釋 果 暉
1.はじめに
本稿は先に刊行した安世高訳『仏説大安般守意經』の訳注研究⑵に続くものである。 前稿 p.129 n.34の六衰の注釈について、筆者は「衰」が indriya を指すと指摘している が、Tilmann Vetter1は安世高の口訳したもの(the record of oral explanations)と見られ
るAhan koujie shi’er yinyuan jing『阿含口解十二因緣經』の「十二衰」の例を挙げ、六
衰 を s4ad4āyatana に 還 元 す る と 記 し て い る。確 か に、「十 二 衰」の 語 は 十 二 處
(Dvādaśâyatanāni)の同義語である。しかし、十二處の内容は、六內處(s4ad4
ādhyātmika-āyatanāni)と外六處(s4ad4 bāhyâyatana-āyatanāni)から組み立てる。Tilmann Vetter も六
衰を「ie five senses and the mind」と説明している。本経の場合、六衰の「衰」は、āyatana にも indriya にも還元できると追加の説明をしたい。 本稿の内容の中、二つの段落――【pp.165a L3 11】【pp.165a L11 19】の形式が『修 行道地經』「数息品」と大変類似している。しかし内容の解釈において、前者は「数息 品」と一致するものではない。『仏説大安般守意經』を解明するため、本稿の研究には 意味がある。 本稿の訳注研究は、まず、テキストを提示し、同テキストの内容に沿って書き下し 文をしてから、現代語訳をする。最後に、テキストの重要な箇所を注釈する。つまり、 訳注は、【テキスト】【書き下し文】【現代語訳】【注釈】の四部分にする。
釋 果 暉
1.はじめに 〈本稿の底本について〉 〈凡 例〉 2.訳注(『大正蔵』第15巻、No.602、pp.164c L17 pp.165b L13) 3.まとめ 〈参考文献〉〈本稿の底本について〉
本稿のテキストでは改めて『大正蔵』の『仏説大安般守意経』を底本にして現存す る各大蔵経の版と対校することにする。校訂本テキストは、『金蔵』『高麗蔵』『宮本』 『宋本』『元本』『明本』『磧砂蔵』『南蔵』『嘉興蔵』の各大蔵経刊本によるものとする。2 Ⓐ『金蔵』3(1139 1173) Ⓑ『高麗蔵』4(1236 1250) Ⓒ『宮本』5(1113 1172又は1104 1148、宮内庁書陵部所蔵本) Ⓓ『宋本』6(1239、増上寺所蔵本) Ⓔ『元本』7(1277 1290又は1209 1286、増上寺所蔵本) Ⓕ『明本』8(1410 1440) Ⓖ『磧砂蔵』9(1231 1322又は1225 1350) Ⓗ『南蔵』10(1412 1417、山東省済南図書館所蔵本) Ⓘ『嘉興蔵』11(1589 1676、駒澤大学所蔵本) Ⓙ『洪武南蔵』12(1372 1399) Ⓚ『鉄眼蔵』13(1669 1678、上越教育大学所蔵本) Ⓛ『七寺一切経』14 Ⓜ元の『磧砂蔵』15 Ⓝ『清蔵』16(1735 1738) Ⓞ『縮刻蔵』17(1881 1885、国会図書館所蔵本) Ⓟ『卍正蔵経』18(1706 1710)〈凡 例〉
⑴ 本稿は、『大正蔵』第15巻(No.602)所収のものを底本とした。テキストの提示 は、『大正蔵』に準じるが、適当な句点を補った。なお、テキストの見出し部分に付 した頁数などの表記は、『大正蔵』の該当箇所を示す。 例、【テキスト】(pp.164c L17 20) ⑵ 【テキスト】【書き下し文】には、旧字体そのままを使い、その以外のところは、 新字体を用いた。 ⑶ 本稿校訂本の略符は、次のごとくである。 『宋本』『元本』『明本』の三本 『宋本』 『元本』『明本』 『金蔵』 『高麗蔵』 『宮本』 『磧砂蔵』 『南蔵』 『嘉興蔵』 また、校訂番号も『大正蔵』に準じたが、筆者が加えたものに元『大正蔵』の前 後校訂番号の間に前番号数の後にハイフン“ ”と“1”からの記号を加えて付け る。 例、【pp.164c L17 20】 ⑮痒=癢 下同(『大正蔵』⑮の校訂番号) 【pp.164c L20 24】 ⑮ 一者=者一 (筆者の加えたもの) ⑷ 各段落の【テキスト】中にある重要な用語、語句を注釈し、注番号は該当語、語 句の最後に付け、注のはそれぞれ段落の後にまとめる。また、テキストを注釈する 箇所を見出しにするため、同箇所に下線を付ける。ただし、一つの注の番号には複 数の箇所を注釈する場合もある。なお全段落の趣旨を説明する場合、下線を付けな い。 例、【テキスト】(pp.164c L20 24) 行不互 【注釈】 20「行不互」の「不互」は、…… ⑸ 本稿は、専門用語あるいは重要語句を提示する場合、鍵括弧「 」を付ける。語 句を補い、意味の補足、語句の言い換えなどは丸括弧( )又は角括弧[]を用い た。さらに、複数の同類語を並べる場合、語と語のあいだに黒い丸(黒点)“・”を 付ける。また、同一用語の漢語同義語があり、さらに梵語、パーリ語もある場合、 同用語の直後の括弧内に並べる。 例、【テキスト】(pp.165a L3 11) 【書き下し文】 行者・新學者在り… 例、【テキスト】(pp.164c L17 20) 【現代語訳】
生死陰(行蘊/ sam4skāra-skandha/ san 4
khāra-khandha)…
【書き下し文】 喘息の長を即[時に]…
2.訳 注
【テキスト】(pp.164c L17 20) 入息出息所以異者。出息爲生死陰。入息爲思想陰。有時出息爲痛⑮痒陰。入息爲識陰。 用是爲異。道人當分別是意也19。 ⑮痒=癢 下同 【書き下し文】 入息と出息と異なる所以とは、出息を生死陰と爲し、入息を思想陰と爲す。有る時に 出息を痛痒陰と爲す。入息を識陰と爲す。是れを用って異と爲す。道人は當に是の意 を分別すべきなり。 【現代語訳】入息が出息と異なる原因は、息が出る時に生死陰(行蘊/ sam4skāra-skandha/ san 4
khāra-khandha)が働いており、息が入る時に思想陰(想蘊/ sam4jñā-skandha/ saññā-khandha)
が働いているのである。ある時に息が出る場合は、痛痒陰(受蘊/ vedanā-skandha/
vedanā-khandha)が働いている。息が入る場合は識陰(識蘊/ vijñāna-skandha/ viññān4 a-khandha)が働いている。それぞれの状況によって入息が出息と異なっている。修行者 はこのようなこころの働きを分別し観察するべきである。 【テキスト】(pp.164c L20 24) 入息者爲不受罪。出息者爲除罪。守意者爲離罪。入息者爲受因緣。出息者爲到因緣。 守意者爲不離因緣也。數息不得有三因緣。⑮ 一者罪到。二者行不⑯互20。三者不精 進也。 ⑮ 一者=者一 ⑯互=手 ,牙 ,工 【書き下し文】 入息とは罪を受けずと爲す。出息とは罪を除くと爲す。守意とは罪を離れると爲す。 入息とは因緣を受けると爲す。出息とは因緣に到ると爲す。守意とは因緣を離せずと 爲すなり。數息を得ざるに三因緣あり。一には罪に到る。二には行の不工。三には精 進せざるなり。
【現代語訳】 息が入るのは外部からの悪の罪を受けないのである。息が出るのは内部より悪の罪を 取り除くのである。守意は罪を離れることである。息が入るのは外部から心に与える 種々の悪の因縁を観察するのである。息が出るのは内部より心に与える種々の悪の因 縁を把握するのである。守意とはこれらの内外の因縁から離れることなく観察するの である。数息を得られないことには三つの因縁がある。一つ目は種々の内外の過ちが 来ること、二つ目は工夫を凝らさないこと、三つ目は精進しないことである。 【テキスト】(pp.164c L24 165a L3) 入息短出息長。無所從念爲道意。有所念爲罪。罪⑰惡在外不在内也21。數息時。有離意 爲喘息22長。得息爲喘息短。不安行息爲長。定爲短。念萬物23爲長息。無所念爲短息。 未至十息。壞復更數爲長息。得十息爲短息。得息爲短。何以故。止不復數故。得息亦 爲長。何以故。息不休故爲長也。喘息長自知。喘息短自知24。謂意所在爲自知長短。意 覺長短爲自知。意不覺長短爲不自知也。 ⑰惡=要 【書き下し文】 入息は短、出息は長なり。念ずるに從う所無きを道意と爲す。念ずる所あれば罪と爲 す。罪は要ず外に在りて内に在らざるなり。數息の時、意を離ること有れば喘息長と 爲す。息を得するを喘息短と爲す。不安なる行息を長と爲し、定を短と爲す。萬物を 念ずるを長息と爲し、所念無きを短息と爲す。未だ十息に至らざれば、壞して復た更 に數えるを長息と爲す。十息を得するを短息と爲す。息を得するを短と爲す。何を以 ての故なるや。止めて復た數えざるが故なり。息を得するを亦た長と爲す。何を以て の故なるや。息は休まざるが故に長と爲すなり。喘息の長は自ら知る。喘息の短は自 ら知る。謂く意の在る所に自ら長短を知ると爲す。意の長短を覺えるを自ら知ると爲 す。意の長短を覺えざるを自ら知らずと爲すなり。 【現代語訳】 入る息の短いとき、その短い息をはっきり把握する。出息の長いとき、その長い出息 をはっきり観察する。こころに念ずる対象がないことこそ道のこころであり、念ずる 対象があれば、罪となる。つまり、罪悪は外部のありとあらゆるものにあり、内部の こころにはないのである。息を数えるとき、もし意念が息から離れ、他の雑念が生ず れば、時間に対する心理的な感受が長くなる。その反面、息が順調に数えられれば、 時間の経過に対する感受が短くなる。同様に、こころが安定しなければ、時間に対す る感受が長くなる。一方、禅定に入れば、時間に対する感受が短くなる。つまり、こ
ころが外部のありとあらゆるものを念ずれば、時間に対する感受が長くなる。こころ が何も念じなければ、時間に対する感受が短くなるのである。未だ十息に至っていな いとき、心の乱れの原因で数息が中断し、再び一から数えなければならない。これが 長い息となる。十息まで順調に習得できれば、短い息となる。このように数息を得る ことは短い(息)となる。何故かというと、十まで数えられ、それよりふたたび数え る必要がないから。他方、息を得るのも長い息となる。何故か?数息が順調に進んで いき、中断されてないので、長い息となる。出入りの息が長くなるとき、自らそれを 知る。出入りの息が短かくなるとき、自らそれを知る。という意味は、意念が十分に 息に専念するとき、息の長さと短さを自らはっきり知る。これは自知という。反対に、 意念は息の長さと短さを知覚できないなら、これは不自知という。 【テキスト】(pp.165a L3 11) 道人行安般守意欲止意。當何因緣得止意25。聽說26安般守意。何等爲安。何等爲般。安 名爲入息。般名爲出息27。念息不離是名爲安般。守意者欲得⑰ 止意。在行者新學者28。 有四種安般守意行。除兩惡。十六勝29即時自知。乃安般守意行令得止意。何等爲四種。 一爲數。二爲相隨。三爲止。四爲觀30。何等爲兩惡。莫過十息。莫減十數31。 ⑰ 止=上 【書き下し文】 道人は安般守意を行じて止意と欲す。當に何の因緣に止意を得するべしや。安般守意 の說くを聽い、何等を安と爲し、何等を般と爲す。安を名づけて入息と爲す。般を名 づけて出息と爲す。息を念じ離せざる是れを名づけて安般と爲す。守意とは止意を得 んと欲するなり。行者・新學者在り、四種の安般守意の行有りて兩惡を除き、十六勝 を即時に自ら知る。すなわち安般守意を行じ、止意を得せしむ。何等を四種と爲すや。 一は數と爲す。二は相隨と爲す。三は止と爲す。四は觀と爲す。何等を兩惡と爲すや。 十息に過ぎること莫し。十の數を減じること莫し。 【現代語訳】 修行者が安般守意を行うのは、止(奢摩他/ śamatha/ samatha)の境地に達しようとす るのである。どうすればこの止(奢摩他)の境地に達せられるのか。これから安般守 意の定義を説明する。安とは如何なるものか。般とは如何なるものか。安は入息と名 づける。般は出息と名づける。意念が常に息にかけてそれと離れないなら、これは安 般と名づける。守意とは止(奢摩他)の意を得たがることである。修行者あるいは初 心者に対して、四種類の安般守意を行う方法がある。そして二つの悪を取り除くべき である。また、安般十六段階(十六勝/十六事/ s4odaśa-ākārā/ sol4asavatthuka)のどちらに
至るとき、即時にその状態を自ら知るべきである。すなわち、この安般守意を行って、 禅定を得ることができる。そこで、どのような四種類があるのか?一つ目は息を数え ることで、二つ目は息に随うことで、三つ目はこころを一境に集中させ、安定するこ とで、四つ目は五蘊心身の生滅を観察することである。両悪とは何か。息を数えると きに、十の数を超えさせず、また、十の数を減らさせないこと。ちょうど一から十に いたるまで数えるべきである。 【テキスト】(pp.165a L11 19) 何等爲十六勝即時自知。喘息長即自知。喘息短即自知。喘息動身即自知。喘息微即自 知。喘息快即自知。喘息不快即自知。喘息止即自知。喘息不止即自知。喘息①歡心即 自知。喘息不*歡心即自知。内心念萬物已去不可復得喘息自知。内無所復思喘息自知。 棄捐32所思喘息自知。②不棄捐所思喘息自知。放棄軀命33喘息自知。不放棄軀命喘息自 知。是爲十六即時自知也34。 ①歡=觀 * ②〔不弃…自知〕九字− 【書き下し文】 何等を十六勝の即時自知と爲すや。喘息の長を即[時に]自ら知る。喘息の短を即[時 に]自ら知る。喘息の動身を即[時に]自ら知る。喘息の微を即[時に]自ら知る。 喘息の快を即[時に]自ら知る。喘息の不快を即[時に]自ら知る。喘息の止を即[時 に]自ら知る。喘息の不止を即[時に]自ら知る。喘息の歡心を即[時に]自ら知る。 喘息の不歡心を即[時に]自ら知る。内心に萬物已に去るを念じ、復た得べからざる 喘息を[即時に]自ら知る。内に復た思う所無き喘息を[即時に]自ら知る。思う所 を棄捐する喘息を[即時に]自ら知る。思う所を棄捐せざる喘息を[即時に]自ら知 る。軀命を放棄する喘息を[即時に]自ら知る。軀命を放棄せざる喘息を[即時に] 自ら知る。是れを十六の即時に自ら知ると爲すなり。 【現代語訳】 何を「十六勝のそれぞれの段階を自ら知覚する」とするか。(それは、次のような十六 の勝れたことである)出入りの息が長いとき、即時にその状態を自ら知覚する。出入 りの息が短いとき、即時にその状態を自ら知覚する。出入りの息が体内に注ぎ、全身 のどちらかに働きをかけるとき、即時にその状態を自ら知覚する。出入りの息が徐々 に微細になると、即時にその状態を自ら知覚する。出入りの息によって喜悦を感知す るとき、即時にその状態を自ら知覚する。出入りの息によって喜悦が未だ生じていな いとき、即時にその状態を自ら知覚する。出入りの息によって心の働きを安定させる とき、即時にその状態を自ら知覚する。出入りの息によって心の働きを安定させてい
ないとき、即時にその状態を自ら知覚する。出入りの息によってこころを歓喜させる とき、即時にその状態を自ら知覚する。出入りの息によってこころを歓喜させないと き、即時にその状態を自ら知覚する。出入りの息によって内心にあらゆるものがすで に去ってしまい、再び得ることができないと思うときに、即時にその状態を自ら知覚 する。出入りの息によって内心にふたたび念ずるものがないときに、即時にその状態 を自ら知覚する。出入りの息によって思うものをすべで棄てるとき、即時にその状態 を自ら知覚する。出入りの息によって思うものをすべで棄てないとき、即時にその状 態を自ら知覚する。出入りの息によって色身といのちに対する執着を放棄するとき、 即時にその状態を自ら知覚する。出入りの息によって色身といのちに対する執着を放 棄しないとき、即時にその状態を自ら知覚する。これらは、十六勝のそれぞれの段階 を自ら知覚することである。 【テキスト】(pp.165a L19 28) 問。何等爲莫過十數莫減十數。報息③已盡未數是爲過。息未盡便數是爲減35。失數亦惡 不及亦惡。是爲兩惡36。至二息亂爲短息。至九息亂爲長息。得十息爲快息。相隨爲微。 意在長便轉意。我何以故念長。意在短即時覺。不得令意止。止爲著。放棄軀命者謂行 息。得道意便放棄軀命。未得道意。常愛身故不放棄軀命也37。息細微爲道。長爲生死。 短息動爲生死。長於道爲短38。何以故。不得道意無④知見故爲短也。 ③已=以 * ④知見=所知 【書き下し文】 問う。何等十數に過ぎること莫く、十數を減ずること莫しと爲すや。報う。息已に盡 くして未だ數えざる是れを過と爲す。息未だ盡くさずんば便ち數うて是れを減と爲す。 數を失う亦た惡なり(數に)及ばず亦た惡なり。是れを兩惡と爲す。二息に至りて亂 れれば短息と爲す。九息に至りて亂れれば長息と爲す。十息を得れば快息と爲す。相 隨を微と爲す。意は長に在れば便ち意を轉ずる。我何を以ての故に長を念ずるや。意 は短に在り、即時に覺えて意を止まらしむを得ず、止を著と爲す。軀命を放棄すると は謂く行息なり。道の意を得れば便ち軀命を放棄す。未だ道の意を得ず。常に身を愛 するが故なり。軀命を放棄せざるなり。息は細微を道と爲す。(息の)長は生死と爲 す。短息の動を生死と爲す。(息の)長は道に於いて短と爲す。何を以ての故なるや。 道意を得ず、知見無き故に短と爲すなり。 【現代語訳】 質問する。十に至るまで数を超えなく、十に至るまで数を減じないとは何であるか。 答えよう。ある息がすでに消えてしまったが、それを未だ数えていない。これが「過」
のことである。つまり、十の数に至って数えると思うが、実際に十の息を超えたので ある。その反面、ある息が未だ消えていないが、それを一つの数として数えてしまっ た。これが「減」のことである。つまり、十の数に至って数えると思うが、実際に十 の息に達しなかったのである。数を失うことと、数に及ばないこととはともに悪のこ とである。これらはいわゆる両悪(二つの誤る数え方)のことである。二息に至って 乱れれば、これは短息となる。九息に至って乱れれば、これは長息となる。十息を得 られば、これはよい息のことである。相随とは息が微かになることである。そのとき、 意念は長い息にかけるとき、直ちに意念を転じるべきである。また、何の故に私は長 い息を念ずるのか?(と反省すべきである。)意念は短い息にかけるとき、即時にそれ を自覚すべきである。(出入りの息によって心の働きを安定させていないとき、その) 心の働きを止めべきではない。止めると、執着になるのである。身命を放棄すること は、いわゆる安般の修習を行うことによって道の意を得、直ちに身命を放棄する。未 だ道の意を得らなければ、常に自分の身を愛着し、身命を放棄しないのである。息が 微かであれば道のことになる。息が長ければ生死のことになる。短い息が働ければ生 死のことになる。長い息は道において過失のことになる。何故か?道の意を得られな く、正しい認識を持たないから、過失のことになる。 【テキスト】(pp.165a L28 b3) 數息爲單。相隨爲複。止⑤爲一意。觀*爲知意。還爲行道。淨爲入道也39。數時爲念。 至十息爲⑥持是爲外禪40。念身不淨隨空是爲内禪也41。禪法惡來不受是名爲棄42。 ⑤爲=而 * ⑥持=待 【書き下し文】 數息を單と爲し、相隨を複と爲す。止を一意と爲し、觀を知意と爲す。還を行道と爲 し、淨は入道と爲すなり。數える時を念と爲し、十息に至るを待と爲す。是れを外禪 と爲す。身の不淨を念じて空に隨う。是れを内禪と爲すなり。禪法は惡來れば受けず、 是れを名づけて棄と爲す。 【現代語訳】 数息は単に一つ一つの息に専念することで、相随は入息と出息との二つのことに専念 すること。止は意念がただ一つの箇所に止まることであり、観は意念の本質を自覚す ることである。還は道を行うことで、浄は道に入ることである。数える時は念(尋/覺/ vitarka/vitakka)のことで、十息に至るまで数えるのは待(伺/觀/vicāra)のことである。 これは外面的な禅である。身の不浄を念じて空に随う、これは内面的な禅である。禅法 は、悪念が来れば受けない、これを名づけて棄(断/ prahān4a/ pahāna)というのである。
【テキスト】(pp.165b L3 13) 閉口數息隨氣出入。⑥ 知氣發何所滅何所。意有所念不得數。息有遲疾大小亦不得數。 耳聞聲亂亦不得數也。數息意在息數爲不⑥ 工43。行意⑦在意乃爲止。數息意但在息 是爲不*工。當知意所從起氣所滅。是乃應數。因緣盡便得定意也。守意者念出入息。 已念息不生惡故爲守意。息見因緣生無。因緣滅因緣斷。息止也。⑧數息爲至誠44。息不 亂爲忍辱45。數息氣微不復覺出入。如是當守一念⑨止也。息在身亦在外。得因緣息生。 罪未盡故有息。斷因緣息不復生也。 ⑥ 知氣發=法氣知 ⑥ 工=手 * ⑦〔在意〕− ⑧數= 故 ⑨止也=也止 【書き下し文】 口を閉じて數息して氣に隨い出入す。氣の何なる所に發し、何なる所に滅するやを知 る。意の念ずる所あれば數を得ず。息の遲・疾・大・小あれば亦た數を得ず。耳に亂 聲を聞けば亦た數を得ざるなり。數息の意は息に在れば、數えるに「不工」と爲す。 行意は意に在り、乃ち止と爲す。數息の意は但だ息に在り、是れを「不工」と爲す。 當に意の從起する所、氣の滅する所を知るべし。是れを乃ち數に應ず。因緣盡きれば 便ち定意を得するなり。守意とは出入の息を念ず。已に息を念じ惡を生ぜざるが故に 守意と爲す。息に因緣の生・無を見、因緣滅し因緣斷ずれば息を止むなり。數息を至 誠と爲す。息を亂れざるを忍辱と爲す。數息の氣は微かにして復た(息の)出入を覺 らず。是の如く、當に守一にして止を念ずべきなり。息は身に在り亦た外に在り。因 緣を得れば息生ず。罪未だ盡ざるが故に息あり。因緣を斷ずれば息を復た生ぜざるな り。 【現代語訳】 口を閉じて息を数え、息の出入りに随い、気がどんな所から発し、どんな所に滅する かを知る。もし意念が物事を念じれば、息を数えられない。息が遅い、速い、大きい、 小さいとすれば、数を得ることができない。声を聞くとき、意が乱れば、それもまた 数を得られない。息を数えるとき、意念が息に専念すれば、このような数える方法は、 工夫を凝らさない。意念を行い、自分の意念にあれば、こころを安定することができ る。息を数えるとき、意念がただその息にあれば、工夫を凝らさない。意念の起きる 所と気の滅する所を知るべきである。これこそ数息に応じることである。乱れの因縁 が消えてしまえば、直ちに安定のこころを得られる。守意とは、出入りの息を念じる ことである。すでに息を念じ、悪を生じないから、これが守意である。数息によって 乱れの因縁が生じ、無なくなり、滅し、断ずることを発見すれば、息は止まるのであ る。数息は真実に至ることができる、息が乱れなければ、忍辱のことになる。数息の
気が微かになって、再び息の出入りがないことを自覚する。このようにただ一つのこ ころを守り、念を止めるべきである。息は身の中にあり、また外部にもある。それぞ れ乱れの因縁を得ることによって息が生じる。罪は未だ消えない故に息がある。それ らの因縁を中断すれば息が再び生じることがないのである。
3.まとめ
本稿の研究から、『仏説大安般守意経』の「有四種安般守意行。除兩惡。十六勝」と 『修行道地經』「数息品」中の「数息守意有四事行。無二瑕穢。十六特勝」とは、文の 形式が、大変類似しているものの、内容の解釈は一致するものではない。安世高は「数 息品」をもとにして『陰持入経』などの文を加え、新たに『新出安般経』のテキスト を作り出したのち、周りの方々に伝えるため、『阿含口解十二因緣經』のように『新出 安般経』を敷衍(現場にて口で解釈)した時にもう一度「数息品」の文の形式を借り って解釈していた。最終的、『仏説大安般守意経』が出て来たという可能性が高いと考 えられる。これについて、さらに次の研究に沿って説明していきたい。 〈参考文献〉 主要テキストRobert Chalmers(ed.), Majjhima-Nikāya, Vol. Ⅲ, Pali Text Society, London, 2003. 『大正新修大蔵経』は『大正蔵』と略。 『是法非法經』(『大正蔵』第1巻、No.48) 『雑阿含經』(『大正蔵』第2巻、No.99) 『雑阿含二十七經』(『大正蔵』第2巻、No.101) 『五陰譬喻經』(『大正蔵』第2巻、No.105) 『轉法輪經』(『大正蔵』第2巻、No.109) 『七處三觀經』(『大正蔵』第2巻、No.150A) 『六度集経』(『大正蔵』第3巻、No.152) 『佛説大安般守意經』(『大正蔵』第15巻、No.602) 『陰持入経』(『大正蔵』第15巻、No.603) 『修行道地經』(『大正蔵』第15巻、No.606) 『道地經』(『大正蔵』第15巻、No.607) 『佛說法受塵經』『大正蔵』第17巻、No.792) 『阿含口解十二因緣經』(『大正蔵』第25巻、No.1508) 『阿毘曇五法行經』(『大正蔵』第28巻、No.1557) 『佛説大安般守意經』(高麗蔵)
同経(『趙城金蔵』、または『金蔵』と略) 同経(『毘盧蔵』、または『宮本』と略) 同経(『資福蔵』、または『宋本』と略) 同経(『普寧蔵』、または『元本』と略) 同経(『永楽北蔵』、または『明本』と略) 同経(宋の『磧砂大蔵経』、または『磧砂蔵』と略) 同経(『永楽南蔵』、または『南蔵』と略) 同経(『嘉興蔵』、すなわち『径山蔵』) 金 剛寺版『安般守意経』(=『新出安般経』)写本テキストは、 TEXT と略(『金剛寺 一切経の基礎的研究と新出仏典の研究』、pp.188 194または L61 288) 金 剛寺版『仏説十二門経』写本テキストは、 TEXTと略(『金剛寺一切経の基礎的研 究と新出仏典の研究』、pp.195 197または L283 365) 金 剛寺版『仏説解十二門経』写本テキストは、 TEXTと略(『金剛寺一切経の基礎的 研究と新出仏典の研究』、pp.197 203または L366 587) 研究書・研究論文など
Stefano Zacchetti, “The Scripture on the Twelve Gates Preached by the Buddha”(an annotat-edtranslation of the Fo shuo shi’er men jing, Kongō-ji Ms A, L283 365), in Ochiai Toshinori 落合俊典(ed.), Kongōji issaikykyō no kisoteki kenkyū to shinshutsu butten
no kenkyū 金剛寺一切.. 基礎的研究. 新出.典. 研究, Research Report, Tokyo, 2004,
pp.231 240.
Tilmann Vetter, Alexiographical Study of An Shigao s and his Circles Chinese Translations of Buddhist Texts, Tokyo:International Institute for Buddhist Studies of the Interna-tional College for Postgraduate Buddhist Studies(IIBS), Tokyo, 2012.
落合俊典「七寺一切経と古逸経典」『仏教史学研究』第33巻2号、1990年、pp.117 139 落合俊典 『金剛寺一切経の基礎的研究と新出仏典の研究』(平成12 15年度科学研究費 補助金 基盤研究 ⑴研究成果報告書、2004、国際仏教学大学院大学。 川島常明「安般守意経について」『印度学仏教学研究』48(24 2)、1976、p.232 235 釋果暉 安世高訳『仏説大安般守意經』の訳注研究⑵、『中央学術研究所紀要』第43 号、2014、pp.115 130。 水谷幸正「唐善導の至誠心について」『鷹陵史学』3、1977、339 370 羅竹風編『漢語大詞典』、漢語大詞典出版社、上海、2001年(二版)。 ――――――――――――― 【注釈】
of Buddhist Texts, Tokyo 2012:IIBS., p.278。本書は、安世高訳経の用語を多く収録し、 辞書として大変参考とする価値がある。しかし『五陰譬喻經』、『轉法輪經』、『佛說 法受塵經』などをも収録することは問題となる。これについて別に論じる予定。 2 各テキストのさらなる説明は、安世高訳『佛説大安般守意經』の訳注研究⑴、『中 央学術研究所紀要』第42号、2013年、p.42を参考。 3 別名は『趙城蔵』、『趙城金蔵』で、1933年に山西省趙城県霍山広勝寺で発見され、 北京版(1984 )『中華大蔵經』(No.869、第36冊、pp.105 125)に収録されている。 現存する『金蔵』の『仏説大安般守意経』は上巻のみである。 4 『仏説大安般守意経』は K806、第20冊、pp.477 492である。 5 宋の『毘盧蔵』(別名福州東禅寺・開元寺版)である。 6 宋の『資福蔵』(別名南宋版一切経、後思渓版)である。 7 元の『普寧蔵』である。 8 明の『永楽北蔵』(『大明北蔵』)である。『仏説大安般守意経』第66冊、pp.1 45 である。『大正蔵』の対校版としての『明版』は実は『黄檗版』である。本稿におけ る『仏説大安般守意経』のテキストの部分の『明本』は、『大明北蔵』を設定する。 確かに『大明北蔵』は『黄檗版』より、『宋本』『元本』に近いものである。その他 の『大正蔵』からの引用中の、対校本としての『明本』は『大正蔵』の『明本』に 従う。 9 宋の『磧砂大蔵経』である。『仏説大安般守意経』はNo.825、第20冊、pp.48 57で ある。 10 明の『永楽南蔵』(『大明南蔵』)である。 11 明の『径山蔵』(万暦版の『方冊蔵経』)である。 12 『仏説大安般守意経』は No.106、pp.78 116である。 13 『黄檗版』である。『仏説大安般守意経』の卷冊次は93 1である。 14 『七寺一切経』版の『仏説大安般守意経』はその内容から、おそらく宋代の大蔵経 から写された写経であると推定される。『七寺一切経』は平安時代末期の写経である (落合俊典「七寺一切経と古逸経典」『仏教史学研究』第33巻2号、1990年、pp.117 139。 15 台北版『中華大蔵經』に所蔵されている。『仏説大安般守意経』はpp.16746 16755 である。 16 『乾隆蔵』(清勅版の『龍蔵』)である。『仏説大安般守意経』は No.677、第55冊、 pp.343 372である。 17 『大日本校訂大蔵経』である。『仏説大安般守意経』は第138冊、pp.68 77である。 18 『大日本校訂蔵経』(『卍字正蔵』)である。『仏説大安般守意経』は No.683、第26 冊、pp.831 848である。
19 この段の文は、元来、六事の「観」の一部分である。「觀出息異入息異者。謂出息 爲生死陰。入息爲思想陰。有時出息爲痛痒陰。入息爲識陰。隨因縁起便受陰。意所 向無有常用。是故爲異。道人當分別知是」(167a L9 12)。また、『新出安般経』の観 の文とほぼ一致している。「觀入息異。出息異。入息因痛異。出息因痛異。入息思想 異。出息思想異。入息覺異。出息覺異。入息從念識異。出息從念識異。」( TEXT L87 90) 20 「行不互」の「不互」は、 の「不工」に準ずべきである。意味は巧み を凝らさない、または工夫を凝らさないことである。Tilmann Vetter(2012:IIBS., p.93)は、「不工」を not clever として解釈している。 21 「罪惡在外不在内也」の「罪悪」の「悪」は、 の校訂版のように「要」 に訂正される方が妥当である。勿論、この文中の「罪」と「罪悪」との意味は、殆 ど変わらない。しかし、『仏説大安般守意経』の全文では「罪」の語は45箇所、「悪」 の語は87箇所があるのに対し、「罪悪」の語は、この段の箇所以外にまったく出てお らず、さらに安世高の他の訳経にも、康僧会の訳経にも見られない。また本経では 「要」の語が9箇所に見られる。したがってこの文は「罪は要(かなら)ず外に有 り」という強調の意味があると見られる。Tilmann Vetter(2012:IIBS., p.240)は、 「罪」を五つの意味として分析し、すなわち、⑴ trouble[s] ⑵ the redidue of bad deeds
⑶ the redidue of bad and good deeds ⑷ the future reguiatal of bad deeds ⑸ the future reguiatal of bad deeds である。本段落には「無所從念爲道意。有所念爲罪。」の文が あるから、この箇所の「罪」は、⑶ the redidue of bad and good deeds...as opposed to the path to release に合致すると思われる。
22 本経の「喘息」は、単なる「息」の意味として理解できる。Tilmann Vetter(2012: IIBS., p.61):喘息‘breathing’と記している。
23 「萬物」は、「ありとあらゆるもの」又は天地万物すべてである。Tilmann Vetter (2012:IIBS., p.267)は、all things;all creation と解釈している。
24 「喘息長自知。喘息短自知。」文があるから、この段は「十六勝」の「即時自知喘 息長。即自知喘息短。」(T15, p.165a L11 12)に対する解釈であると推定される。 25 「止意 samatha」は、安世高の独自な訳語で、止観の止である。『道地經』:「若行 者止意已得,應從觀得解;若行者觀已足,當應從止得解。」(『大正蔵』第15巻、p.235b L29 c1)。『雜阿含經』:「修習於止,終成於觀,修習觀已,亦成於止。」(『大正蔵』第 2巻、p.118b L23 24)。Tilmann Vetter(2012:IIBS., p.159)は「止意」の語を収録し ていないが、止亦觀 ...samatho ca vipassanā ca という解釈がある。 26 安世高訳の『是法非法經』には「聽當」が desessāmi の原語に還元される。「... 有 賢 者 法。比 丘。聽 說。亦 有 非 賢 者 法...」(『大 正 蔵』第 1 巻、p.837c L26) ‘...sappurisadhammañca vo, bhikkhave, desessāmi asappurisadhammañca...’
Majjhima-Nikāya, Vol.Ⅲ,.113.Sappurisa-s., 2003, PTS, p.37 27 「何等爲安。何等爲般。安名爲入息。般名爲出息。」の文の形式は、『修行道地経』 「数息品」とほぼ一致するものの、定義は、一致しない。「何謂為安?何謂為般?出 息為安。入息為般。」(『大正蔵』第15巻、pp.215c L22 216a L1)。思うに、『新出安 般経』の定義と一致している。「何等爲安?何等爲般?何等爲安般守意?入息爲安。 出息爲般。」( TEXT188、L62 63)。 28 「行者・新學者」は『道地経』「是行者三輩。未得道者。學者(śaiks4a/ sekha)。不 學者(aśaiks4a/asekha)。」(『大正蔵』第15巻、p.231b L4 5)の「三輩」中の「未得道 者」を指すと見られる。竺法護訳の『修行道地経』「其彼修行而有三品。一曰凡夫。 二曰學向道(śaiks4a/ sekha)。三無所學(aśaiks4a/asekha)也。」(『大正蔵』第15巻、
p.182c L2 3)では「凡夫」と訳されている。Tilmann Vetter(2012:IIBS., p.275)に: 行者‘one who practices [the path]’と記している。
29 「有四種安般守意。除兩惡。十六勝」は、もとより『修行道地経』「数息品」(『大 正蔵』第15巻、pp.215c L21 216a L20)中の「數息守意有四事行。無二瑕穢。十六 特 勝」の文に当たる。しかし、本経の「安」「般」「四種安般守意行」「兩惡」「十六 勝」の定義は、「数息品」と一致していない。 30 「数・相随・止・観」という「四種安般守意行」は「數息品」の「四事」の形式を 借りたものと考えられる。「何謂四事?一謂數息。二謂相隨。三謂止觀。四謂還淨。」 (『大正蔵』第15巻、p.216a L7 8)。しかし、安世高本人は四禅と組み合わせるため、 「還淨」を廃棄し、文を簡略に直したかと思われる 31 「何等爲兩惡。莫過十息。莫減十數」の文は『新出安般経』の「无得過十息。无得 減十息」( TEXT、p.188、72ff)と一致している。ただし、文の形式は、「数息品」 から借りると思われる。「何謂二瑕?數息或長或短是為二瑕。」(『大正蔵』第15巻、 p.216a L11)。 32 「棄捐」は廃棄、放棄の意味と解釈すべき。『漢語大詞典』(第4巻、p.1126):棄 捐(棄捐,弃捐)1.拋棄;廢置『戰國策・秦策五』:“子曰:‘少棄捐在外,嘗無師 傅所教學,不習於誦...。Tilmann Vetter(2012:IIBS., p.155):to neglect and not to use// adhy-upeks4... と記している。
33 「軀命」にいて、Tilmann Vetter(2012:IIBS., p.299):軀...The human body. Oneself と記しているが、ここでは、複合語の「軀命」であるから、「色身といのち」と理解 すべき。 34 本段落の十六勝の文を整理すれば、次のような五つの組が見られる。すなわち、 〔❺快・❻不快〕〔❼止・❽不止〕〔❾歡心・ 不歡心〕〔 棄捐・ 不棄捐〕〔 放棄 躯命・ 不放棄躯命〕というセット式な訳文が見られる。安世高はこのように十六 勝の文を簡略化したと推定される。これも格義的な解釈であるといえる。また、「不
棄捐所思喘息自知」の文は、 の校訂版のように、『高麗蔵』の補った ものである。つまり、本来、全部「十六勝」になるべきであるが、本経の原文は、 番目の「第十四勝」を欠け、全部「十五勝」だけ残っている。康僧会訳の『六度 集経』にも「不棄捐所思喘息自知」を欠けている。このことから、康僧会は『仏説 大安般守意経』を引用した際に、新たに⑪自惟萬物無常喘息自知を『六度集経』に 加えたと見られる。『六度集経』には『仏説大安般守意経』のような十六勝の文が見 られる。違うのは、⑪自惟萬物無常喘息自知が『六度集経』に新たに加えられた。 これは、康僧会は本経の文を引用した証拠になる。 『仏説大安般守意経』 『六度集経』 (『大正蔵』第15巻、165a L11 18) (『大正蔵』第3巻、p.40c L2 9) ❶喘息長即自知。 ①喘息長(即自知)。 ❷喘息短即自知。 ②(喘息)短即自知。 ❸喘息動身即自知。 ③喘息動身即自知。 ❹喘息微即自知。 ④喘息微著即自知。 ❺喘息快即自知。 ⑤喘息快(即自知)。 ❻喘息不快即自知。 ⑥(喘息)不快即自知。 ❼喘息止即自知。 ⑦喘息止(即自知)。 ❽喘息不止即自知。 ⑧(喘息)走即自知。 ❾喘息歡心即自知。 ⑨喘息歡(即自知)。 喘息不歡心即自知。 ⑩(喘息)慼即自知。 内心念萬物已去不可復得喘息自知。 ⑪自惟萬物無常喘息自知。 内無所復思喘息自知。 ⑫萬物過去不可追得喘息自知。 棄捐所思喘息自知。 ⑬内無所思(喘息自知) 不棄捐所思喘息自知。 ⑭棄捐所惟喘息自知 放棄躯命。喘息自知。 ⑮放棄躯命(喘息自知)。 不放棄躯命喘息自知。 ⑯不棄躯命喘息自知。 35 「息未盡便數是爲減」と『修行道地経』の「何謂數長?適未有息而預數之」(『大正 蔵』第15巻、p.216b L24)とは、同趣旨の文である。つまり、『修行道地経』の「長」 は、『仏説大安般守意経』の「減」に該当し、一方、前者の「短」は、後者の「過」 に該当する。 36 「両悪」とは、「過」と「減」の二つのことである。「過」とは、数息するときに、 実際の息を行ったのに、修行者が自ら未だ数えていないことをいう。つまり、修行 者は「十数」まで巧く数えた途端、実際の息がすでに「十」を超えたことを指す。 「減」とは、その逆のことである。また、この「両悪」は『修行道地経』の「長」と 「短」という「二瑕」に該当する。「何謂二瑕。數息或長或短是爲二瑕。」(『大正蔵』
第15巻、216a L11)。 37 この段は、十六勝の注釈の一部分である。すなわち「至二息亂爲短息」は「❷即 自知・喘息短。」の解釈、「至九息亂爲長息」は「❶即時自知・喘息長」の解釈、「得 十息爲快息」は「❺即自知・喘息快」の解釈、「相隨爲微」は「❹即自知・喘息微」 の解釈、「放棄躯命者謂行息。得道意便放棄躯命」は「 放棄躯命。喘息自知」の解 釈、「未得道意。常愛身故不放棄躯命也」は「 不放棄躯命喘息自知」の解釈であ る。
38 Tilmann Vetter(2012:IIBS., p.215)にて、ただ「短」をshortと記しているが、『漢 語大詞典』(第7巻、p.1538)それを「缺點;過失」と解釈する場合もある。 39 この段の「数息・相随・止・観・還・浄」の六事は、『新出安般経』「安般守意亦 爲六事。何等爲六?一數,二隨,三止,四觀,五還,六淨。」( TEXT、p.188、L63 64)の六事に対する解釈と見られる。 40 校訂版のように、⑥持は、「待」に訂正するべきである。「念・待」は安世高の独 自な訳語である。Stefano Zacchettiはすでに『十二門経』と『仏説解十二門経』中の 「念・待」の用語を「vitakka・vicāra」という原語に還元できると指摘している(Ste-fano Zacchetti, 2004, p.232)。「vitakka・vicāra」の旧訳は「覚・観」である。新釈では 「尋・伺」と訳される。
41 「念・待」の外禅と「不浄・空」の内禅との対照の関係は、明らかである。 42 「棄」の語は、複数の安世高訳経に見られ、また「老荘思想」の常用語でもある。
これについては、すでに川島常明(1976)が指摘している。「安般守意経について」 『印度学仏教学研究』48(24 2)、p.234。Tilmann Vetter(2012:IIBS., p.155)は「棄」 の意味を to reject;to cast aside;to discard;to abandon と記している。本経において、 「棄」と「断」とを同義語として使う場合もある。「何等為棄習...何等為盡證...道者, 明識苦、斷習、盡證」(『大正蔵』第15巻、p.168c L29 p.169a L2)。この場合は、原 語のprahān4a/ pahāna に相当する。 43 「不工」の「工」は、巧みあるいは工夫のことである。「注釈」の20を参照する。 44 「至誠」は固有の漢語であり、『漢語大詞典』(第8巻、p.791)の「【至誠】指極其 和順的徳行。『書・大禹謨』:“至誠感神。”孔伝:“誠,和。”孔穎達疏:“帝至和之德 尚能感于冥神。”」とある。本経の「至誠語。軟語。直語。不還語。是為直語。」(『大 正蔵』第15巻、p.170b7 8)と「至誠亦為神足」(T15、p.172a13)にも見られ、複数 の安世高訳経に見出される。とりわけ、『七處三觀経』(『大正蔵』第2巻、No.150A) 及び『雑阿含経・27経』(『大正蔵』第2巻、No.101)に多くの箇所が存在する。中 国仏教伝来の初期から後の唐の仏教まで一つの重要な宗教心として伝えられつつあ ると見られる(水谷幸正(1977)を参照する)。Tilmann Vetter(2012:IIBS., p.259) の‘most sincere;perfect sincerity’(...adhyāśayā, ect)に該当する。また、本経の「用
從信,故為神足也。數息為墮信根」(『大正蔵』第15巻、p.170a L21 22)及び『阿毘 曇五法行經』の「隨善法信至誠行應行」(『大正蔵』第28巻、p.999b L8 9)があるか ら、本経の「至誠」は、漢語の「信」とは同義語と思われる。
45 Tilmann Vetter(2012:IIBS., p.106):忍辱(...ks4ānti...)と記している。
【謝 辞】
本稿は、西 康友氏(中央学術研究所学術研究室主査)に多くのご教示をいただき、 小畑貴志氏(立正佼成会教学委員会事務局長)より日本語訂正を賜った。ここに記し て感謝の意を申し上げる。