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日本におけるフライリヒラート-香川大学学術情報リポジトリ

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香 川 大 学 経 済 論 叢 第69巻 第4号 1997年3月 193-214

研究ノート

日本におけるフライリヒラート

高 木 文 夫

数年前のある日附属図書館の階下にある書庫に入った折りに,ドイツ文学関係の図 書が置いてある一角の,さらにその片隅で表紙が色槌せた一冊の文庫本を見つけたこ とがある。手にとってみても,長い年月の聞に誰かに読まれたような形跡もほとんど ない。書名は『フライリヒラート詩集1, 訳 者 は ハ イ ネ の 名 訳 で 知 ら れ る 井 上 正 蔵 (1913-1988)である。出版元は日本評論社 r世界古典文庫」の第25巻,出版年月日 は奥付によれば昭和23(1948)年4月10日であり,附属図書館への受け入れもその2, 3ヶ月後で,まだ新制の大学も誕生していない頃である。この訳書が戦後すぐ出版さ (2) れたことは知っていたものの,このように比較的身近なところに現物が存在すること はうかつにもこのときまで気がつかなかった。この訳詩集の出版は太平洋戦争が終 わった直後それまでの思想統制下に抑えられていた自由主義的,あるいは左翼的な書 物が堰を切るように次々と出版されたことにつながるものと思われる。訳者の井上正 蔵は戦時中にフライリヒラートやハイネなどの,ドイツ文学史の「青年ドイツ派 (Junges Deutschland)Jを始めとする, 1848/49年革命前後やその後の「進歩的傾向 の文学」の作品を訳しためていたようであり,戦後になって当時の日本の状況に後押 しされて,この翻訳が刊行されたのであろう。それから半世紀近くの年月が過ぎ rべ (1) 詩人の姓Freligrathは本来「フライリグラート」の方が原音に近いと思われるが,日本 では通常「フライリヒラート」と表記するので小論ではこちらを使用する。 (2 ) 井上繁子「井上正蔵略年譜」ハイネ研究図書刊行会編『ハイネ研究』第五巻 東洋館出 版社 1983年 49~86 ページ,及び橋本博 n フライリヒラート詩集』とある印刷労働者」 井上正蔵先生喜寿記念論集刊行会編『太陽と夢一一井上正蔵先生喜寿記念論集一一J1989 年(名古屋)133~135 ページ (3 ) 山川丈平「井上正蔵と私」上掲『ハイネ研究』第5巻 139~142 ページ

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194 - 香川大学経済論叢 844 ルリンの壁崩壊」に象徴される i東西対立の終駕・」にともない,少なくとも日本では 保守対革新の構図が消え去ったかに思われる現在においてあらためてかつて日本にお いて出版されたこのような翻訳を手にするのには感慨深いところがある。本稿におい てはこの『フライリヒラート詩集』を手にしたことを機会にこの比較的知られること の少ない詩人が日本においてどのように受けとめられてきたかを見ていこうと思う。 なぜなら,このささやかな試みによって,日本のドイツ文学研究における「三月前期 (Vormarz)Jの受容やそれへの論究の実態の一部が明らかになるからである。 筆者が本稿においてフライリヒラート FerdinandFreiligrath (1810-1876)を取り 上げようと考えたことには他に理由がこつある。まず,筆者が近年特に関心を持って いる詩人ヴェー/レト GeorgWeerth (1822-1856)がフライリヒラートにたいして持っ ている関係の深さが最初の理由である。三月革命期にこ人がともに『新ライン新聞 Neue Rheinische ZeitungJの編集部に所属し,同紙に作品を寄せたということだけで はない因縁が彼らにはある。彼らはともにリツペ候国の首都デトモノレトの生まれだが, それはフライリヒラートの父親がヴェールトの父親のかつての教え子であり,彼がこ の町へ来たのは後者が招縛したことによるし,フライリヒラートの名前がフェ1レディ ナントというのも,ヴ、エールトの父親からもらったものである。居住する家も互いに 向かい合ってはいるものの,年齢差のために少年時代はともに過ごすことはなしむ しろフライリヒラートはヴェールトの長兄の遊び友達にすぎなかったが,後にヴェー ノレトが商人修業のためにエルパーフェノレトに赴いた折りに文学サークノレを通じて接触 することもあった。このように出自に因縁があり,成人してからは商業に従事しなが ら,詩作にも勤しみ,とりわけ「革新的な傾向」の野情詩を書き,マルクスやエンゲ Jレスの周辺にともにいたことが筆者にフライリヒラートへの関心をもたらした理由の 一つである。 もう一つの理由はやはり同時期に活躍した詩人ハイネHeinrichHeine (1797-1856) とフライリヒラートとの関わりである。ハイネには生涯を通じて多くの論敵がいたが, 彼自身もさまざまに他の人々を批判したり,郎捻したりする詩句を残している。中で

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日本におけるフライリヒラート 195 も同じように「傾向詩人」として,少なくともハイネの批判者たちからは同じように 見られていた詩人たちとしてフライリヒラートおよびヘルヴェーク

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1)らがいた。ハ イネは特に『新詩集NeueGedichteA(1844年)の「時事詩ZeitgedichteJの部分やそ の他ばらばらに発表され,あるいは遺された詩編において彼らを邦捻し,噺弄してい る。とりわけその餌食になったのはヘルヴ、エークであり,さらに傾向は異なるが rシュ ヴアーベン派」の詩人たちであった。フライリヒラートにしても,例えば,叙事詩『アッ タ・トロルAttaTrolll(1844年)ではモットーにフライリヒラートの野情詩『ニグF ロの王様1)erA10hrenfurstlから 「かがやく白い天幕のなかから/武装したニグロの王様が現われる/するとかがやく 黒い雲の門から/陰鯵な黒い月が出てくるJ(井上正蔵訳岩波文庫10ペ ー ジ 以 下 同 脅からの引用についてはページのみを記載) という一節が引用され,さらに「はじめに」という部分にも 「もう一言。ことさら弁解する必要はないと思いますが,あるフライリヒラートの詩の かえ歌が,ときどきこの『アッタ・トロ1レ』のなかから,ふざけてくすくす笑い声をあげ, いわばこの作品を裏からこつけいなものとしています。しかし,それはこの詩人を誹誘す るためにしたのではけっしでありません。ぽくは,この詩人を高く評価し,特にいまでは 七月革命以後ドイツにあらわれたもっとも重要な作家の一人に数えています。J

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ペー ジ) と述べて,この作品がどれだけフライリヒラートの作品と関わりが深いかを強調して いる。しかし,このこつ自の文に見られるような肯定的な言辞にもかかわらず,ハイ ネが動物を主人公としたこの叙事詩の中でフライリヒラートをどのように評価してい るかと言えば,次の 「躯馬が批評を書いているじゃないか?/猿が芝居をやっているじゃないか?/尾長 猿のパタヴィアより/上手な女優があるかっていうんだ?11鴬は歌をうたうじゃない か?/フライリヒラートだって詩人じゃないか?/あいつと同郷の路段以上に/獅子の ことを歌えるものが何処にある?J (47ページ) という箇所でフライリヒラートに対し非常に皮肉っぽく邦織しながら述べているよう に rまえがき」に主張されていることはそのまま受け取ることはできない。ほぽ同時

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196ー 香川大学経済論叢 846

期に成立した同じ叙事詩『ドイツ冬物語Deu航hland.Ein Wintermafchen]において

(4) も,ハイネはトイトフツレクの森で、グルマン民族の英雄ヘノレマンがローマ軍のヴアール スを撃破したおかげでドイツが「自由なドイツ」のままでいられたのである,そうで なかったなら 「フライリヒラートはむかしのブラックス・ホラチウスのように/韻のない詩をつくっ ているだろうJ(井上正蔵訳筑摩書房版「世界文学大系第26巻 ドイツロマン派集」 389ページ) と述べているように,フライリヒラートはハイネからは他の多くの同時代の詩人たち と同様にドイツ・ナショナリズムにつながるものとして榔捻され,けなされているの だ。筆者のフライリヒラートに寄せるもう一つの関心はハイネによってこのように批 判された詩人の一人としてのフライリヒラートから来ている。 II 日本におけるフライリヒラートに関する文献は[別表1]のとおりである。それを 一覧しての印象は小論の契機となった『フライリヒラート詩集1[文献1① ] が 戦 後 早々に出版されたにもかかわらず,翻訳者および紹介文や研究論文の著者が非常に限 定されているということと文献の数の少なさとに尽きるであろう。表にはあげていな いが,フライリヒラートの名前は戦前から「ドイツ文学史」と題された書物にはすで に登場している。たとえ名前だけでもすでに一般に知られる機会はあったというだけ でも,他の三月前期の詩人たちに比べ,恵まれているともいうことができる。何しろ 上に挙げた現在筆者が関心を寄せているヴェールトの名前は日本で出版された「ドイ ツ文学史」ではかなりおそく記載されることになったのであるし,他の詩人たちの名 (4 ) 因みに「トイトブルクの森」は先年ネオナチの集会にも使われたことがあるようにドイ ツ・ナショナリズムを象徴するものであるが,上記のデトモルトの郊外に位震し,後に なって『ドイツ冬物語』に登場する英雄へルマンを記念する巨大な像が建てられた。 (5 ) 例えば,偶々附属図書館で手に取った山岸光宣『濁逸文筆概観J(新潮社)1936(昭和 11)年には「この運動(ニ青年ドイツ派)は政治上に経験のない青年たちが,文学によっ て当時の反動思想、を覆さんと企てたものである。[ ]また一時この運動に参加して傾向 詩を書いたものには,フライリヒラート[ ]等がある。(傍点筆者)J(195~196 ページ)

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847 日本におけるフライリヒラート - 197-前がこの種の書物に載ったのはほとんどDDRで出た「ドイツ文学史」および関連書の (6) 翻訳だけであると言ってもよいからだ。 従って,まずは詩人および作品自体の本格的紹介は管見の限りでは上記の『フライ リヒラート詩集』が最初であると言うことができる。 さて,問題の『フライリヒラート詩集』は別表のような構成になっている。それに よると,初期の若い時分の詩

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詩 集Gedichte1外の「わかい日の詩JugendgedichteJ から)の中からは「花」以下8編 詩 集1(1838年)から iWアンプイトリーテ』号」 以下 12編 束 の 間Zwischen den Garben1

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年)から2編 信 念 の 告 白Ein Galubenbekenntηis1 (1844年)から 3編 サ ・ イ ラ Caira!.1(1846年)から 3編, 『現代政治社会詩集第一部Neuere

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ale Gedichte.. Erstes Hejt1 (1849 年)から5編 現 代 政 治 社 会 詩 集 第 二 部Neuere

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olitische und soz似た Gedichte. Zweites Hejt1 (1851年)から 4編 あ た ら し い 詩Neueresund Neuestes1(1877年) から2編が翻訳され,収録されている。さらにそれを筆IIIの手元にある2種類のフラ (7) イリヒラート全集をもとにそれぞれのフライリヒラートの詩集全体の収録数との比較 をすれば,次のようになる。すなわち, 1838年の『詩集』は全体で 83編が収録されて とフライリヒラートの名前と傾向が紹介されている。わずかし 2行であっても名前やそ の傾向が文学史の記載されることはヴェールトには最近までなかった。 Vgl拙稿'Georg Weerth in JapanJIかいろす』第32号 1994年 19~33 ページ (6 ) ハンス=ユルゲン・ゲールツ(ワイマル友の会訳)wドイツ文学史1(朝日出版社, 1978 年)399~407 ページなど

( 7 ) Ferdinand Freiligrath Werke in9 Banden Mit Eil.v.. v Eduard Schmidt -Weiβenfels. BerlinjLeipzig (Knaur) 1905およびFerdinand Freiligrath Werke Hrsg v. Paul Zaunert Krit durchges erL Ausg. Mit 2 Bildn u. 1 Faks. 2 Bde.. Leipzig (Bibliogr Inst: Meyers Klassiker-Ausg)但し,訳者の井上正蔵は後者の Meyer版の

他にGoschen版(FerdinandFreiligrath Gesammelte Diιhtungen 6 Bde Stuttgart 1870; Neue [=3.], sehr verm. u vervollst.. AufL 1877)及 びBong版(Ferdinand Freiligrath Werke in6 Teilen Hrsg v.. u. m. EinL u Anm versv Julius Schwering [in 2 Bdn.] Berlin [1909])を底本として使用している。但し, Goschen版の場合,訳者 は後者の第3版を利用していると思われる。何故なら,彼が訳書の解説の(追記)で述べ ているところでは解説の執筆にSchmidt-W eiβenfelsによる伝記を利用しているが(同 訳書282ページ参照),これは同全集では第 3版において初めて加えられたものであるか らだ。 VglFleischhack, Emst: Bibliogra

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,hie Ferdinand Freiligrath1829-1990 Aisthesis V erlag. Bielefeld. 1993 S. 25

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198 香川大学経済論叢 848 いるが,翻訳されているのは12編にすぎず,しかもこの詩集は内容がさらに「日記の 紙片

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j (5編)の六つの 部分からなっているが,翻訳では内訳が前半の2部分に集中し,後半からは2編のみ である。「物語詩」から翻訳された詩もその前半の5編と後半の1編というように前の 部分に偏っている。 2番目の『束の間』はフライリヒラート自作の詩と彼が英語やフ ランス諾から翻訳した詩の部分とからなるが,もちろんここでは自作の詩が問題とな る。ここの詩人自身の作品は

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編に上るが,翻訳されたものはわず、か

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編に過ぎない。 次の『信念の告白』は第一部 (6編)と第二部 (38編)のごつの部分からなるが,第 二部のうち3編 が 翻 訳 さ れ た の み で あ る 。 続 く 『 サ ・ イ ラ は も と も と 僅 か に6編 のみの詩集だが,半分の3編が翻訳されている。成立年の異なるこ部からなる『現代 政治社会詩集』のうち第一部(15編)からは5編が,さらに第二部(14編)からは4 編が収録されている。最後の『あたらしい詩1

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編)からは僅かに

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編のみである。 こうしてみると『フライリヒラート詩集』の翻訳を編むにあたり訳者に後述のような 取捨選択の基準が存在していることが容易に見て取れる。 続いて同じ訳者による他のフライリヒラートの日本語訳が収められたものの詳細を 見てみよう。『フライリヒラート詩集』とほぽ同時期に雑誌『唯物史観』第3号 (1948 年)に同じ訳者によって詩人が編集部に所属した『新ライン新聞』に掲載した野情詩 4編が掲載されている[文献L②]。いず、れも後に詩人によって『現代政治社会詩集』 の第一部及び第二部に収録されたものである。 4編の内訳は「ブルーム哀悼歌

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「目覚めの歌

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j であり,先の『フライリヒラート 詩集』との重複は最後のiW新ライン新聞』訣別のことば」のみである。訳者はこれら の詩の翻訳に「略解」を寄せ i革命詩人フライリヒラート」を強調している。『唯物 史観』第3号はその発行年に見られるように 1848年の三月革命百年を記念したもので あり,他にも上記のフライリヒラートの最後の詩と同じく赤刷りの『新ライン新聞』 終刊号 (1849年)に掲載されたヴェーノレトの論説「婦人に告ぐ

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日本におけるフライリヒラート 199ー

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(山崎八郎訳)も掲載されている。 フライリヒラートの詩の翻訳が次に公にされるのは

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年の井上正蔵編『ドイツ解 放詩集1[文献1“③]である。「なんらかの意味で,それぞれ時代の声,社会の声,民 衆の声を伝えているものを選ぼうとしj,rまず何よりも,いわゆるドイツのみじめさ というものを考えにおいてj (傍点は編者), r生涯にわたり,またはその或る時期では あれ,祖国の悲惨とたたかい,歴史の前進すべき針路に正しく目を向けて詩作した詩 人」の作品をゲーテからクーパにいたるまでの中から選んで編まれたこの詩集におい ては,フライリヒラートはヴ、エーlレトとともに r(1

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年の動乱の時期に格闘した」 (rあとがき J)詩人としてその中に選ばれているが,彼は生涯の「或る時期」にのみ 活躍した詩人と見なされ,この観点から彼の詩としては「目覚めの歌」及び

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新ライ ン新聞』訣別のことば」の新ライン新聞』に発表された2編が選択されている。

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年に出版された『世界名詩集大成』の第

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巻「ドイツ編

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J (井上正蔵編) [文 献

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④]には総計で

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編しか含まない

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年の詩集『サ・イラ!.1全編が翻訳されて いる。日本評論社から出た詩集では半分の3編だけであったのが,ここで全貌が明ら かになる。 翌

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年出版の『ドイツ名調選1(井上正蔵訳編) [文献1.⑤]はどちらかと言えば, 「学生社」という出版社名で認められるように,若者向きに編集されているが,これ もゲーテから現代にいたるまでのドイツの持情詩の流れが理解しやすいように作品が 選択されている。ここに収められているフライリヒラートの作品は『サ・イラ!~か ら「下から上へ

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1 J と『新ライン新聞』に掲載されたものから「目覚 めの歌J (ただし,本訳書では題の翻訳が「めざめの曲」に変更されている)が選ばれ ている。ここでは「三月革命を代表する詩人J (rはしがきJ)としてフライリヒラート が紹介されている。

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ちなみにこれらのフライリヒラートおよび、ヴェールトそれぞれの作品はどちらも悶紙 同号の第一面に掲載されたが,前者が上段のトップ記事であり,後者は下段に配置されて いる。

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200 - 香川大学経済論叢 850

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フライリヒラートの日本語による本格的な紹介文および研究論文は上記の,何度も 言及した『フライリヒラート詩集』を持って鳴矢とする。作品の翻訳の場合と同様に, このような文章はほとんどが井上正蔵の手になるもの、である。この翻訳詩集に「解説」 として添えられた「フライリヒラートについてj [文献2..1)①]と題された,文庫本 で約50ページにおよぶ、文章は全体が「ー詩人の出発j,r二 信念の告白j,r三 実 践の生活j,r四 流諦十七年j,r五 故国と詩人」の五つの部分から成っており,こ の革命詩人の全貌を紹介する,日本で最初の,そして最もまとまった文章である。こ れはそれぞれの表題から見て取れるようにフライリヒラートの生い立ちから商人修業 と仕事,詩作,革命詩人への転身,亡命生活,商業への専念と安定した生活,そして 帰国というように彼の生涯を時代を追って綴ったものである。フライリヒラートは必 ずしも詩人としてのスタート時から「革命詩人」であったわけではなしさらには没 するまで「革命詩人」であったわけでもない。この解説で著者は詩人の幼年時代から 説き起こして,決して恵まれているとは言えない境遇から,商人としての修業を積み, 併せて詩人として世に認められていく姿を描く。初期においては特に商業都市として 殿賑をきわめている大都会アムステルダムの経験や見聞を重視し rこの時代を経な かったならば,彼が力づよい熱情をもって, ドイツにおける最初の,プロレタリアー (9) トを歌った革命詩は世に残されていなかったかもしれないj(239ページ)と述べてい るように,解説の重点は「革命詩人フライリヒラート」に置かれている。確かに彼の 詩はロマンティシズムを基調とするが rドイツ浪漫派のく月光に照らされた中慢の魔 力〉は影を没して」おり r熱帯的な異国の人間環境,見知らぬ世界へ飛掬する空想, 神秘な海への自由な憧僚,周囲の現実と未聞の国土との対比,連結,交錯,反発など 目もくらむばかりの彩色で豪華にくりひろげられるj

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ページ)ものでドイツでは それまでにない新しい汗情世界を聞くものであった。著者によれば rこれら初期の反 伝統的な強烈なヱキゾテイズムの要素が,一一ーやがては,それが革命的ロマンティシ (9 ) 引用文の後の( )内に記入された数字はそれぞれ引用もとにおけるその文の箇所を表 しているが,原著の旧漢字は新漢字に直しである。

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851 日本におけるフライリヒラート 201 ズムへと転化して『サ・イラ!~の如き詩集になったのであるが,一一放射した特異 な光のなかに,最初のうちは一般にはほとんど見のがされていた国民的なイデーの, かすかな光がひそんでいたことも否みがたいJ

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ページ)のであり,後の革命詩人 と彼の晩年の祖国愛もすでに初期のうちにも内包されていた。このような資質により, 政治から独立した詩のありかたを主張したフライリヒラートが「革命詩人」へと転身 する契機になったのは持情詩「スペインからAus砂anienJである。そこで「詩人は 党派の尖塔よりも/より高い望楼にたつものだJ(井上正蔵訳)と自らの立場を歌った フライリヒラートは革命詩人へlレヴェークと対決することになる。フライリヒラート はへYレヴェークを先頭とする自由主義的な陣営から非難を受けることになる。しかし, 著者によれば, フライリヒラートも「政治そのものを過少に評価したのではなく[ く詩〉そのものをいたずらに,く政治〉のもとにふみにじった無反省な政治的自由思想、 の横行している時代に芸術家として純正なるものを求めようと自己の世界をまもって いた」のでトあり I民衆に対して, また祖国に関して彼が,決して無関心であったので はなかったJ(244~245 ページ)。従って,周囲の情勢如何によって彼が民衆の側に立 つ「革命詩人」への転身を遂げることはそれほど困難なことではない。 しかし I彼は しだいに先鋭化する階級社会や社会諸関係を冷静に観察して, これを分析し綜合しう る理論家ではなく,直観的正義観にもとづく情熱的な詩人に過ぎなかった」のである。 それにもかかわらず後の彼の詩集『サ・イラ!1 (1846年)でプロレタリアートは「未 来のための革命の担い手として,階級的憎悪にもえて恐ろしいばかりの迫力で描き出 されてJ

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ページ)いることが著者により強調されている。フライリヒラートは詩 集『信念の告白1(1844年)において「高い望楼」から「党派の尖搭」に降りたことを 実証し,周囲を驚かせる。 しかし,著者によれば, これまでにも述べたように,彼の 革命詩人への転身は当然の帰結だ、ったのである。 この後の詩人の亡命地ブリュツセル (ブラッセル)での限定された交友関係で著者はマルクスとのそれを「彼の生涯にとっ て決定的なモメントを含む」ものと見ている。ブリュツセノレはフランスとドイツの通 路にあたり,左翼民主主義や革命運動の拠点として重要な場所になっていて, マルク スが中心人物の一人になっていた。「夜の会合などで,フライリヒラートの見解は,マ ルクスの弁証法的な社会主義理論によって解剖され,彼はしばしば征然することも

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あったJ(250~251 ページ)と著者はマルクスの影響を重視する。詩人はその後スイス へ 移 る が , こ こ で 彼 は 革 命 的 信 念 を 固 め サ ・ イ ラ と い う わ ず か 六 編 か ら な る 詩 集を公刊する。著者は「下から上へ」を例に取り,この小さな詩集が「彼の全身を打 ちこんだ革命詩の典型ともいうべき」であり Iここにおさめられた六つの詩に発露す るものは,彼の本質の深所にひそんでいた,何ものにも制御されない自由の声であり, 被圧迫者への同情と,圧迫者への憤怒の叫び」であって I階級闘争をありありと描き 出したドイツ最初の文字どおり,プロレタリア文学であったJ

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ページ)とし,翌々 年のヨーロッパ全体を揺るがした革命に先立つものだったと評価する。現在の三月前 期 の ド イ ツ 文 学 研 究 か ら 見 れ ば サ ・ イ ラ が 「 ド イ ツ 最 初 の プ ロ レ タ リ ア 文 学 で ある」という評価は Iプロレタリア文学」の定義にもよるが,疑問の余地がある。著 者のフライリヒラート評価の頂点はこの「言語的にみても,

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調子の高い,独特 の美しさを示しているJWサ・イラ!~に対する見解にある。それはこの小さな詩集が 続いて公にされた詩集『現代政治社会詩集』とともに「彼の詩精神の最高調を示すも のであり,より精密にいえば,その沸騰点であった。ここにはフランスにおいて, く りかえしあらわれた革命思想の諸相が集約的に映し出されている,すなわち,封建的 政府と教会の破壊を,専制君主制の打倒と民主制の樹立を明白なひびきのたかいリズ ムでうたいあげている」という評価に端的に見ることができょう。この後に続くロン ドンでの家族を抱えての苦しい亡命生活も詩人にとって「最もあたらしい社会の海の 中から,はっきり対立する階級の現実のすがたを[ ]身を持って学ぶことが出来た」 (254~255 ページ)のである。著者のこのようなフライリヒラート評価からこの後勃 発した三月革命期におげる詩人の活躍は当然のように高い評点がつけられる。特に野 情詩「死者より生者へ

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がパンフレツトとして民衆の聞 に広がっていたこととそれが引き起こした裁判は「詩人フライリヒラートの政治生活 の華々しさにおける,クライマックスであったJ

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ページ)とされる。そしてマル クスを編集長とする『新ライン新聞』の文芸欄への貢献とマルクスとの交友が強調さ れ,詩人がついに「党の人」になったことが指摘される。「マルクスは旧『ライン新聞』 以来,たえず労働者党の詩人および同伴者作家に,明確な党派性と積極的な政治的主 題と反動に対する鋭い表現とを要求した。その文学的実践はフライリヒラートの『新

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日本におけるフライリヒラート 203 ライン新聞』紙上の作品となってあらわれた。

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ページ)著者はこのような賛辞と ともにフライリヒラートの政治詩が果たした貢献に高い評価を与え,当然のように赤 刷りの同紙最終号のトップ記事として詩人の,w新ライン新聞』訣別のことば」が「労 働者党の運動史におけるモニュメンタJレな作品として有名である」とするが,いずれ にしても,こうした党機関紙において,政治的実践において,げっきょく彼は一個の く詩人〉にとどまり,共産党宣言」についての彼の把握も,つまるところ,いわゆる く詩人〉を出ていなかったのは,いかんともしがたい決定的な事実であった J(258~259 ページ)として彼の限界を指摘している。従って, 40年代の作品を多く含み,言語芸 術としては,きわめて高い価値を持つ」とは言っても,時代的意義のほとんどないと いってよい非政治的野情詩」を収めた詩集『束のあいだ』が革命敗北後に発表された ことは「かりに作家的に,或いは内面的矛盾がなかったとしても,やはり一種の不可 解な問題をはらむちぐはぐであった」と評価を下されるのも当然である。それゆえ「こ ういうちぐはぐは必然的な結果として,第二次ロンドン亡命時代から晩年の詩人にふ たたび別の形で,思想的撞着としてあらわれてくるJ

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ページ)ことになる。フラ イリヒラートの後半生においては最初はまだマルクスらとの関係は維持されるが,や がて少しずつ疎遠になって行く。詩人も他の活動家と同じように生活に追われ,家族 を養うために再び商業に従事するようになり,詩作もおろそかになる。しかし,

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年夏になってようやく安定した生活が送れる社会的地位につき,物質的には充たされ た毎日を迎えるようになる。著者はこれを「物質的には恵まれていたとしても,彼の 革命的な本質にとっては,それは歪められた幸福だったJ

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ページ)と断じている。 すなわち,フライリヒラートは革命詩人としてこそ本領が発揮されるのであり,マル クスもその才能を高くかっていたが,詩人の理解力不足から彼ら元の同宏、たちから離 反することになったのである。晩年長い亡命生活からついに祖国に帰還した彼には「階 級意識」よりも「国民感情」のほうが重要であり,

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年の普仏戦争時には「かつて の同志マルクスが,この戦争を通じて独仏のプロレタリアの平和と団結のためにたた かっているとき,ただドイツ統ーのために, ドイツ国民のために,ふたたび普の竪琴 をとって弾じた」のであり,偏狭な小児病的な愛国主義者」ではなくとも, ,<詩人〉 として,三十年もまえに,ヘノレヴェークに反対して歌ったように,いままた彼は公然

(12)

~ 204 香川大学経済論叢 854 と党派の尖塔より,手も高く立ったつもり、で一実はく国民〉という尖塔にたてこもっ たJ (277ページ)のである。だが,彼は完全にナショナリストになったのではなし 1870年秋の「ドイツにおくる

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Jを最後に「愛国詩」は警かず rいま やふたたび循環して,その政治的努力の出発点へ戻ってきたJ(280~281 ページ)。詩 集の翻訳者であり,解説の著者井上正蔵のフライリヒラート評価は彼がまずは優れた 詩人であり,生涯において好余曲折があるものの,その本領は民衆の側に立つ革命詩 人であったことである。そしてそのクライマックスにおいてはマルクスや彼の同志た ちとの交友が最も重要であった。しかし,前節において見たようにフライリヒラート の訳詩集を編むにあたって,その作品の選択が『信念の告白』から『現代政治社会詩 集』に集中していないことは一方で訳者が政治的主張よりもフライリヒラートの詩人 としての資質を重視していたことの証左であろう。井上正蔵がこの翻訳詩集を公刊し たのとほぼ同時期に日本独文学会の機関誌に発表した「プエルディナント・フライリ ヒラートJ [文献

2

1)②]の内容はほとんど上の「解説」と同じであるが,著者に「許 された紙幅の関係上J,取り上げられた時期が, r (フライリヒラートの)詩人的出発か ら三月革命の政治実践にはいるまで」に限定され,その上で「歴史的背景,その下部 構造と上部構造の相互浸透において,彼をとらえようと意図しながら,詩人内部にお ける,いわば一種の否定的ロマンティシズムが革命的ロマンティシズムへと転化する 過程を中心として考察したJ (138ページ)ものである。従って,上記の解説文の内容 の前半部分のみを,しかも圧縮して書かれた内容に過ぎないが,学会誌という性格を 考慮し,翻訳や解説の底本および資料とした文献の紹介だけ℃、なく,著者が特に参考 にしたメーリングやプランデス,

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シJレレlレの文献紹介も行われている。井上正蔵の このようなフライリヒラート像はこの後彼が執筆した,あるいは担当したと考えられ る辞典類のフライリヒラートの項目にも受け継がれている。 1957年に発表された彼の 「フライリヒラートーーその問題点についてJ [文献21)③]は非常に短い文章なが らも示唆に富む点が多い。そこではフライリヒラートがその文学的出発点をロマン主 義に持っていることを強調するのは前稿と同じであるが,官頭で三月革命が歴史学の 上ではきわめて重視されているのに対し r文学の世界ではまだそれほど重んぜられて いるとはいえない」と嘆きの声をあげ,この革命が未完成ゆえの文学におけるリアリ

(13)

855 日本におけるフライリヒラート 205 -ズムの発展が妨げられたことの原因を究明することがこれからなされなければならな いと提案する。そして,フライリヒラートこそこの時期に最も活動した詩人であり, この時期の文学を正しくとらえるために欠かせない人物としてとらえられる。その上 で「フライリヒラートにおけるロマン主義研究は,未開拓の興味ある問題に属する, [ ]ドイツのロマン主義における[•• ] (彼のような)稀に見る発展のあとづけは, これからもっと追求されなければならないごあろう」との提案がなされ,さらにはメー リングを引きながら,三月革命期のフライリヒラートにおいて「政治実践と創作の問 題」がよく窺えることを指摘している。 井上正蔵の手によるもの以外の論説は彼がフライリヒラ}トの作品の翻訳や彼を取 り上げた文章を書かなくなった後の,宮野悦義による二編のみである。その一点は 1975 年の r~ 死者より生者へ』一一フライリヒラートの裁判事件一一J [文献2..1)④] である。三月革命の勃発後,ドイツへ帰ったフライリヒラートが,すでに始まってい た反革命の嵐の中で民衆が高価な犠牲を払って勝ち取ってきた権利が再び奪われてい き,民衆自身も立ち上がる気力を失いつつある絶望的な状況で,作った「無為な生者 に対する,↑去儒な民衆に対する強烈な警鐘の乱打J(185ページ)ともいうべき詩『死 者より生者へ』はパンフレツトになり,約九千部がたちまち人々の聞に散布され,読 む者に強い感銘を与えたが,当局はこれに深く危↑具を抱いたのである。この論文はこ の詩の影響力に警戒心を抱いた当局がフライリヒラートに対して起こした裁判事件を 当時の裁判資料をもとに紹介,分析している。詩人の詩作の意図と実際の作品が読者 に与える影響について,文学作品が社会体制転覆を読む者をどの程度直接煽動するこ とができるかという点が裁判で争われているのは興味深い。なお,この論文の注釈で 『死者より生者へ』の全訳が試みられている。宮野悦義のフライリヒラート論の二つ 目は前著の十年後に発表されたrTrotzalledem!一一フライリヒラート序説一一ーJ[文 献21)⑤]である。この論考においてはフライリヒラート自身も翻訳した,スコット ランドの詩人パーンズの詩に影響を受けた詩「それでもなお

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Jへ至る 詩人の生涯と作品を叙述している。ここでは特にフライリヒラートの仕事の重要部分 をなす詩の翻訳,とりわけ英詩の翻訳について言及がされている。 別表に挙げたドイツ文学史や事典に載ったフライリヒラートに関する記事[文献2..

(14)

206 香川大学経済論叢 856 2)①,④,⑤]はいずれもし 2行に終わらない,比較的長文のもので,彼の生涯と 作品を紅会主義的な傾向を持ち,マルクスに関わりのある詩人として論述がされてい る。また,フライリヒラートに関して他にはマルクスやエンゲlレスによる彼への評価 を記した文章[文献23)①]やDDRで刊行されたドイツ文学選集のシリーズに付さ れた小さな伝記[文献2 3)②]およびドイツ文学史[文献2 3)③]も翻訳で読むこ とが出来る。

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日本におげるフライリヒラートの作品や彼についての論考はここまで見てきたよう にわず、かなものである。早くから名前やその傾向だけでも文学史や事典に載り,翻訳 も出版されているにもかかわらずにである。これは果たしてどういうことなのであろ うか。翻訳の詩集が終戦直後の,それまでの反動のように世に出た多くの出版物と同 じように時流におされた物であるとしても,その後の限られた人々の手によってしか フライリヒラートへの論究が行われていないのはまことに寂しい限りである。最初の 井上正蔵がとらえたフライリヒラート像が彼が作品の翻訳にあたって行った選択に見 られるように,必ずしもマルクスの盟友としてだけでなく,ロマン主義との関わり, 三月革命前期という時代との関わり,さらには英仏を中心にしたフライリヒラートの 訳業など興味深いテーマがすでに提起されているにもかかわらずにである。しかも, 井上正蔵は彼の文学性も高く評価しているのであり I社会主義的な傾向を持つ詩人J, 政治との関わり,あるいは単に詩人としての小ささということで忌避された,または 忌避されているのであろうか。それとも上に見たように彼の同時代の詩人たちの中で 傑出した存在であるハイネの毒舌にすっかりあてられてしまったのだろうか。そもそ も日本のドイツ文学研究において三月革命前期の文学はハイネやピュヒナーを除い て,さらには同時代であっても「ピーダーマイヤ一時代」の詩人作家として見なされ る人々を除いてそれほど多く研究対象として取り上げられているとは言えない。フラ イリヒラートもそれと同様の運命の波に巻き込まれてしまうのだろうか。彼に多大の 理解を示した井上正蔵も

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年代半ば以降特にフライリヒラートに関する目立った文 章を書いていない。もちろんこの時代にはハイネやビュヒナーとくらべて傑出した大

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857 日本におけるフライリヒラート 207ー きな存在が多くいるわけではない。しかし,文学史の観点から見てこの時代の文学像 を作り上げるのにこのような状態で充分なのであろうか。 [別表 1] フライリヒラート日本語文献表 1 作品の翻訳 ①井上正蔵訳『フライリヒラート詩集』 日本評論担 世界古典文庫25 1948年 ②井上正蔵訳「ブルーム哀悼歌j,'目覚めの歌j,'ハンガリーj,11新ライン新聞』 訣別のことばj (井上正蔵11新ライン新聞』車氏上のフライリヒラートの詩」『唯物史観』 第3号 1948年 122~128 ページ) ③井上正蔵訳「目覚めの歌j,,~新ライン新聞』訣別のことばj (井上正蔵編訳『ド イツ解放詩集』河出書房河出文庫1005c 1954年 51~56 ページ) ④井上正蔵訳「詩集『サ・イラ!Jより(,船出j,'氷の宮殿j,'下から上へ!j, 「いかにしてなされるか!j, '自由新聞j,'桂馬j)j (井上正蔵他訳『世界名詩集大成 ⑥ ドイツ編1J平凡社 1960年 395~403 ページ) ⑤井上正蔵訳「下から上へj,'めざめの曲j (井上正蔵訳編『ドイツ名詩選』学生社 1961年 83~91 ページ) 2 フライリヒラートについて害かれた文献 1) 論文・解説 ①井上正蔵「フライリヒラートについてj (1①の『フライリヒラート詩集』解説) ②井上正蔵「フェルディナント・フライリヒラートj (日本独文学会編『ドイツ文学』 第2号 1948年 125~139 ページ) ③井上正蔵「フライリヒラートーーその問題点について一一j

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日本独文学会関東 支部会報 1955-56.J 1957年 36~38 ページ) ④宮野悦義,~死者より生者へ』一一フライリヒラートの裁判事件一一j

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橋論叢』 第73巻第3号 1975年 183~196 ページ) ⑤宮野悦義 rTrotzalledem一一フライリヒラート序説一一j (~一橋論叢』第 93 巻 第 1 号 1985 年 39~54 ページ)

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208 香川大学経済論叢 858 2) 文学事(辞)典・ドイツ文学史等に掲載されたもので比較的詳しいもの ①執筆者不詳「フライリヒラートJ

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研 究 社 世 界 文 学 辞 典 』 研 究 社 1954年) ②[井上正蔵]IフライリヒラートJ (日本独文学会編『ドイツ文学辞典』河出書房 1956年) ③[井上正蔵]IフライリヒラートJ (W新潮世界文学小辞典』新潮社 1966年) ④可知正孝「三月革命の詩人 フライリヒラートJ (高橋徹・可知正孝・丸山昇編『世 界の文学(l)~汐文社 1974年) ⑤[山崎八郎]Iドイツ三月革命の詩人 IIIフライリヒラートJ (岡崎次郎編集代表 『現代マルクス=レーニン主義事典』社会思想社 1981年) 3) 翻訳によるフライリヒラート紹介の文献 ①マルクス/エンゲJレス([小西悟訳

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Iフライリヒラートにたいするマルクスとエ ンゲノレスの関係J(マルクス・エンゲJレス全集刊行委員会『マルクスエエンゲルス 芸 術・文学論③ 文学史 II~ 大月書庖 1975年)これはKarlMarx/Friedrich Engels

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(Dietz Verlag Berlin 1967)の翻訳である。 ②ヴェJレナー・イルベルク (WernerIlberg橋本博訳)Iフエノレディナント・フラ イリヒラートJ (ワイマル友の会東海支部編『ドイツの古典作家 ハンス・ザツクスか らフォンターネまで』第8集 1978年)これはAufbau-Verlagから出版されている青 少年向けドイツ古典文学作品集BibliothekDeutscher Klassikerに収められたフライ リヒラートの一巻本選集の巻頭に添えられた彼の小伝の翻訳である。 ③ハンス=ユノレゲン・ゲーノレツ (Hans-JurgenGeerdts ワイマル友の会訳)Wドイ ツ文学の歴史~ (朝日出版社 )1978 年 399~401 ページ。これは Deutsche

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Berlin.. 2. Aufl.1971の翻訳である。 [付記] 文献2.1)③の入手にあたっては井上繁子さんのお予を煩わせました。この場を借り て謝意を表します。又、フライリヒラートの文献全般にわたって日本独文学会の機関誌 『ドイツ文学』の各号に掲載されている「寄贈文献目録」も参照しました。 [別表2] [別表1]1引①の『フライリヒラート詩集』に訳載された作品の詳細(掲載 順)

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859 日本におけるフライリヒラート - 209-信号rj害Jがのううかい

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iWアンプイトリーテ』号j,i海のはなしj,i砂のうたj,i霧j,i燕のものがたりj, 「沙漠に目をさますものj,i花の復讐j,円高貴な騎士オイゲン公Jj, i森に住む男j, 「海をゆくj,i森でj,iライオン騎行」 f震のあいえよ'j(1849字/か

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「愛しうるかぎり愛せよj,i雑草をつんで」 1f(s"E去の

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ajj β844.t向 か ら 「おはようj,iきちがい病院でj,iシュレージエンの山間より」 fサ・ググljj σ846字ノかろ 「氷の宮殿j,i下から上へj,iいかにしてなされるか」 f潔 対 政 治 在 会 話 楽 第 一 車Jρ84.9$ノか6 「いこいあれj,iシャツの歌j,i黒・赤・金j,iそれだのにj,i死者より生者へ」 '!Jt(f,政 治 密 会 評 薬 第 二 車J 臼851:$)/}, (,: iW新ライン新聞』訣別のことばj,iパンj,iわが子らのためのクリスマスの歌j,i貴 婦人のゆめ」 ゆえ子δ Lい 涼g(1877 j戸ノかδ 「不幸な土地のためにj,i1870年2月」

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Ferdinand Freiligrath, einer der politischen Dichter des Vormarz, ist in Japan auch unter Germanisten nicht gut bekannt oder sie kennen hδchstens nur den N amen des Dichters, obwohl sein N ame in den deutschen Literaturgeschichten in

(18)

210ー 香川大学経済論叢 860

japanischer Sprache schon vor dem Zweiten Weltkrieg angegeben ist. INOUE Shozo, der beruhmteste und erfolgreichste Heine-Ubersetzer in Japan, ubertrug schon wahrend des Krieges Gedichte von Freiligrath ins Japanische und veroffent -lichte si巴1948,bald nach dem Krieg, denn man durfte bis 1945 keine

fortschrittli -chen' und naturlich auch keine sozialistischen oder kommunistischen, oder auch liberalen Bucher erscheinen lassen. Der Gedichtband von Freiligrath in japani -scher Ubersetzung enthalt insgesamt 39 Gedichte aus allen Werken von den

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(V gl Anhang) Die ubersetzten Gedichte wahlte Inoue nicht nur in politischer, sondem auch in asthetischer Hinsicht aus N acheinander veroffent1ichte Inoue in einer sozialistischen Zeits -chrift und in Anthologien deutscher Lyrik Ubersetzungen der politischen und sozialen Gedichte Freiligraths Dabei wahlte er immer wieder besonders die Werke, die der Dichter in der

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veroffentlichte, und den kleinen, aber wichtigen Gedichtband

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fur diese Anthologien aus. Hier kann man auch absehen, wie Inoue Freiligrath sah.

Inoue Shozo, der einzige japanische Ubersetzer von Freiligrath, schrieb auch als erster in Japan uber das Leben und Werk desDichters.. Sein Nachwort zu dem ubertragene Gedichtband von 1948 ist die erste und ausfuhrlichste Biographie Freiligraths Im Mittelpunkt seiner Darstellung steht die Ansicht, Freiligrath sei zuerst als‘revolutionarer' Dichter wichtig, der im Vormarz und wahrend der Marzrevolution einfluβreiche, soziale und politische Gedichte wie

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arbeitete. Aber bemerkenswert ist es auch, daβInoue in Freiligrath eine romantische Tradition als wichtiges Moment sieht Inoue nennt das eine

revolutionare Romantik', mit der aus dem romantischen ein politischer Dichter wurde Inoue schrieb noch zwei Aufsatze uber Freiligrath. Der eine von

(19)

-861 日本におけるフライリヒラート 211

-santen Hinweise fur die Freiligrath-Forschung, z.. B Grunde fur den unentwick -elten Realismus der deutschen Literatur infolge der unvollendeten, gescheiterten Revolution bei Freiligrath, die Entwicklung der Romantik bei ihm zu erforschen Auβer Inoue behandelte nur MIY ANO Etsugi den Dichter. Miyano schrieb zum einen uber den Prozes um

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1, wobei die Einflusse des schottis

-chen Dichter Robert Burns und Freiligraths Ubersetzungen der englischen Gedich -te betont wurden

Ubersetzungen von Ferdinand Freiligrath und Aufsatze uber ihn in Japan sind selten, wie man aus dem Anhang ersehen kann, obwohl Inoue schon bald nach dem Krieg Freiligraths Gedichte und Aufsatze uber ihn verδffentlichte und die Bedeutung des Dichters betonte. Schon seit Mitte der 60er Jahre schrieb und ubersetzte Inoue selbst nicht mehr. Danach erschienen nur zwei Abhandlungen von Miyano W oher kommt das ? Wegen der‘politischen' Gedichte, oder wegen Freiligraths Beziehung zu Marx ? Oder deswegen, weil Heine, der grδβte Dichter des Vormarz, Freiligrath und andere Dichter stark kritisierte? Die japanische Germanistik behandelte eigentlich wenige V ormarzdichter auser Heine und Buchner. Haben wir dann keine Lucken, wenn wir die Literaturgeschichte im deutschen V or-und N achmarz beschreiben wollen?

Literatur zu Ferdinand Freiligrath im Japanischen

1. Ubersetzungen von Freiligraths Werken

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in: INOUE Shozo (Hrsg. u. Ubers) : “Shin-rain-shimbun" shijoo no Furairihiraato no shi [Freiligraths Gedichte in der

(20)

- 212- 香川!大学経済論議 862

“Neuen Rheinischen ZeitungJ in: Yuibutsu Shikan [Historischer MaterialismusJ Tokio.. Vo1 3 1948 S. 122-128

③INOUE Shozo (Ubers): Mezame必 no-uta [Rebeille], "Shin-rain-shimbun"

-ketsubetsu no ko妙 。[Abschiedswortder Neuen Rheinischen Zeilung] in: INOUE Shozo (Hrsg.. u.. ubers.): Doitsu Kaihou Shishuu [Die Anthologi引edeutscher Freiheits

-lyrik].. Tokio (Kawade Shobou) 1954.. S.. 51-56

@)INOUE Shozo (Ubers..): Shishuu "Sa ira .''' yoη [Aus dem Gedichtband“Ca ira.'''J(Funade [Vor der FahrtJ, Koori no kyuuden [Eis仰lastJ, Shita kara ue e 1

[Von unten auf /], Ika ni shite nωareru ka.' [Wie man 's macht 1],

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yuu Shim -bun [Freie PresseJ, Keima [5]

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ringer]J in: INOUE Shozo (Hrsg. u Ubers.): Sekai Meishishuu Taisei [Lyrische Meisterwerke der WeltlileraturJ Band 6. くDeutsch・

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Tokio (Heibonsha) 1960. S.. 395-403.

⑤INOUE Shozo (Ubers): Mezame-no-uta [RebeilleJ, Shila kara ue e.' [Von unten auf

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in: INOUE Shozo (Hrsg u. ubers..): Doitsu Meishisen [Meisterwerke der deutschen Lyrik

1

Tokio (Gakuseisha). 196L S.. 83-91

2. Aufsatze uber Ferdinand Freiligrath 1) Abhandlungen

①INOUE Shozo: Frairihiraato niお似た [UberFreiligrath J.. (I'匂chwortzum Gedichtband 1①)

②INOUE Shozo: Ferudinanto Frairihiraato [Ferdi仰 nd FreiligrathJ in

くDoitsuBungaku> [Die deutsche LiteraturJリ V01 2 Tokio. 1948れS“125-139

③INOUE Shozo: Frairihi

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ωto -sono mondaiten ni tsuile -[Zu den Problemen um FreiligrathJ in: Nihon Dokubun Gakkai Kantou Shibu Kaihou 1955-56 [Berichte des Kantou-Zweigs der

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anischen Gesselschaft fur Germanistik 1955 -56J 1957 Tokio.. S.. 36-38

④MIYANO Etsugi: "Shisha yori seija e" -Frairihiraato no saiban fiken

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Aufbau-Verlag Berlin und Weimar

③(Ubers v.. Freunde von Weimar, 1978) Hans-Jurgen Geerdts (Hrsg,):

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②(Ubersv.HASHIMOTO

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- 214 香川大学経済論叢 864

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Volk und Wissen Verlag Berlin.. 2.. Aufl 1971

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Die Gedichte

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