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別賞奉仕
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石川郡崎浦村
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寺 町
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石川郡野村字泉野
木ノ新保六呑 丁下 近 江 町
角場川岸町
石川郡三馬村
石川郡三馬村 字有松
同 字泉
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町
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豊岡白山紳一位は明治四十一年古遺潤醤紳駐を合併︑奮出雲寺奉仕のもの ︒ 平 岡 野 一 肺 枇
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安江住吉一紳枇住吉三前大榊
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村
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別賞奉仕
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下安江河北郡小抵村字浅野
同字談議所
以上三十二社は氏子を有するがその泉野菅原紳吐ま時
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E 泉寺維新前ほ卯辰八幡宮同様務
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の崇敬愛︿正月には藩士必
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治三年神悌混靖禁制まで真宗修験汲が奉仕のものである︒
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紳繁太鼓と翠玄 以上は寝間藩時代より繕縮刷して本地霊跡設に基づき本地怖や祭ったものである︒
現時市内の各神社では祭躍は云ふ迄もなく平素でも枇殿に太鼓
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備附け︑朝夕並に参詣人のある毎に打ち鳴らすのを例とする︒叉祭典には神子郎も亙女が
梨じ連れて奏舞する︒此の太鼓を紳梨と唱へて打ち鳴らすのは金津に限るととである︒間
く89)
く底によると替藩時代には上記の紳枇中五祉の外二三祉や除き他の悉くはその︑奉仕者が・
員言宗修験波の山伏併であったので此等の粧借奉仕の紳枇には紳楽なく感女を舞はすとと
( 90 )
を得なーかったので︑太鼓を鳴らして紳楽に代へたのが何時ともな¥枇人奉仕の枇でも太鼓
を備へ逗女の奪取と併せ用ゐるやうになったo叉別賞枇借奉仕の祉は明治二年榊偽湿器??
禁制され何れも榊枇競に改稿し︑奉仕の山伏も還俗し又は他へ特出することh
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それ以来昼女を置いて之復併用し来たものであるといふoそれから維新嘗時は各枇で座女
を舞は寸折太鼓︑笛・拍子︑摺鐘を合奏したものだが今は筒︑太鼓のみに省略されてゐるo
向金滞の各一舵では紳融市殿の設けがないので拝殿でこれを舞奏することになってゐるo氏紳
祭穫は明治十年頃まで典鵡慣習の昔を偲ぶものがあったが︑世の準赤と生活的簡易化につ
れて亦昔日の盛観なきに至ったのは惜しむべきである︒
催し物春秋二度の祭躍には氏子の家々赤飯を炊き︑親戚知己を講じて置酒腕宴を張
る︒又秋祭には多く甘酒を醸すのが例である︒武家では門内叉は後庭に︑町家は応頭で催
し物の獅子舞︑祇園嚇︑二輪加等を演ぜしめ時に宴席に引き主客これに纏頭を奥へるo叉
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提灯と繕行煙町家は祭躍中多くは業金休み街路を掃除し軒頭に荏蓮縄を張り︑木
綿二巾一紺叉は鼠色に自家の定紋を白く染抜いた幕を打ち廻し︑麗々紐綿在以て括り上げ庇
には鈎叉は綿を附けた爆を掛ける︒叉提灯や行燈ぞ掲げるが提灯は丸いのも長いのもあっ
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一軒に二個乃至四個や吊し家紋或は氏神枇の徽章を表すあり叉撃に﹁御一脚
燈﹂さ記したのもある︒行燈は巾二尺丈三尺横七八寸位で枠を漆塗にし表には忠臣蔵.太
聞記︑白縫物語︑自雷也など讃み本の績き織を書いたのや強るが中には大漕織や溺れ織を書
いたのもある︒行燈左右の横には天下泰卒︑町内安全︑商寅繁晶︑
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寓民快楽などの目出度い聯句を書く︒とれを長さ約十尺の霊木の上部より約一尺の虚に掲
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げ垂木の上部に松が枝︑楓の枝︑又は薄の束ねたものに折鶴と小短珊をつけ或は割竹十数
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本を併列して紙製の楼と金銀紙の小短加そ附けたのを騎すが︑此の提灯さ行燈は大掠町内
く92)
揃ひのものであるc又町家で浩頭奇襲飾して建物をなし或は生花を飾る向もある︒獅子舞︑
紙園嚇等の催し物は先づ神前に参詣演舞して後祭躍各町を練り廻ったものだが︑現時は粧
費雑用の関係から之等の催し物も逐年衰退に傾いてゐる︒
婦女の参詣
諸問藩時杓婦女子は外出容易ならざりしととは前にも述べた昆であゐが︑春の演遊び秋の遊山吉共に年二度の祭躍には親戚故奮互に往来訪問して︑園祭輯睦を許され
てゐにので婦女子は殊に祭躍の日を待も焦れたものである︒武家の婦女が氏紳へ参詣する
には徒歩の者もあれば駕に乗って薙刀を持たすもあって各身分に従ひ格式を保つが何れ
も盛袈美々しく侍女牌僕に擁せられ青傘を臨調して練ったものである︒ 青傘ほ雨傘より少し小さ︿泊を塗らないもの
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分に賑ふ街上の風光は全く物珍らしさの極みであつにらう︒
全圏各地の祭鵡十の九までは神輿渡御の式があるが︑濁り金津の祭躍には此の事がない︒
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h v 紳一勝御蔵の式がある︒同祉は維新
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頃迄は卯辰毘沙門天︑又治問多門天と稽し晴矧抗野紘一四例措法ザ毎時は卯辰山上一本松
の傍に勤講せられ後現在の地に移したもので古宮の小洞鳥居とも今存するo
毎年
春祭
一一
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十咽
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神輿
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舟の
山車
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にお迎へするのである︒とれ金津一祭躍で唯一の御聴であるが維新一後毘沙門天は
下小川町天台律宗来数寺に遜し現時祭神は高皇産霊神外六座となってゐる︒叉他地方では
宵宮と稽へるが金揮では宵祭と呼ぶ︒
野町に鎮座の泉野岬枇は奮紳明宮と稽し全閣一二一紳明宵の一である︒祭神は天
照大紳でその祭躍第}日を御日待といひ︑人々十五日の日暮よわ参詣夜栓徹して十六日の
神明祭
日の出を奔まんと待つ︒とれは云ふ迄もなく天照大紳即日輸の思想から起ったもので︑現
んーもその賑ひ昔日に譲らぬが祉頭夜を徹して日出を待つものはゐない︒嘗祉の祭鵡は頗る
成娠を極めたもので全市は勿論近郷近布から参詣者婿集し枇地の内外立錐の飴地なきもの
であった︒境内には炎り餅と稽して一寸角位の薄い餅を竹の串に貫き火に炎り︑砂糖と生
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委を醤油に混ぜた汁金塗つ七のを商ふ尾基底が軒を連ね︑参詣者は必歩購うて家土産にす