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国風は御代々々のをしへにして、 奮慣はあがた/¥ ー のならは しにぞ有 け る 。 そ のならはしによりて、御代々々のぞしへは知らるべく、御代々々 のを しへによ りて、人の心もすなほに、御閣のてぶりも定まれるなり。別ても、世のならは し の .久しく行はれしは、 いづれも、おのづからなる世の淘汰によりて‘残れ る所なれば、後の世の資三もならむ事の多かるは、今さらに奉つらふべくもあ らすなん。そのひとつぞいはは、この月の去ぬる十九日の夜、書香曾とい P J に ゆきけるに、七種の粥を一ツ所のひとに出しけり。此七種の式は,替藩の頃ま では‘家々に行はれたる年中行事の一なりしに、今の御代となりでは、老たる 人さへ、風拘束なきさまなれば、男女のをしへ子などは. いふも更なり、 おのれその草をそろへて.盆の中にいけて、訪くる人々に見せつ晶、 一傑の物がたり しけるに、皆人あたらしき事になむいふめるもうべなり o 物の新らしき隙き. 古今によりて分かる h 者にもあらじかし。今の物三
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も.ゃくにたたぬは、七 たちにふりぬへく寸古の物とても、ゃくにたちぬるは、ととしへにあたらしか るへく、まして、風俗習慣は‘御代々々の敬の‘ならはしともなれる者にしあ れは、今の御世にも、ふりおこして、いかに新らしく珍らしがらる h 事の多か らん、此書を見てたにも知られぬへし。さりともしらで、今の世の人の心なき、 古今をもて事の新しきふるきを分ち‘あにらしきふるきを分ちて、物の有用無 盆を分・にす、明治以前の事三しいへは、そらふく風か、老人の縫物がたりとき 暗 唱 刑 制 マ 咽 品 叩 1 l l臥 : I i t u A 匂 H H h s ながし、今の物としいへは.けふのあとや玉は、あすのかはら石さなるもの 一日も快くへからざる養とも繋ともなる七 を、ひたすら玩ひて、おのか身に、 種の名をだにも知ら歩、あたら.かしとき古への敬の日にきえうせて、そのな らはしの月にくだちゅくを、いたくうれたみて、 A 1 の世に書停へや Jんは、悔の 八千度.かへす日あらじと、筆まめやかに物し給へるは、主垣の氏家ぬしの、 此書には有ける。ひと夜とひ来て、 一と言をと、うたがされ大る仁、布の物語 して蹄られし後に見れは、はやくも正月七日の傑に、つはらに書載せ給ひぬる、 此一例をもても、その他は推して知 h v ねへく、そのうれしさの飴りに、くだ /¥h しく書付けにゐは、ねは玉の黒も三のうゑ。時は昭和三とせの春、きさらぎのあさの三日なりけり 。 f~
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序
金津ニ於クル古来ノ否習慣例ノ日ヲ逐テ消滅シ行 ク ハ賢ニ慨嘆ノ至リニ不堪也。仰奮習慣 例ナルモノハ其土地ノ活歴史ニシア之ニ因リテ往昔ノ事蹟テ温‘て此-一縁リテ其民情ヲ '筑 知スルラ 得ルナリ。然ル ニ今ヤ古老ハ涯キ 奮詑ハ散逸シ慣習ハ失ハレ 濯 -一 其 事蹟民情テ永 建一一溜筏セシメンハ痛惜ノ極ナリ。 今 ニ シ テ 此 等 ア 調 査 シ 置 カ ズ ン パ 怖 ユ ル モ 亦 及 パ ザ ル也。往事花遡タリ、且史乗ノ稽徴スベキモノ砂シo唯巷間ノ桁 開 設 、 古老ノ閑話-一因リ其 ノ 一郎テ覗ヒ得ルノ i ニシア未ダ全豹テ設ス能ハザルヲ法憾トスo旦マタ我素ヨ リ浅 製 募 間随-ア幾多疎漏杜 撰 ノ貼ア ラン。然レ ド モ 之 レ 一 操リテ諸君幸 - 一 奮慣ヲ知ル津梁ノ一助タ - フ パ 著 者室外ノ欣ピナリ。 昭 和 七 年 壬 申 春 日 ヨ民 日村
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季 節 月 臼 ノ、 総 4 プ 陰 暦 ﹃ プ 用 二L 一 、 此 編 明 治 四 十 同 制 ク 脱 稿 ヒ 四 年 稿 Jレ モ 素 ヨ 一 、 此 編 専 ラ 奮 薄 時 代 メ ン ス 故 卜 ト ス 一 、 本 書 編 著 言 テ 給 ハ ー リ テ 超 シ 年 テ 関 リ 不 備 逸 漏 ノ 事 多 ノ 習 慣 ヲ 子 孫 文 飾 修 僻 山 首 リ 畏 友 - 一 重 キ テ 置 カ 二ノ p f じ u 睦 工 k f f ノ 再 利 jJ ン〆 コ ト テ 多 謝 ス ス 日ム 日ロ ユ/ ノレキ
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1I 小鳥狩│夜 興遺 l 烏指 l 古 代 納 l 鮎釣│鰍什曾l
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- 一 昌 我住む郷土金樺市は北日本なる北陸遁の一大都邑で.維新前は勿論明治初年までは三都 に毘ぐ都市であったが、時勢の愛護や気候交通の関係から褒達遅れ迭に名古屋其他の都市 に落伍するに至った。然し猫もと三都に亜 げる大都 市の悌は依然として存布するのみか、 税近産 業民 力の護法駿々たるものが あ っ て 漸次哲位ぞ 挽回するの域に準みつ h ある。今此 大都市の 奮 輪郭を誌すにや 回 り 先 づ 第 一 一 若 に 、 その克も符援の関係ある祉曾の組織賦態 と 人 情 の 概 略 を ⋮ 辺 ヅ 、更に慣習に及ぼさんとするものである o 金俸は加賀、能登、越中一 二 園の大守前回 侯提 封 百寓石 治城 の 地で、藩組高徳公以来歴代 君主仁慈を施し民を撫愛すること久しく、且特に産業ぞ奨励し閣利を興し民一服ぞ進めに。 く 1) そ の徳化が寒村僻阪に普及したので治卒三百年、封強安率、 四民その 一 息 倖 ル -仰 が ざ る な きJ
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l i -封内は山川抑制.動植魚介充備して海を葉、 山を鋳るの利、 五穀豊能果禾飴p
あり敢 て ( 2 ) に至った。 他地方の供給を仰が す し て 百貨が 充足しに 。従って寓民盤仰木 、 所謂途に落ち七るを拾はす '~~~:守 古代鎖さやノして時り悠々三百年間の泰卒を謡歌し来七のであつに。 山水秀選の気を享けて民情は温厚、 風俗は淳朴に恭倹節義を重んじ英敏忍耐に富み J 分 を守 h v て才能に誇らす勇気臆略あれども粗暴なム歩、謙一識 人と宇は す して克く自らを翰晦 す る 。 従って一面準取の気に乏しく退嬰的な憾は あ る が . 人に接する極めて親切で軽議、 騎慢、悩怠、 野部の風なく所謂衣食足って躍的治識るの瓶だある o 男女共気宇は高街温和 に容姿は閑雅に、殊に女子は美人系に属して端麗、清艶、温良、 貞淑である。武
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武家即ち士分には種々の格式、直分、 名締があるが概別して八家、 人 持 、 寄合 、 平 ゴ: と する o新
番 平士の中に新番といふのがあって之は五代松梧一首公の創始にか h り、卒士の子 弟中から一謹一能に達する俊簡を抜擢し新地を給奥するもので、 士の尤も名容とする底で あ る 。 その俸践は六十依三斗に限られ一代切りの制であるが、嫡子にして父の m筑後家督ぞ。
嗣ぐ あり 、 或 は二男以下にして新 番より 進 ん で別に世襲 の一家を興 すものもあった。元来 昌平の代に嫡子で友くしてむ可能のため抜擢ふ乏家り一家ぞ興すは、 その知行俸功仰の高下に閥 せす士の 4んも柴容とした鹿であるから、士家の次男以下はこの光栄を携はんと文武二遁に 出精したも のである。職
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七分所謂御目見特直参は時々増減あるも天保四年七月調、べによると千四百七 十四人で之を知行別にすると高石以上十二人、千石以上百六十二人、九百九十九石まで千 二 百 人で之 ぞ絡に別って諸大夫八人 、 人 持六十四人、寄合十 四 家 、 ミト忽 Ha ﹁L 畳一組二十五人 , / H N J 車百五十石以上 応一組組十二世一組五十以定 番馬廻 八組 百 五 十 石ι
一組二十人組外馬廻凹且人員で以上は務主に直隷 百 五 十 石 山 込i
不定 す る 。 レ U 唱 団 一・ -H HF E M Z H ハ 定番馬迎、 組外や三品の士と 崎 へ た 。 此外に御 徒組 、 興 力 、 同心. 二 十 人 組 侃 経 一 利恥竺は手木組、 足 軽 組 、 小者側代性 く3 )3 崎 11 純一世廿首相場者、豪所者、其他暁読 の 坊 主、皆士、細工入、 石伐等多々名総 く4 ) 給 入 、 穴 生 、 があり足軽組には大組、中組 、 先手組、割揚組の別がある o えフ 隊 制と組織 除制は先手八組 . 人持七組 、 馬廻十二組 、 定番馬廻入組、組外馬廻四組 大小将組六組、表小勝、大組足軽 三 組、中組足軽七組、先手組足軽二十一組.制揚附足軽 五十組、留守居足一般三組.新番組、赤組、定番附同心問組よりなるもので、その組織は次 の 先・遁 手・り 組 ・ で あ る 俗に七手組といふ 。所諸人家 入人組 の頭 で士大勝である 0 ・ 内七家は先鋒三なり 人・家 持 ・ は 組 ・ 城 代 F !
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ち 留 守 居 の イ 壬 就。
じ 畳 、 , e 喝 凡 一一組宛先手除に配嵐し人員は知行高により一定せぬ。 馬・ 廻・ 組・ 出且 一組三十五騎乃至五十騎で内に番頭、使役各一人あり大絡を護衛する 直 定 ・ 参 番 ・ で 馬 ・ あ 廻・る O 八組. 一組二十人よりなる。定番頭四人で二組宛を支配 し 城代 K 附 し て留守 居を諮るのである。‘
k 組外馬廻 四 組 、 一 組に番 頭二 人、組員は不定で一定の職掌なく時宜に肱じ馬廻叉定番 馬 廻 の列に加はる。 大・表・1
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j ¥ 専・持-組・ 番頭 、 横目各二人で組員は不定、近侍の士である。 六 組 、 一組ニサ五人内番頭、横目各一人で近侍の士である。 大・ 組.・ 一 一 組 即 七 餓 砲 三 臨 時 、 一 隊につき大組 長 一 人、胤︿力五人、小頭十人 、 手替十 人 、足 軽 中・五五
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十 人 O 七組即七隊、弓 一 一 一 隊 、 銭 砲四隊 、 毎除につき隊長一人ハ持弓筒頭と稽す)血(力三人 、 一に持弓足軽組といふ。 小頭六人、手替六人、足軽三十人で底本を 諮るも の 、 先手組 二十一組即二十一除、 一名制か 椀 o 内弓 七 除 、 餓 砲 十 四 玲 隊 長 一 入 管 弓 一 隊、鍛砲二除を率ゐ特除奥力二人、 手替二人 、 足軽 二 十人で先手隊に 附 属す 小頭 二 人 ‘ る 。 以上大組、中隊 . 先手組三十一隊兵員約千人である。 割揚附足磁 く5) 弓八組、筒四十一組、 一 組 に小頭 二 人足軽二十二人よりなり馬廻組に分印刷留守 居足軽 三 組 、 一組頭一入、興力一人、足軽三十人で内弓十入、餓砲二十人よわな ( 6 ) す る 。 る O -C 川 払 汁 口 比 坤耳今令匂耳 人 員 不定で人持以下 士分の子弟の武技に熟練せゐものや 以て組 織 し 頭 二 人、小 頭 歩・四 組 ・ 入 居 置 き 近 侍 護 衡 の :士 す る 一 組 三 十人外に小 頭 二 人 、 頭 一 人 で俗に六 組御 歩と呼び 他 の 4 4 と 毘 別して ゐ る 。 e 歩兵で大摘みぞ守護し貝、太鼓 、 錯を掌り又水練飛脚等ぞ勤む。 定番附同心 門 U 4 口 u u
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円 μ 立 山 叫 一組に小頭一人.輿力一人.弓五 人 、 筒九 人である 。 以上で編成 さ る h 兵員総勢約五一時内足腰 約 六千徐人 T 馬 廻組及割揚附足軽は平素 城 門 の 野 街 に 任 ふ す る も の で あ る 。 向 滞 内要所加 賀 の内では阿手、木滑、河原山、別 宮 、越中では今石動、魚 津 、 猪谷 、 境 の各地に足 軽及典 カを在住せし め 小 松には 城 代 及馬迎 、 興力 、 足離を 、 今石動 、魚津には 印 刷 廻 を 一 牛 時 布 佐 せ し め 非常め際には阿手 、 河原山、木滑、猪谷 、 境へ人持組ぞ 仮遣す る こ とになって ゐる。ハ能登方商は略す) 此 外に舟手足軽 七 十 傑 人 がゐる。之を舟手組三祷へ舟手頭を置き て沿海 を警備せ し めK
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. -軍役 で は 知行一高石に針 し兵 員二百五十人、馬上侍二十二騎 、 人 夫百三 十人、口取三十 人乗馬二十二 頭 、夫 馬 三 十頭ぞ課す る 定 で 人 夫口取に は農家を徴褒した 。市
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儲 て 武 家 は知行八十石組外以上 を士分 さし所謂御目見絡でその下に御歩、血( 力、足 種 .小 者がゐる。知行は士分井に御歩 、 輿 力 に は知行 所 を、その他は 鹿 米 や 給輿し た。その知行何石と稿するは草高であってそ の 管 額は百石につき八十俵即四-十石である。 何人扶持又は何依と精して 箆 米で給血 ( さ る h ものはそ の 震 額で る る 。 知行所は加 賀 、 ⋮ 協 賛、越中に分ちその割合は百石より 九 百 九十九石まで 三 分 の 一 加 賀 、 三 分 の二能査越中で千石は三百石加 賀 、 七 百石能登越中 で千石以上は総て四分の一加 賀 、 四分 の三越中能査である。但し長家は能登、青山静殴家は越中魚津 で悉く賜給され る と と に なってゐるのが例で之には趣意の存する底があった 。 一般の知行所は大概百四十石迄は く7) 逮 所 ( 越 中 能 援 ぞ い ふ 、 以 下 倣 之 ) 一 一 箇 所 、 百 五 十石以上は蓮所百石の内五十石宛二箇 所 に!l! ー
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-て宛行はれ二百石位まで同 様 であるが、それ以上は石高に従ひ三箇所、四箇所に訓り嘗て く8) たものである o 知行所は土地 人 民 と共に 領有 し た も の で あるが 、 その知行所 即 采 地に於 け る 貢米や政務 に関しては大に他 藩 と異るもの が b る o 古来 他藩では 重臣其 他 に 采地を拠へその領民を管 理せし むろも の 多 く 、 従って同藩内と雌も租税に厚簿あり政刑に異同ありて 、 往 々 治務に 統一を快くの憾みがあるが濁り加賀藩は藩組以来老臣より卒 士 に 至るまで 、株 高に感じ宋 地を給せ ら る h ととは前惑の如く 他 藩 に異ると乙ろ な きも、地 頭 は秋放 の 時 貢米をその m m 民より受領するに止まってゐて 、 諸般の政務は総て藩公制令の下に統括 し て 奉 行 の 管理 に 麗 し 、 宋地主にる地頭は曾て之に関係する を得ざら しめ以て 諸士の私 に戚 を領民 に行 ふ や 製肘せしめ丈 o 因に割揚附足軽小者などは蔽と栴へ寅り買ひか-許されたるも・その買手は 費手の名跡及菩提寺を相讃せざるぞ得ぎるとと t A な っ て ゐ た o 右知行所の 貢 米は蔵 宿 と稀する職 業 の 者が政納保 管する の で あ る 。札差叉は蔵宿業
領 地 の百姓がとの蔵宿 へ 領 主 に 劃 す る 牧納米 そ持参す る と、減宿 は其の精粗を検し上米を 選ぴ且つ一々舛目を検めて之を受取り、自己所有の裁に格納するのである。武士は年中 の 食料米 を激 測して之や控 除 し残部は誠宿の手で 費却 、 金 銭 に代へて上納せしめるのであ る。蔵宿業は一に札 差 三 稽 し 奮幕 時代、江戸.水戸其他の一二筒所の藩にもあったも の で 、 武士の鵡米や牧納保管叉寅却して口銭を取 る 職 業 で ある。彼等 は 金揮 に 最も 多く其他三州 内植裂 の各市邑 に 居住 し て ゐ て )平素番頭.手代等多 数 の傭 人 を使用 し出 入り 各 屋敷の務 測 せ る 一年分の飯米を預め 置き 、其 の 飴 分は時々の相揚により 屋敷の許可 を得て 寅 却する こと前述の遁りで あ るが.叉現米ならぬ青田にて 費 却すると三もあった。古来七月一日を 半納三いひ老職奥村家(一寓入千石)では家例として五十石の青旧を 賓 却することになって ゐた。藩政時代には此時初めて市場青旧の相場が立った と い ふ と と で あ る 。 件 の減宿業以米穀の一貫却手数料及預米の減敷料ぞ所得 ' と す る も の で ‘ 金津 に 居住 の 業 者 は片町の津幡 屋 .今町 の石浦屋、下堤 町 の 一 縄文、材木 町 の卒野屋 、楼問 屋 、 河原町の松任 屋 、南町 の大野屋 、下 堤 町 の 一 柳野屋、袋 町 の 鍋 屋 、 百 々女木町の能代屋、石浦町の石浦屋 ( 9 ) 森下町の拍 屋等 で あ っ た 。民米は稼のい臨ん材に現米で蹴せらる h h のである。金穫でその鹿倉のある所 ぞ堂形さいひ一は炭坂通り現時の警察署より鯨腐の裏手後方の地にあって、今向奮時の米
堂形前の稿
( 10 ) 倉が存在する o 因って廃坂遁・りの沓名を堂形前と栴し亡。今一は尻垂坂通りにあって新堂 形と絡し現時裁判所官合及電気軌道株式曾祉の地の一廓がそれである。此の電気軌蓮曾祉 車庫前遁り、尻垂坂通り、胡桃町一辿 hり間の民家の地約一町四方は堂形札げで、雑草叢生せ る中に縦横道路が通じてゐ亡のである。昭和六年十一月伐採せられたがその常時まで・亭々 天を摩す老松樹は正にその米械の所在地にあったのである。堂形の稀は昔此底に京都三十 三間堂に倣ひ数矢の的場があり.藩士が遁し矢の稽古ぞしたのに因るもので米城さなって 後も猫奮名を襲踏してゐたもので . b る 。際語料と扶持
武士が致仕すると隠居料として平士は十人扶持(頭分は二十人扶持)人 持組は百石以上五百石を別に給拠された 。 一 人扶持三い ふ の は男子は一日米五合、女は同 一 一 一 合 宛 で即ち十人扶持は男 子一日米五舛 で ある。彼の皆 師、足程、小者等に給せらる h 扶 持も之と亦同様であるoへ囚に金爆の士分悉く石高知行であるのに、濁り伊勢氏に限り古.
来百人扶持を給せらる h には何か故ある﹃ d とであらう) 但し隠居扶持は功持者に特に下絵 せられにもの で あ る 。武家の稽呼と側室
御上と栴してゐた 。然しそ の各人の名橋は践の高下に図って異るが凡そ次の通りであ る 。 武士に劃して農工商其他は御屋敷と呼び叉使役の家来牌僕等は 人 持 f丑 五六百石以上 それ以下 ( 主 人 ) 殿 御 表 臼 那 ( 嫡 子 ) 若殿叉は若 若 旦 那 問 ハ 家 室 ) 但し各級とも二三男以下はその名を呼び待遇も大に下る o オ V v 、 へI
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待 ・ J 町 即 奥 方 奥 同 才 η t 新嫁ぞ御一新造といひ側室上りを部屋と呼ぶ、叉足離の妻女に限って御一仰と栴しに。 ( 女 ) 嬢 郎 同 武家の惣領即嫡子にし て 部 屋住中は王室守安らすその多くは安を置く習慣 と な っ て ゐ 七。その 妥 に二種あり は年期奉公で常任し一は遁ひと稀して月何回と定めて来泊するの く11 )である。その主人が家督を相続し家長となり正室を迎ふると般を遺るのであるが、爾来一 く12) 般出入人として終主来 訪 を許されてゐ大。叉其の 妾 にして性 質善良な るか叉は深く主人の 意 に 遁 ふ か 、 或は其 他 の事情 によ り正妻を迎へや J して、此 妾を その億家室に上せる時は之 を部屋 と 栴 し 、 そ の 待 、 識は 全然正妻同様であるが地位は然ら守 し て 、 親類知己を首め僕 粋 に至るま でもお部 屋様 と栴して決して奥 様とは 呼 ば な い 。 一 生 奉 公 人 の資精舎 以 て 終 る 。 例へ世嗣宇佐儲けても正室の地位は穫られないのである o そ の武家気質と家庭の厳格想ふべ き で あ る 。世に倍老同穴と栴して残すると 夫婦墓 所を共にするも此の部 屋 は死するも主人 三 一 墳墓ぞ同じうするを得ない定めである。 武家に於ける嫡子と二三男とは其親子聞の愛情に敢て異る ' r こ ろ なき も 、待遇 は公私 三 も大に異るのである。嫡子は若様又は若旦那と呼ばれて主 人同 様 の待遇 武家の二三男 みそ受けるが、二三男は一般よりその名を呼ばれ我 家 の牌僕にすら、動もすれば極侮冷遇の 目ぞ向けられたものである。嫡子は大身は勿論小身の平士と臨も俗 に 袴坊 さ 稀 し 、 若き 近 侍の者一二名常に遁隠して梢導の任に営るのである。故に二三男たるもの大に奮働一番、 ;
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名聾の褒揚に島めなくてはならない。弦に於てか文武の遁に出精し迎へられて他の養嗣子 とな るあり或は家職を割き て 分 家するあり、就中一饗一 能 に 練建するもの は特に抜擢新知 を給せられて 一 家 を 起すなどは藩時の人材登 庸怯 として唯一のものであり、最も武門の柴 血管とする慮であった。然るに二三男にして凡 席議 劣、分家もされ す 、 一家も立て得ざる輩 は、縫に父兄の扶持を受けて妾などを置き、 一 生 日 蔭 者とな り て 他 の 軽 規を受け様々とし て 酔 生夢死に至るのであった。元来武家には定紋の外に替紋があって 、定紋は主人と嫡 子 に 限 り 之 宇 佐 用 ひ る が 二 三男及婦女子家族は替紋を朋 ひたもので斯うした貼にまで差別的待 過を受け仁ので あ る o 武士の第宅 武士の第宅は紘一品に昨応じて大小がある。邸地は百石につき百五 十昨や給 せられ以上そ の 比 率 ・ を以て増加さる h が 、 その構築大 小 に 一定の規準がある o 今 その大鉢 を 述 ぶれば邸地は必す土叩析を以て直剖園競し、門(人持以上は裏 門 や 設 く ﹀ 長屋 、物見身設 け る o 門 内 に 塀重 門があり式 牽 前には 敷 石 が あ る 。 これを鏡石と栴へ来訪者は此の敷石を く13) 歩むには、強め従僕に撹帯せしむる大白緒の車 ・ 履に履き代へて 上り進むのである 。 此 草履l
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ー 1'1 第宅には成狭大小があるが普通には式牽(玄関三もいふ)中式蓋、使者の問、次の間、表 ( 14) 〆 を 持 草 履 三 い ひ 雨 管 一 一 の 時 と 雌 も 同 様 で あ る 。 座敷、常座敷、康問、書 E 掛川.茶室(固ともいふ)、賞主居間、嫡子居間 、 妻家居間 、納戸の 問、化粧の問、蓋子の問、茶の間、次の間.牽所、湯殿、物輩、隠居所.客便所、上便所‘ 女中部 屋 .下位所、用人部 屋 .若篤部屋等があり下男部 屋は 門側の長 屋にあ るが勝浦 多け れば之に準じて間数も殖ゑ輪換も宏批となる o 足軽及其他組小者の邸地は、卒者は五十坪 小頭は七十坪の割で給せられ土 塀ぞ繰らさ今 して高さ約七尺の杉又は俸の織を絞らしたの は中々に縦趣がある o 門戸はあるが ・ 長屋も式憂もない。 武士の邸地内露地には築山泉水の庭作り を なす外、四時の花升を首め各種果樹を栽相す る。千石以上の士分に至れば卒士と雌も邸内に調馬場の設備がある。 足軽小者の将輩にな る三僅かの邸内に花升果樹ぞ植ゑるくらゐの程度に止まってゐた。 昇平年久しく上下安逸に馴れ殊に 百 高石(質牧約三百高石)提封の大は、武士の家職に潤 津なるものありて各自生計に徐裕を生じその飴慶の商工に及ぶこさ亦多大であった。され ば武家にるりではその表 撃 たる文武二道に洋助せ る ことは 云 は ・?もがなであるが、公務の 飴 暇には謡曲、抹茶、生花、 香 道 、 闘 碁 .歌俳 対等を噌むもの多く 、 特 に 説 的 、 抹茶、生 花は凡そ士人にしてそ の 心得のなき者なく、就中 説 的 は 閉 品 川 代 藩 主 が 好んで奨励せるととろ とて一般に流行し、 , 之に亜ぐを抹茶とする。 男子は平素午前は各種の武技ぞ練磨し午後は読書、手習.文阜の稽古を日諜とし亡。高 松の士にありで は吃等の 仰 を自邸に時 して敬 授を受くるもあり 、 或 は我が 家士 巾より 選 ん で師侍とするもあったが 一 般 士 人は各師範 家の門に就 いて修行した 。 その際家伎の随行す るせぬは一定しない。尚以上の外に時々 川 狩 山 脳 慨 を な し て 身体の鍛錬に努 め た 。 婦女は抹茶.生花、 香道 . 琴曲、細工物を柄自得した。その細工物三 橋 するのは所謂 抑給 で あ る が 、 他地方では職業者の外とれや普 くするものがなかったの ℃ある。然るに濁り金 揮の子女は武家町家ともその拡精巧ぞ極めた。悲し藩主成式に流行せしより体捕したもの と郁せられるが、近時頗る衰べて穏に飴附を存するに過ぎ在い。之はその技塾ω
高維繊諾 にして時間を要するとさ多く生産的でないためで るらう。其 他裁縫. 事 文 、 手習を初め各 ( 15 )I
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遜 襲 。 必 修 め に が 、 手習は師の手本を受け家庭で習ひ隔日に師の許へ停書を提して修正を受 く16 ) けたハ寺子屋の傑参照)。茶、花、香、琴等はその師匠を勝一して練習し裁縫、細工物.調理、 家事等は家庭で母妨より受けたが叉中には武技を敬授した向もある。要するに武家の家庭 は日常悠々閑々たるもので現時とは全く隔世の感がある。服装と髪飾
女子は老若卒素でも着衣は長街 ハ 絹 ー 木綿とも)を引摺ったもので髪は年 齢によって児髭、桃割、高島田、片外し、惣輸等に結び未亡人は髪そ切って茶答一に結うた。 衣服地の絹その他特別品の外木綿は家庭で紡績し染総として機で織ったものである o 武家は自宅で浴湯し町の銭湯へは行かない。但し二三男及川什僕の類は例外である。結髪 月代は家僕か侍女になきしめるが別に町家の髪結職を呼ぶとともある。 姉女子は毎朝上下の手水 t q 行ひ身鉢を清潔にして後 化粧する o この手水を行ふを牌女類 の馴れない間は兎角面倒がったといふ。行装と身柄
定があった。そして行装にも本供と略供がある。本供は式日、略供は卒日で小椋の者でも 武家は誌の大小、 身分の高下、勤役の種類により行装供廻りに各異る制 若 議 、 ↑僕、鎗持各一人を伴ふのである o 叉小践でも役柄重き時は馬をも飼ひ相営の供入金 も要するoそれかム武士は私用外出と雄も叉小縁者と雄も必今一僕は従へたものである。 式日には一定灯式服あり平素も勤務ι
は上下紋服を着した。私用には冠婚葬祭、その事柄 により服 装を異にするが何れも上下紋服ぞ用ゐ平素は遁服、羽織を着け必?袴を穿つので ある。袴は自宅内にあっても居常とれぞ着け一刀は自庭内に立出づるにも必歩帯び、隠居 は上下の代用に十徳を着たものである。羽織は現時略躍装の如く用ゐられるが駕藩時は塗 中 の 塵除 として使用せられた もので現時女子は躍装にとれを着るが昔は未亡人ならでは著 用しなかったのである。 武家の男女とも夜中の往来には 僕を して下 く17) 悶 の 如き箱提灯を携帯せしめたもので.決し て他の提灯は同ゐな かった。彼の弓 張提灯は 僕牌をし℃使左どに外出せしめるさきに限つ たものである。E -' '1 1 1l
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l j 士分以上の者は小繰と雌も家来として若政一、 僕 二、門番一、女は下女一乃至二、裁縫 女一は必ら す義ふべきもの で向時 宜 に よ り子守 女、乳母を要する。此等に譜代ご年間奉公 く 18) とがあるこ とは家々の格によるものである o 人持は知 行高三その格式上幾多の家臣ぞ扶持する o 三千石 川 以 上 は下屋敷 ぞ 一 節所或は数 館所に拝領し、比 底を家 来 の 邸 地とι
て 何 々 家家中と 稿し ・に 。 そ の 三 千石未満の人持は下 屋敷がないので、家庄は城下各所に邸地を給せられ其庇に居住してゐた。 人持外高絡の卒 士は(約千石より三千 石 ま で ) 給 人と栴する 譜代の 家来を扶持した。とれは藩主の許可を受 けて召抱へ七もので、人数に制限あり凡そ千石に四人位の割でその家臣は 全然俗臣であ る。又四 五百石以上の家 に は 則人と栴す る家士を扶 持する。印私 家宰 で勝手方の州向必専 ら勤めにもので俗に味噌摺川人と栴した。 若議はその家の士分であって平素袴ぞ穿ち一刀そ帯し式筆 4併をする。主人の外 出には上 下を若し雨刀を帯して匿従する。下女下男よ り若 慌を呼ぶには様附にし て敬意を抑はれて ゐた。そして雨天には青色の合羽や着し叉 図のやう な足の牢位に蓬する足中と栴する白緒 薬草履を穿ったものである o 下男家僕は長 屋 に住ひ門の開閉守護及邸の 内外掃除 を な し 、 主人外出には鎗又は狭泊を捲ひ一隅草履を持ち銑で従ひ 雨天には赤合調を着 ける。務士一般下男は赤合羽の制であるが 濁 り老 職 本多家に限り青色合羽仰 を着けしむるととになってゐた。 尚 一 味 馬 ぞ 飼 ふ 家 には馬丁を使川した が之を別賞と稲へる。 主従の情誼 武 家 に召仕 ふ 女中 は 口 入 業の間 政と出入り人の紹介と の 二様がある o そ の 種 類は山 村漁 u巴 の女子もあれば 、町 屋の女子で 行儀 作法見習 の亡の特 に武家 奉公をなすものもある c 武家では之を奥仕 、 次 、 仲、針、水仕等に直別して召使ひ 一 般に通り名ぞ以て呼ぶ o 惣じて刀口仕には温情を以て愛 撫する の で 奉公 人も亦誠忠を悲して仕へ、 そ の 情 誼 全く水魚 の如くで 賂来の嫁変縁組まで も世話を焼いて や る o そ の 場 合 は 勿論 、嫁入縁組 のため暇を 乞ふ場合でも、主家では之に 要する 衣類 剥度一切 を 給興するの を常とする o きれば 刀 口 仕 も 亦 フ て の 温情 e竺 徳として終生主 く19) 家へ出入りし四時一音聞を通じて和衷親服すること 、 到底現時の主人劃震傭人の関係に見る平素武家を 事客とする魚屋 、 八 百 屋 、呉服商等 の 商 人は勿論 嘗て奉公せる僕 牌其他縁故 く20) ぞ得ざる濃かな情誼を-存してゐに。 を 以て出 入せるものを 稽して出入 り者三 都 す る o そして吉凶慶弔等 には之等を招呼して 寛 待し、集 者
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は 時限 ぞ 給し 随 時物品 を興ふる 償例 が あ る 。 出入り者は叉 屋敷 L '﹄呼びて 傘 敬 し 時 々 参 向して機嫌 ぞ伺 ひ 内 祝 、 政排 、 大根引などには必守来って手体ひする。その間高 一不都合の所震があった場合は出入り差止となるので.彼等に取うでは頗る而目を失墜す ることになる。武士の権柄
士分と足騒又は他の軽輩とが途中相逢ふ仁折には、必す士分に射して土 下座敬躍するの が制である。 土下座 と は 履物ぞ脱いで 地上に脆座すゐの謂である。 されば 士人にして寛厚の情あるものは注上利逢ふも、 知らね鉢には通行するし又一方の軽輩は脇 道に避くるか、 或 は路傍に偏して背向きに立ち そ の ・ 通行し去るを 待 つを例としたロ然し片 意地な武士になるとその迭の船酌がないので厭でも土下座させられる。高一故意に躍を快 い た 場合 は 一 刀雨断でも敢て文伺が云へな かったもの で、以て武 士 の 椛柄が如何に強かっ たかを知るべきである。町
F晶・唱 謁に 町家は 庇 舗を 設くもの と 設けないもの と が あ っ た が .何れも藩主の御用達より首めて綿 -藩士を顧客としに。この顧客 の武家を 御出入先 又は 御 屋敷 と呼ぴ、代々⋮椴承連鎖しにの である。従て 屋敷 側に於て も 信 用し商人も亦誠貰を旨とし相侠って徳義的に借調した。そ して商人は 寓裕なる 武家 を顧客 と し た の で、他地方商人の如く 営 利に汲々にるを要せ守如 何にも悠暢に 構 へ てゐ亡。然しその 惰 性三して維新の武家瓦僻に際して大打 撃ぞ蒙 っ た の み な らす ・今日猫進取の気に 乏 しく商工 の振興せざる 素 因 ぞも作ったのであった o 之等の 商業は何れも分 業 で 現 時 の 雑 貨 商 の 如 、 き も の は 一 粁もな か つ に の である 。町家と邸地
木町の町家は屋 敷 奥行十六間 を 定 と す る 。 地子町は制限なく 一 定しない が裏屋 小路 (大衆充、卯辰溢 ) を除き 綿じて 間口は 五 聞 を普 通とし小と慨も三聞 を 下らな い o その大なるものは三十間以上 の も の もあって彼の減宿業の 如き小きも十四五間に建し・ ( 21 )111 た 0 ・ 袋町の鍋屋は高畠と精し代々減宿を管んでゐたが(現時市姫通の一角よ h v 袋 町 を折週 ( 22 ) せるもの)その屋 敷 は武政辻の東方一角より袋町の南方 一 帯 の 角 ぞ 折 廻 し 、 間 口 貨 に 一 一 一 十 飴間に上る宏批なもの で米 倉数棟一貨を連ね空に鋒えてゐたといふ。明治三十 七 年六月 近江 町大火 の際、家屋の後半類焼の厄に躍り更に又大正四年金屋敷を賢却し仁ため、大に鉢裁 ル -繍 起 草 さ れ た が 縮 袋 町に面 するものは詰問。そ保有され、その軒端の瓦には同家定紋の銑せ られたるものが現在する。其仙洞造業も亦蹴大な家 屋土械を 有するこ
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は今も目晴すると ころでおω
減栴 と柄造業はその代表的建築で、用材の精且つ大なる全く人目を驚かすもの が あ る 。町家の建築様式
家屋の建築法は一一掛に切妻造りでその葺下しの方を京耐として悉 く惣二階建である。軒の下に小屋根を附け庇 を設けるが 底を開かないものは、竹服製の格 子戸を山欣め込むのである。内部の構造は間取その他に大小康狭の別はあるが.概ね底の問、 茶の問 、 次の間 、 居間 ‘ 客問、茶室 、 輩所‘便所、湯殿等があって下女下男の部屋は表二 階に設けられ叉十中 の 九迄は土械を持ってゐる。そして通り庭と精して入口から奥へ三尺 乃至九尺隔 の土間通路がある。 とれは金津に限り他町口巴にはないこさで一朝有事の日に鎗 r J W '1 その他長物の取出しを自由ならじむるため だ と 博 へ る 。 十間町、今町の軒下の特に肢く造 られ五パ乃至九尺に達するのは之亦戦時に馬出しの用意であるといふ。 町家の軒 下 は 凡て幅三尺で何れも自由に 通行し得られるや うに作ら れてゐ るが、特に犀 川 浅野 川 問の本通竹町家は軒下の使用を禁制せられてゐ亡。其他の町々に於ても軒 下 を使 用したのは八 百 屋 . 魚尾、花屋 、 葛能商、陶器商、醤帥の類であつに。 町 家はその建築上穏々の制民があった。即ち三階丸 信 作ること塗床織を使ふととは潜上の 沙汰として 禁止さ れてゐたが、床縁 は口貰ぞ設けて使 用するものが 多かった。然 し町家で も富 豪 の翠は 普請 、装飾に 航 れ そ 殺 し 殊 に 人日 の 及 ばぬところに金銭ぞ費すのみなら宇、元 来邸地の大部分に家 を建 てるため 飴 地は猫 の額ほどに しか残らないが、 その僅な空 地 に 庭 間ぞ作 h り泉石の配置結構に意 を凝らすもの多かっ た。主人は殆ど商事に闘興せす一切を手 代詩顕任せ で 一 牛 素 一 謡 曲 . 抹 茶 、 位 打 化 等 の 講 一 裂 に 一 浮 身 令 容 す と い ふ 風であっ仁。町一みに世除 のないことは云ふ迄もない が、彼等は 之に代 ふ る に什器を以て第一の財産とした。故に書 く23)l
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l ili -1 さへ体へられる。 ( 24) 世 一 剛 骨 荒 口 m k q 貯 泌 するもの多く往々天下の名器珍什を蒐集すること三都 人 を凌ぐものあり さ 町家の風儀 町 家の男 児は午前は 寺子屋 と稿 する手管師匠の許に通って読み書きぞ習 ひ、午後は 家にみりて商工の賓務を夜は珠算等ぞ皐び飴限には謡曲、抹茶、生花等を稽古 しに。女児 も 朝は手 習 ひ 、﹁ 側 主
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挨拶す るのが楓りになってゐる o 但し町家 で も富豪は各 師匠ぞ自宅へ招勝した o 午後は裁縫 の 師 に 一 週 ふ が そ の 日課を終り家 路に就く 際 は互に 町 家では一般 に 主 人 を才ヤスサン(親爺の特靴か ) 又は亭主と 、 妻 女を才カツサ ン ( お 紳 様の縛枕か)と呼ぶ。そして長男は視の名跡を相続するものと含まってゐるが 、稀に は 然 らざるものもある。その 二男以下 は 他 家 に養は る -P あり分家するあり 、分 家 に 父 兄より資 産を割譲さる h ありされぬあり一定せねが、凡そ分資を受けて別家するのが普通で弦じ本 家 分家の関係 を生じ、代々柄純度弔を共にする風がある o 本町、地子町、門前地とも一町内を幾組に も 分ち十軒内外 必 以て一組とし一 箱 番 箇月替り輪 番 で箱番といふの を 勤める o と れ は上司よ りの令蓮を 組内へ鰯れる外、箱の中 には各自の 遺言 賦 を納め巌重に封織 して、これを一箇月間自宅に保管し置き組内の戸主死 亡の節、組合頭、肝煎、出役立曾で開封の上その遺言を家族に申し聞かすのである。叉家 屋の寅買にも納得といひ組合五人組及組合頭、肝煎の立曾を必要とする。組合頭は一町に 一 名 、肝煎は二町又 は三町を櫓任しその一上に町奉行が行政事務を綿轄してゐたのである。年
中
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正
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今も昔も 綾ら ぬのは元 旦 の 気分である。其の 粛 然七ゐ中に瑞気の認渦せる巌乎たる気祖 に嘉鮮の揺曳せる、 彼 の守武の州代の事も思はる h の 一 何悉く個中の情 景 を蓋せる慨があ る o フE 図 武家 に は飾菜 、 門松(門松は松拝領の家筋の列は立つるを得す)巌め しく町家 く25) は庖舗を閉ぢ旅を垂れ 勃れ も 小 さ き 輪 飾 品 管 入 口 の 上に懸ける o 但 し 一 向 宗 門徒の家は吊さl
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l -同僕牌に至るまで 一 服 装 を 整 へ長幼順次に居並び 塗り 三賓 の 本膳で蹴ったものである。元旦 ( 26 ) ないっ早朝に若水ぞ以み雑煮餅を祝ふことは何等現今と異るととろはないが、止日は家内一 は各家族 一 同夙に起きて床を挑ひ ( 婦女 や 牌 は 晦 日夜来徹宵のも のが多 い ) 休浴を了り鵬 装する o 男子は紋服上干小刀を精し女子は紋服桂 を つ ける。主人先づ若水を汲み次に一柳俳 十 管 制 限 界 し そ れ よ り 家 族 一 間 設 けの席に到り、主人を首座に長幼親疎の順序で着席する o 本践には雑煮餅の外 一 旗 物 ハ 大低鮒 の 焼物 ) 煮 物(開き牛芳、大根、焼豆腐、芋頭、結び昆布 敗、お鼠、的 弱)数の子 、附勝、実大豆、田作、臨仰を附け箸は﹁カツキ﹂箸と栴するも の(榊叉他の木ι
て太く作る.因って太箸ともい ふ ,カツキは竪き の 靴りか)を杉原紙で春 き紅白の水引 を 惜 け膳 に備へるのである。之は正月早々箸の折れるととがあっては不吉な ので特に大き を 用意し.松の内の間使用するのである。儲て叉三方に勝来、権‘黒大豆、串 柿 、 毘布を擁り其の上に炭斗飽ぞ置きたるを底的中央に据ゑ ‘ 三 組塗査三瓶子に屠蘇酒を 入れたるものを備へる o 雄て川意が整ふと家族一同着坐、鵡儀正しく互に新年の 詳 詞ぞ交 換し召仕の男女も紋服 制 服 装 で下坐に出で、主人初め一同へ年頭の祝儀を誠一べる。それから 大縮小戎は年酒を ‘祝ふのであるが年酒は年少者に始まり順次年長者に及ぼすのである。年 酒一巡すれば一同雑煮餅を祝ふのである。 雑 煮 と 大 一 滴 雑煮餅は各々習慣家例が あ るが多くは味噌汁を用ゐ、 削 り鰹魚 と結び 昆 布 、 芹 、 蕗の議を添へるのは 山海 岡野の産物 ψ守備ふるの意であるといふ 2 大 一 踊ハ貼茶の名である。大稿は大服にて服の字忌服 の 服にて不吉なりとし元日に立てる 茶を特に大 一 踊 と 書 き蹴ふので あ る ) は 雑 煮 を祝ふ 前に喫するのである。 それは煎茶々碗に 梅干一個ぞ入れ茶の出花を注ぐので、茶を飲む三共に梅干守口にしその核子を 口より直も に紙に移し包 み、家族一 同の分 を締めて川へ流すのが慣例であるが 、今之 を行ふ家 は稀で あ る 。 年 賀 年賀は武家では夫々格式に随ひ藩主八ムへ年頭御砲のため早朝より登城する。 御艦積んで下 披 しそれよ り 親戚知己同僚の許へ廻 躍 に出掛けるが、 一 日は特に近親の許へ 行くぐらゐで 多 くは二日よめ廻 雌する。年賀 には各人そ の 椅式に従ひ行袋、本 供 廻 り 巌め しく若お小者に至るまで新調 の 合羽ぞ一着する 。 年賀容は執れも式査前鏡石から前記の如 ( 27 ).
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11 I l ¥ く草履取りに説帯せしめに大白緒の稿草履に 履 き換へて進むのである。そして草履は晴雨 く28) , に拘ら や J 履くととになっ て ゐ 亡 。 年賀に近視の家へは入るが遠い親 類 同僚 知己( 別 懇者 は格別)等は総て此の式 豪で 年頭の 別儀そ述 べ る . た けで上らない。又は名 刺 ぞ名刺差に挿んで来るこ と もあるつ若 し年踏客が 入って くれば客間 に 請じ先 、 以 って三方に据ゑた製斗鮒を宝する o 客は謹 ん で 界識 し終ると 年澗を薦める。年酒は儀式であるから重訪問、 銚子、塗査を 用ゐ酒は 屠蘇 である。次で吸物 や出し年酒二三献にして重詰銚子守撒し、鉢盛肴そ出し夏めて酒を薦め主客数岳登すので ある。客の供家来は別に勝手元葦所で同じく年酒ぞ振舞はれる。 町 家では賓初の準備などで新年早々 忙しい ので大拡七日過ぎ て から年賀に 廻 る 。 町 家 は 年賀客の名刺受けとして入口に径四寸、長さ六寸位の竹鎗の蓋に孔のあるものぞ吊す。主人 は上下紋服鴎装に小万を帯し(騨装 の場 合三放行の折には小刀を帯することぞ許きる)一僕 を随へ稲草履を持参せしめ 、 年 鵡に限っ て その家の入 口で件の 草履 に穿ち替へるのである。寅
船 資舶 は早朝より 賛りに来 る の ぞ各戸競 うて買求め、其の夜枕の下に布いて寝 る と 吉夢を見るさいふのである。その蜜舶の給は薄墨紙(紙犀川紙と 同 種 なる漉返しを金 慢の方言で斯く栴ふ) に 一つの唐様舶の舶中には七稿 紳と数 々の質物を 乗 せ 仁 も の を 堂 聞 き その上方 に 鶴下方に錨を添へ夏に 上部に﹁ 長き夜の とをの眠 りのみな目 箆 め浪乗り 舟の 音 のよきかな t一 な る 廻文鉢の 一 首 を記し仁も の である o 元日には﹁短﹂といふ 言 を忌み眠ると と ゆ 伊弓稲積み﹂、鼠そお一踊様といった。元日は前晩の除古 代・ に多くは 夜更 し をな し或は徹 宵 眠 ぞ結ばない仁 め 、 何れも睡眠不足であり且つ現今と異り日年賀客も元日は極め て少いので. 上 下 と も 制 服装の憶で居 眠 り か } す る 。 これぞ稲積むと栴するので伺の﹁稲積や稲積む 人にも にれつ主 ﹂といっ亡のは如賓の姿である o責
初 一 一 日 早 朝 の 賓 初は金 津特溺の行事である。 現在は鯨下各町色を首め隣牒まで も行はれて ゐるが 維新前までは 決し て他にな かったもの で あ る 。 そ の寅 初は必らす上下近 江 町 、 青草辻、安江 町 等の専有む他の一般商家では一貫 初はするが唯名目ばかりであったo 只片町の木倉 屋密 附 屈 の みは家例と し て初客仁紅白鏡餅を呈 し た 。 近 江 町 、 青草辻は魚商、四十 物商、八 百屋を首め各種の問屋 が あ っ て 、 そ の下近江町は く29)遣わり物をなし青草辻では紅鯛といって竹の枝や柳の枝に、煎餅で作った紅綱、繭玉をつけ ( 30 ) 現今とは異 り 二三商底ぞ除く外は悉く魚商が軒を蓮ねてゐた。貰初には庖頭ぞ飾り種々の た も の み そ 呼 珪 勇 ましく競ひ 衰り 客も必らす之を鰐ふこ三.猶東都酉の祭に競うて熊手を資 買するのと同一である。安江町はその横安江町の入口までを以りとして総本屋 . 瀬 戸 物 屋 、 呉服商、小間物商其他め商底軒ぞ並べて二日は午前二時頃に一斉庇ぞ開いて夜明迄賑ふの で あ る c 現今の如く一日の晩 か ら 二 日 三 日と引続き賓初をするとい ふ ととはなかった。費 初は各商底意匠を凝 ら して盛飾し金 尻 風を立て廻し・燭牽に大蝋燭を鈷じたるが金昇と映 裂して白 書 一 ぞ敗き、主人以下番頭、丁枚、召仕まで男女何れも紋服袴の制服装で客を接待す る 。その雑踏熱闘の繁 昌は .賓に筆紙に悲し 難 く今と同 じ く 鱗客には景物を呈する。 一一日午前二時頃から大工は手斧初、鍛冶は舗初めの式を行ふ c 叉 家 々 では男女 書初めを なし叉謡初めを行ふなど頗る閑雅で古典的な気分があっに 1 h.b.. ! !l
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賓 一 一 日 頃 から各種の 行商人が廻ってくる o 小間物商は桐製の小箱彩画尺位の高 さ 仁 積重 ねにのを権問ひ、飴屋は玉飴、俸飴 を 商 ふ ο 玉飴さいふのは正月に限り商ふもので その形は飴を丸く膨らがし、 表 面 に 竪筋があり 中は 本で峰需のや うな 形を二 つ連結したも の記が今は絶えた。因に初冬 の頃から春 一﹁ 一月頃まで十歳から十三四品位までの子供が、古代 中棒飴や費 hりに歩い士もので吹零の夜などにその 一 貫 一砕を聞くと一種の情趣を唆ったものだ が、之も今は跡を結った。 春 思包 それから春駒、一耐の榊、隠 亡 高齢、鳥追(金滞ではチヨンカレといふ)の類が 来 る 。 春 駒は張形の馬の首そ竹 の 棒 先につけ手綱を添へ、それに跨わり祝言を唱ひつ t A威勢 よく駆込むので武家では馬が駈込むのは春早々幸先がよいとし・にものである。一
騎
の
紳
一 踊 の 一 刊 は 御 多 一 職面ぞ片頗につけ 管笠を被り﹁ 御座りた、御 座り 丈、稿の神が 御 座り亡、一臓の一脚と云ふは天竺天の紳なれば. 一に俵を踏へつ h 二 に ニ ツ コ リ 笑 は れ て 、 三 円 J に皆 様息 災、四つで世 の 中よい / ¥¥五つでいつもの如くなれ、六つで無 量 延命で 七つで何事ない やうに .入つで 屋敷を 建て協げ 九っこなにへをさ まり 、十で徳はドツサ リ ﹂と歌ってくる。隠亡寓歳
隠亡寓 意は男 女 入め混り 四五人連れでくる 。男 は 蓑笠を着け 女は手拭ぞ頗 ( 31 )冠 に し 稜 折 笠 を 一 被 の 、 小倉木綿の紺飛白模様のある引廻し合羽を着け寓歳太鼓(曲物を胴 とした締太鼓 )を散き金還 に 於 ける労 女聞の情認を謡ひ来るもので、 歌詞は頗る卑狼であ ( 32) ゐ。彼の越前寓 歳 、こは飾付も大に濯って多くは家僕議が演奏せしめたものである。 烏 遁 烏遁 即ちチヨンガレは現今め浪花節と略同 一のもので三味線 で調節する c 錫 杖又は蝶貝を用ゐるのは歌祭文で三味線と蝶貝を使ふのは浮れ節といって夫々別であるが、 之等の烏遁の多くは或る部落の女子が二三人連立ち菅笠を被り三味を弾いて来るのであ る。チヨンガレは上記の如く歌祭文の一種で門乞のなせしもので.金津では建港時代浅野 二減、柳原の 三 箇所から出土、 維新後は浮れ節と稀し一時頗る流行したが再縛して浪花節 となったものである。 ヰ却 :f:: Eコ b m u よ L 叉物ー義とも書く。これは市内閣田町の績きで大豆田村に接して一部落を作り 俗に物吉町と都してゐたが村は向う中村である。とれは正月でなくとも随時どこでも慶事 のある家へ 三 四人宛連れ 立 て 、 門 口 か ら慶 事 ぞ 大呼して入り来る一種の物貰ひで、何鹿で も酒肴を振舞ひ、祝儀をくれてやるととになってゐた o, 彼等は種々目出度づくめの語のあ らん限りを並べ立て、暗一操酒食して去るが寓一拒絶さる h とその反射に悪口雑一 一 = 口、散々に 悪たれるので仕求が悪い 。今は警察の 取締が 巌量なの でとれも跡 を 絶 っ た 。 E し こ へ 六日、十四臼は年越と稀へ榊怖 や 歳 徳神棚 K 燈や貼じ、叉聞の燈と云つ 年 越 と 一 澗 茶 て各間毎より白、釜、謡、聞に至るまで泊や入れた土器に勲火する o 又茶の中に山械の賓 ぞ交へ煎じた 一 踊茶を飲むので あ る 。 節分にはそ の 中へ妙大豆を混ぜるがとの稿茶は年越と 節分と除夜に飲む慣例となってゐた。議茶は筆所 の茶釜 で煎じ大豆殻を焚きその湯の沸騰 する水 蒸 気の加減で、釜の 葦 が 浮き立ち上下打合ってチン ノ¥鳴 るやうにする 。 煎する時 刻は日暮頃で凡そ一定してゐる の でその刻阪には各 釜の鳴 る 響 門外まで問えてなか / ¥ l 賑 かなものであつに。茶は先 づ 刑併に 供 へて後家人 一 間 が 祝 ひ飲む の であるが、その茶椀の 中に大豆か山淑の賓が酌み込まれてゐると縁 喜 がよいので、取って着物の襟の中に縫込ん だものである。
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草 七日朝は門松を取り捌ひその松の其枝のみを、立て h あった跡に差し残した。 く 33) この日は人日叉上元といひ七 草ぞ嚇 して七 草粥を食ふのである。七草は路、議街 、 芥 、 務 .J込 IIIII! 鼠麹‘繋謡、仰の座の七程で之を 組 上に裁せ 華 所 で 十 即 応 方即ち 歳徳 捌に向ひ主人又は家士が 組装して﹁なんなんなん七 草なんなん 、 日 本の土 に 唐土の烏が波らぬ 先に七 草云 々﹂と栴 へ播木で打嚇 す の で あ る o
具足鏡餅開き蔵開騎主
十 一 臼 は 武 家 で は 具 足 の ・ 鏡 餅 関 、 ぎ をして祝 ふ が 、 その鏡 餅は忍物を嘗てないで多くは桝 φ守備伏せにした上で劉り小豆で煮るものである。 町 家はこ の目減開きの蹴ひを行 ふ。叉賞日は錦主と栴 し て 各武家へ知行所の百姓が来 て祝詞を述べ る o 家々では 喜 一 . 所 で 潤食ぞ振舞ふが其際必?氷見鯖の焼物ぞつける ことになってゐ七 ι 百 姓蓮は御酒頂裁で散々酔つ挑ひ田 植歌なん どそ 唄ひ赦在来 して去 る が .此日の百姓は無趨 御免とあって 一 昨 歩 蹴腕、大 道 ぞ 千 鳥足で横行し往来の婦 女 子 に 戯 れても敢 て 答 る ととがな かった。きれば此日婦女子は 諌め警戒して外 出 せ な い 。 こ の蹄王ミ いふのは他藩にないと とで、加賀藩では藩士の家藤(足軽其他の 箆米を受くるものを 除く ) は知行所を給せられ、 その土 地 の 百 姓 は平素知行主へ 奉公代りに冥 加 金ぞ納めたものである。されば 正月年頭祝 儀 に知行主へ 来る こ と を 主に拐すとい ふ意味 で蹄主三 い ふ の Eある 。 この慣例は勿論家椋 く34) 奉還と共に麿絶されたが、目下街般方にその建風を 倖 へてゐる。元来北関地方の和組は各 期下の閥、長 崎その 地 雨方暖地の港で碇泊越年し組頭以下第一に讃州琴平宮へ参詣守札を 頂き、これや頚に掛け三人五人と連 立ち故 郷の船主の許へ蹄るのである o そして此日舶主 の許で馳走歓待せられるのを今も蹄主と栴し、久方振で我家に入り家族 園祭 で春暖三月の 頃まで滞在する。 十四日の年越は六日に同じいがこの日の 夕 、門松、注連飾を除、 a t 歳徳棚を取下してその 供物等は翌朝の左議長に袋、ぎ挑ふのである 。左義長
十五日は左義長そ行ふ。 ゆ うべ取外した飾葉其他を排暁氏神の境内で之ぞ焼 くのである。此の左議長の慣例は大同小異であるがとの左義長の火で餅岳災り食へば災厄 を 菟 る h といひ 倖 へる。叉子供は二日朝 の書初を持参 し そ の火中に投じ燐灰の燃上るのを 見て、習字の上達するの兆として悦ぶ。町家では蕗徳祭として角行燈を竹竿の上に取りつ け、町内の少年大勢で之を擁し左議長 の場へ持 込んで焼く。この十五日までを松の内とい び此日より室内の飾付は平常に復する。 く35)年頭の中に 菩提寺から門 札とい ふのが来ゐ o 巾三寸許 長二尺斗りの圭角の木 札 に 奉 修 ( 36) 云々の文何ぞ記せしもの二枚を情家へ配付するので、懐家は門飾の撤去と引換に門の左右 雨位に貼付す る 。 之は英 一 一 = 口 、 天 台 ‘ 法草 の 各 宗のみで 之も現時は 底絶 し た 。
小豆粥
﹂ I 五日には赤小豆腕に餅を入れて飢ふ。こめ粥を器に取って置き十八日朝家 僕 の一人が粥 の容器ぞ携へ一 人は 鉱ぞ提け、庭の雲を踏み 分 け果樹の下区立ち向 ひ舵ぞ持 チ ナ った方が﹁生るか生らぬか﹂と戚丈高に問ふ、粥を携へた方が﹁生りますノ¥﹂三答へる と鉱で木の幹 を 切付 け 、そとへ粥 宇 佐 塗 り つ け る こ と 庭内の果樹全部 に行 ふ。斯くするとそ の年は果賓が津山に成熟す る と 停 へ る 。 十五日を過ぎると互に近親知己会招待して盛宴会張る o 之を口腕といふト春 口 市兄 初めのこと L て 容 は 勃 れ も 制 服装で頗る賑かに波手な祝宴 で 一 岡 引 の 飴 興 、 或は座頭 遊 説 日 の 師 匠を招き琴三味線の合奏等ぞ催し大に正月気分を駿るのであるの現時は大抵料亭で催され る今の新年曾に相嘗する o 正月に入ってよ わ J親戚知 己 婦女少年相集って、小倉百人 一首の歌留 多遜びをな し往々夜 -を 徹するとさ現今も 鐙らないが、土日は家族の娯楽と して行はれたも の で競技本位ではなか っ た 。 旗源卒 成源平遊 び三い ふのがあって之も今猫行は れ て ゐ る o 男女大人もヂ供 も 交 り 二 組に別れて相射し、順次双六 の饗を振りその自によっ て 旗 を立て 、 旗の早 く立ち終るを勝 とする。族は源 氏は 白色に笹 龍謄 の 、 平家は赤色に協調 蝶の紋を附 け 七 も の で数は小棋十 手 ' V チ V ヂ ヨ V ロ グ 本、中族各五本、大族各一本、纏各一本で仕方は安二つを振ひその目一二六六一二二、 当 日 一 、 配 一 町 江 主 を 得 れ ば 小 一 政 一 本 、 J V かツイ町一尉小成二本を立てるもので以上の回全丁 シ ノ ニ 目といひ他の丁目ならぬ日の出るまで連続で振るのである。若し四二の目が出るとその名 都を忌むにめ既に立て仁族一本 h q 取り外 す も の と す る 。 きれば此目が出ると笑聾喧語大騒 ぎを演守る o 饗を振るには甲乙迭に交代で振ひ m i の放は乙にて乙の族は叩で立てる。小旗 十本を立て終れば中族一本を立てる o 郎ち小族十本 毎 に中族、大 旗 、越と順次に立て最後 の小旗を早く立てるを勝とするので半自 の 老 人までがカ溜や入れ妙齢の子女も留 を 飢して ( 37) 勝員に熱狂するなど頗る珍劇である 。 . ーi n l i
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一隅引は銘々で品物を持参するのもあれば、招待の方で提出するのもあるが多︿は口祝の 飴興として催され七。方法は現時三異ることなく抽畿で稿運を引嘗てるのである。先づ題 ( 38 ) 名を書いた紙片の閣を作り一人々々に引かし め 、終りて世話人満座の中央に準み悶の題ぞ 読み上げるとや削った人は之に賂?る。世話人は品物を衆客に示した上で本人に交付するが 、 ンヤ喝采の渦を捲起す。 その趣向の珍奇なる叉は不相感の品を引山 口 問 て h 苦 笑するあり赤面するありでその度侮にヤ主
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打 針打は二寸斗りの縫針の木に大豆二粒ぞ差し貫き、針の穴に長さ約二寸の木 綿 糸 を 附 け た も の と . 咋 禅 問 一 世 紙四つ切大の紙又は 径 三寸位の素焼煎餅ぞ用意する。そして四 五 人 の娘子供が輸ぞ作って座め各々一定数量の紙ゲ︿は煎餅を出して積重ね、之を格の上に 置き順番で木・綿糸の附いた釘巻口に含み糸砂 } 指 で持って、件の紙か煎餅かを狙ひ打ちに突 差きしてから静にその糸砂-持上げ その差 されて持上がった分を取るのである o eとれは針の 打ち方よりは糸 の持上げ方の巧拙に手際ぞ要する。叉種々の賓物や物象ぞ書一きこれ に数 量 -を記したものがめって前記の如く針を此給じ打附け、 その賞った繕に記してあ る教だ け の 菓子又は他の賭物を得る遊戯であ る 。 双.
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修 会 ハ は 黒 柿 で 作 っ た 下 闘の如き盤の天を中止 八 を 狭 く左右を 朕くして三分し、 その区分境に角 を 絞め左右各十二の目がある。 叉 約 八 分厚さ約四分の白黒の子があ り黒は 無 償 、 白は象牙か角で作られたもの 各十五個外に袋二個と裂を振ふ竹筒 があ る。接はその盤上に振ひ 出目に よって自分の子を 所動させるのであ る 。 その方法は叩乙の雨人撚そ挟んで 針坐し盤の左右そ の場合 によ わ上位 て39)を定め一位より六位迄を限る o 比上位の方に相手さも子を配置する。例へば中を白、乙を 黒とすると甲は乙の前の第一位の底に白子二つや置き第十二位卸九十二番目の慮に五個を 置き、甲の前第六位に五個第八位に三個を置く o 乙も甲の如く甲の前第一位に黒子二個、 第十二位に五個乙の前第六位に五個第八位に三個を配置する。斯くて寮を振ひ出自によっ て前後を定め互じ饗二側を筒に入れ盤上中央部へ振り・出自に従って自己の予を活動せし めその子が先に自己の陣座に、即も一位より六位まで二個宛三ニ宛の底三倍所漣結して牧 り叉相手の子を分捕した載の多きを勝とするのである。その子の活動するに頗る巧拙があ って、自他の子の配置しある慮を越えて進むは差支なきも・他め子の二個以上連結しある 底へは侵入することが出来ない o 然し他の子一個の場合は突入してその子を分捕するを許 さ れ る o その時若し分捕せられた子が乙の組のものなれば、乙は寮を振ひ例べば出目一と 三を得たとする言、叉此際甲の陣には一の践に甲の子二個連結しあり三つ位空位売とすれ ぽ、分捕せられたこの子を此の三位に置くを得て再び饗の日で活動する o 但し相手方へ自 分の子を分捕せられ、その分捕せられた子の敵の手にある聞は・審を振ふもその子を活動
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埼 , 少 せしむることはできない定めとなってゐる。叉相手の子を多く分捕するには自己の陣座を 計ってしないと、却て相手の子の多くが自己の陣座に存置せられ震に自己の子の活動妨害 となり.陣座の整理不能にして既に配置ぞ終った六位五位の陣座を動かして空虚となるこ とがある o とれを俗に﹁禿﹂と稽し却て敗を取ることがある。要するに勝員は饗の固と子の 動かし方の巧拙によるのである。此の遜戯は男子も行うたが重に女子であった。然し今は 殆 ど 稀 と な っ た 。 総双六は現時も幼少年雑誌の初摺附録などに添へられてゐるが、以前は道中双六即ち江 戸日本橋を振出三して中仙遁を経て金揮に到る迄の宿騨を表したもの、或は化物双六葉他 種々あって今も同様子供の慰みとして行はれた。越前寓歳
越前寓哉は越前関府(今の武生町)在の農家から出るので老松太夫. 乙 松 太 夫とて株立で教組に分れ武家へ来演する。 一組には親方一人.太夫二人、才誠二人若くは ニ人宛である。此寓鼠は藩組利家卿府中在城の瑚家中へ出入した領民の子孫で、金津へ韓 封の後奮恩を忘れや J 来るのに起るといふ﹂正月四日に来て十四日まで滞在するが先づ金津 : i圃 く40) く41 )u m m g ' ・ h u 川 1 4 w i l l
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i l -! 町 曾 所 ハ 現 A 1 は尾山神祉)に到り、藩公に純到する御幌儀に寓歳を舞奏して後各武家に侯する ( 42 ) のである。最初は藩組府中に在住の際より冨従せし武家に限ってゐにが、その後遁々その 家筋ならぬ向へも招かれたもの充が現今では寓歳は例によって来るが、之を迎へて舞はさ しむる家は殆ど稀となったoまい使
二十日頃から女使が往来する。これ武家の妻女は現時の如く外出容易ならぬ ため初春の祝儀を近親の許へ.召仕の女を使として文民品物を添へ持たせやるのである。 使の女は今日を勝れと紋服に着飾り中には下男を随へて行くのもある。先方では雑煮又は 食事を振舞って縞ひ返事三共に使に祝儀ハ俗にお引といふのは引出物の略)として包金を遺 はし、一万結、警附、半襟類を添へ正月に限って約五寸角の切餅数個をくれてやるのが例で ある。此餅をとらせ餅さ稽し武家では餅鳴の際特に調へ置くものである。武家の妻女は夫 の許を得て此頃より生家へ腸寧するが久方振にて一家圏築の歎を輩すのである。度
化
イ
折
手 掛 包 斗を折って慰みとする。手越は綿を大き鯨尺で径三寸乃至五寸丸とし之を木綿糸で充分に 正月は家々の妻女や年頃の娘這は飴暇に上越の押精細工や手盤、紙製 容締め、その表面を手躍を稀する各種彩色併殺業時日経一議い薄め木綿糸で花鳥叉 は紋形を刺繍するので頗る優美なるとと現今の一護謀球とその濯を異にする。紙製斗は奉書 紙に種々の花鳥、紋形を彩色摺にした紙で、大小財政斗 k q 折り聾むもので形は現時と興ると と ろ は な い 。猿廻し
猿廻しは武家に到り猿を舞はすもので馬に劃する祝である。この猿曳は越中 二上村より正月、五月、九月の=一度に来たもので由緒があり現時の猿廻しとは異ってゐた。一
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重ねの朔日
一日は重ねの朔日三稿して祝つに。男子は鵡袈で近視を訪問する。元来 醤藩時は男子と雄も現今の如く軽装して漫りに近親の許へ出入りすることはなく、必歩毎 4 月一日に鵡袈で互じ訪問したのである。彼岸
初午 初午には各稲荷へ春の彼岸には悌寺へ参詣すること今も同じい。彼岸に く43) は家々闇子や牡丹餅を作 hv 悌檀に供へ彼岸入 hり 四 日 目 は 時 正 の 日 さ て 中 日 と 稽 へ ・ に 。:
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枇日じは土俗に石の鳥居七笛所を潜れば吉事があるといふので、老若男女夜 ( 44 ) 牢より起き出で神詣でする o とれ醤時は石の鞍表が多くないため夜中から起き出で近郊ま でも廻らないと、 その数奇潜り得なかったためである。 此夜枇日荒し との祉日巡りは明治初年頃から 般に流行したもので、以前は町家の青年間に幾分行はれてゐ仁ものらしい。 と栴して若者連は種々悪戯をやったもので、米 屋 の縄燦ぞ外して呉服屋の屈頭に吊し薬種 屋の看紋 と菓子 屋め看板を懸け換へたわ 、 荷 車 み そ 往 来 へ曳出したり甚だ狼籍を働いたも の混紫曾
ドドが咋今は警察の取締が厳重になったのでこの悪習は尻息し、に。 十五日は浬繋曾で 一 向宗 寺院を除き各宗寺院に於 て 執行せられる。浬 架像を 仰殿に飾り善男女に悲拝せしめ叉家々に於ても五穀の飯ぞ調へ仰に供養する。 寺 々 では部 暁彩色したる 園 子研一撒くのを吾も人も競ひ拾って守三する 。 叉町家の小娘なんどは近所の 寺院に集りて手控を突いて遊び楽しむ。園子撒は現今向執行されてゐるが‘手珪っきは逐 年度れて殆どその悌を認め得ない。今墜歌の一二を左に抄録する。。
せんせんせんどの乙娘 今度嫁入する時は 男 で 窓、 さ'0) ん あ 姑ゴか さJ り ん でき警
ん う な て れ 三 ん /¥た LA くは誰さんや 朝から何しにお出てにぞ お前の雰駄はどい雲駄 あったら見出して準じまう 猫 娘 に 茶 取 碗 ら で れ 引 て か す 白 け を た 遁5
っ と て も一っかやいてすっとんとん O 向ひのお山じ火が見える 一 朝 額 早l‘は う 白 i巴 顔 き 目 て は 窓 水 明'晶 け て 白粉塗って紅さいて 註 、 ﹁ お ひ ん な れ は 一 お茶が揃いたおひんなれ お 起 き な さ い の 意 新町米 屋 のお爺さんや 零駄がかはってかへに来た 関y 家2父 ト そ にキ の す 親卜り け 丁 は / つ 稚 徳5¥
まが不lJ~ 零 づ 雀 母 よ 駄 い 焼 は 、 の て く 蝦l
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h へ 鼻 と 絡 ん お月か星かありや何じゃ ( 45 )今来た嫁女の松明じゃ や!せ男すっさん L ﹂ ん O 一 つ ひ ょ 子はめんどり大事 ニつ庖慮に番頭さんが大事 五つお臨曲者さん薬箱大事 七つ泣きづらひねり餅大事 九つ乞食はと け椀大事