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七 三

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(1)

四=一—

オールド・ベイリ概観 オールド・ベイリ研究の課題 聖職者の特権と一八世紀前半のイギリス刑事法

1

聖職者の特権の世俗化

2一八世紀前半のイギリス刑事法

I

殺人︵以上本号︶

I I

財産犯罪

3

流刑の導入

七 三

0

年 代 の オ ー ル ド

9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 ,

' , ‑

9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9

9 9 9 9 9 9 9 9

説 一

9 9 9 9 9 9 9  

︳ 論

9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9

9

9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9 9  

. 

七 六

1

公判前手続

2

大陪審

3

審理陪審

4

刑の宣告と恩赦

5

ニューゲイト監獄 一七 三

0

年代のオールド・ベイリ

まとめ

ベイリ

^ 

一四

18‑1‑145 (香法'98)

(2)

じた場合にはオールド・ベイリで扱われる︒ けられていたが︑

ロンドン市の城壁の西側︑

ルド・ベイリは刑事裁判所の代名詞として使われた︒

ベイリは公式には中央刑事裁判所

C e

n t

r a

l C

r i

m i

n a

l   C

o u

r t

と改められたが︑今日においてもオールド・ベイリは中央

刑事裁判所の通称として使われている︒目隠しのない正義の女神像がそびえ立つ現在のオールド・ベイリは一九〇七 年にニューゲイト監獄

Ne

w g

a t

e   P

r i

s o

n の跡地に新しく建てられたものである︒建造されたときには四つの法廷が設

一九

0

年以後︑法廷の増設が繰り返され︑現在のオールド・ベイリには一八の法廷がある︒現在

のオールド・ベイリから︑

しれない︒しかし︑現在のオールド・ベイリの第一法廷

N o

. l

c o

u r

t には一九

0

七年以前の法廷がそのまま残されてい

る︒一九世紀初期のオールド・ベイリの公判の風景を画いたローランドソン

T .

R o

w l

a n

d s

o n

の絵画と比べてみる限り︑

( 2 )  

大きく変わるところはない︒

オールド・ベイリは刑事巡回裁判官任命書

C o

m m

i s

s i

o n

o f   O

y e

r   a

n d

  T e

r m

i n

e r

とニューゲイトの未決囚釈放裁判

官任命書

C o

m m

i s

s i

o n

o f   G

a o

l   D e l i v e r y

にもとづき開かれる︒

り︑ロンドン市とミドルセクスで生じた重罪

f e l o

n y を扱う︒しかし︑軽罪

m i

s d

e m

e a

n o

r であっても重罪との関連で生

本稿は一八世紀前半にオールド・ベイリで開かれた刑事裁判の全体像を明らかにすることにある︒特に︑

年代のオールド・ベイリを詳細に分析したいと思う︒重罪事件で弁護士が被告人のために公判に登場することが認め

たっ

た一

つの法廷しかなかった一八世紀のオールド・ベイリの姿を知ることは難しいかも

オールド・ベイリはアサイズ

A s

s i

z e

の首都圏版であ 一八三四年の法律(45

W i l l .  

4.  C .   3

6) 

によ

って

オールド・ベイリ0

I d  

B a

i l

e y

に刑事裁判所

S e

s s

i o

n

H o

u s

e が置かれたことから︑

一四

六 一七

三〇

オールド・

オー

18‑1‑146 (香法'98)

(3)

一 七 三0年 代 の オ ー ル ド ・ ベ イ リ

た︒

しか

し︑

(栗原)

オールド・ベイリの裁判を記録した資料として︑

一四

﹁ニューゲイトの教誨師﹂では死刑因のその後 シェリフに免許手数料を支払うことによっ られるのが一七三

0

年代のオールド・ベイリにおいてであった︒ラングバインJ.

L a n g b e i n

のいう糾問主義から当事者

対抗王義

a d v e r s a r y s y s t e m

に向かう刑事裁判の転換の兆しが現われるのが一七三

0

年代だからである︒この時代の

がある︒0

B •

. S . P .   Ol d  B a i l e y   S e s s i o n   P a p e r s   (

以 下

0 •

B .   S

.   P

. )  

から一七三

0

年代のオールド・ベイリの刑事裁判を明らかにすることが本稿のテーマである︒

犯罪記録に関する出版物という観点からみると︑

O. B. S. P.

が発行される以前には二種類のものがあった︒︱つはス

もう

つは犯罪事件を題材にした呼び売り本

c h a p b o

o k ︑

テイト・トライアル

S t a t T e r i a l

などの公判記録であり︑

(5 ) 

バラッド

b a l l a d である︒前者は法律家向けであるが︑後者の読者は一般民衆であった︒特

ロードサイド

b r

d s i d

e ︑

に︑後者は死刑因の生涯︑

版さ

れた

( 6 )  

一七世紀後半にはこの二種類の出版物の特徴を合わせたものが二つ認可されて出版された︒その一

であ る︒ 0. B . S . P .

は当初は一般読者が興味をもちそうなセンセーショナルな事件を扱う呼び売り本として出版され 

一六

0

年代には書籍出版業者が市長と交渉の結果︑市長に免許手数料を支払うことによって︑

0 .

B .  

S.

 

P .

は彼らの手で年八回の開廷期ごとに定期的に出版されるようになった︒そして︑もう一 

が死刑因の生涯︑

告白︑最後の演説をつづったもので︑民衆に事件から警告︑説教︑教訓を与える意図で出 告白︑最後の演説を物語風にまとめたもの

Th eO r d i n a r y   o f   N ew ga te i   H s  A c c o u n t   o f h   t e   B eh av   ,  i o u r

C ,   o n f e s s i o n   a nd   La s t   S p e c h e

s である︒﹁ニューゲイトの教誨師﹂

された︒﹁ニューゲイトの教誨師﹂も︑

て書籍出版業者によって出版された︒ は内容的には呼び売り本︑ブロードサイド︑

バラッドの系譜を引く︒教誨師が死刑因から前もって聴取した話が民衆への警告と数訓をこめて処刑に合わせて出版

0  •

B . S .   P .

  と同じ一六八

0

年代

に︑

0 .

B . S . P .

  では公判が記録され︑

つが

O. B. S. P.

つの出版物は監獄の教誨師

18‑1‑147 (香法'98)

(4)

れていないなどのミスがわずかにみられるが︑ 載されるだけである︒筆者がみる限り︑ 市長の任期中はその値段が維持される︒

一年 間の

一七

0

年代には二

の監獄生活が語られた︒この二つの出版物は二つ合わせて読まれることが出版業者のねらいであった︒

は同じページ数で同じ値段で売られたこともある︒

一八世紀にはオールド・ベイリで扱われた全ての事件が0

. B . S . P .   に

記録 され た︒ 件は 詳細 に︑

その他の事件は簡略して記録するという編集方針は一八世紀前半を通じて維持された︒

はオールド・ベイリの八回の開廷期間はそれぞれ三ー五日で︑そのときに五

0│

1 0

0

の事件が処理された︒大量の

事件を扱った開廷期の

O . B . S . P .

は二分冊で発行されることもあるが︑通常は一冊である︒

(8 ) 

ニ八頁の四折判のパンフレットとして出版された︒パンフレットの値段は市長との交渉によって決められ︑

一七

0

年代と一七四

0

年代の

O . B . S . P .

をみる限り︑パンフレットの値段

は三ペンスや四ペンスと安価なときもみられるが︑六ペンスが通常であった︒

一七

0

年に

0 .

B . S . P .

  では︑大多数の事件で正式起訴状の要旨と陪審の評決︑有罪評決の場合には最後のページに刑の宣告が記

一七

0

年代前半の

O . B . S . P .

には有罪評決を受けた者の刑の宣告が記載さ

一七

0

年代後半にはそのようなミスもなくなり正確なものとなって

いる︒読者が関心をもつ詳細に記録された事件であっても︑

O . B . S . P .

に公判の様子が全て記録されたわけでなく︑編

一七

0

年代に被告人側弁護士が初めてオールド・ベイリの 集者によって選別されて載せられている︒限定された記録であるとはいえ︑

0 . B . S . P .

がこの時代の刑事裁判の様々な

局面を明らかにする充分な資料であることは︑それを利用した研究者達が指摘するところである︒犯罪捜索過程に始

まる公判前手続から︑さらに被告人︑証人︑裁判官︑陪審員の公判での質問と応答から︑この時代の刑事裁判の様々

( 1 0 )  

な特徴を明らかにできる︒本稿のテーマもそこにある︒

公判に登場したことは

O . B . S . P .

から確認できる︒しかし︑弁護士達の活動は詳細に記録されておらず︑

一七

0

一七

0

年代に 一般読者が興味をもちそうな事

一四

18‑1‑148 (香法'98)

(5)

一 七 三0年 代 の オ ー ル ド ・ ベ イ リ (栗原)

一七

四八

年︑

0  •

B .   S . P .   の

編纂

者︑

た者を確認せねばならないであろう︒ 代の

O . B . S . P .

からそれを明らかにすることは難しいと思われる︒

方針をとることが

0 . B . S . P .

  で宣伝されていたとはいえ︑

一七

0

年代の0

B •

. S .  

P .

  はあくまで一般読者が中心であ

っ た

0

B •

. S . P .   に法律家読者を念頭に置いた記述がめだつようになるのは一七四

0

年代に入ってからであると思わ

れる

0

B •

. S . P .  

が法律家をも読者対象として発行されるようになったことは︑すでに公判前手続や公判に少なからぬ

ソリシタ

S o l i c i t o

やバリスタ r

B a r r i s t e

r が関係するようになっていることを示している︒

一四

一八世紀前半の

0 .

B .  

S.

 P

.  

の資料としての限界を挙げるとすれば︑死刑の宣告を受けた者が恩赦によって減刑され

たのかどうか記録されていないことであろう︒恩赦の選別過程は公判終了後にロンドン市裁判官

R e c o r d e r o f o   L nd on  

が裁判記録を枢密院に提出することによって開始されるので︑

公判終了後に速やかに発行するというニュースとして

の速報性を重視する限り︑恩赦の結果が

0 . B . S . P .

  に記録されないのは当然と言える︒別の資料によって恩赦を受け

O f f i c i a l R e p o r t e r o r   f   t h e   O l d   B a i l e y

として認可され︑ トーマス・ガーニー

Th om as G u r n e y は市長からオールド・ベイリの公式記録

0  •

B . S .

P .  

  は法定記録となった︒速記者であるトーマス・

ガーニーが書籍出版業者に代わって

0 . B . S . P . の発行責任者となったことは注目に値する︒これまでは速記者は書籍 出版業者に雇われて公判を記録してきた︒しかし︑速記者が

O . B . S . P .

の発行責任者に就任したことは︑書籍出版業

者に対して速記者の地位が改善され︑速記者が犯罪報道のジャーナリストとして社会的に認知されたことを意味する︒

一八世紀後半はトーマス・ガーニーとその地位を継いだ彼の息子によって

O . B . S . P .

は発行された︒

各開廷期の0

B •

. S . P .  

の分量も時代が進むにつれて内容も拡充され︑増大する︒筆者の調査では︑ 一七三三年︱二

月の第一開廷期から一七三四年一

0

月の第八開廷期までの一年間で︑公判に登場した被告人は四五二人で︑

O . B . S . P .

一般読者だけでなく法律家をも読者に含める編集

18‑1‑149 (香法'98)

(6)

( 6 )  

( 5 )  

( 4 )  

( 3 )  

( 2 )  

( 1 )  

市の補助金を得て出版されることになった︒一七八二年には︑

O . B . S . P .

はロンドン市裁判官によって恩赦の選別のた

( 1 3 )  

めの資料として枢密院に提出されている︒

Th e  Co

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o r

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d o

n ,

T  he   Of f i c i a l   G

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  t o   Th e  O ld   B a i l e y ,

  C

o r

p o

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o n

f     o L

o n

d o

n ,

  1 99 2,  p .  

13 . 

オールド・ベイリの絵画資料は︑ロンドンのギルドホール・ライブラリ

G u

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L i

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J•

H.   L a n

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.   o f   C

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i e

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v o   l .  

45 ,  19 78 . 

Th e  O ld   B a i

l e

y   P

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  1 71 4 18 34 , 

H a

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r   M

i c

r o

f o

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,  

19 84 . 

民衆を読者とする出版物の歴史については︑村上直之﹁近代ジャーナリズムの誕生ーーイギリス犯罪報道の社会史からー﹂︵岩波

書店一九九五年︶が詳しい︒プロードサイドとは︑ふつうの一枚の紙の片面に刷られたバラッドと散文そして絵の混じった読み物

のことである︒その内容は政治風刺︑社会戯評︑絞首刑︑災害︑惨劇︑﹁世にも不思議な出来事﹂にまで及ぶ︒﹁絞首台のバラッド﹂

と呼ばれるプロードサイド・バラッドは一六世紀後半にはすでに処刑日に発行されていたと言われる︒詳しくは︑村上直之﹁前掲書﹂

第二節︑第三節を参照︒

M.   Ha r r i s ,

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  S t ud y  i n   D i s t r i b u t i o n ,   i n   M.   H a r r i s ( e d . ) ,  

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Bo ok   fr om

  1

70 0,

 

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  P r e s s ,  

19 82 , 

p p .  

4

5.

一七

七八

年に

は︑

オールド・ベイリの全ての公判の正確かつ公平で完全な記録が

0 . B

. S . P .   に

求め

られ

一七

五六

年一

0

月の第八開廷期までの三年間では︑

その

後︑

した

五一四人で三公判に登場した被告人と

O . B . S . P .

の年

間総

頁は

( 1 2 )  

四四頁︑四

00

人で三六四頁︑四五一人で三五二頁となっている︒

O . B . S . P .

の頁数は時代が進むにつれてさらに増加

被告人は五七一人で︑年間の総頁はニ︱二頁であった︒

しか

し︑

0

年後の一七五三年︱二月の第一開廷期から の年間の総頁は二

0

七頁

︵索

引を

除く

にす

ぎな

い︒

一七三五年︱二月から一七三六年一

0

月までの一年間において

一五

18‑1‑150 (香法'98)

(7)

(t‑) 

(00) 

(en)  Ibid., p. 17. 

Ibid., pp. 9‑10. 

J. H. Langbein, ; op. cit., pp. 263<H6. 

Sources, the Univ. of Chicago Law  Do, Shaping the Eighteenth‑Century Criminal Trial : A View from the Ryder 

Review vol. 50, 1983, pp. 1‑136 ; S. Landsman, The Rise of the Contentious Spirit: 

Adversary Procedure in Eighteenth Century England, Cornell Law Review, vol. 75, 1990, pp. 497‑609. 

ぼ)K I卜←—·\'._,¥ J. S. Stephen竺「兄\ぷIい,¥:L臣迅翌

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臣詈抵弄ク令罪苔如芸翠出喘忌匂抵弄ユ溢縣ヤ{

摺記~1¢:...)~(J.S. Stephen, A History of the Criminal Law of England, Routledge/Thoemmes Press, 1883, Rep. 1996, vol. 

1, pp. 428‑456.)゜

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8 The Act for Regulating of Trials in Cases of Treason旦で2ゃざ

J.

Phifer, Law, Politics and Violence: The Treason 

Trials Act of 1696, Albion 12, 1980; A. H. Shapiro, Political Theory and the Growth of Defensive Safeguards in Criminal 

Procedure: The Origins of the Treason Trials Act of 1696, Law and History Rev., vol. 11, 1993. 芯伶炉

J. 

H. Langbein, Shaping the Eighteenth Century Criminal Trial, p. 12. 

Ibid., pp. 10‑11. 

S. Devereaux, The City and the Sessions Paper: "Public Justice" in London 1770‑1800, Journal of British Studies, vol. 35,  ~JE;;~Jふ芯ヤーミ

(86, 

¥?‑:fl!:) 

1996, p. 468, pp. 475‑477. 

IS1 IIOOI

1

1

(8)

オールド・ベイリの歴史はニューゲイト監獄の歴史と深くかかわっている︒オールド・ベイリはニューゲイト監獄

︱二世紀末には︑ローマ時代に築造された城壁の西

門であるニューゲイトの楼

g a t e h o u s

e が監獄としてすでに利用されていたと言われる︒しかし︑この時代には恒常的

施設としての裁判所はなく︑監獄の一室で︑あるいは近隣の家の一室を借りたりして裁判は開かれていた︒

に入って未決囚釈放裁判官任命書によって︑国王裁判所の裁判官がロンドンとミドルセクスの重罪犯の裁判のために

年一回派遣されるようになったとしても︑

監獄の南側のオールド・ベイリに裁判所が建てられたのは一五三九年になってからである︒監獄で伝染病が頻発し

たために︑裁判官やその官史達にも感染の恐れが生じ︑そのために裁判のための部屋を毎年借りることが困難となっ

ロンドン市参事会と市議会は裁判のための新しい建物を造ることを決定した︒オールド・ベイリに裁判所が

新たに建てられたとしても︑年一回しか裁判は開かれておらず︑裁判が開かれないときは︑裁判所はロンドン市の自

由人に賃貸されていたと言われる︒しかし︑監獄に隣接した場所に裁判所を建設したことはやがて大きな悲劇を生む

一六六六年のロンドン大火

t h e G r e a t   F i r e

までのオールド・ベイリについて残念ながら詳細は不明である︒

ン大火によって︑ こ

とに なる

オールド・ベイリはニューゲイト監獄とともに焼失したが︑すぐに再建された︒このときに国王裁

判所から派遣された裁判官をもてなすための食堂が設けられた︒この頃のオールド・ベイリは︑﹁三階建てで︑見通し た

ので

これに変化はない︒ に収容された囚人を裁く裁判所として発展してきたからである︒

オールド・ペイリ概観

一 五

ロン ド

一四世紀

18‑1‑152 (香法'98)

(9)

一 七 三0年 代 の オ ー ル ド ・ ベ イ リ (栗原)

ベイリとニューゲイト監獄が造られることになり︑ 期に常に開かれる国王裁判所の裁判官達をもてなす宴も︑

一七

0

年のゴードン暴動

G o

r d

o n

このような防御なしに開かれなかったであろう︒

廷期

には

一八世紀においても︑

一七

一六

年︑

のよい威厳のある建物で︑法廷内では両側に見物人のための傍聴席が設けられていた﹂

(3 ) 

と言 われ る︒

ニューゲイト監獄は過密状態にあり︑劣悪な衛生状態のために伝染病

p r i s

f e o n

v e r

の脅威に常にさらされていた︒

一七四六年と伝染病の発生が記録されている︒監獄に隣接するオー

一七

二五

年︑

ルド・ベイリでは︑伝染病の感染を防ぐために︑監獄から流出する悪臭を避けるために防御手段がとられている︒開

ハーブなどの薬草や強い酢剤が監獄熱に対する防御として法廷内と監獄に通じる通路に敷かれ︑被告人席

には臭いの強い草木がまき散らされた︒裁判官席は豪華な花束で美しく飾られ︑花の香りとともに法廷内にいる人達 を楽しませ︑空気が少ししか入らない不快な法廷の雰囲気を和らげたという︒市長や市参事会員の列席のもとで開廷

一七

0

年五月︑監獄で発生した伝染病は開廷中のオールド・ベイリにも多くの感染者を出している︒

ベイリに出席した市長︑二人の国王裁判所の裁判官︑

(6 ) 

るという衝撃的な事態を生み出している︒この出来事を契機にして︑

オールド・

一人の市参事会員を含む五

0

人の人達が監獄熱に感染し死亡す

オールド・ベイリとニューゲイト監獄の建て替

えが検討される︒オールド・ベイリとニューゲイト監獄の周辺地域を整備し︑以前よりも広い敷地に新しいオールド・

一七

0

年に建設に着手した︒オールド・ベイリの建設にはロン

ドン 市が 一四

000

ポンドを醜出した︒ニューゲイト監獄の建設には︑議会制定法によってロンドン港に入ってくる

石炭に課税することによってその費用が捻出された︒新しいオールド・ベイリは一七七四年に完成した︒新しい法廷

(7 ) 

に法曹学院の学生のための席を設けるべきかどうかも議論されている︒しかし︑

R i o t

によってオールド・ベイリと建設中のニューゲイト監獄はともに被害を受けた︒s オールド・ベイリはすぐに修復

されたが︑特に被害の大きかったニューゲイト監獄が完成するのは一七八五年であった︒

一五

18‑1‑153 (香法'98)

(10)

( 4 )  

オールド・ベイリの歴史を概観したが︑ニューゲイト監獄についてはあとで詳しくふれる︒

ープンとともに︑

0

建設は一九

二年に始まり︑

ニューゲイト監獄を徹去し︑ 計画が浮上する︒ 修されている︒

しか

し︑

み出

した

このことは一七七四年に完成したオールド・ベイリでは施設面で充分に対応できない事態を生

この

ため

に︑

エセ

ック

ス︑

ケントなどの一部︑

一八

年には証人︑訴追者︑大陪審のための部屋も加えられ︑四

0

一八五六年にニューゲイト監獄が近代的監獄に建て替えられたときにも︑

たこ とも あり

一八七七年にオールド・ベイリで火災が起こり︑

ニューゲイト監獄が公判もしくは死刑の執行を待つ囚人達の一時的な拘禁施設にすぎなくなってい

その跡地に新しい裁判所を建設することが決定された︒新しい裁判所の

(9 ) 

一九〇七年に完成する︒総工費は三

0

万ポンドを越えたと言われる︒新しい裁判所のオ

一七七四年に建設された古いオールド・ベイリは徹去された︒

( 1 )   Th e  C

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  o p c i t .   . ,   p .  

4.

 

( 2 )  

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19 35 , 

p p .  

36

37 .

( 3 )  

I b i d . ,   p .  

16 . 

一七一五年頃のオールド・ベイリについては︑

P . L

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Th e  L on do n  H

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T  he   Pe

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19 91 , 

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72

7 5.  で紹介されている︒

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4.  

, 

19 79 , 

p .  

20

1.

 

この火災を契機にして新しい裁判所の建設 オールド・ベイリは数千ポンドをかけて改

れ ︑

オールド・ベイリは一九世紀を通じて増改築を繰り返す︒一八二四年には第二法廷が増設さ

(8 ) 

一八四八年には第三法廷が増設された︒

さら

に︑

管轄権が拡大された︒ でのロンドンとミドルセクスに加えて︑

サ リ

さらに公海上のイギリスの船舶にも 廷期を年八回から年︱二回に増やすばかりでなく︑オールド・ベイリの裁判管轄権の拡大をともなっていた︒これま オールド・ベイリは︑一八三四年の法律によって中央刑事裁判所と改められた︒この法律はオールド・ベイリの開

一五

18‑1‑154 (香法'98)

(11)

一 七 三0年 代 の オ ー ル ド ・ ベ イ リ (栗原)

に派遣された国王裁判所の二人の裁判官達である︒しかし︑ ﹁ロンドン市長︑国王裁判所の裁判官︑ン市とミドルセクスのために開かれるその外のニューゲイトの未決囚釈放裁判官達﹂と常に記されている︒

市長がロンドン市の首席裁判官であることは一三二七年の国王の特許状によって確認されているが︑

らそうであったと思われる︒裁判官としての市長の地位は一八三四年の中央刑事裁判所法によっても確認されている︒

しかし︑実際には︑市裁判官がサージャント

S e r j e a n t

から任命され︑オールド・ベイリの常任の裁判官

J u s t i c e o f   t h e   qu or am

とされるにともない︑市長自身が裁判を主宰することはなくなっている︒

判官としての市長は名目的なものにすぎず︑背後に正義の剣

Sw or do f   J u s t i

c e がつるされた市長用の中央の裁判官席

に座ったとしても︑裁判官として公判に積極的に加わることはなかったと思われる︒

公判の実質的な担い手は︑刑事巡回裁判官任命書と未決囚釈放裁判官任命書によって援権されてオールド・ベイリ れ

てい

る︒

オールド・ベイリで公判に立ち会う人達は︑ ( 9

)  

( 8

)  

( 7

)  

( 6

)  

( 5

)  

一五 五

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p .   c i t . ,   p .  

12 8.  

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19 78 , 

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151; 

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19 77 , 

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19 33 , 

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30 . 

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10 . 

W .  

E .   H oo pe r,

 

p .   c i t . ,   p .  

13 . 

各開廷期終了後に出版される

O . B . S . P .

の最初の頁に次のように記さ

ロンドン市裁判官︑

0 .

B . S . P .

  をみる限り︑常に二人の裁判官が派遣された 一八世紀にはオールド・ベイリの裁 もっと以前か ロンドン市のためのその外の刑事巡回裁判官達︑

ロン ド 18‑1‑155 (香法'98)

(12)

一七三五年︱二月の第一開廷期から一七三七年一

0

月の第八開廷期までの二年間をみてみよう︒

回の開廷期のうちで三人の国王裁判所の裁判官が派遣されたのが三回︑

人しか派遣されない開廷期にはその一人の裁判官が全ての事件を一人で処理することになるが︑複数の裁判官が派遣

された場合には︑彼らの間で在廷期間を分担しており︑全員が常にオールド・ベイリにいたのではない︒この二年間

をみる限り︑開廷期を連続して派遣される裁判官はいないが︑交代で何度か派遣されている︒この二年間の一六の開

一七三七年に大法官

L o r d C h a n c e l l o r に昇進するハードウィック卿

P h i l i p Yo rk   Lo r d   H a r d w i c k e   (

一六

0│

︱七六四︶もこの二年間に王座裁判所首席裁判官在職中に二回ほどオールド・ベ

までの王座裁判所首席裁判官在職中にさらに二回︵一七三四年四月︑

公判のもう一人の実質的な担い手はロンドン市裁判官である︒

可欠な常任の裁判官である︒国王裁判所から派遣された裁判官が交代で公判を開く場合であっても︑市裁判官だけは

常に公判に立ち会うわけである︒市裁判官は︑陪審の評決と国王裁判所から派遣された裁判官のノートにもとづき各

開廷期の最後に有罪評決を受けた被告人全員に刑を宣告する︒さらに︑市裁判官は各開廷期の記録を国王に提出する︒

内閣の会議でそれを報告し︑死刑宣告を受けたものに恩赦を与えるべきかどうかを勧告するのも市裁判官の仕事で

ある

ロンドン市裁判官は市長と市参事会員 ︒

A l d e r m a n

によって選任され︑その任期は終身である︒

オールド・ベイリの裁判の実際の担い手であることから︑裁判実務に精通したサージャントから選ばれた︒ れたことが

O . B . S . P .

に記録されている︒ イリに派遣されている︵一七三五年一

0

月 ︑

一七

三六

年五

月︶

一般 的に

ロンドン市裁判官は ロンドン市裁判官はオールド・ベイリでの裁判に不

一七

三四

年一

0

月︶オールド・ベイリに派遣さ ハードウィック卿自身は︑一七三三年から一七三七年 廷期に六回も派遣された裁判官もいる︒ 一人しか派遣されなかったのが四回ある︒

わけではない︒

一五

一 六

18‑1‑156 (香法'98)

(13)

一 七 三0年 代 の オ ー ル ド ・ ベ イ リ

0

年代に限って言えば︑ イリに出席したことは一度もない︒ らぬトムソンであった︒そのために︑ 一七二九年に財務府裁判所裁判官になっている︒従って︑

一五

トムソン自身は︑

ロン

ド 一

(栗原)

職中の一七一七年に法務次長に︑むしろ トムソンは市裁判官在

一七

0

年代に限って言えば︑

そのうちの七人がその後に国王裁判

の 後

言って︑自治都市の裁判官に選任されることは昇進の第一歩なのである︒特に︑ロンドン市裁判官は法務長官

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l ︑法務次長

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と同等の地位にあるとみなされており︑その後に国王裁判所の裁判官に昇進す るものも多い︒

市裁

判官

サー・エドワード・コーク

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  (一五五ニー一六三四︶も︑

コークは法務次長︑法務長官︑人民訴訟裁判所首席裁判官︑ 一五九一年にはロンドン市裁判官に選ばれている︒そ

(5 ) 

王座裁判所主席裁判官に順次昇進した︒

一六

0

年までの間に九人のロンドン市裁判官が在職したが︑八

0

年から一七三

(6 ) 

所裁判官に昇進している︒ロンドン市裁判官には一七一四年に任命されたサー・ウィ

リアム・トムソン

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nが死亡する一七三九年まで在職している︒さらに︑

国王裁判所からオールド・ベイリに派遣された裁判官として

0 . B . S . P

.   に記録されている︒上記の一七三五年︱二月

の第一開廷期から一七三七年一

0

月の第八開廷期までの二年間に六回もオールド・ベイリに派遣された裁判官は他な

トムソン自身は市裁判官であるにもかかわらず︑市裁判官としてオールド・ベ

トムソンの市裁判官在任中はロンドン市裁判官代理

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が任命された︒

サージャントであるシモン・アーリン

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がロンドン市裁判官代理として登用さ

れ︑オールド・ベイリの公判に加わっている︒アーリン自身はその後一七四二年に市裁判官に任命されるが︑

ン市裁判官代理に任命されるまでに市法務官

Co

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S e

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などの経験があるわけではない︒

市裁判官の次のロンドン市の法律専門職は市法務官である︒市法務官はサージャントから任命され︑任期は終身で

一五八六年にはノーウィッチの市裁判官を歴任し︑ 一五八五年にコベントリの

18‑1 ‑157 (香法'98)

(14)

一八世紀の市法務官はロンドン市のシェリフ裁判所の裁判官から任命されている︒王政復古後には刑事巡回裁

判官任命書と未決囚釈放裁判官任命書に市法務官の名前が含まれていたと言われる︒しかし︑一七三

0

年代の

O . B . S . P .

  をみる限り︑市法務官は二つの任命書の名宛人として明示されていない︒次に示す﹁その外の裁判官達﹂に含まれ

ていたのかもしれない︒しかし︑

ものであったと思われる︒

﹁ロンドン市のためのその外の刑事巡回裁判官達︑ロンドン市とミドルセクスのために開かれるその外のニューゲイ

トの未決因釈放裁判官達﹂には︑ロンドン市の場合には市参事会員が含まれる︒

( 1 0 )  

が裁判官に任命されたと言われる︒市参事会員はロンドンの二六の区

a r

d から一人ずつ選ばれ︑彼らは治安判事

J u s t i c e   o f   P e a c e

をも兼ねている︒しかし︑当時の法廷の裁判官席の座席数をみる限り︑全ての市参事会員がオール

ド・ベイリに裁判官として公判に加わったと考えることはできない︒

一七世紀末には︑市裁判官が各開廷期後に内閣に報告する恩赦の勧告が市裁判官によって前もって市参事会に諮ら

( 1 1 )  

れることもなくなっており︑市参事会員は当時の刑事裁判にとって重要な恩赦の決定過程から外されている︒

紀には︑市参事会員がオールド・ベイリに出席したとしても︑市長と同じく公判に積極的に関与することはなくなっ

たと思われる︒

に︑後者はミドルセクスで生じた事件に有罪か無罪かの評決を下す︒ 務とみなされるのは︑ あ

る︒

一八世紀後半になると︑ミドルセクス陪審は オールド・ベイリで市裁判官や国王裁判所の裁判官を援助することが市法務官の義

(9 ) 

一七

0

年以後からであって︑それ以前には市法務官のオールド・ベイリでの役割は名目的な

オールド・ベイリの刑事裁判のもう︱つの重要な構成メンバーは審理陪審

T r i a l J

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である︒それぞれ︱二人からy

構成されるロンドン陪審

Lo nd on J u r y

とミドルセクス陪審

M i d d l e s e x J u r

y が選任され︑前者はシティで生じた事件

一八

一八世紀中頃には全ての市参事会員

一五

18‑1‑158 (香法'98)

(15)

一 七 二0年 代 の オ ー ル ド ・ ベ イ リ ( 4

)  

一五

( 3 )  

( 2 )  

( l

)  

まりに合わせたからである︒ 月 ︑

五 月

よって年︱二回の開催とされるまでは︑

( 1 4 )  

1 0

月 ︶ ︒

七月

九月

︱二月が第一開廷期となるのは一月に市長選挙が行われるので︑市長の任期の始

(栗原)

オールド・ベイリは年八回定期的に開かれていた

一 月

︑ 二月

︑ 四

確認されたが︑一八三四年の中央刑事裁判所法に たという指摘もあるが︑

それ

では

審理陪審については別の章で詳しくふれることにしたい︒

建物としてのオールド・ベイリが建てられたのは一五三九年になってからである︒当時は年

それ以外の時にはオールド・ベイリはロンドンの自由人に賃貸されていたと言われる︒

重罪の裁判ではオールド・ベイリはごくわずかしか利用されていないのである︒

罪を扱うステイト・トライアルがオールド・ベイリで開かれてからは︑

人の裁判がオールド・ベイリで開かれるようになった︒

連で著名な裁判が開かれたことで歴史に名を残すことになった︒

一七世紀のオールド・ベイリで通常の重罪の裁判はどの位開かれていたのだろうか︒

( 1 3 )  

詳細は不明である︒

いつ頃から年八回の開催となったのかは必ずしも明らかではない︒

(︱

二月

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1920, 

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31‑35 

J .  

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19 92 , 

p p .  

224

228

B .   O '

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オールド・ベイリが一六八

0

年代にはすでに年八回開かれていたことは

年四回開かれてい

一七世紀のオールド・ベイリはステイト・トライアルとの関

反逆罪でニューゲイト監獄に収容された被告

従っ

て︑

しか

し︑

一五八一年に反逆 一回の開催であったために︑ すでに述べたように︑ チームが選任された︒

18‑1 ‑159 (香法'98)

(16)

1KO 

The Old Bailey and its Trials, London, 1950, p. 159. 

(U?) H. Ockerby (ed.), The Book of Dignities, London, 1894, p. 494; A. W. B. Simpson (ed.), Biographical Dictionary of the 

Common Law, Butterworths, 1984, p. 117. 

((,0) D. Lemmings, Gentlemen and Barristers, Oxford, 1990, p. 238. 

(t"‑) B. R. Masters, The Common Serjeant: City Officers 1, Guildhall Miscellany, vol. 2, no. 9, 1967, pp. 387‑388. 

(oo) Ibid., p. 381. 

(m) Ibid., p. 381. 

ぼ)The Corporation of London, op. cit., p. 26. 

(二)

J. 

M. Beattie, op. cit., p. 226. 

(~) W. E. Hooper, op. cit., pp. 87‑93. 

ぼ)Ibid., p. 47. ~ <"°~-

J. 

Baker辻~<回S匡要凶~t-0叫や~II回匡令菜や,'.;+.;!~J..IJ如迦蕗1"'t-0芯,1'¥J Q晒菜竺←唇や-lQ~

゜ J.

Baker, Criminal Courts and Procedure at Common Law 1550‑1800, in 

J. 

S. Cockburn (ed.), Crime in England 1550‑1800, 

Princeton, 1977, p. 31. 

ほ)回出森弄宦S0Q~§LawTerm心囲出蓋弄如茶ドキ"°·t<Qt!~~~l

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