日本・熊本大学・朴 美子
一 序
李賢輔の「生日歌」并序(『聾巖集』巻三)に「致仕投閒、亦過一紀、其晩年去就、逸樂行迹、 盡于此三短歌、聊書以自誇云。(致仕閒に投じ、亦た一紀を過ぐ。其れ晩年の去就、行迹に逸楽す るは、此の三短歌に尽きたり。聊か書して以て自ら誇るのみ)」とある。官職を辞めてから十二年 が過ぎて、晩年の去就や行迹に逸楽したことが三短歌に尽きていると述べられている。三短歌とは 「効嚬歌」「聾巖歌」「生日歌」の三つの短歌を指す。李賢輔はこれらの短歌に人生のすべてを表し ていたと言っても過言ではない。従って、この三つの短歌を通して李賢輔の帰去来に対する真実が 確認できると考えられる。 これまでの研究論文の多くは、「漁夫辞」に関するもの、陶淵明及び「効嚬歌」に関するもので ある 。(1)これらの論文の内、「聾巖の浪漫性は老荘思想から出たのではない」と述べられているが 、(2) 李賢輔の友人の詩文には、李賢輔の山水を楽しむ姿に招隠を思わせる老荘思想が含まれていること を認めたものが見られる。また、「効嚬歌」に関する論文には不備が見られる 。(3)さらに、「効嚬歌」 の結句についての解釈は二つに分かれているが、解釈が分かれる理由は「効嚬」にまつわる典故の 追究が不十分であるためと考えられる。本稿では、これらの問題に着目して、「効嚬歌」「聾巖歌」 「生日歌」を具体的に分析し究明することにより、李賢輔の生き方、帰去来に対する真実を明らか にしようと思う。二 三短歌
二の一「効嚬歌」
「効嚬歌」は陶淵明の帰去来辞を本にした作である。「効嚬歌」(『聾巖集』巻三)に「歸去來歸去 來말분이오가리업새, 田園이將蕪하니아니가고엇델고, 草堂애清風明月이나명들명기다리나니(帰 去来帰去来、話しだけで行く人はいない、田園があれようとしているのに行かなくてどうする、草 堂に清風明月が出没して待っている(のに))」と歌う。この歌は漢文とハングルが混じっているが、 研究者の間では結句の「草堂に清風明月が出没して待っている(のに)」に関して、「いる」と「い るのに」と二つの分かれた解釈を行っている。そのことについて、成昊慶氏は一つは曖昧な主観的 解釈で、いま一つは原因や根拠を持つ必然的な解釈であると述べる 。(4)しかし、分かれた二つの解 釈を解明するには、この詩の題名からその根源を探らなくてはならない。「効嚬」は『莊子』の「天 運篇」第十四に見える言葉であり、荘子の中心思想である「荘子の天其れ運るか」を理解すること により分かれた二つの解釈が解明できる。 『莊子』「天運篇」に「故西施病心而矉其里、其里之醜人見而美之、歸亦捧心矉其里、其里之富 人見之、堅閉門而不出、貧人見之、挈妻子而去之走、彼知美矉而不知矉之所以美、惜乎、而夫子其 窮哉。(故に西施心を病みて其の里に矉せしに、其の里の醜人見て之を美とし、帰るも亦た心を捧 げて其の里に矉せり。其の里の富める人之を見て、堅く門を閉ざして出でず。貧しき人之を見て、 妻子を挈えて之を去てて走げたり。彼の矉むるを美しとするを知るも矉むるの美しき所以を知らざ るなり。惜しいかな、而の夫子は其れ窮しまんか)」と記載されている。矉は顰、嚬とも同義語で ある。これは醜人が西施の眉をひそめた格好を見て美しいと感じ、自分も西施と同じく眉をひそめたという話しである。眉をひそめることがどうして美しく見えるのか、醜人はその根本の理由が分 からないままにただ真似をしていた。そのために余計に誤解を招いて回りを驚かせるようになった のである。この話しは本質を知らずに外観だけをまねることに対する皮肉であり、間違った真似を してはいけないとの教訓である。李賢輔は「効嚬歌」に、人々は陶淵明の帰去来に憧れているが、 それは話しだけに止まっており、実践はしていないと述べている。これは憧れて真似だけしないで 本質を直視すべきであると主張するものである。もしも陶淵明が帰去来したように帰去来を実践す るならば、田園は荒れることにならないからである。 また、『莊子』「天運篇」に「至貴、國爵并焉、至富、國財并焉、至願、名誉并焉、是以道不渝。 (至貴は国爵をば并けて、至富は国財をば并けて、至願は名誉をば并けて、是を以て道は渝らず)」 とある。これは荘子の無為自然の世界を表している。無為自然の道が得られれば、国家が与えてく れる爵位や財産、名誉など棄てて顧みない。なぜならこれらの物は一時的なものであり、無為自然 の道は悠久不滅なものであるからだ。しかし、人々は目の前にある富だけを求めているので真の道 が分からないのである。李賢輔の「効嚬歌」第一、二句の「歸去來歸去來話しだけで行く人はいな い、田園が將に蕪んとするのに行かなくてどうする」にはこれら荘子の無為自然に生きることを実 践したいという願望が含まれているのである。 李賢輔の「効嚬歌」の第三句の「草堂に清風明月が出没して待っている(のに)」句は、『莊子』 「天運篇」に「日月星辰行其紀、吾止之於有窮、流之於無止。(日月星辰其の紀を行る、吾れ之を 窮り有るに止め、之を止る無きに流す)」によるものと考えられる。日月星辰はそれぞれの軌道を 運行する。そして、私は有限なる万物の世界に止め、ある時には無限な世界に遊ぶという。すなわ ち、万物の世界には調和があり、万物が表れるかと思うと沈みがある。また、春が来れば夏が来て 秋・冬が来るという季節の変移があるように、この句は有限の万物に遊びつつ、無限の超越的世界 に入ることを表しているのである。 「効嚬歌」并序に「嘉靖壬寅秋、聾巖翁始鮮圭組、出國門賃歸船、飲餞于漢江、醉臥舟上、月出 東山、微風乍起、詠陶彭澤、舟搖搖以輕颺、風飄飄而吹衣之句、歸興益濃、怡然自笑、乃作此歌、 歌本淵明歸去來辭而作、故稱効嚬。(嘉靖壬寅の秋、聾巖翁始めて圭組を鮮し、国門を出でて帰船 を賃り、漢江に飲餞し、舟上に酔臥す。月東山より出で、微風乍ち起こる。陶彭澤の、舟揺揺とし て以て軽颺たり、風飄飄として衣を吹くの句を詠ずれば、帰興益す濃し。怡然として自から笑い、 乃ち此歌を作る。歌は淵明の帰去来辞に本づきて作る。故に効嚬と称す。)」と述べられている。「効 嚬歌」は李賢輔が七十六歳のおりに朝廷から故郷に帰る時、船に乗って作ったものである。この注 に述べているように、李賢輔は陶淵明の「舟揺揺以軽颺、風飄飄而吹衣」の句を引用して帰郷の喜 びを表していた。 以上のことを通して、李賢輔の「効嚬歌」には陶淵明の帰去来を真似るだけに留まっていなか ったのである。また、「効嚬歌」は世俗的拘束や固執から離脱して無為自然の道に遊ぶことを訴え ており、李賢輔は帰郷によって無為自然の道が実践できることに十分満足していたことが分かる。
二の二 「聾巖歌」
「聾巖歌」(『聾巖集』巻三)に、「聾巖애올라보니老眼이猶明이로다、人事이變한달山川이똑가샐가、 巖前에某水某丘이어제본닷하예라(聾巖に登ってみると老眼はなお明らかだ、人事が変わるだって 山川が同じくなくなるだろうか、巖前に某水某丘が昨日見たようだ)」と述べられている。この歌 は李賢輔の七十六歳の作で、故郷に帰ってすぐに、聾巖に登って山川をめぐりながらの感慨を表し たものである。その序に「巖翁久仕於京、始還于郷、登聾巖、周覧山川、不無令威之感、而猶喜其舊遊陳迹之依然、又作此歌。(巖翁久しく京に仕え、始めて郷に還りて、聾巖に登り、山川を周覧 するに、令威の感無きにあらず。而して猶お其の旧遊・陳迹の依然たるを喜び、又た此の歌を作る)」 とある。李賢輔は昔のままにある山川を眺めながら喜びを表している。都で長らく官職についてお り、帰りたいと思ってもなかなか思うとおりにならなかった。それは天子の許しがおりず、朝廷を 離れることができなかったからである。そこで、病気などによる願い出により、ようやく許可が出 たので故郷に帰ることができた。帰郷の喜びは大きく、昔と変わらないままの山水に親しみを感じ て、喜びは増したのである。 李賢輔と交流があった李滉(一五〇一―一五七〇)は李賢輔の聾巖生活についていくつもの詩を 残している。そのうちの一首「拝聾巖先生、先生令侍兒歌東坡月夜飲杏花下詩、次其韻示之、滉亦 奉和呈上」(『退溪集』巻一)に「病臥山中九十春、起拝巖仙春喚人。巖中老仙惜光景、獨立汀洲詠 白蘋。(病みて山中に臥す九十の春、起して巖仙の春人を喚ぶを拝す。巖中の老仙光景を惜み、獨 り汀洲に立ちて白蘋を詠ず)」とあり、「聾巖李相公招滉同遊屏風庵」(『退溪集』別集巻一)には「雨 霽天空積水平、閒騎果下傍沙汀。胡僧絶壁庵開晝、仙老清秋屐上屏。窈窕巖泉供佛祖、風流杯酒答 山靈。何能小作壺中隱、靜裏工夫討汗青。(雨霽れ天空は積水平らかに、閒かに果下に騎りて沙汀 に傍ら。胡僧絶壁の庵昼開け、仙老清秋の屐屏を上る。窈窕たる巖泉佛祖に供し、風流の杯酒山霊 に答う。何んぞ能く小さく壷中隠を作し、静裏の工夫汗青を討ねん)」と述べられている。李滉は 李賢輔を「巖仙」「老仙」「仙老」と、仙人扱いをしている。また、李滉は李賢輔の住いについて、 「結屋崖邊石磴斜、憑闌如在羽人家。公能解紱歸田早、我亦攜壺賞景多。(屋を崖邊石磴の斜めな るに結び、闌に憑るは羽人の家に在るが如し。公能く解紱して帰田すること早く、我れも亦た壷を 攜えて賞景すること多し)」(「愛日堂後臺上、陪李府尹遊賞、時公辤慶尹、家居」(『退溪集』別集 巻一))と述べている。李府尹は李賢輔を指す。李滉は李賢輔が帰ってから供に過ごす時間が多か ったが、李賢輔の住まいがまるで「羽人家」であると表現している。すなわち、李滉は聾巖の住む ところは人間の世界ではない仙人の住む所であると述べているのである。 それでは、李賢輔の帰去来の生活、仙人のような生活を李賢輔と交流があった友達の詩を通して 窺うことにするが、まず、李賢輔と最も交流が深かった李滉の詩から具体的に見てみよう。 櫳 罇酒相攜許入舟、仍於高座笑臨流。玲瓏玉界卥 靜、縹緲仙娥鼓笛稠。 世路向時眞失脚、菊花今日滿簪頭。何因得脱浮名繋、日日來從物外遊。 櫳 (罇酒相い攜えて舟に入るを許し、仍ち高座に於いて笑いて流に臨む。玲瓏たる玉界卥 静かに、縹緲たる仙娥鼓笛稠し。世路向時真に脚を失し、菊花今日満ちて頭に簪す。何に因 りて浮名に繋がれて脱して、日日来たりて物外に從いて遊ぶを得んや) (「昨拝聾巖 先生、退而有感作詩」二首その二) 灩 俙 花發仙壇麗日華、千春光景此時多。玉罇瀲 流霞液、雲幔依 薄霧紗。 閬苑瑤池囗囗囗、童顔鶴髪帯微酡。我今卻笑桃源客、一返無由再到何。 (花は仙壇に発きて日華麗しく、千春の光景此時多し。玉罇瀲灩たり流霞の液、雲幔依俙 たり薄霧の紗。閬苑瑶池囗囗囗、童顔鶴髪微酡を帯ぶ。我れ今卻って桃源の客を笑う、一た び返れば由し無し再び何こに到るに) (「次聾巖先生韻」『退渓集』続集巻二) 前者は世間に縛られることなく、世間からの脱出口であるこここそ無何有の世界であると述べ
る。後者は霞を飲み、仙人の生活を行う様子を述べる。その昔一人の漁父が一度桃源を尋ねたもの の、その後再び桃源境を尋ねることができなかったが、しかし私は今桃源境にいるのだと誇らしげ に述べている。無論、ここには李滉の李賢輔に対する世辞が含まれていると考えられるが、それに しても李滉が李賢輔に関連する詩文のほとんどに仙という文字を用いているのをみると、李賢輔が 世俗を超越しようとする生活をしていたのは確かであると考えられる。李滉の「昨拝聾巖先生、退 而有感作詩」二首(『退溪集』續集巻二)のその一に「自媿塵心渾未断、商巖仙境得陪遊。(自ら媿 ず塵心渾て未だ断たざるに、商巖の仙境陪遊するを得たるを)」(八句中結句)と述べられており、 恐らく李滉は李賢輔の気高い遊びに倣って、ともに自然を愛でることにより、自分も世俗の心を遮 断しようとしていたのであろう。 李彦迪(一四九一―一五四六)の「送李府尹親老辭職還郷」三首(『晦斎集』巻二)、その三に「烟 霞境外探玄化、功業人間賛大猷。(烟霞の境外玄化を探り、功業の人間大猷を賛す)」と述べられて いる 。(5)李賢輔の故郷での生活が仙人の生活のようだと述べているのである。また、李彦迪の「書 李知事愛日堂」(巻三)には、「疊石構亭臨水曲、天成佳勝付幽人。聾巖境爽非凡界、愛日情深見性 眞。(畳石亭を構えて水曲に臨み、天佳勝を成して幽人に付す。聾巖境爽にして凡界に非らず、愛 日の情深くして性真を見わす)」とある。李賢輔は浮き世から離れて静かに暮らす人で、愛日堂で の生活は平凡な世界ではないと述べる。李彦迪の詩もまた李滉の詩のように李賢輔の生活が仙人に 似た生活であったことを窺わせる。 さらに、周世鵬(一四九五―一五五四)の「次汾上醉時歌韻、敬謝靈芝大仙侍史」(『武陵雜稿』 原集、巻一)に、「靈芝大仙是木公、視岱如毫海如勺。(霊芝大仙是れ木公、岱は毫の如く海は勺の 如きを視る)」とあり、続けて「聾巖簟石仙遨同、氷夷起舞鵾絃急。局邊豈無爛柯兒、不信人間光 景促。仙女哦詩愜宮商、仙童解楫工前却。源花杳杳出洞來、飛絮雪落侑仙酢。大仙時作鸞鳳吟、衆 仙和之蒼壁裂。仙乎仙乎氣成霞、崖杉岸柳森幢節。(聾巖簟石の仙遨びを同じくし、氷夷起舞すれ ば鵾絃急なり。局辺豈に爛柯の児無からんや、信ぜず人間の光景を促がすを。仙女詩を哦い宮商を 愜くし、仙童楫を解きて前却を工みにす。源花杳杳として洞より出で来たり、飛絮雪落ちて仙酢を 侑く。大仙時に鸞鳳吟を作し、衆仙之に和すれば蒼壁裂く。仙や仙や気霞と成り、崖杉岸柳幢節森 たり)」と述べられている。その注に「木公既爲東方男仙之長、則今之木公、非相公而何。(木公既 に東方男仙の長と為れば、則ち今の木公、相公にあらずして何ぞや)」とあり、続いて「皆用神仙 中語、彼果仙耶、此果非仙耶。(皆な神仙中の語を用う、彼れ果して仙なるか、此れ果して仙にあ らざるか)」とある。また、この詩には「附李聾巖醉時歌本韻」の記載が見られ、李聾巖が酔時歌 を詠じた作に周世鵬が次韻したことが述べられている。周世鵬もまた李賢輔を仙人扱いをしており、 李賢輔の遊びはあたかも仙界におけるものであり、人間世界では見られない光景であると考えてい たのである。 李賢輔自身の詩にもまた平凡ではない仙界での遊覧のごとき生活がうたわれている。李賢輔の 「題靈芝精舎」(『聾巖集』巻一)の注に「壬寅秋、余以年老、致仕來家、家饒泉石、非無臺榭遊覽 之所、而塵紛世念、不能無惱於其間、乃募素欵僧人、稍有幹才名為祖澄者、助給資財、營構精舎數 間于此、不數月而舎成、、、只令澄僧、徃來消遣、作我頗養之地也、舎南百歩外、有峰斗起、松樹羅 生、除地爲臺、是山之洞門也、自下而來者、到此休憩、山路危險、或下馬歩進、距舎數十歩、有坑 谷路斷、積石爲補、作爲層階、但可通人、不得通馬、旁築高臺、亦令坐歇、客至于此、則騶従皆除、 而杖屨單行、不使喧閙於舎門。(壬寅の秋、余年老を以て、致仕して家に来たる。家に泉石を饒ら し、台榭遊覧の所無きに非ず。而して塵紛世念、其の間に惱む無き能わず、乃ち素欵の僧人を募り、 稍や幹才の名づけて祖澄と為す者有り、助けて資財を給い、精舎数間を此に営構し、数月ならずし
て舎成る、、、只だ澄僧をして、徃来して消遣せしめ、我が頗る養うの地を作る。舎の南百歩の外、 峰斗起こる有り、松樹羅生す。地を除いて臺と為す。是れ山の洞門なり。下自りして来たる者、此 に到りて休憩す。山路は危険にして、或いは馬より下りて歩みて進む。舎より距ること数十歩、坑 谷有りて路断つ。石を積みて補を為し、作りて層階と為す。但だ人を通すべきも、馬を通ずるを得 ず。旁らに高臺を築き、亦た坐して歇ましむ。客此に至れば、則ち騶従皆な除いて、杖屨して単行 し、舎門を喧閙せしめず)」とある。また、その「題靈芝精舎」(『聾巖集』巻一)詩二首中その一 に「生來成癖烟霞趣、白首膏盲未易攻。家近聾巖嫌在俗、靈芝新占藥頭峯。(生来烟霞の趣を癖と 成し、白首の膏盲未だ攻め易からず。家は聾巖に近く俗に在るを嫌う、霊芝新たに薬頭峯を占む)」 と述べられている。この注及び詩から考えられることは、李賢輔は世俗を忘れるためにさらに山の 奥へと入っていき、険しい山を開拓して精舎を構えている。それは精舎の回りには世俗の騒音など 寄せたくないと願っているからである。この詩では僧侶の助けを得ており、名前を寺院とする面に おいては仏教を思わせるが、しかし、「烟霞趣」は山水の良い景色を愛でることを、「靈芝」は仙界 灩 の不老草を意味し、また「日日來從物外遊」「玉罇瀲 流霞液」「童顔鶴髪帯微酡」といった表現や、 深い山中に修業の場を構えている姿には、ただ自然を楽しむだけに留まらない積極性が認められる のである 。(6) 李滉、李彦迪と周世鵬の詩文は、李賢輔の生活を身近に眺めながら感じたさまを述べたものであ る。彼らは李賢輔が世間を超越する雰囲気の山水を愛でる姿から仙人扱いをしていた。また、李賢 輔自分も仙界を連想させる雰囲気を描いていた。その自然を貴び、山水を求める仙人生活には老荘 の感情が含まれているのである。これまでのことを通して、鄭英文氏が主張するように、聾巖の浪 漫性は老荘思想から出たのではないとは断言できないと考えられる。
二の三 「生日歌」
「効嚬歌」「聾巖歌」 よ り 十年余 り 経 っ て 作 っ た 作、「生日歌」 に 「功名이그지이실가壽夭도天定이라、金犀대구븐허리예八十逢春긔몃해오、年年에오낫나리亦君 恩이샷다(功名におわりがあろうか、寿夭も天の定めだ。金犀に曲げた腰に八十逢春それ幾年な のか、年年に今日のような日亦君恩であろう)」と述べられている。「生日歌」は八十五歳の作であ り、功名と長寿を全うして君恩にも恵まれたことが述べられている。李賢輔にとって、功名を求め る、寿命は天にあるとし、君の恩に感謝すると言ったことなどは儒学者のあるべき道理である。李 賢輔は天子の恩を思う気持ちを持ち続けていたのである。 「我屋南山下、數間補茅茨。此屋豈爲華、身安心自怡。官遊四十年、出入寄於玆。里閈亦親睦、 歳久皆相知。花朝與月夕、鷄黍無間稀。年來衰且病、乞退惟其時。家在嶺之南、魂夢尋常馳。行將 掛手板、歸袖風披披。同遊二三子、日日來相隨。討論前日歡、去留倶依依。徂玆燈夕遊、最未忘于 斯。・・持歸聾巌舎、羅列聚郷兒。還如與諸公、會集終南陂。」 (我が屋は南山の下、数間茅茨を補う。此の屋豈に華と為さんや、身安らかにして心自ら怡ぶ。 官遊すること四十年、出入して玆に寄す。里閈亦た親睦し、歳久しくして皆な相い知る。花朝と月 夕と、鶏黍間無く稀れ。年来衰且つ病、退かんことを乞うは惟れ其の時。家は嶺の南に在り、魂夢 尋常に馳る。行くゆく将に手板を掛けんとす、帰袖に風披披たり。同じく二三子と遊び、日日来た りて相い随う。討論す前日の歓び、去留倶に依依たり。玆の燈夕の遊を徂き、最も未だ斯を忘れ ず。・・持ちて聾巖舎に帰す、羅列して郷児を聚む。 還た諸公と、終南の陂に会集するが如し) 「題終南遊録後」(『聾巌集』巻一) この詩には李賢輔が南山に茅葺きの家を構えて、心安らかに自然とともに生活する様子が述べられている。ここに出入りしながら四十年あまり官職生活をしたと述べているが、彼が官職で活躍す るようになったのは三十二歳の時、式年文科の丙科に及第した時であることから考えると、この詩 は晩年の作であると分かる。また、南山は終南の地を意味するが、終南がどこなのかは明らかでは ない。ただ、「我屋南山下」と「家在嶺之南」句があり、屋と家を分けて書いているのをみると、 終南はおそらく故郷嶺南から離れたところであり、李賢輔は都にある終南ですみかを構えて仮住ま いをしていたように見られる。 李賢輔が生きた時代には「戊午士禍」「己卯士禍」「乙巳士禍」などが起こり、多くの 仕官たちが処刑される波瀾万丈の政界中、李賢輔も災傷に関する報告書に誤りがあったために職を 降りたことがある。即ち、李賢輔において終南での生活は安らぎの日々のみではなかった。上京し て仕官できなかった時期もあり、仕官を辞めさせられ時期があり、終南は李賢輔に多くの喜怒哀楽 を与えた場所であった。李賢輔が退渓の書に答えた「答退溪書」(『聾巖集』巻二)には、「僮霖連 惡、江水漲溢、阻路不通、孤寓小閣、牆頽屋漏、晝無所寄、夜不能寐、欝欝幽懷、誰與開展、不審 溪邊茅舎、將何過了。(僮霖連ねて悪く、江水漲って溢れ、路を阻みて通らず、孤寓小閣、墻頽れ 屋漏れ、昼寄る所無く、夜寐る能わず。欝欝たる幽懐、誰か与に開展せんや。渓辺の茅舎を審らか ず、将た何ぞん過ぎおわるをや)」とあり、また、「再白」(『聾巖集』巻二)には「昨還于家、霖雨 復作、家庭汚漏、遠近所聞、皆驚歎之事、氣亦不平。(昨家に還れば、霖雨復た作り、家庭汚れ漏 る。遠近聞く所、皆な驚歎の事にして、気も亦た平かならず)」と述べられている。この詩には家 のへいは壊れて家屋に雨が漏れて困っていた様子が述べられている。長雨のために江の水があふれ、 道路は通れず、李賢輔の家も被害を受けた。長雨の影響があるにせよ、彼の家は決して丈夫ではな く立派なものではないのである。従って、彼の終南での生活は誇るものではなかったと推測できる。 また、晩年の作、「盆魚行、録奉李景明昆季求和」(『聾巖集』巻一)には南山生活の苦しみが述 べられている。その詩に、「仲夏晷刻長、恒陽又方熾。我屋南山前、裭職閒無事。門絶剥啄驚、塊 坐困晝睡。童稚悶寂寥、罩取魚兒至。繊鱗四五箇、喁噞憐憔悴。斗水儲瓦盆、放之而爲戯。始舎圉 圉然、漸蘇如起醉。俄然作隊行、交頭疑湊餌。撥刺或欲飛、盆中游自恣。然非得其所、爾生還可瘁。 方此大旱餘、川澤皆枯匱。盆水朝夕渇、糜爛安可避。呴沫以爲恩、不思終委棄。魚兒反笑余、對臆 陳其志。吾觀世上人、儿海沈名利、隨行而逐隊、添丐恩光被、青雲鳳池裏、揚揚方得意、風波一夕 起、將身無處置、姑息活躯命、人與物無異、而余聞其言、感歎心還悸、冥頑無知物、所言何有智、 余居嶺之南、京師爲旅寄、既非爲禄仕、亦無百口累、遷延將數年、光陰同隙駟、雖言恩未報、亦是 貪爵位、白髪走紅塵、寧不被譏刺、頃聞來使言、莬裘營已既、往追已不及、來者猶可企、行將掛手 板、亟把南轅轡、魚兒復魚兒、此言當籍記、江湖浩萬里、永作相忌地。(仲夏晷刻長し、恒に陽に 裭 して又た方に熾し。我が屋南山の前、 職閒にして事無し。門は絶ゆ剥啄の驚きを、塊坐して昼睡 に困ず。童稚寂寥たるに悶え、罩もて魚児の至るを取る。繊鱗四五箇、喁噞として憔悴を憐れむ。 斗水瓦盆に儲え、之を放ちて戯れを為す。始め舎ること圉圉然たるも、漸く蘇ること酔より起きる が如し。俄然として隊行を作し、頭を交わして餌に湊まるかと疑う。撥刺として或いは飛ばんと欲 し、盆中に游びて自ら恣にす。然れども其の所を得るに非ざれば、爾じの生は還た瘁すべし。此の 大いに旱する餘に方り、川澤皆な枯匱す。盆水朝夕に渇し、糜爛安んぞ避くるべけんや。呴沫して 以て恩と為し、終に委棄するを思わず。魚児反って余を笑う、臆に対して其の志を陳ぶ。吾世上人 を観るに、儿海名利に沈む。随行して隊を逐う、添えて恩光被むるを丐う、青雲鳳池の裏、揚揚と して方に意を得たり、風波一夕起きれば、身を将て置くに処無し。姑息躯命を活し、人と物と異な る無し。而して余其の言を聞き、感歎して心還た悸す。冥頑にして物を知る無し、言う所何んぞ智 有らん。余嶺の南に居り、京師旅寄を為す。既に禄仕を為すに非らず、亦た百口の累無し。遷延す
ること将に数年、光陰隙駟に同じ。恩未だ報いずと言うと雖も、亦た是れ爵位を貪る。白髪紅塵に 走り、寧んぞ譏刺を被らざるや。頃聞く来使の言、莬裘の営むこと已に既にすと。往追するも已に 及ばざるも、来る者は猶お企つべし。行きて将に手板を掛け、亟かに南の轅轡を把らん。魚兒復た 魚兒、此の言當に籍記すべし。江湖萬里浩く、永く相い忌むの地と作す)」)」とある。この詩は七 十四歳の五月の作である。「我屋南山前」の南山は恐らく終南ではないかと思われる。自分の置か れた状況を旱に苦しむ魚と照らし合わせて、己の意志のよわさを魚児によって悟っている。また、 彼は今故郷の嶺南にいると述べていることから、朝廷を離れた状態である。李賢輔は官職に就いて いる間、いくつかの職を替わっており、ある時期には獄中生活をし、ある時期には職を辞していた。 世間には名利を求める人が多く、自分は身を置く場所も無くなっている。結句に「江湖浩萬里、永 作相忌地」と述べられていることから、今嶺南で生活をしながら、むかし終南にいた頃、官職のた めに京師に出かけたことを回想しているものと思われる。川で自由に泳いでいた魚が狭いところに 閉じこめられて苦しむ姿を自分に投影し、終南で自由な生活ができなかったことを回想している。 そして、故郷の山水に出かけることによって官職への失望と苦労を幾分晴らそうとしたのであろう。 しかしながら、「盆魚行、録奉李景明昆季求和」詩に「雖言恩未報、亦是貪爵位、白髪走紅塵、 寧不被譏刺」と述べており、李賢輔は天子によりなかなか官職を辞めることができなかったし、ま た李賢輔自身も容易には官職を辞められなかったのである。 李賢輔が八十歳(一五四六)の時に書いたと思われる「再次各贈兩翁」(『聾巖集』巻一)二首中 の一首目に「儒術辛勤未有終、憐君才命不同逢。蓬蒿久歛連雲翮、樑棟無心臥壑松。憤懣有時發長 嘯、昏冥聊復倒深鍾。世人爭務爲拘檢、放達如君莫可容。(儒術辛勤して未だ終り有らず、君の才 命同じく逢わざるを憐れむ。蓬蒿久しく歛して雲翮に連なり、樑棟無心にして壑松に臥す。憤懣時 有りて長嘯を発し、昏冥聊か復た深鍾を倒す。世人争い務めて拘検を為すも、放達なること君の如 きは容るるべき莫し)」と述べられている。両翁は琴正叔と権虞卿の二人を表すが、この詩には琴 正叔に呈したものである。琴正叔は才能がありながら世間を離れて自然の中で無心にかつ気ままに 生きていた。儒学を重んじる当時の観念から考えると両翁の行動は許し難いものである。なぜなら ば、孔子の主張のように世間が好くない時は世間に出るべきで、世間が安定する時は隠遁すべきこ とに反するからである。この詩は李賢輔の儒学に対する信条が窺える。また、その二首目に「慙吾 孤陋栢生石、得子薫陶蒿倚松。薄命未収才八斗、無能還添粟千鍾。從前窮達何須較、共喜樽前矍鑠 容。(吾が孤陋にして栢石より生ずるを慙じ、子薫陶として蒿松に倚るを得ん。薄命未だ才の八斗 を収めず、無能還た粟千鍾を添ならす。従前の窮達何ぞ較るを須いん、共に喜ぶ樽前矍鑠たる容を)」 と述べられている。この詩は権虞卿に呈したものである。権虞卿は優れた徳や栄達を持っているの に、自分は無能でかつ貧困であると言う。李賢輔は両翁に憧れていながらも、朝廷で殺し合いが発 生しても自分に与えられた任務を勤めていたのである。
三 結
李賢輔の三短歌である「効嚬歌」「聾巖歌」「生日歌」の考察を通して李賢輔の帰去来を窺った。 李賢輔は「効嚬歌」では無為自然を、「聾巖歌」では仙人生活に憧れる生活を描き、理想と現実の 間を彷徨しながら生きていた。しかし、「生日歌」に描いたように、彼の終着地は、やはり、天子 の恩を思う儒学の道、君臣としての道であった。即ち、李賢輔の晩年における帰去来への生き方は 儒学が土台となっており、その上にかつ老荘思想が存在していたのである。李賢輔は老年に「漁父 歌」を残していた。彼が理想と現実の間を彷徨しながら生きたことから考えれば、漁父のように動 きある生活、気ままな生活もまた李賢輔の憧れる帰去来生活の一部であると看取できる。注 1、漁父歌に関する論文としては、梁煕讃「李賢輔「漁父歌」にみえる二つの現実に関する認識構造」(『時調 学論叢』第十九輯、2003、7)、鄭武龍「聾巖李賢輔の長・短「漁父歌」研究(Ⅰ)(Ⅱ)」(『韓民族語文學』第 四十二輯、四十三輯、2002・2003)などがある。また、自然観や帰去来に関する論文としては、成昊慶「聾 巖李賢輔の生と詩歌」(『震檀學報』第九十三號、2002、6)、鄭英文「聾巖の文學に表れる自然觀」(崇實大学 院、修士論文、1996、6)、沈載完「『歸田録』研究:聾巖李賢輔の時調文學」(『安東文化』第 13 輯、1992、 12)などがある。さらに、「聾巖李賢輔の生涯と文学」(朱昇澤、『しょんび(士人)精神と安東文化』、2002、 10)、「李賢輔帰郷の詩歌辞的意義」(崔載南、『叙情詩歌の認識と美学』、2004、10)などがある。 2、鄭英文氏注1論文、38 頁、65 頁。 3、沈載完氏注1論文には、「創意と構成の妙は聾巖少年の「詞章種績、不見労苦、而功倍於人」とした天資 を想起させる。効嚬というが、優れた彼の創意を本歌に探してみることができる」(92 頁)と述べられている。 また、鄭英文氏注1論文には、「李賢輔自分は帰去来するのを「清風と明月が待つ」から行かないわけには行 かないと述べる。「自然」が自分を待つと言うことは、帰去来が自分の意志ではないことを表している。すな わちここでの「自然」は聾巖の欲求充足のための媒介物になっている」(26 頁)と述べられる。 また、朱昇澤注1論文には、「効嚬歌」に効嚬の故事を用いて李賢輔自ら陶淵明を効嚬していたと述べられて いる(259 頁)。 4、成昊慶氏注1論文、231 頁。 5、この詩の一首目には李賢輔が親孝行であることが、二首目には「登山臨水千年恨、恋闕思親兩地愁」と、 国を思うことと親を思うことの間で彷徨していることが述べられる。 6、「山水喜幽遐」(「金丹城枕流亭次李明仲」其一『聾巖集』巻一)、「未負幽栖志」(「金丹城枕流亭次李明仲」 其二『聾巖集』巻一)、「亦自卜深幽」「幽谷少塵愁」(「奉賡溪堂絶句」『聾巖集』巻一)などの句に見られる「幽」 字には、李賢輔の自然に対する奥深さが窺える。 <要旨> 韓国朝鮮時代の古典文学において、多くの詩人や文人は高麗時代と同様に陶淵明を称賛する詩文 や、「帰去来」に和した「和帰去来辞」を残している。朝鮮時代に生きた李賢輔もまた陶淵明を愛 した一人である。李賢輔は陶淵明の生き方を愛でた帰去来に関する詩文を残しており、自らも帰去 来ができたことを表した「効嚬歌」を詠っている。また、李賢輔は当時において早くも隠居したい 気持ちを表した「漁父辞」を残しており、後世の詩人や文人に影響を与えている。 本発表は李賢輔における「帰去来」を究明するものである。これまでの研究をみてみると、まだ 解明されないところが多く、しかも間違った解釈がみられる。鄭英文氏の「聾巖の文学に表れた自 然観」(崇實大学院、1996)には、「聾巖の浪漫性は老荘思想から出たのではなく、聾巖の理念は徹 底的な儒教である」「興趣をもつ聾巖に道学者的な姿は発見できない」と述べられているが、李賢 輔及び彼の友人の詩文には、李賢輔の山水を楽しむ姿に招隠を思わせる老荘思想が含まれているこ とを認めたものである。また、「効嚬歌」の結句「草堂に清風明月が出没して待っている(のに)」 についての解釈は「いる」と「いるのに」と二つに分かれている。成昊慶氏「聾巖李賢輔の生と詩 歌」(『震檀學報』第九十三號、2002、6)、には二解釈に対して、一つは過去の経験をもとにした
主観的解釈で、もう一つは原因や根拠を持つ必然的な解釈であると述べられている。解釈が分かれ る理由は「効嚬」にまつわる典故の追究が不十分であるためと考えられる。すなわち、二解釈の解 明に当たってはこの詩の題名からその根源を探らなければならない。本発表では、これらの点を究 明することにより、李賢輔の帰去来の真実を明らかにしようと考える。 まず、李賢輔自分と李賢輔の友人である李滉、李彦迪と周世鵬などの詩文を通して、李賢輔の山 水を楽しむ姿に招隠を思わせる老荘思想が含まれていることを究明する。また、「効嚬歌」の結句 の二解釈の解明について、「効嚬」にまつわる典故の分析を行う必要がある。「効嚬」は『莊子』の 「天運篇」第十四に見える言葉であり、中心思想である「天其運乎, 地其處乎, 日月其爭於所乎, 孰 主張是, 孰維綱是, 孰居無事, 推而行是」句を理解することにより分かれた二つの解釈が究明でき る。これらの問題に関する分析を具体的に行い、李賢輔の隠逸のあり方を再構築して、李賢輔の生 き方、「帰去来」の真実を明らかにすることが本稿のねらいである。 李賢輔は朝鮮時代初の「漁父歌」を改作しており、韓国の隠逸文学研究において重要な人物であ る。これらの作業は朝鮮時代における隠逸のあり方の一面を知ることができると同時に、「漁父辞」 研究の土台になり得ると思われる。 <요약>
「聾巖李賢輔의 진정한「歸去來」」
일본 쿠마모토대학 박 미자 国 韓 朝鮮時代의 古典文 을 살펴보면,다수의 시인과 문인은 고려시대처럼 도연명을 친송하는 学 시문,「歸去來」를 和한「和歸去來辭」등을 남기고 있다. 조선시대 李賢輔 역시 陶淵明을 사랑한 문인중의 한사람이다. 李賢輔는 陶淵明의 삶을 노래한 詩文을 남기고 있고, 자기자신 스스로도 歸去來를 했다고 노래했다. 그 사실은 그의 노래「効嚬歌」에서 엿볼 수가 있다. 또한, 李賢輔는 그 당시 어느누구보다도 먼저「漁父辭」를 개작해 은거하고 픈 마음을 노래했는데, 그후「漁父辭」는 문인들 사이에서 애창되어졌고, 그 중에는 漁父의 삶을 살기를 염원하고 실천하는 이들도 나타났다. 이번에 본인은 李賢輔문학의 「歸去來」에 관해서 발표를 하고자 한다. 지금까지 연구되어온 논문을 보면 아직도 解明이 안된 부분, 수정되어야 할 부분이 눈에 띈다. 예를들면, 鄭英文씨는 「聾巖의 문학에 나타난 자연관」(崇實大 院,1996)에서、 学 「聾巖의浪漫性은 老 思想에서 나온것이 아니다, 농암의 이념은 철저한 儒敎였다」、「興趣를 荘 누리는 농암에게 도학자적인 모습은 발견되지 않는다」라고 말하고 있다. 그러나, 李賢輔, 그의友人들의 시가를 살펴보면 老 思想을 배제할수가 없다. 荘 또한、「 嚬歌」의 結句「草堂애 効 清風明月이 나명들명 기다리나니」에 관해서、硏究者 사이에「기다리나니」와「기다리니」의 두 해석을 하고 있다. 成昊慶씨는 논문 「聾巖李賢輔의 삶과 시가」 (『震檀學報第九十三號、2002)에서, 하나는 과거의 경험을 바탕으로 한 주관적 판단을, 또하나는 원인이나 근거가 되는 뜻을 나타낸다는 것으로 해석하고 있다. 이 「 嚬歌」의 効 結句에 보이는 두 해석을 해명하기 위해서는 「 嚬歌」인 제목을 살펴볼 필요가 있다. 이러한 効 점들을 분석함으로써、李賢輔의 진정한 「歸去來」를 규명하려고한다.
그 작업으로 먼저、李賢輔 자신과 李賢輔의 友人인 李滉、李彦迪과 周世鵬등의 시문을 통해서、李賢輔가 山水를 즐기는 모습에서 招 을 연상하는 隠 老荘思想이 포함되어 있는 것을 밝히고자 한다.「 嚬歌」 結句의 두 갈래 해석 해명에 있어서는, 効 「 嚬」에 얽힌 典故를 効 살펴볼 필요가 있다.「 嚬」은『莊子』「天運篇」第十四에 있는 표현인데, 그 중심사상인 効 「天其運乎, 地其處乎, 日月其爭於所乎, 孰主張是, 孰維綱是, 孰居無事, 推而行是」句를 理解함으로써 두 갈래의 해석을 이해 할수가 있다. 위의 문제점을 중심으로, 李賢輔의 三短歌인「 嚬歌」「聾巖歌」「生日歌」를 구체적으로 効 분석함으로서, 李賢輔의 진정한 「歸去來」의 삶을 밝히고자 한다. 李賢輔는 朝鮮時代로는 처음으로 개작한 작품「漁父歌」로 인해, 한국의 은일문학연구에 중요한 인물인 만큼, 이 연구는 朝鮮時代에 있어서 隠逸文学의 한 면모를 알수있는 계기가 될것이고, 辞 研 동시에「漁父 」 究의 토대가 되리라고 생각된다. <摘要>
聾巖李贤辅「归去来」诗的奥义
日本 熊本大学 朴美子 在韩国·朝鲜王朝时期的古典文学作品中、有很多诗人和文人们、为了效仿高丽王朝时代、创作了 不少为陶渊明歌功颂德、以及模仿其「归去来」诗、而和的「和归去来辞」的诗歌。李贤 辅也正是 这么一位追求者。 他崇拜陶渊明、热衷地模仿陶的人生观。 为后人留下了有名的「归去来」诗。他 为了表明自己也同样拥有归去来之心境、吟咏有「効嚬歌」一首。在朝鲜王朝的文人中、他早就有隐 居之心。这在他的「渔父辞」作品中、可以推察出。他的隐遁思想、对韩国后期的文人骚客们、均颇 有影响力。 本次发表、目的在于详细解读李贤辅的「归去来」一诗。 在以往的研究史中、李贤辅诗作的解读工 作、并未能完成。同时还有不少误解之处。比如: 1996 年、郑英文氏曾在他的名为「聾巖李贤 辅文 学作品中所表达的自然观」论文中(刊登在崇实大学院)指出:‘聾巖李贤辅的浪漫主义之风格、并不 是来自于老庄思想。他的文学理念中、包含着彻头彻尾的儒教观念。在其文学作品中、没有发现对道 家的兴趣爱好。’确确实实、在李贤 辅与他的诗友之唱和诗文中、涉足于山水之中、 尽情享受大自 然的美景、 抒发老庄思想的招隐情怀的诗句不乏其数。另外、对「効嚬歌」诗中的‘待清风明月于 草堂’一句的注释、也频有异议。一种解释为‘欲待、、’。另一种则认为应是、‘久待、、’。2002 年成 昊庆氏的「聾巖李贤辅的人生和诗歌」(『震檀学報』第九十三号)的论文中、对以上二种解释的产生 原因提出: 前一种是凭借着对往经验而归总出的主观性解释; 后一种则是因为某种原因或依据而产 生出的必然性解释。然而我个人认为、这二种不同的解释之所以会发生、关键问题还应归结到对读诗 中所引用的典故、大家理解不够充分有关。 换而言之、欲解释清楚这二种不同的译法、必须要先从 读诗的诗题去刨根问底。所以说、本次发表就正是欲以这个方法、来明确地指出李贤辅的「归去来」 诗之真正含义。 首先、我通过分析李贤辅和他的诗友李滉、李彦迪、周世鵬等人的唱和诗、来证明李贤辅所拥有的 乐于驻足于山水之间、内心充满了老庄思想之情怀的事实。其次、通过对「効嚬歌」结句出典的二种不同解释的分析、来考证其真正的出处。我以为、‘効嚬’一词出自于『庄子』<天运篇>的第十四段、 它的主要内容是、‘天其运乎、地其处乎、日月其争于所乎、孰主张是、 孰维纲是、孰居无事、推而 行是。’只要能准确理解这一主题思想、二种不同解释的分歧点就迎刃而解了。本发表的目的、就是 针对这二种解释进行具体地分析、重新考证李贤辅地隐遁思想。并通过了解李贤辅的人生观、以及诚 深性地对「归去来」诗进行出典的考证、来掌握其诗的真正寓义。 李贤辅在朝鲜王朝初期、曾改作过「渔父歌」、是韩国隐逸文学代表诗人。通过一系列地精心考证和 比较、欲即可了解朝鲜王朝的隐遁风潮、又期待在不久的将来、能对「渔父辞」一诗重新做进一步地 解释。
작품을 중심으로
-
愛情類
-박 애화
(
고려대학교 석사
)
들어가며
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:
Ⅰ
명나라 瞿佑에 의해 창작된 『剪燈新話』는 한국을 비롯하여 일본 베트남에도 그 번안작이, 있다는 것은 주지의 사실이다 지금까지 각 나라에서. 『剪燈新話』관련 작품에 대한 비교연구 가 활발하게 진행되어 왔는데 그 관련 작품들을 도표로 표시하면 아래와 같다. 본 발표에서는 이 네 작품을 비교연구 대상으로 정하고 가장 유사한 작품을 선정하여, 1:1 형식의 기존 비교방법이 아닌 비슷한 유형의 작품군에 대한 유형별 비교 분석을 통해 작품의, 전체적인 특성에 대해 알아보고자 한다. 특히 애정류(愛情類) 작품에 대해 유형별 분류를 하고 그 내용에 대한 구체적인 비교분석을 통해 각 작품에 나타나는 공통점과 차이점 그리고 작품, 속에 함축된 각 나라 나름의 문화적인 요소와 주제의식을 파악하여 현재까지 이루어진 연구의 보완 재고의 기회를 갖고자 한다, .본론
.
Ⅱ
작품의 분류
1.
역대의 문언소설은 개인 신상의 사적인 것을 쓴 「별전류(別傳類) (」 史傳類라고도 할 수 있 다.), 무용적인 것이나 의협적인 것을 기술한 「의협류(義俠類) ,」 연애이야기를 말한 「염정 류(艶情類)」 및 신괴스럽고 괴이한 것을 적은 「신괴류(神怪類)」의 종류로 구분되어 왔지만 각 나라 작품 특성상 본고에서는 작품들을 크게 애정류(愛情類)와 비애정류(非愛情類) 작품군1) 으로 분류를 하고 애정류 작품의 비교분석에 중점을 두고 있다. 다음은 『剪燈新話』『金鰲新話』『伽婢子』『傳奇漫錄』에 나타나는 애정류 소설의 효과적 1) 애정류와 비애정류 작품군 분류는 주로 중국, (乔 辉光 『明代剪灯系列小说研究』北京 中 社 科 出版社: 国 会 学 , 2006 일본 12 ) ( ( 39 2000.3)pp.29-41; 年 月 吉由樹子「『伽婢子』恋愛譚 見 了意 性愛に る の 観」『活水日文』第 卷 吉由樹子 ( 36 1998.10.31)pp.1-14; 伽婢子 における 愛譚 と和歌的 統 活水日文 第 卷 堤邦彦 伽婢子 の 「『 』 《恋 》 伝 」『 』 「『 』 학자들의 분류방법을 참조하였다 ( 97 75 2001.9)pp.1-4) . 幽 女房譚霊 」『新日本古典文 大系学 』月報 第 卷 애정류 작품의 유형분류에 있어서 주로 전혜경의 「韓 中 越 傳奇小說・ ・ 의 비교 연구: 『剪燈新話』『金鰲新 을 중심으로 (숭실대학교 대학원 박사학위논문. . 1995 話』『傳奇漫錄』 」 )를 참조하였다 다른 점이라면 기존의. 연구에서 다루지 않았던 일본의 작품 『伽婢子』를 추가하였다 또한 분류방법에 있어서는. 위 논문은 당 전기 분류 기준을 도입하여 작품을 크게 염정류와 신괴류 두 가지 유형으로 분류 하였는데 일본의 『伽婢子』 내지 다른 작품에서 당전기와 변별되는 작품들이 다소 들어있기 때문에 본 발표는 작품들을 크게 애정류와 비애정류 두 가지 유형 기존의 선행연구에서 염정류에서 배제된 일부 작품에 대해 본고에서는 작품 특성상 애정류 작품으( 로 간주하고 분류하였다. )으로 분류하고 애정류 작품군 내부에서 유형별 분류를 통해 비교를 시도해 보고자 한 다. 國家 作品名 作者 年代 中国 『剪燈新話』 瞿佑 1378年 韓国 『金鰲新話』 金時習 1465年 경 日本 『伽婢子』 浅井了意 1666年 越南 『傳奇漫錄』 阮嶼 1527-1547年인 비교를 위해 남녀 주인공의 만남의 양상에 따라 아래 세 가지 유형으로 나누어 본 것이다. 첫째 현실계: -- 현실계 生男과 生女(현실계 男女)의 이합을 다룬 작품군 현실 세계에서 남( 녀 주인공이 만나 서로 사랑을 하는 작품) 둘째 현실계에서 비현실계: - 현실계 生男과 生女의 이합이 비현실계까지 이어지는 작품군 남녀 주인공이 현실에서 만나 사랑을 하다 한 사람 혹은 두 사람 모두 그 어떠한 계기로 죽게 ( 되어 후에 유령으로 나타나 그 사랑이 비현실계까지 이어지는 작품) 셋째 비현실계: -- 生男과 비현실계의 女鬼(유령 꽃의 정령 동물의 환신 등 의 이합 혹은, , ) 生 이 의 복수로 죽게 돼 나중에 와 가 함께 나타나는 유형의 작품 男 女鬼 男鬼 女鬼 이상의 분류를 작품과 연결하여 도표로 만들면 다음과 같다.
도표 첨부자료 참조
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작품을 통해 본 현실계에서 비현실계로 이어지는 작품군의 특성
2.
현실에서 비현실로 이어지는 작품군 즉 현실에서 인간인 두 남녀가 만나 사랑을 하다 어떠, 한 계기로 여자가 먼저 죽음을 맞이하게 된다 이런 스토리 구성은. 『剪燈新話』에서 「金鳳釵 와 두 편이 보이고 는 , 는 記」 「愛卿傳」 『金鰲新話』 「李生窺墻傳」 『伽婢子』 「真 撃紅 총 네 편이 보이며 은 , 遊女宮木野 , 死亦契 , 歌を媒として る契 傳奇漫錄 麗 」 「 」 「 」 「 」 『 』 「 帯 한 편이다 일본의. , 는 각각 와 의 娘傳」 「真 撃帯紅 」 「遊女宮木野」 「金鳳釵記」 「愛卿傳」 충실한 번안이고 「歌を として媒 契る」는 「李生窺墻傳」의 번안작인 것은 이미 선행연구에서 밝혀진 바 있다 아래 작품 속 등장인물 애정갈등 이야기의 종결방식 등에 있어서 작품들이. , , 어떠한 수용양상을 보이고 있는지 살펴보도록 하겠다. 등장인물 1) 등장인물은 소설 전반을 이끄는 주체로서 소설에서 그 중요성은 간과할 수 없다 작자들은. 흔히 인물 설정에 있어서 자신의 취향이나 지향에 걸맞는 인물 형상을 창조하는데 국적이 서 로 다른 작자 또한 인물설정 면에서의 相異함이 더 뚜렷할 것이다 먼저 현실계에서 비현실계. 로 이어지는( +男 女-> +男 女鬼) 작품 속에 나타나는 남녀 주인공의 인물설정을 보도록 하자. 와 의 金鳳釵記 愛卿傳 「 」 「 」 등장인물을 보면 남주인공과 여주인공의 이름이 모두 밝혀져 있고 신분 또한 관가나 대대로 벼슬을 지내온 부유한 집 아들 여주인공 또한 재색겸비하고 지체 높, 은 집 딸이나 명기로 설정이 되어 남녀 신분에 있어서 서로 대응된다. 의 인물설정을 보면 남녀 주인공 모두 학식과 교양이 있고 숙덕재학을 겸비 李生窺墻傳 「 」 한 양반사회의 전형적 인물상을 그려내고 있다. 李生은 18세의 유학을 공부하는 준수한 용모 를 가진 서생이고 崔氏 또한 15-16세 정도의 무남독녀인 양가집 규수로서 재색을 겸비하고 학식과 교양이 있는 아련한 여인이다 두 사람 모두 정확한 이름은 밝히지 않았지만 성만 보더. 라도 완전한 조선인이고 상류 사회의 신분을 지닌 이로서의 전형임에 틀림이 없다. 는 번안작이라는 특수성으로 인해 작품의 내용과 구성상 원전과 흡사하지만 인 伽婢子 『 』 물설정에 있어서는 남녀 주인공 이름과 신분 모두 전형적인 일본인으로 나타나고 있다 이와. 같은 인물설정은 작품이 그 나라 실정에 부합되는 본토화 과정에 큰 역할을 했다고 해도 무리는 아니다. 「遊女宮木野」는 「愛卿傳」의 번안작으로 신분설정에 있어서 원전의 명기인 애경 대신 일본인에게 익숙한 유녀로 설정이 되어 독자들에게 친근감을 주고 있다. 「李生窺墻傳」 의 영향을 받은 「歌 媒を として契る」에서 남주인공의 나이는 원전의 18세로부터 21세로 바뀌 었으면 여주인공도 15-16세에서 17-18세로 바뀌어 약간의 차이를 보이고 있으나 신분설정에 있어서는 큰 차이가 없다. 「金鳳釵記」의 번안작인 「真 撃帯紅 」에서 남녀 주인공 모두 상인 집 아들이나 부가 집 딸로 설정이 되어 원전의 관가 집 자식이라는 설정과 차이를 보이고 있 다 이와 같이. 了意는 『伽婢子』가 번안작인 만큼 전체적인 이야기 구성은 그대로 수용을 하 면서도 인물설정에 있어서는 본토화시키려는 노력을 엿볼 수 있다 전체적으로 봤을 때. 『伽婢 子』의 남자 주인공은 주로 상인이나 일반 서민 서생과 같은 평범한 신분이다 이러한 평민신, . 분의 인물설정은 작자가 서문에서 밝힌바와 같이 『伽婢子』는 일반서민을 대상으로 교화를 목적으로 쓴 책이라는 그의 취지와 부합된다. 의 남녀 주인공 과 은 서로 동갑이고 남녀 모두 지체 높은 집 가문의 傳奇漫錄 佛生 麗娘 『 』 자식으로 『剪燈新話』의 인물설정과 극히 유사하다 이를 통해 베트남이 중국과 지정학적인. 연계가 많음으로 인해 중국의 영향을 가장 많이 받았음을 알 수 있다. 남녀의 애정갈등 2) 현실에서 비현실로 이어지는 작품군의 전반적인 이야기 구성을 보면 처음 두 남녀가 만나 사랑을 하는 과정에서 사랑에 대한 태도는 남자에 비해 여자가 더 적극적이다 뿐만 아니라 남. 자는 여자와 만나 사랑하는 과정에 흔히 애정과의 갈등 주관적 사회적 혹은 기타 을 겪게 되( , ) 는데 이 또한 두 남녀가 이별이란 불행을 맞이하게 되는 직접적인 계기가 된다 작자가 살았던. 시대나 지리적 환경 각 나라의 문화적 차이 그리고 작품을 통해 나타내려는 작자의 주제의식, 이 모두 다른 만큼 각 작품에 나타나는 애정갈등도 여러 형태로 나타나고 있다. 의 에서 남자의 애정갈등은 주로 전란이나 남자의 공명 출세가 주를 이루, 瞿佑 『剪燈新話』 고 있음을 다음의 인용문을 통해 알 수 있다. 얼마 후에 최씨는 다른 지방으로 멀리 벼슬자리를 떠났는데 한번 가더니 십오 년 동안이나 일 자 무소식이었다.2)(「金鳳釵記」) 얼마 지나지 않아 조생은 부친의 옛 동료가 이부상서가 되었다는 편지를 보내와 대도로 그를 불러 올려 강남의 한 벼슬자리를 주려 한다고 했다 조생은 가자니 늙은 어머니와 혼자 남은 아. 내가 걱정이 되었고 안가자니 모처럼 생긴 출세의 기화를 놓치는 것 같아 주저하며 결정하지 못 했다.3)(「愛卿傳」) 이상의 인용문을 통해 알 수 있듯이 『剪燈新話』에서 남자의 애정갈등은 주로 공명 또는 출세와의 갈등이다. 「金鳳釵記」에서 興哥는 벼슬하는 아버지를 따라 다른 지방으로 갔다가 년 동안 소식이 없자 여자는 남편에 대한 그리움에 마음에 병이 들어 죽게 되는 비극을 맞 15 이하게 된다 또한. 「愛卿傳」에서 조생은 출세의 기회를 놓치기 아까워 결혼한 지 얼마 되지 않은 아내를 두고 대도로 올라갔다가 張士誠의 亂으로 돌아오는 길이 끊기고 아내 또한 정절 을 지키기 위해 자결을 하게 된다 즉 남자가 공명과 애정 사이에서 갈등하다가. 결국 출세의 2) 既而崔君游宦遠方 凡一十五載, , 并無一字相聞. 3) 未久 趙子有父黨 史部 書 以書自大都召之 許授以江南一官 趙子欲往 則恐貽母之憂 不往 則又失功名之會 躊躇, 為 尚 , , . , ; , , . 未決
길을 선택하게 되고 전란으로 오랜 시간 동안 되돌아 올 수 없는 사이 여자가 죽게 되는 것이, 다 이러한 갈등구조는. 瞿佑 자신의 처지와 연관이 있지 않을까 생각된다 어렸을 때부터 문학. 적 재능이 출중한 瞿佑지만 한 번도 제대로 뜻을 펴지 못한 그의 기구한 운명과 인생이 남자 의 공명 출세를 내세우는 형식으로 작품 속에 투영되었다고 말할 수 있겠다 그리고 전란이, . 빈번하고 사회가 불안정한 원말명초시대를 살아온 작자는 전란이 백성들에게 가져다주는 비극 상을 작품을 통해 여실히 반영하고 있다. 아래 「李生窺墻傳」의 인용문을 보도록 하자. 어느 날 저녁에 이생의 아버지가 물었다. “네가 아침에 집을 나갔다가 저물어 돌아오는 것은 옛 성인이 남기신 인의의 격언을 배우려는 것이다 그런데 요사이는 저물녘에 집을 나가 새벽에. 돌아오니 이게 어찌된 일이냐? 필시 경박한 놈의 짓을 하여 남의 집 담장을 넘어가서 단향목이, 나 꺾고 다니는 것일테지 일이 만일 환하게 드러나면 남들은 내가 자식을 엄히 가르치지 못하였. 다고 책망할 것이다 또 만일 네 놈이 만나는 그 아가씨가 지체 높은 집안의 딸이라면 반드시 네. 미친 짓 때문에 저쪽 가문을 더럽혀 남의 집에 누를 끼치게 될 것이야 어허 이 일은 작은 일이. , 아니로다 빨리 영남으로 내려가서 노복들을 데리고 농사 감독이나 하거라 그리고 다시는 돌아. . 오지 말아라.”4)(「李生窺墻傳」) 나도 젊어서부터 책을 잡소 경전을 팠으나 늙도록 성공을 하지 못했소 그러자 노복들은 도망 “ . 가서 흩어지고 친척의 도움도 적어서 생활이 어렵고 살림이 고단하다오. 그런데 하물며 지체 높 고 번성한 집안에서 어찌 한낱 빈한한 선비를 마음에 두어 사위로 삼으려 하신단 말이오? 이는 반드시 일 좋아하는 사람들이 내 가문을 지나치게 칭찬해서 귀댁을 속인 것일 겝니다.”5)( 李生「 ) 窺墻傳」 위의 두 인용문을 통해 알 수 있듯이 「李生窺墻傳」에 나타나는 애정갈등은 주로 당시 엄 격한 사회윤리제도 신분제도와 자유연애를 갈망하는 두 청춘남녀 간의 갈등이다 그럼에도 불, . 구하고 두 사람은 온갖 시련을 극복하고 결혼하지만 결국엔 紅巾敵의 亂으로 인해 남녀가 離 되고 는 정절을 지키기 위해 도적에게 살해된다 이와 같이 처음 두 남녀의 애정갈등. 散 崔氏女 은 주로 사회윤리제도와의 갈등이지만 나중에 전란이 애정갈등의 주된 원인으로 전환되면서 결국 비극을 맞이하게 된다. 다음은 『伽婢子』에 나타나는 남자의 애정갈등을 나타내는 대목이다. 년 가을 아사쿠라의 잔당이 봉기를 해서 이타도리 기노메도우게 하치후세 이마죠 히우 1575 , . . . . 치 스이즈 류몬지 등 각 지역의 요새에 할거했다. . . 그러던 중에 와카바야시 나가토 수령이 가와 노의 새로운 성에 칩거하고 있는 사이 노부나가 노부타다 부자가 팔 만 여 기의 군사를 이끌고, . 쓰루가에 진을 쳤다. 노부나가는 기노시타 도기치로에게 명령하여 가와노 성을 에워싸게 했다. 히가키는 와카바야시 일족이었기 때문에 쓰루가에 있다가 처벌받을 것이 두려워 일가를 이끌고 연고를 찾아 교토로 올라갔다 히가키는 교토로 간지. 5년이 지나도록 쓰루가에는 전연 기별을 하 지 않았다.6)(「真 撃帯紅 」) 4)一夕 李生之父問曰 汝早出而暮還者 將以學先聖仁義之格言 昏出而曉還 當爲何事 必作輕薄子 踰, ,“ , . , ? , 垣墻 折樹檀耳, . 事如彰 ,露 人皆譴我敎子之不嚴 而如其女 定是高門右族 則必以爾之狂狡 穢彼門戶 獲 人家 其事不小 速去嶺南, , , , , 戻 , . , , 率奴隸監農 勿得復還!” 卽於翼日 謫送蔚州, . 5)“吾亦自 ,少 把冊窮經 年老無成 奴僕逋逃 親戚寡助 生涯疏闊 家計伶, . , , , 俜, 而況巨家大族, 豈以一介寒儒 留意爲贅郞, ? , , .” 乎 是必好事子 過譽吾家 以誣高門也 6)天正三年 秋 朝倉 余党の 、 が がおこり て出 、虎杖 木芽峠 鉢伏 今・ ・ ・ 条・火燧 吸津・ ・竜門寺諸方 要害 楯の に ごもる その に。 中
교토에는 세이로쿠의 외숙부가 있었다 세이로쿠의 어머니의 동생으로 계속해서 병을 앓다가. 죽음을 예감하고 사람을 보내어 말하기를 “세이로쿠를 보내 달라 말할 것이 있다, . ” 라는 전언 이 왔다 어머니는 너무나 슬퍼하며. “어서 올라가 보거라 마음은 날아가고 싶지만 여자의 몸이. 기에 그럴 수도 없구나 너는 남자이니 무엇이 어렵겠냐 어서 가서 외삼촌의 임종을 보고 오렴. . .” 하고 말했다 세이로쿠는 어떻게 해야 할까 결정하기 어려워 괴로워했다. .7)(「遊女宮木野」) 어느 날 나가타니의 아버지가 “너는 학업을 등한시하고 있는 게 아니냐...(중략)이는 반드시 경 박하고 추잡한 일을 하고 다니면서 남의 벽을 허물고 담장을 넘으면서 옳지 못한 행동을 하는 것 이라 생각된다. 이 일이 드러나면 몸은 살아있어도 진흙탕에 빠지고 이름은 흙먼지를 뒤집어써 추문에 시달리고 세상에 나설 수 없는 존재가 돼버린다 만약. 너와 정분이 난 처녀가 명가의 규 수라면 반드시 너 때문에 가문을 욕되게 하고 그녀 자신은 초라하고 볼품없는 신세로 전락할 뿐 만 아니라 그 죄과가 우리 집안에도 미칠 것이다 이 일은 대단히 중요한 일이다 오늘부터 문. . 밖 출입을 금한다.” 라며 방에 나가타니를 가두고 심하게 책망을 했다.8)(「歌 媒を として る契 」 ) 에서 애정갈등은 전란 또는 사회윤리나 신분제도도 존재하지만 다른 세 작품에서 伽婢子 『 』 는 전혀 보이지 않는 애정과 부모에 대한 효와의 갈등이 두드러지게 나타나고 있다. 의 번안작인 에서는 원작의 공명 출세와 애정과의 갈등과는 달리, 愛卿傳 遊女宮木野 「 」 「 」 자식의 효를 강조하기 위한 갈등 즉 남자가 신혼임에도 불구하고 외숙부의 임종을 지키기 위, 해 어머니의 부탁으로 아내를 집에 두고 교토로 갔다가 전란으로 길이 끊겨 1년 동안 돌아오 지 못한다 그 사이 아내는 적들에게 붙잡혀 정절을 지키기 위해 자진을 하게 된다 그리고. .
에서는
死亦契
「
」
엄격한 신분제도를 반영하고 있는 비천한 가문의 자식으로 태어난 나머지 자기 여인을 지키지 못하고 결국에는 보다 생활이 윤택한 사촌형에게 빼앗기고 마는 갈등구조 도 등장한다. 「歌を媒として る契 」는 「李生窺墻傳」의 번안작인 만큼 처음엔 신분제도와 자 유연애와의 모순이 주를 이루지만 두 남녀가 시련을 극복하고 맺어진다 그러나 그 행복은 얼. 마 지속되지 못하고 끝내는 応仁의 乱으로 정절을 지키려던 여인이 살해당하고 만다는 원전과 흡사한 갈등구조를 보이고 있다 이와 같이. 『伽婢子』에서는 여러 가지 애정갈등이 나타나며 특히 다른 작품에서 볼 수 없는 효와 애정갈등이 등장한 것이 특징이다. 다음은 「麗娘傳」에서 발췌한 인용문이다. 이생은 여랑이 진말의 건신 연간에 질간진(陳渴眞)의 화( )禍를 만나 궁녀가 되는 바람에 크게 낙담했다.9) ...(중략) 호 왕조 말에 명나라 장수 장보가 군대를 나누어 쳐들어와 서울을 공격했 다....(중략) “그러니까 5일 전이겠군요 명군이 한창 떠날 채비를 할 때 완씨는 주씨와 정씨 두. , 若林長門守 河野 新城は の にこもりしかば、信長 信忠父子八万余騎 率・ を して、敦賀 着に ぢんあり。木下藤吉郎におほせ 河野 城 檜垣平太 若林 一門 敦賀 尤 事 一家 開 て、 の をとりかこませらる。 は、 が なれば、 にありて られむ をおそれ、 を の 所 京都 五年 間 敦賀 風 きて、 縁につきて にのぼり、 までと まりつゞ ゝ、その に のかたへは、 のたよりもなし。 7)京都 叔父に あり。清六 母が のため なり しきりに弟 。 心地わづらひしかば べくおぼえて死 、人をくだしていひけるやう、 六をのぼせ へ いひをくへき給 事侍り といふに 母かぎりなくかなしく ひ思 いそぎのぼりてみよ お 「清 。 」 、 、「 。、 女 身 飛立 思 和殿 男 何 有 見 ぢぁら の なれば、 ばかりに へども をもかなはず、 。 は なれば、 かくるしかるべき その。 様 給 六 案 と けてゞ 」といふ。清 いか すべきと じわづらふゞ 。 8)ある日兵部 父が とひけるやう、「なんぢは学文 物に うき のつき へるかや心 侍 。。。(中略)かならず軽薄濫行のたぐひ 人 壁 墻 事 侍 身 生 をもとめて、 の をこぼち をこえて まさなきふるまひするかとおぼゆ その あらはれ べらば、 。 、 は なが 泥淤 名 塵芥 世 若又 女 高家 ら にしづみ、 はそれながら にけがされ、 になしものとなりはつべし。 かたらふ さだめて のむ 罪科 門族 事 大事也 今日 門 外 出 すめならば、 はさだめてわが におよばむ その きはめて。 。 よりして より に べからず と」 一間 所 外 て、 の にをしこめて ことの にいましめたり、 。 9) 胡建興已卬 遭噶眞之禍 女遂入宮 生大失所望, , , .부인에게 이렇게 말했다고 합니다. 우리는 연약한 아녀자 몸으로 운명이 기구하여 나라와 집이‘ 망해 흘러 흘러 여기에까지 오게 되었어요.’ 이제 다시 명군과 함께 북으로 간다한들 그곳은 낯 선 타향일 테니 고향이 멀지않은 이곳에서 죽는 것이 이국에서 죽어 고혼이 되는 것보다는 낫지, 않겠어요?’ 그 뒤 세 사람은 모두 스스로 목숨을 끊었는데 명나라 장군은 그 절개를 동정하여, 예를 다해 산등성이에 묻어 주었다고 합니다.”10)(「麗娘傳」) 에 나타나는 애정갈등은 주로 전란으로 인해서 생긴 것이다 질간진. 傳奇漫錄 麗娘傳 『 』「 」 의 화를 만난 여랑은 내전과 명나라의 침입으로 인해 궁녀로 전락되고 그 후 명나라 군에게, 쫓기는 신세로 지내다가 끝내 자결을 하고 마는 여인의 불운 내지 강한 애국심을 보여주고 있 다 이는 내란과 명나라의 침입을 받고 있었던 베트남 내유외환의 특수한 역사적 시기 전쟁과. , 명나라에 대한 작자의 분노를 작품을 통해 여실히 보여주고 있다. 유령의 출현과 결말 3) 이상에서 서술한 바와 같이 현실에서 비현실로 이어지는 작품 군 특히 남녀의 사랑이 비현, 실로 이어지는 주된 원인은 남자나 사회와의 애정갈등이고 여자는 갈등의 직접적인 희생자가, 된다 현실계에서 부부나 약혼 관계에 있었던 두 남녀는 결국 여인의 죽음으로 가슴 아픈 이별. 을 하게 되는데 이야기는 이것으로 끝을 맺는 것이 아니라 죽은 여인은 결국 여귀로 나타나, 남자와 짧은 만남을 가졌다가 다시 사라지면서 이야기가 종결된다. 다음은 생남과 여귀의 만남과 이별의 계기 이야기의 종결방식에 있어서 각 작품들이 어떤, 공통점과 차이점이 있는지 살펴보도록 하겠다. 의 번안 작인 에서는 원전과 같이 언니가 동생의 몸에 빙의되어 金鳳釵記 紅 「 」 「真 撃帯」 나타나 원전의 신물인 <금봉채> 대신 <撃帯>를 매개로 남자와 만나 1년 동안 사랑을 하게 된다. 「愛卿傳」과 「李生窺墻傳」 「, 遊女宮木野」에서는 주로 죽은 여인을 다시 한 번 만나 보고 싶다는 남자의 간절한 마음에 감동해 여인이 나타나는데 특히, 「遊女宮木野」에서는 다 른 작품과 달리 여인이 나타나 생전에 자신의 정절을 지키고 부모에 대한 효도를 다한 덕택에, 남자아이로 다시 태어날 수 있었음을 강조하여 작품의 교훈적 의미를 부여하고 있다. 와 은 여인이 한 번만이라도 나타나달라는 남자의 애원에 歌 媒を として契る 麗娘傳 「 」 「 」 의해 현실이 아닌 남자의 꿈속에 나타났다는 특수한 공간설정에서 다른 작품들과 차이점을 보 이고 있다. 『伽婢子』의 「死亦契」에서는 권세가인 사촌형에게 빼앗긴 아내가 이미 저세상, 사람이 된 것도 모르는 채 소식이 없는 아내를 원망하며 지내고 있었는데 어느 날 여인 스스, 로 유모와 함께 나타났다는 설정을 통해 일본 여성의 강한 집착심을 엿볼 수 있다. 흔히 작자는 이야기의 종결방식을 통해 독자들에게 작품의 창작 의도나 메시지를 전달하는 데 현실에서 비현실로 이어지는 작품 군 또한 그들의 이야기 결말구조에 공통점과 차이점들이, 보인다. 먼저 「金鳳釵記」와 「愛卿傳」의 번안 작인 「真 撃帯紅 」와 「遊女宮木野」는 원작의 종 결방식을 그대로 따르고 있다 즉. 「金鳳釵記」와 「真 撃帯紅 」 두 편 모두 동생의 몸에 빙의 되어 나타난 유령인 언니가 동생의 병을 치유해주고 사랑했었던 남자와 자신의 여동생과의 혼, 인을 맺어주는 해피엔딩의 결말구조에 치우치고 있다. 愛卿傳「 」과 「遊女宮木野」의 여주인공 과 는 이 세상 남자아이로 환생했고 남자 또한 그 집안과 친척관계를 맺어 지금까, 愛卿 宮木野 10)胡氏末 明將張輔分兵入寇 侵掠京城, , ...(中略 前五日 北軍方欲旋駕 阮氏謂朱 鄭二夫人曰)“ , , , : ‘我輩質輕蒲柳 命薄朱, , , . , ; 鉛 國破家亡 流離至此 若更從出塞 便是他鄕風景 曷若委填丘壑 密邇鄕關 免作北朝孤鬼矣!”, , 因皆自盡 將軍憫其, , 有操 以禮葬在山椒.“