑バーデンから構成されていたが︑二九年七月九日の連邦議

会への報告で︑主権国家間の抗争は委員会の権限を越えるものであり︑

連邦基本法に関り︑連邦の平和とその保障の確保は連邦議会の課題で

ある︑とした︒これを受けて︑二九年八月二〇日の連邦議会は︑カー

ルは二七年五月一〇日の勅令を取り下げ︑ジョージ四世に謝罪すべL

との決定をした︒カールの謝罪に関しては︑ジョージ四世は九月一七

日に不必要であるとして拒否している︒

カールは︑八月二〇日の連邦議会決定を受容するが︑勅令撤回を実

行しようとしないことから︑ハノーチアーは︑二月一二日︑連邦執

行法発動を連邦議会に提議する︒三〇年二月一一日の連邦議会決定は︑

カールに対して二月二五日までの猶予期間を設定するが︑カールは実

行せず︑連邦議会は三月四日に執行法発動を決定する︒執行法適用規

定を定めたウィーン最終議定書三一条が発動された最初の例となる︒

そして︑連邦議会は︑三月二六日の決定でブラウンシュワイクに向け

る連邦軍の規模と指揮者を決定すると︑カールは︑四月二二日の勅令

で︑二七年五月一〇日勅令の無効を宣言したことにより︑両国の抗争

は終焉する︒しかし︑一八二〇年憲法の有効性を巡るカールと等族議

会との問題が残った︒

(9)

連邦議会が両国の抗争に加え︑カールと等族議会の抗争に積極的に

介入したのは︑五月一〇日勅令が等族議会との協調による加盟国の内

政安定という連邦体制の根幹に関わる問題を含んでいたからである︒

五月一〇日勅令が必ずしも一八二〇年憲法の無効を宣言するものでな

かったことから︑当初ブラウンシュワイク等族会議は︑独自に設置し

た委員会を通じて︑憲法修正について協議する用意があることを新王

1 7

カールに申し出でている︒しかし︑カールは︑二九年四月九日の連邦

議会への提訴の内容を理由として︑一八二〇年憲法の不拘束性を主張

した︒これに対して︑二九年五月二三日︑等族議会は連邦議会に︑一

八二〇年憲法の有効性の確認と将来的に連邦の保障を求めて訴願した︒

連邦議会に対するカールの回答は︑一七七〇年のブラウンシュワイク

国法が有効な憲法であり︑一八二〇年憲法を否認するとの内容であっ

た︒さらに︑六月一七日︑カールは連邦議会での所見表明において︑

内政問題に関わる等族議会の訴願は連邦権限外の案件であると主張し

た︒この間題を連邦議会は訴願委員会での審議に付託するが︑その根

拠なったのは︑連邦議定書一三条とウィーン最終議定書五六条であっ

た︒連邦議定書一三条は加盟国に等族憲法制定を求め︑最終議定書五

六条僧憲法改正の条件を定めていることから︑争点は一八二〇年憲法

が﹁有効が確認された状態﹂にあるか否かの判断であった︒一八三〇

年八月一九日の連邦訴願委員会の提案は等族議会の法解釈を承認する

もので︑連邦議会は連邦決定として一八二〇年憲法を確認することが

望ましい︑との提案をした︒

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憲法

紛争

︵大

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しかし︑オーストリアが国王に対する等族の勝利を望まなかったこ

とから︑連邦議会での最終審議は引き延ばされていたが︑まさにこの

時期にパリでの七月革命が勃発し︑偶然であるがカール自身パリでこ

の革命を体験し︑帰路のブリュッセルでは暴動に巻き込まれている︒

帰国したカールを待ち構えていたのは︑ブラウンシュワイク市民の蜂

起であり︑等族会議の招集を要求した︒この要求をカールが拒否する

と︑九月六日には暴徒化し︑七日には宮廷を襲撃し︑放火・略奪を行っ

たのに対し軍は機能しなく︑市民軍が形成され治安にあたる︒カール

はロンドンに逃れ︑ハノーファ=イギリス国王の庇護を受ける︒ドイ

ツにおいて成功した最初の市民革命であった︒等族議会拡大委員会が

九月九日に開催されるが︑一八二〇年憲法が定める国王の招集による

ものではなく︑自発的なものであった︒拡大委員会は︑等族議会開催

までの委員会存続︑代表団のベルリンとハノーファへの派遣︑ベルリ

ンに滞在するカールの弟ウイルヘルムへの政権受容依願を決定した︒

連邦議会は︑拡大委員会の越権行為を告発するブラウンシュワイク

政府の九月九日付け告発書を受理するが︑事態把握のためより詳細な

報告書提出を求め︑一〇月一五日にブラウンシュワイク問題を審議す

る委員会を別途設置する︒しかし︑この同じ日に︑上で触れた八月一

九日付け連邦訴願委員会提案の票決が行われている︒オーストリアは

反対するが︑プロイセン︑バイエルン︑ザクセン︑ハノーファ︑バー

デンが賛成し︑ブラウンシュワイク等族の勝利が確実となるが︑連邦

議会の最終決定が下されるのは一一月四日で︑オーストリアを始とす

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憲法

紛争

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る三票の反対があったものの︑一八二〇年憲法が﹁有効が確認された

状態﹂にあるとした︒ここで見られるのは︑ドイツ連邦秩序が加盟国

の等族体制の安定を根底としているという根本原則であり︑そのため

の基本要素として国王と等族議会の合意を位置づけていることである︒

ブラウンシュワイクの場合︑連邦秩序の枠内で等族議会が一致して国

王に二〇年憲法の承認を要求したのであり︑等族議会の結束をみるこ

とがなく︑貴族を中心とした一院が国王を支持したハノーファの一八

三七年憲法紛争と異なり︑ドイツ連邦議会の支持を得ることができた

ばかりでなく︑連邦直接介入を引き出すことができたのであった︒

一八三〇年に戴冠し︑ロンドンに避難したカールを庇護していたハ

ノーファ=イギリス国王ウイルヘルム四世が︑暫定的にブラウンシュ

ワイクの治安回復を指揮することになる︒イギリス国王の助言に従い︑

カールは︑九月二〇日付けで弟のウイルヘルムに対し︑ブラウンシュ

ワイクにおける国家主権行使を暫定的に委託する全権委任状を発する︒

ブラウンシュワイク等族議会も︑ドイツの一般国法の原理に基づきカー

ルを統治不能とみなし︑弟ウイルヘルムに政権受容を請願している︒

事態の沈静化とともにカールは国政復帰を試み︑一八三〇年二月七

日にドイツに戻り︑オーストリアの支援を頼みとしてフランクフルト

に滞在して画策するが︑ウィルヘルムは︑二月二六日の勅令によっ

て兄の同意とともに緊急なる理由が要請したので政権を受容したが︑

今後は兄の同意なしに政権の行使を継続するのは︑カールが統治不能

な状態にある一方︑国家は政権行使なしに存続できないからである︑ 一〇

と宣言する︒連邦議会も︑一二月二日の決議で︑ウイルヘルムに今後

もブラウンシュワイク政府を率いることを要請している︒カールはこ

の決定にも異議を唱えるが︑一八三一.年三月一〇日の連邦議会決議は︑

カールを完全に統治不能とみなし︑ウイルヘルムを王家の男性相続順

位第一位と決定した︒ウイルヘルムは︑四月二〇日の勅令で︑王権受

容を宣言し︑同日の軍隊︑二五日の官吏と等族の忠誠・職務宣誓が続

いた︒そして︑新王ウイルヘルムのもとで︑憲法改正作業が開始され

る︒憲法改正案は︑三一年九月三〇日に等族議会に提出され︑審議の

過程で幾つかの修正点が生まれ︑最終的に等族議会の承認をみたのは

︵ 1

8 ︶

三二年一〇月六日であり︑一〇月一二日の公布とともに発効した︒

新憲法では︑二院制を四八人の代議員からなる一院制とし︑騎士団

一〇人︑都市一二人︑自由農民一〇人︑その他一六人は上記三等族横

断的に﹁高い教育を受けた男子﹂を選出するとした︒等族会議の権限

は拡大され︑租税・立法・国家予算の承認権が与えられ︑納税・兵役

が国民の義務であり︑国民は法の前で平等であると述べている︒良心

と信仰の自由が保障されたが︑言論・出版・書籍販売の自由には制約

が課せられのは先に触れた連邦四法があったからである︒一院制議会

の議決は単純多数決とし︑憲法改正は全代議員三分の二を必要とした︒

これにより︑新憲法下での議会は︑国王の諮問・同意機関としての従

来の性格から前進し︑国政議決機関としての権限を拡大したのであっ

た︒

(11)

三 八ノーファー王国一八三三年国家基本法

ハノーファは︑神聖ローマ帝国の時代にあっては首都ハノーファが

位置するカレンベルク︑リユーネブルク︑ゲッティシゲンなどの五地

域を領有し︑神聖ローマ帝国皇帝選出権をもつ選帝国であったが︑ゲ

オルグ一世が一七一四年ジョージ一世としてイギリ.ス国王に就き︑同

君連合となっている︒イギリス国王戴冠の条件として国王のイギリス

在住が義務付けられていたことから︑国王がハノーファを訪れたのは︑

ゲオルグ一世を除くと︑一八二一年秋のジョージ四世のみであった︒

ハノーファ王国の統治は︑それゆえ︑ロンドンのウェーストミュンスター

に置かれたドイツ局が所轄し︑そこからの指示のもとにハノーファー

政府は名門貴族が交替で大臣に就く合議制で運営されていた︒一八一

〇年から二〇年までの時期は︑国王ジョージ三世が精神障害にあった

ので︑後にジョージ四世となる長男ゲオルグが摂政としてイギリスお

よびハノーファを統治したばかりでなく︑先に見たように︑同じウエ

ルフェン家のブラウンシュワイクも摂政として統治もた︒一八〇五年

以来ウエストミユンスターのドイツ局の責任者はハノーファの貴族ミュ

ンスターで︑実質的にハノーファを管理するとともにハノーファとと

もにブラウンシュワイクの等族憲法制定の責任者であった︒

ナポレオンの大陸支配の時期︑ハノーファはジェロームのウェスト

ファリア王国に併合され︑フランスに倣い︑強力な中央集権的行政機

構と法一元化原則の下で︑神聖ローマ帝国時代の身分特権が廃され︑

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農奴解放が実行され始めていた︒一八一三年一〇月のライブツィヒ郊

外の戦いでナポレオンが敗退するとウェストファリア王国も崩壊し︑

一一月にはロンドンの摂政ゲオルグはハノーファでの政府機能を掌握

し︑末弟のアドルフ・フリードリヒをハノファー総統括者に任命する

とともに︑ウェストファリア王国時代の全ての決定を廃棄し︑戦前の

規定を復活させた︒ウィーン会議で戦前の五等族地域に二つの等族地

域が新たに加わり王国に昇格するが︑六ノーファ王国の統治一元化の

ために政府と等族との協議の場が必要となり︑一八一四年八月一二日

の告示で最初の一般等族議会招集を定める︒召集される八五人の代表

の構成は︑四三人を騎士団︑二九人を都市およびゲッティンゲン大学︑

一〇人を教会︑三人を自由農民とし︑その役割を身分ないし地域の代

表としてではなく全国の等族を代表すべLとした︒第一回議会が開催

されるのは一二月一五日であるが︑そこでの開会式でアドルフ・フリー

ドリヒは︑この議会に﹁租税の承認に関わる全ての権利と立法への関

与が諮られる﹂ことになろうと述べた1等族の代表達は︑地域毎に異

なっていた公的な負債と租税制度の整理︑身分と地域によって異なっ

ていた特権と租税制度の一元化︑宮廷裁判権や領主裁判権を廃して法

. ︵ 2 0 ︶

の一元化などに向けての合意作業を続けた︒

こうした等族議会の制度を法的に確定するのが一八一九年一二月七

日の国王勅令で︑ファノーフ王国最初の憲法として公布されるが︑そ

の内容は等族議会の体制を再確認したものにすぎず︑政府と等族ない

し国民との権利関係を内容とする憲法ではなかった︒即ち︑﹁王国全

一一

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体に関連し︑等族との協議に憲法上属する議案は︑−王国の一般等族と

のみ協議される︒これに対して︑一部の地域にのみ関り︑地域の等族

との協議に適合する全ての案件は︑今後も当該地域と諮る﹂と定める

のであり︑地域等際の特権を保障しつつ︑再編された領土を等族議会

を通じて統治の一元化を図ったのである︒それゆえ︑一八一九年勅令

は︑立法権︑租税権︑予算権などへの等族議会関与の権限内容を定め

ていない︒等族議会を二院制とし︑両院は同等の権利を持ち︑等族議

会には議案提出権を与えられていなかったので政府が提出する議案に

対する審議のみであり︑また︑等族議会全体の決定は両院の合意によ

るとしている︒第一院は︑騎士団三五人を中心に旧教会領と国王が任

命する者からなり︑第二院は︑都市三五人を中心に教会関係者などか

らなり︑王国唯一の大学であるゲッティンゲン大学も一名の代表を派

遣する権限をもった︒自由農民の代表も第二院に含まれるとしたが︑

この時点では︑農奴解放が終了していないので農民の国法上での地位

が確定していず︑将来的課題とされたにすぎない︒

ハノーファで改めて憲法が議論されるようになるのは︑一八三〇年

のパリ七月革命の影響を受けてのオストローデとゲッティンゲンでの

蜂起への対処としてであった︒この年の六月に王位はウイルヘルム四

世に移っている︒フランス七月革命の影響で︑ブラウンシュワイクを

始めドイツ各地で市民蜂起があり︑ハノーファでも前年の凶作の影響

で穀物価格が高騰し︑課税軽減運動が起こった︒しかし︑ドイツの他

の諸国と異なり︑ハノーファにおいては抗議の対象が国王ではなく︑ 一二

窓意的・専制的支配のシンボルとして︑実質的にハノーファを管理し

ていたロンドンのミュンスターに向けられている︒翌年のオステロー

デ蜂起を主導するG・ケーニヒは︑一八三〇年に﹁大臣ミユンスター

を世論に糾弾する﹂と題したパンフレットを匿名で著している︒

一八三一年一月五日︑弁護士G・ケーニヒとA・フライタークが主

導してオステロード市役所を占拠するとともに民主的市議会と市民軍

の結成を宣言したが︑軍隊の介入で直ちに鎮圧された︒フライターク

はアメリカに亡命するが︑ケーこヒはゲッティゲンに移り一月八日の

蜂起に参加するが︑鎮圧後逮捕され九年間禁錮となる︒即ち︑オステ

ローデとゲッティンゲンの蜂起は︑同時蜂起として計画されたもので

あり︑二つの蜂起の主導者達の打ち合わせに基づくものであった︒三

〇年一一月二一日︑オステローデのケーニヒ︑フライタークなどとゲッ

ティンゲン大学私講師ラオシュプラットとシュスターが︑両市の中間

にあたるノルトハイムのレストランで会合を持ち︑国政刷新を語って

いた

ゲッティゲンの蜂起には︑しかしながら︑前史がある︒一八三〇年 ︒

にゲッティンゲン大学で教授資格論文が受理され公法専門の私講師と

なったH・アーレンスの論文が︑一八一五年のウィーン会議に集まっ

た君主達は祖国統一を願う国民の期待を裏切るものであったとする内

容であったことから︑法学部長グスタフ・フーゴが出版の許可を与え

なかったので︑同僚の私講師E・1﹂H・ラオシェンプラットとTh・

シュスターがアーレンスを擁護し︑学問の自由を侵害したとしてフー

(13)

ゴに公然と抗議する︒正教授が絶対である大学秩序を乱すものであり︑

三人の私講師は大学裁判所で聴聞を受けていた︒三人はまた︑学生や

︵ 2

3 ︶

市民を集めた読書サークルを結成し︑時局を論じていた︒

オステローデでの蜂起に先立つ一月三日の夜︑三人は市民集会を組

織し︑ゲッティンゲンの民主的市政実現のため︑市民軍の設立と市民

の間で評判の悪かった警察署長ウエストファールの罷免を内容とする

︵ 2

4 ︶

嘆願書を国王に提出することを決定した︒オステロード蜂起の五日に

は︑三人と支持者の弁護士数人が会合を持ち︑民主的市議会設立と市

民軍指揮者を決定し︑七日には市役所占拠の方針を定めた︒8日朝︑

三人と弁護士達が学生・市民の動員を始め︑正午を期して武装した学

生・市民が赤・緑・青の三色旗を掲げて市役所に突入すると︑職員・

警察の抵抗なく占拠を完了し︑現職の市参事員︑市長︑警察署長を市

役所の会議室に監禁する︒九日︑新設の市議会名で軍隊の投入を避け

てほしいとの嘆願書をハノーファ政府に送付するが︑一〇日の政府の

回答は︑嘆願書の拒否と市長への秩序回復命令であり︑同日︑政府は

全軍に動員命令をだし︑国軍の半数にあたる七〇〇〇人を投入して︑

市門にバリケードを築かせ︑市への通行路を封鎖させるとともに大学

閉鎖を命じた︒新設市議会は︑直ちに︑事情説明のために特使団のハ

ノーファ派遣を決定し︑十二日に到着する︒大学も一三日︑グールマ

ンを始とする三人の教授からなる代表団をハノーファに派遣し︑大学

での事情を説明するとともに︑対策を協議した︒市は包囲され︑孤立

するのであり︑一六日朝五時をもって降伏声明を出し︑一一時にはウェ

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エンデ門とグローネ門から軍隊の行軍が始まる︒騒乱責任者・参加者

の逮捕が始まるが︑三人の私講師は官憲の手を逃れ︑パリへと逃亡し

た︒一八日には︑学生を市から退去させるため学期が中断され大学が

閉鎖された︒二〇日には︑アドルフ・フリードリヒ自らゲッティンゲ

ンに入り︑事態の収拾にあたった︒

秩序が回復した市にあって︑市当局および有力市民は︑蜂起が大き

な衝突なしに鎮圧されたことから︑事態の沈静化と市民の動揺を抑え

るため︑蜂起参加者への慈悲と恩赦︑.さらに︑市政および国政への市

民参加拡大を願い出るのであった︒これに対して︑ロンドンのミュン

スターは︑騒乱の元凶が大学私講師であり︑これに学生が参加したに

も関わらず大学当局が管理能力を示すことができなかったことから︑

等族議会での大学代表権の剥奪︑大学の他都市への移転︑また︑市当

局が有効に機能しなかったことから︑軍隊動員費用を市および市民の

負担とする︑とまで主張するのであっ.た︒ミュンスター解任前に作成

されていたと思われるハノーファ政府の連邦議会での報告書は︑二都

市での蜂起は︑﹁現在の法的秩序を根本から転覆することを目指した

︵ 2

5 ︶

ものであった﹂としている︒一八〇五年から四半世紀にわたりハノー

ファをロンドンから管理したミュンスターに対する反感がハノーファ

の政府内︑即ち︑貴族の間でも強く︑同時に︑ハノーファで直接統治

する君主を求める期待も大きかったことから︑ロンドンの国王は︑二

月二二日に総統括者である末弟アドルフ・フリードリヒをハノーファ

の副国王に任命し︑ミュンスターは解任され︑後任を穏健派のオムプ

一三

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テダとし︑同君連合解消の一八三七年までその任を務める︒

副国王と政府当局は︑ゲッティンゲンの治安回復と秩序維持のため︑

U

矢継ぎ早に施策を打ち出す︒動員された軍隊のうち︑三五〇人から四

〇〇人規模の守備兵を当面の処置としてゲッティンゲンに留め︑六月

にはグローネ門の外側に兵舎を建設し︑三五〇人を常駐させることと

した︒これが後に八二連隊の本部となり︑第二次世界大戦後撤去され

た後も市民の間で八二広場と呼ばれ︑現在は市役所が建てられている︒

先ず︑学生管理のため︑四月始め︑従来の大学は警察権執行のため独

自の警備員を雇用していたが︑これに代わり一五人の国境警備兵を配

置することとし︑翌年にはこれを士官一人︑騎馬一八人︑歩兵八人体

制に強化している︒この国境警備兵制度は︑解放戦争後の一五年四月

二五日の規則で新設されたものであり︑軍隊とは異なり国内治安を任

務とし︑軍隊同様の組織を持つが文民指揮下に置かれたものである︒

そして︑四月半ば︑一月一八日に閉鎖された大学を再開するが︑閉鎖

された冬学期の学生数が二二三人であったのに対し︑四月開始の夏

学期は九二〇人であった︒蜂起に加担したとして︑由六人が夏学期へ

の登録を拒否されている︒一〇月一日発効の四月八日行政令は︑二人

の大学法務官をそれぞれ市役所長官と市裁判所長官が兼ねるものとし

たのであり︑五月六日の警察令は︑政府任命の警察署長を置き︑新警

察署長は大学評議員も兼ねることとしたので︑大学の治安維持と市政

が一体となった︒新警察署長は︑一〇月一日から︑市参事会に席を持

つと共に︑大学裁判所でも席と投票権を持つものとした︒一八三三年 一四

五月には大学制度も改正され︑副学長の権限は名目的なものとなり︑

最高意思決定機関である理事会は議長である副学長を含めた理事一三

人のうち八人は政府任命の教授としている︒即ち︑学内選出理事は五

人のみであり︑大学は完全に政府の監督下に置かれたのである︒

内政安定の再構築も課題であり︑等族憲法改正が図られた︒副国王

の下での最初の等族議会が開催されるのは三一年三月七日である︒市

民勢力を背景とする都市の代表のみならず政府の官僚機構のなかから

も国家の公法関係を包括する憲法への要求が高まり︑等族議会で議論

されるようになった︒召集された等族議会は︑六月二四日をもって一

時休会し︑政府の新憲法草案作成を待つこととした︒等族議会の委員

会に政府草案が提出されるのが秋で︑審議の上︑三二年五月三〇日に

等族議会に上程された︒二院制は維持され︑各院の構成は変わらず︑

人数に僅かな変化があったにすぎない︒明記されたのは︑立法への等

族議会の関与︑王領地と一般国家財政を統合した国家予算の等族議会

承認︑国王が専断的に任命する大臣に対する憲法規定侵害の場合に限っ

︵ 2

7 ︶

ての議会訴追権︑などであった︒即lち︑議会の立法への関与と王領地

を含めた国家予算承認権を規定したのであり︑これによりハノーファ

王国は立憲国家へ移行したのであった︒国王は︑議会と合意した文書

を︑殆どが字句修正であったが一四箇所について変更し︑三三年九月

二六日調印する︒字句修正であれ等族議会に諮らずの変更に等族議会

も異議を唱えていないし︑この国家基本法作成に参加し︑後のゲッティ

ンゲン大学七教授の抗議文を作成した歴史学・公法学教授グールマン

(15)

も国家基本法は﹁有効性が確認された状態﹂との立場を表明している

ことからも見て取れる様に︑初期立憲主義期においては依然として憲

法とは国王勅令であるとの認識であったのである︒こそして︑一〇月九

日公布とともに発効したのが︑ハノーファ王国一八三三年国家基本法

であり︑国王のみならず官吏はこの国家基本法に誓約することによっ

て任に就くとした︒また︑自由農民の地位を確定するため︑一八三三

年七月二二日に解放令が発布されている︒

四 新国王の憲法無効宣言

精神病で統治不能であったジョージ三世が一八二〇年に没すると︑

二年から摂政であった長男ゲオルグがジョージ四世として戴冠した︒

イギリス国王の継承権は直系子主義であり︑ジョジ三世は七人の息子

を残した︒一八三〇年に継承者を残さず長男ジョージ四世が没すると︑

次男フリードリヒはやはり子供を残さず一八二七年に没していたので︑

それに続く王位継承権は三男に移り︑ウイルヘルム四世となるが︑や

はり跡継ぎを残していなかったので︑一八三七年に没すると王位継承

権は四男エドワードに移る︒エドワードも一八二〇年に没していたが︑

一八一九年生まれの娘ヴィクトリアを残していたので︑イギリスの王

位はヴィクトリアに移る︒一方︑ハノーファーのウエルヘン家の家法

は︑女子の王位継承はすべての男子継承者が途絶えた場合としている

ので︑五男のエルンスト・アウグストが王位継承者となり︑一七一四

年から続いた同君連合は一八三七年に解消された︒ちなみに︑六男ア

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憲法

紛争

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ウグスト・フリードリヒは一八四三年に没し︑七男で一八三一年にハ

ノーファ王国副国王となるアドルフ・フリードリヒは一八五〇年に没

して

いる

エルンスト・アウグストは︑一七七一年生まれで︑軍人としてフラ

ンス革命軍と戦っており︑その後イギリス上院議員となりトーリーの

保守派に属した︒妻のフリーデリケは︑メクレンブルク=ストゥレリッ

ツ家の出で︑プロイセン王妃ルイーゼが姉であったことから︑その政

治活動はプロイセンの支援を受けることができたのであり︑ベルリン

の中心街ウンター・デン・リンデンの居宅やニーダーシェーンハウゼ

ンの居城をプロイセン国王が与えている︒

新王がハノーファに入国するのは六月二八日で︑自国に在住する国

王を得たことを人々は喜び︑新王が﹁我は︑ハノーファの人々にとっ

て公正で寛大なる国王となるであろう﹂と語り︑沿道で盛大な歓声を

受ける︒新王は︑その夜の盛大な歓迎の宴を早めに切り上げており︑

翌二九日等族議会は新王の宣誓と戴冠を祝うべく参集するが︑国王が

直ちに休会を宣言したので︑一八三三年国家基本法に基づく憲法宣誓

をすることなく王位に就く︒

新国王は七月五日の就任勅令で︑先ず兄である先王ウイルヘルム四

世の死をいたみ︑王家継承権に基づき戴冠したことを宣するとともに︑

現在の国家基本法が多くの点で国民の繁栄を促進せんとする国王の期

待に添わないものであるとの確信を持つと述べ︑﹁形式的にも実態的

にも国家基本法に拘束されない﹂と軍言する︒そして︑一八三三年国

一五

(16)

ハノ

ーフ

ァ王

国一

八三

七年

憲法

紛争

︵大

西︶

家基本法に先行する一八一九年憲法に国民が満足していたとの認識に

立ち︑現憲法を再検討することを述べるのであった︒この勅令はまた︑

国家・官房大臣制度の設置を定めており︑従来からの合議体の大臣を

官房大臣の指揮下に置き︑担当大臣の決定は全てその認可が必要とな

り︑国王への奏上は官房大臣を通じることとした︒L ハノーファの貴族

で︑守旧派として知られているシェーレをこれに任じた︒

新国王は︑三三年国家基本法の法的戦痕を探るペく︑次々と委員会

を設置して検討させたが︑政府行政機構を含めて三三年国家基本法の

合法性を確認するのであった︒唯一新国王の意図に沿った結論に達す

るのが︑第三番目の委員会を主宰したゲッティンゲン大学公法学教授

で︑ハノーファ政府の法律顧問でもある1・Ch・ライストの意見書で

あり︑等族議会と合意した国家基本法文書を先王が一四箇所にわたり

独断で修正しており︑この修正が等族議会の承認を経ていないので︑

等族議会は国家基本法文書について﹁有効性が確認された﹂状態にあっ

た一八一九年憲法に基づいた承認手続きを完了していないとの指摘を

主たる論拠としたのである︒

これを受けて︑新国王は︑三三年国家基本法に基づき構成され︑召

集された等族議会を無効として︑一〇月三〇日に解散を命じるが︑等

族議会はなんらの抗議をしていない︒翌三一日の通達で︑国王は従来

の省を全て部局に格下げし︑中央政府を完全にシェーレの指揮下に置

いた︒そして︑二月一日の勅令は︑一九一九年憲法に代わるものと

して制定された三三年国家基本法の無効を宣言し︑一それに伴い︑一八 一六

一九年の憲法が唯一有効なものであるとした︒即ち︑七月五日の就任

勅令で表明した国家基本法の再検討を進めた結果︑一八三三年九月二

六日国家基本法を拘束性のある憲法と見なさないと最終決定したので

ある︒先ず︑等族議会との合意なしに修正案が国王によって公布され

たので違法であるとともにウィーン議定書五六条に違反していること︑

これに伴い︑一八一九年憲法が合法的手続きに基づき廃止されていな

いので現在唯一有効な憲法であるとする︒次に︑国家基本法は相続権

者の同意なしに王家の家法を制約していること︑最後に︑政府固有の

権限が侵害されていることが理由としてあげられていノるが︑その根拠

となったのは一八二〇年のウィーン最終議定書五七条であり︑﹁⁝全

ての国家権力は国家元首に統合されていなければならず︑元首は特定

の権利行使においてのみ等族憲法によって等族の関与に拘束される﹂

と定めている︒これに基づき︑六月二九日に休会とされた等族議会は

一〇月三〇日をもって解散することと︑一八三三年九月二六日国家基

本法を無効とすることを宣言したのである︒国家基本法を無効とする

に伴い︑官吏の国家基本法への宣誓を解除し︑一八一九年一二月七日

憲法が有効であるとしたのである︒

即ち︑既に触れた一四箇所の修正が中心であり︑これに加えて︑自

分を含めた一族の合意なく王領地財政を国家財政と統合したことは︑

王家の家産の処分について継承者の承認を必要とするウエルフェン家

の家法を違法に侵害しており︑違法に基づく契約は無効であるとした︒

ウエルフェン家の所領は神聖ローマ帝国の封土であり︑君主は統治す

(17)

るが所領の処分権を持たない︒一八〇六年の神聖ローマ帝国消滅によ

り︑封土は一族の家産へと転換するが︑家産処分権はその時々の相続

者にあるのではなく全ての相続権者を包括した一族にあるとしたので

ある︒それゆえ︑例え憲法制定によってであれ︑王領地の処分は相続

権者の同意を必要とするので︑王領地財政を等族議会の承認対象とし

た一八三三年国家基本法は︑相続権者の同意を待てないので︑法的有

効性を持たないとする法理論であった︒しかし︑家法と公法である憲

法を混同した論理であり︑同様の論点を先に見たブラウンシュワイク

のカールも主張したが︑等族議会全体の反対にあい︑最後は退位に追

い込まれている︒これに対して︑ハノーファーにおいては︑三三年国

家基本法は三〇年の七月革命の影響を受けての混乱下に制定されたこ

とに対して貴族を中心に反発があって等族議会での議論も分裂したし︑

また︑等族議会が六月二九日の休会︑さらに︑一〇月三〇日の議会解

散に異議を唱えていなかったので等族議会全体としての対応を放棄し

ていたことになる︒根拠の最後に挙げられている政府固有の権限の制

約とは︑等族議会の立法承認権と大臣の議会訴追権が国家権力を統合

する国家元首の権利侵害を意味していた︒これに続き二月一四日︑

一八三三年国家基本法への官吏の憲法宣誓を解除し︑全ての官吏に新

国王への職務・忠誠宣誓提出を命じるのであった︒

二月一日の勅令への反発は︑最初にゲッティンゲン大学七教授の

抗議として現れる︒七月五日の新国王就任勅令が国家基本法への宣誓

なしに行われたことに対し︑等族議会の一員である大学としてこの間

ハノ

ーフ

ァ王

国一

八三

七年

憲法

紛争

︵大

西︶

題を検討すべきであるとの提案をグールマンをはじめとする理事が理

事会に提案したが︑国王任命理事が三分の二を占める理事会であり︑

七月一一日に否決されていた︒大学全体としての意見統一を達成する

ことができなかったことから︑グールマンは︑一一月一日勅令に対し

て個人の良心と確信ならびに大学教員としての職務倫理に基づく行為

として抗議文を作成するのであるが︑署名をしたのは七教授のみであっ

た︒しかし︑国家体制の一翼をになうと見なされていた大学教授が個

人および大学教員として国家と対立する行動に出たことが︑ハノーファ

王国の憲法紛争にドイツ全体の注目を引き付けたのであり︑四八年の

︵ 2

9 ︶

国民議会へと続く大学人の政治活動の囁矢となったとされている︒

四 連邦議会におけるハノー7ァー憲法紛争問題

三三年の国家基本法に基づく等族議会を解散した新国王は︑改めて︑

一八一九年の憲法規定に基づき等族議会を三八年二月二〇日に召集す

るが︑これに先立つ二月一八日付け等族議会宛国王書筒に新憲法草案

を添付していた︒しかし︑騎士団を中心として新国王を支持した第一

院と対照的に︑第二院を構成する幾つかの都市が代議員選出をボイコッ

トしたことから︑三八年二月二〇日開会の等族議会での第二院は︑七

三人の定員に対して参集したのは五四人にすぎなかったが︑三分の二

︵ 3

0 ︶

以上であることから議決能力を持ち︑l新等族議会は成立している︒こ

れに対して︑オスナーブリュック市長ストユーヴェは︑等族議会構成

都市の立場で︑一八三三年国家基本法を再び有効なものとすべく連邦

一七

参照

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