少年少女の遊戯は断る多く且つ季節によって種類ぞ異にするoその正月の分は既に
述べ
ハジ リ ア イ オ ニ カ イ
ポ・ ‑
安 手 こ
にかその外凧鵠・溺楽︑竹馬︑競足 ︑鬼迫・目隠し︑隠ν
ン訪
︑犬の闘宇陣師側 ︑
こJ q 一
水泳︑小鮒目高掬ひ・蛸蛤取り︑略取り︑写投げ︑二つ杭など戸外に属し賂棋・十六むさ
すヂ
ヤゴ
ト:lj
し ︑
寺子屋建びなどは室内の漣戯であるふ女児じは追羽子︑也︑紙雛︑飯事︑啓子等の類
があ
る︒
雨の夜零の日などの徒然に童幼相集ってその中の年長の者︑或はお守 ︑老女などが昔噺
お伽の類を物語って聴かすことは今も昔も鐙りなく少年の心ぞ慣れの閥夢の世界へと誘ふ
ものである︒習時その噺の理類は桃太郎.カチ/¥山︑猿蟹合戦︑牛若と排慶︑大江山澗
日限
童子
︑金
時
︑朝比奈島巡り・品目我兄弟 ・楠正成︑天神記︑忠臣雌' ・武内宿欄 .
一休
和向
︑
太閤記・自雷也物語などでこれ等を金器ではムカシさ云ってゐ仁︒その内容は何れも動議口
( 119)
懲悪式で面白く聴き上手に語る裡に知ら今
識ら
︑?
忠孝
︑節義︑武勇の情操冶
養したものw m
であ るが
︑
現時のお伽噺の中には
徒に 少年 の灯 火奇 心を 刺街 し︑
( 120)
狼りに甘い哀傷の涙争峻る
もの
h多いのは痛歎
すべ
きととである︒
山
1 箆 .••••••
1 ••
︐ ︐
狩
狩獄は金津人士の
回 収
・も得意とするととろで︑就中小鳥併はその巧妙なるとと他地方
人 0)
遠く及ばない技術であるo抑も獄焔⁝は維新前武士の専有で職業者外の商人百姓の滋りに行
ふを許さなかったc
哨家 の子
︒は 専ら 奈 棋を 励む べ︿ 若し 糠漁 撃を なナ もの あれ ば父
母より制戒を受け場合によっては務より詰責されたものである亦藩
に於て も一 一般 武家 に射 し
暗に奨附したもので蹄する底は泰卒の日卒素身鉢鍛錬に資するにあったが後には一種の行楽となったo従て武家より小鳥件の獄場に山林の拝領を出願すれば︑加
殆ど稀であっ
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越能三州の地は何底でも山林八町四方を賜はったものなので︑武家で紡獄ぞやらな
い家
は
山巾鳥狩泊山夕構先づ小鳥
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守するには務て獄場の見易い立木に何某猟場と高札
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こ急停
との小鳥羽サU川村には綱と
縞との二種ありて
ぞ掲げ.附近の土民に股守方ぞ一任す
る ︒
ヲ ノ 咋'
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鳥 肌 材
7収
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多くとれぞ併用した
︒秋猟期が近づ︿と網場 ︑頼梓等
の修繕手入れぞなし︑陰暦八月中旬頃より十月に亙つ
て日々狩に行くo狩場には小屋を構へ家僕そ宿泊せし
めるが時折は主人も泊るoこれを泊山とい
ふ ︒
その場
所の遠近仁よるが凡そ午前二一時の真夜中に家を出で
k s 山へ念ぐ︒狩は普一週暁天から九時頃までhあるが叉
タ構とて夕暮頃に行ふのもあるo但しこれは泊山に限
るととである︒
用 具
コリプグ
小鳥併には節桶と郁する図鳥の簡を入れ
て狩場へ運ぶ容器を要する︒木骨一閑抜の捨ひ箔で悶
の如く左右の一方にクンドンの葦戸ありその戸と後方
とに目隠窓をつけて採光したものを太い丸竹で婚︑品︒
く121)
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ま 七 八 分 角 長 さ
その憶竹の中を一史に空洞仁自り中へ鳥掛約五尺の木に
同 一 一 同
町一
辺鵬
鴫
悦 一
月
刊一
法
三四本ぞ牧
める︒錨桶の前方に山行燈とて小さ
き角行燈に犀根を袈
ひた
るものを掲
げて路を照らす用に供するョ絡の上
には
羽子
けは
酬一
口一
川忠
ω
一一
政数
十本
と
制訓
告回
等を
載せ
之を
下 僕 に 擦 は し め
る︒仰し綱︑悼の類は獄場監守
人に
預け
て間
一く
o
高張と張切狩場に張る綱にま高演と張切の二程2・b
つ三 口高 張ば
士人
の誕 島 ー ヵ ァ に
m
ゐ るを 禁日 以又高い木
の上
へ翻調子}鵠げその附近へ図の鵜葉一地平素よく飼馴らしよく噌る鳥を箔の岱・
石岡 の
如き烏掛に掲げるo回は渡り鳥の群の朔り来るを見るや頻りに噌るので︑鳥群その崎一鳴によ
り大
空
より
一
一角に舞下り縞の調子叉は網羅るのであるo
5 1
場
獄場の中で食事その他の休憩所を設け
これ
を引場三呼び土居で幽ふo叉小屋
( 122)
掛で作る
こと
もあるo
一万
来泊
り
山は
雨三 人で
宿泊し得る
訓 何
度
の小屋を建て中央には雌を設
け︑寝具︑炊事道具の一切︑回鳥飼育に刑する器具とその置場所等を準備してあるので︑
烏の網や翻にかh
る問
‑)
の小尾内で静粛に銃ひ待つのであるo
初
鳥
鵜砂‑初めて獲る三初烏三稀し生協し置き直ぐ使を以て家宅へ通告する︒家宅
では牡汁餅を作り主人の締りを待ち初鳥の飢とじて近親及件獄仲間へ贈る習ひがあるo斯
くして獲たる所の小鳥は自
家の
食用とするは勿論︑小鳥狩をせない親類知己や出入りの商
人などへも分婚するが現時の如く貰物
とす
るととはなかった︒
日 ヰ 両
武家では獄期中現時の如く毎日狩をするととは無かった︒
持軍
それは皇室︑
家︑歴代藩公の忌日等ぞ日制と稽し絶射に一般武家の殺生巻禁じたもので︑との日柄が月
に数日ある上自家の忌日を加ふると禁断日数が可なり多くなるためである︒
町家は既記の如く一般に禁止であるが商貨の鳥屋
は獄 揚ル
‑持 たな いた め︑
日町
刷日
を
限つ
て出猟し勝手に他人の獄揚を使用すると三ぞ許されてゐた︒武士にして寓一此日将街中を
山廻
・
り役一一概働側⁝詳円︒のために護見されると忽ち知行を召上げられ追放の刑に底せられ
く123)
JλHHH川町叶dU吋lgaFli‑‑JM川U臥引1J削町ド4町
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w白
川仁引E・t山引制"円
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中J
( 124)
囚にいふo著者の家
も鈴見山いい拝領地合有し幼時先考仁随件した事がありその愉快今‑ L
に忠れ得ぬ庭であるo
摩藩の後上地しにが後年茸狩の際往々奮地を通過してそ
Yろ懐奮の情に控へないものがあった︒
夜興遣獄犬伝携へ単身深山幽谷に入り狐犯の類令狩るを古代興遣と稿し︑
長に武士の
心脂身練る恰好の狩であったo但し之は一家路沈勇の者でなくては出来ない整嘗で古来佐々
怪事妖異に遭遇した逸話の体へらる
hものが多い︒
鳥
索
。
烏刺は竿に務をつけ小鳥類を刺しとるもので︑藩政時代鷹の餌刺の仕業を見
習ひ武家子弟の慰みにやった・ものであるo
烏刺は全園大抵その方法は同様であるが金津地
tyプシ
一本
の先に三師三都し約三尺の 方一般の方法を記すると︑使用の柿は
約九
尺のもの二本
.
強靭な竹
ぞ差 しそれに識
や塗るo
川内
K
長さ三尺のもの五本
と五尺のも
の一本ぞ
鱗いで使用
Zクtするのであるo
叉蝶と稽す
る細く小さい竹製の街と一文銭大の莫餓
製筒を吹鳴らす
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その 民鏡製のものは洋服の釦に似て平たく中央に小孔のあるものでとれを容せ笛
といふ︒即ち
r.
とれを吹き議りの雀が集って来
るのを見計らひ刺し取るので︑刺し方にも吹き方にも巧拙 はあるが刺すには決して烏の後方よりするととなく前方より刺すので
ある︒
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漁
川漁は犀
川 ︑ 浅野 川 ︑
手取
川 ︑
河北潟等で行ひ鮎︑鱗︑紙︑紙︑鮒︑跡︑綿︑
総の類を漁獲するo
漁法は納と釣の二種で網に又投網︑流網掬網︑釣には沈めと流
し等
力 ケ
の方法があるo向この外に﹁
掛﹂
とい
ふのがあり漁具に
も叉 手網
︑
プツ
タイがあるoこれも
武士の専有で最も流行しにの
は夜
網︑
鮎泌︑鮒給釣で漁法は現時と大差はないがその仕方
は鵠騰で優美であった︒
夜 網 鮎 漁
犀川
々口などに到り投網で漁するとと現
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固 司 仇 ﹄宅
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h室
夜網は夜中河北潟ロ.
時と髭りなく奮時は殊に流行した︒鮎漁も亦一一般に流行し漁具漁法も今日と其らない︒
漁具は
釣
dブ ン カ 一 フ 竿 ・
を句
毛 針 竿
糸
テンカ‑フ
竹製焔錨
く125)
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ク ミ
ダモ利ともいふ
毛 針 箱
掬
活 ダ
テンカラ入佑相
獲 柄 節 モ
錨
雑 震 等
く126)
で之等
の這
旦(
中毛
針は
金樺特有の名産品で加賀針の名を耕せられ︑巧妙精紙全国に流布して逐年多額の産出がある︒
獲柄龍
獲柄箆は竹製で縦約九寸︑積約七寸︑高六寸︑足付で蓋のある三重の懸絡で
これ に
獲大る鮎を載せるコその底部には茶具一式或は替へ針の尚其他の雑具守容れるもの
で断︑る酒術上品に製せられてゐる︒
竿 重句
竿釣は奮時若鮎の期節に使用し生育後は専らテンカラを使用したが現
時は
獄期間金遁じて竿釣を行ふ人
もあ
る︒
川漁の扮装
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川漁に行くには主人は帯刀するとと勿論で菅笠︑制木綿の羽織法也初嚇
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武士
は肩
を外
づ さず と都 して
外出
の際にほ必ず初級又は肩衣を着ー
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この
羽織
は磁
的
の際 必ず 活用 した の
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く名
附け
た も の を
着し匙
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脚紳を穿ち草粧を履き腰帯を締め夏に毛皮の尻首ぞ純ひ︑前記各種の治具
︑胡
床︑
輸州
首守
家
僕に持疹せしめたもので
ある
︒
治に醤り相互が妨害とならぬ程度の間隔身保って並び立ち)或は胡床にかhり悠々論告
垂るhあり叉はテンカ一フを操るなど︑競ひ漁する中にも鵬諜さ規矩のある底全く武士の商
目を
保った︒そのテンカラを使ふには水際より約三尺を離るhを定法とするとか聞くが.
現時は水際は向畑
山す べし で
腰ぎりまでも水中に浸り︑他の迷惑を省守右往左往漁場そ撹飢
するもの比々皆然りであるのは輝延すべきで
ある
o
その間家僕は挫柄絡の中の煎茶器などを取出して湯を併
し休
息︑
食事の準備をする︒煙
草を喫しい名を吸わ行闘を閥︑ぎて食を執り︑水に臨んで峰山風時渇の風光ぞ賞観するは賞に浩
気を養ふに足りる︒
鰍汁 合日
夏日炎暑の候犀川︑浅野川の積に於て併す鰍什曾は金慢の名物で全閣何れ
の地
にも決してない行事である︒此曾には務め鋼︑味噌ぞ用意し置き飯は銘々持寄り積で
炊くのである︒惰て曾揚の積に同志が集り竹製のフッタイと稿する漁具と抑板を持つもの
一組
二
人宛数組に分れ河伯の宿舎踏み蹴って叫仰をとる︒滋つ亡体は賄所へ集め味噌什に焚
いて吸り鯨飲馬食︑気を吐き快ぞ識すのである︒在口落時代各武装の稽古所でこれを催し平
素の弊を慰安し七が︑その慣習は今警察署︑青年闘︑軍人分
命自
社一
寸に
停は
って
ゐる
︒
く127)